Articles tagged with: 群馬

至仏山登山 2019/7/21


尾瀬の朝は早い。
4時半に起き、朝靄に漂う尾瀬を散策に出かけました。
三百六十度の尾瀬が瞬間ごとに姿を変えてゆく雄大な時間の流れ。それは、言葉にはとても表せない経験です。
一年前の朝、尾瀬の大地に立ち、壮大な朝の一部始終に心を震わせた経験は、私の中に鮮やかに残っていました。
今年は、山ノ鼻小屋から尾瀬の湿原に歩き、朝を全身で感じたのですが、正直に言うと昨年を凌駕するほどの感動までには至りませんでした。
今年も十分に素晴らしい朝だったのですが。昨年、尾瀬の朝を感じた初めての経験がそれだけ鮮烈で、得がたいものだったのでしょう。
尾瀬小屋は山ノ鼻よりさらに奥に位置していて、自然相も景色も違うのでしょうし。季節や場所によって自然はかくも違う顔を見せる。そのような当たり前のことを思い出させてくれました。それもまた、尾瀬の魅力の一端なのだと思います。


朝ごはんを食べ、小屋を出発したのは、7時少し前。
目の前にそびえる至仏山に向け、19名のパーティは歩みます(数が減っているのは、昨日のうちに帰られた方がいたので)。
昨日、目に焼きつけておいた至仏山の山容と麓へと至るアプローチ。ところが、行けども行けども麓にたどり着きません。
都会の人工物に慣らされた私たちは、尾瀬の広大な自然の中で距離感を失い、惑わされる。昨年も感じた距離感の喪失は、尾瀬ならではのものかもしれません。嬉しい錯覚といいますか。
そうした日常の汚れを気づかせてくれるのが旅の効能。なかでも尾瀬の効能はてきめんです。


やがて至仏山の登山口に着きました。そこからは登りです。
ところが、登山道には水が流れ落ちていました。数日前まで雨が降っていた名残なのか、それとも雪解け水なのか。
水に気を取られ、思ったよりも負担になる登りでした。


とはいえ、自然の中だと別人のように力が湧き出る私。植物相が変わる高さまではずっと先頭でした。
その後しばらく岩場で後続のみなさんを待った後は、数名でさらに上へと目指します。今度はじっくりと時間をかけながら。


というのも、私たちの背後には尾瀬の大湿原が少しずつその全容を見せてくれていたからです。
少し標高を上げると、その分だけ姿が広がる尾瀬。登るたびに背後を振り返ると、その都度違った顔を見せる尾瀬。
そうやって尾瀬を見下ろす快感を知ってしまうと、一気にてっぺんを目指して登るなどもったいなく思えます。また、登山道の脇には名も知らぬ高山植物のあれこれが姿を見せ始めました。こうした可憐な花々も私の足を引き留めます。
これらの花々は昨日は湿原で見かけませんでした。山に登らなければ出会えなかった尾瀬の魅力がここにも。
一緒に登っていた方が高山植物に詳しく、たくさんの名前を教わりました。


至仏山の山肌を彩る豊かな自然を楽しみつつ、振り返るたびに、広大な姿を横たえる尾瀬に目を奪われる。
私の登山経験などたかが知れていますが、そんな乏しい登山経験の中でも、この時に見下ろした尾瀬のすばらしさは別格で、人生でも屈指の眺めだったと断言できます。
湿原を歩くだけでなく、上からその素晴らしさを堪能する。それこそが登山の喜び。そして魅力。その本質に気づかされた道中でした。


古来から山男を、山ガールや旅人を引き寄せてきた尾瀬の魅力。それは私ごときが語りつくせるものではなく、私の見た尾瀬も、尾瀬が見せる無限の魅力の一つにすぎないはず。

頂上に近づくにつれ、急速に湧いてきた雲が尾瀬を覆い隠します。
まるで私たちの眼下に広がっていた先ほどまでの尾瀬が幻だったかとでもいうように。
その気まぐれなふるまいも、尾瀬の魅力の一つ。そうした振る舞いに出会う度、旅人はまた尾瀬へと足を運ぶのでしょう。


雲が湧き、気温も下がってきました。視界も少し悪くなってきたので、登りの足を早めました。
途中には高天ケ原と名付けられた場所があり、少し休憩もできましたが、この日の高天ケ原は急に湧いてきた雲によって灰色に染まっていました。仏に至る道は容易なものではない、ということを教えるかのように。
山の天気の変わりやすさをつくづく感じつつ、気を引き締めながら最後の登りへ。


9時48分。至仏山の山頂につきました。標高2228m。私にとって日本百名山の登頂は大菩薩嶺に次ぐ二峰目です。
達成感に浸りたいところですが、狭い山頂付近には大勢の登山家がたむろして混雑しており、落ち着くことなどとても無理な状況でした。


