Articles tagged with: 遭難

2021年9月のまとめ(個人)


公私の「私」

●家族とのふれあい

§  総括 ついにコロナウィルスにかかってしまいました。1日から12日まで。ずっと家にいました。かなりしんどかったですね。

私の感染から回復までの経緯については、「コロナ感染記」のブログをご覧ください。
また、8月の福井、豊川稲荷の旅の後から、様々な思いが去来していました。そこで得た啓示をもとに東海寺の沢庵和尚の墓に詣で、さらに山を2回チャレンジし、2回目の山では遭難して朝まで山の中で1人で過ごす羽目になりました。
それらのことも、全て「私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)」に書きました。
さまざまな意味で思い出に残りそうなこの二カ月でした。

月末になって、緊急事態宣言等は全国で解除されました。急激に患者数が減り、医療関係者のなども理由がわかっていないといいます。コロナが毎年のインフルエンザのような存在になるまでにはまだ時間がかかりそうです。
私はコロナに振り回されるのも嫌で、病み上がりが完全でないうちから外に出てしまいました。
挙げ句の果てには山で遭難まで。
それともコロナの中でも自らの人生を全うしようとあがく方。一人一人に人生観が問われています。

昨年の九月に読んだ「死」についての分厚い本の内容を脳内で反芻しつつ、生きる意味を問い続ける毎日です。
人生は有限であり、残された時間もあとわずかであること。豊川稲荷のホテルで一晩中煩悶し、コロナウィルスの熱で朦朧とし、誰もいない山の中で一人過ごしてみて、その実感を得ました。

死ねば全ては無に消えます。
私の経験をいくらブログにアップしても、膨大なデジタルの海の中に溶けて消えていくこともわかっています。
それでも、自分に与えられた生を全力で全うするために、仕事もプライベートも全力で過ごそうと日々励んでいます。

今は仕事に集中し、好きなことは引退後に。そんな悠長な考えが通用しないことをコロナウィルスは教えてくれました。人生はあっという間に終わってしまう。老いたときに平穏で好きなことができる世の中があるかどうかは誰にも保証されないのです。
だからこそ、今のうちから毎日を公私とも全力で生きる、という決意で日々を過ごしています。
コロナだからと閉じこもっている場合ではないのです。

今月は家族とは一回お出かけしました。妻とは二回、妻と長女とはゼロ回、妻と次女とは一回、長女とはゼロ回、次女とはゼロ回。

娘たちはいつか巣立ちます。私は仕事以外にやりたいことが盛りだくさんの人間です。だから、子離れや引退をきっかけに老け込むことはないでしょう。ですが、限られた人生でも家族との時間を大切にしたいと思っています。

§  月表

・九月お出かけ

町田山崎北郵便局、Dr.はん診療所、哲学堂公園、哲学の庭、Yesmart、薬師池公園 蓮園、44APARTMENT 薬師池店、町田薬師池公園四季彩の杜 ウェルカムゲート、鶴川駅前図書館、ファミリーマート 渋谷東二丁目店、濃厚蟹みそらーめん 石黒商店、東海寺、沢庵墓、賀茂真淵墓、東海寺大山墓地、鉄道記念物 井上勝墓、ローソン 川崎田町店ファミリーマート 川崎殿町三丁目店金谷海浜公園the Fishおさかな市場地魚回転寿司 船主総本店海ほたるファミリーマート、笹子駅、笹一酒造、三丈の滝、ラーメン田田、くまざわ書店 八王子店、揚州商人、セブンイレブン 横浜榎が丘店海ほたるアロハガーデンたてやま道の駅 南房パラダイス海の駅だいぼ洲埼灯台、坂田海岸、漁師料理たてやま南総城山温泉 里見の湯道の駅 富楽里とみやま / ハイウェイオアシス富楽里ココデンタルクリニック相鉄ローゼン 薬師台店、折花神社、三角山、金太郎権現、中開戸 バス停(神奈中バス)

・九月ツイート
https://togetter.com/li/1781732

§  家族のお出かけ 家族で出かけたのは、上の年表で黄地に太字にしているイベントです。家族で出かけたのは、今月は一回です。


コロナ後の初めての遠出は、妻と房総に出かけました。それを家族でももう一度行こうと思ったのでアクアラインを通って(9/23)。
妻と行こうとして断念したアロハガーデンたてやまを目指して向かった道中では、アクアラインにも立ち寄りました。かつても娘たちが幼い頃、アクアラインで撮った写真があります。それから十数年がたち、大きくなった娘たちを同じ場所、同じアングルで。大きくなったなあという感慨とともに、月日の経過を感じる瞬間でした。
アロハガーデンのハワイ風味溢れる園内でのんびりと過ごし、数々の動物たちに触れ合う。良い時間が過ごせました。近隣の海が汚かったのが残念でしたが。そこからは海鮮料理に舌鼓をうち、里見の湯という温泉で長く過ごしました。


今月はコロナで長女以外の三人が寝込み、長女が頑張りました。今月はわが家族にとっても忘れられない月になりそうです。
疫病にかかると家族の機能が停止してしまう。そのことを今回のコロナは教えてくれました。だからこそ、毎日をどう過ごすのかを能動的に考えないと。そうしないと時間はあっという間に過ぎ去っていきます。
仕事だけの毎日ではなく、自分自身や家族との時間をどう過ごすのか。家という基盤がある幸せを噛みしめつつ、限られた一生をどういきるのか。それを娘たちに伝えたいと考えています。



§  妻とのお出かけ 妻と出かけたのは、上の年表で桃地に太字にしているイベントです。今月は妻と二人で二回出かけました。

コロナから回復して初めての遠出。二人で車で房総のアロハガーデンたてやまを目指しました。ところが、この日は車運に恵まれず。横浜青葉ICの入り口で東名高速の渋滞が波及し、相当待たされました。さらに、NAVITIMEが大黒SAで私たちを一般道に降ろそうとするので、それに抗い湾岸線を向かったら、なんと東扇島で大事故が。結局アロハガーデンたてやまは諦めました。そのかわり、浜金谷駅そばの砂浜でシーグラス拾い。漁港の一角でしたが、綺麗な貝をたくさん拾うことができました。夜はそのすぐ近くの回転ずしで地元の産物をたっぷりと(9/19)。

