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アクアビット航海記 vol.46〜航海記 その30


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防に巻き込まれてゆく自分。鍛えられました。

誕生と死と転職の2003年


さて、久々に家の話題に戻りたいと思います。
本連載の第三十七回第三十八回第三十九回で書いた、私たち家族が住んでいた広すぎる家と重すぎる圧。その家をどうやって処分したか。
その経緯を今回と次回とその次までかけて書こうと思います。

2003年の7月に職を変えた事は本連載の前回前々回で書きました。
それによってわが家から相模原市の職場までは、自転車でも通えるほどの近さになりました。

職住近接が実現できたことは、私に家を処分するための時間を与えてくれました。そろそろ四年にわたって重荷となっていた家の処分に向け、動き出す時です。

ただし、2003年はまだ家の問題に取り組むには時期が熟していませんでした。私にとっての2003年は、転職の他にもさまざまな出来事がありました。
2002年の年末(12/29)より、山下さんに裏の家に防犯もかねて住み始めてもらったことは本連載の三十九回でも触れました。

明けて2003年。次女が生まれたのはこの年の10月4日、天使の日でした。その一方、次女が生まれる二カ月ほど前には、父方の祖父が亡くなりました。兵庫の明石で営まれた通夜と告別式にも出席しました。また、次女が生まれた日は、母方の祖母の告別式に重なりました。もちろん、私が福井まで参列することは叶いませんでした。

転職と誕生と逝去。慌ただしい2003年でした
当時、私は30歳になったばかりでした。それまでの人生で人の死に直面した経験は持っていました。
大学二回生、20歳の頃に友人がアルバイトの帰りに過労で亡くなりました。その友人とは一緒に自動車教習所に入学しに行った仲です。お骨拾いにも参加させてもらい、つまんだ箸の先の軽さに友人の死を痛感しました。また、同じ年の秋には、友人の女の子が脳腫瘍でなくなりました。彼女が亡くなる前日、明石の兵庫県立がんセンターの緊急治療室でみた、管につながれたその子の姿は私に失神するほどの衝撃を与えました。

その時に味わった死の実感から10年。その節目に経験した娘の誕生と祖父母の死。それは、私に人生の両極端を教えてくれました。そして私にあらためて人生のはかなさと有限を突きつけました。

ただ、この時の私はそのような感慨をただ持て余すだけでした。
ゆとりはありません。もちろん、発想も勇気も実力も機会もありません。次女が生まれ、転職することだけで手一杯でした。そもそも家が片付いていない以上、身動きは取れません。

熾烈な交渉の始まり


そんな年に家の処分について動きがありました。
前年末に妻が次女を妊娠したこともあって、地主の家に地代の払い込みに訪れたのは五月の連休明けのある日でした。
支払が遅れたことをもって、地主はわが家から経済的なゆとりが失われつつあることを察したのでしょう。そして、頃やよしと思ったのでしょう。地主から今後の借地権の行方について考えたいとの提案が切り出されたのはこの時でした。

それまでは毎年末に私が一人で支払いに行っていました。そして、その度に世間話をのんびりして、帰っていました。
私も交渉を本格的に進めるタイミングを見計らっていました。そろそろ舵を切らねばと思っていました。そのため、地主から話を切り出してくれたのは好都合でした。それまでの四年間、話を切り出させるまで我慢したかいがありました。
2003年の年末。地代275万円を収めに行きました。その時は五月に地主から家の話を切り出されていたこともあり、私も地主も借地権を含めた家の処分について、遠慮なく意見交換を進めました。

強大な地主の壁

もちろん、お互いが相手の出方を見ながらの駆け引きです。
妻が祖母からもらった遺産が地代の支払いに費やされていることや、その遺産も含め、家からお金が尽きかけていることは、私もおくびにも出しません。
ひょっとすれば、こちらの事情など地主が興信所などを使って調べていたのかもしれません。私がシラを切ろうとも。

私がたった一人で対峙する地主。その方は、町田近辺の不動産業界で知らぬ人はモグリといわれるほどの方。やり手の凄腕地主として、町田駅近辺にいくつも土地を所有していました。
一見、穏やかな印象を与える顔貌。しかしその裏には老獪さが潜んでいます。私の父親と同じぐらいの年齢です。そしてその目からときおり放たれる眼光の鋭さ。まさに海千山千。百戦錬磨とはこういう人を指すのでしょう。
世間話をしていたかと思えば、いつの間にか家の話題に踏み込んできます。油断させておいて、いきなり直球を投げ込んでくる交渉術は変幻、そして自在。
人生の修羅場を切り抜けてきたであろう人物と一対一。その眼光に負けぬよう、目をそらさず話を聞き、応じ、話をし続ける。それは一瞬も気の抜けないギリギリの果たし合いのようなものでした

