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アンジェラの灰


文書はピューリッツァー賞受賞作だそうだ。
伝記部門で受賞した。

1930年に生まれた著者が68歳の時に発表した自伝だそうだ。
著者は長い間教師を勤めた方で、物語を書くのは初めてだそうだ。だが、教師人生の中で英文の授業を担当してきた。あらゆる国から来た生徒たちに英語を教える手法の一つに、親の伝記を書いてみる指導を行っていたらしい。
その中で著者も、自分自身の自伝を何回も書いていたそうだ。それが本書の底になっているということを解説で知った。

冒頭にこのような一文がある。
「惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりももっと悪い。」(7ページ)

アイルランドと言えば19世紀半ばのジャガイモ飢饉による人口減で知られる。人がたくさん亡くなり、アメリカなど諸外国への移民が大量に発生したためでもある。
本書のマコート一家も一度はニューヨークへ移住する。だが、すぐにアイルランドに戻ってきてしまう。

なぜか。父のマラキが無類の酒飲みだったから。

飲んだくれの父親に振り回される家族の悲劇。昔からのよくある悲劇の一形態だ。本書は父の酒飲みの悪癖が、主人公や主人公の母アンジェラを苦しめる。その悲惨な毎日の中でどのように子供たちはたくましく生き延びようとするのか。

給与を必ず持って帰ると言いながらもらったその場ですぐに飲み代に使ってしまうだらしない父。それでいて、避妊など知らないので次々と母の体内に子供を増やしていく。主人公のフランク、弟のマラキ、双子のマイクルとアルフォンサス。さらにマーガレットと名付けられた妹やオリバー、ユージーンという弟もいたが、三人は幼い頃になくなってしまう。もちろん、劣悪な環境のためだ。

幼い子供たちを育てながら、三人の子供を亡くしながら、頼りにならない夫をあてにせず生き抜こうとする母。

およそ自覚が欠けており、夫として親として頼りがいのない父。でも、子供たちにとっては父は最大の遊び相手。遊んでほしいと父を求める姿がとてもいじらしい。

子供たちも母を助けるために、クリスマスの日に金を稼ぐ。石炭が運搬される道に沿ってこぼれた石炭を拾い集める仕事。真っ黒になってびしょ濡れになって帰ってくる。息子たちが金を稼いできても、父は動かない。たとえお金がなくなっても恵みを受けるような仕事はプライドが許さないからだ。
プライドが高く、それでいて生活力がない。まさに絵に描いたようなダメ親父だ。

本書は、カトリックの文化の中で育つ主人公の物語だ。そのため、カトリックの文化に則った出来事が多く描かれる。例えば初聖体受領、さらに信心会への出席。堅信礼。

ところが、カトリック文化は酒を許容する。まるで人を救ってくれるのは神だけでは足りないとでも言うように。酒も必要だと言うように。
父はそうした背景に甘え、赤ん坊ができても気にせずに酒に溺れて帰ってくる。
主人公が10歳を過ぎる頃にはもう父は、尊敬すべき対象ではなくなっている。

私も酒が好きだ。そのため、本書の描写はとても身につまされた。
アイルランドは、今でもアイルランド・ウイスキーの産地として知られる。もちろんギネス・ビールの産地としても。

酒は百薬の長と言うが、退廃を呼び覚ます悪い水でもある。
酒の悪い側面を本書で見せられると、暗澹とした気分になる。
私は幸いにして酒にそこまで溺れずに済んだ。
本書は、酒文化の悪い面を示すには格好の教材なのかもしれない。

ちょうど本書の描かれている時代は、アメリカの禁酒法の時代だ。なぜ禁酒法が生まれたのかを知るためには、悲惨な目にあうマコート一家の様子を見れば良い。
もちろんその原因の大部分は父の意思の弱さがあるのだろう。だが、そもそも酒があるからいけないのだ、とする考えが禁酒法の根底にはある。

その一方で主人公は徐々に成長する。チフスによる入院も乗り越え、角膜炎による失明の危機を乗り越え。性に対して興味を持ち、徐々に母のために家計を手伝うようになる。

電報配達の仕事を通じ、自分の家以外のさまざまな家庭の内実を知る。そこで童貞を捨て、別の仕事(借金の督促状の執筆)を受ける。主人公にはすでにアメリカに渡る明確な目標があるので、それに向け、何で身を立てていくのかが見えてくる。それは文章を作成する能力だ。