妻とは9/24にもココデンタルクリニックで商談があり、その後も買い物。
夫婦そろってコロナにかかってしまいましたが、これもまた人生。心機一転来月を迎えたいと思います。



§  妻と長女とのお出かけ 妻と長女と出かけたのは、上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月は妻と長女との三人で出かける機会はありませんでした。

長女も専門学校を卒業し、仕事をこなしながら、家事をいろいろと手伝ってくれています。今回はコロナに家族三人がかかった中、とうとう最後までかからずにいてくれました。家事も買い物も全て担ってくれました。ありがたい。
仕事も、私からも今、一つお願いしています。

§  妻と次女とのお出かけ 妻と次女と出かけたのは、上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月は妻と次女の三人で一回出かけました。

コロナによる自宅療養期間終わり、私は最終日でしたが、妻と次女が新大久保に行きたいというので、行き帰りを運転しまして。
もちろん、私は二人が買い物している間に待っていたのではなく、中野の哲学堂公園まで足を延ばしていました。
二人を迎えに戻った後、別の店で買い物がしたいというので、そこだけ私もついていきました。Yesmartという韓国のお店で。
次女は今月、修学旅行で九州に行く予定でしたが、中止になってしまいました。最初は台湾だったのですが、それが早々に中止になり、続いて国内でという予定だったのですが。かわいそうな高校生活を送っているな、と気の毒に思います。次女は就職も控えているので、これからの人生をどう設計するのか。教えてあげられることはたくさんありそうです。

§  娘たちとのお出かけ  娘たちと出かけたのは、上の年表で青地に太字にしているイベントです。
今月は娘たちとは長女とゼロ回、次女とゼロ回出かけました。

コロナに人生を乱され、気の毒とは思いますが、そこで何をするかで人生は変わってきます。
ですが、20才そこそこの私もあまり褒められた時間を過ごしていませんでした。もう少し様子を見てみようと思います。
これからも家族の時間が持てることを期待しつつ。

●私自身の九月(交友関係)

§  関西の交流関係 今月も関西には行きませんでした。夏の帰省もコロナでここまで縛られていては行きようがありません。
仕事では毎週、関西の方とオンライン・ミーティングを行っているので、それほど疎遠になった感じはしません。
私の遭難で、実家の両親に過大な心配をかけてしまったことが今月の反省点です。


§  今月の交流 今月も緊急事態宣言やまん延防止法が足かせとなり、交流どころではありませんでした。

月の前半はコロナでほぼ台無しとなり、後半も交流するには私の体調がいまいちでした。一度だけ商談を一緒にいった技術者と商談の後に蟹みそラーメンを食べたのみです。
リアルでは仕事ですら、二度サテライトオフィスに行ったきり。とはいえ、家族との時間が多く取れたので、特に孤独は感じていません。

来月は緊急事態宣言も解除され、徐々に交流は復活するでしょう。が、もし交流できなくても、私の場合、一人の時間も苦になりません。またどこかに旅をして気持ちを発散するつもりです。山にも挑もうと思います。

●私自身の九月(文化活動)

§  弊社ブログへのアップ記事一覧 読んだ本のレビューを記す読ん読ブログの執筆は、主に2020年に読んだ5冊分となりました。
レビュー執筆は、私の中では大切なライフワークとして位置付けています。ですが、このところ、書く時間があまり取れていません。読んでから原稿をアップするまでの時間も一年七カ月以上に延びています。
ちょっと遅れが目立ってきており、こちらも危機感を持っています。質を落とさずにこの期間を縮めたい。それが去年に引き続いての課題です。書く行為への熱意は衰えていませんので、引き続き続けたいです。

三年前の春まで連載していたCarry Meさんが運用している本音採用サイトの「アクアビット 航海記」を弊社サイトにアップする作業ですが、今月は1本アップしました。(「アクアビット航海記 vol.36〜航海記 その21」)
今回は娘の誕生を機に初めてホームページを作る話です。これも今に至るマイルストーンの一つです。

今月、書いた本のレビューは5本(
アンジェラの灰
殺人鬼フジコの衝動
日本昔話百選
その後の鎌倉 抗心の記憶
日本書記の世界
)。
今月、書いた映画のレビューは0本()。
今月、書いた抱負は0本() 。
今月、書いた旅日記は0本() 。
今月、書いた「物申す」は2本(
コロナ感染記
私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)
) 。
今月、書いた弊社の活動ブログは1本(
kintone Café 神奈川 Vol.9を開催しました
)。
今月、書いた弊社の技術ブログは0本()。

§  今月の読書 今月は9冊の本を読みました。内訳は、ホラー二冊、ミステリー三冊、純文学二冊、経営本一冊、歴史本一冊。

コロナ陽性中は、ベッドの上から動けない時間のほとんどを本を読んで過ごしていました。
コロナが私の情動を緩めていたためか、The Shiningのラストや螺旋の手術室の終わりでは大泣きしてしまいました。

私の今年の目標の一つは本を出版することですが、昨年の11月に一緒に飲んだ方がそうした伝や知識を持っている方であり、必ず本を出版するとの思いは増すばかりです。
山の中で遭難し、沢庵和尚の生涯と自分の今の空虚を比べ、発信力にもっと力を入れなければ、という思いに駆られました。

§  今月の映画 今月の映画鑑賞は0本です。
ただし、テレビでインディ・ジョーンズ 魔宮の伝説を20年以上ぶりに見ました。何度も見た作品ですが、久々にみて見入ってしまいました。

§  今月の舞台 舞台については、今月は0本です。

§  今月の音楽 今月も生演奏を聴く機会がありませんでした。
コロナが始まってから、70年代の洋楽を聴きまくっています。今月は先月に続いてElectric Light Orchestraを。そしてついにThe Rolling Stonesを最初からアルバムを聴き直しました。今まで苦手意識を持っていましたが、全てのアルバムを聴くことでその魅力がチャーリー・ワッツ氏のドラミングにあったことも分かってきました。まさに偉大なドラマーであったことを亡くなってから感じました。

