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ペテロの葬列


豊田商事。天下一家の会。ともに共通するのは、かつて世間を大いに騒がしたことだ。豊田商事に至っては、マスコミが自宅を囲む中で豊田会長が惨殺される強烈な事件が印象を残している。この二つに通ずるのは、ありもしない物を売りつける仕組みだ。会員は多額の金を騙し取られ、大きな社会問題となった。両方に共通するのは、売るべき財もないのに会員を増やす仕組みだ。

豊田商事の場合、顧客が購入した金の現物を渡さず、豊田商事が発行した価値のない契約証券を渡した。いわゆるペーパー商法だ。豊田商事の場合、そもそも証券自体に何も効力がなく、会員が換金を求めてもうまくごまかす。売るべき品物がないのに、証券は次々と発行する。破綻して当然の仕組みだ。

天下一家の会の仕組みは、会員には上位会員への上納金を求め、上位会員は勧誘した会員に応じた配当をもらえる。いわゆるネズミ講。ネズミ算式に会員ネットワークを増やすことからその名が付いた。だが、実際は下位になればなるほど、勧誘できる人はいなくなる。ちなみに一人の会員がそれぞれ二人の会員を獲得するとした場合、28世代のツリーが出来上がれば日本国民は全てカバーできるという。ネズミ講の場合、上納金によって上位会員の懐が潤う。だから有事が発生した際は、そのネットワークで集めた金を使うことが期待される。だが、実際はそのような使い方はされない。原資がないのに、会員には努力に見合った配当を保証し、言葉巧みに騙した。

ネズミ講については無限連鎖講の防止に関する法律という法的な規制が入った。だが、ネズミ講で確立された組織論はまだ残っている。つまり、ツリー状の組織を構成し、階層に応じた報酬を支払う仕組みだ。いわゆるマルチレベルマーケティング。マルチ商法ともいう。マルチレベルマーケティングがネズミ講と違うのは、売るべき商品をきちんと確保していることだ。つまり詐欺ではない。法的な解釈によっては営業形態によって白黒の判断が分かれるらしいが、きちんと払った額に対してサービスが提供されている限りは問題ないという。階層に応じた報酬体系は、年功序列型の組織では当たり前。配当を販売マージンととらえれば、世間にある代理店制度で普通に運用されている。だから、マルチレベルマーケティングだからといって即アウト、ということにはならないと思う。

では、なぜ世間にマルチレベルマーケティングがここまで浸透しないのか。それは、法的な問題以前に、より根本的な原因があるからだと思う。私が思うマルチレベルマーケティングの難点。それは、消費者側にも売り手側の振る舞いが求められることだ。

もちろん、マルチレベルマーケティングの運営元によって違いはある。マルチレベルマーケティングの運営方針によっては、サービスの購入者は消費者の立場にとどまることが認められている。その場合、サービスの買い手は商品だけ購入し、勧誘は一切しなくてもよい。そのような関わり方が認められているのはネズミ講と違う点だ。ネズミ講は会員である以上、下位会員を勧誘することが前提。なぜなら会員それ自体が商品だから。そこに金以外の目的はない。

ただ、マルチレベルマーケティングの運営元によっては、サービスについてのセールストークとともに、あなたも商品を取り扱ってビジネスをしませんか、という勧誘のおまけがついてくることがある。わが国ではここを嫌がる人が多い。なぜなら、前述の豊田商事や天下一家の会をはじめ、多数のペーパー商法やネズミ講の関係者が多大なる迷惑をかけて来たからだ。もはや日本人の大多数に拒否感が蔓延している。

私が思うに、わが国からマルチレベルマーケティングに対する偏見が消え去るまでには、あと一、二世代ほど待たねばならないと思う。通常の商取引に基づいたビジネスの現場でも同じく。マルチレベルマーケティングの用いるチャネル販売は、ビジネスプロセスの一つにすぎないと思う。それでありながら、上記の理由で一般的にはマルチレベルマーケティングだけが強く忌避されているのが現状だ。

そのため、弊社としてもビジネス上でマルチレベルマーケティングの方法論を採り入れるつもりはない。マルチレベルマーケティングにもそれなりの利点や理論があるのも理解するし、やり方によっては今後の有望さが見込める手法だと思う。だが、そのメリットがあるのは理解しつつ、今はまだデメリットのほうが強いとしかいえない。

拒否感が蔓延している人に対し、無理に強いて勧誘すればどうなるか。おそらくビジネス関係だけでなく、友人、肉親との関係にも悪影響が出る。それも長期にわたって。その影響、つまりネズミ講によって生まれた深い傷が本書のモチーフとなっている。豊田商事や天下一家の会、マルチレベルマーケティングについて長々と前口上を書き連ねたのはこのためだ。

