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虚構金融


私はあまり経済系の小説は読まない。
本書は、淡路島の兵庫県立淡路景観園芸学校のイベントに仕事で参加した際、「お好きにお持ち帰りください」コーナーで手にとったものだ。以来、二、三年積ん読になっていた。

そのため、本書については私の中には何の知識もなかった。著者の作品ももちろん初めて読む。
だが、本書は、とても読み応えのある一冊だった。

大手銀行同士の合併に際し、財務省に対する便宜を図ってもらうために贈収賄があったのではないか。その疑惑が、東京地検特捜部の捜査対象だった。そんな中、財務省の官僚である大貫が謎の死を遂げた。
その大貫を検事として取り調べていた後鳥羽は、贈収賄の実態についてさらなる調査を進める。汚職疑惑から明らかになる謎とは。それが本書の大まかなあらすじだ。

官僚や検事としての生き方、そして身の処し方。外部から見た時、どちらもさほど違いがないように思える。もちろん、当事者にとってみればそれはナンセンスな視点のはず。
私のような技術者でさえ、関わる職種によって職務の内容が大きく違うのは当たり前だ。技術者だからなべて同じと思われては困る。検事と官僚を同じ枠でくくることも同じ誤りに違いない。
ただ、一つだけ言えることがある。それは、誰もが目の前の任務に専念し、目の前の難問を解決しようと仕事に取り組んでいることだ。

後鳥羽には家族もいる。大貫にも家族がいる。
だが、肥大した利権と権力にまみれた世界は、家族の憩いや願いなど一顧だにしない。彼らのささやかな平和を一蹴するかのように、陰険な手が危害を加えてくる。圧力や妨害が当たり前の任務を遂行する彼らを駆り立てるものは何だろうか。

私自身の考えや生き方は、本書に登場する男たちの多くとは少しだけ異なっている。だからこそ、本書の世界観は新鮮だった。もちろん、このような小説は今までに何度も読んだことがある。ただ、それは私が何も分かっていない若い頃。
今の私は経営者である。ある程度自由が効くワークスタイルで働けている。今の私のワークスタイルは、検事や官僚のような生き方とは離れてしまった。

だが、私は本書に出てくる男たちの働き方を全て否定しようとは思わない。
仕事に熱を入れる彼らの姿は美しい。
日本の高度経済成長期に、本書に出てくるような男たちが黙々と仕事をしたからこそ、日本は世界史上でも稀な復興を成し遂げた。それは分かっているし、私が先人の成果の上で暮らしていることも理解している。
著者は彼らの姿を硬質で冷静な筆致で描く。

銀行員は規模を追い求める。銀行を大きくするためなら手段は問わない。
政治家は愛想よく振る舞い、日本を導く大志を語る。その裏で権力抗争に明け暮れる。
官僚は今を生きることに必死の国民や次の選挙に気もそぞろの政治家とは違い、数十年先を見据えた国家の大計のためと建前を振りかざす。
検事は権力の悪を暴く名目の元、疑惑に向けて捜査を怠らない。

誰もがそれぞれの仮面をかぶり、その仮面に宿命づけられた任務を遂行する。そして長年、仮面を被り続けているうちに、それが習性となってはがれなくなった仮面に気づく。
それを自覚しながら、それぞれの信条に殉じて任務に向かう。

著者はこうした人々を客観的に、そしてバランスよく描いていく。

捜査する後鳥羽は、大貫が改革派議員と勉強会を開いていた事実を知る。彼は何かを探していた。それが、大貫と大貫を追うように死んだ改革派議員が殺された原因ではないか。後鳥羽はそう当たりをつけ、調査を進める。
やがて彼の家族や彼自身にも危害が及ぶ中、彼は大貫が追っていた対象とそれが指し示す事実に行き当たる。

その何かはここでは詳細に書かない方が賢明だろう。本書を読む方の興味を殺いでしまう。
だが、それは決して荒唐無稽な陰謀論の産物ではない。
とても説得力があるし、それがなぜ大貫の命を奪ったのかも理解できる。
ちょうど私が初めて新聞を読み始めた頃、当時の新聞の一面には二つの品物が連呼されていた。牛肉とオレンジ。

今の日本をさして、財政の危機を指摘する論は頻繁に見かける。財政の支出に占める国債の利息の割合や、収入を国債に頼っている現状。
体力を顧みない国債の乱発は、やがて日本を破綻させる。そのような悲観的な論を唱える論者は多い。

