Articles tagged with: 言葉

相手に「伝わる」話し方


私が年末と年初に行うことがある。それは一年の反省と抱負だ。数年前から実施を心がけている。2017年の年末は一年を振り返り、2018年の年初には抱負を立てた。

2017年、私が反省すべき最も大きな点は、人前で話す機会がほとんどなかったことだ。2016年はあちこちで話す機会があったのに、2017年はしゃべる機会が作れなかった。これは私にとって大いに反省すべき点だ。なので2018年の抱負には、人前で話す回数を2016年並みに増やす、という目標を加えた。本書はその抱負を踏まえ、話すスキルの参考とするために読んだ。

私は自分の話すスキルに劣等感を持っている。その劣等感の大部分は、活舌の悪さとしゃべっている時にたまに唾が飛ぶことからなっている。その原因も分かっている。矯正歯科医の妻から「オペ症例」と言われる私の受け口だ。それが私にとっての劣等感となり、人前で積極的にしゃべろうとする気持ちにブレーキをかけていた。

しかし、それではだめだ。独立した以上、露出を増やさねばならない。そして誰もが自分の意見をテキストで簡単に世に問える今、文章だけに頼るのでは露出効果が見込めない。本音をいうと、私はあまり自らを露出するのは好きではない。だが露出は独立と自由を得るための代償だと肚を決めている。書きつつしゃべり、人前に己をさらけ出す。そのスキルを磨かないことには私の今後はない。

だが、私には滑舌の悪さという欠点がある。その欠点をカバーできるだけのしゃべる技術。それは何だろう。そう考えた時、思い浮かんだのはアナウンサーの姿だ。彼らはしゃべることで糧を得ている。芸能人もそう。彼らもしゃべることで飯を食っている。だが、テレビで活躍する芸能人のような頭の回転の速さは私にはない。なので、アナウンサーのように話す技術で私の欠点を挽回したい。そう思ったのが本書を手に取った理由だ。

著者はアナウンサー出身でありながら、バラエティ番組でも立ち位置を確立した方だ。バラエティの手法も取り入れ、視聴者の興味を惹きつつ、報道の芯を保った番組作りをしている。その姿にはかねがね良い印象を持っていた。選挙特番のみならず、核実験や仮想通貨など、テレビが今、本当に放送すべき番組を企画し、自ら視聴者の前に立つ。そのような著者のことを今後も応援したいと思っている。

著者は1973年にNHKに入局した。そして、さまざまの部署や職務で仕事に取り組んできた。その経験は話し手として、報道者としての著者を鍛えてきたことだろう。著者は自らの職歴をさかのぼり、仕事の中で著者が学んできた話す技術を惜しみなく披露する。本書は私にとって参考となる気づきがたくさんあった。

参考になったのは、話し方の技術だけではない。職歴の語り方も同じく参考となった。私は2017年の夏から翌春にかけ、ウェブ上の連載で自らの職歴について語った。本音採用で連載しているアクアビット航海記「ある起業物語」がそれだ。本書を読み始めた時、連載はちょうど私が東京に出て仕事を始めたあたりに差し掛かっていた。連載はすでに進んでいたが、その後も私が職に就き、社会で経験を積んでいく様子を書いてゆかねばならない。転職を繰り返していく中で、それぞれの職から何を学んだのか。それを読者にどうやってうまく伝えるか。そのやり方は本書が参考となった。もちろん、それまでの連載でも職歴を伝える事は意識していた。だが、本書を読んだことで、まだ私のやり方に改善の余地はある、と思わされた。

著者がそれぞれの職場で学んだことは私にも参考となった。たとえば著者が研修を終えて最初に配属されたのは松江放送局。そこで著者は警察を担当する記者に任ぜられる。先輩から簡単な引継ぎを受けた後は、一人で取材して回らねばならない。先輩に「後任です」と紹介されたときは型どおりのあいさつを返されるが、先輩がいなくなった後、新米の記者に投げられる視線は冷たい。値踏みされ、信頼できる人間と見定められるまでは話しかけてもらえない。著者はその壁を乗り越えるのに苦労する。著者はその試練を乗り越えるにあたり、セールスマンのような動きをしなければ、と開眼する。商品を売り込む前に自分を売り込め、というわけだ。それは私が普段から励行する、FacebookなどのSNSに投稿する行いに通じている。Facebookへの投稿は、私という人間を知ってもらうためだと思っている。