そんな混雑の中、後続の皆さんを待っていたのですが、一部の方が登りに難儀されているとの情報が。
なので、まず15名で集合写真を。
この時、晴れ間が広がっていたらとても映えたのでしょうが、先ほどから湧き上がってきた雲が去る様子はなく、写真の背景が少し曇り空だったのが惜しい。
でもみんな、いい顔です。達成感にあふれています。雲を吹き飛ばすほどの晴れやかな姿がうれしいです。


女性の皆さんはお手洗いのこともあるので、皆さん先に出発しました。
で、私はMさんとそこでしばらく後続の方を待つことにしました。体力にはまだ余裕があったので、遅れた方の荷物でも持とうかな、と。
結局、至仏山頂には1時間以上いました。やがて後続の皆さんも合流しました。
なので無事を祝って、そこで5人で再び写真を撮り、山ノ鼻小屋の方が持たせてくださったおむすびをパクパク。

そこから小至仏山へと向かいます。
私が荷物を持つまでもないとのことだったので、私の荷物は増えなかったのですが、ここから小至仏山への道も岩場が続き、油断はできません。
高山植物を愛でながら、帰りのバスの時間もにらみながら、山の景色を堪能しながら進みます。
小至仏山には11時50分に着きました。こちらも小という名が付きますが、標高2162m。私の中では生涯で二番目の高峰です。
雲がまだ辺りを覆っており、そこからの尾瀬の眺望は楽しめませんでしたが、辺りは登頂の達成感を感じるには十分すぎる景色。実にすがすがしい。


そこからは険しく危険な岩場を通りながらの下りでした。途中には雪が溶けきれずに残っている箇所も通り、ここがまぎれもない高山であることを思いださせてくれます。
オヤマ沢田代や原見岩と名付けられた岩に登るなどしながらの道でしたが、登りで遅れた方が下りでも苦戦しており、私とMさんが先に降りては、後続でサポートについてくださったお二方を含めた三名を都度待つ展開に。


途中、大学のパーティをやり過ごしたり、水場で花や草を写真に収めたりしながら、ぎりぎりバスに間に合いそうなタイミングをみて、最後はMさんと二人で鳩待峠へ。
無事に皆さんと合流し、後続の方もあとから合流することができました。無事下山。

来た時と同じく「ゆる歩様」を掲げた「OIGAMI」号に乗りまして、私たちが向かったのは「わたすげの湯」。ゆる歩山登りの会は温泉が付いてくるのがうれしい。
汗を流し、足腰の凝りをほぐす湯けむり時間の心地よさ。
休憩所では皆さんがビールを頼んでいたので、私もついご相伴してしまいました。こういう時間って本当に幸せですよね。


再び「OIGAMI」号に乗って上毛高原駅へ。そこで解散となり、それぞれの思いを載せて帰路へ。
この日の夜、東京駅近辺で打ち上げのお誘いをいただきましたが、私は翌朝早くに車に乗って羽田へ向かわねばならず、無念の辞退。
本当は皆さんと旅の思い出を語らいたかったのですが。
とはいえ、せっかく大宮に来たので、夕飯はなにか珍しいものを食べたい。そう思って駅前をぶらぶらしました。結局、これといったお店が見つからず、丸亀製麺に入ってうどんを。こういう締めもまた私らしいというか。

さらに、新宿では尾瀬のことを無性に知りたくなり、駅前のBOOKOFFに立ち寄って尾瀬の本を買い求めました。

こうして、二日間の尾瀬と至仏山の旅は終わりました。今回、ご一緒した19名の皆さん、「OIGAMI」号のドライバーの方、宿の皆さん、誠にありがとうございました。


尾瀬の旅 2019/7/20


ウィンドブレーカーを購入したのは、出発の前日の夜。20時ごろに御徒町のモンベルで購入しました。
われながら、毎度毎度のぎりぎりの間に合わせ感にあきれます。昨年の尾瀬は、現金を忘れ、お金を借りる失態をしでかしましたし。

でも今年は万全。朝は5時過ぎに妻に駅まで送ってもらい、お金も前日に下ろし済み。憂いなど一つも見当たりません。
大宮駅のATMを秒単位で操作する。そんなスリリングな経験もせず。


心に余裕をたたえながら上毛高原駅のホームにさっそうと降り立った私。まずは一息、山の空気を。
皆さんを待ってバス乗り場へ。今回はリーダーがバス「OIGAMI」号を借り切ってくださいました。バスの窓ガラスには「ゆる歩様」の文字が燦然と輝いています。総勢20名のパーティ。


