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UNDER THE DOOM 下


バービーの逮捕で幕を閉じた上巻。米軍によるドーム破壊の試みはすべて失敗し、チェスターズミルの解放にめどがつかない。外界から遮断されたチェスターズミルで、このままレニー親子の独裁体制は盤石になってしまうのか。

上巻で著者が丹念に織り上げた59人の登場人物によるチェスターズミルの模様。閉鎖され逃げ場のない空間の中で圧力は密度を増し、ドーム内の空気は刻一刻と汚染されてゆく。

本書で著者が試みたのは、アメリカの一般的な町を閉鎖し、生活の営みを閉鎖された町に限るとどうなるか、という壮大な実験だ。

私はアメリカのコミュニティについてはよく知らない。そして、本書に描かれるチェスターズミルがアメリカの田舎の縮図なのかどうかについても判断できない。その前提で、本書に登場する組織について考えてみようと思う。

本書の舞台、チェスターズミルには自治体に相当する組織が登場しない。三人の町政委員以外に自治体としての行政サービスの担い手があらわれないのだ。あるいは、隣接するキャッスルロックには自治体があるのだろうか。となると、第一から第三まで三人もの町政委員がいるのはどういうことなのだろう。町政委員とは町議会議員のようなものなのだろうか。日本でいう自治会のような組織はアメリカにはないと聞く。たとえば町政委員を自治会長のような存在と仮定すれば、町政委員という仕組みを自治会とみなしてよいかもしれない。

そう考えれば、本書に登場する町の組織は以下の通りとなる。行政(自治会)、警察、マスメディア、医療、小売、宗教。他に一般的な町にあるべき組織とはなんだろう。消防、軍隊、教育だろうか。消防は住民たちが自助組織を結成している。軍隊はドーム内には存在せず、ドームの外で手をこまねいているだけ。教育については、本書にはほとんど出てこない。つまり、行政、警察、マスメディア、医療、小売、宗教の組織があればコミュニティはかろうじて成り立つということだ。もちろんそれは実際の生活ではなく、あくまで本書のストーリーを進めるためだ。ただ、著者の考えでは、町の営みもこれだけあればどうにかなるのだろう。

これは、街の危機に際してどういう組織が必要か、というテストケースとして興味深い。著者が考える危機管理の一例として、本書は参考になるかもしれない。当然ながら、著者のストーリー進行上の都合によって組織の入れ替えはあるだろうが、ここにあがった組織が危機管理上の要と考えて良さそうだ。

日本でも天災が村を孤立させる話はよく聞く。天災に備えてどのような組織が町に必要か。本書はそれを考えるきっかけになる気がする。

本書はアメリカが舞台なので、町々には教会が建てられている。そして、住民のコミュニティの場は普段は教会が担っている。そしてビッグ・ジムによる演説のシーンなど、全住民が集まるような時だけ、市民ホールのような場所に住民が集まる。一方のわが国では、神社に氏子が寄り合うコミュニティがすでにうしなわれてしまった。自治会も衰退の一途をたどっている。チェスターズミルに起こったような出来事が、仮に日本の地方都市で再現されればどうなるか。それもチェスターズミルのような庁舎のない地域で起こったら。多分、住民たちは自然にコミュニティを結成することだろう。そしてその担い手は、自治体の支所ではなく、寺社か自治会が担うような気がする。

本書を絵空事として片付けるのではなく、地域社会のあり方を考えるきっかけにしてもよいと思う。

また、本書は組織と個人の対立を描いている。組織とはビッグ・レニーに代表される警察力。個人とはバービーに代表される人々を指す。特に本書は、終盤に近づくにつれて個人の力が発揮される場面が頻繁になる。結末に触れることになるため、これ以上は書かないが、本書を一言で言い表すと組織の無力を描いた話、といっても差し支えないほどだ。

そんな余計な分析を加えてみたが、本書は本来、そんな分析など不要だ。思うがままに一気に読める。そして寝不足になる。それだけの魔力が本書には備わっている。本書の結末については賛否両論それぞれあるだろう。ただ、本書の魅力については誰にも否定できないはず。神が著者に与えた類まれなるすストーリーテリングを味わえるだけでも幸せなのだから。

聞くところによると、本書はドラマ化されているという。アメリカのTVドラマの質の高さはとみにきくところだ。観たことはほとんどないけれど。でも本書のドラマ化であれば、是非一度観てみたいと思う。

‘2016/12/07-2016/12/13


70年目の沖縄を考える


先日、6/23は沖縄戦が公式に終結して70年目の日でした。

沖縄といえば、普天間基地の移設問題が議論されています。民主党が政権を担う前から決着がつかぬまま、時間だけが経っています。正直に言って、この議論には本土に住む者として違和感を覚えざるを得ません。何か取り残されたような気持ちというか、明らかに沖縄に基地負担を押し付けている本土の人間としての罪悪感というか。例えば翁長沖縄県知事の発言についても、批判されることも多いようですが、私には批判はできません。むしろ、中国や米国、与党や防衛庁などの思惑を外し、翁長知事自身の過去の発言や翼の右や左、沖縄県人の世代間認識の違いも越えた視点から見てみると、それほど仰っていることは間違っていないとさえ思います。