「「悪」は伝染する」。本書の帯に書かれている文句だ。「悪」とは何か。「伝染する」とはどういうことか。人は性悪説と性善説のどちらで捉えればよいのか。本書の時間軸で起きる事件はバスジャックくらいだ。しかも犯人の意図が全く分からないバスジャック。だが、本書が語る事件はバスジャックだけではない。過去に起き、関係した人々に取り返しのつかない傷を与えた事件。それが本書の底を濁流となって流れている。

「悪」は伝染するだけではない。「悪」は伝染させることもできる。本書には他のキーワードも登場する。それはST(Sensitivity training=感受性訓練)という言葉だ。実は私はSTという言葉を本書で知った。だが、自己啓発セミナーや洗脳など、それに近い現場は知っている。私自身、かつてブラック企業にいたことがある。本書に描かれるSTの訓練光景のような心理を圧迫される訓練から苦痛も受けた。だから何となくSTの概念も理解できる。そして、STのトレーナーであれば、人を簡単に操縦できるということも理解できる。「悪」を伝染させることも。

本書を読んだのは、オウム真理教の教祖こと麻原彰晃に死刑が執行されたタイミングだ。もちろんこれは単なる偶然。だが、私の人生を一変させた1995年に社会を騒がせた教祖の死と、本書を読んだタイミングが同じだったということは、私に何らかの暗示を与えてはいないだろうか。

私はそれなりに心理学の本を読んできた。NLPなどの技法も学んだことがある。商談の場では無意識にそうしたテクニックを駆使しているはずだ。だが、私は人をだましたくない。うそもつきたくない。人と同じ通勤の苦痛を味わい、右に倣えの人生を歩みたいとは毛頭も思わないが、人を騙してまで楽な人生を歩もうとも思わない。だが、そうした哲学や倫理を持たない輩はいる。そうした輩どもが、ビジネスの名を騙って人を不幸にしてきた。その端的な例が、豊田商事であり天下一家の会であり、昨今のオレオレ詐欺の跳梁だ。

全ての人類が平等に幸せになる日。それが実現することは当分ないだろう。だが、私はせめて、自分の行いによって人を不幸に陥れることなく、死ぬときは正々堂々と胸を張って死にたい。

ここで本書のタイトルであるペテロの葬列の意味を考えねばなるまい。ペテロとはいかなる人物か。ペテロとはイエス・キリストの最初の弟子とされる人物だ。敬虔な弟子でありながら、キリストがローマ兵によって捕縛される前、キリストのことを知らないと三度否認するであろうと当のキリストから予言された人物。そして、キリストが復活した後は熱心な信者として先頭に立った人物。つまり、一度はキリストを知らないとうそをついたが、そのことを恥じ、改心した人物である。本書が示すペテロとはまさにその生きざまを指している。一度は人々をだまし、人々を誤った道へ導いた人物が、果たして人のために何を成しえるのか。それが本書の大きなテーマとなっている。

本書は人を導き、操る手口が描かれる。本来、そうした技は正しい目的のために使われなければならない。正しい目的を見定めることはできないにしても、人を不幸にしないため使わなければよい、といえようか。その原則は、当然ながらビジネスにも適用される。ビジネスとは何のためにあるのか。それは人を不幸にしないためだ。人をだますことはビジネスではない。私もまた、それを肝に銘じつつ、仕事をこなし、人生を生きていかねばならないと考えている。

‘2018/07/05-2018/07/06


虚ろな十字架


大切な人が殺される。その時、私はどういう気持ちになるのだろう。想像もつかない。取り乱すのか、それとも冷静に受け止めるのか。もしくは冷静を装いつつ、脳内を真っ白にして固まるのか。自分がどうなるのか分からない。何しろ私にはまだ大切な人が殺された経験がなく、想像するしかないから。

その時、大切な人を殺した犯人にどういう感情を抱くのか。激高して殺したいと思うのか。犯人もまた不幸な生い立ちの被害者と憎しみを理性で抑え込むのか。それとも即刻の死刑を望むのか、刑務所で贖罪の余生を送ってほしいと願うのか。自分がどう思うのか分からない。まだ犯人を目の前にした経験がないから。

でも、現実に殺人犯によって悲嘆の底に落とされた遺族はいる。私も分からないなどと言っている場合ではない。私だって遺族になる可能性はあるのだから。いざ、その立場に立たされてからでは遅い。本来ならば、自分がその立場に立つ前に考えておくべきなのだろう。死刑に賛成するかしないかの判断を。

だが、そうはいっても遺族の気持ちになり切るのはなかなかハードルの高い課題だ。当事者でもないのに、遺族に感情移入する事はそうそうできない。そんな時、本書は少しは考えをまとめる助けとなるかもしれない。