貸し切りゆえ、尾瀬戸倉でバスを乗り換える手間もなく、鳩待峠まで睡眠がとれました。ありがたいことです。

鳩待峠からは昨年も通った道を山ノ鼻へと歩きます。
一年前は、水芭蕉の咲き頃で、あちこちに可憐な姿が楽しめました。が、今年は昨年に比べて一月半遅い日程だったため、水芭蕉の数は明らかに減ってました。
でも、この山道の先には雄大な尾瀬が待っている。そう思えば、去年にもまして魅力的な道中に感じられます。歩荷の姿も、去年は物珍しさが勝っていましたが、今回は尊く映ります。


山ノ鼻に着いて早々、まずは一宿をお世話になる山ノ鼻小屋へ。小屋の前の広場でお昼を。
私はその合間に、至仏山の山容を眺めました。仏へと至る山とはどのような形か、想像を膨らませながら。


腹に食べ物をおさめ、いざ尾瀬の湿原へと向かった私たち。

尾瀬の広大な湿原は私たちの前に変わらぬ姿で待っていてくれました。
むしろ、尾瀬の景観は、昨年より時期をずらしたためか、季節相応に夏の深まりを見せてくれているようです。
私は尾瀬の自然に精通しているわけでもなければ、そもそも生物相について一家言を説くほどの知見もありません。ですが、やはり何かが違うのです。色合いや植物の植生、空の輝きや山々の緑の深み。そのどれもが鮮やかになっているような。
天候は曇りなのに、目に映る光景のすべてが鮮やかに見えることが驚きです。
昨年の尾瀬には鮮烈な印象を受け、その時の感動がいささかも損なわれず、目の前に広がる景色は昨年の印象を一層強めてくれる。そんな経験です。
昨年に比べて色合いが鮮明になった分、自分の記憶に残る光景とのわずかな差を感じられることが、さらに感動を呼び、私の心に染み入っていきます。
尾瀬の大自然は日々の雑念を払い、感性を研ぎ澄ませてくれる。そして人を日常から解き放った境地に悟らせる。これこそが、あらゆる人を魅了する尾瀬なのでしょう。キザを承知でいうと。

「夏の思い出」が一年ぶりに脳内でメロディを奏でる中、私はもう一つのメロディにも耳をすませました。カエルです。
あちこちで鳴いていたカエル。今年も健在です。
ところが、どの水場に目をやっても、声はすれど姿が確認できません。今年もカエル様のご尊顔を拝むことは叶いませんでした。


カエルは見られませんでしたが、尾瀬はカエルの他にも目を楽しませる対象に事欠きません。モウセンゴケの鮮やかな赤。イトトンボの美しすぎる水色。そして貴い紫をまとったアヤメ。

そして、パーティーの皆さんがお目当てにしていたニッコウキスゲ。
ニッコウキスゲは残念ながらシカの食害があったらしく、一面の山吹色とまではいきませんでしたが、それでも、咲き誇る景色は十分な感動を与えてくれました。開花期に来たかいがありました。

今回のコースは、山ノ鼻から、竜宮十字路へ。そこから北に向けてヨッピ吊り橋を渡ったところで折り返し、そこから牛首分岐へ向けて戻るルートです。

ヨッピ吊り橋からさらに北へ向かうと、三条の滝や平滑の滝が待っています。行けるものならそこまで行きたかったのですが、今年も断念。


でも、山ノ鼻を起点にすれば二つの滝への往復は一人でも行けるめどがつきました。
今回、一泊させてもらった山ノ鼻小屋はベースとするには便利なようです。
昨年、泊まらせていただいた尾瀬小屋もオーナーさんの朝の心遣いや、朝もやの見事さで印象に残っています。が、一方で電源の確保に苦労しました。
ところが山ノ鼻小屋は電源が潤沢に使えたので助かりました。

夕飯も美味しく、お風呂も楽しみ、夜は銘酒「水芭蕉」をみなさんとご一緒に。
夜がふけた後は、小屋の前を乱舞するホタルを鑑賞。野生のホタルがはかない光を放ちながら飛ぶ姿は、尾瀬に来なければ味わえない経験です。実に幻想的なひと時でした。

私は、Wi-Fiがつながるのをいいことに、夜中まで連絡のやりとりや、仕事をこなすことができました。


日本ふーど記


著者はエッセイストとして著名だが、著作を読むのは本書が始めて。

最近はエッセイを読む機会に乏しい。
それは発表されるエッセイやそれを産み出すエッセイストの問題ではなく、ネット上に乱舞するブログやツイートのせいだろう。
エッセイもどきの文章がこれだけ多く発信されれば、いくら優れたエッセイであっても埋もれてしまう。
雑誌とウェブでは媒体が違うとはいえ、雑誌自体が読まれなくなっている今では、ますます紙媒体に発表されるエッセイの存在感は薄れる一方だ。

だが、紙媒体のエッセイとウェブの情報には違いがある。それは稿料の発生だ。
ウェブ媒体にも稿料は発生する場合はある。ただ、その対象はより専門分野に偏っている。
そうした中、著者の日々のよしなし事をつづるエッセイに稿料をはらう例は知らない。ましてや有料サイトでは皆無ではないだろうか。