§  今月の美術 訪れた美術関係のイベントについては、今月は0回です。

§  今月のスポーツ 今月の頭にはまだパラリンピックが行われていました。私もコロナの中、いくつかの試合を見ました。国枝選手の金メダルには大泣きしましたし。
あと、大谷選手の43号アーチの動画でも大泣きしました。
大谷選手の投手・打者の結果が気になるのと、プロ野球の阪神タイガースの首位争いも気になる一月でした。

今月は山登りを抜きにしては語れません。滝子山に挑んで中途で断念し、自分の不甲斐なさに怒りを感じました。コロナの二年間と罹患で落ちた体力は、容易な事では回復しません。
その敗北感を払しょくしようと三角山を登り切ったのはよいですが、帰りに降りられずに山で一晩を過ごしたのもよいスポーツといえるかも。

§  今月の滝 今月、訪れた滝は四滝です。「名もなき滝(9/20)」「名もなき滝(9/20)」「三丈の滝(9/20)」「エビラ沢の滝(9/25)」
滝子山へアタックする途中で立ち寄りました。そして私が滝子山を断念したのが、三丈の滝でした。
水を忘れていたので、三丈の滝の前でたくさん水を飲んだのですが、その美味しかったこと。
いづれ、滝子山はまたアタックするつもりです。再訪を楽しみにします。

また、エビラ沢の滝はじっくり立ち止まりませんでしたが、二度目の訪問でした。

§  今月の旅行 今月は、前半がコロナで縛られていたので、その分後半に旅をしました。


まず、上にも書いた通り、コロナの自宅療養期間の最終日。妻と次女を新大久保で下した後、中野の哲学堂公園を訪れました(9/12)。妖怪博士でもしられ、東洋大学を創立した井上円了博士が設えた公園です。哲学堂の名に恥じず、園内には哲学への道に訪問者をいざなうための様々な場所が用意されていました。世界の哲学の偉人の像が並ぶ一角や、数々の建物。
私がコロナでまだ心身が万全でなく、哲学の場にいながら、思索につなげられなかったのが残念です。


続いては旅というには少し近場ですが、東海寺と東海寺大山墓地です(9/17)。今月は沢庵和尚の偉大さを追い求めた月でした。上にも挙げたブログにも書いた通りで、沢庵和尚が亡くなった場所とお墓を詣でようと思いました。ここは、旅情を味わうには騒々しい場所でしたが、そのギャップが逆に沢庵和尚没後の360年の年月を感じさせてくれました。

妻と二人で房総に向かいました(9/19)。上でも書いたので繰り返しませんが、ようやく遠出できたことで鬱屈した気分が癒されました。

その翌日(9/20)、一人で山へ。笹子駅で下車し、滝子山を目指しました。ところがこの時、高尾駅の乗り継ぎが悪く、29分待たされました。それもあって笹子駅に着いたのは1時45分。駅の写真を撮って山に向かったのが14時。山に入る時間としては遅くなってしまいました。上った途中で上から降りてきた方に残り時間を聞いたら、ここから2時間半といわれ、すでに時間は16時前。三丈の滝だけ見て、諦めて帰りました。
自分の不甲斐なさに怒りながら、笹一酒造で買った一合瓶を電車内で飲み干してしまったところ、てきめんに酔いが回りました。八王子についたときにはもうふらふらで、駅前から放射状にのびる八王子ユーロードのベンチで寝込んでしまいました。その後目の前にあった八王子ラーメン田田で腹を満たし、駅前のくまざわ書店で山の地図を購入。
上に載せたブログにも書きましたが、自分の中に芽生えた意志が怒りとなってほとばしり出たのは、自分の為にも良かったと思います。

家族では妻とたどり着けなかったアロハガーデンたてやまを再訪(9/23)。これも上にも書いたので繰り返しません。とてもよい一日でした。


そして今月のクライマックスが9/25。午後から曇り空の中を車で。あてもなく向かった先は道志みち。焼山を登ろうとしたのですが、車を停める場所が見つからず、さらに足を延ばしてエビラ沢の滝へ。そこから袖平山を目指しましたが、登山道が見つかりません。ならば、とさらに車で奥へと向かい、折花神社に車を停めました。そこから鐘撞山を目指したのですが、道が大きく土砂崩れで荒れており、その岩がごろごろしている中を登っていきます。本当にこの道でよいのか疑問に思いつつ。かなり上まで登ったのですが、どうもこれ以上は無理と諦めました。
再び焼山へ。場所は見つかったのですが、そこから山へ進んでいった時、すでに日は薄暗さを出していました。今から1000メートル越えの山は無理だと断念。ここですでに負け試合の気分は濃厚。
と、帰り道に手ごろな山を見つけました。三角山。525メートル。ここなら今からでも登れるかも。一つは山を登っておきたい。自分の負け犬気分を払しょくしたい。そう思って反対側まで移動し、車を停めてから向かいました。私が登った登山道は、後から調べると誰も登っていなかった道でした。それが後で私を遭難に導きます。
頑張って最後の三角山の三角点がある鉄塔までたどり着きました。199段の階段や、高圧鉄塔でこれ以上先に進めないとあきらめかけながらも。自分に買ったという満足もそこそこに、すぐに下山にかかりました。すでに17時を過ぎ、あたりはますます薄暗く。ここで同じ道をたどって帰ったつもりが、見事に道に迷ってしまいました。そもそも上った道が登山道として人が通っていなかったのだから当たり前です。
そこからの遭難への過程は、上に挙げた「私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)」に書いた通りです。

旅というにはなかなか歯ごたえのある旅でしたが、ここで一晩を過ごしたことで、自分の人生という旅の中で貴重なマイルストーンを刻むことが出来たと思っています。さまざまな方にご心配をおかけしましたが、私の中に後悔はありません。むしろ、コロナで苦しんだ月にこうした体験ができた事で、自分が生きている実感が持てたというか。

§  
今月の駅鉄
 趣味の駅訪問は1駅です。「笹子駅(9/20)」
今までにも車で何度もそばを通ってきた笹子駅。今回は滝子山に登るため、初めて下車と乗車の体験をしました。
ここは駅前に笹子トレーニングセンターという施設があり、そこも含めてじっくりと駅をめぐりました。

