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もっと遠くへ 私の履歴書


本書を読む少し前、Sports Graphic Numberの1000号を買い求めた。
そこには、四十年以上の歴史を誇るNumber誌上を今まで彩ってきたスポーツ選手たちの数々のインタビューや名言が特別付録として収められていた。

その中の一つは著者に対してのインタビューの中でだった。
その中で著者は、755本まで本塁打を積み上げた後、もっとやれたはずなのにどこか落ち着いてしまった自分を深く責めていた。引退した年も30本のホームランを打っていたように、まだ余力を残しての引退だった。それを踏まえての言葉だろう。
求道者である著者のエピソードとして印象に残る。

著者が引退したのは1980年。私が小学校1年生の頃だ。
その時に担任だった原田先生から聞いた話で私の印象に残っていることが一つだけある。それは、王選手がスイングで奥歯を噛み締めるため、ボロボロになっていると言う話だ。なぜかその記憶は40年ほどたった今でもまだ残っている。
後、私は著者によるサインが書かれた色紙を持っていた。残念なことにその色紙は、阪神淡路大震災で被災した後、どさくさに紛れて紛失してしまった。実にもったいないことをしたと思う。

本書は、著者の自伝だ。父母や兄との思い出を振り返った子供時代のことから始まる。
浙江省から日本に来て五十番という中華料理の店を営んでいた父の仕事への取り組み。双子の姉だった広子さんのことや、東京大空襲で九死に一生を得たこと。
墨田区の地元のチームで野球に触れ、左投げ右打ちだった著者を偶然通りがかった荒川選手が左打ちを勧めたところ、打てるようになったこと。
甲子園で優勝投手となり、さらにその後プロの世界に身を投じたこと。プロに入って数年間不振に苦しんでいたが、荒川博コーチとともに一本足打法をモノにしたこと。
さらに巨人の監督に就任したものの、解任される憂き目に遭ったこと。そこで数年の浪人期間をへて、福岡ダイエーホークスの監督に招聘されたいきさつ。長きにわたってチームの構築に努力し、心ないヤジや中傷に傷つきながら、日本一の栄冠に輝いたこと。さらにその後WBC日本代表の初代監督として世界一を勝ち取るまで。

本書を読む前から、著者の文庫本の自伝なども読んでいた私。かねて福岡のYahoo!ドームの中にあると言う王貞治記念館を訪問したいと切に思っていた。福岡でお仕事に行くこともあるだろうと。
本書を読んでますますその思いを募らせていた。

それがかなったのが本書を読んでから11カ月後のこと。福岡に出張に行った最終日、PayPayドームと名前を変えた球場の隣にある王貞治ベースボールミュージアムに行くことができた。

ミュージアム内に展示された内容はまさに宝の山のようだ。しかも平日の夜だったこともあり、観客はとても少なかった。私はミュージアムを心ゆくまで堪能することができた。帰りの新幹線さえ気にしなければ、まだまだいられたと思う。
そしてその展示はまさに本書に書かれたそのまま。動画や実物を絡めることにより、著者の残した功績の素晴らしさが理解できるように作られていた。

ミュージアムでは一方足打法の連続写真やそのメリットも記され、等身大のパネルやホログラム動画とともに展示され、一本足打法が何かをイメージしやすい工夫が施されていた。
その脇に「王選手コーチ日誌」と表紙にタイトルが記されたノートが置かれていた。荒川博コーチによる当時のノートだ。中も少しだけ読むことができたが、とても事細かに書かれていた。著者もこのノートの存在をだいぶ後になるまで知らなかったらしい。
ミュージアムの素晴らしさはもちろんだが、一方で本書にも長所がある。例えば、一本足打法の完成まで荒川氏と歩んだ二人三脚の日々で著者自身が感じていた思いや、完成までの手ごたえ。その抑えられた筆致の中に溢れている感謝の気持ちがどれほど大きいか。それを感じられるのは本書の読者だけの特典だ。これはミュージアムとお互いを補完し合う意味でも本書の良さだと思う。