当時の私が交渉術など知るはずもありません。
話の主導権を握るスキル。話のつなぎ方。話の切り出し方。話の緩急。経験の全てが不足していました。それまでの人生で交渉など未経験なのだから当たり前です。
ブラック企業にいる頃、毎晩何十件もの見知らぬお宅に突撃訪問を繰り返していました。それは、今から思えば交渉とは呼べません。交渉とはそもそも双方が対等であるべきもの。訪問した私は、訪問されたお宅にとっては警戒の対象でしかありません。対等とは程遠い立場でした。
パソナソフトバンクにいる頃は、双方が対等の立場で参加する商談に何度か参加させてもらいました。それとて、数回を除けば私は商談の場の主役ではなく単なる添え物。ただついて行った人に過ぎません。

この地主こそが、私のそれまでの三十年の人生に立ちふさがった初めての、そして強大な壁でした。
ブラック企業にいた頃、私を丸刈りにし、皆の前でクビ宣告をした営業所長も私にとっては壁でした。
ですが、今になって思えばこの時に私の前に立ちふさがっていた壁は営業所長ではなく私自身でした。しかも、三カ月でクビになり、壁を乗り越える前に私が砕け散りました。
しかし、地主との交渉に当たっては砕け散る選択肢はありません。背を向けることも許されません
私が砕け散る時。それは家族が分解するときです。離婚は当然。関東にはいられなくなった私は、関西の実家に逃げ戻るしか道がなかったはずです。
そして、借地権が妻と義父に設定されている限り、私が逃げようとその借地権は引き続き妻と義父と娘を苦しめ続けるはずです。当時の私は何が何でもこの壁を乗り越える必要がありました。

ここで私が地主から逃げていたら、私の人生に計り知れないダメージを与えていたことでしょう。逃げや玉砕までは行かなかったとしても、壁を乗り越えられなかった自分を負け犬と感じ、今の私はなかったことでしょう。
ブラック起業の朝会で衆人の中でクビを宣告されました。皆の前で丸刈りにもされました。その屈辱や雪辱を果たせぬまま、今まで馬齢を重ねていたと思います。
多分、今の家にも住んでいないでしょう。多分、起業もできていないはず。家族も持たぬまま、孤独でい続けたかもしれません。なにより、私自身が自分を失っていたはずです。

当時の私にとって強大すぎる壁であったこの地主。
今となって思うのですが、この地主は私の成長に欠かせぬ人物でした。そのように感謝の念すら抱いています。
この後の本連載でも書きますが、地主とのタフな交渉をへて、私は相当に鍛えられました。

住んでいる家を処分するには、新たな家を確保する必要があります。
どこに住むのか。予算は。職場は。どれもが揺るがせにできない大きな問題でした。

2004年の松の内が明けて早々、地主から候補となる家が記されたFAXを受け取ります。
いよいよ、一年五カ月にわたる家探しの日々の始まりです。

次回は家探しの日々、そして地主や町田市との熾烈な交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.40〜航海記 その25


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/4/5にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回は正社員として担うことになったさまざまな業務について語ってみます。これらの経験はどれも私の起業に役に立ちました。

正社員としての任務


さて、当時の私がぶち当たっていた壁。それは家の処分だけではありません。
仕事の上でも私にとって乗り越えるべき試練が次々に押しよせていました。
今回はそのことを書いていこうと思います。どれもが”起業”には欠かせない経験でした。

本連載の三十三回でも書いた通り、スカパーカスタマーセンターの運用サポートチームに引き上げられ、パソナソフトバンク社の正社員にも登用してもらった私。
正社員になってしばらくして後、私の現場での肩書は”集計チーム マネージャー”へと変わりました。

正社員になったことによって、私に求められる役割はさらに増えました。集計チームのマネージャーとして現場の集計業務を管理しながら、派遣元であるパソナソフトバンク社の業務にも貢献することが求められていきます。
立場が変わるとやるべきことも増える。そのあたりのいきさつは本連載の三十一回でも少しだけ触れています。

今回はその部分をもう少し突っ込んで書いてみたいと思います。

正社員になったことで私に課せられた新たな任務。それは大きく四つが挙げられます。
そのどれもが私にとって初めての経験でした。
今から思うと、これらの任務を経験したことは、後年の私が”起業”するにあたっての糧となりました
自分の仕事だけしていればよかった立場から、より広い視野へ現場の仕事だけが仕事ではないという気づき。この気づきを初めて得たのはこの時期だったように思います。

一つ目は、日々のオペレーター・スーパーバイザーさんの出退勤管理システムの保守。
二つ目は、お客様(スカパー社)への月次の請求書発行。
三つ目は、カスタマーセンターの外に出て、作業や商談で別のお客様を訪問。
四つ目は、現場のプライバシーマーク取得や、センター移動の担当としての作業。

システム保守の経験


まず一つ目のシステム保守です。
私が「登録チーム」や「集計チーム」で作業するために集計ツールをマクロで作ったことは本連載でも書きました。
とはいえ、それらはあくまでも自分のためだけに使うものでした。バグを検知するのも自分ならば、それを修正するのも自分。「登録チーム」で作った集計ツールは、同僚のスーパーバイザーからの要望やバグの指摘に対応すればよいだけでした。集計チームでも集計結果のずれなどを指摘されれば直しますし、自分で速度を上げるために改善を行っていました。ですが、使うのはあくまでも集計チームの中だけ。