§  今月の酒楽 今月も外では一度も飲んでいません。
とはいえ、お酒を買ってきて何度も家のみはしています。房州のビールも。あと、滝子山に登ろうとして敗退した帰り、笹一酒造によって一合瓶を購入し、電車の中で飲み干したのですが、おかげで酔ってしまいました。
前月に、アウシュヴィッツ・レポートを見に行ったことをリツイートしたら当たったスロバキアのワインが赤白一組も一本だけ飲みました。

§  今月のその他活動 人生も半分を過ぎ、一層焦りが募っています。少しでも日々に変化をつけようとする気持ちに衰えはありません。
今、心身が動くうちに仕事もプライベートも全力で。その考えには揺るぎがありません。

・公園は四カ所。「哲学堂公園(9/12)」「哲学の庭(9/12)」「薬師池公園 蓮園(9/13)」「町田薬師池公園四季彩の杜 ウェルカムゲート(9/13)」「金谷海浜公園(9/19)」「アロハガーデンたてやま(9/23)」


・博物館はゼロカ所。
・美術館はゼロカ所。
・駅は一駅。「笹子駅(9/20)」

・入手したマンホールカードはゼロ枚。
・滝は四滝。「名もなき滝(9/20)」「名もなき滝(9/20)」「三丈の滝(9/20)」「エビラ沢の滝(9/25)」
・温泉は一カ所。「南総城山温泉 里見の湯(9/23)」
・山は一山。「三角山(9/25)」
・酒蔵は一カ所。「笹一酒造(9/20)」
・神社は一カ所。「折花神社(9/25)」
・寺は二カ所。「東海寺(9/17)」「金太郎権現(9/25)」
・教会はゼロカ所。
・史跡は四カ所。「東海寺大山墓地(9/17)」「沢庵墓(9/17)」「鉄道記念物 井上勝墓(9/17)」「賀茂真淵墓(9/17)」

・遺跡はゼロカ所。
・城はゼロカ所。
・灯台は一カ所。「洲埼灯台(9/23)」

・水族館はゼロか所。
・土木遺産はゼロか所。
・風景印はゼロ枚。
・御城印はゼロ枚。

私がまだ訪れていない場所の多さは無限です。やりたいこと、行きたい場所の多さにめまいがします。
自粛自粛と過ごしていれば、日々に追われてあっという間に老け込んでいくことは間違いありません。
そうしているうちに、加齢が気力を奪い、あきらめを自らの自然な感情と勘違いしたままかつての欲求を忘れて老いてゆく。これだけは防ぎたいと思っています。

コロナに人生を台無しにされるぐらいなら、一人でも旅を敢行したいと思います。会話は控え、マスクに口と鼻を隠した黙旅を。
今月に遭難したように、命をなくしては元も子もないのは当たり前。ですが、何もしないままなら命は枯れてしまいます。

家族との縁もこれから姿を変えていくことでしょう。仕事もいつかは引退を求められるでしょう。そうなった時にやることがない、とよく話に聞く老残にだけはなりたくないと思っています。
人はいつか死ぬ。コロナウィルスの蔓延はそのことを教えてくれました。何をしても最後には死にます。昨年の九月に読んだ「「死」とは何か」という本には死生観を持つことの大切さが書かれていました。今月はそれに加えて沢庵和尚の生涯から権力にこびず、わが道を行く生き方を学びました。

人の明日はわかりません。人気俳優や女優も自死を選び、私も不意の体調不良に襲われ、コロナに感染します。ハイキングが一晩の遭難と化し、人里のすぐそばで死ぬ可能性も体験しました。
ですから、いつかやろう、引退してからやろうといっていると、未来の社会や環境や老いた自分がそれを妨げにかかってきます。
今を生きているのですから、今、やるべきことをしなければ。後悔だけはしないように。

仕事をこなしながらも、今のうちに時間の合間を見つけ、行けるところに行っておこうと思います。

一方で、将来のこともそろそろ考えねばなりません。
法人のまとめに書いた通り、コロナに席巻された世の中ですが、弊社の売り上げは確保できています。
ただ、私個人としては投資もしておらず、賭け事もしていないので。不労所得のタネを持っていません。
私が倒れた時、うちのメンバーが稼げるところまでは頑張らねば。

それぞれの場所で俳句も読みました。今月は俳句を11句。いずれもツイートまとめに載せています。

あらためて「私」を振り返ってみました。来月もコロナと共存しつつ、自らの生に後悔のないような日々となることを信じて。


私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


ドキュメント 滑落遭難


ここ数年、滝に関心を持ち、ひとりであちこちの滝を訪れている。ここ二年は山登りのパーティーに参加し、あちこちの山へ登るようになってきた。
そのパーティーのリーダーによる硬軟を取り混ぜた見事なリーダーシップに、私自身も経営者として学ぶところが多い。

私の場合、独りで移動するにあたってはかなりむちゃもしている。体力にはある程度の自信があり、パーティーでの移動とはちがって速度を緩める理由がないためだ。実際、一人の行動では標準タイムよりもペースが速い傾向にある。
それは過信だ。その過信が事故を招きかねないと肝に銘じている。そのため、山はあまり一人では登らず、なるべくパーティーで訪れるようにしている。

実際、本書を読む一年前には、独りで相模原の早戸大滝をアタックし、遭難しかけたことがある。
それがどれほどの危険な状況だったのかは、正直なところ、まだ甘く見ていた。本書を読むまでは。
本書を読むと、私のその時の経験は、実は相当に危険な状況だったのではないか、と思うようになった。

本書を読んだことで、そうした無謀な行動は控えなくては、と思うようになった。
また、遭難の事例を通じ、人々の山への熱意がより感じられた。それによって私に残された命がある限りは、できるだけ多くの山に訪れたいと意識するきっかけにもなった。

本書は、六例の遭難事例が載っている。また、それに加えて埼玉県警山岳救助隊の報告としてさまざまな遭難の事例がドキュメントとして収められている。

まず富士山。私自身は、まだ富士山に登ったことがない。しかも冬山に関してはスキーであちこちを訪れた程度であり、山登りを目的に置いたことはない。
スキーで訪れた際に、雪山の視野の悪さは充分すぎるほど知っているし、あえて雪山を目指そうとする意欲はない。