もちろん、そこには文化の違いがある。ウェブ日常の情報収集の手段とする世代と、昔ながらの紙の媒体を信奉する世代の違いが。
ただ、エッセイとして稿料が支払われるには、それだけの面白さがあるはず。ましてや、本書のようにエッセイとして出版されるとなると、理由もあるはずだ。
もちろん、ブログがあふれる今と本書が発行された昭和の終わりではビジネス環境も違う。
だが、著者はエッセイストとして、エッセイで生計を立てている。そこに何かのヒントはないか、と思った。

本書を町田の高原書店の入り口の特価本コーナーで見つけた時、私は会津で農業体験をして間もない頃だった。日本の食にとても関心が高く、何かできないかと思っていた。
だからこそ、本書が私の目にひときわ大きく映った。

本書は著者が日本各地の食を巡った食べ歩記だ。だからうまそうな描写が満載だ。
だが、うまそうな描写が嫌みに感じない。それが本書の良いところだ。
本書を読んでいると、食い物に関するウンチクもチラホラ出て来る。ところが、それが知識のひけらかしにも、自由に旅ができる境遇の自慢にも聞こえないのがよい。
著者は美味を語り、ウンチクも語る。そして、それと同じぐらい失敗談も載せる。その失敗談についクスリとさせられる。結果として、著者にもエッセイにも良い読後感をもたらす。

実はエッセイもブログもツイートも、自分の失敗や弱みをほど良く混ぜるのがコツだ。これは簡単なようで案外難しい。
ツイートやウォールやブログなどを見ていると、だいたいいいねやコメントがつくのは、自分を高めず、他を上げるものが多い。
だが、往々にして成長するにつれ、失敗をしでかすこと自体が減ってくる。プライドが邪魔して自分の失敗をさらけ出したくない、という意識もあるだろう。そこにはむしろ、仕事で失敗できない、という身を守る意識が四六時中、働いているように思える。

だからこそ、中高年の書くものには、リア充の臭いが鼻に付くのだ。
私もイタイ中年の書き手の一人だと自覚しているし、若者とってみれば、私の書く内容は、オヤジのリア充自慢が鼻に付くだろうな、と自分でも思う。
私の場合、ツイートでもウォールでもブログでも、自分を飾るつもりや繕うつもりは全くない。にも関わらず、ある程度生きるコツをつかんでくると、失敗の頻度が自然と減ってくるのだ。
大人になるとはこういう事か、と最近とみに思う。

そこに来て著者のエッセイだ。
絶妙に失敗談を織り込んでいる。
そして著者は、各地の料理や人を決してくさす事がない。それでいて、不自然に自分をおとしめることもしない。
ここで語られる失敗談は旅人につきものの無知。つまり著者の旅は謙虚なのだ。謙虚であり博識。博識であっても全能でないために失敗する。

「薩摩鹿児島」では地元の女将のモチ肌に勘違いする。勘違いしながら、居酒屋では薩摩の偉人たちの名が付けられた料理を飲み食いする。
「群馬下仁田」では、コンニャクを食い過ぎた夜に異常な空腹に苦しむ。
「瀬戸内讃岐」では、うどんとたこ焼きまでは良かったが、広島のお好み焼き屋で間髪入れさせないおばさんに気押され、うどんと答えた著者の前に焼かれるお好み焼きとその中のうどんに閉口する。
「若狭近江」ではサバずしを食したまでは良かったが、フナずしのあまりの旨さになぜ二尾を買わなかったかを悔やむ。
「北海道」では各地の海や山の産物を語る合間に、寝坊して特急に乗り損ねたために悲惨な目にあった思い出を語る。
「土佐高知」では魚文化から皿鉢料理に話題を移し、器に乗せればなんでもいい自由な土佐の精神をたたえる。かと思えば、最後に訪れた喫茶店でコーヒーと番茶で胃をガボガボにする。
「岩手三陸」ではホヤから話を始めたはずが、わんこそばを食わらされてダウンする。
「木曾信濃」は佐久の鯉料理からはじまり、ソバ、そして馬肉料理と巡って、最後はハチの子料理を著者の望む以上に食わされる。
「秋田金沢日本海」ではキリタンポやショッツルが登場する。そして日本の、裏側の土地の文化を考えあぐねて胸焼けする。
「博多長崎」に来てようやく、失敗談は出てこない。だが、ヒリョーズや卓袱料理、ちゃんぽんを語った後に長崎人はエライ!と無邪気に持ち上げてみせる。
「松坂熊野」は海の幸に松坂牛が並ぶ前半と、高野山の宿坊で精進料理にひもじい思いをさせられる後半とのギャップがよい。
「エピローグ/東京」では、江戸前鮨の成り立ちと歴史を語り、ファストフードの元祖が寿司である以上、今のファストフードもどうなるかわからないと一席ぶっておきながら、おかんじょう、と小声で遠慮がちに言う著者が書かれる。

