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生きるぼくら


著者の名前は最近よく目にする。
おそらく今、乗りに乗っている作家の一人だからだろう。
私は著者の作品を今まで読んだことがなく、知識がなかったので図書館で並ぶ著者の作品の中からタイトルだけで本書を手に取った。

本書の内容は地方創生ものだ。
都会で生活を見失った若者が田舎で生きがいを見いだす。内容は一言で書くとそうなる。
2017年に読んだ「地方創生株式会社」「続地方創生株式会社」とテーマはかぶっている。

だが、上に挙げた二冊と本書の間には、違いがある。
それは上に挙げた二冊が具体的な地方創生の施策にまで踏み込んでかかれていたが、本書にはそれがないことだ。
本書はマクロの地方創生ではなく、より地に足のついた農作業そのものに焦点をあてている。だから本書には都会と田舎を対比する切り口は登場しない。そして、田舎が蘇るため実効性のある処方も書いていない。そもそも、本書はそうした視点には立っていない。

本書は、田舎で置き去りにされる年配者の現実と、その介護の現実を描いている。そこには生きることの実感が溢れている。
生きる実感。本書の主人公である麻生人生の日常からは、それが全く失われてしまっている。
小学生の時に父が出て行ってしまい、母子家庭に。その頃からひどいいじめにさらされ、ついには不登校になってしまう。高校を中退し、働き始めても人との距離感をうまくつかめずに苦しむ日々。そしてついには引きこもってしまう。

生計を維持するため、夜も昼も働く母とは生活リズムも違う。だから顔を合わせることもない。母が買いだめたカップラーメンやおにぎりを食べ、スマホに没頭する。そんな「人生」の毎日。
だがある日、全てを投げ出した母は、置き手紙を残して失踪してしまう。

一人で放りだされた「人生」。
「人生」は、母の置き手紙に書かれていたわずかな年賀状の束から、蓼科に住む失踪した父の母、つまり真麻おばあちゃんから届いた達筆で書かれた年賀状を見つける。
マーサおばあちゃんからの年賀状には「人生」のことを案じる文章とともに、自らの余命のことが書かれていた。
蓼科で過ごした少年の頃の楽しかった思い出。それを思い出した「人生」は、なけなしの金を持って蓼科へと向かう。
蓼科で「人生」はさまざまな人に出会う。例えばつぼみ。
マーサおばあちゃんの孫だと名乗るつぼみは、「人生」よりも少し年下に見える。それなのにつぼみは、「人生」に敵意を持って接してくる。

つぼみもまた社会で生きるのに疲れた少女だ。しかもつぼみは、立て続けに両親を亡くしている。
「人生」の父が家を出て行った後、再婚した相手の実子だったつぼみは、「人生」の父が亡くなり、それに動転した母が事故で死んだことで、身寄りを失って蓼科にやってきたという。

「人生」とつぼみが蓼科で過ごす時間。それはマーサおばあちゃんの田んぼで米作りに励みながら、人々と交流する日々でもある。
その日々は、人として自立できている感触と、生きることの実感を与えてくれる。そうした毎日の中で人生の意味を掴み取ってゆく「人生」とつぼみ。

本書にはスマホが重要な小道具として登場する。
先に本書は田舎と都会を比べていない、と書いた。確かに本書に都会は描かれないが、著者がスマホに投影するのは都会の貧しさだ。
生活の実感を軸にして、蓼科の豊かな生活とスマホに象徴される都会の貧しさが比較されている。
都会が悪いのではない。スマホに没頭しさえすれば、毎日が過ごせてしまう状況こそが悪い。
一見すると人間関係の煩わしさから自由になったと錯覚できるスマホ。ところがそれこそが若者の閉塞感を加速させている事を著者はほのめかしている。

「人生」がかつて手放せなかったスマホ。それは、毎日の畑仕事の中で次第に使われなくなってゆく。
そしてある日、おばあちゃんが誤ってスマホを池に水没させてしまう。当初、「人生」は自らの生きるよすがであるスマホが失われたことに激しいショックを受ける。
だが、それをきっかけに「人生」はスマホと決別する。そして、「人生」は自らの人生と初めて向き合う。

田舎とは人が生きる意味を生の感覚で感じられる場所だ。
本書に登場する蓼科の人々はとにかく人が良い。
ただし、田舎の人はすべて好人物として登場することが多い。実際は、それほど単純ではない。実際、田舎の閉鎖性が都会からやってきた若者を拒絶する事例も耳にする。すべての田舎が本書に描かれたような温かみに満ちた場所とは考えない方がよい。
本書で描かれる例はあくまで小説としての一例でしかない。そう受け取った方がよいだろう。
結局、都会にも良い人と悪い人がいるように、田舎にだって良い人や悪い人はいるのだから。
そして、都会で疲れた若者も同じく十把一絡げで扱うべきではない。田舎に合う人、合わない人は人によってそれぞれであり、田舎に住んでいる人もそれぞれ。

「人生」とつぼみはマーサおばあちゃんという共通の係累がいた事で、受け入れられた。彼らのおかれた条件は、ある意味で恵まれており、それが全ての若者に当てはまるわけではない。その事を忘れてはならない。
そうした条件を無視していきなり田舎に向かい、そこで受け入れられようとする甘い考えは慎んだ方がよいし、受け入れられないからと言って諦めたり、不満をSNSで発信するような軽挙は戒めた方が良いだろう。

私は旅が大好きだ。
だが私は、今のところ田舎に引っ越す予定はない。
なぜなら生来の不器用さが妨げとなり、私が農業で食っていく事は難しいからだ。多分、本書で描かれたようなケースは私には当てはまらないだろう。
一方で、今の技術の進化はリモートワークやテレワークを可能にしており、田舎に住みながら都会の仕事をこなす事が可能になりつつある。私でも田舎で暮らせる状況が整っているのだ。

そうした状況を踏まえた上で、田舎であろうと都会であろうと無関係に老いて呆けた時、都会に比べて田舎は不便である事も想定しておくべきだ。
本書で描かれる田舎が理想的であればあるほど、私はそのような感想を持った。

間違いなく、これからも都会は若者を魅了し続けることだろう。そして傷ついた若者を消耗させてゆくだろう。
そんな都会で傷ついた「人生」やつぼみのような若者を受け入れ、癒やしてくれる場所でありうるのが田舎だ。
田舎の全てが楽園ではない。だが、都会にない良さがある事もまた確か。
私はそうした魅力にとらわれて田舎を旅している。おそらくこれからも旅することだろう。