とはいえ、実際に雪山での滑落がどれほど想像を絶するものかは、本書の記述から感じ取れる。おそらく、スキー場の急斜面よりももっと強烈な斜面を転げ落ちていったのだろう。
夏山でもよく目にするのが、登山道の脇にありえない角度で斜面が口を開けている光景だ。あの斜面を転がり落ちたらどういうことになるか。想像するだけで恐ろしい。
本書で書かれている通り、そもそも止まることすら不可能になるのだろう。
ここで取り上げられた方は500メートルを滑落したと言う。そのスピードがどれほど強烈だったのか。

本編では教訓として富士山の冬山トレイルであれば、さほど難易度が高くないという錯覚と、下準備の不足を指摘している。また、登山届が未提出だったことや、救急療法に関する知識の不足というところも教訓として上がっている。
これらの教訓は、私にとって耳の痛い内容を含んでおり、私がもし無謀な思い付きを実行していたら間違いなく糾弾の対象となることだろう。ちょっとやばいと思った。

続いての事例は、北アルプスの北穂高岳だ。こちらは山のベテランがガレ場から滑落し、膝を強打したというものだ。
本書に載っている事例の中では最もケガとしては軽いが、膝の打撲がひどくて下山できず、ヘリコプターを呼ぶ羽目になったという。
ヘリコプターを呼んだことによる救出のための費用は相当かさみ、その額なんと440,000円だという。
山岳保険に加入していたため、実際の費用は抑えられたそうだが、山岳保険に入っていない私の身に置き換えてみると、これはまずいと痛感した。
また、ストックの重要性にも触れられているが、私はまだ持っていない。これもまずい。

続いては、大峰山脈・釈迦ケ岳の事例だ。
練馬区の登山グループ17名が、新宿から大峰山系の釈迦ケ岳に向かっていたところ、続けて2件の事故を起こしてしまう。そのうちの1人は、首の骨を折って即死するという痛ましい事故だ。

当日の天気は地元の人に言わせれば山に行くべきではない程度の雨脚だったという。一方でパーティーのリーダーであるベテランの引率者は小雨だったという。
出発時間も早いほうがよかったという批判があり、そのリーダーは時間には問題なかったと言い張っている。つまり平行線だ。
責任逃れと切って捨てることもできるが、実際の状況はその場にいた方しかわからない。ただ、それで人が死んでしまったとすれば大問題だ。

著者は大峰山の自然を守ろう会の方の意見を紹介している。事故が起きたあたりは、修験道の修行場であり仏の聖域でもある。そのような場所に人が入るべきではないと言う意見は、登山そのものへの問題提起だ。
決して登山自体が悪いわけではないと断った上で、いわゆる昨今流行している登山ツアーのあり方について一石を投じる。ここで事故が起こったコースは、二つの日本百名山に登れることから、登頂数が稼げるコースとしても人気があったという。こうした登頂数を稼ぐ考え方に問題の根がある、と。これは私自身も肝に銘じなければならない。

続いては赤城山・黒檜山だ。
数日前に訪れたばかりの冬山を急遽、一人で登ることになった遭難者の五十代女性。
数日前に訪れていたことによって冒険心を起こしてしまったのか、違う道を行ってしまった。登山届がでておらず、単独行だったので足取りも推測するしかない状態だが、迷った揚げ句に体力を消耗し、最後は滑落して動けなくなって凍死したということらしい。
自らの経験への過信と、何かあった時に備えた装備の不足とリスクマネジメントの欠如がもたらした事例だ。

ちょっと知っているから、と芽生えた冒険心に誘われるまま、違う道に分け入ってしまう。これは似たような行動をしがちな私にとって、厳に教訓としなければなるまい。

続いては、北アルプス・西穂高岳独標の事例だ。
登山には着実なステップアップの過程がある。まず近所の小さな山から始め、やがて千メートル級の山、二千メートル級の山、さらには冬山、そして単独行といったような。
その道のりは長くもどかしい。それが嫌だから着実なステップを踏まずに次々と難易度の高い山に挑戦し、そして大ケガを負う。
そんな人がいる中、本編で事故にあった方は着実で堅実なステップアップをこなしてきた方だ。準備も多すぎるほど詰め込むタイプで、事故には遭いにくいタイプ。

ところが、山荘からすぐ近くの独標へ向かう途中で滑落してしまう。そこから一気に400メートルを滑り落ちてしまう。
奇跡的に命は取り止めた後、ほんのわずかだが、つながった携帯電話を頼りに、切れ切れに遭難の一報も出すことができた。
重すぎるザックがバランスを崩した原因となったが、そのザックがクッションになり、さらにザックの中には連絡手段や遭難時の備えが入っていたことが功を奏した。

なによりも、この方が生きて社会復帰してやる、との強い意志を持っていたことが、生き延びた原因だという。これもいざとなった場合に覚えておかねばなるまい。

続いては、南アルプス・北岳の遭難事例がとり上げられる。
この編で語るのは滑落した当人ではなく、それを間近で目撃し、救助にも携わった方だ。
この時期の北岳にはキタダケソウという可憐な花が咲き乱れ、それを目当てに訪れる人も多いのだとか。だが、六月末とはいえまだ雪渓は残っている状態。そこをアイゼンやピッケルもなしで向かおうとする無謀な行為から、このような事故が起こる。夏山とはいえ、準備は万端にする。思い込みだけで気軽に訪れることの危険を本編はよく伝えている。

最後は、埼玉県警山岳救助隊があちこちの事例を挙げている。
ここであがっている山はそれ程の高峰ではない。
それでも、ちょっとした道迷いや油断によって転落は起こりうる。
高峰に登ろうとする際は心の準備に余念がないが、低山だとかえって気楽な気持ちで向かってしまうため、事前に山に行ったことを教えずに向かってしまうことはありそうだ。そうなると遭難の事実も分からず、救助隊も組織されない。
そうやって死んでいった人の多さを、本編は語っている。
多分、私がもっとも当事者になりそうなのが、ここで取り上げられた数々の事例だろう。

