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平の将門


なぜ本書を読もうと思ったか。その答えは、単に時代小説が読みたくなったからにすぎない。

だが、私と平将門の間に何の縁もきっかけもなかった、といえばウソになる。平将門の首塚に数回訪れたことがあるからだ。
千代田区の丸の内にある首塚は有名だ。
乱に敗れ、京でさらされた将門の首が飛んで戻り、落ちたのがこの首塚の地、と伝えられている。

私は東京に住んで二十年になる。
そしてここ最近になって、ようやく都会や首都の東京ではなく、昔からの坂東に興味を抱くようになってきた。
実際、本書を読む少し前には鹿島神宮にも訪れ、坂東の広さや可能性を学んだばかり。

広い坂東において、千年も前の平将門の説が受け継がれている事実。それは、平将門という人物のカリスマ性を感じさせる。
それだけ当時の坂東(今の関東地方)の民衆に強い印象を与えていたのだろう。
それほどまでに都の人々を恐れさせ、坂東の人々に慕われた将門。果たして平将門とはどのような人物なのだろうか。

坂東の広大な地を一時とはいえ手中に収め、都を恐れさせた平将門。
この人物はどういう人物で、どういう生い立ちをへて青年になり、新王と名乗るまでになったのか。一度知ってみたいと思った。

もちろん本書が歴史小説であり、史実をそのまま反映していない事はよくわかっているつもり。
多分、著者による脚色もかなり含まれていることだろう。
だが、それでもいい。
著者が平安時代の坂東をどう解釈し、その時代の中で平将門をどう走らせたのか。そうした本書の全ては、著者による史実の解釈として楽したい。

まず、おじの平国香、平貞盛に東国の平氏の棟梁の座を良いように操られていた相馬小次郎の日々を描く。相馬小次郎とは平将門の幼名だ。
貞盛は将門を亡き者にしようと、豊田郡から横山まではるばる馬の種付けに遣わせる。
だが、豊田郡とは茨城県の下妻辺り。横山とは東京の八王子辺りだ。今の私たちの土地勘から考えると、茨城の真ん中から八王子までの距離を歩かされたわけだ。しかも当時、道が整備されているはずはない。

それを若干15歳ほどの元服したばかりの将門にやらせるあたり、かなりむちゃな話だ。ところが将門はそれをさも当たり前のことのように承り、出かけていく。それを実際にやり遂げようとした将門もすごい。
今の私たちにとってみると、相当の荒行にも思えるが、案外、見渡す限りが草原であり、道らしき道もないただの平野だと、当時の人々にとって距離感と言うものはないに等しいものだったのかもしれない。
著者はこのエピソードによって、現代の読者に距離感の違いを伝えようとしていると受け取った。

また、この当時の坂東の広さを考えてみるべきだ。
広さに加えて人口の少なさ。それはつまり、人に会う確率が少ないことを意味する。
広い坂東の大地で抗争をしたところで、お互いの勢力がどのように勢力を集め、どういう戦略で戦おうとしているのかすら分からない。
今より格段に情報の少ない時代であり、戦国の世のような状態ですらない。平将門の乱とは、実は素朴で小規模の抗争に過ぎなかったのではないか。

この時、東国の平将門にとって運命を握るべき人物がいた。藤原秀郷である。
この人物が、どの勢力につくかによって平将門の運命はがらりと変わる。
また、藤原秀郷が隠棲し、坂東の情勢を見定めていた地は、今で言う古河の辺りだ。
本書で描かれるのは、古河、筑西、府中、八王子。当時の海岸線が今よりもかなり北に寄っていたことも併せて考えると、こうした地名が登場するのにも納得がいく。人は少なく、争いも起きにくいが、それだけにかえって勢力が明確だったのだろう。

もう一つ、本書には将門が遠ざけられるように都に遣いにだされる下りがある。つまり、将門は都を知らない田舎者ではなかったのだ。これは私たちに新たな将門像を提示してくれる。
将門は都での日々で藤原純友と出会う。
後に二人は平安の世を大きく騒がせた藤原純友の乱と平将門の乱を起こした事で歴史に名を残す。
将門が藤原純友と京都で交わした約束。それは、時期を合わせて東西で同時に乱を起こし、朝廷を慌てさせるものだ。
将門が東国で乱を起こす際は、西国の藤原住友と連携する時期を合わせなければならない。
当時の連絡手段は早馬が使われる。だから、今の私たちの感覚ではとうてい想像できないほど、やりとりに時間が掛かっていた。今の情報社会に生きる私たちの感覚からは相当悠長に思えるほどの。