のっけから結論を述べます。
沖縄の基地負担を分散するために、沖縄の方々が蒙っている実害を基地ツーリズムなどで本土の人間が共有できる仕組みを。
これです。

云うまでもなく、基地問題についての沖縄の皆様の民意は、昨年の翁長知事の当選で示されていると思います。私ごときが沖縄の基地問題を論評するなどおこがましいことは十分に自覚しています。しかし一つだけ、基地について私が語れる実害があります。それは、騒音です。

知っての通り、米軍基地は、沖縄だけでなく本土にも点在しています。岩国、厚木、横田、三沢など。これら基地周辺に住む人々にとっては、沖縄の人々の気持ちが少しは共感できるのではないでしょうか。沖縄の方々が蒙っている迷惑の実態を。私もつい先年まで町田市の中心部に住んでいました。町田市は、横田基地と厚木基地を結ぶ線上にあります。頻繁に北から南へと飛行機が通り過ぎ、そのたびに爆音が町田の繁華街を縦断します。その高度は機体番号が見えるのではないかというほど低く、特にNLP(夜間連続離発着訓練)の際は、夜中の25時過ぎでもお構いなしの轟音が響き、寝るどころの話ではありません。町田市のホームページにもそのことは頻繁に触れられています。陳情も周辺自治体と合同で行っているとか。

とくに町田市は1964年に起きた繁華街への米軍機墜落事故の現場でもあります。また、1977年に横浜市荏田に墜落した米軍機も、墜落直前には町田市上空を通過しています。町田市に接するこどもの国から撮影された画像が残っています。ここでは私の住む町田市を例に挙げましたが、町田市以外にも、米軍基地近隣の住民は今でも墜落事故の悪夢に怯えなければなりません。

とはいえ、今の日本の置かれた状況から考えると、米軍基地が必要なことは明白です。問題は、それが沖縄に集中していることなのです。そして、私を始め、本土の基地周辺に住む人々にとってみれば、これ以上本土に基地が増やされることを迷惑と思っていることも事実です。基地の負担を沖縄に押し付けて、自己の安全を図る。残念ながらこれが私を含めた本土の方々の偽らざる本音といえます。なので、翁長知事の発言についても、その理は理解しつつも罪悪感から反発を覚える。そんな構図に私は思います。

ではどうしたらいいのでしょう。普天間から辺野古へ移したところで、沖縄の負担が減らないことは変わりません。逆にいえば、誰も理想的な解決策が思いつかないから、これだけ基地移転問題が長引いていると云えます。そして解決策が思いつかない理由の一つには、本土の誰もが沖縄の人々の置かれた現状を実感できていないこともあるのではないでしょうか。沖縄の人々が具体的に何に困り、何に怒り、何に迷惑を受けているのか。そこには沖縄の方々が抱いているだろう琉球の歴史や本土との扱いの差といった観念的なことではなく、上に挙げた騒音のような具体的な事例が必要だと思います。

私は20年ほど前に沖縄を訪れ、ひめゆりの塔や名護市街、那覇市内、首里城などを旅しました。が、その際も基地の中に入ることはもちろん、鉄条網の外からしか基地を見ることができませんでした。そして今もなお、私自身、沖縄の人々が具体的な騒音の他に、何に困っているのか、正直つかみ切れていないところがあります。

そこには政府の沖縄の基地問題についての、性急に事を進めようとする姿勢が透けて見えます。普天間基地移転の話が持ち上がってから、すでに充分な時間が経っています。その間、じっくりと国民に沖縄の基地の必要性を理解させるだけの努力はなされていたのでしょうか。初めから沖縄への基地ありきの結論で物事を進めてはいなかったでしょうか。

今からでも遅くはないので、政府は国民に対し、沖縄の基地問題を理解してもらい、本土への基地移設についての理解を求められるだけの伏線も貼っておくべきと思います。私が思うに、沖縄の人々の怒りとは、具体的に困っていることに対するものではなく、本土の人々の無関心に対するものではないかと思います。例えば政府が予算を出して、沖縄への旅行費を助成し、その際は必ず沖縄の基地見学を含めるとか。沖縄の基地側も基地ツーリズムに対する受け入れ態勢を整え、なぜ沖縄に基地が必要なのか、どういう脅威が今の日本、沖縄を覆っているのか、といった広報をきっちり行うべきではないか。私はそう思いました。

以前にも書きましたが、自衛隊は明らかな軍隊ですし、憲法の9条も書き換えられるべきだと思います。ただし、かつての日本は過ちを犯しました。そのことを考えると、国外では一切の軍事活動はしない覚悟は周辺国に示す。それだけの縛りが必要です。その替わり、日本は断固として国防を全うするのです。それだけのきっちりした自衛の体制を整えるべきだと思います。沖縄の重要性はもちろんですが、既存の岩国、厚木、横田、三沢などの基地だけでなく、自衛隊の基地も合わせて拡充が必要だと思います。極端にいえば、米軍が日本から撤退しても日本単独だけで自衛が出来る体制すら考えたほうがよいと思います。そのためには、沖縄に基地の負担を押し付けるだけの考えでは到底足りないでしょう。沖縄から基地を撤去するのではなく、それと同じだけの負担を本土側にも担ってもらう。そうすれば沖縄の人々の苛立ちも少しは和らぐのではないでしょうか。

そのためには、もっと本土側の人々が沖縄の現状を知る必要があります。安保法案や憲法改正、基地移転への道筋をがむしゃらに付けようと現政権は突き進んでいるようですが、それだけでは到底人々の理解は得られない。そんなことを思いました。