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共喰い


「もらっといてやる」発言で有名になった著者。「もらっといてやる」とは、芥川賞受賞の記者会見で著者が語った言葉だ。候補に挙がって5度目にしての受賞。聞くところによれば候補に選ばれた作家は、編集者とともにどこかで当選落選の知らせを待機して待つそうだ。多分、著者の発言の背景には今までの落選の経緯も含めたいろんな思いがあるのだろう。Wikipediaの著者のにも発言についての章が設けられ、経緯が紹介されている。

私はもともと、作品を理解する上でクリエイター自身の情報は重要と考えない。そうではなく、作品自体が全てだと考えている。なので、作家であれ音楽家であれクリエーターその人には興味を持たないのだ。上記の発言によってクローズアップされてしまった著者の記者会見の様子も、本稿を書くにあたって初めて見たくらいだ。世間に慣れていない感じは、一見するとリアルな引きこもりにも見える。だが、ただの緊張から漏れ出た言葉ではないかとも思う。

でも、結果を出したのだから引きこもりだっていいじゃないの。そう思う。厳しいようだが、結果を出せないのなら引きこもりは同情に値しない。でも、著者は聞くところでは一切の職業を経験していないという。それなのに、ここまで濃密な物語や世界観を構築できるのはすごいことだ。本書の末尾には瀬戸内寂聴さんとの対談が収められている。対談では源氏物語の世界で盛り上がっていた。そこでの著者はいたって普通の人だ。極論を言えば、著者のように一切就職しないくらいの覚悟を秘め、とんがった生き方をしなければ受賞などおぼつかないのだろう。著者の受賞は、就職したくなかったかつての私にとって勇気づけられるし、うらやましい。

さて、本書だ。芥川賞受賞作の常として、本書にも二作が収められている。

まずは表題作であり受賞作である「共喰い」。

主人公は17歳の篠垣遠馬だ。時は1988年というから、著者と同年代の人物を描いている。すべての17歳がそうではないのはもちろんだが、性に渇望する年代だ。もっとも、遠馬の場合は会田千種というセックスの相手がいる。若く性急で、相手を思いやれない動物的な交接。遠馬は、そんな自分の飢えに気づく。というのも、父の円の姿を見ているからだ。円は仁子さんに遠馬を生ませると、セックスの時に暴力をふるうという悪癖が甚だしくなった。仁子さんはそんな円に愛想を尽かし、川向うへ移って魚屋を営んでいる。そして円はあらたに琴子さんという愛人を家に入れ、遠馬は父と愛人との三人で住んでいる。

そんな性と血に彩られた川沿いの田舎町の情景は、下水の匂いが立ち込めている。魚屋の仁子さんの店には鰻が売られていて、仁子さんの右手首は義手だ。鰻と義手は、いうまでもなくペニスのメタファーだろう。下水が垂れ流される川も、どこか排泄行為や射精を思わせる。

本書は遠馬の暴力衝動がいつ発動するか、という着地点に向けて読者を連れていく。発動をもっとも恐れているのは遠馬自身で、実際に千種に暴力衝動の片りんを見せつけてしまう。それがもとで千種に会うのを避けられる遠馬は、性のはけ口を見失う。そんな17歳の目には、町のあらゆるものが性のはけ口に見えてゆく。例えば頭のつぶれた鰻であり、仁子さんの右腕であり、下水の汚れであり。

本書の結末はそんな予想を覆すものだ。仁子さんが円を右義手で刺し殺すという結末。それは、女性による暴力の発動という点で意表をつく。それだけではない。その殺人がペニスのメタファーである義手で行われたことに意味がある。多分、暴力の円環を閉じるには円自身ではいかんともできず、仁子が手を下さなければならないということなのだろう。そしてその代償は、円自身の暴力性の象徴であるペニスのメタファーでなくてはならなかったはず。

暴力の輪廻が閉じたことを悟った遠馬は、自らの中にある暴力衝動をはっきり自覚する。そして、それを一生かけて封印せねばならないとの決意を抱く。そのあたりの彼の心の動きが最後の2ページに凝縮されている。遠馬の封印への決意は、下水設置工事が裏付けている。川に直接流れ込んでいた下水が、下水整備によって処置されて海に流される。その様は、暴力衝動によって知らぬ間に傷ついていた遠馬のこころの癒しにもつながる。

そこに本書の希望がある。 「共喰い」の円環は閉じ、17歳の少年が健やかに成長していく希望が。

もう一作は「第三紀層の魚」。

第三紀層とは、本作にも説明が書かれているが、6500万年前から180万年前の日本列島が出来上がる時期の地層を指す。その時期に堆積した植物が今、石炭として利用されているのだ。そして、石炭はいまや斜陽産業。