本書を読んでいて勉強になるのは、距離や時間の感覚の違いだ。
現代の私たちの感覚からは、大きくかけ離れている。それを踏まえなければならない。
それを無視したまま本書を読むと、本書で描かれる将門や住友の行動か意思決定の遅さにイライラする事だろう。
本書を読むには、そうした感覚の違いも味わいながら読むとよい。かつての関東平野は、もっと雄大で、もっとゆったりとし、もっとゆとりがあったのだ。

藤原純友とのタイミングは合わなかったとはいえ、一度は東国に覇を唱え、朝廷に対し新皇を名乗るまでに成長した将門。
果たして、平将門が敗れる事なく政権を維持できていたら、東国の歴史はどうなっただろうか。
都が東京に来るのタイミングはもっと早かったかもしれない。
ところが平将門が敗れた後、坂東の地に中央政府が根付くことは、鎌倉幕府を除けば徳川家康が都を構えるまで、800年ほど空白の期間がある。
なぜその間、何も起きなかったのだろうか。

それには、将門の乱が起きる前から頻発していた富士山の噴火や地震など、関東を舞台に起きた天変地異を考える必要がある。
そもそも平将門の乱であれほど将門が縦横無尽に動けたのは、それまでの天変地異で人口が激減していたからとは言えないだろうか。
そのことは、本書では触れていなかったにせよ、当時の平安朝が各地の天変地異に慌てふためいていたことを考えると、考慮すべき要因だと思う。
天変地異や疫病など、災いは全て怨霊のせいにされていた時期だったことも含め。

都の人には、平将門の乱も、坂東で続いた天変地異の最後の締めとして起こったととらえられていた節がある。

そう考えると平将門の首が関東に飛んで帰り、関東で祀られたことと、そしてその後、関東では天変地異の発生が止んだ事が、神田明神をはじめとした平将門の霊が関東の守護神として次第に祀られるようになった理由ではないだろうか。
そうした坂東の当時の地理に加え、天候や地政学を考えてみるとよい。

本書の背後には、そうした時代の流れや天災の不利にも負けず、精一杯駆け抜けようとした板東武士の心意気が見えないだろうか。

‘2018/10/25-2018/10/28


B29墜落―米兵を救った日本人


本書も前年秋に淡路島で訪れた学園祭のブックバザーで無料でいただいた一冊だ。

太平洋戦争も敗色が誰の目にも明らかになった昭和20年。多くの国民が「戦局必ずしも好転せず」を理解したのは、日夜を問わず日本各地に飛来したB29を見上げてからだろう。日輪の下を、夜の闇の中をゆうゆうと舞い、大量の焼夷弾をばらまいて行く機影。その圧倒的な機数と不気味な飛来音は、戦争の悲惨さを象徴していたのではないか。

防衛部隊も日本上空を覆い尽くすB29に手をこまねいていたわけではない。高射砲で応戦し、撃ち落そうと試みる。が、高射砲はB29のはるか下方で破裂し、B29に損害どころか脅威すら与えない。高射砲の射程距離よりも上空を飛ぶB29は、悠々と飛び去ってゆく。結果、ほとんどのB29が無傷だったと伝わっている。だが、全く撃ち落とせなかったわけではない。日本の各地で何百機(本書では485機。米側資料では327機)かは撃墜に成功したらしい。そのすべてが撃墜できたのではなく、その中には機体の整備不良その他の原因で墜ちた機もあったことだろう。

本書はそのうちの一機、今の茨城県守谷市とつくば市の間、旧板橋村に落ちたB29について書かれた本だ。著者は幼い頃、その様子を見聞きしたという。そして、長じてから幼き日に経験したこの事件に興味を持ち、その一部始終を調べた。その成果が本書だ。

本書は落ちた地に住んでいた著者を含めた住民からの視点で書かれている。ただ、墜落機の乗員のその後と、遺族の立場にも配慮していることが特記できる。両方の立場から墜落を描いていることは、特定のイデオロギーや史観に囚われない著者の良心として評価したい。

太平洋戦争時の日本について、評価は今もなお分かれている。鬼子日本の所業と今も非難し続ける国もある。南京大虐殺はなかったとし、東京裁判は連合国による一方的な見せしめ裁判とする立場もある。私ばどちらの立場にも与しない。前者は一部の日本人の行動を指して、日本のすべてを悪としているから。後者は一部の人の行動やその判決を日本人全体のことと受け止めているからだ。一部の行いを集団に広げて解釈せずにはすまない。それは極端な見方でしかない。その場所や立場によって流動的に立場も責任も変わっていくはず。だから、究極的にはその時代、その場にいた者にしか戦争犯罪は断罪はできないはず。そう思っている。日本の軍人にも立派な行いをしたと伝わる人は何人もいる。逆に中国や朝鮮半島に住んでいた民衆で卑劣な行いをした人もいたはず。

