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ウイスキー起源への旅


私はウイスキーが好きだ。まだ三級しか取っていないが、ウイスキー検定の資格も得た。ウイスキー検定試験といってもなかなか難しい。事前に出題される問題を予習することが求められる。予習の中でウイスキーの歴史をひもといた時、まずでてくるのがウイスキーがはじめて文献に出てきた年だ。

1494年に出された文書にある「王の命令によりアクア・ヴィテ製造用に8ボルのモルトを修道士ジョン・コーに支給する」という文言。それがウイスキーの名前が文献に出てくる最初だという。

ウイスキーを好きになる時、味や香り、豊富な銘柄の豊富さにまず目がいく。続いて、ウイスキーの歴史にも興味が出てくる。それは、ウイスキーが時を要する飲み物であることが影響しているに違いない。出来上がるまでにぜいたくな時間が欠かせない飲み物。それを古人はどうやって発見し、どのように磨き上げてきたのか。わたしのような歴史が好きな人間はともかく、教科書を暗記するような歴史に興味がない方でも、ウイスキーに魅了された途端、ウイスキーの歴史に興味が出てくるはずだ。

だが、ウイスキーの歴史を把握することは案外と難しい。むしろ難解といっても良いぐらいだ。ウイスキーが史書に現れるのは、先に書いた通り1494年のこと。ただし、それ以降とそれ以前のウイスキーの歴史には謎が多い。それは、民が勝手気ままに醸造と蒸留を営み、時には領主の目を盗み、密造とは切っても切れないウイスキーの性格にも関係がある。つまり、ウイスキーの歴史には、体系だった資料は残されていないのだ。

だから、本当に1494年になるまでウイスキーは作られなかったのか、との問いに対する明快な答えは出しにくい。それが、ウイスキーの歴史に興味を持った者が抱く共通の疑問だ。同時にミステリアスな魅力でもある。

著者はその疑問を、ウイスキーの研修で訪れたスコットランドのエジンバラで強くいだく。というか疑問のありかを教わる。名も知らぬ老人。彼は著者に、ウイスキー作りは、ケルト民族の手によって外からスコットランドにもたらされた、と語る。外とはアイルランドのこと。つまり、アイルランドでは1494年よりもっと以前からウイスキーが作られていたはず。著者はそのような仮説を立てる。本書は、その仮説を立証するため、著者は費やした広大な旅と探求の記録だ。

著者はサントリーの社員だ。そして長年、ウイスキー部門に配属されていた。毎日の業務の中で、ウイスキーに対する見識を鍛えられてきた。本書のプロローグには、著者が農学部の学生の頃からゼミの教授にウイスキーをはじめとした蒸留酒について啓蒙されてきたことも記されている。著者はもともと、酒類全般への造詣が深く、酒つくりの起源を調べるための基本知識は備えていたのだろう。その素養があった上に、旅先での老人からの示唆が著者の好奇心を刺激し、著者のウイスキーの起源の謎を解く旅は始まる。

著者が持つお酒に関する教養のベースは、本書の前半で折々に触れられて行く。教授から教えられたこと。ウイスキーに開眼した時のこと。安ワインで悪酔いした学生時代から、後年、高級ワインのおいしさに魅了され、ワインの奥深さにはまっていったこと。ウイスキー作りに携わりたいとサントリーを志望し、入社したことや、そのあと製造畑で歩んだ日々。ウイスキー作りの研修でスコットランドやアイルランドに訪れた事など。そこには苦労もあったはずだが、酒好きにすればうらやましくなる経歴だ。

まずはエジプト。著者はエジプトを訪れる。なぜならエジプトこそがビールを生み出した地だからだ。ビールが生み出された地である以上、蒸留がなされていてもおかしくない。蒸留が行われていた証拠を探し求めて、著者はカイロ博物館を訪れる。そこで著者が見たのは、ビール作りがエジプトで盛んであった証拠である遺物の数々だ。旧約聖書を読んだことがある方は、モーゼの出エジプト記の中で、空からマナという食物が降ってきて、モーゼに着き従う人々の命を救ったエピソードを知っていることだろう。そのマナこそはビールパン。ビールを作るにあたって作られる麦芽を固めたものがマナである。しかし、イスラエルにたどり着いて以降のモーゼ一行に、マナが与えられることはなかった。なぜなら、イスラエルは麦よりもブドウが生い茂る地だったからだ。エジプトで花開いたビール文化はイスラエルでワイン文化になり替わった。

この事実は後年、アラビアで発達した蒸留技術がウイスキー造りとして花開かなかった理由にも符合する。そもそも蒸留技術それ自体は、イスラム文化よりずっと前から存在していたと著者は説く。エジプトでも紀元前2000年にはすでに蒸留技術が存在したことが遺物から類推できるという。しかし、蒸留技術は記録の上では、ミイラや香油作りにのみ使われたことしか記録に残っていないらしい。酒を作るために蒸留が行われた記録は残っていない。このことが著者の情熱にさらなる火をくべる。