都会が適正な人口密度に落ち着く日はまだ遠い先だろう。
しばらくは田舎が都会に住む人々にとって、癒やしの場所であり続けるだろう。だが、私は少しずつでもよいから都市から田舎への移動を促していきたいと思う。
そうした事を踏まえて本書は都会に疲れた人にこそお勧めしたい。

‘2019/01/20-2019/01/20


古道具 中野商店


最近、めっきり古本屋を見かけなくなった。
私にも関西や関東でいくつか思い浮かぶ古本屋がある。おそらくそうしたお店のほとんどは閉店してしまっただろうけど。最近も町田で高原書店という本好きには知られたお店が閉じてしまった。

古本屋には特有の雰囲気がある。お店に入ったとたん身を包むのは、世間とは明らかに切り離された滞った時間。その独特の時間に身を委ねつつ、本を選ぶ幸せ。
ここ20年、日本各地に出店したブックオフのような新古書店のこうこうと照らされた店内では味わえない雰囲気が古本屋にはある。並べられた本の色が時間の進み方に影響されてくすんでいる店内。
最近では街場のこぢんまりとした古本屋におもむきたければ、神保町まで足を伸ばす手間を惜しまないと。

本書に登場する中野商店は、そのような時代から切り離されたような古本屋とは違う魅力がある。
まず、時間の流れに起伏がある。少なくとも小説を構成する程度には。誰も来ない時間帯の中野商店には持て余す時間もあるだろう。ただ、持ち込まれる商品が本に比べて多種多様なので買取査定の時間は慌ただしくなる。常連客や一見客が出入りし、値段交渉や質問が飛ぶ。
ひょっとしたら、古本屋にも私の知らない時間の起伏があるのかもしれないが。

なによりも違うのが、本書で描かれる中野商店には店主のほかに二人のスタッフがいることだ。
奥座敷にちんまり店主だか店番だかが座っている古本屋のたたずまいと違うのはその点だ。
スタッフがいるとお店にも動きが出てくる。会話も生まれる。そして店主の中野さんの飾らない人柄に引き寄せられ、出入りする関係者がお店の日常にアクセントを加える。

本書は「わたし」の視点から描かれる。
スタッフのわたしから見た中野商店には店主の中野さんの他に、同じスタッフのタケオがいる。そして中野さんの姉のマサヨさんも出入りする。さらに、中野さんの交際女性であるサキ子さんも。
そうした人々がさらにつながりを呼び、人々が中野商店をハブとして集散する。モノを通して人々が思いを通わせてゆく。

古道具屋とは、ひとびとの思いのこもった品が集まる場だ。
古本にも同じことは言えるが、より生活に密着している点では、古道具の方が人の思いが通いやすいのかもしれない。
だから、「わたし」もタケオも、コミュニケーションの能力が足りなくてもモノを通して人々と交われる。働く経験を積み重ね、人間として成長できる。

そんな「わたし」はタケオに思いを寄せる。だがタケオの反応がつかめないでいる。
店番の仕事が多い私と、買い付けに出かけることの多いタケオ。二人の時間が交わることはないけれど、たまに出歩き、セックスし、かといえばささいなことでケンカする。
不器用で人付き合いの苦手な二人が中野商店での日々を通して、人との付き合い方や、世の中で生きて行く道をつかんで行く。本書はそんな話だ。

頼りなくだらしないようでいながら、店を切り盛りする中野さん。たまにしか店に来ないけど、しっかり者で「わたし」を見守り、時には導いてくれるマサヨさん。美人でやり手の同業者なのに、なぜか中野さんと付き合い、そして別れを繰り返すサキ子さん。「わたし」はこうした大人たちとの交わりを通して、少しずつコミュニケーションのコツをつかんでゆく。
こうした大人の存在って大切だと思う。なぜなら私もそうだったから。

昨今、新卒で採用された若者の離職する率が高いという。
ただあくまでもわたしの感覚だが、いきなり企業のビジネスの現場に放り込まれて、如才なくやっていける人の方が少数派ではないだろうか。
だからこそ上意下達の精神が養われた体育会系の人材の内定も決まりやすいのだろうし。

如才なくいきるための訓練を与えられずビジネスの現場に放り込まれた人は、不器用さを嘆きながらも世の中に揉まれてゆくしかない。
本書はそうした人のための一つのケースとしてオススメできる。また、読んだ人によっては勇気付けられる作品だと思う。
本書の結末は、コミュニケーション能力の欠如に苦しむ人にとって一つの回答とすらいえる。

中野商店は、ネットに特化するため、という名目で店を閉じる。
だが「わたし」は派遣社員としてあちこちを渡り歩きながらも社会に参加している。
そして数年後、ひょんな偶然で再会したタケオはウェブデザイナーとして自活の道を歩んでいる。その姿はまさに、私自身が世に出てゆく過程を見ているよう。

中野商店が「わたし」とタケオに与えてくれたものとは月々の給与ではない。スマホやタブレットなしでも人はコミュニケーションを交わしていける実感だ。そして、たどたどしくとも一生懸命に素直に生きていれば、大人になるにつれコミュニケーションに長けてゆける基礎を作ってくれたことだ。
立て板に水を流すようにトークの達人にならなくてもいい。弁舌もさわやかに商談で相手を論破しなくてもいい。社会の片隅で気の合うもの同士で顔を突き合わせて暮らす幸せはあるはず。

本書は、世の中の複雑さと恋愛の煩わしさに尻込みしているコミュ障の若者に読んでほしい一冊だと思う。
私も自分のかつてを思い出し、自分の原点でもあるそういう古本屋に訪れたくなった。

‘2018/11/08-2018/11/08


時が滲む朝


日本語を母語としない著者が芥川賞を受賞するのは初めてのことらしい。そのためか、本書には「ん?」と感じる表現が散見される。そうした表現は日本語の文章ではあまり見られない。それは中国で生まれ育った著者が、生まれながらにして日本語を使いこなしていないからだろう。でも、それもまた著者の文体だ。そう思えば気にならないし、むしろ独特の色合い、個性だと思えばよい。

それよりも本書で浮いているのは馬先輩が挟む英語だ。著者は馬先輩の凡人ぶりを際立たせるために、このような英語表言を挟み込んだのだろうか。明らかに本書の中では浮いてしまっている。