当時の我が国もそう。標語である鬼畜米英の言葉が街中に流布していた。ましてやB29といえば国土や親族を焼き払ってゆく憎んでも憎みきれない悪魔の兵器。不時着した米兵は本来ならば人道的に捕虜として取り扱われるべき。だが、米軍捕虜を虐待した事例があったことは、遠藤周作氏の『海と毒薬』でも知られているとおり。当時の日本人の一部が非難されるべき行いをしたことは公平に認めねばなるまい。

それを前提としてもなお、一部の日本人の行いをもって全ての日本人を断罪するのはおかしい。善か悪か。全ての日本人をどちらかに寄せようとするからおかしくなるのだ。著者は、旧板橋村に墜ちたB29の事例を通じて、その極端な評価に一石を投じたかったのだと思う。当時のすべての日本人が米兵を憎んでいたのではない。墜落し、傷ついた米兵に対し、敵味方を超えて接した村民がいたのだ。その事実を著者は丹念に追ってゆく。旧板橋村に墜ちたB29からは、3人の米兵が生存者として救出された。だれが救出したのか。もちろん旧板橋村の住民たちだ。住民たちは米兵を放置せず、虐待もせず、そして介抱した。介抱した上でしかるべき部署に引き渡した。八人はやけどがひどく、墜ちた時点ですでに死んでいたという。が、住民たちはそれらの敵兵をきちんと菰に包んで埋葬したという。

住民たちが救出した3人は、本書によると土浦憲兵隊に渡されたという。そしてそのうち一人は戦犯として死刑にされ、残り二人は麹町の捕虜収容所で米軍の空襲に遭い、命を落としたとか。

彼ら自身の命が失われたことは残念だ。だが、彼らは言ってみれば戦死だ。しかも敵国の領土で死んだ。それは、あえていえば仕方ないことだ。彼らは、敵国の領土を侵犯し、大勢の人々を殺しあえる、そして死んだ。ただ、彼らの死が残念だと思うのは、もし彼らが戦後も生き、旧板橋村の住民の救助を覚えていてくれたら、ということだ。そうすれば当時の日本にも、捕虜をきちんと扱う住民がいたことがもっと知られていたのに。

著者は彼らの戦死の背後に、日本人による救助活動があったことを記し、後世に残してくれている。

先に、著者の視点を評してバランスとれている、と書いた。それは、亡くなった十一人の米兵の遺族にも連絡を取り、きちんとフォローしていることだ。米兵にだって遺族はいる。B29から大量の焼夷弾を落とし、多数の日本人を殺した。そんな米兵とはいえ、愛する家族がいたこともまた事実。家庭ではよき父、良き夫、良き息子であったかもしれない。それなのに、戦争では敵国に赴き、多くの家族を殺戮せねばならない。それこそが戦争の許しがたい点なのだ。著者はそういった配慮も怠らずに米兵たちのその後を書く。

マクロな視点から見れば、戦争とは国際関係の一つの様態に過ぎない。そこでは死は一つの数字に記号化される。だが、ミクロの単位では死とは間違いなく悲劇となる。 そして、悲劇であるが故に憎しみの応酬が生まれる。その応酬は無益としかいいようのないものだ。著者の調査は、無益な憎しみを浄化するためにも価値のあるものだ。

本書にあと少し工夫が欲しいな、と思ったことがある。それは本書の構成だ。少し前段が冗長のように思う。本書は前書きで旧板橋村へのB29の墜落、村人による救出活動を描く。そのあと、著者はアメリカでの対日国民感情の悪化、戦局の推移、空襲の発案といった空襲の背景に筆を費やす。それから、日本国内を襲ったり焼夷弾爆撃の実態を描く。本格的に主題となるB29の墜落と米兵の救出の一部始終が採り上げられるのは、本書も半ばを過ぎた頃だ。これはバランスとして偏っているように思った。

著者の執筆姿勢が一人一人の米兵の生い立ちや遺族とのやりとりにまで及んでいて、丁寧な作りであるだけに惜しい。年代順に並べる意図はわかるが、前書きと最初の章で墜落自体を書いた後で、じっくりと背景を描いても良かったのではないだろうか。

だが、それらは、著者の苦労を無にするものではない。日米の不幸な歴史を一機のB29の運命を素材に描いた本書は、素晴らしい仕事だと思う。

‘2017/01/23-2017/01/24