とはいえ、私のワークスタイルは、著者が例えたようなセールスマンの営業手法に比べると若干の違いがある。私の場合、どちらかというと案件ありきで話をすることが多い。何かを無から売り込むのではなく、まずお客様にニーズがあり、それを受けて私が提案することが多い。だから本書で描かれるような、何度も繰り返し自分を売り込むことで仕事を円滑に回せるようになった、というケースは当てはまらないことも多い。案件ありきで私が呼ばれ、その後、一度か二度の訪問をへて受注が決まることがほとんどだ。ただ、私は一度案件を受注すると、その後も継続して案件をいただくことが多い。それは、仕事そのものもそうだが、私という人間を見てもらえたからではないかと思っている。そのためにはお客様との雑談が重要になる。そのためのネタを事前にSNSに発信しておき、自分がこういう事に関心があるとさりげなく発信する。それが雑談につながり、雑談が信頼を生み、それが仕事につながる。そうした意味で、雑談を大切にするという著者の学び取った極意にはとても共感できるのだ。

あと、共通体験の重要さに著者は触れている。これはわかる。お互いの共通体験を増やすことで、話のタネが増える。これも私がFacebookにいろいろと書き込む理由の一つだ。いわば私から共通体験のネタを提供する。それが商談の場で会話を生み、共通の場を作る。もちろん、それがどこまで効果を上げているのかは分からない。だが、何かしらの効果はあると信じている。

あと、話し上手は聞き上手という言葉も出てくる。これもよくわかる。本書を読む4年前に私が読んだ『最高の仕事と人生を引き出す 「聞き方」の極意』(レビュ-)でも学んだことだ。

著者はその後、広島放送局でも経験を積む。警視庁の担当として夜回りで事件のネタを探す過酷な日々だったようだ。その次に著者が苦労したこと。それは記者レポートを担当したことだ。テレビのニュース画面に登場し、現場の状況をレポートする。この経験は著者を表現者として次のステージに進めた。著者が記者レポートの仕事を通して学んだことの大切さ。まず始めに朗読なのかリポートなのかを意識すること。つまり、書かれた文章を読むだけなら誰にでもできるが、それは単なる朗読に過ぎない。そこでリポートを極めるため、著者はいくつかのメモだけを手元におき、即興で文章を組み立ててしゃべる訓練をしたという。もう一つ著者が説くことがある。それは書き言葉と違い、しゃべり言葉は後から読み返すことができないという真理だ。つまり、話す順序をきちんと考えなければ聞き手には話す内容が伝わらないという気づき。これはとても重要なことだ。この章で著者が訴えることは、私も普段あまり意識できていなかったことだ。ここで学んだことは、私は多分、音読の訓練から行うべき、という反省だ。私には黙読の習慣が身につきすぎてしまっている。黙読ではなく朗読。この習慣が身につけば、書き言葉の文体にも良い影響を与えるに違いない。

ここでは著者の失敗したエピソードが一つ披露される。それは、活舌の悪い著者が、タクシーの運転手に警視庁までと言ったつもりが錦糸町に連れていかれた、というもの。活舌に劣等感を持つ私には勇気づけられるエピソードだ。

あと、つかみの言葉をしっかり考えることの重要性も述べられている。そのために著者は、普段から目の前に広がる光景を即時に描写し、頭の中でしゃべる練習に励んだそうだ。その中で著者が掴んだ極意の中には、「手あかのついた言葉は何も語っていないのと同じ」や、「専門用語を安易に使うな」というのもある。両方ともに私にとっては耳の痛い警句だ。