だが本書を読めば、財務省が国債の乱発に余裕をかましていられるのかに得心が行く。私の勉強不足なのかもしれないが、今までに本書に書かれたような切り口で日本の財政を切り取った論を見かけたことがなかった。

おそらく私は、勉強不足で半可通の代表だろう。大貫が見つけた問題意識を今まで考えたことすらなかった。そうした半可通が官僚や政治家の思い描く未来とは逆の、的を外した論をSNSなどで書き散らしている。
官僚や検事はそうした浮ついた論とは一線を画し、目の前の大義に向けて能力を発揮せんとしている。
本書を読み、官僚や検事を駆り立てるものが何かについておぼろげながら理解できたように思う。

改めて今、インターネットで国債の状態を見てみた。すると、国債は相変わらず同じ状況が続いているようだ。
今、日本の財政が破綻したら果たしてどうなるのだろうか。いや、そもそも破綻することはないような気がする。

このような重要なことを知らずに、失われた30年などとドヤ顔で語っていたとすれば笑止千万だ。私は自らの無知に心から反省するとともに、本書を読んで襟を正す思いになった。

‘2020/04/18-2020/04/20


火星に住むつもりかい?


平和警察なる、戦前の特高のような部署。その部署が幅を利かせる近々未来の日本。その部署は定期的に各地に出没し、その地の住民を徹底的に監視する。そして、公衆の面前でギロチン処刑を行い、人々を恐怖で縛り付ける。拷問という名のもとに行われる取り調べ。それは、本書内でも言及されるように、小林多喜二が虐殺された特高のそれを思わせる。平和の名が徹底的におとしめられるかのような完全なる悪。それが本書に描かれる平和警察だ。

今までの著者の作品は、悪がきっぱりとした悪として書かれていなかった。憎めない悪役が登場し、悪の側にもどこかでわずかな理を織り交ぜていた。物事を単純に書かず、気の利いたセリフにちょっとしたウンチクを混ぜることで、善と悪の二元論に陥ることを避ける。悪の側の言い分を描き、悪と善の境目を曖昧にする事で、物事を重層的にみる。そうした書き方によってモノの価値とは相対的であるに過ぎない、と主張して来たのが著者の作風だと思っている。

ところが本書は平和警察という絶対的な悪を描いている。それは私が読んできた著者の過去の作品にない新鮮な試みだ。

ただし、著者はここでもバランスを取ろうとする。平和警察の内部に本庁からの変わり者の専門捜査官を配することによって。その人物とは、特別捜査室に属する真壁捜査官だ。真壁は変わり者。平気で身内であるはずの平和警察の取り調べを拷問と言い放つ。平和警察のトップである薬師寺警視長にも平気で楯突く。警視長の神経を逆なでする。真壁を配することで平和警察の体現する悪が複雑な模様を帯びる。著者が描く悪は、やはり本書でもステレオタイプな悪ではなかった。画一で単純な悪を書かないことで、本書はより魅力的に彩られる。

それに対して立ち向かうのは黒いツナギを着た男。彼の行いは結果だけだと正義の味方のように映る。だが、実態は大きく違う。彼が成り行きで手に入れた武器。それを闇雲に取り扱ったらたまたまうまくいっただけ。絶対的な悪に対抗する正義のヒーローは、正義の味方でも何でもなくただの一般人に過ぎない。ここでも著者は徹底して善悪の二元の単純化を避けようとする。

こうなってくると、上に書いた絶対的な悪という見方も怪しくなってくる。むしろ、そう見せかけておいて、今までの著者の作品に見られたような、物事の本質を複雑な視点からみた一冊になっているのではないだろうか。

本書は三部構成になっている。そして、それぞれの部ごとに物語の視点が変わる。その切り替えも本書の視点に多彩さを与えている。真壁捜査官の口から折に触れて飛び出す蘊蓄。これもまたいい。彼は唐突に昆虫の生態を角度を変えて語る。そうすることで、昆虫の多様性を描き出そうとする。絶対的な悪の中にあって、異端児の真壁。組織に属しながら、異端児であっても仲間のいるはずの真壁が多様性をもちだす。それこそが本書の胆ではないだろうか。もはや悪も善も絶対的な価値観ではない、という考え。それが平和警察の形を借りて暗喩となっているのが本書だと思う。

