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朱夏


著者の作品は何冊か読んでいる。丁寧な描写から紡ぎだされる日本の伝統的な世界。それを女性の視点から描く著者の作品には重厚な読み応えを感じたものだ。

その重厚さがどこから来るのか、本書を読んで少しわかった気がする。

本書は著者の自伝的な作品だ。戦争前に夫と見合い結婚し、満州開拓団に赴任する夫と満州へ。そこで命からがら逃げ帰ってきた経験。本書はその経験をそのままに小説としている。むろん、本書は事実を克明に描いていないはずだ。たとえば、主人公の名前は著者の名前と違って綾子という。だが、たとえ詳細は事実と違っていても、本書の内容はかなりの部分で事実を反映しているに違いない。それは、主人公の実家が高知の遊郭で芸妓の斡旋業を営んでいること。戦争を前にお見合いで結婚し、夫について満州に渡ったこと、などが事実であることから推測できる。さらに推測を重ねてみるに、著者にとってみれば満州での日々よりも日本での暮らしのほうが小説には著しにくいはず。ところが本書では日本の暮らしも事実に即しているように思える。ならば、本書で書かれた満州での日々はより真実を映し出していると思うのだ。

本書で書かれた内容が真実を基にしているのでは、と思う理由。それは、著者の他の作品に感じられる描写の細かさだ。細かな描写を小さく刻んでゆく。その結果、一編の小説に仕立て上げる。本書も同じ。全編に事実が積み上げられる。小説でありながら、小説内の出来事を虚構ではなく事実と思わせる説得力。話をことさらにドラマチックに盛らずとも、事実の積み重ねは本書をとても劇的に仕上げている。

本書で書かれた熾烈な経験の前では、話を脚色する必要すらもない。そこには、劇的な演出を拒むだけの迫力がある。本書で展開されるエピソードの数々は生々しい。生々しいが、わざとらしさはない。その生々しさは、地に足の着いたリアルな描写のたまものだからだ。

たとえば、満州に向かった人々は、後年自らに降りかかる運命を知らないはずだ。希望と不安が半々。主人公の綾子もそう。結婚して不安な日々。嫁ぎ先で自分をどう生きるのか。夫との関係。子供の世話。姑との暮らし。戦局の悪化は高知でも徐々に不安となって人々を包み込む。そんな日々は、自分の生活で精一杯のはず。そこに飛び込んできた満州行きの話。全てのエピソードは波乱万丈ではなく、誰の身にも起きうるものだ。

そんな満州に向かうことになった綾子。彼女は、芸妓の斡旋業を営む家に生まれた。裕福な家に不自由なく育ち、お嬢さんぶりが抜けない。それでいて、乙女の潔癖さゆえに生家の家業が嫌でしょうがない。要との結婚に乗り気だったのも、家業から逃げるためといえるほどに。綾子が嫁いで、まもなく子を授かる。そして、要は満州へといってしまう。残された家で姑のいちと、生まれた美耶との三人の暮らし。嫁と姑が語らうやりとりは、とてものどかだ。戦争末期とは思えない程の。しかし土佐のような、空襲にもあまり遭わない地では、これこそが現実の銃後の生活だったのではないか。日々の生活がそこまで危機感を帯びていなかったからこそ、開拓団は遠い満州へと旅立って行けたのだ。

それは、満州での日々も同じだ。先に満州に向かった一団を追って、綾子と美耶が満州へと旅立ったのは昭和20年も3月の末。高知にも空襲があり、少しずつ戦時中の空気は土佐を覆っていた。つまり戦局の悪化は土佐の人々にも感じられたはず。それでも満州に渡った開拓団の子弟に教育する必要があるとの大義は、人々を満州に赴かせた。綾子の夫、要もその一人。要を追った綾子も開拓団が暮らす飲馬河村へ何日もの旅路をへて到着する。

そこでの暮らしぶりも、少しずつ日本人の暮らしが不穏さをましてゆく様もリアルに描かれる。人々の間に不審さが増し、現地人との関係にも少しずつ変化が生まれてゆく。開拓民を覆う空気が徐々に変化してゆくようすも鮮やかな説得力がある。とにかく本書は描写が細かい。満州人と日本人の風習の違い。体臭や癖の違い。振る舞いや言葉、しきたりの違い。島国の日本とは違う大陸のおおらかさ。そんな満州の日々が事細かく書かれてゆく。

