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戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(https://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21


晩鐘


私が2015年に読んだ95冊の本。その中で著者の『血脈』を外す訳にはいかない。佐藤一族の放蕩の血を鎮めるために書かれたような『血脈』。佐藤一族の生き残りである著者にとって畢生の大作と呼んでいいのではないだろうか。佐藤一族を描いた大河小説として圧巻の読み応えだった。私が『血脈』を読もうと思ったのは、私の実家の甲子園が主要な舞台の一つになっているからだ。懐かしのわがふるさとを知りたいと思って読んだ『血脈』。ところが、読み始めると甲子園のことよりも佐藤一族に流れる闇の濃さに完全に魅入られてしまった。膨大なページ数の『血脈』を一気に読んでしまうくらいに。

『血脈』には膨大な人物が登場する。とくに主役と言えるのは、佐藤紅録、シナの夫妻。それにサトウハチロー、そして著者。それ以外にも、佐藤一族の人々や佐藤一族と血は繋がっていない登場人物が多数登場する。それにしても面白いのは、佐藤一族の血が流れていないにもかかわらず、佐藤一族と縁ができるとその放蕩の血に感化されてしまったかのように軌道から外れていく人物の多いこと。類は友を呼ぶとでもいえばよいか。そんな個性的な人物が多数登場するのが『血脈』の魅力の一つだ。

だが、かつて著者の夫であった二人は、他の人物たちに比べると『血脈』の中では控えめに描かれている。とくに一人目の夫については最低限にしか触れていない。そもそも実名の多い『血脈』の中では珍しく仮名になっている。私の推測だが、書いてくれるなという遺族の拒否があったのかもしれない。

不思議なのが、二人目の夫もあっさりと書かれていることだ。なぜ不思議かというと、二人目の夫についてはすでに著者が何度も小説やエッセイに登場させているからだ。なにせ、著者の直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』からして、二番目の夫の会社倒産と、その負債を背負わされた著者の奮闘がテーマになっているというのだから。二人目の夫の事を何度も書いておいて、今さら『血脈』で遠慮することはないはずなのに。ちなみに私は『戦いすんで日が暮れて』は未読だ。

本書は、あらためて二番目の夫「田畑麦彦」と著者「佐藤愛子」をモデルとし、『血脈』で書き切れなかった鬱憤を晴らすかのように二人の関係が書かれている。

本書の二人はモデルがはっきりしているのに仮名だ。著者の名は本書では「藤田杉」、田畑氏の名は「畑中辰彦」となっている。『血脈』ではあれほどまで実名で身内の恥をさらしまくったのに、どうして本書では仮名なのだろう。私の推測では、本書で実名にしなかったのは、田畑氏でなくその周辺に理由がありそうだ。周辺とは、二人が出会った文芸サークル「文藝首都」(本書内では文芸キャピタル)の関係者に迷惑をかけないためではないか。

というのも「文藝首都」には名だたる作家が参加していたからだ。どくとるマンボウでお馴染みの北杜夫氏や、精神科医の傍ら幾多の著作を発表したなだいなだ氏、あと、官能小説家として稼ぎまくった川上宗薫氏など。

本書には同人仲間が多数登場する。文学への思い叶わず市民の生活に戻るもの。あくまでも筆で身をたてようとあがくもの。本書に出てくる人物の中で川上宗薫氏をモデルとした人物は見当がついたが、あとはさっぱりわからなかった。さらに、本書の各章はどれも「梅津玄へ藤田杉の手紙」となっているが、この梅津玄という人物も誰をモデルとした人物なのかよくわからない。文藝首都の主宰だった保高徳蔵氏のことなのだろうか。こちらのリンクによると、全ての章を手紙形式にしたのは、小説を必要以上に重くしないためらしいのだが。

文芸キャピタルの名だたる同人の中で資産家の息子として何不自由ない生活を送っていたのが畑中辰彦だ。彼は超然とした態度と生活に困らぬゆとりでサークル内の地位を築いていた。