本書の主人公中原道正は、二度も大切な人を殺された設定となっている。最初は愛娘が殺されてしまう。その事で妻との間柄が気まずくなり、離婚。すると娘が殺されて11年後に離婚した元妻までも殺されてしまう。離婚した妻とは疎遠だったので知らなかったが、殺された妻は娘が殺された後もずっと死刑に関する意見を発信し続けていたことを知る。自分はすでにその活動から身を引いたというのに。

それがきっかけで道正はもう一度遺族の立場で死刑に向き合おうとする。一度逃げた活動から。なぜ逃げたのかといえば、死刑判決が遺族の心を決して癒やしてくれないことを知ってしまったからだ。犯人が逮捕され、死刑判決はくだった。でも、娘は帰ってこない。死刑判決は単なる通過点(137ページ)に過ぎないのだから。死刑は無力(145ぺージ)なのだから。犯人に判決が下ろうと死刑が行われようと、現実は常に現実のまま、残酷に冷静に過ぎて行く。道正はその事実に打ちのめされ、妻と離婚した後はその問題から目を背けていた。でも、妻の残した文章を読むにつけ、これでは娘の死も妻の死も無駄になることに気づく。

道正は、元妻の母と連絡を取り、殺人犯たちの背後を調べ直そうとする。特に元妻を殺した犯人は、遺族からも丁重な詫び状が届いたという。彼らが殺人に手を染めたのは何が原因か。身の上を知ったところで、娘や妻を殺した犯人を赦すことはできるのか。道正の葛藤とともに、物語は進んで行く。

犯罪に至る過程を追う事は、過去にさかのぼる事。過去に原因を求めずして、どんな犯罪が防げるというのか。本書で著者が言いたいのはそういう事だと思う。みずみずしい今は次の瞬間、取り返せない過去になる。今を大切に生きない者は、その行いが将来、取り返せない過去となって苦しめられるのだ。

本書は過去を美化する意図もなければ、過去にしがみつくことを勧めてもいない。むしろ、今の大切さを強く勧める。過去は殺された娘と同じく戻ってこないのだから。一瞬の判断に引きずられたことで人生が台無しにならないように。でも、そんな底の浅い教訓だけで済むはずがない。では、本書で著者は何を言おうとしているのか。

本書で著者がしたかったのは、読者への問題提起だと思う。死刑についてどう考えますか、という。そして著者は306-307ページで一つの答えを出している。「人を殺した者は、どう償うべきか。この問いに、たぶん模範解答はないと思います」と道正に語らせる事で。また、最終の326ページで、「人間なんぞに完璧な審判は不可能」と刑事に語らせることで。

著者の問いかけに答えないわけにもいくまい。死刑について私が考えた結論を述べてみたい。

死刑とは過去の清算、そして未来の抹殺だ。でも、それは殺人犯にとっての話でしかない。遺族にとっては、大切な人が殺された時点ですでに未来は抹殺されてしまっているのだ。もちろん殺された当人の未来も。未来が一人一人の主観の中にしかありえず、他人が共有できないのなら、そもそも死刑はなんの解決にもならないのだ。殺人犯の未来はしょせん殺人犯の未来にすぎない。死刑とは、遺族のためというよりも、これ以上、同じ境遇に悲しむ遺族を作らないための犯罪者の抑止策でしかないと思う。ただ、抑止策として死刑が有効である限りは、そして、凶行に及ぼうとする殺人者予備軍が思いとどまるのなら、死刑制度もありだと思う。

‘2016/12/13-2016/12/14


嫌われ松子の一生(下)


上巻の最後で故郷から今生の別れを告げようと実家に戻り、そして出奔した松子。馴染み客が一緒に雄琴に移ろうと誘ってきたのだ。雄琴とは滋賀の琵琶湖畔にある日本でも有数の風俗街のこと。しかし、マネジャーになってやるからと誘ってきたこの小野寺という男、たちの悪いヒモでしかなかった。ヤクの売人はやるわ、他の女に手は出すわ。痴話げんかの果てに、松子は小野寺を包丁で刺し殺してしまう。

無我夢中で東京へと向かった松子。そこで出会ったのが島津。妻子をなくし、つつましく理容店を経営する男の元で居候として暮らしはじめる。となれば自然と男女の関係になろうというもの。しかし、そんな松子がつかんだかに見える平穏は、逮捕によって終わりを告げる。全国指名手配されていたとも知らず、のうのうと暮らしていた松子を警察が見逃すはずもなく。ついに松子は刑務所に収監されることになる。