ところが、私が保守の担当に任じられた出退勤管理システムの使用者の数はそれまでと二桁は違います。全てのオペレーターさんとスーパーバイザーさんを合わせると何百人が使うシステム。
皆さんは朝夕に打刻し、その打刻データは集計してスカパー社への月次の請求に使います。パソナソフトバンク社の事務スタッフだったMさんやSさんも使います。もはや、今までのように私だけが使うシステムではなくなりました。バグなどで動かなくなると端末の前にみなさんが並ぶのです。その列は、自分の管理するシステムが業務に影響を与える現実を私に教えてくれました。

その出退勤管理システムはこのような仕組みでした。
まず、それぞれのスタッフが持つ入館証代わりのカードに印刷されたバーコードを、館内の入り口に設置した端末のバーコードリーダーで読み取ります。Microsoft Accessで作られたそのシステムは、読み取られたバーコードを元に対象者と打刻時刻を内部テーブルに保存します。そのデータをパソナソフトバンク社のMさんやSさんがやってきてフロッピーディスクに保存し、別フロアのパソコンにインストールしてある分析用のアクセスに取り込みます。そのデータが月次の請求や支払のデータに加工されます。

私はこの出退勤管理システムの開発には一切携わっていません。私がカスタマーセンターに入る前からこのシステムは動いていました。このシステムの開発者にも会ったことがなく、仕様書もマニュアルもありません。すべては手探りの中、出退勤管理システムの保守を行っていました。

例えば、当時のMicrosoft Access(確か97でした)は、定期的に最適化をしないとデータ容量が肥大する仕組みでした。この出退勤管理システムは自動的に最適化を行うように作られておらず、たまに止まりました。止まると打刻ができないので長蛇の列ができ、私の元にアラートを告げる使者がやってきました。
それだと困るので、後日、最適化作業は自動で行えるように実装しました。

私が出退勤管理システムに対してやるべき保守作業は他にもありました。たとえばアクセス自体のバージョンアップや、リースパソコンの切り替えなどです。
そのたびに、私はMicrosoft Accessの仕様や機能を調べた上で作業していました。

保守担当が担う責任。それは私にとってステップアップでした。人に使ってもらうシステムに携わることは、自分の仕事の結果が人に影響を与える。それを私に教えてくれました。
今でこそ、私はさまざまなシステムの保守を行っています。が、この時が私にとって初めてのシステム保守の経験でした。まさに技術者の原点となる経験だったと思います。
この出退勤管理システムはMicrosoft Accessの仕組みを学ぶ良い教材でした。また、保守業務のコツのようなものを学べたのもこのシステムからでした。
今さら、支障もないと思うので、システムの名前を書いてしまいます。この出退勤管理システムはMareと名付けられていました。ありがとうMare。なんの略かは忘れましたが。

請求業務で金銭の厳しさを


二つ目は、お客様への請求書を作る任務です。
パソナソフトバンク社からは、何百人ものオペレーターさん、数十人のスーパーバイザーさん、十数人のマネージャーさんがスカパーカスタマーセンターに派遣されていました。当然、毎月の労働に対する請求をスカパー社へ提出しなければなりません。私はこの請求書の作成担当に任命されました。
上に書いたMareで集計したオペレーターさん、スーパーバイザーさんの勤務時間を取りまとめ、さらに別報告で集計されたマネージャーさんの勤務時間を加えます。
これらを月末で締めた後、翌月の第何営業日までかは忘れましたが、スカパー社のご担当者に請求書として提出する。それが私に課せられたタスクでした。

この作業が大変でした。多くのスタッフさんの請求額ですから、金額も膨大な額に上りました。作りあげた請求書に記載される額面は、20代の私には遥かな高みでした。
さらに請求書は業務ごとの案分が組み込まれ、特殊な計算式がてんこ盛りでした。毎月のように請求書のレイアウトは変わり、Excelのマクロ(VBA)による省力への試みを拒みます。
関数の位置がずれ、結果に矛盾を生じさせるたびにご担当者さまのお叱りを受ける。そんな毎月でした。私は月末と月初はこの作業に懸かりきりになっていました。

当時の私にとって、この作業はことのほか難しい作業でした。でも私は、この任務によってExcel関数をより効率的につかうすべを身につけたように思います。
そして、請求とはシビアな営みであり、間違うととんでもないことになる緊張感を学びました。請求とは厳密さが求められ、たとえ一円でもゆるがせにできません。商売の基本となる素養をこの時期に培ったことは、私の”起業”にとって大きな糧となり、“起業”した今もなお私の中に生きつづけています。とても得がたい経験をさせてもらいました(もっとも私の値段設定や財務管理にはいまだに反省すべきことが多いのですが。)
あまりにもやりとりが密に行っていたせいか、スカパー社のご担当者の方と年賀状をやりとりするまでになったのは懐かしい思い出です。

商談に臨み、視野を広げる


三つ目は、外部への訪問です。
当時のパソナソフトバンク社にとって、スカパー社は大口のお客様だったはずです。ですが、スカパー社だけがお客様ではありません。
正社員に雇用された私には、他のお客様でも売上を立てることが求められました。その要請に従い、私はスカパー社以外のお客様を訪問するようになりました。例えば集計の仕組みを作るためお客先のもとに赴いたり、商談に同席するために外出したり。

