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76回目の終戦記念日にあたって


今日は76回目の終戦記念日です。

おととしにこのような記事をアップしました。今年も思うところがあり、振り返ってみようと思います。
なぜそう思ったか。それは今日、昭和館を訪れ、靖国神社に参拝したからです。

今年は初めて終戦記念日に靖国神社に参拝しました。その前には近くにある昭和館を訪れました。こちらも初訪問です。
さらにここ最近に読んでいる本や、レビューに取り上げた書物から受けた感化もありました。そうした出来事が私を投稿へと駆り立てました。

つい先日、東京オリンピックが行われました。ですが、昨今の世相は新型コロナウィルスの地球規模の蔓延や地球温暖化がもたらした天災の頻発、さらなる天災の予感などではなはだ不透明になっています。本来、オリンピックは世界を一つにするはず。ですが排外主義の台頭なども含め、再び世界が分裂する兆しすら見えています。

なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか。私たちはその反省をどう生かしていけばいいのか。
戦争を再び繰り返してはならないのは当たり前。それを前提として、自分なりに考えてみました。

太平洋戦争を語る際に必ずついて回るのは、1929年のウォール街の株価大暴落に端を発する昭和恐慌であり、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から生まれたナチスの台頭です。

当時のわが国は恐慌からの打開を中国大陸に求めました。それが中国からの視点では、満州事変から始まる一連の侵略の始まりだったことは言うまでもありません。
しかも中国への侵略がアメリカの国益を損なうと判断され、ABCD包囲網からハル・ノートの内容へと追い込まれたことも。ハル・ノートが勧告した内容が満州事変の前に状況を戻すことであり、それを受け入れられなかった指導層が戦争を決断したことも知られたことです。
結局、どちらが悪いと言うよりも、恐慌に端を発した資源獲得競争の中で生じた国際関係の矛盾が、戦争につながった。それは確かです。真珠湾攻撃を事前にアメリカ側が知っていたことは確かでしょうし、在米領事館の失態で宣戦布告交付が遅れたとしても。
一年くらいなら暴れてみせると言った山本五十六司令長官の半ばバクチのような策が当たり、太平洋戦争の序盤の大戦果につながったことも周知の通りです。

私は、そこまでのいきさつは、仕方がないと思っています。では、これからの私たちは敗戦の何を教訓にすれば良いのでしょうか。

私は三つを挙げられると思っています。
まず、一つ目は戦を始める前に、やめ時をきちんと決めておかなかったこと。
二つ目はトップがそれまでの出来事を覆す決断力を欠いていたこと。
さらに三つ目として、兵隊の統率の問題もあると考えています。

山本司令長官が、開戦前に一年と決めていたのなら何があろうと一年でやめるべきだったはずです。それをミッドウェイ海戦で敗戦した後もずるずると続けてしまったのが失敗でした。この時に軍部や新聞社の作る世論に惑わされず終戦の決断を速やかにしておけば。悔いが残ります。
また、日露戦争の際には国際法を遵守し、捕虜の扱いについても板東収容所のように模範となる姿勢をとれた日本軍が、日中戦争にあたっては軍紀が大きく崩れたことも悔やまれます。
経済の打開を求めて中国に進軍したのであれば、絶対に略奪行為に走ってはならばかったはず。侵略された側から三光作戦と呼ばれるきっかけを与えたら大義が崩れてしまいます。それも悔やんでも悔やみきれない失敗です。

そうした教訓をどう生かすか。
実は考えてみると、これらは今の私に完全に当てはまる教訓なのです。
経営者として広げた業務の撤退は考えているか。失敗が見えた時に色気を出さず決断ができるか。また、従業員に対してきちんと統制がとれているか。教育をきちんと行えているか。
私が仮に当時の指導者だったとして考えても同じです。戦の終わりを考えて始められただろうか。軍の圧力を押しのけて終わらせる決断ができただろうか。何百万にも上る軍の統率ができただろうか。私には全く自信がありません。
ただ、自分で作った会社は別です。自分で作って会社である以上、自らの目の届く範囲である今のうちにそれらができるように励まなければと思うのです。

ただ、その思索の過程で、わが国の未来をどうすべきかも少しだけ見えた気がしました。

まず前提として、わが国の地理の条件から考えても武力で大陸に攻め込んでも絶対に負けます。これは白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役や、今回の太平洋戦争の敗戦を見ても明らかです。

