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生首に聞いてみろ


著者の推理小説にはゆとりがある。そのゆとりが何から来るかというと、著者の作風にあると思う。著者の作風から感じられるのは、どことなく浮世離れした古き良き時代の推理小説を思わせるおおらかさだ。たとえば著者の小説のほとんどに登場する探偵法月綸太郎。著者の名前と同じ探偵を登場させるあたり、エラリー・クイーンの影響が伺える。法月探偵の行う捜査は移動についても経由した場所が逐一書き込まれる。そこまで書き込みながら、警察による人海捜査の様子は大胆に省かれている。それ以外にも著者の作品からゆとりを感じる理由がある。それは、ペダンティックな題材の取り扱い方だ。ペダンティックとは、衒学の雰囲気、高踏なイメージなこと。要は浮き世離れしているのだ。

本書は彫像作家とその作品が重要なモチーフとなっている。その作家川島伊作の作風は、女人の肌に石膏を沁ませた布を貼りつけ型取りし、精巧な女人裸像を石膏で再現することにある。死期を間近にした川島が畢生の作品として実の娘江知佳をモデルに作りあげた彫像。その作品の存在は限られた関係者にしか知らされず、一般的には秘匿されている。それが川島の死後、何者かによって頭部だけ切り取られた状態で発見される。娘をモチーフにした作品であれば頭部を抜きに作ることはありえない。なぜならば顔の型をとり、精巧に容貌を再現することこそが川島の作品の真骨頂だからだ。なのになぜ頭部だけが持ち去られたのか。動機とその後の展開が読めぬまま物語は進む。

彫像が芸術であることは間違いない。前衛の、抽象にかたどられた作品でもない限り、素人にも理解できる余地はある。だが、逆を言えば、何事も解釈次第、ものは言いようの世界でもある。本作には川島の作品に心酔する美術評論家の宇佐見彰甚が登場する。彼が開陳する美学に満ちた解釈は、間違いなく本書に浮き世離れした視点を与えている。川島の作品は、生身に布を貼ってかたどる制作過程が欠かせない。そのため、目が開いたままの彫像はあり得ない。目を閉じた川島の彫像作品を意味論の視点から解説する宇佐見の解釈は、難解というよりもはやスノビズムに近いものがある。解釈をもてあそぶ、とでも言えば良いような。それがまた本書に一段と浮き世離れした風合いを与えている。

ただ、本書は衒学と韜晦だけの作品ではない。「このミステリかすごい」で一位に輝いたのはだてではないのだ。本書には高尚な描写が混じっているものの、その煙の巻き方は読者の読む気を失わせるほどではない。たしかに彫像の解釈を巡って高尚な議論が戦わされる。しかし、法月探偵が謎に迫りゆく過程は、細かく迂回しているかのように見せかけつつ、地に足がついたものだ。

探偵法月の捜査が端緒についてすぐ、川島の娘江知佳が行方不明になる。そして宇佐見が川島の回顧展の打ち合わせに名古屋の美術館に赴いたところ、そこに宇佐見宛に宅配便が届く。そこに収まっていたのは江知佳の生首。自体は急展開を迎える。いったい誰が何の目的で、と読者は引き込まれてゆくはずだ。

本書が私にとって印象深い理由がもう一つある。それは私にとってなじみの町田が舞台となっているからだ。例えば川島の葬儀は町田の小山にある葬祭場で営まれる。川島のアトリエは町田の高が坂にある。川島の内縁の妻が住むのは成瀬で、川島家のお手伝いの女性が住んでいるのは鶴川団地。さらに生首入りの宅配便が発送されたのは町田の金井にある宅配便の営業所で、私も何度か利用したヤマト運輸の営業所に違いない。

さらに川島の過去に迫ろうとする法月探偵は、府中の分倍河原を訪れる。ここで法月探偵の捜査は産婦人科医の施術にも踏み込む。読者は彫像の議論に加え、会陰切開などの産婦人科用語にも出くわすのだ。いったいどこまで迷ってゆくのか。本書は著者の魔術に完全に魅入られる。

そして、謎が明らかになった時、読者は悟る。彫像の解釈や産婦人科の施術など、本筋にとって余分な蘊蓄でしかなかったはずの描写が全て本書には欠かせないことを。それらが著者によって編みあげられた謎を構成する上で欠かせない要素であることを。ここまでゆとりをひけらかしておきながら、実はその中に本質を潜ませておく手腕。それこそが、本書の真骨頂なのだ。

‘2017/01/12-2017/01/15


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


聖痕


本書は221党員にとってして待ちに待った最新作である。221党なんて言葉はない。著者のファンを勝手にこう呼んだだけだ。だが、パソコン通信の時代から運営されている著者のフォーラムの名前は221情報局という。221=ツツイであることはいうまでもない。221は著者の番号であり、ファンにとってはお馴染みの数字なのだ。

