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アクアビット航海記 vol.44〜航海記 その28


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/27にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は4年半にわたってお世話になった会社やカスタマーセンターに別れを告げ、新たな道へ進む話です。

会社とカスタマーセンターを去るにあたって


会社から去る。それは私にとって慣れ親しんだ営み、だったはずでした。

それまでの私は、流転につぐ流転の日々を送っていました。
芦屋市役所ではねぎらいの場を会議室に設けていただき、さらには花束というプレゼントまで用意していただきました。
その後、数カ所の現場を派遣社員やアルバイトの立場で訪れましたが、いずれも最後の日にはあいさつを忘れず、気持ちよく去ることができました。
逆に、朝礼の場において皆の前で面罵され、クビを宣告され、石持って追われた屈辱も味わいました。去り時には、さまざまな出来事があります。

株式会社フジプロフェシオから去るにあたり、ドラマチックなことはありませんでした。ですが、去る私にはお礼を伝えるべき方が何人もいました。会社でも、スカパーのカスタマーセンターでも。四年半の月日は軽くありません。
多くの方が私とのご縁を結んでくださいました。辞める日は、カスタマーセンターをずいぶんと回った記憶があります。

スカパーのカスタマーセンターは、東京に出てきた私が生活の基盤を作り上げた場所です。スーパーバイザーの期間はオペレーターさん達と楽しく過ごしましたし、集計チームでの日々はとても私を成長させてくれました。

私がスカパーのカスタマーセンターに在職した期間。それは、傷ついて東京に流れてきた私が結婚し、家を持ち、わが子と出会った日々に重なっています。
わたしが社会人としてなんとかやってこれたのも、カスタマーセンターでの日々があったからてす。
パソナソフトバンク、あらため、プロフェシオ、あらため、フジプロフェシオで学んだことは大きかった。と、今では思うのです。とても感謝しています。もちろん、スカパーカスタマーセンターにも。

いざ辞める私は、それまで抱えていた閉塞からの解放感を感じていました。ですが、いざやめるとなると寂しさも募ります。
私はフジプロフェシオをそんな感慨の中、退職しました。

私が去った翌月、フジプロフェシオは株式会社フジスタッフとさらに社名を変えたと聞きます。さらに今は外資系会社と合併し、株式会社ランスタッドと名乗っているそうです。また、スカパー・カスタマーセンターも今は横浜にはなく、数年後に沖縄へ移ったと聞いています。そのころは工事も始まっていなかった相鉄は、今や高架になっています。横浜ビジネスパークの脇を通っても、私の知る人は誰もいません。

今でもこの時に培ったご縁は生きています。オペレーターのソウルメイトとも今も付き合いがあります。本稿を最初にアップした前日にはLINEてやり取りしました。本稿をアップする二カ月前にも家まで送ってもらいました。
また、数年前にはカスタマーセンターの物流チームでマネージャーをされていた方が亡くなりました。私もFacebook経由でご連絡をいただき、告別式で当時の懐かしい皆さんに再会できました。

起業のことなど全く頭になかった自分


ところが、今の私はこの四年半の間に培ったご縁を一度も仕事につなげられていません。それはなぜか。
私も今まで意識していませんでしたが、本稿をアップした機会に考えてみました。

端的に言うと、この時の私には起業するマインドを全く持っていませんでした。もし持っていれば、ご縁をこれからに生かそうと連絡先をマメに交換していたはずです。当時、SNSはまだ生まれたばかり。でも、それは言い訳になりません。
辞める時、新しい会社の名刺を持っていたかどうかは忘れましたが、新たな連絡先も伝えられずじまい。結局、当時の私に人脈という観念は薄かったのでしょう。
上に書いた通り、数年前に当時の方々と再会しました。が、さすがに弔事の場で名刺を配るほど非常識ではなかった私は、この時のご縁も仕事にはつなげていません。

なぜ当時の会社への思いをツラツラと書いたか。それは当時の私に起業の気持ちが全くなかった事を言いたいためです。
転職という一つの決断を果たした私の選択肢に、起業や独立は全くありませんでした。

転職早々、名古屋まで拉致される


転職に際し、私は新たにお世話になる会社の社員旅行に連れていってもらいました。赤城山のふもとに泊まり、翌日は日光見物などを楽しみました。
新たな会社に少しでもなじみたい。私が思っていたのはそれだけでした。
未来の起業や独立は全く考えておらず、勤め人の心をみなぎらせていた私。

私が勤め人であった証拠。その証しは、私が2003年7月に新しい会社に入社してすぐ、トラブル対応の指令に唯々諾々と従ったことでも明らかです。
なんと、入社してわずか数日目にして、いきなり名古屋の小牧まで拉致されました。着替えも持たずに。
私は数人の先輩方とともに、名古屋の小牧に連れたいかれ、郊外の倉庫で延々と商品の交換作業に従事していました。あまりにも突然で、家にも帰る間も与えられず。
宿は名古屋駅前だったので、下着を名古屋駅前のコンビニエンスストアで買った事は覚えています。