文学仲間とつるむことに熱中する杉に苦言を呈した母にちゃぶ台を返しで啖呵を切り出て行くエピソード。そして、伊那の某所にある旅館にこもるエピソード。そこにふらりと訪れたのが畑中辰彦で、それをきっかけに結婚という流れ。それらは『血脈』にも書かれていた通りだ。『血脈』ではこの辺りのなれそめはあまり深く書かれていなかった。が、本書ではその内幕をより深く語っていく。

そして、畑中辰彦が徐々に壊れた本性を表わしてゆく過程は、『血脈』には書かれていない本書の真骨頂だ。生活力の無い田畑氏、いや畑中のもとから金が湯水のように流れ出てゆく様が本書には生々しい。本書の杉もモデルとなった著者と同じく文豪を父としている。だから、金にはどちらかといえば鷹揚だ。しかし鷹揚な杉も追いつけないほどの、畑中の人の良さが畑中本人だけでなく杉の人生をも蝕んでゆく様子。そこには当事者にしか書きえない迫真さがある。先に書いたとおり、私は著者の『戦い済んで日が暮れて』を読んでいない。そちらにはこういった田畑氏の行いがどこまで書かれていたのだろう。是非とも読んでみたいと思う。

そもそも、なぜ著者は何度も田畑氏を題材にするのか。474ページのあとがきで著者は語っている。
「今までに私は何度も何度もかつての夫であった男(この小説では畑中辰彦)を小説に書いてきました。「また同じことを・・・」と苦々しく思われるであろうことを承知の上でです。しかしそれは私にとっての必然で、くり返し同じようなことを書きながら、私の中にはその都度、違う根っ子がありました。ある時は容認(愛)であり歎きであり、ある時は愚痴、ある時は憤怒、そしてある時は面白がるという、変化がありました。それは私にしかわからない推移です。今思うと彼を語ることは、そのときどきの私の吐物のようなものだったと思います。」

実際その通りなのだろうな、と思う。それが著者の実感であり、だからこそ書かねばならないのだろう。続けて475ページで著者はこうも語っている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」

ここまで不可解な存在であり著者を振り回し続けた田畑氏に著者がこだわる理由も455ページに書かれている。
「心配するな、大丈夫。
 いつもそういった。どん底をどん底と思わなかった。彼の思うことは常に「可能性の追求」だったから。彼は「30パーセントの成功」というその可能性に賭けた。」
答えはこの前向きなエネルギーにあるのだろう。そこに著者は佐藤家の血につながるものを感じたのではないだろうか。

著者は『血脈』で描いたとおり、自らに流れる佐藤家の荒ぶる血を持て余しつつ、なぜ佐藤家に群がる人々は血脈を共有していないのに不可解きわまりないのか、という疑問を持ち続けていたのだろう。思うに著者にとっては小説を書く作業とは、その疑問を解き明かすために不可欠な営みだったのではないだろうか。そんな著者にとって、血のつながらない不可解の人間の代表がすなわち田畑麦彦氏であったに違いない。『血脈』を書き上げてもなお、容易に解き明かすことを許さない田畑氏の人生の不可解。本書でついに著者がたどり着いた結論が「わからなくてもいい」「不可能だ」というのも面白い。 人はしょせん人からの理解を拒む生き物なのだろうか。頭ではわかったつもりでも、実は人が人を理解することなど、どだい無理なのだ。

著者は90年を超える人生を生き、作家として佐藤家の血を飼いならすことに血道を上げてきた。それでもなお、人を理解しきれなかった。だからこそ、90を超えても作家としてやっていけるのかもしれない。もっとはやく人生を達観していれば、ここまで長きに渡って第一線で活躍できたのかどうか。2017年に著者が発表したベストセラー『九十歳。何がめでたい』も、著者のこの達観が書かせたのではないかと思う。これらのエッセイも、『血脈』『戦いすんで日が暮れて』そして本作を読んで初めて背景を含めて味わえるのではないかと思っている。