主人公信道の住む町は、かつて石炭産業で栄えていた。だが、石炭産業の斜陽化は、街に閉塞感をもたらしている。加えて信道の家は、母と祖母と曽祖父の4世代がすみ、それぞれの世代が1人ずつという珍しい構成だ。曽祖父の回顧話を聞かされる役回りの信道にとっては、現代とは全てが過去に押しつぶされているようにも思える。だが、チヌ釣りの師匠としての曽祖父が持つ知恵は、信道に恩恵も与えてくれる。

釣りとは水の下に沈む魚を海面の上へと引き上げる作業だ。日の当たる場所への上昇。過去のしがらみに押しつぶされそうになっている信道の家にも、上に引き上げられるチャンスはある。そのチャンスが母の身に訪れる。東京への栄転だ。

本作は、地元を離れる信道の葛藤と、曽祖父の死で東京に行く決心をつける経緯が描かれる。地方から東京へ。それは、一昔前の日本にとっては紛れもなく立身出世への道だったと思う。本作は、そのような地方の閉塞感を、第三紀層という途方もない深さの地層に見立てた作品だ。地方創生が叫ばれる今だが、その創生とは、第三紀層を掘りつくさないと実現しないのか。それとも第三紀層の上に立派な地面を敷き詰めるところにあるのか。そんなところも考えながら、本作を読んだ。

最後に本書には、瀬戸内寂聴さんと著者の対話が収められている。源氏物語についての話題が中心だが、それだけではない。対談では、寂聴さんから著者への作家としての生き方の励ましでもある。小説を書くことでしか証が立てられない生き方とは、一見すると不器用に思える。でもその生き方はありだと思う。そして、とてもうらやましい。著者だけでなく読者をも励ます対談。実は私は瀬戸内寂聴さんの著作は一冊も読んだことがない。だが、この対談であらためて寂聴さんに興味を持った。作家としての覚悟というか、生きることの多様性をこの対談で示してくれたように思う。ビジネスの世界に住んでいると、目の前の課題に集中してどうしても視野が狭くなってしまう。その意味でも、この対談は読んでいて自分の視野狭窄を思い知らされた。また、対談では著者はとても素直に受け答えをしている。そこにはコミュニケーション障害などという言葉は断じて感じられない。この対談は、冒頭に書いた受賞会見で妙な印象がついてしまった著者の人物像を正しく見直すために、とてもよいと思う。

‘2016/07/01-2016/07/03


アンデスのリトゥーマ


著者の著作のうち、未訳の作品が続々と日本語に訳されている。ノーベル文学賞効果もあるだろうが、こうして読めることに感謝したい。

ここ最近の著者の作品は、都会を舞台にしたものが多かったように思う。本書は一転して土着的呪術的な内容となっている。ページを繰る間、私には土埃が舞う光景が見え、土埃が鼻から入ってくるような感覚にとらわれた。荒涼とした黄土色の起伏が一面に広がる景色。埃っぽい住居が山にへばりつくようにして並ぶ。一歩住居に足を踏み入れると、外の単調な土気色とはうって変わって極彩色に飾られた空間。そこには、シャーマンとも魔女ともつかない女が巣食い、箴言を発する。

本書は、ペルーの山中に跋扈するテロルとインデイオの窮乏、その隙間を縫うように呪術が幅を効かせる地を舞台にしている。現代にあって魔術が大真面目に語られる土地。そのような地に迷い込んだ都会人の無力さ。その無力さを描いているのが本書だ。

主人公のリトゥーマは、治安警備隊の伍長として、アンデス山中に駐屯している。部下は一人。トマス・カレーニョ、通称トマシート。二人はナッコスのハイウェイ工事現場の治安維持を担当している。最近、ナッコスでは住人三人が忽然と行方をくらました。その事件の調査にあたる二人だが、手掛かりは掴めず途方に暮れている。三人は一体どこへ消えたのか。

ペルーは今、暴力革命を謳うセンデーロ・ルミノソが猛威を奮っている。三人はテロリストによって何処かへ消されたのか?それともインディオ達に伝わる伝承に従い生け贄とされたのか。

一方、フランス人旅行者のアベックはアンデス越えをバスで果たそうとし、謎の集団に捕まり顔を石で潰される。暴力が荒れ狂う。本書全体を覆う暴力の血の匂いが冒頭から立ち込める。そのシーンに、トマシートがリトゥーマに語るセリフがかぶさっていく。著者お得意の重層的な進行だ。トマシートはリトゥーマに、ティンゴ・マリーアで見たサディストによる拷問を語る。そして、サディスティックに女をいたぶっていたトマシートのボスを辛抱できず殺してしまう。リトゥーマの合いの手がトマシートの独白に挟まれる。