であれば、ウチに篭るか、ソトに武力以外の手段で打って出るかのどちらかです。
前者の場合、江戸時代のように自給自足の社会を築けば何とかなるのかもしれません。適正な人口を、しかもピラミッド形を保ったままであれば。多分、日本人が得意な組織の力も生かせます。
ただし、よほど頭脳を使わないと資源に乏しいわが国では頭打ちが予想されます。おそらく、群れ社会になってしまうことで、内向きの論理に支配され、イノベーションは起こせないでしょうね。世界に対して存在感を示せないでしょうし。

ソトに出る場合、日本人らしい勤勉さや頭脳を駆使して海外にノウハウを輸出できると思います。
日本語しか使えない私が言うのはふさわしくないでしょうけど、私はこちらが今後の進む道だと思っています。今までに日本人が培われてきた適応力はダテではないからです。あらゆる文明を受け入れ、それを自分のものにしてきたわが国。実はそれってすごいことだと思うのです。
日本人は、組織の軛を外れて個人で戦った時、実は能力を発揮できる。そう思いませんか。今回のオリンピックでも見られたように、スポーツ選手に現れています。
ただ、そのためには起業家マインドが必要になるでしょう。組織への忠誠を養うのではなく、自立心や自発の心を養いたいものです。ただし、日本人の今までの良さを保った上で。
固定観念に縛られるのは本来のわが国にとって得意なやり方でないとすら思えます。

私は、今後の日本の進む道は、武力や組織に頼らず個人の力で世に出るしかないと思います。言語の壁などITツールが補ってくれます。

昭和館で日本の復興の軌跡を見るにつけ、もう、この先に人口増と技術発展が重なるタイミングに恵まれることはないと思いました。
そのかわり、復興を成し遂げたことに日本人の個人の可能性を感じました。
それに向けて微力ながらできることがないかを試したい。そう思いました。

任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け
道義を篤くし 志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし


アウシュヴィッツ・レポート


衝撃の一作だ。
私がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の恐るべき実態を描いた映画を観るのは『シンドラーのリスト』以来だ。
人を能率的に殺すためだけに作られた収容所。労働に耐えうるものと殺されるものがいとも簡単に選別され、殺されるものは即座に処分される。
にわかには信じられないその所業をなしたのはナチス・ドイツ。

私は23歳の頃に『心に刻むアウシュヴィッツ展』の京都会場のボランティアに参加したことがある。昨年の年末には『心に刻むアウシュヴィッツ展』の展示物が常設の博物館となっている白河市のアウシュヴィッツ平和博物館にも訪れた。あと、福山市のホロコースト記念館にも23歳の頃に訪れた。

私はそうした展示物を目撃してきたし、書籍もいろいろと読んできた。無残な写真が多数載せられた写真集も持っている。
だが、そうした記録だけではわからなかったことがある。
それは、残酷な写真がナチスの親衛隊(SS)の目をかすめてどのように撮られたのかということだ。私が持っている写真集の中にはドイツの敗色が濃厚になる前のものもある。また、収容者によっては連合軍に解放されるまでの長期間を生き延びた人物もいたという。
私にはそうした収容所の様子が文章や写真だけではどうしてもリアルに想像しにくかった。
念のために断っておくと、私は決して懐疑論者でも歴史修正主義者でもない。アウシュヴィッツは確実にあった人類の闇歴史だと思っている。

本作は私の想像力の不足を補ってくれた。本作で再現された収容所内の様子や、囚人やSSの感情。それらは、この不条理な現実がかつて確実にあったことだという確信をもたらしてくれた。

不条理な現実を表現するため、本作のカメラは上下が逆になり、左に右とカメラが傾く。不条理な現実を表すかのように。
だが、その不条理はSSの将校たちにとっては任務の一つにすぎなかった。SSの将校が家族を思い、嘆く様子も描かれる。
戦死した息子の写真を囚人たち見せ、八つ当たりする将校。地面に埋められ、頭だけを地面に出した囚人たちに息子の死を嘆いた後、馬に乗って囚人たちの頭を踏み潰す。
一方で家族を思う将校が、その直後に頭を潰して回ることに矛盾を感じない。その姿はまさに不条理そのもの。だが、SSの将校たちにとっては日常は完璧に制御された任務の一つにすぎず、何ら矛盾を感じなかったのだろうか。
本作はそうした矛盾を観客に突き付ける。