著者のホームページ(https://www.jali.or.jp/tti/)には221情報局へのリンクに貼られている。パソコン通信の頃からネットを活用した文筆活動を自在に行っていた著者にふさわしく、シンプルかつ読み応えのあるページとなっている。だが、更新頻度がさほど高くないのが惜しいところだ。だが、そんな221党員のためにASAHIネット企画「笑犬楼大通り」が開設された。もちろん著者のホームページからも笑犬楼大通りへのリンクが貼られている。笑犬楼大通りの中でも「偽文士日碌」はちょくちょく拝見している。それはWeb上の日記。だがblogとは少し違う。ページは書籍をあしらったデザインになっている。読者はページをめくるように紙の端をクリックする。すると著者の日々を行き来できるのだ。

著者の日々とはテレビに出たり、著書にサインをしたり、編集者を応対したり、執筆活動をしたり賑やかだ。作家と役者とタレントを兼ね、座長やクラリネット奏者やパネリストをこなし、東京と神戸の両方に家を持つ著者の日々はマンネリとは程遠い。ファンにはお馴染みだが、著者は今までに何度となくこうした日記スタイルの作品を出版している。「偽文士日碌」も今までの日記スタイルの作品を踏襲している。自らも家族も編集者も作家も友人も、著者の日記に登場する人や事物は全て実名だ。著者の日記スタイルには私も大きく影響を受けている。そんな私にとって「偽文士日碌」を読むことは楽しみの一つだ。

さて、本書である。なぜ前置きで「偽文士日碌」を紹介したかというと、本書の筆致は「偽文士日碌」に良く似ているからである。本書は葉月貴夫の生涯を書いている。幼少時から髪に白いものが混じる年齢までの生涯が書かれている。本書で描かれる貴夫と貴生の周囲の人々の織りなす日常は、「偽文士日碌」で描かれた著者の日常を思わせる。

先に私は著者の日記スタイルに多大な影響を受けたと書いた。著者の日記は今までに何冊も出版されている。それらに共通するのは露悪的な姿勢である。つまり、謙譲や遠慮とは無縁のスタイル。生活や出来事を隠さずに描く。例えそれが贅沢三昧な日々であろうとも。自粛などという小癪な態度とかけ離れた日記スタイルは実に小気味良い。下手な隠し事はかえって読む人にとって侮辱となり、隠すことがすなわち嫌みにもなる。そのスタイルは、「偽文士日碌」でも本書でも顕著といえる。

葉月貴生は幼い頃に暴漢にナニ(本書内の雅語では露転と呼ばれる)をちょんぎられる。そのため、中性的な美しさを損なわない。また、性欲にも悩まされることがない。しかも、頭脳明晰で東大卒。料理の腕も抜群で、経営するレストランは客が引きも切らない。レストランに来店する各界の名士とも懇意で、友人関係にも困っていない。また、彼の年の離れた妹を娘として育てる。その娘がこれまた美形で躍りの名手だ。そういった恵まれた、華麗な日常が描かれるのが本書である。そんな彼の日常が遠慮や謙譲など一切なく語られる。

本書には露悪以外にもう一つ特徴がある。それは、かつて世界の文学史で脚光を浴びたラテンアメリカ文学からの影響だ。マジックリアリズムと称されたその作風は、現実に即した描写をしながら極端な状況を描写することで人間の認識を超えたところに読み手を運ぶ。本書には突飛なことが起こるわけではない。ありえない風景が出現するわけでも超人がスゴ技を披露することもない。だが、葉月貴生の周辺の人々や事物は出来すぎている。理想的過ぎるぐらいに理想的なのだ。その誇張された美化こそが、本書に漂っているマジックリアリズムの影響だと思う。ちなみに著者はラテンアメリカ文学からの影響を隠そうとしていない。かく言う私がラテンアメリカ文学の愛好家となったのも、著者からの感化なのだから。

では、理想的すぎる葉月貴生の生活をここまで露悪的に描いたのは何故だろうか。

一つは、日本的な偽善性への著者なりの態度表明だろう。昭和天皇の崩御の際や、東日本大震災では自粛という言葉が大分取り沙汰された。

もう一つは著者の考える美、にあるのではないか。葉月貴生は去勢された身だ。そのため、性欲に煩わされない。しかし、性を嫌悪するかと思えばそうでもない。それは自ら経営するレストランの上階を逢い引きの場として提供することでも表明されている。つまり、真の美とは周囲に影響されず、世俗にあっても美しさが損なわれない。清濁併せ呑んでもなお、美が決然と立っている様とでもいうか。世俗にありながら超然かつ孤高を保てる強さこそが真の美ということだろう。要するに著者が考える美とは自ら無欲であること、ではないだろうか。

美をテーマとした本書を書くにあたり、著者はある工夫を施している。それは雅語の多用だ。いまやほとんどの日本人から忘れ去られ、誰にも顧みられなくなった語が本書にはたくさん登場する。ページが進むにつれ、使われる雅語の割合は増えていく。このところの著者の作品に目立つのはことばに関するこだわりだ。昔から、愚鈍ではなく魯鈍という言葉を使う著者に相応しく。

本書は老いてなお創作意欲盛んな著者の、余生の手慰みとはかけ離れた力作である。私も著者の作品はほぼ全て読んでいるつもりだが、まだまだ著者の日々は追いかけて行きたいと考えている。

‘2015/03/05-2015/03/09