そこからの世界の本塁打王としての日々は、本書にも詳しく描かれている通りだ。

ただ、著者の野球人生は単に上り調子で終わらないところに味がある。藤田監督の後を継いで巨人の監督に就任して五年。その間、セ・リーグで一度優勝しただけで、日本シリーズでは一度も勝てなかった。そして正力オーナーから解任を告げられる。
数年後、福岡ダイエー・ホークスから監督就任の依頼があった著者は悩みに悩んだ結果、受諾した。当時のホークスはとても弱いチームだった。かつて黄金時代を築いた南海ホークスの栄華は既に過去。身売りされて福岡に来たもののチーム力は一向に上向かない。
そんなところに監督として招聘されたのが著者。ところがそこから数年、なかなか勝てない時が続いた。バスに卵を投げつけられるなど、ひどい仕打ちを受けた。

それを著者はじっと耐え忍び、長い時間をかけてホークスを常勝チームに育て上げていった。今でこそソフトバンク・ホークスと言えば常勝軍団として名をほしいままにしている。その土台を作ったのが著者であることは誰も否定しないはずだ。

ミュージアムでもホークスの監督時代のことは多く取り上げられていた。だが私は、著者の選手時代の輝きに当てられたためか、あまりその展示は詳しくみていない。
著者のためにこのような立派なミュージアムを本拠地に作ってくれる。それだけで著者が福岡で成し遂げた功績の大きさがわかろうと言うものだ。

本書はあとがきの後も、著者の年表が載っている。さらに全てのホームランの詳細なデータや輝かしい記録の数々など、付録だけでも60ページ強を占めている。
まさに、本書は著者を語る上で絶対に落とせない本だと思う。
いつかは著者も鬼籍に入るだろう。その時にはもう一度本書を読み直したいと思う。

‘2020/05/01-2020/05/01


地方への流れはまずプロ野球から


今年の日本シリーズはホークスが完全にジャイアンツを圧倒しましたね。
二年続けて四タテでジャイアンツを破ったホークスの強さに隙は見当たりません。

この圧倒的な結果を前にして、私たちは「球界の盟主」という古びた言葉を久々に思い出しました。仮にこの言葉に意味があったとして、それが今回の日本シリーズの結果によって東京から福岡へと移ったという論調すら見かけます。

東京と福岡。古くからのプロ野球ファンは、この二つの土地から象徴的な関係を思い出すはずです。それは読売ジャイアンツと西鉄ライオンズ。
かつて、ジャイアンツの監督を追われ、西鉄ライオンズの監督に就任した三原監督は「我いつの日か中原に覇を唱えん」と語ったと聞きます。数年後、西鉄ライオンズはジャイアンツを三年続けて日本シリーズで破り、三原監督の宿願は見事に成就しました。
三原監督のこの言葉からは、この頃の東京が中原=中心と位置づけられていたことが読み取れます。
なにせ、この頃の世相を表す言葉として有名なのが「巨人、大鵬、卵焼き」なる言葉だったくらいですから。これは、当時の子どもたちに愛された対象を並べたキャッチフレーズですが、地方の野球少年少女にとって巨人が羨望の的だったことは事実でしょう。

全国からの上京者を飲み込み続けた東京が文字通りの首都だった時代。
それが今や、コロナにあって四カ月連続で転出超過となっています。
(記事はこちら
これはまさに時代を表す出来事だと思います。
この出来事は、東京への一極集中に異常さを感じていた私にとっては歓迎したい現象です。ようやくあるべき姿に戻りつつある傾向として。

実はプロ野球は、地方への流れを先んじて実施していました。プロ野球、というよりパ・リーグが、です。
今や、プロ野球において、強いチームとは地方に比重が移りつつあります。かつてはセ・パー両リーグともに東名阪にプロ野球チームが集中していました。わずかに広島と福岡に本拠を置くチームがあった以外は。
その頃に比べ、今は福岡・広島・仙台・北海道にチームが移り、それらのチームが一時代を築くまでになりました。
その流れはパ・リーグに顕著です。
その流れが近年のパ・リーグの強さにつながっていると思います。