著者お得意の構造に読者は目を眩まされるかもしれないが、落ち着いて読み進めれば物語から落ちこぼれずに済む。

再び第三者の視線に戻り、リトゥーマとトマシートの二人はドーニャ・アドリアーナが駐屯地に近づいて来るのを見る。彼女は三人目の行方不明者の最後の目撃者。酒場を経営するディオニシオの妻であり、呪いや占いを行っている。

そして、物語は一人目の行方不明者について語り始める。唖者のペドリートはリトゥーマとトマシートの手伝いをしていた。ペドリートは二人の手伝いをする前、羊飼いに拾われていた。だが、謎の集団に捕まり、家畜を全て殺される憂き目に遭う。謎の集団には名前がない。狼藉を働く者共は本書を通して無名のままだ。それが読者に不安な気持ちを与える。読者は漠然とした不安と恐れを抱いたまま、本書を読み進めることになる。

再びトマシートの独白。暴行から救い出した女を連れ、トラックに乗る。女の名はメルセーデス。

そして、舞台はディオニシオの酒場へ。フランス人アベックが惨殺されたことが会話のネタにされる。が、行方不明者たちの消息は依然として不明。かつて鉱山で栄えたナッコスは、ハイウェイ工事で余命を保っている状態。街に次第に不安の空気が立ち込める。読者もまた、不安な気持ちが高まる中、ページを読み進める。ナッコスで何が起こったのか。

フランス人アベックと同じように暴力の嵐にさらされる犠牲者はまだいる。アンダマルカの副町長は、共産主義的な謎の集団によって町を搔き回され、九死に一生を得て逃げる。ダルクール夫人は、国連機関の支援を得て、辺りの植林に携わる善意の人だ。しかしブルジョアと見なされ、処刑される。

トマシートの独白とリトゥーマの茶々入れはなおも続く。メルセーデスによって筆下ろしを果たしたトマシートはペルーの首都リマへと向かう。メルセーデスも一緒に。

二人目、三人目の行方不明者の挿話が語られ、トマシートはメルセーデスを連れて、警官を脅して旅を強行する。これで第一部は終わる。

第二部では、リトゥーマの調査が佳境を迎える。悪霊ピシュターコの噂が飛び交う。ピシュターコは人間の脂を抜き取る、悪霊とも人間ともつかぬもの。

このあたりから、段々と三人の行方不明者を探すリトゥーマの状況と、トマシートとメルセーデスの逃避行、ナッコスの呪術伝承が絡み合い始める。リトゥーマとトマシートとメルセーデスの別の話が同時に進行し、交錯するため、物語全体に満ちる不穏な空気はページの外まで漂い出すかのよう。不穏な空気に反応するかのように、メルセーデスはトマシートのもとから逃げてしまう。

一方、ピシュターコの伝承はいよいよ怪談染みる。それはホラーと云っても良いレベル。追い討ちをかけるかのように、ナッコスの民を養ってきた鉱山は、超自然もここに極まれりとばかりに山津浪に襲われる。リトゥーマもすんでのところで助かる。

アドリアーナは果たして魔女なのか。正体は明かされぬまま、物語は進む。アドリアーナはいう。ナッコスとは魔術的、霊的な場であり、そこを乱すハイウェイは決して開通することはないと。

その霊的な力は、都会の者共を一層するかのように山津波を起こす。

アドリアーナの預言が本書の性格を語り、本編は一旦幕を下ろす。

しかし読者にとっては何も解決していない。三人は一体どうなったのか。トマシートとメルセーデスの逃避行の行方は。

エピローグでリトゥーマはナッコスを去る。去るに当たってディオニシオの酒場に赴く。最後にディオニシオとアドリアーナに挨拶をするために。三人の行方不明者の運命を訪ねるために。ナッコスの霊的な力が街を一気に寂れさせようとする中、その酒場で酔い潰れる無名のインディオは、リトゥーマに衝撃の事実を伝える。その衝撃の余韻消えぬままに、エピローグは幕を下ろす。

解説は訳者の木村榮一氏自身が担当している。ラテンアメリカ文学の愛好家なら氏の訳はお馴染みだ。氏による解説は適切で解りやすい。本書がギリシャ神話に枠組みを借りていることが指摘される。アドリアーナがアリアドネー。ディオニシオがディオニューソス。ナッコスがナクソスを指すとの本書解説での指摘にはさすがの慧眼である。私は初読ではそのことに気づかぬままだった。

そのことを教えられた後で本書を読むと、アドリアーナやディオニシオ、さらには徹底して無名のままのインディオ達の存在が理解できる。テロルや扇動によって生じる暴力は、土地や時代の枠組みから生じるのではない。それは、人が集い、空気の澱んだ場所に等しく生じるのだ。

そのような場所にハイウェイ工事のような風通しをよくするための人間の営み、つまりは都市や文明といったものが何を引き起こすのか、または引き起こしたのか。それこそが本書の主題ではないだろうか。

‘2015/03/13-2015/03/25