こうして本書を読み終えてみると山の怖さが迫ってくる。
本書を読む少し前、私は十数人のパーティーの一員として至仏山に登った。
そこから見下ろす尾瀬は格別だったが、雲の動きがみるみるうちに尾瀬の眺望を覆い隠してしまい、それとともに気温がぐっと下がったことも印象に残っている。これが山の怖さの一端なのだろう。

私はまだ自分が山の本当の怖さを知らないと思っている。また、私は自分の無鉄砲な欠点を自覚しているため、独りで無謀な登山はしないように心がけている。
だが、その一方で私は一人で滝を巡りに行くことが多い。多分、私にとって危険なのは滝をアタックしてアクシデントに遭遇した場合だろう。
滝に向かう時、おうおうにして私は身軽だ。遭難時のことなど何も考えていない。

冒頭に書いた早戸大滝の手前であわや遭難しかけた事など、まさに命を危険にさらした瞬間だったといえる。
早戸大滝は今までもなんどもチャレンジし、その度に引き返す勇気は発揮できている。
この引き返す勇気を今後も忘れないためにも、本書はためになった。

‘2019/9/9-2019/9/10


天平の甍


今になってなぜ鑑真和上について書かれた本書を手に取ったのか。特に意図はない。なんとなく目の前にあったからだ。あえていうなら、平成27年の年頭の決意で仏教関連の本を読もうと決めていた。そして意気込んで親鸞についての本(レビュー)を読んだのだが、私には歯が立たなかった。それ以来、仏教についての勉強はお留守になっていた。しかし平成27年も師走を迎え、年越しまでにもう一冊くらいは仏教関連の本を読みたいと思ったのが、本書を手に取った理由だろうか。

仏教を学問として取り扱った本よりも本書のような小説の方がリハビリにはちょうどよい。本書は、著者の作品の中でもよく知られている。そして、本書で語られる鑑真和上の事績は日本史の教科書にも取り上げられているほどだ。我が国の仏教伝来を知るための一冊として本書は相応しいといえるだろう。

そんな期待を持ちつつ本書を読み始めたのだが、本書の粗筋は私が学ぼうとした意図とは少し違った。日本への仏教伝来を知ろうにも日本が主な舞台ではない。鑑真和上が倭国に仏陀の教えを伝えんとして幾度もの挫折から失明し、それでも仏教の伝戒師がいない日本のために命を賭けて海を渡ってきた事はよく知られている。その過酷な旅については、奈良の唐招提寺に安座されている鑑真和上座禅像の閉じたまなざしが明らかに語っている。

本書は、鑑真和上来日に関する全てが著者の想像力によって描かれている。ただし、その舞台はほとんどが唐土だ。鑑真和上が奈良時代の大和朝廷に招提されてから入寂するまでの期間、伝戒師として過ごした期間についてはほとんど触れられていない。考えてみれば当たり前のことだ。鑑真和上の受難に付いて回る挿話とは、唐土と海上での出来事がほとんどだからだ。したがって、我が国への仏教伝来事情を学ぼうにも本書の視座は違っているのだ。

だが、それで私の意欲がくじかれたと考えるのは早計かもしれない。当時の我が国は大唐帝国を模範とし模倣に励んでいた。仏教だけではない。平城京の区割りや律令制度にいたるまで大唐帝国を模範した成果なのだ。遣唐使の歴史がこれだけわれわれの脳裏に刷り込まれているのも、当時の我が国にとって遣唐使がもたらす唐文化がいかに重要だったかの証といえよう。

なので、鑑真和上を日本に招提するため、日本の僧が唐土へ渡り各地を巡って仏教を学ぶ姿そのものが、我が国の仏教伝来事情と言い換えてよいのかもしれない。

本書に登場する留学僧たちの姿から感じられるのは「学ぶ」姿勢である。「学ぶ」は「真似ぶ」から来た言葉だという。「学び」はわれわれの誰もが経験する。が、そのやり方は千差万別。つまり、考えるほどに「学ぶ」ことの本質をつかみとるのは困難になる。しかし、その「学び」を古人が愚直に実践したことが、今の日本を形作っている。そういっても言いすぎではないはずだ。

本書の主人公は鑑真和上ではない。日本僧普照である。本書は、普照とともに遣唐使船に乗って唐に渡った僧たちの日々が描かれている。さらに、彼らと前後して唐に渡り、唐に暮らす日本人も登場する。

普照と共に唐に渡ったのは、栄叡、戒融、玄朗。それぞれ若く未来を嘱望された僧である。また、30年前に留学僧として唐に渡り、かの地に留まっていた景雲、業行も本書の中で重要な人物だ。この六人は、それぞれが人生を賭け、学びを唐に求めた僧たちだ。

普照は、本書では秀才として描かれる。他人にあまり関心を持たない冷悧な人間。いわば個人主義の権化が普照である。本来であれば、学びの本質とは個人的な営みである。しかし当の普照は、自らを単に机の前にいるのが長いだけの男と自嘲している。そして、普照は努力の目的を見失ってしまい個人の学びに見切りをつける。替わりに、鑑真を招く事で我が国に仏教を学ばせようとする。個人ではなく国家の視点への転換である。普照の意識が個人から国家や組織へと置き換わってゆく様は、本書の隠れたテーマといえる。普照の意識の変化は、学ぶ事についての意識の深まりである。それは、我が国が歴史の中で重んじた、中華の歴代帝国を手本とする学びにも通ずる。国家単位での学びを個人で体現したのが普照といえる。

では、そもそも普照を鑑真招提の目的へ誘った栄叡は何を学ばんとしたのか。彼は唐へ向かう船上で、すでに国家の立場で学ぶ意識を持っていた。普照が気づくより前に、個人のわずかな学びを積み重ねることが国の学びとなることを理解していたのが栄叡である。なので栄叡こそが鑑真和上の招提を思い付いた本人だ。そして栄叡は招提のために奔走し、普照の人生をも変える。しかし栄叡は二回目の渡航失敗により、病を得、志半ばで異国の土となる。しかし、その志は鑑真や普照を通じて日本仏教に影響を与えた。大義のために私をなげうつ態度は、当時の日本の志士といっても過言ではない。栄叡のような人物たちが、今の日本の形成に大きく寄与しているはずだ。