戦後の裁判で命令に従っただけと宣言し、世界に組織や官僚主義の行き着く先を衝撃とともに教えたアドルフ・アイヒマン。
無表情に仮面をかぶり、任務のためという口実に自らを機械として振る舞う将校。本作ではそのような逃げすら許さない。将校もいらだちを表す人間。組織の歯車にならざるを得ない将校はあれど、彼らも血の通った人であることを伝えようとする。

本作は、想像を絶する収容所の実態を外部に伝えようと二人の囚人(ヴァルター・ローゼンベルクとアルフレート・ヴェツラー)がアウシュヴィッツから脱出する物語だ。
二人がまとめたレポートはヴルバ=ヴェツラー・レポートとして実在しているらしい。私は今まで、無学にしてこのレポートの存在を知らずにいた。

脱出から十日以上の逃走をへて保護された二人は、そこで赤十字のウォレンに引き合わされる。だが、ウォレンはナチスの宣伝相ゲッベルスの宣伝戦略に完全に惑わされており、当初は二人の言い分を信じない。それどころか、赤十字がアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所のために差し入れている食料や石鹸といった日用品を見せる。さらには収容所から届いた収容所の平穏な日常を伝えた収容された人物からの手紙も。
もちろん二人にとっては、そうしたものは世界からナチスの邪悪な所業を覆い隠すための装った姿にすぎない。

二人が必死で持ち出したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の実情を記したレポートはあまりにも信じがたい内容のため、当初は誰にも信じられず、レポートの出版まで七カ月もかかったという。それほどまでに実態が覆い隠されていたからこそ、解放時に発信されたアウシュヴィッツの凄惨な実態が世界中に衝撃を与えたのだ。

人類が同胞に対して与えた最大級の悪業であるホロコースト。
ところが、この出来事も私が思うほどには常識ではないらしい。古くからホロコースト陰謀論がある。かつて読んだことがあるホロコースト陰謀論の最後には、ヒロシマ・ナガサキすら陰謀論として片付けられているらしい。
人類に民族抹殺など大それたことが出来るわけがない。そんな反論の陰で、私たちを脅かす巨大な悪意が世界を覆う日に備えて牙を研いでいるのかもしれない。

本作の冒頭には、このような箴言が掲げられる。
「過去を忘れる者は必ず同じ過ちを繰り返す」
ジョージ・サンタヤナによるこの言葉を、私たちのすべては肝に銘じておくべきだろう。

本作のエンドクレジットでは今のポピュリストの指導者が発するメッセージの数々が音声で流れる。
それらは多様性を真っ向から否定している。
LGBTQの運動を指して、かつて共産主義がまとった赤色の代わりに虹色の脅威がきていると扇動する。
自国の民族のみを認め、移民を排斥する、など。おなじみのドナルド・トランプ前アメリカ大統領とおぼしき声も聞こえる。

本作のエンドクレジットこそは、まさにアウシュヴィッツ=ビルケナウが再び起こりかねないことを警告している。
このラストの恐ろしさもあわせ、本作から受けた衝撃の余韻は、今もなお消えていない。

なお、唯一私が本作で違和感を感じた箇所がある。それは、赤十字からやってきた人物が英語で話し、アルフレートがそれに英語で返すシーンだ。
当時の赤十字の本部はスイスのジュネーヴにあったはず。二人が脱出してレポートを書いたのはスロバキアなので、スイスから来た人物が英語を話すという設定が腑に落ちなかった。スロバキアの映画のはずなのに。

‘2021/8/7 kino cinema 横浜みなとみらい


昭和史のかたち


毎年この時期になると、昭和史に関する本を読むようにしている。
その中でも著者については、そのバランスのとれた史観を信頼している。
当ブログでも著者の作品は何回もとり上げてきた。

ただ、著者は昭和史を概観するテーマでいくつも本を出している。私もそのいくつ下には目を通している。概要を論じる本からは、さすがにこれ以上斬新な知見には出会えないように思う。私はそう思い、本書の新鮮さについてはあまり期待せずに読み始めた。

本書は、昭和史を概観しながら、時代の仕組みや流れを数学の図形になぞらえ、その構造がなぜ生まれたのか、その構造のどこがいびつだったのかを解き明かす試みだ。
つまり、文章だけだと理解しにくい日本の近代史と社会の構造を、数学の図形という媒体を使って、読者にわかりやすく示そうとする狙いがある。
図形を媒体として取り扱うことによって、読者は脳内に論旨をイメージしやすくなる。そして、著者を含めた数多くの識者が今まで語ってきた昭和の歪みがなぜ生じたのかの理解が促される。