しかも、三部のそれぞれで入れ替わる視点のどれでも絶対的な悪の化身として描かれる薬師寺警視長。そして真壁捜査官も本書の中ではあえて存在感を消して描かれる。真壁捜査官にいたっては、途中で退場してしまう。特定のヒーローもなければ、絶対的な悪役もいない。それこそが著者の狙いであり、人生観なのだろう。

だから、本書の帯に書かれていた文句
「この状況で
生き抜くか、
もしくは、
火星にでも行け。
希望のない、
二択だ。」

このセリフは、善悪の二元を謳う言葉どころか全くの逆なのだ。このセリフは苛烈な平和警察の圧政を批評するとある登場人物のセリフだ。多分編集部が意図して本編から抜き出し、帯に記したに違いない。読者のミスディレクションを狙っての。

そもそも、本書のタイトル「LIFE ON MARS」からして、デヴィッド・ボウイの名曲を意識していることは確か。その歌詞は、荒唐無稽でアヴァンギャルドな内容に満ちている。一切のよって立つ価値観を否定し、貶めている歌詞。そうである以上、その思想を意識した本書が、善悪の二元といった単純な書き方で終わるはずはない。

火星といえば、荒涼とした惑星。地表には複雑さを示すものがなにもない。単純すぎるがゆえに、そこに住まないか?と問いかけ自体がナンセンス。それは単純な地ー火星を単純な見方になぞらえたアンチテーゼ。この価値観こそ、本書の根本にあるのではないだろうか。

むしろ、平和警察という絶対的な悪のような組織を出すことで、読者に絶対的なものへ注目を集めようとしているかにみえる。そして、それを話の中で巧妙に否定しているからこそ、著者の狙いに気づけないだろうか。それはつまり、上にひねり出したような感想のことだ。絶対的なものなど何もないという事実。全ては相対化され、見る視点によっていかようにでも評価できる。

そうした意味で、本書は著者の作品の中でも面白いアプローチを見せている。また一つ著者の引き出しを見せられたようだ。

‘2018/07/09-2018/07/09


UNDER THE DOOM 下


バービーの逮捕で幕を閉じた上巻。米軍によるドーム破壊の試みはすべて失敗し、チェスターズミルの解放にめどがつかない。外界から遮断されたチェスターズミルで、このままレニー親子の独裁体制は盤石になってしまうのか。

上巻で著者が丹念に織り上げた59人の登場人物によるチェスターズミルの模様。閉鎖され逃げ場のない空間の中で圧力は密度を増し、ドーム内の空気は刻一刻と汚染されてゆく。

本書で著者が試みたのは、アメリカの一般的な町を閉鎖し、生活の営みを閉鎖された町に限るとどうなるか、という壮大な実験だ。

私はアメリカのコミュニティについてはよく知らない。そして、本書に描かれるチェスターズミルがアメリカの田舎の縮図なのかどうかについても判断できない。その前提で、本書に登場する組織について考えてみようと思う。

本書の舞台、チェスターズミルには自治体に相当する組織が登場しない。三人の町政委員以外に自治体としての行政サービスの担い手があらわれないのだ。あるいは、隣接するキャッスルロックには自治体があるのだろうか。となると、第一から第三まで三人もの町政委員がいるのはどういうことなのだろう。町政委員とは町議会議員のようなものなのだろうか。日本でいう自治会のような組織はアメリカにはないと聞く。たとえば町政委員を自治会長のような存在と仮定すれば、町政委員という仕組みを自治会とみなしてよいかもしれない。

そう考えれば、本書に登場する町の組織は以下の通りとなる。行政(自治会)、警察、マスメディア、医療、小売、宗教。他に一般的な町にあるべき組織とはなんだろう。消防、軍隊、教育だろうか。消防は住民たちが自助組織を結成している。軍隊はドーム内には存在せず、ドームの外で手をこまねいているだけ。教育については、本書にはほとんど出てこない。つまり、行政、警察、マスメディア、医療、小売、宗教の組織があればコミュニティはかろうじて成り立つということだ。もちろんそれは実際の生活ではなく、あくまで本書のストーリーを進めるためだ。ただ、著者の考えでは、町の営みもこれだけあればどうにかなるのだろう。