そうした点を除けば、本書はとても読みやすい。特に、私のような第二次ベビーブーム世代には、尾崎豊の登場だけで共感できると思う。

本書は、理想に燃えた若者が成長し、世間の流れに飲み込まれて行く様子が描かれる。舞台は中国。本書でいう燃える理想とは、中国の民主化だ。理想に燃えた青年たちが、親となって生活に追われ、本書の主人公のように中国を出て、異国で過ごす日々で、世間の中に紛れてゆく姿。そうした姿を著者は同じ時代を生きた人として見つめ、小説に著した。

一方でわが国だ。すでに時代や世代の精神なる言葉は聞かれなくなって久しい。私たちの世代に戦争はすでに遠い。学生運動すら、生まれる前後には下火になっていた。つまり、理想として掲げる対象がなかった。そんな中で青年の前半生を送ったのが私たちだ。

例えば私が第二次ベビーブーム世代を代表する何かを書こうとしたとする。ところが見事なまでに空っぽだ。無理もない。オイルショックがあったとはいえ、日本の経済成長はすでに十分な繁栄を私たちに与えてくれた。泡が弾けるまで好景気を満喫する日々。電化製品が色と音を弾けさせる街中。ゲームはよりどりみどり。いくつもあるテレビチャンネルが、好きなだけただで番組を見せてくれる。食い物や飲み物にも事欠かない。そんな日々のどこに若者が不満を抱えるというのか。せいぜい、オウム真理教で心の充足をうたう組織のおぞましさや、阪神・淡路大震災で世界の不安定さにおののくぐらいが関の山だろう。

ところが著者の世代には、書かねばならないテーマ(国の民主化)と事件(天安門事件)があった。それはある意味ではうらやましい。

少なくとも文学の材料として、日本の若者には共通の理想は掲げにくい。ところが、隣の中国には描くべき現実、掲げるべき理想が山のようにあった。共産党の一党独裁、地方の貧しさ、文化大革命の余韻。キリがない。そんな若者たちが民主化を求める声は、天安門事件において頂点にに達した。

私は当時、高校生になったばかり。どういうきっかけかは忘れたが、天安門事件に強烈な興味を持った。日々の新聞で天安門事件に関する記事を全て切りぬき、スクラップブックに貼り付けた。多分、スクラップブックは今でも実家の部屋に置いてあるはず。私にとって、天安門事件こそが、リアルタイムで最初に興味を持った国際的な事件だった。毎日飛び込んでくる衝撃のニュースに興奮し、新聞を隅から隅まで読み込む。リアルタイムで日々のニュースを熟読したのは、天安門事件が最初で最後だろう。だからこそ、本書で描かれた天安門事件は、私にとって共感の対象となった。

本書でもう一つ、第二次ベビーブーム世代にとって心惹かれる要素がある。それは尾崎豊だ。代表曲「I Love You」が本書ではキーとなる。テレサ・テンの歌声に陶酔し、成長した主人公だが、本書の後半では尾崎豊の「I Love You」に心を鷲掴みにされる。

中国の若者が掲げた理想への思いが、尾崎豊を通して日本で暮らす若者に届く。それは日本からの視点では生まれにくい発想だ。著者ならでは、といえよう。だが、著者が本書で描いたことによって、あらためて尾崎豊の存在とはなんだったのか、という疑問に考えが及ぶ。そこで思うのが、尾崎豊こそは、上にも書いた世代の精神を歌い上げた人ではなかっただろうか。衣食住が満たされ、あり余るモノに囲まれた日本の若者は何に理想を求めたか。それは管理からの脱出だ。退屈な授業と受験勉強。やっとの事でそれを突破したら、待っているのは定年まで続く組織での日々。しかももれなく通勤ラッシュがついてくる。尾崎豊は高度成長期の日本の若者ならではの現実のつまらなさと目指すべき理想を歌に乗せ、カリスマとなった。

主人公とその親友は本書の中で二狼とあだ名をつけられる。つまりオオカミだ。本書にはオオカミと豚の比喩も現れる。豚にはなるな、オオカミであれ、と。そのフレーズは明らかに尾崎豊の『Bow!』からの引用だろう。私が好きな尾崎豊の曲の一つだ。その曲の中で尾崎豊はこう叫んでいる。

鉄を喰え 飢えた狼よ
死んでもブタには 喰いつくな

私は二十三才のある日、一日中、尾崎豊の「シェリー」を聴いて過ごしたことがある。青年が襲われる理想と現実のギャップに、心の底から悩みながら。その時にも、その後にも尾崎豊の詩には何度も奮い立たされてきた。上に引用した「Bow!」もその一つ。どう生きたいのか、どう生きねばならないのか。中年になった今でもその理想は忘れられない。

本書に登場する尾崎豊の歌詞は「I Love  You」だけだ。でも、オオカミと豚のくだりは、私にとっては完全に「Bow!」を連想させる。だからこそ私は本書は本書に共感が持てた。そして、中国の若者が理想を求めた気持ちもわずかながらでも理解できる。天安門事件の当時、私はまだ真面目に授業を受けていた。そして尾崎豊にはそれほど惹かれていなかった。だが、天安門事件に特に興味を惹かれた私には、理想を求める気持ちが少しずつ芽吹きはじめたのだろう。後年、私を助けてくれることになる尾崎豊の掲げた理想。そして中国の若者が抱く理想。それらが本書において時代の精神として結晶し、尾崎豊の歌として提示されている。その結晶の成長は、私自身の精神の成長にリンクしている。だからこそ、三十年近くたった今でも、本書に共感できるのだと思う。当時を思い返しながら。

もちろん、理想とは実現できないからこそ理想だ。本書の登場人物たちもそのことを理解しつつ年を重ねる。主人公は、自分を慕ってくれていた中国残留孤児で日本に戻った女性と結婚する。そして日本で苦労しながらパソコンを覚え、生活の糧を得る。二狼と称されたもう片方は、中国に残ってデザイン会社を立ち上げる。彼も理想や革命を語るよりも、いまや経営のためにはカワイイデザインを手がけることも辞さない。二人の師はフランスに亡命し、理想をともに掲げていた同志もアメリカやフランスに亡命し、それぞれが生きてゆくための糧を稼ぐことに必死だ。私もそう。ようやく40歳を過ぎて独立は果たしたものの、営んでいることは資本主義の一つの歯車に過ぎない。

