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アウシュヴィッツ・レポート


衝撃の一作だ。
私がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の恐るべき実態を描いた映画を観るのは『シンドラーのリスト』以来だ。
人を能率的に殺すためだけに作られた収容所。労働に耐えうるものと殺されるものがいとも簡単に選別され、殺されるものは即座に処分される。
にわかには信じられないその所業をなしたのはナチス・ドイツ。

私は23歳の頃に『心に刻むアウシュヴィッツ展』の京都会場のボランティアに参加したことがある。昨年の年末には『心に刻むアウシュヴィッツ展』の展示物が常設の博物館となっている白河市のアウシュヴィッツ平和博物館にも訪れた。あと、福山市のホロコースト記念館にも23歳の頃に訪れた。

私はそうした展示物を目撃してきたし、書籍もいろいろと読んできた。無残な写真が多数載せられた写真集も持っている。
だが、そうした記録だけではわからなかったことがある。
それは、残酷な写真がナチスの親衛隊(SS)の目をかすめてどのように撮られたのかということだ。私が持っている写真集の中にはドイツの敗色が濃厚になる前のものもある。また、収容者によっては連合軍に解放されるまでの長期間を生き延びた人物もいたという。
私にはそうした収容所の様子が文章や写真だけではどうしてもリアルに想像しにくかった。
念のために断っておくと、私は決して懐疑論者でも歴史修正主義者でもない。アウシュヴィッツは確実にあった人類の闇歴史だと思っている。

本作は私の想像力の不足を補ってくれた。本作で再現された収容所内の様子や、囚人やSSの感情。それらは、この不条理な現実がかつて確実にあったことだという確信をもたらしてくれた。

不条理な現実を表現するため、本作のカメラは上下が逆になり、左に右とカメラが傾く。不条理な現実を表すかのように。
だが、その不条理はSSの将校たちにとっては任務の一つにすぎなかった。SSの将校が家族を思い、嘆く様子も描かれる。
戦死した息子の写真を囚人たち見せ、八つ当たりする将校。地面に埋められ、頭だけを地面に出した囚人たちに息子の死を嘆いた後、馬に乗って囚人たちの頭を踏み潰す。
一方で家族を思う将校が、その直後に頭を潰して回ることに矛盾を感じない。その姿はまさに不条理そのもの。だが、SSの将校たちにとっては日常は完璧に制御された任務の一つにすぎず、何ら矛盾を感じなかったのだろうか。
本作はそうした矛盾を観客に突き付ける。

戦後の裁判で命令に従っただけと宣言し、世界に組織や官僚主義の行き着く先を衝撃とともに教えたアドルフ・アイヒマン。
無表情に仮面をかぶり、任務のためという口実に自らを機械として振る舞う将校。本作ではそのような逃げすら許さない。将校もいらだちを表す人間。組織の歯車にならざるを得ない将校はあれど、彼らも血の通った人であることを伝えようとする。

本作は、想像を絶する収容所の実態を外部に伝えようと二人の囚人(ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレート・ヴェツラー)がアウシュヴィッツから脱出する物語だ。
二人がまとめたレポートはヴルバ=ヴェツラー・レポートとして実在しているらしい。私は今まで、無学にしてこのレポートの存在を知らずにいた。

脱出から十日以上の逃走をへて保護された二人は、そこで赤十字のウォレンに引き合わされる。だが、ウォレンはナチスの宣伝相ゲッベルスの宣伝戦略に完全に惑わされており、当初は二人の言い分を信じない。それどころか、赤十字がアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所のために差し入れている食料や石鹸といった日用品を見せる。さらには収容所から届いた収容所の平穏な日常を伝えた収容された人物からの手紙も。
もちろん二人にとっては、そうしたものは世界からナチスの邪悪な所業を覆い隠すための装った姿にすぎない。