訳も分からずに、私の責任でも何でもない不良品の後始末に駆り出す。それは私を試す意味もあったのでしょう。いきなり現実に直面させ、それでも残るだけの根性がこの男にあるのか。この理不尽な仕打ちに耐えられるのか。
もちろん私が負けるわけはありません。
わずかな期間とはいえ、大成社で飛び込み営業を続けた日々は無駄ではありませんでした。訪問販売でヤクザの家に飛び込んでもなお、見知らぬ家々のチャイムを押し続けたのですから。

入社早々、そんな風にして私の新たな会社での挑戦が始まりました。
そして、私が入社して二カ月後には会社が新社屋へ移転する日が決まっており、私にはその通信環境を整える役目が課せられていました。

果たしてどうなるのか。ゆるく永くお願いします。


1995年


先を越された。そんな思いだ。本書を読み終えた直後に抱いた感想は、それから半年以上を経て本稿を書いている今も変わらない。

未だ道半ばの私の人生。その人生において、特筆すべき年を挙げるとすれば、1995年をおいて他にない。だからといって他の年が順風満帆だったり、起伏や抑揚のない平凡な年だった訳ではないのはもちろんだ。

大学を卒業したのは1996年。衝き動かされるように鞄一つで上京したのは1999年。結婚したのも同じ1999年。初めての子が産まれたのは2000年。苦労の末に当時の家・土地を売却、今の家・土地を購入したのが2005年。個人事業主になったのは2006年。法人化が2015年。

上に挙げたイベントは、私の人生で大きな節目となっている。むしろ人によっては人生の一大イベントとして扱われることだろう。にも関わらず、私はそれらイベントをさしおいて、1995年を自分史の筆頭に挙げる。

何故か。

それは、自分の内面と、自分を取り巻く社会の変動がリンクしたのが1995年だからである。

年明け早々の阪神・淡路大震災。以前にも書いたが、我が家は全壊し、なおかつ早朝の壊滅した街を西宮から明石へと車を駆って見届けた。それからの1ヶ月は、命の儚さや社会のもろさを心に刻むには充分過ぎる経験であり、短すぎる日々だった。

オウム真理教による地下鉄サリン事件。これもまた、当時地震の影響もあって躁状態になりつつあった私を宗教から遠ざけた。当時の危うい私にとってオウム真理教はこれ以上無いほどの反面教師となった。この事件がなければ、或いは地震後に揺れる心のまま、どこかの宗教に入信していたかもしれない。実際、大学に入ってからというもの、キャンパス内でも勧誘を受けたことが2度ほどあったぐらいなのだから。

就職氷河期の到来。1995年は私にとって就職活動の年でもあった。氷河期と言われる割には、最終面接まで到達し、調子に乗って旅行三昧に走り、全てを台無しにした。あそこで真っ当に新卒採用されていたら、私の人生航路も違う航跡を描いていたことだろう。後悔は全くないが、当時の社会状況と心の動きが私の心に乱気流を起こしたと云えるだろう。

また、Windows95の発売も忘れてはならない。といっても私の家にPCが入るのは翌96年の秋になってから。この時はまだブラインドタッチが出来る程度で、ITの世界で飯を食っていくことになろうとはつゆほども思っていなかった。しかし1995年がWindowsブームの年であったことは、私のIT技術者としての原点に大きく影響を与えているはずだ。私が芦屋市役所にアルバイトで雇われたのが1996年。ここでWindows95に親しみ、今に至るIT技術者としてのスタートを切ったのだから。

本書には、上に挙げた4つの出来事以外の様々な出来事が取り上げられている。これらを読むと、1995年が地震やサリンだけの年ではなかったことを痛感する。それら事件を著者は丹念に新聞・雑誌から拾い上げ、本書で開陳する。しかも、そのほとんどが、浮かれていた私の記憶からこぼれ落ちていたことに今更ながら気づく。

例えばラビン・イスラエル首相の暗殺。青島都知事・横山府知事の当選。都市博は中止となり、住専問題や二信組問題が世を騒がした。カラオケが全盛期で、ヒットチャートにはメガヒット曲が並び、T.Kサウンドが一世を風靡した。イチローが210本のヒットを放ち、オリックスがパ・リーグを制したのもこの年で、野茂投手が米国で旋風を巻き起こしたのも懐かしい。

これら全てを、私は22歳の若者として享受し、浮かれ、永遠に今の時間を楽しめるものと考えていた。社会人になる直前のモラトリアム最後の年が1995年。どれだけ多くの物を与えられ、かつ、取り逃したことか。昔はよかったというつもりはないが、幸せな時期であったのは確か。

著者も私と同じく1973年の生まれだという。おそらくは私と同じく青い時代を楽しみ、事件に衝撃を受けたことと察する。しかし私と違うのは、著者は本書としてきっちり1995年の総括を果たしたということだ。私とて、本書を読む2日前の1/17に震災の日の自分をようやく振り返った。が、まだ当時の社会や経済を振り返るところまでは至れていない。本稿の冒頭に書いた「先を越された」とは、私が行うべきことを著者に先に越された悔しさでもある。と同時に、同世代の著者がそれをしてくれたことに一抹の安堵も覚えた。

‘2015/1/19-2015/1/21