そうしたバランスが本書の心地よい点だ。
かつてのエッセイストとは、こうした嫌味にならず、読者の心の機微をよく心得ていたのだろう。
私もそれにならい、そうしたイベントをほどよく織り交ぜたい。私の場合、ビジネスモードを忘れさえすれば、普通に間の抜けた毎日を送れているようなので。

‘2018/10/31-2018/10/31


天上の青 下


上巻を通して宇野富士男の性格は充分すぎるほど読者に披露された。一見すると穏やかそうに見えて話も達者。だが、一度、自分に都合の悪いことが起こると気の短さが爆発し、見境のない行動に走る。そういう性格の持ち主は、権威にも激しい敵意を示す傾向にあると思う。

富士男の悪い面は、偶然の出会いで車に乗せた少年に対して顕著に現れる。11歳のひどく大人びた、生意気な口調で話す少年。気圧された富士男は不機嫌が募ってゆく。少年は父が検事であることを誇示し、悪いヤツは罰せられるべきだと持論を振るう。少年との会話は富士男の衝動に火をつける。そして、「僕を殺したりすると、国家的損失だよ」の言葉に富士男の理性は吹き飛ぶ。自分よりもかなり年下の少年との会話にむきになり、自制のできない富士男の幼さが出てしまう瞬間だ。少年の死と家への帰りに引き起こした交通事故が富士男の命取りとなる。

逮捕と勾留。富士男を取り調べるのは、財部警部補と檜垣巡査部長のコンビだ。取調室で取り調べと韜晦のせめぎ合いが始まる。富士男がのらりくらりと尋問をかわしても警察の組織力が次々と矛盾を暴いてゆく。富士男視点で尋問は進むので、いわゆる犯人からの視点で物語が進む倒叙型のミステリーとでもいおうか。読者は富士男がいかにして尋問を切り抜けるのか、または、彼の狡知を警察がいかに破ってゆくかに興味を惹かれるはずだ。会話の巧みさを自負していた富士男をあざ笑うかのように、証拠が次々と富士男を打ちのめしにかかる。富士男と警察の駆け引きがとてもスリリングでリアルだ。私は著者の作品をあまり読んでいないが、推理小説作家としては認知されていないように思う。だが、取り調べのシーンは間違いなくミステリを読んでいるようだった。著者の作家としての筆力を見せられたように思う。

でも、いくら著者が達者に尋問経過を書き込もうと、本書は事件の意外な真相を描くのではなく、罪と罰、そして救いを描く小説だ。そのため、土壇場で予期せぬ事実が判明することはないし、富士男の替わりに真犯人が現れることもなく、まだ見ぬ共犯者が現れることもない。著者は富士男の罪の意外な事実を暴くよりも、波多雪子の無垢な視点で富士男の罪を考えさせる。それによって読者は波多雪子に興味の視点を注ぐのだ。波多雪子の心がどのように揺れ動き、富士男の罪とどう折り合いをつけてゆくのか。

波多雪子は獄中の富士男に向って手紙を書く。手紙の中で波多雪子が書いた一文にこのようなくだりがある。「お互いに小細工はよしましょう。生きることは小細工では追いつかない、骨太なシナリオを持っているように私は思うのです」。さらに、富士男がレイプした女性の家族がたまたま波多雪子の知り合いだったことから、一つの家族が富士男の行いによって崩壊しつつあることを非難し突き放す。一方で、富士男がたまたま車に乗せ、殺さずに会話を交わして送り出した女性は富士男との会話によって自殺を思いとどまる。その女性も波多雪子の知り合いだった。波多雪子は、富士男が一人の少年や家族を壊しただけでなく、一人の女性を救ったことも思い返す。波多雪子は、投函せずに手元に置いておくつもりだった手紙にお礼と続きを加え、手伝えることがあれば手伝うと申し出る。

取調室で自分だけが被害者だと世をひがんで見せる富士男。そんな富士男に、檜垣巡査部長が自分は捨て子だと明かし、富士男の甘ったれた根性にぐさりと切り込む。檜垣巡査部長は、取り調べに当たった刑事の中でも富士男の心情を見抜き、富士男の心を融かす波長をもつ人物だ。ちょうど大久保清にとっての落合刑事のように。そんな檜垣巡査部長は、富士男の人物を理解するための糸口を求めて波多雪子のもとを訪ねる。そこで波多雪子が語る「どなたにせよ、この世で私のことを思い出して訪ねて来てくださる方がいらっしゃるなんて、私、光栄だと思っていますから」という言葉は檜垣巡査部長を圧倒する。檜垣巡査部長は、この言葉だけで富士男と波多雪子の関係にただれた部分がなかったことを確信させたことだろう。そして檜垣巡査部長は、富士男が弁護士を紹介してくれるよう頼んでいることを波多雪子に伝える。富士男は、義兄の三郎がよこした国選弁護士の話を蹴ったのだ。波多雪子の紹介してくれた弁護士なら、という富士男。それを聞いた波多雪子は、自分こそが富士男にとって唯一残された蜘蛛の糸であることを自覚する。蜘蛛の糸とは、仏が地獄に垂らした一本の糸をさしているのだろう。罪人たちが我先にと糸にとりついたために、切れてしまった仏教説話は有名だ。波多雪子は富士男のこころを罪からすくい上げられるのだろうか。