パソナソフトバンク社では社員向け研修の一環として、名刺の交換などのビジネスマナー研修を行っていました。私もその研修でビジネスの初歩のノウハウを吸収しました。
ただ、研修では実際の商談までシミュレーションしてくれません。そして、商談はいつも本番です。商談への同席など、それまでの私の三十年足らずの人生で未経験でした。

パソナソフトバンクにいる間、私が単身で商談に臨むことはありませんでした。そもそも商談の進め方もわからず、何をどう準備すればよいのかも知らない当時の私が商談などできるわけがありません。まず私は、商談への同行から経験を積みました。商談の場に同席し、営業担当者の横でコクコクとうなづくだけのさえない若輩者。それが私でした。何もかもが不慣れで、全てが見習い。どの時間も勉強でした。

でも何度か商談に臨むうちに、言葉も挟むタイミングがおぼろげに理解できるようになりました。横に座っているだけなのも芸がないので、何かしようと口をはさむようになりました。
最初はうなづくだけだった私も、何度か商談に臨むうちに徐々に商談の空気感を体得していったように思います。
この時、商談の経験を踏めたことが”起業”した今では役に立っています。私を商談に臨む機会を与えてくれたパソナソフトバンク社には感謝です。正社員のお誘いを受諾してよかったことの一つだと思っています。

コンプライアンス意識の醸成


四つ目の任務では、コンプライアンスの意識を学びました。
今の私はコンプライアンスなどの横文字言葉を平気で口にします。でも当時の私はそんな言葉など知りませんでした。ましてや当時はY2K問題の記憶もまだ新しい頃。プライバシーを守る風潮もセキュリティを順守する意識もまだ世の中には根付いていませんでした。
そもそも当時はSNSなどごく一部の方のものでした。アンチウイルスやファイアウォールのソフトウエアをインストールし、怪しげなメールの添付ファイルは開かず、Windows Updateをきちんと実施していれば無問題だった古き良き時代です。

ところが、カスタマーセンターとは個人情報の宝庫です。ですから個人情報保護が至上の指針となるのは当然です。
上に書いたような普通の対策で済みません。きちんとした個人情報保護の対策をとっていますよ、と世の中に知らしめる必要がありました。
そこで、スカパーカスタマーセンターはお客様に安心していただくためにセキュリティ認証を取得することにしました。その認証とはプライバシーマーク。
ところがプライバシーマークを取得するのはそう簡単にはいきません。そのため、スカパーカスタマーセンターに参画していた各社ベンダーにも協力を仰ぎ、センターを挙げて取得へまい進する指令がくだりました。パソナソフトバンク社もベンダーの一社です。そしてパソナソフトバンク社の担当者として任命されたのが私でした。

言うまでもなく、当時の私にセキュリティに対する深い知見も現場をリードできる力量もありません。会議では席に座っているだけでした。やることといえばスカパー社の求める調査項目を入力し、各チームに調査を依頼するぐらい。
ただ、この時にプライバシーマーク取得のための実務を経験できたことは、私にとってまたとない財産となりました。なぜなら個人情報を保護する作業がどれほど大変で労力を要することか、身をもって知ることができたからです。
プライバシーマーク取得に向けてやらねばならないタスクはクリアデスクや施錠の励行だけではありません。書類の管理者やごみの捨て方、ごみを廃棄する方法やごみ廃棄業者の管理監督まで事細かく決めねばなりません。それほどまでに大変な作業をへて、ようやくセキュリティやプライバシーが保てるのです。

私はプライバシーマーク取得の担当になったことで、セキュリティ遵守の意識が身につきました。これは大きかった。なぜなら後年、私が独立し、何カ所もの開発センターを渡り歩く上で求められるコンプライアンス意識が事前に身につけられたから。”起業”した今もそうです。
むしろ、通常の業務が多すぎるのに、いちいちセキュリティに意識を払っていては業務に支障を来たします。無意識のうちにコンプライアンスを実践できるぐらいでなければ。機密保持のための行動など呼吸をするかのように無意識にこなせなければとても”起業”など務まりません。そのための「無意識の意識」を私はプライバシーマークの担当者の任務から会得しました。

もう一つ、私がベンダーの担当者として参加したことがあります。それはカスタマーセンターの移転・増床の作業です。この時もわたしはお座り担当で、あまり大したことはできなかったように思います。ただ、この時に大規模なセンターの移転の現場を体感できたことも、後年の私にとっては武器となりました。

今、株式会社スカパー・カスタマーリレーションズ様の会社沿革のページを見ると、この移転のことが年表に記されています。それによるとYBP内のセンターの移転は2001年の5月と書かれています。そして、プライバシーマークの認定取得は2003年6月と書かれています。
その間に行われたのが、日韓共催ワールドカップです。

日韓共催ワールドカップの前、カスタマーセンターは嵐のような日々でした。それはまた次回に。ゆるく永くお願いします。


図解明解 廃棄物処理の正しいルールと実務がわかる本


本書を購入した理由は、仕事で必要となったからだ。
廃棄物処理の一連の手続きをクラウド・システムで作る仕事で必要となった。

廃棄物処理は、扱う対象が破壊され、解体されている。また、複数の種類の廃棄物が混在していることもある。つまり、デジタルとはそぐわない性質を持っている。だから、業界全体でIT化がなかなか進んでいない。
逆に言うとこれからIT化が求められる業界でもある。