これは、街の危機に際してどういう組織が必要か、というテストケースとして興味深い。著者が考える危機管理の一例として、本書は参考になるかもしれない。当然ながら、著者のストーリー進行上の都合によって組織の入れ替えはあるだろうが、ここにあがった組織が危機管理上の要と考えて良さそうだ。

日本でも天災が村を孤立させる話はよく聞く。天災に備えてどのような組織が町に必要か。本書はそれを考えるきっかけになる気がする。

本書はアメリカが舞台なので、町々には教会が建てられている。そして、住民のコミュニティの場は普段は教会が担っている。そしてビッグ・ジムによる演説のシーンなど、全住民が集まるような時だけ、市民ホールのような場所に住民が集まる。一方のわが国では、神社に氏子が寄り合うコミュニティがすでにうしなわれてしまった。自治会も衰退の一途をたどっている。チェスターズミルに起こったような出来事が、仮に日本の地方都市で再現されればどうなるか。それもチェスターズミルのような庁舎のない地域で起こったら。多分、住民たちは自然にコミュニティを結成することだろう。そしてその担い手は、自治体の支所ではなく、寺社か自治会が担うような気がする。

本書を絵空事として片付けるのではなく、地域社会のあり方を考えるきっかけにしてもよいと思う。

また、本書は組織と個人の対立を描いている。組織とはビッグ・レニーに代表される警察力。個人とはバービーに代表される人々を指す。特に本書は、終盤に近づくにつれて個人の力が発揮される場面が頻繁になる。結末に触れることになるため、これ以上は書かないが、本書を一言で言い表すと組織の無力を描いた話、といっても差し支えないほどだ。

そんな余計な分析を加えてみたが、本書は本来、そんな分析など不要だ。思うがままに一気に読める。そして寝不足になる。それだけの魔力が本書には備わっている。本書の結末については賛否両論それぞれあるだろう。ただ、本書の魅力については誰にも否定できないはず。神が著者に与えた類まれなるすストーリーテリングを味わえるだけでも幸せなのだから。

聞くところによると、本書はドラマ化されているという。アメリカのTVドラマの質の高さはとみにきくところだ。観たことはほとんどないけれど。でも本書のドラマ化であれば、是非一度観てみたいと思う。

‘2016/12/07-2016/12/13


教場


以前から評判になっているとは聞いていた本書。読んでなるほどと納得した。面白い。

本書は警察の内部を描いている。しかも警察学校を。わたしはミステリが好きだが、警察小説はそれほど読み込んでいない。警察学校を舞台にした小説も本書が初めてのはず。

今までに出版された多くの小説でも、警察学校がここまで描かれたものはなかったのではないか。なぜなら警察学校を描くということは、警察の業務内容を一部でも公開することになるから。警察のノウハウを描くには骨の折れる作業があることは容易にわかる。今までに出版された数多くの推理小説で、刑事による捜査はいろんな切り口で描かれて来たはず。だから、捜査メソッドを描いても目新しさはない。でも、本書で紹介された職質や交番巡査による巡回のやり方などは、あまり紹介されたことがないと思う。しかも教官の口から伝えられるセリフは、より一層の真実味を読者に与える。

本書が新鮮な点がもう一つあって、それは教官と生徒の関係の描かれ方だ。警察志望の生徒が警察に抱くような希望や憧れ。まず教官はそこをつぶしにかかる。かつての兵学校とはこんな感じなのだろうか。規律そして規律。規則と条文が支配する世界。そこには当然、さまざまな生徒が入学してくる。厳しい授業に耐えきれず、常軌を逸した行いに及ぶもの。教官の寵を得ようともくろむもの。後ろ暗い秘密を抱えたもの。規則あるところに逸脱や反抗が生じるのは自然の流れだ。

対する教官は、専門分野こそさまざまだが、警察のイロハを知り尽くした海千山千の猛者。生徒たちを見る目は厳しく、しかも容疑者に対したときのように鋭い。生徒と教官の表裏それぞれの駆け引きが面白い。本書は風間という担当の教官が主要な人物として配され、生徒たちのたくらみの先を行く。

教育は社会にとって不可欠。特に青年期までの教育の重要性はいうまでもない。今、人権を重視する風潮が高まり、教育から厳しさが排除されつつある。だが、厳しさが不可欠な教育もある。戦争や軍事に関わる教育がそうだ。そういう教育は、人を育てるよりも相手を殺すことが目的であり、本来の教育の理念にはそぐわない。では、本書で描かれる警察学校はどうか。緊張感と命に関わる厳しさがあり、それでいて人を救い、治安を維持する大義名分がある。教育の本分にのっとっており、なおかつ前向きだ。