理想と現実のギャップに苦しんだ今だからこそ言えるが、数年前に若者が立ち上げたSEALDsも、たしかに主張の空虚さはあったにせよ、世の中を変えたいとの熱意は理解できる。むしろ、若者とは理想を求めて当然の存在なのだ。そして現実の手ごわさに悩み、挫折する。だが、現実の高い壁に跳ね返されたのなら、より穏健な方法で少しずつ世の中を変えていけばよいだけのこと。いまの保守系の重鎮たちの昔を見てみるがいい。かつて左向きの主張にのめり込んでいた人間のどれだけ多いことか。

世の中の流れに乗るふりをして、心の中のオオカミを忘れなければいい。私はそうやって中年の今も人生に折り合いをつけている。本書の主人公たちもそう。国が異なろうとも、理想は持ち続ける。それが青年の美しさなのだから。

‘2018/09/17-2018/09/19


オールド・テロリスト


著者は近年、近未来の日本を描くことで現代に警鐘を鳴らそうとしている。『希望の国のエクゾダス』は、中学生たちが日本に半独立国を作り上げる物語だった。本書はそのシリーズに連なっている。本書の主人公は当時、中学生を取材したジャーナリスト、セキグチ。彼がルポルタージュの執筆依頼を受けた時から本書は始まる。セキグチにルポを依頼した人物は、自らを満州国の人間と名乗り、セキグチをNHKに招く。

その指示に従ってNHKを訪れたセキグチは、若者による自爆テロに遭遇する。九死に一生を得たセキグチは、ルポをウェブマガジンに発表して世間の反応を見る。そこにさらにニュースが飛び込む。自爆犯の仲間達の自殺死体とその傍に置かれていた犯行声明が見つかったのだ。その声明は隷書体で書かれており、セキグチの捜索の糸は、駒込の書道教室へと伸びる。そこには謎めいた女性カツラギと、老人たちのコミュニティが築かれていた。そこでセキグチに託されたのは次なるテロ現場への手がかり。池上の柳橋商店街。そこでセキグチは、植栽を整えるための苅払機の刃が通行人の首を切り裂く瞬間に遭遇する。

セキグチは何かが起ころうとしている事を理解する。老人たちのコミュニティが何か大それたことを計画しているに違いない。希望を持てなくなった若者をそそのかし、自爆テロに向かわせるコミュニティー。その正体は曖昧であり、謎に包まれている。目的を完遂するため、相互の関係がわかりにくい組織を構築した。ちょうどアルカイダのような。

カツラギと親しくなったセキグチは、そのつてで精神科を営むアキヅキの知己を得る。そして老獪なアキヅキとの会話から、オールド・テロリストたちの目指す大義の一端をうかがい知る。

心療医ならではのソフトな口調を操るアキヅキ。彼が発する膨大なセリフの中に本書の肝は含まれている。その中の二つを抜粋してみたい。

「・・・・前略・・・・

老人に関して言うと、弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

・・・・後略・・・・」(124P)

「・・・・前略・・・・

 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなどできるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。

・・・・後略・・・・」(132~133P)

このセリフなど、今の日本の抱える二分化の状況を端的にあらわしている。今の若者に何が起こっているのか。私も含めた若者たちはどういう試練を課せられてきたのか。実に考えさせられる。また、最初のセリフからは、老いているから弱いという思い込みをはねつける強靭なメッセージが伝わってくる。老いるということはそれだけ長く試練に耐えてきた証拠なのだ。今の私たちが生きていること自体が、先祖たちが生き抜いてきた証であるのと同じように。

アキヅキは日本を焼け野原にするという。そして日本の原発の脆弱さを不気味に語る。さらに、謎かけのように歌舞伎町の映画館について言及する。予感を感じたセキグチは、新宿のミラノ座で「AMAOU」なるAKBやSKEの亜流グループが出る映画を見に行く。そして、そこでテロに巻き込まれる。高温で焼き尽くされた劇場からは数百人から千人に迫る規模の死者がでた。イペリットを使ったテロ。セキグチとカツラギ、そしてセキグチが出版社で机を並べていた同僚のマツノはそのテロで危うく死にかける。

そのテロこそ、コミュニティが真に牙を剥いた瞬間。そして遥かな満州国の頃から日本の奥底でうごめく策動が本格的に始動した証だった。そのコミュニティを作り上げ、満州国の生き証人である老人。明日にでも死んでしまいそうなほど衰えたその老人とセキグチは面会を果たす。そして老人から、コミュニティの中で先鋭的な手段に訴えるグループがあること、映画館のテロはそのグループが独断で行ったこと。グループの過激な行動は老人の意図を超えており、そのたくらみを止めて欲しいと頼まれる。老人から託された運動資金は十億。十億など老人にとっては単なる数字。金の流れを把握しきった老人による金の本質を突くセリフも興味深い。

セキグチとカツラギとマツノは、豊富な資金を元手にグループの計画に迫る。565ページある本書はここから、さらに紆余曲折がある。そしてその折々に重要なメッセージが読者に突き付けられる。例えば、

「わたしはあの人に興味がないし、あの人も、もちろんわたしに興味がない。ただし、だからあの人はわたしを信用しているの」

「・・・・前略・・・・

そういう人って、興味を持つ対象がいた場合、まず思うのは、とにかくこいつを殺したいってことです。

・・・・中略・・・・

彼は、どういうわけか、わたしには興味がなかったんですね。わたしのことを、殺したいやつだと思わなかったんです。だから信用されたんだと思う」(289P)

このセリフも、信用や人の関係の本質をナイフのようにえぐっている。

また、こういったセリフも登場する。

「テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は社会にあふれかえっているので、探し出して、洗脳というか、誘導するのは、そうむずかしいことではないでしょう。

・・・・中略・・・・

特攻隊がなぜ美しいか、わかるか。彼らは、二十歳そこそこの若さで、国や、故郷、そして愛する人々を守るために、喜んで犠牲となった、彼らは、七十年後の今でも、尊敬され、英雄として崇められている、崇高で、偉大なものの犠牲になる、それがいかに美しく、素晴らしいかわかるか。

 そういう洗脳をされるのは、気持ちがいいものです。ある種の人たちにとっては、信じられないくらい圧倒的に気持ちがいい。自分で考える必要もないし、自分をコントロールできないと苦しんだり不安になったりする必要もない。

・・・・中略・・・・

その種の洗脳は、甘えることを当然と考える人間が多い社会において、宗教的で、恐ろしい効果を生むんです」(334-335P)