世の中のほとんどの商売は、サービスの提供元が顧客に商品を提供し、その対価として金銭をもらう。ところが廃棄物処理業に関してはそれとは逆に動く。
処分すべき品を顧客から受け取り、その処分料金を顧客から受け取る。つまり、通常の商いの場合であれば、サービスと金銭が逆の向きに動くのに対し、廃棄物処理の場合はサービスと金銭が同じ向きに動く。とても特殊だ。静脈物流と言う言い方もするようだ。
そのため、通常の商慣習に慣れた頭で考えると勝手が違うことが多い。

もう一つ、気を付けておくべきことがある。それは、提供されたサービスの行方が顧客には分からないことだ。
通常のサービスであれば顧客の手元にサービスの結果が残る。食品、飲食、モノ、ソフトウエアなど。だから、何かあれば顧客はサービスの提供元に文句が言える。提供されたサービスが気にいらなければ、今後は利用しないとの選択も取れる。
だが廃棄物処理は、サービスの動きが通常の商売とは逆だ。そのため、顧客は提供されたサービスの結果を確認することが難しい。
例えばだが、顧客に黙って処分すべき義務を負った業者が適切ではない処分をすることも可能だ。例えば不法投棄のように。実際にそう言う事例が頻発したためだろう、業界としてそのような事態を防ぐ仕組みが運用されている。

また、業者間で適切な処理がなされたかを確認するためのマニフェスト伝票がある。それは、対象の廃棄物がどのように次の処理工程に進んだかを報告するためのものだ。この結果をもとに自治体に対してもきちんと処分したという結果を報告する義務がある。
通常の商いであれば、受注伝票、売上伝票、仕入伝票、発注伝票を用いて日常の取引が遂行される。また、納品書や領収書、請求書といった商流書類が取り交わされる。ただし、それらは常に一対一の関係だ。帳票を出す側と受け取る側の。
廃棄物処理においては、モノを運ぶ運搬業者、中間貯蔵業者、中間処理業者、最終処分業者にもマニフェストの記載義務がある。つまり、一対一の関係ではない。
これによって、廃棄物がきちんと適切な方法で処分されたかを業者間で確認し合うのだ。
これらの業者はそれぞれの自治体からどのような廃棄物処理が可能かを許可されている。だから、許可されていない廃棄物は扱えないし、許可されていない方法で処分することも許されない。

もう一つ、大切なことがある。それは、廃棄物を出した当事者である排出事業者は、その廃棄物が最終的にどう処理されたのを適切に管理しなければならないことだ。
処理業者や運搬業者に渡したらそれで終わりではない。これはとても重要なことだから覚えておく必要がある。排出事業者は最終的に廃棄物がどう処理されたかをきちんと把握し、管理しておく必要がある。そのためにも排出事業者は定期的に処理業者の事業所に視察・検査に赴き、正しく適切に廃棄物が処分されているかを自分の目で確認・監督しなければならない。
だからこそマニフェスト伝票の仕組みは不可欠なのだ。
マニフェスト伝票はその結果をきちんと残すためにも作成が義務付けられている。マニフェスト伝票には紙の形式以外にも電子マニフェストも可能だ。どちらの場合もシステムを構築する際は適切に出力することは当たり前だ。

廃棄物処理に当たっては、対象となる廃棄物の種類とその処理方法を知っておかねばならない。また、適切な方法で処分することを認められた業者に対し、適切な内容の契約を締結する必要がある。ここまで準備してようやく、日常のマニフェスト伝票を取り交わしての処理業務を行うことができる。
もちろん、先に挙げたような通常の商流とは違う動きをすることと、社会的な責任が課せられる業界であるということを強く覚えておかなければならない。

その上で物理的な塊である廃棄物をデジタルの世界で管理する必要がある。それには、システム構築の知識以外にも独自のノウハウが必要となる。
上にも書いた通り、普通の商慣習の知識だけではとてもシステム構築はおぼつかない。
お客様よりkintoneを用いて産業廃棄物業界に向け、協力してソリューションを作り上げたいというご依頼を受けた。弊社では現在、いくつかの案件を並行で行っている。
そのための知識が必要だと思い、本書を購入した。

本書の著者は二人の行政書士の手による。二人とも行政書士なのは、それだけ廃棄物処理における報告や管理のウェイトの重さを表している。
本書には廃棄物の処理方法の実態についての化学知識はほとんど登場しない。
廃棄物の処理に関する化学知識よりも、実務上では契約や報告の仕事のほうが求められるということだろう。

本書は、まず行政処分を受けた業者の事例を挙げている。廃棄物処理を適切な方法で処分しないと自治体からの認可が取り消される。すると、該当する仕事が受けられなくなる。これは会社にとっては由々しき事態だ。死活にも関わってくる。