戒融の学びは、実践の学びである。「机にかじりついていることばかりが勉強と思うのか」と仲間たちに言い放ち、早くから放浪の意思を表す。そして実際に皆と袂を分かち、僧坊や経典に背を向け流浪の旅に出る。学校や教団のような組織に身を置く事をよしとしない戒融は、私自身に一番近い人物といえるかもしれない。自身の苦しみは自身で処理し、他にあまり出さない姿勢。そういう所も、ほとんど独学だけでやって来た私がシンパシーを感じる箇所だ。独りの学びもまた学びである。しかし、それは人に理解されにくい道だ。本書の戒融は、人から理解されない孤高の人物として描かれる。本書は普照の視点で書かれているため、戒融は物語半ばで姿を消す。そして物語の終わり近くになって再登場する。実在の文献によると戒融という僧がひっそりと遣唐使船で帰国した事が記されているそうだ。ただ、戒融が放浪僧だったとの史実はなく、あくまで著者の創作だろう。しかし、創作された戒融の姿からは独学の限界と寂しさがにじみ出ている。私も独学の誘惑にいまだに駆られている。が、私の能力では無理だ。共同作業によらねばならない現実を悟りつつある。何ともはかないことに、独り身の学びを全うするには人の一生はあまりにも短いのだ。それでもなお、独り学びには不老と同じく抗い難い魅力を感じる。

玄朗の学びは、同化の学びといえる。玄朗もある時点までは普照たちと同様に学問を目標としていた。しかし、玄朗は唐に向かう船上ですでに日本への里心を吐露する。そこには、同化と依存の心が見える。当初から向学心の薄かった玄朗の仏教を学ぶ意思は唐に渡って早々に薄らぎ始める。玄朗の意欲はますます減っていき、普照が鑑真和上の招提に奔走する間に唐への同化の度を強め、ついには唐で家族を持ち僧衣を脱ぐに至る。普照や鑑真が乗る日本への船に招かれながら、土壇場で心を翻して唐人として生きる道を選ぶ。玄朗の心の弱さをあげつらうのは簡単だ。だが、それはまた唐の文化に自らを馴染ませる学びの成果といえないか。玄朗は玄朗なりに自らの性格や依存心を早くから自覚し、仏門に向いていない自らの適性を学んだともいえる。それはそれで同化の学びとして何ら恥じるところはない。古来、数限りない適応や同化が繰り返され、人類は栄えてきたのだから。

景雲の学びは、諦めの学びだ。30年間唐にあって何物をも得られず、ただ無為の自分を自覚する。30年とは当時の人にとって一生に等しい時間だ。だが、私を含めた現代の人間の中に景雲を笑える人はそういないだろう。全員が景雲のような無為な人生を送る可能性もあるはずだ。だからこそ、景雲の生き方を反面教師として学ばねばならない。大人になるために学ばねばらないこと。それは自らの適性を探る行為だと思う。決して大学に行くためでも大企業にはいるためでもなく。自分が何に向いているかを試行錯誤する過程が学ぶことともいえる。義務教育とは、適性を学ぶための最低限の知識や社会適応を学ぶ場だと私は思っている。景雲にしてもあるいは他の文化、他の時代に生きていたら自らを表現できる場があったに違いない。諦めの学びは、良い意味でわれわれにとって有効な学びとなるだろう。

最後に業行。この人物の存在が本書に深い陰影を与えていることは間違いない。本書が単に鑑真の偉業をなぞるだけの本に終わっていないのも、業行の存在が大きいと思う。業行が唐に渡ったのは普照たちに遡ること30年前。その間、ひたすらに写経に打ち込んできたのが業行だ。付き合いも避け、栄位も求めず、ただ己の信ずる仕事に打ち込んできた人物。膨大な経典を写し取り、それを日本に持ち帰ることだけを生きがいとする日々。その学びは、寡黙の学びといえる。その成果は、業行と共に海の藻屑と消える。30年間の成果が自らの命と共に沈もうとするとき、業行は何を思っただろう。しかし、業行の寡黙の学びとは、何も業行だけのことではない。業行以外にも同じ志をもって命がけで唐に学んだ無名の人々の中には業行と同じ無念を味わった人もいたのではないか。無名とはすなわち寡黙。寡黙ではあるが、彼らが唐から持ち帰ってきたものが日本を作り上げていったことは間違いない。史書はともすれば饒舌に活躍した人々を取り上げる。当たり前のことだ。史書に残らない人々は、容赦なく時代の塵に埋もれてゆく。しかし寡黙な人々が着実に学びとらなければ、我が国の近代化はさらに遅れていたかもしれないのだ。寡黙な学びを実践した業行はじめ、無名の人々には感謝しなければなるまい。

後世の日本人はこういった人々の困難と徒労の積み重ねの成果を享受しているだけに過ぎないことを、われわれは知っている。本書に出てくる以外の人々によって命を懸けた学びが繰り返されてきたことだろう。それは、簡単に情報を得られ、ディスプレイ越しに旅行すらできてしまう現代人には想像すらできない速度の積み重ねだったのではないか。では、われわれは何を学べばよいのか。本書が問いかけるものとは、本書が刊行された昭和当時よりも今のIT化著しい時代に生きる者にとって重い。

‘2015/11/27-2015/12/02


山で失敗しない10の鉄則


私も不惑の年を過ぎ、アウトドア趣味の一つに、山登りを加えたいと思う。

ここ1、2年ほど滝の魅力に惹かれている。一瞬として同じ姿を見せることのない滝。ただ流れ落ちるだけの様を見ているだけで、1、2時間は優に過ごせてしまう。

もっといろんな滝を巡りたい。滝と対峙し、その飛沫を浴び続けていたい。しかし、滝を味わうためには、まず滝へ向かわねばならない。滝があるのはたいていの場合、山である。滝を極めるにはまず山への畏れを育まねば。車で近くまで乗り付けられる滝ならともかく、ほとんどの滝への行程は険しい。ハイキング気分で行くとトラブルにも巻き込まれかねない。

私にとって滝とは山への誘い水なのだ。文字通りに。滝は脇においたとしても、山登りの爽快感は他に変えがたい。子どもの頃は両親によく六甲に連れられたものだ。金剛山にも何度か登った記憶がある。だが、大人になってからは高尾山が精々。あとは10年ほど前に大学生達と丹沢の二の塔、三の塔を縦走したくらいだろうか。