かつて「人気のセ、実力のパ」という言葉がありました。
私はかつての西宮球場の状況を知っています。戦力的には黄金期であったにもかかわらず、試合中でも閑散とした球場の異様さを。それは、近くの甲子園球場で行われた試合の観客が盛り上げる様子に比べると悲壮さすら漂うほどでした。
最も格差が開いた時期(1975年)では、セ・リーグの観客数がパ・リーグの2.96倍、つまりほぼ3倍に達していました。
それが今や、ここ数年は1.20倍前後に落ち着いています。人気の面でもパ・リーグがセ・リーグに伯仲しようとしているのです。
セ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf
パ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf
セ・パ両リーグの観客数の推移グラフ

その理由はいくつでも挙げられると思います。
その中でも、今の都市圏にはかつてのように地方の野球少年を惹きつける魅力がないことに尽きると思います。
テレビ放送の黎明期を担った方がジャイアンツのオーナーであった頃、地方で放映されるプロ野球の試合といえばジャイアンツのみでした。それが全国の野球少年の憧れをジャイアンツに向けさせていたことは否めません。それが入団希望者の多さにもつながっていました。
その時の影響は、今もなお、FAで巨人を希望する選手や、逆指名でジャイアンツを希望する選手もいる現象として見られるくらいです。

でも、少しずつジャイアンツの占める重みは減り続けています。
「球界の紳士たれ」なる窮屈な言葉がある球団に入るより、地方の球団でのびのびしたいという選手の思い。
今や、ジャイアンツの選手であることのブランド力は薄れ、それが今回の日本シリーズの結果でさらに拍車がかかるような気がします。

情報が流通する社会において、都市に集まる利点はどんどん減っています。
かろうじて、ビジネス面では首都であることの利点があるのかもしれません。でも、そのメリットはプロ野球の世界ではもはや効果を失いつつあります。
それにいち早く気づき、活路を見いだしたのがパ・リーグの球団。であるとすれば、いつまでも東名阪に止まっているセ・リーグの各球団はそろそろ地方に目を向けるべきだと思うのです。

特に、首都圏に五球団というのは多すぎます。埼玉、千葉、横浜はいいとしても、東京に二つというのはどうなんでしょう。例えば思い切って、キャンプ地の宮崎を本拠地にするぐらいの改革をしても良いのではないでしょうか。
今回の二年続けてのような体たらくでは、やがては観客数すら逆転しかねません。

もちろんこれはプロ野球だけの話ではなく、東京に集中して報道しがちなマスコミやビジネス界についても同じです。
もはや東京への一極集中はデメリットでしかない。それが今回の東京からの転出超過につながっているように思います。

これは、何も東京を軽んじているわけではないのです。
私は常々、日本の健全な発展とは、東京一極集中ではなく地方と東京が等しく発展してこそ成されるものだと思っています。それが逆に東京の魅力をよみがえらせる処方箋であると。

ジャイアンツも、いつまでも首都の威光を傘にきて「球界の盟主」なる手垢のついた言葉に頼っているうちは、地方の活きのいい球団の後塵を拝し続ける気がします。
今回の日本シリーズの結果がまさにそれを証明しているのではないでしょうか。


また一人昭和30年代の野球を知る方が・・・


8月14日、野球評論家の豊田泰光氏の訃報が飛び込んできました。享年81歳。

豊田氏は昭和30年代のプロ野球を知る上で欠かせない人物です。昭和30年代のプロ野球を語るには西鉄ライオンズは外せません。豊田氏は黄金期の西鉄ライオンズの主軸として必ず名のあがる選手でした。野武士軍団とも称された個性派集団にあって、一層の個性を放っていたのが豊田氏です。

豊田氏の訃報については、球界の様々な方から追悼コメントが寄せられました。中でも長嶋巨人名誉監督からのコメントは、長嶋氏の訃報と読めなくもない見出しがつけられ紛らわしいとの批判を浴びました。