まず、法律遵守とコンプライアンスの意識を本書は徹底的に伝える。その上で、先に書いたように廃棄物の種類と処分方法について解説する。その中で運搬業者や処分業者、中間処分業者、最終処分業者の違いが説明される。最後はマニフェストなどの事務的な手続きに触れていく。

個人的には、廃棄物の処理が実際のどういうプロセスで進むのかに興味がある。なぜなら、私たちは自らが出したゴミがどのような形に変わっていくのか皆目見当がつかないからだ。残念ながら、本書ではその辺には詳しく触れない。
例えば、生ごみであれば焼却処理を行うのは分かる。だが、瓦礫などのコンクリートはどのように処分されるのか。強酸・強アルカリはどのように無害にされるのか。それらはどのような経路をたどって処理されるのか。

ただ、本書を読んでいると、化学処理のプロセスよりも報告のプロセスのほうが複雑だ。その複雑さに武者震いを覚えた。もちろん、それはチャンスでもある。
本書を読んでから、実際にシステム構築の作業に本腰を入れた。おかげさまで一社のお客様ではめどがついた。もう一社も順調に構築が進んでいる。
構築の中では、私の知識が不足していたため、手間取ったこともあった。だが、本書を読んでいなければもっとピントはずれの構築を行っていただろう。そもそもうまくいかなかったことは間違いない。
おそらく今後も廃棄物業界のクラウド・システムには携わっていくはずだと思っている。

廃棄物処理業界のシステム構築の可能性は広い。それと同時に、本書のような入門書の役割をより強く感じる。
本書は、廃棄物処理業界に携わる人にとっては必読のはずだ。

‘2020/06/04-2020/06/07


アクアビット航海記 vol.15〜航海記 その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前々回からタイトルにそって弊社の航海記を書いていきます。以下の文は2017/11/16にアップした当時の文章が喪われたので、一部修正しています。

大学は出たけれど

さて、1996年の4月です。大学は出たけれど、という昭和初期に封切られた映画があります。この時の私はまさにその状態でした。この時から約3年。私にとっての低迷期、いや雌伏の時が続きます。この3年間についての私の記憶は曖昧です。日記もつけていなければ、当時はSNSもありませんでしたから。なので、私の3年間をきちんと時系列に沿って書くことはできないでしょう。多分記憶違いもあるはず。ともあれ、なるべく再構築して紹介したいと思っています。

妙に開き直った、それでいてせいせいするほどでもない気持ち。世の中の流れに取り残されたほんの少しの不安、それでいて焦りや諦めとも無縁な境地。あの頃の私の心中をおもんばかるとすればこんな感じでしょうか。新卒というレールから外れた私は具体的な将来への展望もない中、まだどうにかなるわという楽観と、自由さを味わっていました

大学を出たとはいえ、私の心はまだ大学に留まったままでした。なぜかというと家が大学のすぐ近くだったからです。アクアビット航海記 vol.12〜航海記 その1にも書きましたが、わが家は阪神・淡路大地震で全壊しました。そこで家族で住む家を探したのが私でした。家は大学の友人たちに手分けして探してもらいました。そしてほどなく、私の一家は関西大学の近くに引っ越しました。この時家を見つけてくれた友人には20年以上会えていません。N原君、覚えていたら連絡をください。
さて、家の近くに大学があったので、卒業したはずの私は在学生のようにぬけぬけと政治学研究部や大学の図書館に入り浸っていました。

その時の私は多分、光画部における鳥坂先輩のような迷惑至極な先輩だったことでしょう。鳥坂先輩と同じく大義名分として公務員試験を受ける、という御旗を立てて。それは、私自身でも本当に信じていたのか定かではない御旗でした。ちなみに鳥坂先輩が何者かはネットで検索してください。

1996年の10月。西宮に新しい家が完成し、西宮に戻ることになりました。引っ越す前には幾度も西宮に赴き、引っ越し作業に勤しんでいた記憶があります。なにせ、時間はたっぷりありますから。

孤独な日々

そう、時間だけは自由。何にも責任を負わず、親のスネをかじるだけの日々。この半年、逆の意味で時間の貴重さを噛みしめられたように思います。なぜなら、何も覚えていないから。インプットばかりでアウトプットがないと、時間は早く過ぎ去ってゆく。責任がないと、ストレスがないと、何も記憶に残らない。私が得た教訓です。

ですが、1996年の4月から1999年の3月までの3年間はとてもかけがえのない日々でした。なぜならこの3年間も大学の4年間に劣らず私の起業に影響を与えているからです。この3年間に起こったさまざまなこと、例えば読書の習慣の定着、パソコンとの出会い、妻との出会い、ブラック企業での試練は、起業に至るまでの私の人生を語る上で欠かせません。

