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佐藤家の人びと―「血脈」と私


本書は本来なら血脈各巻の解説として巻末に附されるべきものだ。

しかし、上中下巻あわせて原稿用紙3400枚ともいう大作「血脈」。その解説には、語り尽くすべき内容が多すぎる。多彩な登場人物、無数のエピソード、何箇所もの舞台。一族の大河を描いた3400枚の中にはあまりにも多くの情報が込められている。

特に、血脈の登場人物には著者自身も含め、個性的な人物が多い。著者の筆があまりにも活き活きと登場人物を描くものだから、読者はついその人の顔をみたくなる。放蕩の限りを尽くすこの節という人物はどんな面構えなんだろう。狂恋に翻弄されシナを振り回す洽六の馬面とは、そして洽六をそうまでさせる女優シナの容姿とは。さらに、作者の子供時代のあどけなくも意志を感じさせる顔とは。本書には読者にとって興味の対象である登場人物達の写真が豊富に載せられている。

私は「血脈」上中下巻を読み通す間、いったい何度本書を繙いたか。十回や二十回どころではない。それこそ数えきれないくらいだ。弥六から洽六。シナの女学生時代や女優時代。洽六の一人目の妻ハツと、八郎、節、久の兄弟。夭折した長女喜美子。さらには早苗と愛子姉妹。八郎の息子たちに、八郎や愛子とは腹違いの真田与四男。八郎の師匠である福士幸次郎。個性的な人物の肖像がすぐに確認できる座右にあることで、血脈本編をめくる手にも一層熱がこもるというものだ。

また、本書には血脈登場人物の家系図も掲載されている。それによって読者は複雑な佐藤家の血脈関係を確認しながら本編を読み進めることができる。

また、本書にはいわゆる著者による謎解き的な解説文も豊富に掲載されている。私はそれらの文については、本編を読む間は一顧だにせず、本編読了後にまとめて読んだ。しかし、本書に収められた解説を読んでから再度本編を読み直すと、一層本編の理解も深まることは間違いない。著者自身による「血脈」や佐藤家の一族を語る冒頭から、著者と豊田氏、著者と長部氏、著者と大村氏による対談、さらには血脈の本編を補強するエピソードの数々。これほどの内容が載っているからこそ、本来は解説として下巻の巻末に附されるべき本書が独立した書籍として刊行されたのだろう。まさしく著者畢生の大作に相応しい扱いだともいえる。

本書を読んで、改めて「血脈」についてまとまった感想を述べてみたいと思う。

それは、特定の人物を小説のモデルにする、ということの是非についてだ。おそらくは「血脈」に出てくる内容のほとんどは限りなく事実に近いと思う。それは佐藤家の登場人物にとっては自分の悪行が暴かれ、読者にさらされることを意味する。しかも死後に。よくある評伝や伝記は、モデルの死後、生前のモデルを知らぬ人物によって書かれることが多い。よくある暴露本の類はモデルに近い人物によって書かれることが多いが、それは亡くなってすぐに書かれるため、生々しい内容になりがちだ。

「血脈」に登場する人物のほとんどは、なくなった後随分経ってからモデル化されている。存命だが、著者に色々と書かれた人物といえば、サトウハチロー記念館館長を務めているハチローの息子四郎ぐらいだろうか。あと、ハチローの孫にあたる佐藤家の嫡男恵も忘れてはならない。「血脈」は恵が著者に会いに来る場面で終わる。八百屋の引き売りになるという、佐藤家の血脈を引くに相応しい世俗的な栄華とは無縁の生き様を見せる一方で、荒ぶる血が鎮まったかのように細く落ち着く様子が本書の幕切れとして鮮やかな効果を与えている。つまり、恵は著者によって貶されるどころか佐藤家の血を鎮める役割として好意的に描かれている。

しかし、血脈を体現する主要人物はそうでもない。ワルとされる人物達は著者の人生にあまりにも深く関わっている。著者にとって愛憎半ばというより憎さも一入だったかもしれない。それは「血脈」や本書を読めば容易に感じられる。彼らは自らを憎む著者によってモデル化され、私生活が暴かれていく。自らの悪行を近しい娘であり妹であり姪である著者から書かれるということは、モデルとなった人物にとって何を意味するのか。私は結局のところ、それはどうでもよいことだと思う。彼らにとってみても、自分の人生がどう書かれようとどうでもよかったに違いない。やりたいようにやり切った人生は自分だけの物。死後に誰に何を書かれようとどうでもいい。そう思っていたのではないだろうか。少なくとも自分の行動が死後どのように書かれるか計算しながら生きた人物の人生など、他人から取り上げられることなどそうないだろう。彼らはそんな心配など一瞬たりとも考えずに人生を送ったに違いない。死後に何を書かれようとも気にしない。それは多分、評伝を書かれるような人物全てが思うことだと思う。墓に入ってしまえば何も反論できない。逆に生者たちが何を噂しようとも、死者には何の影響も与えまい。

でも、亡くなった方がつとに願うのは、自らの人生が嘘や捻じ曲げによる情報で汚されないことではないだろうか。どう思われようとも自分がやっていないことが事実としてまかり通ることは嫌だろうな、と思う。その人物を非難できるのはその人物と同じ時代を生きた人にだけ許されること。その人物の成した行為によって直接の影響を与えられた人物にしか非難する資格は与えられない。それは常々私がこうありたいと思う歴史への向き合い方だ。違う時代の人物によって書かれる評伝が学問として認められるのは、そこに取り上げられる対象の人物を非難するからではなく、歴史の正確性を期すためだからだ。一方で、同時代の著者によって書かれる暴露本が軽く見られるのは、生々しく利害がぶつかる内容であり、出来事から発生する波紋がまだ収まっておらず、確定していない事実を描くからだ。