二人が必死で持ち出したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の実情を記したレポートはあまりにも信じがたい内容のため、当初は誰にも信じられず、レポートの出版まで七カ月もかかったという。それほどまでに実態が覆い隠されていたからこそ、解放時に発信されたアウシュヴィッツの凄惨な実態が世界中に衝撃を与えたのだ。

人類が同胞に対して与えた最大級の悪業であるホロコースト。
ところが、この出来事も私が思うほどには常識ではないらしい。古くからホロコースト陰謀論がある。かつて読んだことがあるホロコースト陰謀論の最後には、ヒロシマ・ナガサキすら陰謀論として片付けられているらしい。
人類に民族抹殺など大それたことが出来るわけがない。そんな反論の陰で、私たちを脅かす巨大な悪意が世界を覆う日に備えて牙を研いでいるのかもしれない。

本作の冒頭には、このような箴言が掲げられる。
「過去を忘れる者は必ず同じ過ちを繰り返す」
ジョージ・サンタヤナによるこの言葉を、私たちのすべては肝に銘じておくべきだろう。

本作のエンドクレジットでは今のポピュリストの指導者が発するメッセージの数々が音声で流れる。
それらは多様性を真っ向から否定している。
LGBTQの運動を指して、かつて共産主義がまとった赤色の代わりに虹色の脅威がきていると扇動する。
自国の民族のみを認め、移民を排斥する、など。おなじみのドナルド・トランプ前アメリカ大統領とおぼしき声も聞こえる。

本作のエンドクレジットこそは、まさにアウシュヴィッツ=ビルケナウが再び起こりかねないことを警告している。
このラストの恐ろしさもあわせ、本作から受けた衝撃の余韻は、今もなお消えていない。

なお、唯一私が本作で違和感を感じた箇所がある。それは、赤十字からやってきた人物が英語で話し、アルフレートがそれに英語で返すシーンだ。
当時の赤十字の本部はスイスのジュネーヴにあったはず。二人が脱出してレポートを書いたのはスロバキアなので、スイスから来た人物が英語を話すという設定が腑に落ちなかった。スロバキアの映画のはずなのに。

‘2021/8/7 kino cinema 横浜みなとみらい


奥のほそ道


本書は重厚かつ、読み応えのある一冊だ。
それと同時に、日本人が読むには痛く、そして苦味に満ちている。

人は他人にどこまでの苦難を与えうるのか。その苦難の極限に、人はどこまで耐えうるのか。そして、苦難を与える人間の心とは、どういう心性から育まれるものなのか。
本書が追求しているのはこのテーマだ。

本書に登場する加害者とは、第二次大戦中の日本軍。
被害者は日本軍の戦争捕虜として使役されるオーストラリア軍の軍人だ。

海外の映画にはありがちだが、日本を取り上げたものには、私たち日本人から見てありえない描写がされているものが多い。特に映画においては。

だが、本書はじっくりと時間をかけて日本を知り、日本を研究した上で書かれているように思えた。本書からは見当違いの日本が描かれていると感じなかったからだ。
本書は、日本人の描き方を含めても、読み応えのある本だと思う。

第二次大戦中、日本軍がやらかした失敗の数々はよく知られている。
軍部の偏狭さや夜郎自大がもたらした弊害は枚挙にいとまがない。それがわが国を壊滅へと追いやったことは誰もが知っている。
フィリピンのバターン死の更新やビルマの奥地の泰緬鉄道の建設など、国際法を無視し、捕虜の取り扱いに全く配慮を欠いた愚行の数々。
敗戦の事実も辛いが、私は当時の日本がこうした悪名を被ったことがつらい。軍の最大の失敗とは、敗戦そのものよりも、軍紀を粛正せず、末端の将校を野放しにしたことにあるとさえ思う。
日露戦争や第一次世界大戦では、日本の行き届いた捕虜への配慮が武士道の発露と世界から称賛を浴びただけになおさら残念だ。