この三年で、私が得たもの。それは人生の多様性です。小中高大と順調に過ごしてきた私が、会社に入社せず宙ぶらりんになる。それもまた、人生という価値観。その価値観を得たことはとても大きかった。大学を卒業しそのまま社会に出てしまうと宙ぶらりんの状態は味わえません。そして、それが長ければ長いほど、組織から飛び出して“起業“する時のハードルは上がっていきます。人によってそれぞれでしょうが、組織にいる時間が続けば、それだけ組織の中で勤めるという価値観が心の中で重みを増していきます。
誤解のないように何度も言い添えますが、その価値観を否定するつもりは毛頭ありません。なのに私は23の時、すでに宙ぶらりんの気持ちをいやというほど味わってしまいました。そして、宙ぶらりんの状態もまた人生、という免疫を得ることができました。それは後年、私の起業へのハードルを下げてくれました。
起業とは、既存の組織からの脱却です。つまりどこにも属しません。起業とは多様性を認め、孤独を自分のものにし、それを引き受けることでもあります。卒業してからの半年、私の内面はとても孤独でした。表面上はお付き合いの相手がいて、政治学研究部の後輩たちがいて、家族がいました。でも、当時の私は、あっけらかんとした外面とは裏腹に、とても孤独感を抱えていたと思います。

本に救いをもとめる

その孤独感は、私を読書に向かわせました。本に救いを求めたのです。その頃から今に至るまで、読んだ本のリストを記録する習慣をはじめました。
当時の記録によると、私の読む本の傾向がわが国、そして海外の純文学の名作などに変わったことが読み取れます。
それまでの私はそれなりに本を読んでいました。推理小説を主に、時代小説、SF小説など、いわゆるエンタメ系の本をたくさん。ですが、私の孤独感を癒やすにはエンタメでは物足りませんでした。純文学の内面的な描写、人と人の関係の綾が描かれ、人生の酸いも甘いも含まれた小説世界。そこに私は引き寄せられていきました。私はそれらの本から人生とはなんぞや、という問題に折り合いをつけようとし始めました。

もちろん、それを人は現実逃避と呼びます。当時の私が本に逃げていた。それは間違いありません。でも、この時期に読書の習慣を身に着けたことは、その後の私の人生にとても大切な潤いを与えてくれました。おそらく、これからも与えて続けてくれることでしょう。

この時、私が孤独感を競馬、パチンコなどのギャンブル、またはテレビゲームなどで紛らわそうとしていたら、おそらく私がここで連載を持つ機会はなかったはずです。
とはいえ、私はギャンブルやゲームを一概に否定するつもりはありません。きちんと社会で働く方が、レクリエーションの一環で楽しむのなら有益だと思います。ですが、時間を持て余す若者-当時の私のような-がこういった一過性のインプットにハマったら、後に残るものは極めて少ないと言わざるをえません。
私の中の何が一過性の娯楽に流れることを留めたのか、今となっては思い出せません。自分の将来を諦めないため、私なりに本からのインプットに将来を賭けたのでしょうか。いずれにせよ、本から得られたものはとても大きかった。私もこういうクリエイティブな方向に進みたいと思わせるほどに。

次回も、引き続き私の日々を書きます。


夢幻花(むげんばな)


本書を読み終えた頃、街中には映画「天空の蜂」の封切り直前のポスターが貼り出されていた。駅や映画館で見かける「テロリストによって人質となった原発」というコピーは私の目を引いた。

言うまでもなく、本書の著者は「天空の蜂」の原作である同名小説の著者でもある。私も「天空の蜂」は十数年前に読んだ。今思い返しても先進的な内容で、原発の弱点を端的に暴いた傑作といえる。その後十数年を経て図らずも起こった福島第一原発の事故により、原発の脆弱性が浮き彫りになった。それを契機に改めて天空の蜂の先見性に脚光が当たり、今回の映画化につながったのだろう。

著者はエンジニア出身として知られている。その著者が現実に起こった原発事故の後、改めて原子力に向き合い、そして突き詰めて考えた成果。それを問うた作品が本書である。

作家がミステリーを書くとき、通常は謎ありき動機ありき、で書くのではないだろうか。しかし、本書は違うアプローチで書かれたように思う。どうすれば原子力についての思索をミステリーに織り込むか。本書はまずそこから構想が起こされたのではないだろうか。そして著者は原子力についての思索に作家としての心血を注いだのではないか。本書の帯にはこのように書かれている。「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」と。

上の言葉の本意は、プロットや筋、トリックを考えることを指していないように思える。そうではなく、物語の背景や底に流れる原子力への思索をいかにして本書に織り込むか、にあったのではないか。しかし原子力という現実の鬼子を物語の前面に押し出したのでは、小説としての効果が発揮できない。著者はそう判断したのだろう。だが、それは素人から見て高度な技に違いない。しかし、著者は原子力を前面に出さず、なおかつ原子力についての思索を読者に問うことに成功している。

本書の筋やプロット、トリックは無論盤石の出来である。そのままでも上質のミステリーであることに変わりない。しかし、本書でもっとも印象に残った一節はエピローグにある。そこで読者は著者の思いを知る。そして本書が「天空の蜂」とは一味違う技巧で原子力について著者が語ったことを知ることになる。