本書のそれぞれの編では、生徒間の微妙な思惑のズレと駆け引きが描かれる。そして生徒の悪巧みを風間教官が未然に防ぐ。時には非情な手段を使って。そこには生徒と教官の麗しき師弟愛などない。冷徹な組織の論理が優先され、そこにそぐわない生徒は容赦なく切り捨てられる。人命救助や治安維持といった大義名分と非情さのギャップこそが本書の魅力だろう。

だが、警察の現場とは過酷な毎日のはず。それを教えるのに非情さが欠かされないのは想像できる。だからこそ、本書で描かれる厳しさは腹に落ち、納得できる。そして犯罪者に対峙するためには甘さや憧れはいらず、規律と任務が全てという世界観も。もちろん、タコツボ思考に陥る危険性と警察学校の教育が表裏一体であることは当然だが。

本書は六編からなっている連作短編集の体裁だ。各編は独立しているが、六編を通して同じ学校の98期生の一年を描いている。各編ごとに細かな伏線が張られ、全体としても伏線が張られている。共通する登場人物は風間教官だけかと思いきや、前の編に出てきた人物がひょこっと出て来て、各編ごとのつながりの存在を示す。各編ごとのつながり方に独特のリズムが刻まれているのだ。それが本書全体の構成にも締まりを与えている。

本書の各編が刻むリズム感は、著者の作風なのだろうか。著者の作品を初めて読む私は、著者の作風を知らない。もし、本書のリズム感が、警察学校という隔絶された環境と、その規律を意図して作り出されたとすれば見事というほかない。本書には続編があるという。著者の他の作品とあわせて読んで見たいと思う。

‘2016/09/26-2016/09/27


祈りの幕が下りる時


著者の、いや、日本の推理小説史上で私が一番好きな探偵役は?と問われれば、私は加賀恭一郎を推す。

怜俐な頭脳、端正なマスク、器の広さ。理由はいくつか思い付く。私がもっとも惹かれるのは彼の情を弁えたところだろうか。人間という存在の営み全てに対し、広く受け入れる器の広さと言い換えてもよい。

私の中で著者はシリーズキャラに頼らない作家として認識していた。最近でこそシリーズものが目立つ著者だが、本シリーズで創造された加賀恭一郎は、著者の中でも創造に成功したキャラといえるだろう。

本書は加賀恭一郎シリーズのなかで日本橋編ともいえる三部作の締めとなる一作だ。日本橋編はトラベルミステリーはかくあるべき、の見本のよう。日本橋の中でも特に江戸風情を今に伝える人形町の街並。それが日本橋編では魅力的に紹介される。人形町の街並みからは江戸人情が今も受け継がれている印象を受ける。

加賀恭一郎の魅力の一つとして、捜査のテンポがある。読者を韜晦しつつ煙に巻いて謎を解くのでもなく、読者を引きずりまわすのでもない。文章からは伺える彼の捜査には焦りや苛立ちをほぼ見えない。休日の散策のような何気ない振りをしながら解決に持っていく。その独自のテンポがいいのだ。日本橋編の三作を通し、加賀恭一郎は事件解決のために人形町を歩き回る。だが、彼の捜査は奔走というよりは散策のようだ。彼の捜査スタイルは、人形町に漂う江戸情緒の時間の流れに馴染んでいる。

「新参者」のレビューでも書いたが人形町や日本橋で5年近く仕事をしたことのある私は、あの界隈が好きだ。特に人形町には1年半通っていただけに愛着もある。「新参者」(レビュー)では人形町の町並み、とくに甘酒横丁周辺が活写されていた。「麒麟の翼」(レビュー)では、日本橋の欄干から始まった話が、人形町周辺に点在する日本橋七福神と水天宮の紹介に至る。本書で登場するのは明治座と橋だ。橋といっても日本橋のことではない。日本橋各所に縦横に架けられている橋だ。日本橋を界隈狭しと歩き回ると、なにげに橋の存在に気付く。その多くの頭上には無粋にも首都高が通っており、橋は単なる通り路に堕してしまっている。だが、水路を巡る観光船はまだ健在だ。加賀恭一郎は本書で水路巡りの船に乗る。