では、「血脈」はどうなのだろうか。モデルとなった人物と同じ時代を過ごした著者によって書かれた「血脈」は、それが許される作品として考えてよいと思う。彼らの生きた人生をモデル化するのも非難するのも、彼らに近しい著者だから出来たこと。洽六もハチローも節も忠も五郎も、さらにはシナやカズ子やるり子や蘭子や早苗も、他人はともあれ愛子には書かれる資格があったのではないだろうか。そして、ここで言っておかねばならないのは、著者は決して彼らを憎しみだけで見ていたわけではなかったことだ。本書の36Pで書かれているが、著者が自伝「愛子」を上梓した際、室生犀星氏から手紙をもらったことが紹介されている。そこには「小説を書くことは、親を討ち、兄弟姉妹を討ち、友を討ち、己を討つことです」とあったという。この言葉がずぅーっと著者の中にあったとか。でも、著者は「血脈」を書く中で、彼らをただ討つだけではない高みに登っていったと思う。ユーモアもある愛すべき点もある人物として。それはたとえば、「佐藤家の人間はしょうがない連中だけど、ユーモラスなんですよ。で、それがあるから助かってる。それがなかったら悲惨な、読むに耐えない小説になったと思います」(P61-62)や、「佐藤家は悪口と怒りが渦巻く一家だった。だが背中合せに濃密な愛があった。「血脈」を描いてそれがわかったことが、私はうれしい」(P168)といった記述にそれが現れている。

どんな奇想天外な人生でも、どんなに人に迷惑をかけた人生でも、死ねば時がその苦さを薄めてゆく。故人をいつまでも非難するのではなく、きちんと向き合い、全力で理解しようと努める。本書は佐藤家の血脈を非難する本ではなく、肉親たちを鎮魂する本なのだ。

特定の人物を小説のモデルにするということは、ただ単に憎み貶すだけでは何物も産みださない。そうではなく本書のようにそこにある人間としての救いを描かないと駄目なのだ。それが本書の優れた点であり、構成に残すべきモデル小説として推薦する点だと思う。

‘2015/09/12-2015/09/15


現代について


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タカ派路線が幅を利かせる今の日本。だが、一昔前までは、ハト派路線が全盛であった。その反動が、今のタカ派隆盛に繋がっているともいえる。保守論客として知られる著者は、ハト派全盛の頃から保守論客として気を吐いていた方である。

私は保守というのは、防御してこそ本分を発揮すると考えている。我が国の歴史を紐解いてみても、外に打って出た際は、大抵痛手を蒙ってきた。それは、白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、満州事変からポツダム宣言受諾までの15年に顕著である。一方、日本が防御に徹する時、なかなかの試合巧者ぶりを発揮している。二度に亘る元寇の来襲も撃退し、安土桃山時代にはスペインやポルトガルといった当時の世界の覇者の進出を、鎖国という手段で退けている。日本海海戦もバルチック艦隊を迎え撃った形で勝利している。防御に徹した時のほうが、日本は繁栄を享受しているように思えるのは私だけだろうか。それは島国という地政学的な条件もあるのかもしれないが、地震や火山噴火や台風といった度重なる自然災害から得られた風土の教訓ではないだろうか。

そのような考えから、私は日本のナショナリズムを考える際、防御的な反応であれば是とする者である。反対に、国内を覆うナショナリズムが、国外に刃を向けることを危惧する。昨今もすでにヘイトスピーチという形で、その歪んだナショナリズムが噴出し始めており、危惧を覚えている。ヘイトスピーチは、当事者に言わせると防御反応なのかもしれないが、どうみても過剰防衛である。関東大震災の際の朝鮮人虐殺で知られるように、本来臆病な日本人は、過剰防衛という過ちを犯しかねない。

オピニオン誌や新聞もあまり読む間もない最近故、著者の言説をこのところ目にすることが少ない。私の印象では、保守派とはいえ、著者の言説には戦前の日本の侵略行為を美化するといった言説はあまりされていなかったように思う。むしろ著者の思想は、諸外国が貶めようとする日本を、防御するために構築されたとも思える。そのペン先は、諸外国を貶めるために使わず、日本を守るために使う。それが、私が著者の言説を信頼する理由でもある。過剰防衛にならぬよう、周到に、緻密に著者の論は防御網を張り巡らす。

本書は、1987年頃から1995年頃に書かれた論文を中心に編まれたものである。
 <五十年前の歴史をどうとらえるか>
 <国際政治に照らしてみた自民党と社会党>
 <オウムと破防法>
 <日本の安全保障>
 <難民時代と日本の労働力>
 <欧米への挑戦>
 <日本とドイツ~その戦後史>
 <教育問題~どうすれば改革ができるか>
 <一九八九~九〇年――世界激変への証言>
といった本書の章題を眺めるだけでも、その防御的な論調が見て取れるのではないだろうか。実際、自虐史観に対しては第一章で徹底的に論破している。第三章についても日本の身中の虫に対する防御についてであり、第四章は章題からして防御そのものである。中でも第五章については、20年前に書かれたとはいえ、今の少子化に苦しむ日本にとって参考となるところが大である。本稿を書く前に著者のブログを確認したところ、先日も移民問題シンポジウムを取りまとめられ、その内容が本になったとか。第八章についても、防御のための知恵は、教育から生まれること必定である。そのあたりも著者は疎かにしない。

移民問題も含め、今の日本には、激変する世界に対応する防御策の構築が求められている。それも、鉄壁の防御壁と流れに逆らわず受け流す硬軟二面の構築が。傘寿に手が届こうとする著者であるが、まだまだ硬骨の論陣を張り続けて頂きたいと願っている。

’14/07/16-‘14/07/23