知り合いに弁護士のいない波多雪子は、偶然、風見渚という弁護士と知り合う。宇野富士男の弁護を引き受けられないか、とおずおずと切り出す波多雪子に、風見渚はこう答える。「私、結婚するとき、主人に言われたんです。弁護士をやるなら、一生、道楽でやれ、って。最低食うだけは僕が引き受けてやる。だからお金になるかならないか、ということじゃなくて、この事件の弁護に自分が関わることが、自分にも相手にも意味がある、と思うものだけやれ、って言われたんです」。宇野富士男から波多雪子、そして風見渚へと弁護の糸は流れるようにつながってゆく。ここまでの流れに著者のご都合主義は感じられない。

今となってはもはや、宇野富士夫と大久保清の事件を比べることに意味は薄れつつある。なぜなら、波多雪子の視点が中心となった本書は、大久保清をモデルとしただけの小説ではなくなってきているから。それでもあえて私は大久保清の事件をベースに本書を読んでみたいと思う。私は大久保清の弁護人に選任された方の名前を知らない。その方が弁護人としての本書の風見渚のように高邁な哲学を持っていたのかも知らない。もし、大久保清に波多雪子や風見渚のような精神的な支柱があれば、さぞ心強かっただろうと思う。

波多雪子から宇野富士男にあてた手紙には、風見渚に弁護を頼んだことと、「人間は自分のことを人に語らせてはいけません。それは、第一自分に対して失礼です。」というくだりがある。大久保清は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」と題された手記を発表している。大久保清はそういう形で世間に対して自分を語ろうとした。この書を発行したのはアナーキストの肩書を持つ大島英三郎氏となっている。大島氏がどういう経歴の方かは知らないが、波多雪子が宇野富士男と書簡を交わしたように、大久保清も大島英三郎氏と書簡を交わしたのだろう。本書では以降、宇野富士男の心のうちが書簡の形で表現される。

宇野富士男が、現場検証で連れていかれた海を見て、感慨にふけるシーンがある。少し長いが引用してみる。
「富士男は静かに海の香りを鼻の穴に通した。そして眼をつぶった。その頬は微笑していた。その瞬間、彼は自分がどこに、どんな人生を背負って生きているかを忘れることができた。富士男は自分が小さな気泡になって海へ溶け込む実感を味わった。それは自分が無限に小さくなり、何者かに抱かれる感覚であった。小さくなると、自分の中に内包されていた悪も小さくなるのか。そうは行かない、と人々は言うであろう。しかし偉大になることに血道を上げる奴もいるとすれば、自分が小さくなることに安らぎを見出す人間もいる。それは、常に大きなものになろうと背伸びし、大きなものがいいものだと信じ、大きなものにしか存在の価値はないと思い込んできた常識に対する不遜な反抗の開館であった。」
「富士男は一瞬海に向かって頭を垂れた。富士男は海を見ることはこれが最後だろう、と予感した。だから富士男は海に訣別の挨拶を送り、もう一度しみじみとその無垢な喜びの色を見つめたのだった。」
このシーンは、多分、大久保清が生前出版した「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」を意識しているのだろう。私はその手記は読んだことがない。だが、この手記には詩も載っており、その中で大久保清はこのようなことを書いている。
「父母よ!私の骨と灰は
 あなたがたにお願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっとナホトカの港までゆくでしょう」

私はここにきて、著者が本書の舞台を三浦半島にした理由をおぼろげながら理解した。天上の青はアサガオの花弁の青。そして湘南の海の青、空の青。そして、自らの罪を清める清浄さの象徴としての青。罪は川となって流れ、海へと至る。そこに人の貴賤はない。人の裁きではなく、自然の、神の摂理によって罪は海へと流れゆく。その海の色はどこまでも青い。

富士男への書簡で、波多雪子はクリスチャンとしてキリスト教の話題を持ち出しては、富士男の心を少しでも改悛に導こうとする。だが、富士男は神だけは受け入れられないと拒絶する。波多雪子はそんな富士男のかたくなさに、少しも逆らわず、諭すように言葉をつむいでゆく。もともと自然の摂理に従い、自分に大いなる意志や役割を求めない姿勢で生きている波多雪子。人間の社会では全ては法廷という人による裁きの場で決着がつけられる。だが、波多雪子にとってはそうではない。キリスト教の教えでは、道徳については「裁くなかれ」と神がおっしゃったので人が人を裁くべきではないという。

