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日本一の桜


30台後半になってから、今までさほど興味を持たなかったさくらを愛でるようになった自分がいる。日々の仕事に追われ、あっという間に過ぎて行く忙しい日々、季節を感じることで自分の歩みを確かめようとしているからだろうか。私がさくらに興味を持ったもう一つの理由は、もう一つの理由は、30台半ばにひょんなことで西宮の偉人である笹部新太郎氏のことを知ったことだ。西宮市民文化賞を受賞した氏が生涯をかけて収集したさくらに関する資料の一端を白鹿記念酒造博物館で知った。それをきっかけに水上勉氏が笹部氏をモデルに書いた『櫻守』も読んだ。その中でさくらに対する氏の情熱にあてられた。

ただ、私は混雑している場所を訪れるのが好きではない。普通の街中のさくらであれば、ふっと訪れられるから気が楽だ。だが、いわゆる名桜となると一本のさくらを目当てにたくさんの人々が集う。その混雑に巻き込まれることに気が重い。だから名桜の類を見に行ったことがない。本書の第1章では、人手の多いさくらまつりの上位10カ所が表に掲示される。その中で私が行ったことがあるのは千鳥ヶ淵公園のさくら祭りだけ。それも仕事のお昼休みの限られた時間に訪れたことがあるぐらいだ。今、上位10カ所の他に私が訪れたさくらの名所で思い出せるのは、東郷元帥記念公園(東京都千代田区)、夙川公園(兵庫県西宮市)、大阪造幣局(大阪府大阪市)、尾根緑道(東京都町田市)だろうか。

混雑が嫌いな私。とはいえ、一度は各地のさくらまつりや名桜を訪れたいと思っている。平成29年のさくらの季節を終え、あらためて本書を購入し、想像上のさくらを楽しんだ。

本書はカラー写真による名桜の紹介で始まる。有名なさくらの数々がカラーでみられるのは眼福だ。とくにさくらは満開の様子をカメラで一望に収めるのは難しい。写真で見たさくらと目で見るさくらでは印象が全く違う。だから、さくらの魅力をカメラに収めようとすれば、どうしても接写してそれぞれの花を撮るしかない。だが、できることなら木の全体を収めたいと思うのが人の情。もっとも難しい被写体とはさくらではないだろうか、と思ってしまう。本書の冒頭ではそんな見事なさくらがカラー写真で楽しめる。さくらへの感情は高まり、読者はその興奮のまま本編に入り込める。

第一章は「さくらまつり」
弘前のさくらといえば有名だ。日本にさくらの名所は数あれど、さくらを見に来る観客の数でいえば弘前城が日本一だという。ところが、弘前城のさくらが日本一を誇るまでには苦労があったという。そのことを紹介するのが一章だ。なお、著者は弘前の出身だという。だからというわけでもないが、弘前城が日本一のさくらの名所になるまでの事例を紹介する文章は熱い。そして専門的にならぬ程度で樹の手入れ方法をふくめたいくつものイラストが載せられている。

ここまで繊細で丁寧な作業の手間をかけないと、さくらは維持できないものなのだろう。ここまでの手間が掛けられているからこそ、日本一の座を揺るぎなくしているのだと思う。私も一度は行ってみなければ。

第二章は「さくらもり」
本章では、我が国がさくらを愛でてきた歴史をざっとたどる。そして近世では先に書いた笹部氏をはじめ、桜に人生を捧げた数名の業績が紹介される。十五代・佐野藤右衛門、小林義雄、佐藤良二の三氏だ。どの方の生涯も桜と切っても切れない業績に輝いている。

また、さくらの種類もこの章でさまざまに紹介されている。育成方法などの説明とともに、さくらの育成方法の独特さなども説明がありわかりやすい。特に染井吉野は今の現存樹で種子から育ったものは一本もなく、全てが接木などの方法で育った、いわばクローンであるという。それでいながら、自然の受粉で既存種と遺伝子が混じりつつある様子などがある紹介される。純潔なさくらを維持するのは難しいなのだ。