本書は相当に分厚い本だ。だが、読み始めるとあっという間に読み終えてしまう。まさにそれこそが、主人公が培った文章作成能力の結果だろう。

絶望の中でも仕事は与えられるし、そこからチャンスは転がっている。本書は、主人公がアメリカに向かうところで終わる。
19歳の主人公が酒に興味を持つ兆しはない。おそらく父を反面教師としているからだろう。

本書には続編があるらしいが、そうではアメリカで主人公が経験したさまざまな苦難が描かれると言う。また読んでみたいと思う。

‘2020/03/01-2020/03/05


DevRelConに参加して思った技術者のこれから


3/9にサイボウズ社で開催されたDevRelCon Tokyo 2019に参加しました。
この参加は代表である私のキャリアパスにとって得難い経験となりました。なのでレポートとして報告いたします。

昨年の秋からお誘いを受け、私はDevRelJpに参加させていただいております。DevRelのサイトに載っている定義によれば、「DevRelとはDeveloper Relationsの略で、自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動になります。 一般的にエバンジェリストまたはアドボケイターと呼ばれる人たちが活動します。」とのこと。つまりkintoneのエバンジェリストである私にとっては参加するしかないのです。

DevRelのイベントには二度ほど参加しました。そこで感銘を受けたのは、プログラムの内容や設計よりも、いかにして自社またはイチオシのサービスを広めるかに注力していることです。その内容は私の思いにもマッチしました。なぜなら、私は昨年あたりから自分のなかで力を入れるべき重点を変えようとしていたからです。開発者から伝道者へ。技術者から経営者へ。そうしたキャリアパスの移行を検討し始めていた私にとって、DevRelJpへの参加は必然だったといえます。

さて、今回のDevRelConは私ともう一人で参加しました。もう一人とは、とあるイベントで知り合った若い女性。大手企業の安定を捨て、新たな分野に飛び込む志を持った方です。その志に感じ入った私は、ちょくちょくこうしたイベントにお誘いしています。

今回も「こうしたイベントがあるよ」とその方をお誘いしました。ところが当の私がDevRelConのサイトを熟読せずに申し込んだのだから始末が悪い。もちろん、英語のスピーカーが多いなどの断片的な情報は頭の片隅にありました。ハードルがちょっと高いかもしれないというほんのわずかな懸念も。ところがそれぐらいの情報しか持たず、聴きたいセッションも選ばず、ただ申し込むだけというノーガード戦法。

今回の会場は私も何度も訪れているおなじみのサイボウズ社。いつもの動物達がお出迎えしてくれ、ボウズマンもサイボウ樹も健在。日本人の姿も結構見うけられます。自分のホームに帰ってきたような安心感。それもあって甘く見ていたのかもしれません。

そんな私の思いは開催とともに打ち砕かれます。司会進行は中津川さん。DevRelJpでもおなじみです。ところが喋っている言葉は全て英語。ほかの日本人スピーカーも流暢な英語を操っているではありませんか。普段、日本語で喋っているのに、今日に限ってどうしたことでしょう。さらに驚くべきことに、その状況におののいているのはどうやら私たちだけらしいという事実。英語で威勢よく進行する状況を周りは当然のこととして受け入れているのに、私たちだけ蚊帳の外。

普段、こうした技術系イベントでは同時通訳の副音声が流れるイヤホンが貸し出されます。ところがDevRelConにそうした甘えは許されず、全てを自分の耳で聞き取らねばなりません。と、横のサイボウ樹のディスプレイに日英の両方の文章が流れていることに気づきました。どうやらスマートスピーカーが言葉を聞き取り、通訳して文章を吐き出してくれている様子。普段、サイボウ樹のディスプレイは沈黙しています。今回、初めて大活躍の場を見ることができました。ですが、何か様子がおかしい。精度が悪く、ディスプレイにはほとんど意味をなさない文章が流れているのです。たまに口にするのもためらうような言葉も混じったり。話者によってはある程度の長さの文章を拾ってくれますが、流暢なネイティブスピーカーの言葉はほぼ支離滅裂。私たちの目を疑わせます。その内容にはあぜんとしました。流暢な人の言葉こそ、いちばん通訳を求められるのに。