残念ながら、右向きの人がどれだけ否定しようとも、日本軍がなした愚行を否定することはできまい。あったことよりもなかったことの証拠を見つける方が難しいからだ。量の多寡よりも、少しでも行われてしまったことがすでに問題だと思う。
実際に日本軍からの虐待を告発した方は、中国人、朝鮮人だけではない。他にも多くいる。本書のようにオーストラリア、オランダ、イギリスの軍人を中心に世界中に及ぶ。

著者の父は実際に泰緬鉄道の現場で過酷な捕虜の境遇を味わったという。著者はそれを十二年の年月を掛け、本書にまとめたという。
十二年の時間とは、おそらく著者が日本を学ぶために費やした時間だったはずだ。

日本軍が捕虜を扱う際、なぜ過酷な労働を強いたのか。それは、どのような文化、どのような心性のもとで生まれたのか。
世界から一目置かれる文化を擁するはずの日本人が、なぜあれほどの思慮を欠いた所業に手を染めたのか。著者はその探究に心を砕いたに違いない。

著者はその手がかりを俳句に求める。
自然を愛でる日本人の心性。それが簡潔な形で表現されるのが俳句だ。
私も旅先で駄句をひねることが多く、俳句には親しんでいるつもりだ。

「二人は、一茶の句の純朴な知恵、蕪村の偉大さ、芭蕉の見事な俳文『おくのほそ道』のすばらしさを語るうちに、感傷的になっていった。『おくのほそ道』は、日本人の精神の真髄を一冊の書物に集約している、とコウタ大佐が言った。」(131p)
「日本人の精神はいまそれ自体が鉄道であり、鉄道は日本人の精神であり、北の奥地へと続くわれらの細き道は、芭蕉の美と叡智をより広い世界へと届ける一助となるだろう。」(132p)

この二つの文章は、本書の登場人物でもひときわ印象に残る、日本軍のナカムラ少佐とコウタ大佐が会話する場面から引用した。

俳句とは、現実からは距離を置き、恬淡とした境地から自然を描写する芸術だ。
詠み人の立場や心境は反映されるが、そこで描写される人は、あくまでも風景の登場人物にすぎない。描写される人の立場や心境にはあまり踏み込まない。たとえその人が無作為に非情な運命にもてあそばれていたとしても。
日本の文化には相手への丁寧さがあると言われるが、それは言い方を変えれば他人行儀ということだ。表面はにこにこしているが、何を考えているか分からない日本人、というのもよく聞く日本評だ。
著者は俳句を研究した結果、日本人の心性を解く鍵を俳句に見いだしたのではないだろうか。
本書のとびらには一つの文句が書かれている。
「お母さん、彼らは詩を書くのです。
パウル・ツェラン」
この文句でいう詩とは俳句を指すのはもちろんだ。そして、彼らとはかくも残虐な所業をなした日本人を指しているはずだ。
この言葉には、その行動と詩の間にある落差への驚きがある。

不思議の国日本、と諸外国から言われるわが国の心性。
それは台風や噴火、地震や飢饉に苦しみ続けてきた日本人が培ってきた感性だ。

そうした非情な現実から距離を置くことが、日本人が過酷な自然から生き延びるために得た知恵。だとすれば、非情な現実とは、自らが捕虜に対する行いにも適用される。
一方で捕虜を過酷な状況の中で使役し、一方で恬淡とした自然の前にある自分を見つめられる心性。
ナカムラ少佐やコウタ少佐にとって、苦役に就く捕虜とは、目の前の光景でしかない。だから捕虜の待遇を良くしようとも思わない。

皮肉なことに、ビルマで本書の主人公であるドリゴを始めとした、オーストラリア軍の捕虜たちを酷使しつづけたナカムラ少佐やコウタ大佐は寿命を全うし、畳の上で死ぬ。
その運命の不条理さに読者は何とも言えない感覚を抱くはずだ。