この言葉も読者にはささるはず。

著者の作品を読むといつも思わされるのは危機感の欠如だ。現実の営みがどれだけ緩やかな流れに乗っているか。仕事や家庭で忙しない国民たち。今の我が国にはある程度のセーフティネットが用意されている。それは世のぬるい流れに乗って生きることの快適さを保証してくれている。その流れに乗っていれば楽だ。楽だが、生の証を刻みつけるには、はなはだ心もとない。そもそもその様な生きざまでは、いざ有事が発生した際、まっさきに淘汰される。

むろん、老人たちにしてみても、若い頃は軍国の流れに乗らざるを得なかった。望まぬまま有事に巻き込まれ、その記憶に引きずられている。だが老人たちは今、意図して有事を作り出そうとする。ぬるま湯の日本に刺激を与えるために。

本書はこのあと結末に向かって進んでいく。その結末は書かない。本書の筋書きよりも、あちこちにちりばめられた警句めいた言葉から何かをつかみ取ることが重要だ。本書は著者からの危機感を持つように、というメッセージなのだから。

‘2018/07/07-2018/07/08


ポール・マッカートニー ビートルズ神話の光と影


私にとってビートルズはベストワンのミュージシャンではない。しかし、ロックの歴史でオンリーワンを挙げろと言われれば、文句無しにビートルズを挙げる。彼らはまさに偉大な存在だ。私が生まれた時、すでにビートルズはこの世にはいなかった。にもかかわらず、彼らは私にも影響を与えている。彼ら以降に登場したミュージシャンの多くを通して。

私はビートルマニアではないし、彼らのファッションには特に感銘を受けていない。彼らの他にも好きなミュージシャンは多数いる。だが、彼らの生み出したアルバムは今も聴くし、好きな曲もたくさんある。

私は自分の好きな曲を“Google Music”でリストにしている。私の好みの順に並べて。そのリストの百位以内でビートルズの四人が作った曲をピックアップしてみた。3曲目「woman」、17曲目「(Just Like) Starting Over」、30曲目「Here,There And Everywhere」、36曲目「all those years ago」、43曲目「strawberry fields foerver」70曲目「come together」、76曲目「please please me」。ジョンの曲が多い。7曲のうち5曲を占めている。そして、ポールの作曲した曲は一曲しか含まれていない。そのことが意外だった。

しかも、ビートルズの解散後にポールが発表した曲が一曲も入っていない。ウィングスやソロ作、マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダー、エルビス・コステロとのコラボ作もランク外だ。「Yesterday 」「Let It Be」「Hey Jude」など、ポールがビートルズ時代に生み出したメロディは不滅だ。メロディーだけ取り上げるなら、ポールは天才といってよい。ジョンよりも遥かに優れたメロディーを多く作ったのはポールのはず。なのに、ビートルズ解散後にポールが発表した曲が私の印象に残っていないのはどうしたわけだろう。

その鍵を解くにはジョンの存在が欠かせない。ジョン・レノンとの複雑なライバル心と友情をはらんだ関係。そのライバル心や友情がポールの才能を引き出したことはまぎれもない事実だろう。本書には、ポールの視点に沿ったジョンとの出会い、友情…緊張、そして反目の日々が描かれている。

ポールの側に立っているため、本書はジョンには辛い。オノ・ヨーコにも辛辣だ。ビートルズの前身バンド、クォリーメンにポールが加入した時点で、ジョンに「リーダーは俺だ」という感情があったことを本書は指摘する。確かにポールとジョンには固い友情がむすばれた。だがしょせん、二人の生まれ育った環境は違っていた。そのことを著者は幾度となく読者に伝える。

アッパーミドル階級の伯母夫婦のもと、小ブルジョアの価値観の元で育ったジョン。それに比べ、労働者階級に生まれたポール。ただ、ジョンはシニカルで世の中に対する反抗をあからさまにしていた。ポールの母が若くして亡くなったことでポールがロックに自らの感情のはけ口を求め、同じく母親が不在だったジョンとの距離は縮まった。とはいえ、それは違いすぎていた二人のバックボーンの差を埋めるまでにはいかなかった。著者はその事実を踏まえた上で、それほど生まれが違った二人だったからこそ互いを補い合え、音楽という一点で最強のタッグになりえたのだと主張する。

ところが、二人の素朴な思いを遙かに超え、ビートルズは規格外の成功を収めてしまう。ブライアン・エプスタインがマネジャーとして関わるまではまだ良かった。ジョージ・マーティンが非凡にプロデュースを行い、その判断でピート・ペストを首にするまでも。だがビートルマニアが世界を席巻した途端、ビートルズは彼ら自身にとっても手に負えない、地球上でもっとも富を生むアイコンと化してしまう。

本書はそのあたりの出来事を描き、名声が彼らを縛ってゆく様子をたどってゆく。リバプールの若者が好きな音楽で身を立てようとした思い。その思いから遙かに巨大になったビートルズはビジネスの対象になってしまった。ビートルズの利権を巡ってさまざまな有象無象が集ってくる。そしてビジネスの事など何も知らないビートルズのメンバーとマネージャのブライアン・エプスタインから金を巻き上げてゆく。ポールはその状況に我慢がならず、ビジネスのスキルを磨こうとする。さらには、ビートルズの音楽にも新たな地平をもたらそうとする。

その努力が「リボルバー」や「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」となって結実する。ジョンは成功とドラッグに溺れ、ビートルズの主導権はジョンからポールに移る。リーダーの座を奪われたことに我慢ならないジョンとポールの間には隙間風が吹き始め、さらには反目へと至ってしまう。

アラン・クラインはエプスタインが亡くなった後、ビートルズの財政を一手に握った人物だ。この人物の悪評はいろいろと伝えられている。ポールが徹底してアラン・クラインに非協力を貫き、ポールがビートルズのビジネス面の手綱を取り戻すため、婚約者リンダの父リー・イーストマンにマネージメントを任せたことなど、あらゆるポールの動きはジョンの心を逆なでする。ミュージシャンからビジネスマンの視点を備えようとしたポールと、自分の思い描くミュージシャンの理想にあくまで忠実であろうとしたジョンの反目。