見出し云々はともかくとして、長嶋氏のコメントは、豊田氏の輝かしい現役時を的確に表していると思えます。

「素晴らしい打者でした。巨人が3年連続で西鉄に破れた1956年から58年の日本シリーズでの大活躍は、強く印象に残っています。ご冥福をお祈りします」

見事なコメントですよね。ミスタープロ野球とも言われた長嶋氏にここまで言わしめた豊田氏の実力が伝わってきます。

豊田氏は現役を退いたのち、評論家として活躍しました。私が見た氏は、すでに球界のご意見番としてスポーツニュースの中の人でした。辛口な評論家として立ち位置を作った豊田氏は、その一方で、プロ野球の歴史の伝道師でもありました。過去を知らないプロ野球ファンに、今のプロ野球の隆盛が過去の積み重ねの上にあることを訴え続けました。

豊田氏の業績の一つは、ライオンズ・クラシックです。2008年から2014年まで、豊田氏の監修のもと催されました。在りし日の西鉄ライオンズの栄光を顕彰しつつ、西武ライオンズが確かに西鉄ライオンズの伝統を継ぐ後裔球団であることを宣言する感動的なイベントでした。それは黒い霧事件という残念な事件によって閉ざされた西鉄ライオンズの歴史を掘り起こす作業でもありました。黒い霧事件は西鉄ライオンズの輝かしい歴史に泥を塗ったばかりか、ライオンズの歴史を作ったであろう名投手を球界から葬り去りました。数年前、池永投手の復権はなり、さらにライオンズ・クラシックによって西鉄ライオンズの栄光も復権なったといえます。

私は当時、とてもこのイベントに行きたかったのですが、仕事があって行かれずじまいでした。今年は三連覇の最初の年から60年という節目の年。きっとやってくれるはずと期待していたのですが、豊田氏の訃報によってその願いは霧消しました。それだけにこの度の豊田氏の訃報が残念でなりません。

それにしても、60年もたってしまったのだと思わずにはいられません。赤ちゃんが赤いちゃんちゃんこを着るまでの年月です。長嶋氏のコメントがご自身の訃報と間違えられるほど長嶋氏も老いました。豊田氏もいつの間にか齢80を過ぎていた訳です。気がつけば西鉄ライオンズの黄金期を闘った戦士たちのかなりがあの世へ旅立ちました。

昭和30年代のプロ野球を輝かしいものにした生き証人の皆様が、次々と旅立っていきます。多分、これからも次々と訃報が飛び込んでくることでしょう。昭和30年代のプロ野球を彩った荒武者達が居なくなるに連れ、昭和30年代のプロ野球が我々から遠ざかっていきます。

今までに何度もブログなどで書いてきましたが、私は昭和30年代のプロ野球にとても強い憧れを抱いています。その憧れの対象は、豊田氏を筆頭に野武士軍団として巨人を叩きのめした西鉄ライオンズだけではありません。他のチームにも個性派が揃っていたのが昭和30年代のプロ野球だったように思うのです。

野球がまだ洗練から程遠い荒くれものの集まりによって戦われていた時代。巨人・大鵬・卵焼きと持て囃される前の時代。そして高給取りとして高嶺の花扱いされる前の時代。それは日本が、もはや戦後ではない、と宣言し、右肩上がりする一方の時期に重なります。いわば昭和30年代のプロ野球とは、日本が一番活気あり、伸び盛りだった頃を象徴する存在だったのではないでしょうか。

私がプロ野球をみはじめた時期は1980年代です。甲子園に住んでいた私は、甲子園球場の熱狂も寅キチ達の声援もよく知っています。バックスクリーン三連発に、長崎選手の満塁ホームランに狂喜した阪神ファンです。

でも、何か物足りなかったのですね。阪神タイガースよりも、その戦う相手に。阪神以外のチームがスマート過ぎた、というのは言い過ぎでしょうか。巨人にしてもそう。当時の巨人監督は藤田氏。球界の紳士たる巨人を代弁するかのような紳士キャラでした。阪神が日本シリーズで闘った相手監督は、管理野球でしられる広岡氏でした。皮肉にも野武士軍団の後裔チームは当時黒い霧イメージを払拭するため管理野球に活路を見いだしたわけです。