なぜ加賀刑事は日本橋署勤務を希望したか。なぜ加賀刑事は前作「麒麟の翼」で父の臨終にあえて立ち会おうとせず、部屋の外で迎えることにこだわったのか。なぜ加賀刑事はここまで日本橋の町並みに馴染もうとするのか。「新参者」「麒麟の翼」の二作で敷かれた伏線の全ては本作で読者の前にさらされる。

道から見る姿とは違った水路からの日本橋界隈の表情が、加賀恭一郎に新たな着眼点を与えてくれたように、読者にも水路から見る日本橋界隈の表情が新たな魅力を気づかせてくれるはずだ。私は日本橋に長らく通っていたのに、まだ水路巡りクルーズ船に乗った事がない。いつか乗ってみたいものだ。

‘2016/03/28-2016/03/29


誘拐


誘拐ものには印象的な作品が多い。こうやって書いている今も私の脳裏には何冊か浮かんでくる。それらはいずれも秀作だ。そして本書もまたその系譜に連なる一作である。なにせ本書は題名からしてストレートに”誘拐”なのだから。

誘拐ものは私の読書経験ではハズレがない。大体が面白い。著者にとってもとっておきのアイデアを注ぎ込む、いわば挑戦作といってもよい。これは面白いから存分に堪能しな、と読者を挑発するような。私にとって著者の作品は初めて読むこともあり、面白さは未知数だった。だが、”誘拐”という一点に惹かれて著者の挑戦に乗って手に取った。

誘拐ものは倒叙形式で書かれる事が多い。倒叙形式とは事件発生時から犯人側の視点で描く手法だ。本書もまた倒叙形式を踏襲している。

犯人側から犯罪を描くということは、即ち手の内を明かすこと。誘拐犯が警察に挑み、どう手玉にとるのか。そして読者は犯人の視点で誘拐の進捗を追っているつもりが、まんまと著者の仕掛けた罠にはめられる。そこに誘拐ものを読む醍醐味はある。

その際、読者が誘拐犯の立場にたてば立つほど、感情移入をすればするほど、著者の仕掛けた読者への罠は効果を発揮する。では本書はどうやって読者を誘拐犯の見方になってもらうか。著者はそのために誘拐犯、つまり主人公の境遇を落とすだけ落とす。

プロローグで主人公が落魄させられてゆく経緯はあくまで自然。自然でいてなおかつ本書の誘拐のプロットに直接繋がっている。ここら辺りは見事なものだ。

また、誘拐犯が警察に接触する手法もなるほどと思える。確かに地味で労力もかかるが秀逸な方法である。

また、誘拐によって一番衝撃を受ける現職首相の焦燥具合の描写も悪くないと思った。ここらあたり登場人物の描写はきっちりしたものだ。著者の作品は初めて読んだがなかなか良い。

だが、一点だけ不満な点もあった。これは全体のどんでん返しのタネなのでここには書かない。だがこれはプロローグをもう一工夫しておけば防げたのではないか。おかげで本書を読む途中でタネに思い至ってしまった。普段の私は推理小説を読んでいても著者の罠にまんまとはまるタイプなのに。本書は珍しく途中で真相の一部を悟ってしまった。

‘2016/03/17-2016/03/18


造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21


マスカレード・ホテル


またまた著者の傑作が誕生した。一読してそう思った。

連続殺人事件。被害者には犯人からのメッセージが。そこから類推される次の犯罪現場はコルテシア東京。東京屈指の一流ホテルとされている。犯人も被害者も分からぬ中、捜査員をホテルスタッフとして従事させることで犯罪を未然に防ごうと警視庁はホテル側に提案する。

ホテル側もその提案を呑み、各持場に数名の捜査員が配属される。そんな中、新田警部補はフロントクラークに配属される。ホテル側の担当は山岸尚美。彼女は凄腕のフロントクラークであり、仮とはいえ新田はホテルマンとしての立ち居振舞いから対応までびしびししごかれる。抵抗する新田に、そんな人がフロントにいたら、犯人にはすぐ刑事だとばれるはずだと一蹴する山岸。

本編に充ちているのは、ホテルマンとしてのプライドと矜持だ。お客様に対し節度を持って臨機応変に対応する判断力。どうやってお客様に不快な思いをさせず快適に過ごして頂くか。その一点に向け、最大限の努力を払うホテルマンの描写は、我々一般人にとって圧倒されるものだ。私もかつてホテルの配膳を2年やっていた。宴会の裏側についても多少は知っている。それでも本書で描かれたフロントクラークのプロ意識や配慮の数々には、強い印象を受けた。