‘2016/12/24-2016/12/25


佐藤家の人びと―「血脈」と私


本書は本来なら血脈各巻の解説として巻末に附されるべきものだ。

しかし、上中下巻あわせて原稿用紙3400枚ともいう大作「血脈」。その解説には、語り尽くすべき内容が多すぎる。多彩な登場人物、無数のエピソード、何箇所もの舞台。一族の大河を描いた3400枚の中にはあまりにも多くの情報が込められている。

特に、血脈の登場人物には著者自身も含め、個性的な人物が多い。著者の筆があまりにも活き活きと登場人物を描くものだから、読者はついその人の顔をみたくなる。放蕩の限りを尽くすこの節という人物はどんな面構えなんだろう。狂恋に翻弄されシナを振り回す洽六の馬面とは、そして洽六をそうまでさせる女優シナの容姿とは。さらに、作者の子供時代のあどけなくも意志を感じさせる顔とは。本書には読者にとって興味の対象である登場人物達の写真が豊富に載せられている。

私は「血脈」上中下巻を読み通す間、いったい何度本書を繙いたか。十回や二十回どころではない。それこそ数えきれないくらいだ。弥六から洽六。シナの女学生時代や女優時代。洽六の一人目の妻ハツと、八郎、節、久の兄弟。夭折した長女喜美子。さらには早苗と愛子姉妹。八郎の息子たちに、八郎や愛子とは腹違いの真田与四男。八郎の師匠である福士幸次郎。個性的な人物の肖像がすぐに確認できる座右にあることで、血脈本編をめくる手にも一層熱がこもるというものだ。

また、本書には血脈登場人物の家系図も掲載されている。それによって読者は複雑な佐藤家の血脈関係を確認しながら本編を読み進めることができる。

また、本書にはいわゆる著者による謎解き的な解説文も豊富に掲載されている。私はそれらの文については、本編を読む間は一顧だにせず、本編読了後にまとめて読んだ。しかし、本書に収められた解説を読んでから再度本編を読み直すと、一層本編の理解も深まることは間違いない。著者自身による「血脈」や佐藤家の一族を語る冒頭から、著者と豊田氏、著者と長部氏、著者と大村氏による対談、さらには血脈の本編を補強するエピソードの数々。これほどの内容が載っているからこそ、本来は解説として下巻の巻末に附されるべき本書が独立した書籍として刊行されたのだろう。まさしく著者畢生の大作に相応しい扱いだともいえる。

本書を読んで、改めて「血脈」についてまとまった感想を述べてみたいと思う。

それは、特定の人物を小説のモデルにする、ということの是非についてだ。おそらくは「血脈」に出てくる内容のほとんどは限りなく事実に近いと思う。それは佐藤家の登場人物にとっては自分の悪行が暴かれ、読者にさらされることを意味する。しかも死後に。よくある評伝や伝記は、モデルの死後、生前のモデルを知らぬ人物によって書かれることが多い。よくある暴露本の類はモデルに近い人物によって書かれることが多いが、それは亡くなってすぐに書かれるため、生々しい内容になりがちだ。

「血脈」に登場する人物のほとんどは、なくなった後随分経ってからモデル化されている。存命だが、著者に色々と書かれた人物といえば、サトウハチロー記念館館長を務めているハチローの息子四郎ぐらいだろうか。あと、ハチローの孫にあたる佐藤家の嫡男恵も忘れてはならない。「血脈」は恵が著者に会いに来る場面で終わる。八百屋の引き売りになるという、佐藤家の血脈を引くに相応しい世俗的な栄華とは無縁の生き様を見せる一方で、荒ぶる血が鎮まったかのように細く落ち着く様子が本書の幕切れとして鮮やかな効果を与えている。つまり、恵は著者によって貶されるどころか佐藤家の血を鎮める役割として好意的に描かれている。