当時の私にとって、阪神タイガースの敵とは魅力的なキャラでなければならない。そう思っていたのかも知れません。でも敵キャラとしては何か飽きたらない。そう思ったからこそ当時の私は大人向けの高校野球史やプロ野球史を読み耽る小学生となった。ひょっとしたらですが。でも、今思っても難しい本をよく読んでいたと思います。たぶん当時の私にはそこに描かれる個性的な選手達が魅力的に映ったのでしょう。かつてプロ野球の試合とはこれほどまでに魅力的だったのかと。

ひょっとすると私は当時のプロ野球選手たちに武士の憧れを抱いていたのかも知れません。ちょうどいまの子供たちが戦国武将に夢中になるように。

下剋上上等。高卒出の新人投手が神様仏様と持ち上げられる実力主義。分業制が幅をきかせる前の、グラゼニが正しいとされる世界。

私にとって、昭和30年代のプロ野球とはそのような魅力に溢れた世界だったのです。スポーツグラフィックナンバーがまだ二桁の頃の西鉄ライオンズ特集号も持っていたし、ベースボールマガジンが刊行した選手たちの自伝も読み漁りました。ナンバーが出した西鉄ライオンズ銘々伝というビデオももっています。

多分当時の野球は、いまの野球に比べてレベルが低かったことでしょう。それは日米野球の結果を見ても明らかです。しかし、巧さと魅力は似て非なるもの。たしかに今の日本プロ野球は格段にレベルアップしました。その象徴がイチロー選手です。イチロー選手の偉業は、メジャーリーグでの3000本安打達成で不滅となりました。ただただイチロー選手の才能と努力の賜物です。そして、イチロー選手の姿にかつてのプロ野球をしるオールドファンは、野球が輝いていた時代の時めきを感じるのではないでしょうか。イチロー選手を見出だしたのは当時の仰木監督。黄金期の西鉄ライオンズのメンバーです。昭和30年代の個性を重んずるプロ野球の遺伝子は、イチロー選手の中に確かに息づいているはずです。魅力の上にある巧さとして。

そしてイチローの偉業の前に、プロ野球を育て上げた選手たちの戦いの積み重ねがあったことを忘れてはならないと思うのです。それは単なる懐古趣味ではありません。まだプロ野球選手の社会的な地位が低い頃、ただ野球が好きな選手たちによって行われていただけ。でに魅力だけはたっぷり詰まっていたと思うのです。

でも野球の粗野な魅力が失われ、人気スポーツになった時期に起こったのが黒い霧事件です。奇しくも昨年から今年にかけ、あろうことか球界の紳士の巨人軍の内部で発生した賭博事件は、何かの暗示のように思えてなりません。

人によっては60年前の三連覇を、一極集中が進む東京への地方の意地とみる人もいるでしょう。または、かつて西鉄ライオンズを率いた三原監督が自分を追いやった巨人を見返したのと同じ姿をソフトバンクの王会長にみる人もいるかもしれません。しかし私はかつて福岡で猛威を振るった賭博が東京で起こったことに、東京と地方の立場の逆転を感じます。

もし、東京が再び野球でも都市としても日本の盟主でありたいのであれば、昭和30年代のプロ野球から学ぶべきものは多いように思います。水戸出身の豊田氏は辛口にそれをどこから見守っていることでしょう。


死闘 昭和三十七年 阪神タイガース


私が自由にタイムマシンを扱えるようになったら、まず昭和三十年台の野球を見に行きたい。
今までにも同じような事を何度か書いたが、相も変わらずそう思っている。

野武士軍団と謳われた西鉄ライオンズ。親分の下、百万ドルの内野陣と称された南海ホークス。名将西本監督が率いたミサイル打線の大毎。迫力満点の役者が揃った東映フライヤーズ。在阪の二球団も弱かったとはいえ、阪急ブレーブスは後年の黄金期へと雌伏の時期を過ごし、近鉄もパールズからバッファローズへと名を変え模索する時期。

昭和三十年台のプロ野球とは実に個性的だ。

あれ? と思った方はその通り。ここに挙げたのは全てパ・リーグのチーム。

では、セ・リーグは? 昭和三十年台のセ・リーグは、語るに値しないのだろうか。この時期のセ・リーグに見るべきものは何もないとでも? そんなはずはない。でも、この時期の日本シリーズの覇者はパ・リーグのチームが名を連ねる。以下に掲げるのは昭和30年から39年までの日本シリーズのカードだ。