人々がアミーバ赤痢に罹かる。日本と違って万事がのんびりで、子育てもままならぬ環境にいらだつ綾子。お嬢様育ちののどかさが薄れ、徐々に満人の使用人に対する態度がきつくなる。高知の実家の女中がいると聞き、新京へ訪ねた綾子と要は、繁盛している妓楼の主人に教師の職を侮辱される。当時の満州の世相がよくあぶりだされるシーンだ。綾子はそこで血尿を出してしまい、妓楼から診察を受けに行ったことで性病と間違えられる。綾子は満州の地で翻弄されながら、日本に郷愁を感じながら、たくましくなってゆく。

著者の視点は、あくまで開拓民としての視点だ。著者は結果を知りつつ、かれらの当時の日々に視点を置く。だから、リアルなのだ。語りも当時の視点だけを淡々と進めるのでなく、ごくたまに豊かな戦後の暮らしを引き合いに出す。それが当時の暮らしの苛烈さを浮き彫りにする効果を与えているのだ。

今の平和な日本しか知らない私たちには決して分からないこと。それは、開拓団の人々の当事者の視点だ。彼らが現地で当時の時間軸でどう考えて過ごしていたのか。それを追体験することほすでに不可能。

一方で私たちは後年開拓団がどういう運命に見舞われたのかを知っている。彼らを襲った悲劇が何をもたらしたのかを。だからこそ疑問に思ってしまう。なぜ彼らはそんな危険な地にとどまり続けたのか。なぜ満州軍をそれほどまでに信頼しきっていたのか。なぜ、ソ連軍が来るまでに逃げなかったのか。彼らはただひたすら朴訥な開拓民として、日々を耕していただけなのではないのか、などなど。

それらの批判が的を外していることは言うまでもない。日々の生活に追われていれば、戦局の詳細まで分かるはずがないのだ。たとえば、満州軍がどこに部隊を移動させ、ロシア軍はどこまで満州の国境に迫っているのか。それは彼らの生死に関わる問題のはず。だが、開拓民がそれを知ることはない。

人々は突然の敗戦の知らせとソ連軍の侵攻に慌てふためき逃げ惑う。その結果が、中国残留孤児であり、現地に骨を埋める多くの犠牲者だ。なぜそういう事態に陥ったのか。それは誰にも分からない。だが、一ついえるのは、後世の私たちが訳知り顔に彼らの行動を非難できないということだ。非難することは大いなる過ちである。

そんな現状認識だったからこそ、ある日突然に訪れた敗戦の知らせに綾子は絶叫するのだ。十数日前に満員人の使用人から、日本は程なく負けるとの知らせを聞き、われを忘れて神州日本は負けないと啖呵を切ったときのように。要は息せき切って知らせを告げに走り込み、綾子は絶叫する。人々は茫然とし、部屋を歩き回ってぶつぶつと将来を憂う。261Pー263Pで描かれるその場面は本書でも指折りのドラマティックな箇所だ。

続いて彼らは気付く。自分たち開拓民の置かれた状態が一刻の猶予も許さない状態になっていることを。別の集落は暴徒と化した現地の住民達によって全滅させられたとか。そんな風聞が飛び交う。

綾子の集落にも不穏な雰囲気が押し寄せる。使用人の満人はとうの昔に姿を消している。あとは家が暴徒に囲まれれば終わり。そうなれば即自決すると示しあわせ、カミソリの刃を首に当てる綾子。結局、暴徒に襲われることはなく、日本人だけが一カ所に集められる。命は助かったが、敗戦国の民となった彼らの生活はみじめだ。慣れぬ満州の生活に苦しめられ、さらに生存をかけた日々を送ることを強いられる。

綾子はそんな日々をたくましく生き抜く。人々が本性を見せ、弱さにおぼれる中。美耶を育てなければという決意。母は強い。収容所での日々は、綾子からお嬢様の弱さをいや応なしに払拭してゆく。かつては付き合うことさえ親から禁じられていた同郷の貧しかった知り合いに出会い、吹っ切れたようにその知り合いからも施しをうける。プライドを捨てて家族のためにモノを拾ってきては内職する。

その日々は、著者の歩んだ砂をかむような日々と等しいはずだ。冒頭で著者の作風に備わっている重厚さの理由が本書にあると書いた。本書を読むと著者の歩んだ体験の苛烈さが分かる。このような体験をした著者であれば、その後の人生でも踏ん張りが効いたはずだ。