しかし、血脈を体現する主要人物はそうでもない。ワルとされる人物達は著者の人生にあまりにも深く関わっている。著者にとって愛憎半ばというより憎さも一入だったかもしれない。それは「血脈」や本書を読めば容易に感じられる。彼らは自らを憎む著者によってモデル化され、私生活が暴かれていく。自らの悪行を近しい娘であり妹であり姪である著者から書かれるということは、モデルとなった人物にとって何を意味するのか。私は結局のところ、それはどうでもよいことだと思う。彼らにとってみても、自分の人生がどう書かれようとどうでもよかったに違いない。やりたいようにやり切った人生は自分だけの物。死後に誰に何を書かれようとどうでもいい。そう思っていたのではないだろうか。少なくとも自分の行動が死後どのように書かれるか計算しながら生きた人物の人生など、他人から取り上げられることなどそうないだろう。彼らはそんな心配など一瞬たりとも考えずに人生を送ったに違いない。死後に何を書かれようとも気にしない。それは多分、評伝を書かれるような人物全てが思うことだと思う。墓に入ってしまえば何も反論できない。逆に生者たちが何を噂しようとも、死者には何の影響も与えまい。

でも、亡くなった方がつとに願うのは、自らの人生が嘘や捻じ曲げによる情報で汚されないことではないだろうか。どう思われようとも自分がやっていないことが事実としてまかり通ることは嫌だろうな、と思う。その人物を非難できるのはその人物と同じ時代を生きた人にだけ許されること。その人物の成した行為によって直接の影響を与えられた人物にしか非難する資格は与えられない。それは常々私がこうありたいと思う歴史への向き合い方だ。違う時代の人物によって書かれる評伝が学問として認められるのは、そこに取り上げられる対象の人物を非難するからではなく、歴史の正確性を期すためだからだ。一方で、同時代の著者によって書かれる暴露本が軽く見られるのは、生々しく利害がぶつかる内容であり、出来事から発生する波紋がまだ収まっておらず、確定していない事実を描くからだ。

では、「血脈」はどうなのだろうか。モデルとなった人物と同じ時代を過ごした著者によって書かれた「血脈」は、それが許される作品として考えてよいと思う。彼らの生きた人生をモデル化するのも非難するのも、彼らに近しい著者だから出来たこと。洽六もハチローも節も忠も五郎も、さらにはシナやカズ子やるり子や蘭子や早苗も、他人はともあれ愛子には書かれる資格があったのではないだろうか。そして、ここで言っておかねばならないのは、著者は決して彼らを憎しみだけで見ていたわけではなかったことだ。本書の36Pで書かれているが、著者が自伝「愛子」を上梓した際、室生犀星氏から手紙をもらったことが紹介されている。そこには「小説を書くことは、親を討ち、兄弟姉妹を討ち、友を討ち、己を討つことです」とあったという。この言葉がずぅーっと著者の中にあったとか。でも、著者は「血脈」を書く中で、彼らをただ討つだけではない高みに登っていったと思う。ユーモアもある愛すべき点もある人物として。それはたとえば、「佐藤家の人間はしょうがない連中だけど、ユーモラスなんですよ。で、それがあるから助かってる。それがなかったら悲惨な、読むに耐えない小説になったと思います」(P61-62)や、「佐藤家は悪口と怒りが渦巻く一家だった。だが背中合せに濃密な愛があった。「血脈」を描いてそれがわかったことが、私はうれしい」(P168)といった記述にそれが現れている。

どんな奇想天外な人生でも、どんなに人に迷惑をかけた人生でも、死ねば時がその苦さを薄めてゆく。故人をいつまでも非難するのではなく、きちんと向き合い、全力で理解しようと努める。本書は佐藤家の血脈を非難する本ではなく、肉親たちを鎮魂する本なのだ。

特定の人物を小説のモデルにするということは、ただ単に憎み貶すだけでは何物も産みださない。そうではなく本書のようにそこにある人間としての救いを描かないと駄目なのだ。それが本書の優れた点であり、構成に残すべきモデル小説として推薦する点だと思う。

‘2015/09/12-2015/09/15