本書の主人公が原発技術者であることは本書の冒頭で紹介される。斜陽産業である原子力産業に見切りをつけようか迷う技術者として。

本書で取り上げられる事件はアサガオを中心として回る。そこに原子力は登場しない。原子力とは関係のないまま事件は解決する。では原子力についての著者の思索はどこに現れるのだろうか。それはエピローグに現れる。謎がすべて解けた後、主人公がエピローグで下す決断こそがこの物語の肝なのである。その決断こそが、著者が原子力に対して正面からぶつかり、考え抜いた結論を効果的に表現する手段に違いない。その決断については、本書の筋とは違って著者のメッセージを読み解く肝となる。なので、本書については特にエピローグから本書を読まないほうがよいだろう。なお、その結論とは私が原子力について考える立場に等しい。

私は原発の漸次廃止には賛成する。そして今の原発が将来廃れるであろうとも予想する。ただし、全ての原発を即時廃炉とすることには反対だ。それは、大体発電手段の利用による燃料費の高騰といった経済的な理由だけではない。理由は他にもある。その理由こそが本書のエピローグで書かれている内容だ。

望む望まないに関わらず、わが国は原発が稼働開始した時点ですでに後戻りできない決断を下してしまった。そしてその決断の後始末は、誰かが長い時間、それも数世代に亘って担い続けていかなければならない。そこには賛成も反対もない。否応無しに誰かがやらねばならないのだ。それこそが私が原発の即時廃炉に反対する理由である。本書で主人公が下した決断もまさにその思想を沿ったもの。そこに我が意を得た思いだ。

‘2015/8/27-2015/8/28


被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから


最初に断っておくと、私には東日本大震災について語れる何物もない。知識も資格も。あれから4年の歳月が経とうとしているが、発生後、東北には一度も行けていない。いや、一度だけ行ったことがある。それは一昨年の夏、地震発生から二年半後のこと。家族でいわき市のスパリゾートハワイアンズに行ったのだが、気楽な観光客としての訪問であり被災地の皆様に貢献した訳ではない。

阪神・淡路大震災の被災者として何も出来なかった。そんな自分に未だに収まりの悪い想いを抱いている。仕事の忙しさや恩人である先輩の逝去による精神状態の悪化などはもちろん言い訳にならない。

私が貢献したことがあったとしても微々たるものである。幾ばくかのチャリティー品を買うのが精々。本書も実は、チャリティー品として売られていたものである。

著者は、東日本大震災発生当時の陸前高田市長である。そして、今もその任務を遂行されておられる。加えて、私の娘が通う中学の大先輩にも当たる。そのご縁から、毎年行われる学校見学会に陸前高田市の応援ブースが設けられている。ブースには被害状況や、復興状況のパネルが展示されており、私も見学させて頂いた。また、ブースでは陸前高田市の物産も販売されている。前年に訪問した際は食品しかなく、昆布やサイダーを購入したのだが、今回の学校見学会で訪れてみると、物産の横に本書が並んでいた。迷うことなく購入した。

私の本購入の流儀は積ん読である。購入してしばらく経ってから読み始めることが多い。しかし、本書は別である。積ん読扱いを私の中の何かが許さなかった。

本書は、地震に遭遇した著者の綴った記録である。被災自治体の長として、夫として、父として、家長としての行動が率直に綴られている。己に与えられたこれらの役割のどれも疎かにせず全霊で災害に当り、奮闘にも関わらず想像を絶する津波の猛威になすすべもなく呑み込まれて行く様が記されている。奥様が津波に呑まれ行方不明になる中、自治体の長としての職務を放棄せず、母を亡くした我が子に対する父としての接し方に自己矛盾と葛藤を抱える。本書の記述は、現場の惨状を見、それに率先して立ち向かわなければならない著者にしか書けない血の通った内容である。

涙が出た。著者の直面した重い日々に。それを堪え平静に綴られる文章に。そして何も出来なかった自分に。

本書を前にすると、数多のブログ、数ある新聞や雑誌、何度も行われた永田町での記者会見が霞んで消える。ジャーナリズムすら無力に思える。

家族とは、仕事とは、責任とは。頭で理解した振りをすれば、そう振る舞えるのが大人。東京電力や当時の首相の対応に苦言を発信するのも簡単なIT社会。しかし、そのどれもが本書の前ではカゲロウのように薄い。ほとんどの意見は紙のように軽い。本書のレビューを書いている私も同様で、著者の痛みや苦しみを理解したとはとても言えない。

しかし、この本が私に与えた影響は小さくはない。それは、地域のコミュニティについての気付きを与えてくれたから。法人化という目標を立てた私にとって、本書が与えてくれた何かは確かに伝わった。そしてそれは、私の中で着実に育ち始めている。

本書を読み終えて、数ヶ月経った今、私が被災地に行ける目処は立っていない。しかし、社会起業としての生き方に向け、舵を切りつつある自分がいる。いつか、何かのご縁で、被災地の力になれれば本望である。

著者は業務多忙の中、娘の中学に大先輩として、話しに来て頂いたと聞く。先ほど娘に聞いたところ、「よく、『被災地に何が必要ですか』と支援者から聞かれる。でもそれは実際に被災地に来て、その目で被災地の状況を見た上で、御自身で考えて頂きたい」という部分が印象に残ったようである。どういう話をされたのか、我が娘に何が託されたのか、それは知らない。しかし、著者の言葉は私の娘へ確かに伝わったようである。私が本書から受け取った想いのように。

2014/9/6-2014-9/6