もちろん不条理さを体現した登場人物はまだいる。
日本軍に属し、捕虜たちに虐待を与える側にたつ朝鮮人チェ・サンミン。
月あたり50円の給金を貰う以外、何の思想も考えも、そして何の誇りもなく任務に従っていた男。
彼はBC級戦犯の裁判の結果、処刑される。
その処刑の描写は、人間が持ちうる圧倒的な空虚さもあいまって読者に強い衝撃を与える。

他にも、本書には九大医学部で起こった捕虜生体解剖の助手をやっていたという人物や、731部隊の関係者も登場する。
いずれも戦後の世界を戸惑いながら生きる人物として描かれる。

本書の主人公ドリゴもまた、凄惨な捕虜の境遇を生き延び、戦後も長く生きる。
ドリゴが日本軍から受けた扱いは、腐った匂いや泥の感触を感じさせる細部までが過酷なものだった。その境遇から生き延び、戦後を生きたドリゴの生活には、どこかしら空虚な影がついて回る。

そしてドリゴは戦前と戦中と戦後をさまよいながら、生の意味を求める。

ドリゴが何気なく手に取った日本の俳人のエピソード。
「十八世紀の俳人之水は、死の床で辞世の句を詠んでほしいと乞われ、筆をつかみ、句を描いて死んでいった。之水が紙に円を一つ描いたのを見て、門弟たちは驚いた。
之水の句は、ドリゴ・エヴァンスの潜在意識を流れていった。包含された空白、果てしない謎、長さのない幅、巨大な車輪、永劫回帰。円――線と対象をなすもの。」(36ぺージ)

そして死に際してドリゴは之水の描いた円の意味を突如理解する。そして、このような言葉を残して絶命する。
「諸君、前進せよ。風車に突撃せよ。」(442ぺージ)
無鉄砲なドン・キホーテの突撃した風車とは、不条理の象徴である。

挿絵のない本書に二回も登場するのが、之水の描いた円の筆跡。
これこそが、すべてのものは回帰する、という俳句の心境であり、ドリゴが悟った生の意味なのだと思う。

人として外道の所業をなした日本軍。組織の中で戦争犯罪に手を染めた軍人たち。死と紙一重の体験を生き延びたドリゴ。ドリゴの被った悲劇に影響された周りの人々。
善も悪も全ては円の中で閉じ、永劫へと回帰してゆく。

本書は日本軍の犯した組織ぐるみの犯罪をモチーフにしているが、作中には日本人や日本文化を批難する言葉はほぼ登場しない。
それはもちろん、著者や著者の父による許しを意味してはいないはずだ。
著者は許すかわりに、日本軍の行いも人間が織りなす不条理の一つとして受け入れたのではないだろうか。
すべての国や時代を通じ、人の生のあり方とは円に回帰する。著者はその視点にたどり着いたように思う。

訳者によるあとがきによると、本書の最終稿を著者が出版社に送信したその日、著者は存命だった父に面会し、作品の完成を伝えた。そしてその晩、著者の父は98年の生涯を閉じたのだという。

そうした奇跡のようなエピソードさえも、本書が到達した深みを補強する。

本書は五部からなる。
それぞれの部の扉には句が載せられている。

一部
牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉

二部
女から先へかすむぞ汐干がた  一茶

三部
露の世の露の中にてけんくわ哉 一茶

四部
露の世は露の世ながらさりながら 一茶

五部
世の中は地獄の上の花見かな 一茶

私たちが日本人の在り方やあるべき姿に悩むとき、俳句の持つ意味を踏まえるとより理解が深められるのかもしれない。
外国人の著者から、そうしたことを教えてもらった気分だ。
本書からはとても得難く深い印象を受けた。