続いて著者はテレビスタジオでキャスターとして働くようになった経験を語る。ここで得た経験はどちらかといえばテレビ業界で使われるテクニックに偏っている。しかし、フリップ(NHKではパターンと呼ぶらしい)の効用について触れるなど、著者の経験をテレビ寄りだからといって見逃してはならない。例えば私たちがプレゼンテーションを行う際、画面にアニメーションを付けたり、ホワイトボードを併用したりすることがある。まさにその手段にも通じるのがテレビの手法だ。テレビに代表されるようなビジュアルと音声の併用は、プレゼンテーションの上でも役に立つはずだ。動画の利用がは今後のテーマとして重要なので、テレビのみに通じる手法だと捨てておくのはもったいない。

続いて著者が触れるのは、週刊こどもニュースを担当した時の苦労だ。子どもに対しては、大人に対する手法は通用しない。まず、わかってもらうための言葉を吟味しなければならない。著者が本書で一番語りたいと力を入れたのはこの点だ。著者を単なる記者出身のキャスターから、一皮むけさせたのは、週刊こどもニュースでの体験が大きいと著者は言う。子どもに向けた分かりやすい表現を心掛けたことで、著者は表現者として他の人とは違う存在感を身に着けたのだろう。

分かりやすく。難しい内容だからこそ、余計に分かりやすく。このことは私が以前から改めなければ、と自分を戒めつつ、いまだにうまくできていない課題だ。簡単な言葉を使いながら、内容に深みをだす。これこそ私が以前から試行錯誤している部分なのだから。

本書は以下のような構成からなっている。
第1章 はじめはカメラの前で気が遠くなった
第2章 サツ回りで途方に暮れた
第3章 現場に出て考えた
第4章 テレビスタジオでも考えた
第5章 「わかりやすい説明」を考えた
第6章 「自分の言葉」を探した
第7章 「言葉にする」ことから始めよう

1章から5章までは著者の職歴と経験が語られ、6章と7章はまとめに相当する。どこを読んでも本書からは得るものが多い。私も本書を読んだことで、少しずつしゃべる技術に向上がみられた。だが、まだ著者のレベルには程遠い。引き続き精進したいと思う。

‘2018/01/10-2018/01/17


思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術


言葉を操る。今、誰もがこなせるスキルだ。そしてそれ故にもっとも軽んじられたスキルでもある。

多くのブログやツイートやウォールが溢れるネットの中。そこでは、編集者や読者がいようがいまいがお構いなしに、毎日大量の文章がアップされている。ページに表れては底へと沈んでいく文字の群れ。私の書く文章もその中に紛れ、底に向かって忘れられていく。そんな言葉で液晶画面は飽和している。だが、液晶画面の外でも脚光を浴びる文字はほんのわずかだ。電子世界ではいくら威勢がよくても、リアルな社会では本当にちっぽけな存在でしかない。それがあまたのブログやツイートの実情だろう。

リアルな社会では、いまなおテレビ番組が健在だ。ネット住民からみると完全なオワコンでしかないテレビ番組。だが、リアルな社会ではまだまだ影響力を持っている。テレビのCMが世相に浸透する力は依然として侮れない。一方通行である分、大量に流され、拡散力を持つ。一方、ネットはそれぞれの閲覧者にカスタマイズされた情報が届けられることが基本だ。なので、同時に拡散する力は弱い。ネットの中を飛び交う言葉は、リアルな社会での影響力はまだ鈍いといわざるをえない。ネットに流れる文章でリアルな社会にかろうじて顔を見せる文章といえば、ツイートぐらいだろうか。それすらも、フォロワーが何百万人、何千万人いるような選ばれたインフルエンサーのツイートに限られる。例えばトランプ大統領や著名人のアカウントのような。一般人のツイートで取り上げられるとすれば、テレビ番組の中ぐらいか。 リアルタイムでインタラクティブな視聴者の声として、テレビ局が最近意識して取り入れるような。