つまりDevRelConとは、英語ヒアリング能力がなければ、まったく理解がおぼつかないイベントだったのです。

うかつにも私はイベントが始まってからその残酷な事実に気づきました。そして心の底からヤバいと思いました。こんな体たらくで10時間以上の長丁場に耐えられるのか、と。一緒に来た方も英語力は私とそう変わらない様子。全く聞き取れない英語の流れる会場で、絶望に満ちた顔を見合わせながら、日本語でヒソヒソと言葉を交わす二人。しかも私はまだ技術的な単語に免疫がありますが、この方は技術者ではありません。なので私など比べ物にならないほどの苦痛を感じていたはず。お誘いして申し訳ない、と思いました。

ところが、そんな私たちは結局最後まで会場に残り、懇親会にまで出席したのです。それはなぜかというと、会場のスピリットが伝わったからです。そのスピリットとは、上にも書いたDevRelの定義「自社製品/サービスと外部開発者とのつながりを作り上げる活動」です。スピーカーのおっしゃる内容は正確な意味は分かりません。ですがニュアンスは伝わってきます。つながりを作る活動。その思いが会場に満ち、私たちの心に何らかの作用を及ぼします。

全てのスピーカーの方々が訴えるメッセージとは、好きなサービスをテーマとしたコミュニティを作り上げ、そこからより活発な発信を行う。それだけのことなのです。それはそうです。DevRelConである以上、DevRelの理念が話されるのですから。そして私たちはまさにそうした内容が知りたくてこのイベントに参加したのです。

そのことに気づいてからは、気持ちが楽になりました。三つ用意された部屋を移り、それぞれでヴァラエティにあふれたスピーカーの皆様のプレゼンを聞きながら、プレゼンの仕方や、画像の挟み方を学びます。そしてプレゼンのエッセンスを必死に吸収しようと集中します。実際、勉強になることは多い。だてに英語の千本ノックを浴びていただけではないのです。絶え間ない英語のシャワーに耳を洗われ、洗練されたスピーカーのプレゼン技術に見ほれながら、私は受け取るべきメッセージは受け取り、自分の中に知見を吸収していきました。

私が得た気づき。それは、日本の技術者が陥っている閉塞感と終末感です。そして切迫した危機感。私にとって英語だけが交わされるこの空間は、余計な雑念を排してくれました。それほどまでに英語だけの環境は新鮮でした。

私も単身でイベントに参加することはよくあります。何十人も集まるイベントで私が知っているのは招待してくださった方のみ。なんて経験はザラです。そこで一分間しゃべる事を求められても動じなくなりました。そのようなイベントに積極的に出るようになったのは法人化したここ三年ぐらいのこと。そんな孤独感に満ちたイベント参加に慣れた私ですら、DevRelConの英語の飛び交う会場からは強烈な新鮮さを受け取りました。強烈な危機感とともに。その危機感は今までも感じていましたが、しょせんそれは頭の中だけの話。上辺だけの危機感です。ところがいざ、英語に満ちたフィールドに身を置いてみると、その危機感がより切実に私に迫ってきました。

Rubyの創始者として著名なまつもと氏も登壇されておりましたが、内容はごく当たり前に英語。本邦で生まれたプログラム言語が世界で使われるすごさ。それは、技術の世界に身を置いていると痛切に感じます。そこにはまつもと氏による地道な発信があったのです。最初は小規模なコミュニティからスタートし、英語で発信を行う。それがある日、拡大局面をむかえる。そこまでの日々にあるのはただ地道な努力のみ。近道はありません。

もしRubyのコミュニティが日本語だけに閉じていたとしたら、当然、今の繁栄もなかったはずです。情報技術が英語を母語として発展したことに疑いをはさむ人はよもやいないでしょう。英語が母語の状況がこれからも覆りようがないことも。例えばExcelやWordのマクロをいじろうとしてちょっと検索すれば、すぐに英語のドキュメントがしゃしゃり出てきます。クラウドサービスのドキュメントも英語まみれ。プログラム言語のドキュメントとなればあたり一面に技術的な英語がバシバシ現れます。それらのドキュメントは日本語に翻訳されていますが、ほとんどは自動翻訳によってズタズタにされ、いたいけな技術者をさらに惑わしにかかります。これからの技術者にとって英語はさらに必須となる事実は、今でも簡単に証明できます。