‘2019/5/22-2019/6/8


夜明け前のセレスティーノ


著者もまた、寺尾氏による『魔術的リアリズム』で取り上げられていた作家だ。私はこの本で著者を初めて知った。寺尾氏はいわゆるラテンアメリカにの文学に花開いた\”魔術的リアリズム\”の全盛期に優れた作品を発表した作家、アレホ・カルペンティエール、ガブリエラ・ガルシア=マルケス、ファン・ルルフォ、ホセ・ドノソについては筆をかなり費やしている。だが、それ以降の作家については総じて辛口の評価を与えている。ところが著者については逆に好意的な評価を与えている。私は『魔術的リアリズム』で著者に興味を持った。

著者は共産主義下のキューバで同性愛者として迫害されながら、その生き方を曲げなかった人物だ。アメリカに亡命し、その地でエイズに罹り、最後は自殺で人生に幕を下ろしたエピソードも壮絶で、著者を伝説の人物にしている。安穏とした暮らしができず、書いて自らを表現することだけが生きる支えとなっていた著者は、作家として生まれ表現するために生きた真の作家だと思う。

本書は著者のデビュー作だ。ところがデビュー作でありながら、本書から受ける印象は底の見えない痛々しさだ。本書の全体を覆う痛々しさは並みのレベルではない。初めから最後まであらゆる希望が塗りつぶされている。私はあまりの痛々しさにヤケドしそうになり、読み終えるまでにかなりの時間を掛けてしまった。

本書は奇抜な表現や記述が目立つ。とくに目立つのが反復記法とでも呼べば良いか、いささか過剰にも思える反復的な記述だ。これが随所に登場する。これらの表記からは、著者が抱えていた闇の深さが感じられる。それと、同時にこう言った冒険的な記述に踏み切った著者の若さと、これを残らず再録し、修正させなかった当時の編集者の勇断にも注目したい。私は本書ほど奇抜で無駄に続く反復表現を読んだことがない。

若く、そして無限に深い闇を抱えた主人公。著者の半身であるかのように、主人公は虐げられている。母に殺され、祖父に殺され、祖母に殺され。主人公は本書において数限りなく死ぬ。主人公だけではない。母も殺され、祖父も殺され、祖母も殺される。殺され続ける祖母からも祖父からも罵詈雑言を投げつけられ、母からも罵倒される主人公。全てにおいて人が人として認められず、何もかもが虚無に漂い、無に吸い込まれるような救いのない日常。

著者のような過酷な人生を送っていると、心は自らを守ろうと防御機構を発動させる。そのあり方は人によってさまざまな形をとる。著者のように自ら世界を創造し、それを文学の表現として昇華できる能力があればまだいい。それができない人は自らの心を分裂させてしまう。例えば統合失調症のように。本書でも著者の母は分裂した存在として描かれる。主人公から見た母は二人いる。優しい母と鬼のごとき母。それが同一人格か別人格なのかは文章からは判然としない。ただ、明らかに同一人物であることは確かだ。同一人物でありながら、主人公の目に映る母は対象がぶれている。分裂して統合に失敗した母として。ここにも著者が抱えていた深刻な状況の一端が垣間見える。

主人公から見えるぶれた母。ぶれているのは母だけではない。世界のあり方や常識さえもぶれているのが本書だ。捉えどころなく不確かな世界。そして不条理に虐待を受けることが当たり前の日々。その虐待すらあまりにも当たり前の出来事として描かれている。そして虐待でありながら、無残さと惨めさが一掃されている。もはや日常に欠かせないイベントであるかのように誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺される。倒錯し、混迷する世界。

過剰な反復表現と合わせて本書に流れているのは本書の非現実性だ。\”魔術的リアリズム\”がいう魔術とは一線を画した世界観。それは全てが非現実。カートゥーンの世界と言ってもよいぐらいの。不死身の主人公。決して死なない登場人物たち。トムとジェリーにおける猫のトムのように、ぺちゃんこになってもガラスのように粉々になっても、腹に穴が開いても死なない登場人物たち。それは\”魔術的リアリズム\”の掲げる現実とはかけ離れている。だからといって本書は子供にも楽しめるスラップスティックでは断じてない。なぜなら本書の根底に流れているのは、世界から距離をおかなければならないほどの絶望だからだ。