それを維持するため、著名な桜守だけではなく、市民団体や行政のさまざまな取り組みがここでは紹介される。こうした活動があってこその全国のさくら祭りなのだ。

第三章は「一本桜伝説」
ここでは全国のあちこちに生えている一本桜の名木が紹介される。北は岩手、南は鹿児島まで。私はここで挙げられているさくらを開花の季節に関係なく、一度も見た事がない。緑の季節に観に行ってもいいが、やはり一度は華やかな状態のうちにすぐそばに立ちたいものだ。こうして並べられてみると、さくらの生命力の強さにはおどろくしかない。筆頭に挙げられる山高神代桜に至っては、樹齢1800-2000年と言うから驚く。幾たびも再生し、傷だらけになりながら、毎年見事な咲きっぷりを見せているのだから。また、この木は地元の方が良かれと思って付けた石塀が樹勢を弱めたと言う。つまり、長年生き続ける樹とはこれほどにデリケートな存在なのだろう。天災や人災に巻き込まれず長寿を全うすることは。

歴史が好きな私にとっては、歴史の生き証人と言うだけで、これらの長寿のさくらには興味を惹かれる。また、本章には広島に残る被曝桜も興味深い。これもまた長寿の一種なのだ。未曽有の惨劇を前に、なおも生きつづけるその力。季節を問わず、訪れてみたいと思う。

第四章は「日本一の名所」
ここの章ではいろいろな切り口で日本一のさくらが紹介される。樹齢や人出の日本一はすでに紹介された。他は開催が日本で最も早い沖縄のさくらまつり。大村桜の名所である大村公園。そして、日本のさくらを語るのに欠かせない、京都の各地のさくらが語られる。さらには、笹部氏が残した亦楽山荘や旧笹部邸跡の岡本南公園も。さらに、大阪造幣局、奈良、吉野、東京のさくらが紹介される。豊田、高遠、さらに北海道。

ここに出ているさくらの名所だけではない。他にもまだ、さくらの名所は無数にある。本書は私にとって、まだ見ぬさくらの名所を訪れるための格好のガイドになりそうだ。そして、それ以上に本書に登場しないさくらの名所を訪れる楽しみをも与えてくれた。そのためにも、さくらの基本的な知識が満遍なく載っている本書は大事にしたい。

そう思って本書を持ち歩いていたら背表紙を中心に雨で汚してしまった。だが、ボロボロになっても本書は持っておきたい。私にとって訪れたい地。訪れるべき地は多い。そこに本書で知ったさくらの名所も加え、人生を楽しみたいと思う。しょせん、一度きりの人生。さくらと同じくはかないもの。だからこそ、自分の納得できるような形で花を咲かせたいし、散り様も潔くありたい。本書に登場するさくらの名所やさくらについての知識は、私の人生を彩ってくれるはず。私が死ぬとき、蔵書の中には汚れた本書が大切に残されているはずだ。

‘2017/06/10-2017/06/12


真夏の方程式


当代きっての人気作家である著者。その魅力を語りつくすには私の文章では力不足だろう。あえて二つ挙げるとすれば、多作なのにシリーズものに頼らないこと、シリーズもの以外にも秀いでた作品が多いことだろうか。我々素人からみても、シリーズもののほうが毎回設定を構築する手間が省ける分、作家にとって楽なことは分かる。しかし著者はシリーズものに頼らない。それでいて、あれだけの良作を産み出し続ける著者の筆力は半端なものではないと云える。

とはいえ、昨今の著者を超がつく売れっ子にしたのは、代表的な2シリーズの力に与ることも否めない。代表的な2シリーズとは、「新参者」「麒麟の翼」に代表される加賀恭一郎シリーズと、「探偵ガリレオ」「容疑者Xの献身」で知られるガリレオシリーズのことである。シリーズ物にありがちな惰性とは無縁な2シリーズは、駄作とも縁がない。

この2シリーズに共通する魅力とはなんだろうか。私はそれを人情に篤い主人公のキャラクター設定に見た。加賀恭一郎も、ガリレオこと湯川学も、怜悧な論理を自在に操る能力の持ち主だ。しかし、二人とも論理一辺倒の人物ではなく、その論理が情の豊かさに裏打ちされているのがいい。論理を越えたところで見せる暖かく血の通った振る舞いが、読後に爽やかな感動を残す。謎が解かれるカタルシスももちろんだが、彼らの見せる優しさに心を動かされ、それが後々まで小説の余韻として残る。