一方、キリスト教の一派であるグノーシス派の洗礼では「生命の水・アクアヴィテ」が使われていたという。それはギリシャ、イタリア、フランスで盛んだったワイン製造が蒸留として転用された成果として納得しうる。ワイン蒸留、つまりブランデーだ。それがローマ帝国の崩壊後、今のヨーロッパ全域に蒸留技術が広まるにつれ、酒として飲まれるようになる。そして、ドイツ・イギリスなどブドウが成らない北の国では穀物を基にした蒸留酒として広まっていった。

著者はウイスキー造りの技術が1494年よりずっと以前に生まれていたはず、との仮説を胸に秘め、調査を進める。ついで著者が着目したのが、アイルランドに伝わったキリスト教だ。アイルランドのセント・パトリックスデーは緑一色の装束でよく知られている。その聖パトリックがアイルランドでキリスト教を布教したのは4~5世紀の事。当時のアイルランドには、ローマ帝国の統治がぎりぎり及んでいなかった。ところが、すでにキリスト教が根付いていた。後にキリスト教がローマ帝国全域で国教とされる前から。そればかりか、土着のドルイド教とも融合し、アイルランドでは独自の文化を築いていた。その時に注目すべきは、当時のブリタニアやアイルランドではブドウが育たなかったことだ。ローマ帝国にあった当時のアイルランドやブリタニアでは、ワイン文化が行き渡っていたと思われる。ところが、ワインが飲めるのは、ローマからの供給があったからこそ。ところが、ローマ帝国の分裂と崩壊による混乱で、ワインが供給されなくなった。それと同時に、混乱の中で再び辺境の島へ戻ったブリタリアとアイルランドには、独自のキリスト教が残された。著者はその特殊な環境下で麦を使ったアクアヴィテ、つまりウイスキーの原型が生まれたのではないかと推測する。

このくだりは本書のクライマックスともいうべき部分。ウイスキー通に限らず、西洋史が好きな方は興奮するはず。ところが、アイルランドのあらゆる遺跡から著者の仮説を裏付ける事物は発掘されていない。全ては著者の想像の産物でしかない。それが残念だ。

本書はそれ以降、アイルランドの歴史、アイルランドでウイスキー造りが盛んになっていたいきさつや、スコットランドでもウイスキー造りが盛んになっていった歴史が描かれる。その中で、著者はアイルランドでなぜウイスキーが衰退したのかについても触れる。アイルランドでの製法にスコッチ・ウイスキーでなされたような革新が生まれなかったこともそう。アイリッシュ・ウイスキーにとって最大の市場だったアメリカで禁酒法が施行されたことなど、理由はいろいろとある。だが、ここ近年はアイルランドにも次々と蒸留所が復活しているという。これはウイスキーブームに感謝すべき点だろう。

本書で著者が試みた探索の旅は、明確な証拠という一点だけが足りない。だが、著者の立てた仮説には歴史のロマンがある。謎めいたウイスキーの起源を解き明かすに足る説得力もある。

何よりも本書からは、ウイスキーのみならず、酒文化そのものへの壮大なロマンが感じられる。酒文化とともに人々は歴史を作り上げ、人々の移動につれ、酒文化は多様な魅力を加えてきた。それは、酒好きにとって、何よりも喜ばしい事実だ。

‘2018/7/29-2018/08/13


伊能忠敬―日本をはじめて測った愚直の人


ここにきて、また伊能忠敬が脚光を浴びている。中高年の希望の星として。

伊能忠敬といえば、日本ではじめて全国地図を作った人物だ。全国を測量して歩き、実際の日本の地形と遜色ない日本地図を作った業績は不朽だ。井上ひさし氏による『四千万歩の男』で取り上げられたこともしられている。

なぜ中高年の希望の星なのか。それは、伊能忠敬が地図作成の世界に入ったのが50歳の年だからだ。50歳といえば、現代人の感覚でも晩年に差し掛かっている。ましてや当時の感覚では隠居して当たり前の歳だ。今の私たちが定年後にセカンドライフを志すのと同じように考えてはならない。当時の尺度では遅すぎるのだ。しかもそんな老齢から19歳年下の高橋至時に弟子入りする謙虚な心も見事だ。当時の感覚では相当な老年であるにも関わらず、当時の不便な交通事情の中、全国津々浦々を歩き回り「大日本沿海與地全図」を完成させた。私はまだ実物を見たことがないが、本書には「大日本沿海與地全図」の一部が載っている。その精緻な出来栄えにはうならされる。見事というほかはない。