ビジネスの利権が彼らの才能とその果実をかたっぱしからついばみ、さらにはヨーコやリンダといった周囲の女性が事態をややこしくした。ポールがビートルズをどれだけ継続させようと心を砕いても、全ては空回りし裏目に出る。ビートルズはポールが解散宣言を出したことが解散への引き金を引いたと一般には言われている。だが、実は内々ではジョンが最初に脱退の意志を示したという。そのことは本書を読んで初めてしった。

ジョンとポールの間に生じた微妙な心のすれ違いを本書は描いていく。私はビートルズが解散に至るあらましはある程度は理解していた。けれど、本書を読むとビートルズの解散が避けようもなかったことが納得できる。行き過ぎた成功は、成功した当人をもむしばむ。そして当人たちにも害を与えるものへと変質する。ポールはそれに気づいたのだろう。本書から学べるのは、成功とは入念にイメージされた状態でなされるのが理想ということだ。

ビートルズが解散する前後、ポールがどれほど精神面で落ち込んだか。ポールが二作のソロ作品を世に問い、そこからウィングス結成に至った理由とは。その理由やいきさつも本書は描いている。

リンダ・マッカートニーがウィングスのメンバーだったことは私も知っていた。だが、それはリンダの意志ではなく、ポールの強い意志によるものだったこと。実はリンダ本人はウィングスのメンバーであり続けることに苦痛を感じていたことなどは、本書で初めて知った。

そしてジョンの死去。私が本書を読んだ理由は、ジョンの死に対するポールの感情を知りたかったからだ。ポールが泣いたことや、レポーターから感想を聞かれて「It’s a Drag」と言ってしまったことなどが本書には紹介されている。そしてとうとう、ジョンとポールが仲良く語り合うことがなかったことも。

ところが、Wikipediaのジョンの項を読むと、違うことが書かれている。ここに書かれたエピソードが本当であれば、ぜひその事実は本書にも紹介して欲しかった。ジョンにつらく当たっている本書だからこそ。

もう一つ本書に紹介されていることがある。それはジョンが死ぬ年の一月のこと。ポールが成田空港で麻薬取締法違反で逮捕されている。その時のいきさつは本書には詳しい。そして私は詳しいことを本書で初めて知った。

本書はポールの50歳を機に書かれた。80年代に著名なミュージシャンとコラボレーションに挑んだことや、リヴァプール・オラトリオの新たな試みなど。それにもかかわらず、著者はポールの才能にかつての鋭さがなくなったことを指摘している。残念ながら私も同じ意見だ。著者が本書でジョンを辛く書けば書くほど、ポールにとってジョンが欠かせない親友だったことが伝わって来る。マイケル・ジャクソンもスティーヴィー・ワンダーもエルヴィス・コステロもジョンのかわりとはなり得なかった。ポールにとって。

ポールが誰よりも優れたメロディー・メーカーなのは言うまでもない。そしてそれらの曲の多くは、ジョンとの複雑な関係がなければ生まれなかったかもしれない。親友とはなれ合いの関係ではない。二人の関係のように時には協力しあい、時には反発しあい、素晴らしい成果を生み出すものではないか。

ポールは七十才を過ぎてもなお、アルバムを発表し続けている。評価も高い。そして、私も本書を読んだことをきっかけに、ポールのビートルズ以降の全作品を聞き直している。その中で光る曲を見つけられれば言うことはない。それだけでなく、今だからこそ永久に残る曲をもう一曲生み出して欲しいと願うのは私だけだろうか。ポールとジョンは音楽だけにとどまらず、人類史の上でも不世出のコンビ。だからこそ、ジョンがポールの中で息づいていることを知らしめてほしい。

’2018/05/01-2018/05/03


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


脱限界集落株式会社


前作を読んでから一カ月もしないうちに続編を読む。私にとって珍しいことだ。本書はちょうど1カ月前に読んだ『限界集落株式会社』の続編にあたる。

もともと、私はシリーズ物は一気に読まずにはいられないたちだ。だが、シリーズ物を一気に読むことはそうはできない。そのため諦める。そして読む間隔を空けてしまう。だが、本書をたまたま見かけたことで、一カ月もしないうちに続編が読めた。とても喜ばしい。

本書に関心を持った理由は、前作が面白かったこともある。だが、それだけではない。前作も本書も地域活性化が取り上げられていて、私は仕事で多少それらのテーマに関わっている。それが本書を手に取らせた。前作も本書も取り上げられていたのが私自身に興味のあるテーマだったので、本書もすぐに読み始めた。

前作は限界集落の再生がテーマとなっていた。本作は商店街の活性化がテーマとなる。前作で止村に活気を呼び戻した多岐川優。その成功に乗っかるようにTODOMEモールが誕生した数年後が本書の舞台だ。前作でも登場した幕悦町の上元商店街は、TODOMEモールにとどめを打たれシャッター商店街と化していた。そんなのところに降って湧いたのがTODOMEモールの成功に味を占めたコンサルタントによる地域再開発の話。

前作で多岐川優と結婚した美穂は、止村株式会社の経営方針をめぐって夫と対立し、家出している。そして止村株式会社からの出向扱いでコトカフェの主任として腕を奮っている。コトカフェはコミュニティカフェだ。地域のたまり場として何でも受け入れる事を運営方針に掲げている。巨大なTODOMEモールに対抗するコトカフェに何かを感じた美穂がコトカフェに肩入れする。それが優とのけんかの原因だ。

TODOMEモールに加えて降ってわいた再開発計画に上元商店街は二つに割れる。そして長谷川健太、遠藤つぐみ、新沼琴江といったコトカフェの従業員の面々は、美穂とともに上元商店街を再開発の波から守ろうと、TODOMEモールにも負けない店を目指して奮闘を始める。

そもそもTODOMEモールの開発も地域再開発も、裏で暗躍しているのは多岐川優の商売仲間である佐藤だ。だが佐藤の計画の裏にきな臭さをかぎ取った多岐川優は、アドバイザーとして商店街活性化に一役買い、結果的に美穂の側に立つ。

ニートやコミュニティ障害からの脱却、そして勧善懲悪の視点。それは前作から変わらない。その上で商店街活性化というテーマを持ち出した本書は、地に足が着いているといえる。実際、シャッター商店街は地方に行くと頻繁に目にする光景だ。駅前が閑散としているとその地に活気は生まれにくい。シャッター商店街の再生は地域の切実な願いではないか。