そんな富士男に極刑の判決が下る。それにたいし、富士男は短く、
「たった一言、答えを聞かせてほしい。
 愛していてくれるなら、控訴はしない」
と。

波多雪子はそれに対し、
「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました。
 この一言を書くのに、この二日を、苦しみ抜きました」
と返す。

波多雪子はこの一言が宇野富士男の刑を確定させ、死に追いやったと深く思い悩む。富士男は欲望の赴くままに残虐に人を殺したが、自分もまた、同じ殺人の罪を犯したのではないか、と。

しかし、著者はそれとは逆のことを言いたかったのではないか。愛するという言葉は、富士男に控訴という自我を捨てさせた。富士男はとうとう改悛の情を示さなかったかもしれないが、彼は法廷で自らの自白をひるがえさず罪を認めた。それは罪を自覚したからの態度ではなかったか。そして、波多雪子からの愛しました、との言葉を受けて控訴せず罪に服した。これは一つの罪を悔いた態度とみてよいのではないか。著者は暗にこう問うているのではないか。波多雪子の愛は、ついに一人の殺人犯に自らの犯した罪を心の底から自覚させたと。

大久保清がここまでの境地に至ったのか、それは知らない。だが宇野富士夫は、波多雪子によって一つの境地に至ったのだと思う。シリアルキラーだったかもしれないが、一人の罪人として死ぬことができたに違いない。

‘2016/08/17-2016/08/19


天上の青 上


映画『羊たちの沈黙』で一躍有名になったのが、プロファイリングという言葉だ。犯罪現場を詳細に分析することで犯行の手口や犯人像を類推し、捜査にいかす手法。シャーロック・ホームズの捜査手法を現代風に置き換えたと言えば乱暴か。残虐な連続殺人犯をシリアルキラーと呼ぶことを知ったのもこの頃だ。

海外では、アンドレイ・チカチーロやテッド・バンディといった人物がシリアルキラーとして知られている。では、我が国ではそれに相当する人物はいるのだろうか。私の知る限り、和製シリアルキラーとして著名なのが大久保清だ。大久保清とは、若い女性八人の連続強姦殺人犯である。昭和40年代半ばの群馬県を舞台とした一連の事件で名を轟かせた。

本書は、その大久保清をモデルにした小説だ。大久保清の犯罪で注目を浴びたのは犯行にいたるまでの手口だ。その手口とは、女性に声をかける誘い方の洗練さに特徴があった。ベレー帽にルパシカを着た知的な自由人、つまり画家として振る舞った大久保清は、自家用車に乗って女性に声をかけていたという。そのような出で立ちの人物は当時の群馬では珍しかったのかもしれない。モデルにならないか、という彼の言葉は信ぴょう性を帯び、被害者はやすやすと誘いに乗ってしまったのだろう。

大久保清について書かれた文章の多くは、表面に現れた事実を詳しく述べている。だが、大久保清の内面を掘り下げ、何が彼を犯行に至らせたのか、について納得のいく文章には巡り合ったことがない。おそらくは私が知らないだけなのだと思う。刑務所で大久保清を担当した教誨師や取り調べにあたった刑事が、大久保清を語った文章はどこかにあるのかもしれない。ただ、それらの文章もどこまで大久保清の内面に迫れたのかは、誰にも分らない。他人の心のうちを知ることなど、しょせん今の科学では不可能なのかもしれない。

著者は小説という手段で大久保清の心にアプローチを試みる。大久保清の心に迫れないにしろ、小説家の創作力によって架空の人物を作り上げられる。著者が本書を執筆しようとしたきっかけはよく知らない。だが、本書では大久保清をモデルとした宇野富士男の造形に成功している。本書の主人公、宇野富士男がどこまで大久保清の忠実な模倣かどうか、それはもはや誰にも分からない。大切なのは、宇野富士男が犯した罪や彼の内面を描くことで、犯罪に深く迫ることだ。

大久保清の事件は群馬を舞台とした連続殺人だった。群馬といえば赤城、榛名、草津といった山国のイメージが思い浮かぶ。平野もあるが、海とは無縁。一方、本書は三浦半島を舞台としている。三浦半島といえば海のイメージが強い。そのため、どことなく作品全体にすがすがしさが感じられる。タイトルの天上の青とは、波多雪子が育てている朝顔の品種名を指している。青、とは花弁の青を差すが、湘南の海の青、空の青も含めているはずだ。その青は波多雪子の心のありようを映しだしている。波多雪子は、本書では宇野富士男と同じくらい重要だ登場人物だ。波多雪子こそが、本書に大久保清事件と違う色合いを与えている。そのことが青の色合いで引き立っているかのようだ。