むしろ、これほどまでに戯画化され、現実から遊離した世界であれば、なおさら著者にとってのリアルさが増すのではないだろうか。だからこそ、著者にとっては本書の背景となる非現実の世界は現実そのものとして書かれなければならなかったのだと思う。そう思わせてしまうほど本書に書かれた世界感は痛ましい。それが冒頭にも書いた痛々しさの理由でもある。だがその痛々しさはもはや神の域まで達しているように思える。徹底的に痛めつけられ、現実から身を守ろうとした著者は、神の域まで自らを高めることで、現実を戯画化することに成功したのだ。

あとは、著者が持って生まれた同性愛の性向にどう折り合いをつけるかだ。タイトルにもあるセレスティーノ。彼は当初、主人公にとって心を許す友人として登場する。だが、徐々にセレスティーノを見つめる主人公の視点に恋心や性欲が混じりだす。それは社会主義国にあって決して許されない性向だ。その性向が行き場を求めて、セレスティーノとして姿を現している。現実は無慈悲で不条理。その現実を乗り切るための愛や恋すら不自由でままならない。セレスティーノに向ける主人公の思慕は、決して実らない。そしてキューバにあっては決して実ってはならない。だから本書が進むにつれ、セレスティーノはどんどん存在感を希薄にしてゆく。殺し殺される登場人物たちに混じって、幽霊のように消えたり現れたりするセレスティーノ。そこに主人公の、そして著者の絶望を感じる。

繰り返すが、私は本書ほどに痛々しい小説に出会ったことがない。だからこそ本書は読むべきだし、読まれなければならないと感じる。

‘2017/08/18-2017/08/24


シベリア抑留―未完の悲劇


会ったことはないけれど、妻の祖父はシベリア抑留の経験者だという。話によれば、おちゃめなところもありながら、内面は強い人だったとか。普通の人なら痛みに耐えられない症状にも関わらず、癌で亡くなる少し前まで仕事を続けていたという。その人となりは妻からみても敬するに値する人だったらしい。

そういった祖父の人格が生まれついてなのか、それともシベリア抑留体験によるものかはわからないけれど、シベリア体験をあまり話したがらなかったという。そのことから、戦後数十年を経ても心の中に重しをつけて沈めてしまいたい体験だったことは確かだと思う。

仮に祖父が本書を読んだとしても、その体験の一片をも本書が伝えていないといって憤慨するかもしれない。これは何も本書を貶めて書く訳ではなく、むしろ本書の中で体験者の言葉として繰り返し語られる言葉として紹介されている。今までに色んなシベリア抑留に関わる書物が出版されたけれど、その惨状はあんなものではない、あの日々をつぶさに書き切ったものはなかった、と。

本書はそういった人々の言葉を掬い上げつつ、文章では描ききれない現実がかつてシベリアの地にあったことを自覚しながら、それでもシベリア抑留の実態をできる限り書こうと努力しているのがわかる。

その視点は、ソ連側にも関東軍側にも厳しく注がれ、右だ左だといった偏った立場には与していない。また、シベリア抑留を単なる捕虜虐待の問題から区切っている思想教育や軍隊生活の反動による様々な問題についても、それらに加担した人々を不必要に悪者にすることなく冷静に被害者と加害者の両面をもつ人々として描写している。

ソ連の労働力確保のための政策の一環として、不必要に抑留された彼ら。シベリアの大地に散った人々も、生き残ってしまった人々も合わせて、抑留された被害者が背負った歴史の重みを少しでも受け止め、支えになろうという筆者の気概や覚悟を読み取ることのできる本である。

最後に、筆者は私より6歳しか年長ではなく、戦争を知らない世代であろうとも先輩から歴史を受け継いでいくことはできる、ということを身を以て示していると思える。私も年配者とお話をする機会があれば、聞いてみるようにしたいと思う。

’12/1/17-’12/1/18