また、これからの日本には移民がさらに増えてくるはずです。国際的な取引にもますます英語が絡んでくることは疑いのないところ。英語を読み書きする能力もそうですが、会話する能力を磨かないと、これからのビジネスでは通用しなくなると言い切ってよいはず。正直、今までの私はたかをくくっていました。じきにドラえもんの「翻訳こんにゃく」が実用化され、英語を学ぶ必要はなくなるだろう、と。ですがサイボウ樹のディスプレイに流れる意味の分からぬ日英の文章の羅列は、私の甘い見通しを打ち砕きました。「翻訳こんにゃく」の実現にはあと10年はかかりそうです。

もう一つ、このイベントに出て思ったこと。それは日本人の閉鎖性です。異文化にさらされるようになってきた最近のわが国。ですが、しょせんは日本語で囲まれています。コンビニエンスストアで店員をしている諸外国の方も、たどたどしい日本語で頑張って対応してくれています。今はまだ。日本人が日本で暮らす分にはなんの脅威もなく、治安もある程度保たれています。ですが、その状況はこのまま移民が増えても大丈夫なのか、という危機感が私の脳裏から拭えません。その危機感とは治安に対してではなく、日本にいながら日本語が使えなくなることに対してです。すでに、クラウドや技術界隈の奔流が非日本語圏から流れてきています。その現状は、日本語文化への危機感をさらに煽り立てます。

日本人が大勢を占める職場で日本語だけを喋っていれば事足りる日々。実はその状態はものすごく恵まれており、極上のぬるま湯につかったような環境なのではないか。そして、その状況が取っ払われた時、日本人は果たして生き残っていけるのか。日本をめぐる危機がさまざまに叫ばれる今ですが、これから数十年の日本人が直面する危機とは、財政や年金や自然災害によるものではなく、実は文化や言語をめぐる根本的な変化が原因となるのではないか。その時、今の状況に甘んじている日本人はその変化に対応できず、没落するほかないのでは。そんな危機感に襲われました。かつて、新渡戸稲造が英語で武士道を書き、世界に向けて日本のすばらしさを啓蒙しました。英語を自在に操れるようになったからといって、日本の心は消えないはず。むしろより英語が必要になるこれからだからこそ、英語で日本文化を守っていかねば。日本語のみにしがみついていたらマズいことになる。そんな風に思いました。

DevRelConにいるのなら、コミュニケーションを取らねば。まつもと氏とは会話し、握手もさせてもらいました。TwitterブースにいたDanielさんとは英語で会話もし、Twitterのやりとりもしました。夜の懇親会でもさまざまな方と会話を交わしました。ですが、私の英語コミュニケーション能力は絶望的なままです。去年断念したサンノゼのGoogleイベントに今年もご招待されました。ですが今のままでは会話がおぼつかない。それ以前に異文化に飛び込む勇気が私には欠けています。日本のイベントに単身で飛び込むのとはレベルが違う恐怖。まず私が克服しなければならないのはこの恐怖です。

そうした強烈な気づきが得られたこと。それが今回DevRelConに出た最大の収穫だったと思います。まとめサイトもアップされており、私がイベント中に発信したつぶやきもいくつも収められています。

折しも、複雑なアルゴリズムの開発で苦しみ、私自身が技術者としての賞味期限を意識した途端、同学年のイチロー選手の引退のニュースが飛び込んで来ました。その翌日、EBISU Tech Nightというシステム開発会社のイベントで登壇依頼を受け、優秀な技術者の方々へ話す機会をいただきました。スライド

そこで話したのはDevRelConの経験です。簡潔に私の得た気づきを語りました。技術者だからこそこれからの時代でコミュニケーションを身につけねばならない。それにはDevRelConのようなイベントに飛び込んで行くだけの気概を持たないと。そんな内容です。冒頭の自己紹介を英語でしゃべり、盛大に自爆したのは御愛嬌。終わった後の懇親会でも私の趣旨に賛同してくださる方がいました。その方からは殻に閉じこもる技術者がいかに多いかという嘆きも伺いました。どうすればザ・グレート・シタウケから日本の技術者は脱却できるのか。それを追い求めるためにも、私も引き続き精進し、全編フルのスペクタクルに満ちた英語のプレゼンテーションができるようになりたい。ならねばならないのです。


ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー


『エピソード7:フォースの覚醒』、『エピソード8:最後のジェダイ』。そして『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。これらの三作品はスター・ウォーズを蘇らせた。そして蘇らせるだけでなく、新たな魅力までも備えさせた。そのインパクトは、劇場公開当時に『エピソード4〜6』を観ていない私のような観客にもスター・ウォーズ・サーガの魅力を十分に知らしめた。偉大なる作品群だと思う。

サーガとは物語だ。だから終わりがない。未来を語れば選択肢は無限。過ぎ去った物語も無限。だからこそスピンオフ作品は生まれる。しかもそれがスター・ウォーズほどの作品ともなればスピンオフのための題材は山のようにある。だからこそ、スター・ウォーズから派生した相当の数のスピンオフ作品が小説やコミックなどで発表されているのだろう。そして、あまたのスピンオフ作品の中でも正統なスピンオフに位置付けられていたのが『ローグ・ワン』だ。

正統のスピンオフと銘打つだけのことはあり、『ローグ・ワン』は本編に劣らぬ内容だった。魅力的な登場人物たちがデス・スターの設計書を苦心の末奪い取る。そして大勢の犠牲を払った末、データは無事に送信される。本編の『エピソード4:新たなる希望』では『ローグ・ワン』で送信されたデス・スターの設計書データをもとにストーリーが構築されている。長い間、このエピソードは『エピソード4:新たなる希望』のオープニングロールの文章の中だけで触れられていた。あれほどの最新鋭の基地の設計図がなぜ都合よく反乱軍の手に収まったのか、という疑問。それは『エピソード4』の前提が安直との弱点でもあった。『ローグ・ワン』はそのエピソードを描くことで本編を補完した。スピンオフの役割が本編の補完にあるとすれば、『ローグ・ワン』はまさにそれを果たしていた。

そして本作だ。本作もまたスピンオフ作品だ。だが、果たして本作は本編を補完しているのだろうか。そう問われると私は少し言い淀むしかない。たしかにハン・ソロは本編の『エピソード4〜7』における主要なキャラクターだ。それらの中でハン・ソロから発せられたセリフは観客の印象に残っている。例えば『エピソード4』でルークと出会った時、ハン・ソロはミレニアム・ファルコン号を「ケッセル・ランを12パーセクで飛んだ船だ」と紹介していた。また、ミレニアム・ファルコン号にはサイコロのようなお守りが登場する。『エピソード5:帝国の逆襲』ではミレニアム・ファルコン号がランド・カルリシアンからギャンブルで巻き上げた船であることが観客に知らされる。また、チューバッカとハン・ソロの絆の深さは、エピソード4〜6にかけて印象的だ。それらの前提がどこから来たのか。それはスター・ウォーズのファンにとっては気になるはず。そして前提となる情報は今まで描かれないままだった。本作はそれらの観客の渇きを癒やすために作られたのだろう。『エピソード7』でハン・ソロが物語から去った今、なおさらハン・ソロという人物はしのばれなくてはならないのだから。だが、それらは本当に補完されるべき情報なのだろうか。わたしには少し疑問だ。

スター・ウォーズが好きな私としては、本作は当然みるつもりだった。だからこそ封切りした翌々日、私にとってはいつもよりも早いタイミングで映画館に行ったのだ。結果、上に書いたようなハン・ソロにまつわるエピソードの伏線についてはほぼ納得できた。だが、本作をみた後は逆にモヤモヤが残った。どこがどうモヤモヤなのか。それは本作をみていない方にとってネタバレになるのでこれ以上書かない。とにかく本作に登場した主要人物の中で、その後の本編にどう関わるのかわからない人物が二人、登場する。また、その関わりが『エピソード4』につながるのか、それとも『エピソード1〜3』につながるのかもわからない。本作は、過去の作品が広げた風呂敷を確かに畳んだ。だが一方で新たな謎も広げた。それはスピンオフ作品のあるべき姿とは思えない。ある意味、スピンオフのセオリーから外れているとすら言える。もちろん、物語とは終わるはずのないものだ。だから、本来はエピソードを収束させる考え自体が間違っているのだろう。それはスピンオフ作品であっても同じ。だが、スター・ウォーズの本編ありきでスピンオフを考えていた観客には少しモヤモヤが残る。スピンオフがさらなるスピンオフを生む。この手法は賛否両論がありそうに思える。また、もしこの設定が他のスピンオフ、つまり8作の本編と2作のスピンオフの他に多数発表された小説やコミックにつながるのであれば、なおさら非難の声は挙がりそうな気がしてならない。