群馬の緑や土色の中では、大久保清の外観がより洗練さを目立たせた。一方の本書では、青色が外見の洗練さを目立たなくさせ、逆に心のいびつさを浮き彫りにしている。

私は大久保清事件の全経過を詳しく知らない。私の情報ソースとは、いくつかのウェブ記事ぐらいが関の山。なので、波多雪子に相当する人物が実在したのかは定かではない。私の予感では、波多雪子のモデルはいなかったのではないか。なぜならば、波多雪子とは著者の宗教観を投影した人物だから。

著者はクリスチャンとして知られている。私はあまり著者の作品は読んでいないが、カトリックの洗礼を受けた立場からの著作を出している。キリスト教の神とは父性が強調されがちだ。牧師や司祭など聖職者にも男性が多い。だが、キリスト教は父性だけではない。聖母マリアに代表されるように母なる者も教義に取り入れられている。宇野富士男の罪に対しておかれたのが、母性の象徴である波多雪子なのだと思う。

宇野富士男の犯罪に、波多雪子の存在はどう影響を与えるのか。冒頭で富士男は、朝顔の色に惹かれて立ち寄ったといって波多雪子に声をかける。そして後日、種を取りに再びやってくる。その時点では富士男とは、波多雪子にはなにげなく気になる人物として映るだけだ。そんな波多雪子の視点は、富士男に渡したはずの朝顔の種が捨てられているのに気づいた時点でにわかに曇る。

つづいて物語は富士男の視点に替わる。富士男の視点からみた世界とは、不満の対象でしかない日常を指す。富士男は離婚して実家が営む青果店の上にある住居のさらに屋上に住まっている。両親と同居しているとはいえ、富士男にとっての両親は存在感が薄い。姉の夫、富士男にとっては義兄にあたる三郎が青果店を実質切り盛りしていて、遊び暮らす富士男とは犬猿の仲だ。両親は富士男をかばうが、さりとて三郎に気兼ねしている。そんな状況に富士男のストレスは募るばかりだ。鬱憤のはけ口を街での女漁りに見いだすしかない。あてもなく車を走らせては行きずりの女に近づき、ホテルに誘い込む毎日。話術が達者なので会話には事欠かない。そんな富士男の気楽な日々は、女を誘うためについたうそがばれてしまい、行きずりのよう子に危険を感じさせてしまう。車から逃げようとしたよう子を、動転した富士男は殺めてしまう。

ここで重要なのが、波多雪子の視点で富士男からかけられる言葉と、富士男の視点で女たちに発する言葉に差がないことだ。波多雪子も富士男にドライブに度々誘われるが、雪子は他の女たちと違って一線を越えさせることがない。ここで波多雪子が対応を誤れば、他の女たちと同じレベルの女になってしまう。富士男にとって波多雪子とは、他の女たちと同じではない。波多雪子がまとう節度、そして他の存在の意志に自分の存在を預けているかのような波多雪子のふるまいは、富士男に単なる女とは違う何かを感じさせる。明らかに著者は、波多雪子を富士男の聖母として描いている。

富士男は波多雪子の家に入り浸り、それでいて清い関係を続ける。その一方で女漁りに精を出し、文字通り精を出しては、逃げられたり、殺めたり、強姦したり、気まぐれに裸で逃がしたり、何もせず放り出したり、ちょっかいを出さずに送り出したり、と次第に節操を失ってゆく。

大久保清の犯行と本書で描かれる富士男の犯行は違う。だが、本質的には同じなのだろう。大久保清も母親に溺愛され、両親に繰り返し庇ってもらい育ったという。確かに、本書で三郎に相当する人物は大久保清の場合次兄だった。そして、大久保清は最初の殺人に手を染める前に二度も逮捕収監を繰り返している。そんな経歴も富士男にはない。あくまでも本書は大久保清をモデルとした小説でしかないのだから。

だからこそ、著者は自由に富士男を創造する。考え方が幼く短絡的な富士男を。口は達者で、聞きかじった知識だけは豊かな富士男を。自分にとって物事がうまくいくときは、いたって紳士的に振る舞える富士男を。ひとたび気にくわないことや反抗的な態度をとられると、途端に衝動に任せて凶暴な男に豹変する富士男を。

著者はそんな富士男の対極として波多雪子を創造した。慎ましく、控えめで、それでいて芯を持つ女性として。上巻の最後には腕枕をしあう仲となる二人だが、それでも一線は越えない。そんな清い関係を続けながらも、他方で富士男は五人を死に至らしめ、幾人をもレイプする。富士男という一人の人格の中で極端な行為が両立すること。そこに、大久保清の事件ではない著者が創作したエッセンスがあると思う。だが、下巻ではさらに著者が本書で訴えたい点が描かれていく。

‘2016/08/12-2016/08/17