山登りの経験が乏しい今の私が、千メートル以上の山へ向かうとなると、遭難する危険はかなり高いと云わねばなるまい。そんなわけでたまたま目についた本書を手に取った。

実は本書を手に取る前までは著者のことを全く知らずにいた。が、著者は中高年登山の普及に一役買った著名なクライマーなのだとか。本書はどこかの雑誌の連載を一冊に編んだものらしいが、山への心構え、そろえるべき装備や山での振る舞いなどを分かりやすく記して下さっている。エッセイ風の語り口なので構える必要もなくすらすらと8読み進められる。

しかも勿体ぶることもない。読み始めてすぐの8Pに早速山登り10の鉄則が記されている。このあたりの気前の良さも気持ちよい。

1.家族の理解を得ておく
2.装備と服装を整えておく
3.体力を養成しておく
4.技術を習得しておく
5.知識を蓄えておく
6.計画は万全にしておく
7.いい仲間を育成しておく
8.リーダーシップを発揮する
9.メンバーシップを発揮する
10.山岳保険に加入しておく

実に簡潔な鉄則である。しかし甘く見てはならない。本書の残り200頁あまりでは、この10の鉄則をじっくりと解説してくれる。ところどころには10の鉄則を甘く見たために起こった悲劇のエピソードを挟みながら、頃よく読者の気を引き締める。

用意すべき服装やストック、食糧や水。携帯する地図の見方。本書は私のような山の素人にとって有用な内容に満ちている。本書を読みこんだ後は、いつどこに行くかという決断だけが求められる。そして本書にはいつどこでという情報も懇切丁寧に記されている。春夏秋冬、それぞれの季節ごとの山の姿の紹介がエッセイ風に記され、こちらも力を抜いて読める。また、著者のお気に入り百山を挙げて下さっているが、本書を読む2か月前に読んだ「日本百名山」のような名峰高峰ではなく、素人にも親しめる100メートル級の山から多数紹介されている。ここで紹介されている山々はほとんどが日本百名山に入らない山々であり、まさに私のような初心者にとって行きたくなるような山ばかり。さすがに我が故郷の風景としてお馴染みの甲山や六甲山は入っていなかったが・・・

近々ちょっと行ってこようかな・・・

と、上の文章を書いたのが本書を読んだ直後の去年の7月。それからの私は徐々に山男ぶりを発揮することになる。9月には家族で上高地に行き、二連泊の車中泊を。さらに翌日は山梨から有楽町へ向かい、山登りを趣味とし奈良県山岳会の会員である大学の後輩からさらなる山の素晴らしさを教えられ。今年に入ってからも滝めぐりや山への訪問。さらには妻のご縁でお知り合いになったかたから山登りの会へと招待され、、、、本書を読み終えてから一年。この夏、一山は登りたいと思っている。

‘2015/7/6-2015/7/7


ある遭難者の物語


巨星墜つ。訃報を聞いた時の私の感慨である。百年の孤独を始めとしたマジック・リアリズムの作品群。ラテンアメリカ文学の巨星の中で、一際大きく輝いていたのが著者であった。

土臭いラテンアメリカの風景が目に浮かぶ。土俗的な描写の中に、きらびやかなペンの魔術が振り撒かれると、そこには現実を超えた現実が広がる。退屈な日常から何かに向かってもがいていた20代の私。あまりに鮮やかに変貌する世界観の虜になり、大きな影響を受けた。

その影響は未だに続き、ラテンアメリカの諸作家は今でも好んで読んでいる。その影響は文学から音楽へと広がり、ラテンアメリカ音楽にも親しむようになった。20代の苦しかった時期の私。そこから抜け出すきっかけの一つが、ラテンアメリカ文化への傾倒である。

著者の訃報から半月が経ち、本書を手に取った。おそらく読むのは二度目だと思う。といってもほとんど前回の読書の記憶が残っていない。おそらくは当時の私には筋を読んだだけであり、脳内を素通りしてしまったのかもしれない。

というのも、本書の体裁はマジック・リアリズムとは真逆である。題名通り、遭難記の体裁を採った記録文学となっている。ニューオーリンズからコロンビアへ出航した軍艦。その甲板から転げ落ち、カリブ海をコロンビアへと漂流する男の10日間の記録である。飢えや乾きはもちろん、希望や絶望に揺られて海をさまよう男の描写。確かな描写で男の海上漂流生活が文章で描き出される。

そして10日の後、這う這うの体で海岸へたどり着き、生還者として歓待を受けるが、それもつかの間。やがて忘れ去られていく男の物語である。筋書きだけ読むと、苦難とその見返りの成功、そして転落。よくある起承転結の物語のようである。

しかし、本書の仕掛けは別にある。まえがきで、著者は漂流者本人の手記を入手し、それを基に本書を小説に仕立てたと書かれている。一人称の視点で語られる客観的な描写が続くさまは、あたかも著者が実際の手記を基に再現したかのような錯覚に陥る。

だが、本当はどうだったのか。あとがきの解説によると、当時のカリブ海でそのような遭難事故が起こったかどうかの記録が定かではないのだという。

はたして著者は、モデルとなった遭難者の手記を基に本書を世に問うたのか。それとも全くの創作なのか。

想像力だけで遭難記を執筆したとすれば、著者の構想力たるや恐るべきものがある。また、モデルがいたとすれば、その人物は本書の筋書き通り、絶望と栄光の一生の後、落魄の一生を送ったことになる。しかし、歴史からは忘れ去られたにも関わらず、書物の中で有名となって生き続けている人物でもある。そうだとすれば、なんという起伏にとんだ一生!

そう考えると、実直な記録文学の体裁を採りながら、実は本書は史実と虚実を織り交ぜたばかりか、出版された後の批評家や、私のような素人レビュワーまでも巻き込んだ文学世界を形作っていることになる。これは、文学の世界を超えた、まさにメタ文学と呼べる現象ではないだろうか。うがち過ぎの様な気もするが、逆にそれこそが著者の狙いだったとすれば、恐るべき作家である。

’14/05/03-’14/05/05