ストーリーについてはこれぐらいにしておく。後もう一点で言いたい不満はアクションシーンについてだ。たまにハリウッド大作をみていて思うのが、弾幕の中を登場人物が無傷で切り抜けるシーン。あれ、どう考えても都合よすぎでしょ。実は本作にもそのようなシーンが登場する。それはミレニアム・ファルコン号の前で壮絶な打ち合いの末、全員を回収して離陸し、宇宙に飛び去るシーンだ。同様のシーンは『エピソード4』にもあった。本作はもちろんそれを踏まえての演出だと思う。だが、本作の弾幕の厚さはただ事ではない。『エピソード4』の同じシーンの弾数とは段違いの。それなのにL3-37がスクラップになるだけで、その他のほとんどの人物はほぼ無傷で切り抜ける。これは如何なものか。『エピソード8』がいい意味で観客の期待を裏切ることに成功していたので、本作の撃ち合いシーンに工夫がなかったことには苦言を呈したい。

ハリウッド大作にありがちなことは他にもある。英語が標準語である設定だ。舞台がフランスだろうが日本だろうがドイツだろうが英語でグイグイ押し通すやり口。これは私はハリウッドの必要悪として半ば諦めている。スター・ウォーズにしてもそう。全てが英語だ。異星人のオールスターが登場する本作にしてもそう。異星の言語を翻訳するため英語の字幕が出たのは数シーンのみ。特に目についたのは二つのシーンだ。ハン・ソロとチューバッカが出会うシーン。見張りを欺くため、ハン・ソロがウーキー語でチューバッカに話しかける。ここまではまだいい。だが、脱出が全うできそうな場において、英語で普通に喋るハン・ソロの声を事も無げに聞き分けるチューバッカ。無理やり、そしてたまたま銀河共通語が今の英語であるという設定を鵜呑みにすれば解釈できるかもしれない。だが、ハン・ソロの名前の由来が明かされるシーン。そりゃないでしょ、と思った。あれはやりすぎだ。

さて、あまり映画の悪口は書かない私。だが今回はつい書いてしまった。でも、その点を除けば本作は良かったと思う。特に俳優陣についてはいうことがない。ハン・ソロもランド・カルリシアンも、もう少し似た俳優さんを配役に充てても良かったように思う。だが、これはこれで仕方ない。容姿以上に、彼らの演技からは若かった頃のランドやソロはこんな感じやったんやろうなあと思わせる説得力があった。特にランドを演じていたドナルド・グローヴァーさんは、今までさほど表現されてこなかったランドを深掘りすることに成功していたと思う。ハン・ソロを演じたオールデン・エアエンライクさんも老けたハン・ソロが印象に残ってしまいかねない今の観客に、若々しいハン・ソロを思い出させたように思う。また、新たなキャラクターたちもとても良かった。とくにヒロインのキーラを演じたエミリア・クラークさんの可憐さの中にどこか冷たさのある感じ。ハン・ソロの師匠ともいうべきトバイアス・ベケットを演じたウディ・ハレルソンさんの存在感。ヴァルを演じたタンディ・ニュートンさんも以前『クラッシュ』で見かけた時とは印象がガラリと変わっていた。他にもエンドクレジットには旧三部作からお馴染みの方の名前も見つけられた。C-3POやイウォークの中の人とか。

スター・ウォーズは超大作だけにカメオ出演がとても多いと聞く。脇役でも油断すると誰が出演しているかわからないのがスター・ウォーズの楽しさ。細かくみればもっといろいろなことがわかるのだろう。実は私が上で批判したような伏線も、今までの『エピソード1-8』『ローグ・ワン』をよく見れば、本作の設定とつながっているのかもしれない。とくに『エピソード1〜3』は、わたしも映画館で見たきりだ。『エピソード1〜3』を再び見直すのだ、というメッセージが本作なのかもしれない。私も見直してみようと思う。

‘2018/07/01 イオンシネマ新百合ヶ丘