彼らの情の篤さは、事件の幕引きにおいて顕著だ。加賀恭一郎シリーズには「赤い指」という名作がある。この事件で、加賀恭一郎がとった事件の幕の引きかたは感動的とさえいえる。それは、厳しくそれでいて相手を真に思いやらねば決して出てこない言動である。ガリレオにしても理詰めに謎を解き、犯人を追い詰めるだけの冷徹なキャラであれば、ここまでの支持が得られたかどうか。理論の塊にみえる彼が時折見せる人間的な心の揺れは、理論武装の平素からするとその人間臭さが余計に強調される。物理学の公理に照らすと合理的でない行動も、ガリレオの心は彼の心にとって合理的な行動を選ぶ。理論と自らの人間性のはざまに揺れる彼の悩みや迷いは、大方の読者にとって大いに共感できる部分であり、だからこそ本シリーズが支持されるのだろう。

ガリレオは本書でも、印象的な言動を多々見せる。冷静で論理の筋が通った頭脳のさえは相変わらず。が、本書にはガリレオのペースを乱す人物が登場する。それは恭平少年である。海岸沿いのひなびたリゾート地へ向かう列車の中で知り合った恭平少年とガリレオ。お互いの行先が一緒であることから、ガリレオは宿泊先を少年が泊まる宿に定め、夏休みの間の二人の交流が始まる。事件に巻き込まれるという類まれな経験とともに。

本書でガリレオが見せる恭平少年への接し方は、本書の最大の見どころである。子どもが苦手という設定のガリレオだが、それゆえに手慣れた大人としての接し方ではなく、彼なりの振る舞いで恭平少年と相対する。一見すると冷徹な理屈で冷たく突き放すように見えるが、そこには恭平少年を大人扱いし、真に少年の立場にたって考えた彼の思いやりが背景にある。恭平少年も、大人の型にはまらず血の通ったガリレオとの交流に感じる思いがあったのか、ガリレオを博士と呼んで慕う。

子どもを子ども扱いせず、一人の人間として接することで、子どもはその相手に敬意を抱く。私も子を持つ親として頭では分かっているつもりだが、それを実践するのは口にいうほど簡単ではない。しかし、本書で描かれるガリレオと恭平少年の交流はどうだろう。ある時は親身にある時は突き放し、恭平少年のひと夏の自立を促すガリレオの様子は、とても独身物理学者のそれとは思えない。

本書の前半部では、自然保護と資源開発の対立が描かれる。それは釣り餌のようにして読者の前にぶら下げられる。それらに対するガリレオの考えも述べられ、大変興味深い。おそらくは著者が平生考えている内容をまとめた内容と思われるが、頷ける論理である。しかし、本書は自然保護論を云々する本ではない。序盤でこういった少し手垢のついた題材での対立が描かれることに、失望を覚える読者もいるかもしれない。ああ、ガリレオシリーズもついにマンネリ化への道を進むのか、と。しかし、本書はそんな単純な筋書きでは進まない。むしろ恭平少年とガリレオを囲む外部が俗っぽくなればなるほど、彼らの交流の豊かさが際立つ。私はそのような意図があって、本書の構成にしたのではないかと思う。

本書のテーマはあくまでガリレオと少年のこころの交流に置かれている。ガリレオが恭平少年に対してみせる気遣いや応対は、読者が大人であればあるほど、普段の子どもへの向き合い方を考えさせられるものである。子どもをいかにして世間から守り、自立した大人へ旅立たせてやれるか。それは決して頭で考えるものではない。

事件は現場で起きているという。それは云うまでもない真理に違いない。しかし、事件は子どもの中にも何かを起こすことも忘れてはならない。今までの推理小説は、子どもの心中を描写することにおいて、あまりにも無関心だったように思う。事件に巻き込まれるという経験は、大人にすら平穏なものではない。ましてや、子どもに対しての影響はもっと重大なはず。有事のとき、大人がどのように子どもを守り、どのように事件の影響からケアするのか。本書が提起する内容は存外に重く、考えさせられる。

云うまでもなく、子どもにはこれからの人生と可能性がある。それを活かすも潰すも大人の責任となる。理屈だけでは追い切れない人生の複雑な襞の一つ一つを、ガリレオは恭平少年に提示し、それと直面するようにさばき、守りぬく。本書を読む興を削ぐことになるのでこれ以上は書かない。が、本書がガリレオシリーズの名作としてまた一つ加えられるのは間違いないとだけは書いておく。

‘2014/10/3-2014/10/4