ただし、前作もそうだが、本書には地域活性化の視点に人工知能の観点が抜けている。なので、前作と本書で披露されたノウハウがこれからの活性案や限界集落の処方箋として有効かどうかの判断がつかない。いくら優れた案であっても人工知能の示す案のほうが優れている可能性は大いに考えられる。人間の案がより優れた人工知能の案に置き換えられる可能性は高い。だが、人工知能は地域活性化にとっての本質ではないと思う。それよりも、中央集権、大量消費の均一化に抗するための視点を持つことが大切ではないか。その視点は、人間が持てる視点として絶対に必要なはずだ。そこに知恵を使うことが人間と人工知能の共存の未来が占えるといっても過言ではない。

全ては対人のコミュニケーションに掛かっていると私は考える。それが人間社会をよくも悪くもするはず。ロボットや人工知能がいくら世を席捲しようと、コミュニケーションの大切さこそが人間社会にとって生命線であり続けるはずだから。

本書の底に流れている考えもコミュニケーションの大切さにのっとっている。例えばコトカフェがそう。コトカフェを起点に盛り上がる上元商店街の活気は、結局のところ人対人のコミュニケーションに依存している。そして、コミュニケーションのをおざなりに放置したTODOMEモールからは客足が遠のいていく。

ただ、コミュニケーションの力だけでは地域活性化の起爆剤にはなり得ないことも事実だ。本書の結末がそれを示している。なぜなら佐藤側の自滅に頼るしかなかったのだから。本書の結末は、コミュニケーションだけでは地域活性化は難しい事を意図せずして示してしまった。それはもちろん、本書のせいでも著者のせいでもない。人は利便さを優先する。交通の便や品ぞろえや新奇さは、いつの世もコミュニケーションの力を凌駕する。

多分、抜本的な地域振興策は誰にも簡単に思いつくものではないのだろう。私は地域に人を呼び戻すには、逆説的なようだが、人工知能の力を借りねばならない気がする。田舎に住む不便が、人工知能により補われた時か、情報技術が田舎のコミュニケーションの良さとその反面の閉鎖性を良い具合に中和した時。その時になってようやく、人々は都会に人間が集中することのデメリットを感じ、田舎に住むメリットに目を向け移住を始めるのではないか。

となると、結局は人の力など要らないのでは、と思われるかもしれない。いや、そうではない。コミュニケーションの力はやはり必要だ。取りつく島がないように思える田舎のコミュニケーションは、コミュニケーションの一つの在り方であって、そこには違うコミュニケーションが必要なのだ。

、人間には思いもつかない案が人工知能によって提案され、それを運用するにあたってコミュニケーションという基盤があることが重要なのだ。本書から私が得た気づきとはそこに収束される。

‘2017/07/17-2017/07/18


限界集落株式会社


とてもわかりやすいタイトルだと思う。カバー絵も農池の周りに立って談笑する人たちのイラストだ。一目で話の内容と展開がわかるような構成になっている。

実際、本書の内容もその通りの話なのだ。だが、とても筆運びが滑らかで引き込まれる。なにせ、冒頭の一文からすでに、
「マクドもない、スタバもない、セブン-イレブンさえない。」
なのだから。関西人の私は”マクド”のキーワードに即座に心をつかまれた。そして、あっという間に読み終えた。とはいっても、本書は単純に読んで楽しんで終わりの本ではない。それではもったいない。本書には地方創生の課題とそれを解決するヒントがあちこちに埋めこまれているのだから。ニートやサブカルチャー、少子化や就農支援など、枚挙にいとまがないほどだ。

題名からもわかる通り、本書は消滅寸前の過疎地域、いわゆる限界集落の再生がテーマだ。東京でバリバリの銀行マンだった主人公多岐川優が、充電のため父祖の地を訪れるところから本書は始まる。田舎道に似合わないBMWを駆って来た彼は、田舎者の人懐っこさと、分けへだてなく触れ合ってくる環境に溶け込んで行く。そして土地の人々の無垢なこころに何かを感じ、過疎の村を再び蘇らせようと決心する。対立する勢力の懐疑の眼に戦いつつ奮闘する。本書はこれらの流れがとても滑らかに書かれており、無理なく物語に引き込まれてゆく。

著者の作品は初めて読んだが、相当慣れた書き手だと思った。小説のコツを会得しているといえばよいか。農業組合法人の設立や農法、銀行の審査シミュレーションなどの描写も、専門的な枝葉を描いてしまうことなく、人々の語らいや筋の進め方といった読者の読み心地を優先して筆を選んでいる。それらの会話の端々で、限界集落の置かれた状況、課題、諦めとそれに立ち向かう思い、などが周到に描かれる。

本書で描かれた内容は千葉の某所がモデルとなっているらしい。巻末の謝辞にも千葉の農事組合法人「和郷園」の木内氏へ取材協力への御礼が載っているくらいだ。そして本書には舞台となる地が都心部から中央高速で2時間と記述がある。ということは、山梨と長野と群馬の境目あたりか、房総半島の内陸部が舞台ではないだろうか。何となくの予想だけど。

本書が導く過疎化対策の要諦とは、大消費地である首都圏との結びつきに活路を見いだすものだ。おそらくそれが現実に即した現実解なのだろう。本書にも朝に採れた野菜を早朝の首都圏に向けて配送するシーンが出てくる。となると、大消費地が近くにない過疎地はどうなるのか、という疑問が湧く。今、過疎化に悩む地方とは、本書に登場するような場所ではなく、首都圏に遠い、朝一配送などとても不可能な場所のことではないか。

ベジタ坊というキャラクターをブランド野菜に貼り付け、「やさいのくず」と命名してアウトレット野菜を売る。それらのアイデアやブランディングについてはとても面白い。やりようによっては働き甲斐のある仕事だと思う。

だが、本書で提示される過疎化対策が、現実的であればあるだけ、過疎化対策のあるべき姿が見えなくなってくる。そんな気がした。もちろん、本書にその責を担わせるのはお門違い。本書はあくまでも面白く読ませる小説であり、読者は本書から過疎化対策の一端を感じればよいのだ。

本書の内容に関わらず、現実は厳しい。地方の過疎化がとどまる見込みはない。東京にはますます資源も人も金も集中している。田舎暮らしを指向する若者は地方に居場所を求めるが、本書に登場する彼らのような成功をおさめられるのはほんの一部だ。私自身、都会の暮らしに魅力を感じず、暇ができれば地方に目を向けてしまう。だが、それでいながら生活の場を東京に置かねばやっていけないというのも事実だ。地方で何不自由なく暮らそうと思えば、ネットからの収入手段を得なければ厳しい。例えばアフィリエイトのような。