本書は伊能忠敬をブックレットの形で紹介している。ブックレットといえば薄い小冊子の体裁だ。本書は88ページという少ない紙数しかない中で伊能忠敬の事績を紹介している。網羅しているとはいえないが、生い立ちと業績、そして伊能図の今に至る歩みまでをコンパクトかつ概観的に紹介している。それが、私にとってはよかった。なにせ伊能忠敬のことを本で読むのはほぼ初めてなのだから。『四千万歩の男』も読んでいないし、せいぜいが教科書で習った程度の知識しかない。要するに私は伊能忠敬のことを何も知らなかったに等しい。そんな私には88ページの本書の内容はかえってコンパクトで頭に入ってきた。ダイジェストで伊能忠敬の生涯を学べた感じがして。

たとえば隠居前の伊能忠敬がどのように家業を経営していたかについても記している。研究によると伊能家の資産は現在の貨幣価値で45億円以上だったそうだ。立派な億万長者である。しかも伊能忠敬は名主職まで勤めていたとか。それだけの実績を重ねていたのに、江戸に出て測量の弟子入りをし、一からキャリアを積み上げなおしたのだから恐れ入る。

なぜ伊能忠敬は日本を測量しようと思ったのか。それは地球の大きさや形を明らかにしたいという志をもともと名主の頃から持っていたからだという。地球の大きさや形を明らかにするには測量が必要となる。伊能忠敬が師の高橋至時に測量を願い出たところ、せめて蝦夷までの距離を求めなければ地球の大きさは測れないといわれた。それが伊能忠敬を測量に向かわせたという。

第一次から第十次まで行われた全国の測量。それらも本書は概要が紹介する。さすがに第十次の旅は体力面からか弟子たちに任せたようだ。だが、それ以外の旅は全て伊能忠敬本人が足を運んだというからすごい。あと、あらためて理解したことがある。それは伊能図が沿岸の地図を詳しく記したとはいえ、内陸をくまなく測量した訳ではないことだ。 いくつかの内陸部の土地は回っているようだが、あくまでも沿岸のみを網羅したのが伊能図と考えてよさそうだ。よく考えてみれば、ありとあらゆる場所を訪れていたら、20年弱で徒歩で全国を回れるはずがない。つまり沿岸部に特化し、その精度を高めたことが伊能図をこれだけの完成度にしたということだ。このことを本書は教えてくれた。それだけでも読んだ甲斐がある。

本書には伊能図以前に記された日本地図の歴史と、「大日本沿海與地全図」のその後の運命にも紙数を割いている。明治に入ってすぐ、皇居で起こった火事によって 「大日本沿海與地全図」 の正版は失われてしまったという。しかも伊能家に保管されていた副本の控図までもが関東大震災で焼失してしまったとか。しかし模写された図の数々は、今も世に伝えられている。50才から志した日本地図への取り組みは200年以上たった今も世に伝えられているのだ。

なによりも本書が重んじているのは、伊能忠敬の実像を正しく紹介することだ。本書によると伊能忠敬は厳格かつ堅実な人物だったという。そこには後世、皇国史観によって左右され、作り上げられた伊能忠敬像なく、実際の本人を紹介したいという著者の想いがある。著者は国土地理院のご出身のようだ。その立場からも、伊能忠敬の成した歴史的な意義は強調してし足りないのだろう。だから例えば、伊能忠敬が幕府と反目し合いながら全国を測量して回ったという伝説も否定する。幕府や諸藩の妨害を乗り越えて地図を作り上げた伊能忠敬という英雄像は私たちも修正したほうがよさそうだ。そして実直な伊能忠敬像を紹介した著者は、これからの時代を生き抜くのに、伊能忠敬の粘り強く堅実に進む生き方を勧めている。

人類の何年にもわたる努力が、人工知能によって一瞬に達成されようとする今、伊能忠敬の生き方は何を教えるのだろう。私は、もはや成果物の量や精度では人工知能に太刀打ちできなくなるだろうと思っている。だが、それは成果物だけで成果を評価する限りの話だ。人口知能が人の人生を左右しようとする今、個人の自我が蓄える経験の重み。それこそがより大切にされる気がする。経験と自制の大切さを200年前のわが国で体現したのが伊能忠敬。冒頭に書いた通り、50才から実績を作り上げたということばかりが取り上げられているが、そればかりが伊能忠敬の偉大さではあるまい。見逃してはならないのが、商売に精を出している間も伊能忠敬は各種の勉強に励んでいたことだ。名主の頃から勉学に打ち込んでいたことが本書でも紹介されている。50才で一念発起するまでの年月も土台があってのこと。実直にこつこつと。それこそがもっとも肝に銘じるべきことだと思った。

‘2017/12/22-2017/12/27