図形に変換する試みは、私たちが事象を理解するためには有用だと思う。
そもそも、私たちは文章を読むと同時に頭の中でいろんな手段を用いて理解する。人によっては無意識に図形を思い浮かべ、それに文章から得たイメージを投影したほうが理解しやすいこともあるだろう。本書はそのイメージを最初から文章内に記すことによって、読者の理解を促そうという狙いがある。

私たちは昭和の教訓から、何を読み取ればいいのか。それを図形を通して頭に刻み込むことで、現代にも活かすことができるはずだ。

例えば第一章は、三角錐を使っている。
著者は昭和史を三期に分け、それぞれの時期の特色を三角錐の側面の三辺に当てはめる。
その三角錐の一面には戦前が、もう一面は占領期、残りの一面は高度経済成長の日本が当てはめられる。そして、それぞれの面を代表する政治家として、戦前は東條英機、占領期は吉田茂、高度経済成長期に田中角栄を置く。

ここに挙げられた三人に共通する要素は何か。
それは、アメリカとの関係が経歴の多くを占めていることだ。東條英機はアメリカと戦い、吉田茂は占領国であるアメリカとの折衝に奔走し、田中角栄はアメリカが絡んだロッキード事件の当事者。

三角錐である以上、底面を形作る三角形も忘れてはならない。ここにアメリカもしくは天皇を置くことで、昭和と言う激動の時代の共通項として浮かび上がってくる。
図形で考えてみると確かに面白い。
三角錐の底辺に共通項を置くことで、読者は昭和史の特徴がより具体的に理解できるのだ。
本書の狙いが見えてきた。

続いて著者は正方形を取り上げる。
具体的には、ファシズムが国民への圧迫を行う手法を、四つの柱に置き換える。
四つの柱がそれぞれ情報の一元化(大本営発表)、教育の国家主義化(軍人勅諭・戦陣訓)、弾圧立法の制定と拡大解釈(戦時下の時限立法)、官民あげての暴力(懲罰招集)に擬せられ、正方形をなすと仮定する。
その四つの辺によって国民を囲い、ファシズムに都合の良い統治を行う。
反ファシズムとは正方形の一辺を破る行為であり、それに対するファシズムを行う側は、正方形を小さく縮めて国民を圧してゆく。
当然のことながら、檻の中に飼われたい国民などいるはずもない。正方形の怖さを著者は訴える。今の右傾化する世相を憂いつつ。

続いては直線だ。
著者はイギリスの歴史家・評論家のポール・ジョンソンの評を引用する。著者が引用したそのさらに一部を引用する。
「発展を線的にとらえる意識はほとんど西洋的といってよく、点から点へ全速力で移動する。日本人は時間とその切迫性を意識しているが、これは西洋以外の文化ではほとんど例を見ないもので、このため日本の社会では活力が重視される」
著者は戦前の軍国化の流れと、池田勇人内閣による所得倍増政策と、戦後初のマイナス成長までの間を、一直線に邁進した日本として例える。まさに的を射た比喩だと思う。

続いては三角形の重心だ。
三角形を構成する三点は、天皇、統帥権、統治権になぞらえられている。
このバランスが軍の暴走によって大きく崩れたのが戦前の日本とすれば、三角形を持ち出した著者の意図は明確だ。三点の動きによっていびつになる様子が理解できるからだ。
統帥権の名のもとに天皇を利用し、なおかつ統治権を無視して暴走したのが戦前の軍部であり、軍部の動きが著者の描く三角形の形を大きく崩してゆく。
天皇を三角形の頂点にし、左下の一点だったはずの頂点が上に移動し、天皇をも差し置いて高みに登ろうとしたのが戦前のわが国。著者はそもそも三角形の上の頂点が天皇ではなく統帥権にすり替わっていたのではないか、とすらいう。不敬罪が適用されるべき対象とは、あるいは戦前の軍部なのかもしれない。

続いて著者が取り上げるのは、三段跳びだ。ここにきて数学とは離れ、スポーツの概念が登場する。
ところが、著者は戦前の若手将校の超量が飛躍していく様を三段跳びと称し、増長に増長を重ねる動きを当てはめる。
そろそろ図形のネタが尽きてきたようにも思えるが、著者はさらに虚数の概念まで持ち出す。
そもそもの思想の根幹が虚があり、それゆえに数字を乗じようと掛けようと足そうと、何物も生まれない軍部の若手将校に痛烈な皮肉を浴びせている。三段跳びも踏み板が虚無であれば飛べないのだ。