地方では住人も働き手もいない。それなのに都会には生活に張り合いを感じられず、働き口さえ見つからずにあえぐ若者がいる。その不均衡はどう考えても現実の歪みそのものだ。それを是正するためには、本書に登場する多岐川のような一人の人間の能力に頼るしかないのだろうか。どこかに妙手が埋もれているような気がしてならないのだ。

私の知る人にも里山再生をしている方がいる。セカンドライフを農業にまい進する人もいる。田舎の閉鎖性と都会の閉塞性をつなぐだけの人材。そこをつなぐための仕事に長けた人はたくさんいるはずなのだ。

何か、私にできることはないだろうか。東京への依存度は異常だし、地震に対するリスクがあるというのに。本書の内容が読みやすければ読みやすいだけ、本書を容易に読んではならない、もっと深読みせねば、という焦りが生じる。引き続き、私自身も上に書いたようなつなぎ役として役立てることがないかを模索し続けたいと思う。

‘2017/06/18-2017/06/18


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


三匹のおっさん


難しい本を読んだ後は、軽めの読書を。バランスを取る上で重要なこと。有坂さんの著作は純粋に読書を楽しむには打ってつけの本である。本書のように分かりやすい勧善懲悪がテーマだとなおさら。

人生の後半戦に差し掛かった初老の3人のおっさんが、街の平和を守るという、ありきたりの設定。ありきたりだけど、そこは著者一流のストーリー展開で、面白く読める。著者のうまさは、その場の情景と会話のかみ合わせ方にあるので、するすると読めてしまう。情景とは、この場合、街に湧き上がるトラブルのことである。カツアゲや痴漢、家庭内暴力や非行や詐欺。どの街にもどの家庭でも起きそうな身近なトラブルが、いかにもありそうな感じで書かれている。日常からトラブルの場面転換も、登場人物の会話が活きているので、読者はすんなりと飛び越えられる。

内容はスカッと爽快。何も考えずに読み進むことができる。しかし、それだけでは何も後に残らない。あえて本書に込めた著者のメッセージを拾い上げてみる。

私が読み取ったのは、世代間ギャップの有り方についてだ。本書はただ単におっさんが暴れまくるアクション映画のような代物ではない。そこには、おっさん世代と若い世代の交流があり、その交流の進み具合が、本書の別のテーマである。若い衆がおっさんにファッションセンスを伝授し、おっさんは若い衆に積み重ねた年季の価値を見せつける。本書で一番情けなく書かれているのは、その真ん中のパパママ世代である。世代を超えて受け継がれる何かを、著者はもはや今の日本の中核を担うパパママ世代には求めていないかのようだ。バブルに踊り、高度成長期に寄り掛かった世代には。

国際関係を大上段に構えて考えずとも、国体の有り方について額にしわ寄せて考えずとも、まずは身近なことから解決していこうよ。そのためには年長者の知恵はまだまだ必要だし、おっさんも萎れている場合じゃないよ、若いもんに伝えていかないと日本の国を。という著者なりのメッセージではないかと思う。実際、会話の進め方や話題の取り上げ方など、孫とじいちゃんばあちゃんの世代の差を埋めるためのヒントが本書にはいくつも転がっていると思う。

’14/08/28-‘14/08/29


僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由


悩み深き20代前半。私もどっぷりとその深みにはまりこんだ口である。

強烈な揺れと、その後の混乱を乗り切った冬。内定をもらったと勘違いし、就職活動を止めてしまった初夏。西日本のかなりを旅行し、台湾自転車一周や沖縄旅行など、遊びに遊びまくった夏。吹っ切れて関西一円のあちこちに旅行し続けた秋。大学は卒業したけれど、内定社のない春。

その反動からか、どっぷりと鬱になり、本を読みまくって何かを探し続けた次の年。この時期に読みまくった本と、身に付けたITスキル。そして今に至るまで付き合いの続く年上の友人達との新たな出会い。この時期に助けられた友人たちへの恩。

後悔していないばかりか、人生で輝けた2年間を過ごせたと思っている。22~24歳の私である。

本書に登場する人物達は、あるいは引きこもり、あるいはコミュ障を患い、あるいはゲームの世界に埋没し、あるいは挫折から夢を追う人生に転じ、あるいは奇抜な塾経営から生徒たちの心をつかむ。多くは当時の20代の若者たちである。真っ当な社会生活を送る者からすると、何とも歯がゆく、張り倒してやりたくなる人物がほとんどではないだろうか。

おそらくは当時の私も周囲からこのように見られていたことだろう。人生で何を成し遂げたいのか、「自分さがし」という名の陥穽は、青年にとってあまりにも魅力的で避けがたいものである。

私はその後、上京し、結婚もして家も買い、娘達にも恵まれ、曲がりなりにも個人事業主として8年ほど生計を立てている。世間的には陥穽を避け、順風満帆な生を歩む人間として映っているのかもしれない。しかし、そうではない。私の根底にあるのは20代の頃と同じく、自分への探求心である。40になっても不惑とは程遠く、未完成な自分を少しでも納得の行く完成形へと引き上げようとする人に過ぎない。

おそらくは私の人生観は、一般的な社会人のそれよりも、本書の登場人物達に近いのだろう。だからこそ、彼らの生き方に共感する部分は強い。歯がゆくもないし、張り倒す理由もない。むしろ応援したい気持ちになる。

ただ、彼らに、現代の彼らのような若者たちに会ったとして、私に出来ることは実はそれほどない。月並みだけれど、人生とはその人の生である。他人が肩代わりすることはできない。ただ前向きに、他人を傷つけず、陰口も言わず、己の決断に、与えられた機会に飛び込んでいくのみである。本稿の冒頭で「人生で輝けた2年間を過ごせた」と書いたが、それも過ぎた者だけがいえる台詞。過ぎて初めて人の生は語るに値する。

著者も本書の登場人物達に近いニートのような生活を送ったことがあるとか。著者は下手な同情も記さない代わりに、突き放すこともしない。ただ傍らでその人の人生を見つめるのみである。その視線は温かい。おそらくは著者も、登場人物の生は肩代わりできないことを知っていることだろう。替わりに出来ることとして、その生を描くことで、自らの探究心を満たしたかっただけなのだろう。それでいい。人生とは結局は自らを納得させるためにあるようなものなのだから。

’14/04/16-’14/04/17