本書は終戦後34年たってから書かれ始めたという。娘さん、本書内で美耶と呼ばれている実の娘さんに向けて書いたそうだ。でも、本書は著者自身のためにもなったはずだ。著者が作家として独り立ちするためのエネルギーの多くは、ここ満州の地で培われたのではないだろうか。 私はそう思う。なぜなら苦難は人を作るから。 私も最近、ブログでかつての自分を振り返っている。苦難は人を作るとしみじみ思うのだ。

‘2017/01/25-2017/02/05


東北地方太平洋沖地震(発生日編)


 今日で地震が発生し、一週間が経ちました。

 犠牲者は阪神淡路大震災の死者を超え、まだまだ増えていくとのこと。全ての被災者に心から手を合わせ、冥福を祈りたいと思います。

 1週間という区切りがついたことと、個人的にも地震により深くかかわる契機となる出来事がこの1,2日にあり、一度自分の中で整理してみようと思い立ちました。

 まずは1週間の記録ということで、ざっと追ってみたいと思います。

------11日------
 前日客先に対し、明日は自宅で仕事をしたい旨を告げていたので、朝方まで仕事をしてから11時ごろに起床。家で仕事をした理由は、15日に締め切りの確定申告が迫っていること、データ入力案件で本日依頼される予定のデータ入力数が多いであろうこと、前回受け取った入力データの納期が本日の午後で、一部終了していなかったこと、25日納期の開発案件の進捗を進めたかったこと、の4つ。

 寝間着で作業していた私は、14時ごろ、風花(チワワ)と小春(ヨーキー)がワンワンと吠え盛るので人が来たのかと思っていましたが、外を見ることがありませんでした。その時に外を見ることが出来ていたら実は誰もおらず、いわゆる宏観現象を体験したのかもしれませんが、今となっては分かりません。

 本日〆の入力分を終え、お客様に完了メールをお送りしたのが14時36分。落ち着く間もなく、開発案件の作業を進めているときに地震はおきました(14時46分)。最初のP波は首都圏でよく遭遇するありきたりな地震であろうと高をくくっていました。2日前にも客先で大きな揺れを体験したことも影響したのかもしれません。
 ところがこの揺れは収まるどころかますます激しくなる一方。どーんという強烈な一撃ではなくじわじわと震度が増していく揺れです。風花と小春は吠え盛り、色々な家具が揺れ動きます。パソコンの電源が落ち、停電が発生したことに気付いた私はここに至ってただ事ではないことを悟り、書斎を出て、ホールの本棚をを抑えながら、扉を閉めます。カップボードの上の義母の絵が下におち、揺れは収まる様子もありません。一人の力では本棚を抑えているのが精いっぱいで、為す術もなく色々なものが動き騒ぐのを見ているだけでした。天井のファンが落ちてこないかだけを心配して上を見たりしたのを覚えています。
 やがて揺れは収まり、どこかでかなり大きな地震があったのではないかと思いを巡らせます。
続いて家族の安否。相方がフラのインストラクターとして朝から錦糸町に出かけており、揺れが収まりかけた時点でメールを2通送っています。「大丈夫かあ」(14時50分)「停電した」(14時51分)。これに対して「大丈夫」(14時51分) というメールがあり、まずは安心。この時点ではまだ携帯の送受信制限もなく、円滑に連絡がとれました。
 家の中をさっと点検し、何も割れておらず、義母の絵をもとに戻し、寝室の前の廊下の鏡が反対側の壁にもたれているのを直し、寝室の大きな鏡が支えのトランクを押しやりながら横になっているのを直します。これといった被害がなかったのが幸いです。
 
 直後にドコモからiコンシェルの地震速報が届き、東北地方が震源の地震であることを知りましたが、それ以外の情報は一切わかりません。携帯は連絡手段として使えなくなり始め、家の電源はブレーカーを何度操作してもまったく回復する様子をみせません。それでもかろうじて相方に停電していることと家の被害は軽微であることをメール送信することはできました(15時4分)
 余震が起こるたび、風花と小春が怯えてぶるぶると震えがとまりません。二匹を膝の上に乗せて、携帯の状態を見ながら、読書をすることにした直後に、関西の父から電話がありました(15時20分)。こちらの無事を聞く間も惜しく、興奮してしゃべる父。東北でかなり強い地震が発生し、すさまじい津波が町を襲っていることや、お台場で火事が起こっていることなどを教えられます。大方の状況は呑み込みつつも、お台場が火事ということに違和感を感じました。東北を震源とする地震にかかわらず、お台場がすごいことになっているということは、都心はかなり大変なことになっているのではないだろうか、と。ここで初めて相方が帰宅できないという可能性を頭に浮かべたのを覚えています。
 父とは10分程度話をし、相方に「帰れそうか?お台場とか凄いことになってるらしい。うちの親と電話で話してきいた。こっちはまだ停電。町田震度5らしい。市の屋外放送でゆうてた」というメールを送ります(15時34分)つまりこの時点ですでに町田市からは緊急災害放送が流れたことになります。
 