人を疑うことが仕事の警察と、お客様に対するサービスが仕事のホテルマンが随所で火花を散らす。そして、 火花をちらすのは刑事とホテルマンだけではない。ホテルマンとお客様の間にも摩擦は存在する。

ホテルマンとしての新田に執拗に難癖をつける栗原。山岸を指名する盲目の老婦人片桐。さらには他のお客様。ホテルには様々なお客様が来訪する。お客様相手の仕事を多数こなしていくうちに、急造ホテルマンの新田はホテルマンの仕事に対する敬意を抱くようになる。それはほかならぬ山岸への敬意にもつながる。山岸もまた、栗原に対する新田の対応を見るにつけ、新田のプロ意識に対する敬意を持つようになる。本書で描かれるプロ意識は、読後にも強い印象となって残るはずだ。

新田は悪が行われることを食い止めるため、ホテルマンに専念する。その一方で、連続殺人の最初の現場となった品川署の能勢刑事と連携する。連携しながら、組織の論理にも板挟みになりつつ、捜査を進める。新田の焦りが山岸のプロ意識と火花を散らす下りは、本書の読みどころだろう。しかし、それだけでは疲れてしまう。そこに割り込むのが、能勢刑事の存在だ。茫洋として一見すると頼りない能勢刑事。しかし能勢の腰の低さと粘り腰、そして人当たりの柔らかさが、ぎすぎすしがちな新田と山岸の関係のクッションとなる。ここらの人物配置の巧さはさすがといえる。

果たして連続殺人の犯人は誰なのか。そして被害者は誰なのか。その真相は深く、実に鮮やかなものである。マスカレード・ホテルという本書の題名は伊達ではない。一見折り目正しく華やかなホテルにあって、登場人物のほとんどがマスカレード=仮面を被っているのだから。

本書が素晴らしいのは、ホテルマンと刑事の価値観の衝突を描くだけに留まらなかったことにある。価値観の衝突の単なる添え物として事件があったのでは、事件の謎が解かれた後の余韻は薄れてしまう。少なくとも読後、プロ意識への考えは深まるかもしれないが、読後のカタルシスは薄いままだ。仮面が暴かれた時、事件の真相も暴かれる。本書の骨幹を成す事件の動機や手口が鮮やかであればあるほど、本書の読後にプロ意識に対する尊敬の念と、良質のサスペンスを読んだ後の喜びが相乗して効果を生む。推理小説とは謎が解かれる経緯を楽しみ、驚くのが本分のはずだ。本書はプロ意識の衝突を主題に書きながらも、推理小説としての王道を外していないことが素晴らしい。

本書は著者の傑作のひとつに間違いなく加えられると思う。

‘2015/03/26-2015/03/27



著者の作品を読むのは初めてである。だが、粗筋に興味を惹かれ読み始めてみた。街の口コミ(Word Of Mouth)から引き起こされる殺人。しかも被害者は口コミを仕掛けた化粧品会社の製品を使った女子高生。口コミと女子高生という組み合わせにアイデアのひらめきを感じる。

本書の上梓は2001年とある。私にとっては子供をもち、雑事に仕事に追われていた頃である。当時20代とはいえ、私にとって女子高生とは接点がなかった。これを読んだ今、さらに無縁さは増している。とはいえ、女子高生予備軍の娘を持つ身としては、身近な文化となってきたのかもしれない。そういう興味からも、本書で描かれた文化は興味深いものであった。

本書の中では、口コミ文化やそれらの企業の広告・マーケティング戦略の技が色々と散りばめられているのも興味深い。本書の執筆にあたって、著者の調査の跡が表れている。

また、口コミ文化に対応する刑事の世界が描かれているのも本書の彩りを多彩にしている。主人公としてコンビを組むのが、女子高生の娘を持つ父子家庭の中年の所轄刑事と、シングルマザーである若い容貌の本庁の刑事である。二人の刑事が捜査を行う中で謎に迫り、心を通わせていく点が印象的である。

警察小説は、推理小説の一ジャンルとして最近目覚ましい脚光を浴びているが、本書もその嚆矢として評価されても良いと思う。

’14/2/8-’14/2/15