続いては球。
完全無欠の球は、坂道を転がり始めると加速度がつく。これは物理学の初歩の初歩だ。
ここで言う加速度とは、魂の速度が無限に増える事象を示す。ちょうど戦争へ向けたわが国のように。著者のいう球は日本が突入していく戦争と破滅の道の上を走る。
著者は、「昭和という時代を詳細に見ていると、意外なほどに社会に波乱が少ない。」(85p)と言う。つまり、著者に言わせれば昭和とは、完全な球のような状態だったという。だからこそいちど弾みがついた球は誰にも止めようがなく、ひたすら破滅の淵に向かって突き進んでいったのだろう。

では、球に勢いをつけるためには、どういう成果があれば良いだろうか。それは派手な緒戦の大戦果だ。真珠湾攻撃はまさにそうして望まれた。
その決断は、わずか重職にある数人が知っていたにすぎない。この大戦果によって、国のムードは一気に最高潮になり普段は理性的なはずの文士ですら、われを忘れて喜びを連呼する。
その球の内部には、何があったのか。実は何もなかった。ただ目的もなく戦争を終わらせる見通しすらないまま、何かに向かって行動しようとしていた見栄だけがあった。

転げ落ちた球はどこかでぶつかり、大きく破壊される。まさにかつての日本がそうだったように。

S字曲線。
著者が次に持ち出すS字曲線は、言論を対象とする。
S字曲線と言えば、関数のややこしい式でおなじみだ。
縦横の座標軸で区切られた四つの領域を曲がりくねったS字曲線はうねる。そして時代の表と裏を進む。戦前のオモテから戦後のウラへと。戦前のウラから戦後のオモテへと。
敗戦をきっかけにがらりと変わったわが国の思想界。著者はそれを、オモテの言論とウラの言論と言い表す。
戦後になって太平洋戦争と呼ばれるようになったが、敗戦までは大東亜戦争と称していた。その言い方の違いは、国が、戦争の大義と言い方のレトリックに過ぎない。

著者は最近、右傾化が進むわが国を歴史修正主義という言葉を使って批判する。そうした思想の論じられ方一つで、歴史の表と裏が繰り返されると言いたいかのようだ。S字曲線のように。

著者が続いて取り上げるのは座標軸だ。
座標軸とは、戦争に参加した人々が自らの戦争体験を表す場合、どのような階級、どこの組織に所属していたかによって分布を見る際の基準となる。多くの人々によって多様な戦争の体験が語られているか。それを著者は分布図を使って分析する。
例えば、後方から戦術を立案する高級将校による体験記の記述の場合、そうした現場を知らない人々が語る言葉には、実際の戦争の姿が描かれていないと批判する。
それに比べ、最前線で戦った戦士の手記が世に出ることは驚くほど少ないと著者は指摘する。
そうした不公平さも、分布図に表すと一目瞭然だ。

続いて自然数。
ここでいう自然数とは正の整数の中で、1と素数と合成数からなる数だ。
1は自分自身しか約数がない。素数は自分と1以外に約数のない数だ。合成数は約数が3つ以上からなる数だ。
つまり数を構成する要素がどれだけあるかによって、その対象を分析しようという試みだ。
多彩な要素が組み合わさった複雑な要素、つまり約数が多くあればあるほど、その要素となった数の要素は色濃く現れる。例えば、素数のように約数が少ない関係は、二国間の国民間の友好的交流がない状態と例える。逆に合成数が多い場合、二国間の国民間には、さまざまな場面での交流がある状態と例える。

多彩な交流があればあるほど、二国間の友好度は盤石なものとみなせる。
だが、素数のように要素となる数が少なければ少ないほど、政府間の交渉が決裂した途端、他に交流をつなぎ留めるものもなくなる。つまり、国交断絶状態だ。
かつての日本とアメリカの関係は、戦争の直前には素数に近い状態になっていた。今の日本と中国、日本と韓国、日本と北朝鮮の関係もそう。
この分析は、なかなか面白いと思った。
本書のほかでは見かけたことのない考えだ。ここに至って、著者の試みる国際関係や歴史を数学の概念で表す試みは、成功したと言える。