年度    勝者    勝 分 負  敗者
------------------------
昭和30年  巨人(セ)  4   3  南海(パ)
昭和31年  西鉄(パ)  4   2  巨人(セ)
昭和32年  西鉄(パ)  4 1 0  巨人(セ)
昭和33年  西鉄(パ)  4   3  巨人(セ)
昭和34年  南海(パ)  4   0  巨人(セ)
昭和35年  大洋(セ)  4   0  大毎(パ)
昭和36年  巨人(セ)  4   2  南海(パ)
昭和37年  東映(パ)  4 1 2  阪神(セ)
昭和38年  巨人(セ)  4   3  西鉄(パ)
昭和39年  南海(パ)  4   3  阪神(セ)

10年間で見ると、パ・リーグのチームが6度覇を唱えている。中でも昭和31年〜34年にかけては三原西鉄に日本シリーズ3連覇を許し、鶴岡南海には杉浦投手の快投に4連敗を喫している。後世の我々から見ると、この時期のプロ野球の重心は、明らかにパ・リーグにあったと言える。それこそ一昔前に言われたフレーズ「人気のセ、実力のパ」がピッタリはまる年代。いや、むしろ残された逸話の量からすると、人気すらもパ、だったかもしれない。

では、後世の我々がこの時代を表すフレーズとして知る「巨人・大鵬・卵焼き」はどうなのだ、と言われるかもしれない。これは当時、大衆に人気のあった三大娯楽をさす言葉として、よく知られている。

だが、ここで書かれた巨人とは、本書の舞台である昭和37年の巨人には当てはまらない。当てはまるとすれば、それはおそらくONを擁して圧倒的な力でV9を達成した時代の巨人を指しているのではないか。だが、V9前夜のセ・リーグは、まだ巨人以外のチームにも勝機が見込める群雄割拠の時期だった。この時期、セ・リーグを制したチームは巨人だけではない。三原魔術が冴え渡った大洋ホエールズの優勝は昭和35年。結果として大洋ホエールズが頂点に立った訳だが、一年を通して全チームに優勝の可能性があったと言われており、当時のセ・リーグの戦力均衡がそのままペナントレースに当てはまっていたと言える。

この時期にセ・リーグを制したチームはもう1チームある。それが、本書の主役である阪神タイガースだ。昭和37年と39年の2度セ・リーグを制した事からも、当時のタイガースはセ・リーグでも強豪チームだったと言える。

本書は1度目の優勝を果たした昭和37年のペナントレースを阪神タイガースの視点で克明に追う。この年のタイガースはプロ野球史に名を残す二枚看板を抜きにして語れない。小山正明氏と故村山実氏。二人の絶対的なエースがフル稼働した年として特筆される。

当時のタイガースの先発投手は、この二人を軸とし、藤本監督によって組み上げられていたことはよく知られている。今も言われる先発ローテーションとは、この年のタイガースが発祥という説もあるほどだ。

本書はキャンプからはじまり、ペナントレースの推移を日々書き進める。いかにして、藤本監督が二枚看板を軸にしたローテーションを確立するに至ったのか。二枚看板のような絶対的な力はないとは言え、それ以外の投手も決して見劣りしない戦績を残していた。そういった豊富な投手陣をいかにしてやり繰りし、勝ち切るローテーションを作り上げるか。そういった藤本監督の用兵の妙だけでも本書の内容は興味深い。

また、この時期のタイガースは投手を支える野手陣も語る題材に事欠かない。試合前の守備練習だけでもカネを払う価値があったとされるこの時期のタイガースの内野陣。一塁藤本、二塁鎌田、遊撃吉田、三塁三宅。遊撃吉田選手は今牛若との異名をとるほどの守備の名手として今に伝わる。今はムッシュとの異名のほうが有名だが。その吉田選手を中心に配した内野守備網はまさに鉄壁の内野陣と呼ばれた。打撃こそ迫力に欠けていたにせよ、それを補って余りある守備力が昭和37年のタイガースの特徴だった。藤本監督の用兵も自然と投手・守備偏重となるというものだ。