笙も別ルートから松子が刑務所にいたことを突き止め、公判記録からその凄絶な生涯を知ることになる。

本書に通して読者が追体験する松子の人生は、すさまじいの一言だ。一人の女性が味わう経験として無類のもの。それでいて、少しも無理やりな展開になっていない。本書はフィクションを描いているはずだが、実は松子のような人生を歩んだモデルがいたのではないかとも思わせる。長年、風俗業で生き抜いて来た女性の中には、松子と同じような辛酸を舐めてきた方もいるのではないか。そう思わせるリアルさが本書には息づいている。

松子の人生は、まるで奔流のように読者を運んでいく。立ち止まって考える暇すら与えてくれない。本書は一気に読めてしまう。だが、あらためて本書を読んでじっくり考えてみたい。すると、松子の生き方にも人の縁が絡み合っていることが見えてくる。松子の人生は一匹オオカミの孤独に満ちているわけではない。人生のそれぞれの局面で、ごく少数の人と太い絆を結ぶ。その絆が松子の前に次々と新しい人生の扉を用意するのだ。それが結果として悪い方向だったとしても、人の縁が人生を作ってゆく。

属する組織の中で、少数の方と縁をつないでゆく生き方。それは、私自身にもなじみがある。というよりも私の生き方そのものかもしれない。私はたまたま破滅せずに、今なお表通りを大手を振って歩けている。だが、それは結果論でしかなく、実は私の人生とは、選択する度に間一髪奈落のそばを避けてきたのかもしれない。自らの経験から振り返ってみると、生きることの難しさが見えてくる。生きるとは、これほどまでに人との縁や、その時々の判断によって左右されるものか。一方通行のやり直しのきかない人生では、選択もその時々の一回勝負。

とはいえ、本書を読んで人生を後ろ向きに考えるのはどうかと思う。殻にとじこもり、リスクを避ける人生を選び続けてはならない。松子にはたまたま不運がつづいてしまっただけとも言える。最後は酔った若者たちの憂さばらしのの対象となり、殺されてしまった。だが、逆もまたあり得るはず。幸運の続く人生も。

そもそも運で自分の人生を決めつけることを私は良しとしない。運などすべて結果論でしかない。松子の場合、旅館での盗難騒ぎを、自分の力でうまく収めてしまおうと独断に走った判断のまずさがあった。彼女の人生を追っていくと、明らかな判断ミスはそう多くはない。多くは他の人物による行いを被っていることが多い。松子の場合、安定した教職をまずい判断で台無しにしてしまったスタートが決定的だったと思う。つまり、選択さえうまくできていれば、彼女の人生は逆に向いていた可能性が高い。

そんなわけで、松子の裏目続きの人生を見せつけられてもなお、私には人生を後ろ向きにとらえようと思わないのだ。

根拠なき運命論も、人生なんてこんなもんという悲観論も、私にはなんの影響も与えない。むしろ、本書とは巨大な一冊の反面教師ともいえる。こうすれば人生を踏み外すという。でも、そこだけが本書から得られる教訓であるとは思えない。本書から得られる彼女のしぶとさことを賞賛したい。一度の選択は人生の軌道を全く違う向きに変えてしまう。しかし、悪いなりに松子は人生を懸命に生きる。そこがいい。失敗を失敗のまま引きずらず、生きようとした彼女が。

笙は公判で松子を死に至らしめた男たちの態度に激昂して吏員に連れ出される。笙には分かっていたのだろう。叔母の一生とは決して救いようのない愚かなものではなかったことを。刑務所から出所した後の松子の人生も、紆余曲折の山と谷が交互に訪れる激しい日々だった。最後は荒川のアパートで身なりを構わぬ格好で独り暮らし、嫌われ松子と呼ばれていた。それはいかにも身をやつした者の末路のよう。でも、かつて松子がつちかってきた縁は、松子を真っ当な道に戻そうとしていた。それを永遠に閉ざしたのが浅はかな若者たちの気まぐれだった。松子と比べると人生の密度に明白な差がある若者たち。そんな若者たちに断ち切られてしまった松子の報われたはずの未来。それを思うと笙には彼らの反省のなさに我慢がならなかったのだろう。

私はつねづね、人の一生とは死ぬ直前に自分自身がどう省みたか、によって左右されると思っている。本書はその瞬間の松子の感情は描いていない。果たして松子はどう感じたのだろうか。多分、晩年の松子には今までの自分の人生を思い返すこともあっただろう。でも普通、人は生きている間、無我夢中で生きるものだ。他人からの視線も気にするひまなどない。憂さ晴らしの連中に襲われた際、松子には後悔する暇も与えられなかったことだろう。だが、本人に人生を思い返す暇がなかったとしても、他人からその生きざまに敬意が払われ、記憶されたとすれば、その人の人生はまだ恵まれていたといえないだろうか。

‘2016/08/08-2016/08/09