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道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。https://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


怪談―不思議なことの物語と研究


このところ、右傾化していると言われる日本。そのとおりなのかもしれない。今になって気づいたかのように、日本人が日本の良さを語る。

とはいえ、従来から日本の良さを語る日本人が皆無だったわけではない。要はこのところの国勢の衰えに危機感を持った方が増えたということだろう。だが、その国の良さを認めるという行為は、本来、国が栄えようが衰えようが関係ないように思える。それが証拠に、古来より他国からの来訪者に我が国の美点を取り上げられることも往々にしてあった。それだけではなく、我々が他国の方の指摘に教えられることも多かったように思う。それら来訪者の方々は、日本が世界の中で取るに足らぬ存在だったころに、日本の良さを称え、賞賛した。古代に朝鮮半島や中国から渡ってきた渡来人達、戦国の世にキリスト教をもたらした宣教師達、幕末から明治にかけて技術を携え来日した雇われ西洋人達、等々。

彼らが見聞きし書き残した古き良き日本。その文章には、現代に通ずる日本の良さが凝縮されている。今の我々の奥底で連綿と伝わっているにも関わらず、忘れさろうとしている日本が。彼ら異邦人から我々が教わることはとても多い。にわか愛国者達がネット上で呟く悪態や、拡声器でがなり立てるヘイトスピーチなど、他国を貶めることでしか自分を持ち上げられない次元とは違う。

著者もまた、異文化である日本の素晴らしさを認め、海外にそのことを伝えた一人。そればかりか、日本に心底惚れ込み、日本人女性と結婚し帰化までした。

本書の現代はKWAIDANである。原文は英文で書かれ、アメリカで刊行された。耳なし芳一、ろくろ首、雪おんな、などといった日本でも著名な物語のほか、あまり有名ではない日本各地の民話や昔話を種とした話が多数収められている。その意味では純然たる著者の創作ではない。しかし、その内容は種本の丸写しではなく、著者が日本に伝わる話を夫人の力を借りて翻訳し、翻案したものという。つまり、日本の精神を、西洋人である著者の思考でろ過したのが本書であると言える。

では、本書の内容は西洋人の異国趣味的な観点から日本の上澄みだけを掬ったものに過ぎないのか。本書を読む限り、とてもそうは受け取れない。本書の内容は我々現代日本人にも抵抗なく受け入れられる。それは我々が西洋化してしまったために、西洋風味の日本ばなしが違和感なく受け入れられるという理屈ではあるまい。ではなぜ西洋人の著者に本書が執筆できたのだろうか。

著者は日本に来日する前から、超自然的な挿話を好んでいたという。そして諸国を渡り歩いた著者が日本を終の地と定めたのも、その超自然的な嗜好に相通ずるものを日本に感じたからではないか。超自然的とは合理的とは相反する意味を持つ。また、合理的でないからといってみだりに排斥せず、非合理な、一見ありえない現実を受け入れることでもある。我が国は永きに亘り、諸外国から流入する文化を受け入れ、自らの文化の一部に取り込んで来た。その精神的な器は果てしなく深く、広い。著者は我が国の抱える器の広さに惹かれたのではなかったか。

そうとらえると、本書の内容が今に通じる理由も納得できる。これらの話には、日本の精神的な奥深くにあるものが蒸留され、抽出されている。不思議なものも受け入れ、よそものも受け入れる話が。科学的な検証精神には、荒唐無稽な話として一蹴され、捨て去られる内容が、今の世まで受け継がれてきた。著者もその受け継がれた内容に、日本の精神的な豊かさを感じた。そしてその豊かさは、まだ我々が忘れ得ぬ美点として残っているはずである。

本書にはもう一つ、怪談噺以外にも著者のエッセイ風の物語が収められている。「虫の研究」と題されたその中身は、「蝶」「蚊」「蟻」という題を持つ3つの物語である。

「蝶」は日本に蝶にまつわる美しい物語や俳句があり、そこには日本人の精神性を解くための重要なヒントが隠されているという興味深い考察が為されている。蝶の可憐な生き様の陰には、日本人の「儚さ」「わびさび」を尊ぶ無常観があると喝破し、蝶を魂や御先祖様の輪廻した姿になぞらえるといった超自然的な精神性を指摘する。

「蚊」は日本の蚊に悩まされる著者の愚痴めいた文章から始まる。続いて蚊に対抗するには、蚊を培養する淀んだ水々に油を垂らすことで増殖を抑えることが可能、という対策を紹介する。そこで著者の論点は一転し、科学的に蚊を退治することに疑問を呈する。蚊を退治するために犠牲になる大切な物-佇む墓石の群れや公園の佇まいに対する慈愛の眼を注ぐ。蚊を退治するのではなく、共存共栄の道を探り、西洋的な科学万能な視点からは一線を画した視点を提示する。

「蟻」はその巣を営むためになされる無数の生き様から、社会的な分業の有り方を評価し、個人主義的な風潮に一石を投ずる。そればかりではない。今、最新の科学現場では、生物の生態から有益な技術が多数発見されている。有名なところでは、蜘蛛の糸の強靭な性質性から人工繊維の開発、サメの肌から水の抵抗を抑えた水着の開発、鳥の身体の形状からは新幹線など高速鉄道の形状の開発等が知られている。「蟻」には、このような蟻の社会的な能力から、人間が学べることがもっとあるのではないかという提起が為されている。今から100年以上前に刊行された本書に、今の最新科学技術を先取りした内容が書かれていることは、実に驚きと言わざるをえない。同時代の寺田寅彦博士の諸研究も、今の科学を先取りしていたことで知られる。が、著者の書いた内容も、同様にもっと評価されてもいいと思う。

これら3つの物語に共通するのは、謙譲の精神である。日本人の美徳としてよく取り上げられることも多い。著者が存命な頃の日本には、まだまだこのような愛すべき美徳が残っていたようだ。振り返って、現代の日本はどうだろうか。

もちろん、謂われなき中傷には反論すべきだし、国土侵犯には断固とした対応が必要だろう。ただし、そこから攻撃を始めた攻撃が、他国の領土で傷跡を残した途端、日本の正当性・優位性は喪われる。また、著者の愛した日本のこころも危ういものとなってしまう。著者は晩年、東京帝大の職を解かれ、日本に失望していたと伝え聞く。それは丁度、日清・日露戦争の合間の時期にあたる。著者の失望が、攻撃的になりつつあった日本へのそれと重ねるのは的外れな解釈だろうか。

今の日本も、少し危うい面が見え隠れし始めたように思える。果たして著者の愛した、超自然的な出来事や異文化の事物を受け入れる器は今の日本に残っているだろうか。また、著者の愛した謙譲の精神は今の日本から見いだせるだろうか。

何も声高に叫ぶ必要はない。ヒステリックになる必然もない。そんなことをするまでもなく日本の良さをわかっている人は地球上に数え切れぬほどいる。味方になってくれる人も大勢いる。そのことは、一世紀以上前に日本で生涯を終えたラフカディオ・ハーンという人の生涯、そして本書の中に証拠として残っている。

‘2014/9/19-‘2014/9/23