と、ここまでは野球史を読めばなんとなく読み解ける。

本書は昭和37年のセ・リーグペナントレースをより詳細に分解する。そして、読者は概要の野球史では知りえない野球の奥深さを知ることになる。本書では名手吉田のエラーで落とした試合や二枚看板がK.O.された試合も紹介されている。鉄壁の内野陣、二枚看板にも完璧ではなかったということだろう。後世の我々はキャッチフレーズを信じ込み、神格化してしまいがちだ。だが、今牛若だってエラーもするし、針の穴を通すコントロールもたまには破綻する。本書のような日々の試合の描写から見えてくる野球史は確かにある。それも本書の良さといえよう。日々の試合経過を細かく追った著者の労は報われている。

また、他チームの状況が具に書かれていることも本書の良い点だ。先にこの時期の巨人軍が決して常勝チームではなかったと書いた。原因の一つはON砲がまだ備わっていなかった事もある。しかし、昭和37年とは王選手のO砲が覚醒した年でもあるのだ。王選手といえば一本足打法。それが初めて実戦で披露されたのが昭和37年である。以降、打撃に開眼した王選手の打棒の威力は言うまでもない。ON砲が揃った巨人軍の打棒にもかかわらず昭和39年にも優勝したタイガースはもっと認められて然るべき。が、昭和40年代の大半、セ・リーグの他のチームは巨人の前に屈し続けることになる。

その前兆が本書では解き明かされている。ON砲の完成もその一つ。また、阪神タイガースの鉄壁の守備網にほころびが見え始めるのも昭和37年だ。鉄壁の内野陣の一角を成し、当時のプロ野球記録だった連続イニング出場記録を更新し続けていた三宅選手の目に練習中のボールがぶつかったのだ。それによって、三宅選手が内野陣から姿を消すことになるのも昭和37年。また、不可抗力とはいえボールをぶつけてしまった小山投手も、翌昭和38年暮れに世紀のトレードと言われた大毎山内選手と入れ替わって阪神を去る事になる。つまり三宅選手の離脱は、すなわち二枚看板の瓦解に繋がることになったのだ。本書でも小山投手と村山投手の間に漂う微妙な空気を何度も取り上げている。両雄並び立たずとでもいうかのように。

なお、本書ではペナントレースの後始末とも言える日本シリーズにはそれほど紙数を割かない。が、その後の阪神タイガースを予感させるエピソードが紹介されている。それは相手の東映フライヤーズの水原監督に対する私情だ。先に日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人を三年連続して破った事は書いた。球界屈指の好敵手であった三原監督に三年連続して負けた水原監督は、さらに翌年の日本シリーズで鶴岡南海に4タテを食らわされることになる。さらには昭和35年のペナントレースでセ・リーグに戻ってきた三原監督の大洋によってセ・リーグの覇権を奪われることになる。それによって巨人監督を追われる形となった水原監督が東映フライヤーズの監督となり、ようやくパ・リーグを制したのがこの年だ。そして、水原監督が巨人選手の頃の監督だったのが阪神藤本監督。水原監督を男にしてやりたいという藤本監督の温情があったのではないか、と著者はインタビューから推測する。

そういった人間関係でのゴタゴタはその後の阪神タイガースを語るには欠かせない。その事を濃厚に予感させつつ、著者は筆を置く。昭和37年の紹介にとどまらず、その後のセ・リーグの趨勢も予感させながら。

昭和40年からのプロ野球は、それこそ巨人・大鵬・卵焼きの通り、巨人の独り勝ちとなってしまう。だが、そこに理由が無かったわけではない。それなりの出来事があり、その結果がV9なのだ。その前兆こそが、本書で描かれた昭和37年のペナントレースにあること。これを著者は描いている。本書は昭和37年のペナントレースについての書であるが、実は巨人V9の原因を見事なまでに解き明かした書でもあるのだ。

本書は日本プロ野球史のエポックをより深く掘り下げた書としてより知られるべきであり、実りある記録書として残されるべきと思う。

‘2015/7/27-2015/7/30