 以後、なかなかつながらない携帯で相方と何度かやり取りをして、娘たちのことやこれからのお互いの身の振り方を決めます。迷ったのが娘たち二人をどうするか。特に上の娘は放課後に友達の家に遊びに行く約束をしていたので、下手に動くと娘を路頭に迷わせることにもなり、また、給電が復活しない以上はセコムも回復せず、今の状態で外出するよりも電気の復活を待ってから娘たちのところに向かおうと夫婦で合意しました。

 ところがなかなか電気は復旧せず、情報からも隔絶された状態で、本当に娘たちを迎えに行かなくてもよいのだろうか・・・という疑問が膨らみます。こういう緊急時に学校がどういう対応をとってくれるのかがよくわからず、思い余って二匹を連れて散歩がてら周辺を回ってみます。ところが待ちに待った散歩と勘違いして喜ぶ風花、おずおずついてくる小春を連れているとなかなか前に進めず、しかも外はセーターだけだと寒いことに気づき、一旦二匹を連れて帰りました。
 防寒着を着て自転車を漕いで小学校の学童保育に着いたのが16時49分。ここで学童の保護者会会長をやっている相方が、学童の保護者向けSNSに状況を案ずる書き込みをしていることを知り、私が代理で状況を保護者向けに発信します。
 指導員の先生から、4年生は学校内で待機していることを聞き、防災頭巾をかぶる着ぐるみ次女を連れて学校内に入り、上の娘も確保したのが17時0分。
 親の想いと相違して、娘たちは私が早く迎えに来てくれないものだからむくれていた様子。とくに友達と遊ぶ予定が地震で狂わされた上の娘は不満が高じていて、さんざん文句を言われました。

 娘たちと家に帰ると、すでに外は日が沈み始め、灯りのない夜を過ごさねばならないことに気づかされます。娘たちには部屋を掃除させ、懐中電灯やろうそく・マッチなどを探します。夕食は昼飯の残りがあったので、それを3人で食べましたが、食料も用意しなければなりません。15年前の経験からすでに店頭から食品が消えていることを想像しましたが、一応行ってみました。すると店内にすら入れません。停電しているのだから当然です。それでも店頭で電池とろうそくを販売してくれていました。真っ暗の中営業していた店員さんに感謝の言葉をかけ、ろうそくだけ購入して帰りました。地震後初めての夜をろうそくの灯りのみで過ごします。街灯も家々の電気もなく、たまに通り過ぎる車のライトだけの世界。否応なしに異常事態であることがわかります。下の娘は電気のない生活が初めてで、かなり怯えた様子です。

 実家の両親や相方と連絡を取りつつ、mixiや学童のsnsを使ってごくわずかな外の世界との絆をつなぎます。いかに電気のある生活に慣らされきっていて、情報が入るありがたみに気づかないでいたかがわかりました。
 娘たちも9時過ぎには上のベッドに入り、私は引き続き連絡を取り合いながら、相方がフラの生徒さんのご自宅に泊めてもらうことや、学童保育の今後のことなどを連絡し合います。

 そうやって連絡の合間にろうそくの明かりで読書している間に、いきなり電気が復活しました。23時8分でした。復活するなり通電したセコムのコントローラーが誤作動をおこし、侵入者発生と大声で触れ回ります。5分近くどうしても音が消せませんでしたが、ようやく鳴り止ませることができました。家の電気関係をチェックし、異状のないことを確認し終わったので、地震発生後、全く仕事にならなかった一日を挽回するため、パソコンを再起動させます。が、ネットでさまざまな被害状況から目が離せません。私が情報から隔絶されている間にも、ネットの世界では膨大な情報が刻一刻と集められ、配信されていることに驚きます。また、被害の実態がかくも大きなものであり、ここに至って初めて事態が深刻なものであることを理解しました。

 1時過ぎに就寝しました。