最終章は、平面座標。
ここで著者は、昭和天皇の戦争責任を題材に取り、天皇が法律的・政治的・歴史的・道義的・社会的に、どのフェーズにおいて責任があるかをマトリックスにして分析する。
責任のフェーズとは、臣民の生命を危機に陥れた、臣民に犠牲を強いた、終戦、敗戦、継戦、開戦のそれぞれを指す。
著者のこの分析は、著者の他の本でも見かけたことがある。

昭和天皇が考えていたと思われる戦争責任
法律的 政治的 歴史的 道義的 社会的
臣民の生命を危機に陥れた
臣民に犠牲を強いた
終戦
敗戦
継戦
開戦

昭和天皇が考えていたと思われる戦争責任(保阪案)
法律的 政治的 歴史的 道義的 社会的
臣民の生命を危機に陥れた
臣民に犠牲を強いた
終戦
敗戦
継戦
開戦

上記の表の通り、著者は昭和天皇に相当多くの戦争の責任があった、と考えている。
ただし、この図を見る限りでは厳しく思えるが、当初は戦争に反対していた天皇の心情はこの章の中で、著者は十分に汲み取っているのではないか。

私は個人的には昭和天皇には戦争責任はあると思う立場だ。それはもちろん直接的にではなく、道義的にだ。
もちろん、昭和天皇自身が戦争を回避したがっていた事や、消極的な立場だったことは、あまたの資料からも明らかだろう。
そこから考えると、私が思う天皇の政治責任は天皇自身が考えていたようなマトリックス、つまり上の図に近い。

読者一人一人が自らの考えを分析し、整理できるのも、本書の良さだと言える。

‘2019/9/1-2019/9/4


日本の思想


著者の高名は以前から認識していた。いずれは著作を読まねばとも思っていた。戦後知識人の巨星として。日本思想史の泰斗として。

だが、私はここで告白しておかねばならない。戦中に活躍した知識人にたいし、どこか軽んじる気持ちをもっていた事を。なぜかというと、当時の知識人たちが軍部の専横に対して無力であったからだ。もちろん、当時の世相にあって無力であったことを非難するのは、あまりに厳しい見方だというのはわかっている。多分、私自身もあの風潮の中では何も言えなかったはずだ。当時を批判できるのは当時を生きた人々だけ。私は常々そう思っている。だからあの時代に知識人であったことは、巡り合った時代が悪かっただけなのかもしれない。ただ、それは分かっていてもなお、戦中に無力であった人々が発言する論説に対し、素直にうなづけない気分がどうしても残る。

だが、そうも言っていられない。著者をはじめとした知識人が戦後の日本をどう導こうとしたのか。そして彼らの思想が廃虚の日本をどうやって先進国へと導いたのか。そして、その繁栄からの停滞の不安が国を覆う今、わが国はどう進むべきなのか。私はそれを本書で知りたかった。もちろんその理由は国を思う気持ちだけではない。私自身のこれから、弊社自身のこれからを占う参考になればという計算もある。

だが、本書は実に難解だった。特に出だしの「Ⅰ.日本の思想」を読み通すのにとても難儀した。本書を読んだ当時、とても仕事が忙しかったこともあったが、それを考慮してもなお、本書は私を難渋させた。結果、本章を含め、本書を読破するのに三週間近くかかってしまった。そのうち「Ⅰ.日本の思想」に費やしたのは二週間。仕事に気がとられ、本書の論旨を理解するだけの集中力が取れなかったことも事実。だが、著者の筆致にも理由がある。なにしろ一文ごとが長い。そして一文の中に複数の文が句読点でつながっている。また、~的といった抽象的な表現も頻出する。そのため、文章が表す主体や論旨がつかみにくい。要するにとても読みにくいのだ。段落ごとの論旨を理解するため、かなりの集中が求められた。

もう一つ、本章は注釈も挟まっている。それがまた長く難解だ。本文よりも注釈のほうが長いのではと思える箇所も数カ所見られる。注釈によって本文の理解が途切れ、そのことも私の読解の手を焼いた。

ただ、それにもかかわらず本書は名著としての評価を不動にしているようだ。「Ⅰ.日本の思想」は難解だが、勉強になる論考は多い。

神道が絶対的な神をもうけず、八百万の神を設定したこと。それによって日本に規範となる道が示されなかったこと。その結果、諸外国から流入する思想に無防備であったこと。その視点は多少は知っていたため、目新しさは感じない。だが、本章を何度も繰り返し読む中で、理解がより深まった。完全にはらに落ちたと思えるほどに。