それ以外の言葉は、残念ながら、CMにしろ番組にしろ、ネット社会で飛び交う言葉がリアルに登場することはあまりない。ネット上で産まれた言葉がリアルを侵食することはない。そこまでは至っていないのが現状だ。

それがおそらく、一人ひとりにカスタマイズされるネットのコンテンツと、一斉配信を前提とするマスメディアの差なのだろう。だが、あえていうならば、読む人見る人の感性に訴えるだけの力がネット上の文章にはないとから、ともいえる。私も含めた発信者が、ネット上にアップする文章に、世論を動かすだけの力がないのだ。

では、どういう言葉がリアルな言葉でもてはやされるのか。それは、コピーライターによるコピー文句だ。

作家による小説やエッセイ、または新聞記事。確かにこれらはリアルな社会に似つかわしい文章だ。だが、それはリアルな社会の共通項ではない。それらは著者から読者へとストレートに届けられるものであり、社会に浸透することはあまりない。若干閉じた文章とすらいえる。これはネット上のニュース文章にもいえることだ。先にも書いたが拡散力の差、といえる。それに比べて、コピーライターの生み出す文章は、拡散力がある。それは文章を見た瞬間に、人の感性にするりと入り込む。そして記憶の奥底にがっちりと食い込む。これはが、ネットの世界に飛び交う文章にはない、職人的な経験値の力なのだろう。

本書は、リアルな世界で通用する文章の紡ぎ方のノウハウが記されている。著者は文章の専門家ではない。修辞学の教授でも文学部の講師でも、ましてや作家ですらない。著者は電通でコピーライターとして活躍している方だ。だが、上にも書いたとおり、リアルな社会で人々の目や耳に飛び込む文章とは、コピーライターから発信された言葉が多いのではないか。

本書で著者は、すぐれたコピーを生み出す秘訣を、端的にいう。それは、考えることであるという。コピーライターが生み出す言葉とは考えに考えぬいた結果でしかないのだ。決して才能や感性でパッと生まれでたものではない。本書で著者が語る秘訣とは、当たり前といえば当たり前なのだ。だが、すべての仕事に共通することだが、実のところ近道はない。どんな仕事であれ、練習や努力の積み重ねでしかない。本書の結論も同じ。優れたCMコピーの裏側には膨大な試作があり、廃案があり、考え抜いた努力の跡がある。その訓練が人に訴えるコピー文句を生み出すのだ。

商品・企業
ターゲット
競合
時代・社会
この4つのキーワードは、著者がコピーを考える上で四つの扉として挙げる切り口だ。

つまり、これらは徹底した消費者目線で、売り手の訴えたいココロを文章に乗せるための観点だ。

本書はとても腰が低い。本書のあちこちに著者が腰を低く、自らを卑下するようなスミマセンが登場する。これは、本書を読むとすぐに気づく特徴だ。腰が低いとは、読み手であるわれわれとの壁をなくすこと。つまり大上段に構えて落としこむように語っても本書の内容は伝わらないということなのだろう。そこで、上にあげた四つの扉の切り口から徹底的に消費者の視線と売り手の視線に降りて言葉を考える。ひたすらに考える。その愚直な作業の繰り返しから生まれるのがコピー文句なのだろう。

では、われわれ読者も、ありがたく頂くのではなく、その姿勢を学ばねばならない。学んで、同じように低い姿勢で読み手に文書を届けなければならない。

本書は最後に、二つの文章で、文章を著す者の姿勢が載っている。

感情的な言葉より、正確な言葉
人に訴える言葉より、自分を律する言葉

これはブログを書く上でも、仕事上でやり取りをする上でも、とても重要な言葉だと思う。ことに最近、そういう感情的な文章に触れる機会があった。それを反面教師として、自分でも自分でも律していきたいと思う。私は、いろいろなブログを書いている。その中で、読読ブログと映画・観劇ブログは、あえて文体を変えている。デスマス調ではなく、デアル調の文体。それがどういう効果を与えているのか、今一度深く考えてみなければならないのだろう。

‘2016/06/30-2016/06/30