また、わが国の国体を巡る一連の論考が試みられているのも興味深い。そもそも国体が意識されたのは、明治政府が大日本帝国憲法の制定に当たり、国とは何かを考えはじめてからのこと。大日本帝国憲法の制定に際しては伊藤博文の尽力が大きい。伊藤博文は、大日本帝国憲法の背骨をどこに求めるかを考える前に、まずわが国の機軸がどこにあるかを考えねばならなかった。いみじくも、伊藤博文が憲法制定の根本精神について披瀝した所信が残されている。それは本書にも抜粋(33p)されている。その中で伊藤博文は、仏教も神道も我が国の機軸にするには足りないと認めた上で「我国二在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」という。ところが、そこで定まった国体は明らかに防御の体質を持っていた。国体を侵そうとする対象には滅法強い。だが、国体を積極的に定義しようと試みても、茫洋として捉えられない。本書の中でも指摘されている通り、太平洋戦争も土壇場の御前会議の場においてさえ、国体が何を指すのかについて誰一人として明確に答えを出せない。その膠着状態を打破するため、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を仰ぐくだりは誰もが知っているとおりだ。

そして、著者の究明は日本が官僚化する原因にまで及ぶ。権力の所在は極めて明確に記された大日本帝国憲法。でありながら責任の所在が甚だ曖昧だったこと。大日本帝国憲法に内在したそのような性質は、一方で日本を官僚化に進めてゆき、他方ではイエ的な土着的価値観を温存させたと著者はいう。それによって日本の近代史は二極化に向かった。著者はその二極を相克することこそが近代日本文学のテーマだった事を喝破する。著者は59pの括弧書きで森鴎外はべつにして、と書いている。著者の指摘から、森鴎外の『舞姫』が西洋の考えを取り入れた画期的な作品だったことにあらためて気づかされる。

また、著者はマルクス主義が日本の思想史に与えた影響を重く見ている。マルクス主義によって初めて日本の思想史に理論や体系が生まれたこと。ところが、一部の人がマルクス主義を浅く理解したこと。そして理論と現実を安易に調和させようとしたこと。それらが左翼運動に関する諸事件となって表れたことを著者は指摘する。

結局のところ著者が言いたいのは、まだ真の意味で日本の思想は確立していないことに尽きると思う。そして、著者は本書の第三部で日本の思想がタコつぼ型になっており、真の意味でお互いが交流し合っていない事情を憂う。雑種型の思想でありながら、相互が真に交わっていない。そんなわが国の思想はこれからどうあるべきか。著者は日本の文学者にそのかじ取りを託しているかに読み取れる。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」で著者は、日本の思想が文学に与えた影響を論じている。上にも書いたが、著者にとって森鴎外とは評価に値する文学者のようだ。「むしろ天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は「特殊」な知識人のなかでも特殊であった」(80P)。ということは、著者にとって明治から大正にかけての文壇とは、自然主義や私小説のような、政治と乖離した独自の世界の話にすぎなかったということだろうか。

著者は、マルクス主義が文壇にも嵐を巻き起こしたことも忘れずに書く。マルクス主義が日本の思想に理論と体系をもたらしたことで、文学も無縁ではいられなくなった。今までは文学と政治は別の世界の出来事として安んじていられた。ところがマルクス主義という体系が両者を包括してしまったため、文学者は意識を見直さざるをえなくなった。というのが私の解釈した著者の論だ。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」は解説によると昭和34年に発表されたらしい。つまりマルクス主義を吸収したプロレタリア文学が挫折や転向を余儀なくされ、さらに戦時体制に組み込まれる一連のいきさつを振り返るには十分な時間があった。著者はその悲劇においてプロレタリア文学が何を生み、何を目指そうとしたのかを克明に描こうと苦心する。著者はマルクス主義にはかなり同情的だ。だが、その思想をうまく御しきれなかった当時の文壇には厳しい。ただし、その中で小林秀雄氏に対してはある種畏敬の念がみられるのが面白い。

もう一つ言えば、本書はいわゆる”第三の新人”については全く触れられていない。それは気になる。昭和34年といえばまさに”第三の新人”たちが盛んに作品を発表していた時期のはず。文学に何ができるのかを読み解くのに、当時の潮流を読むのが一番ふさわしい。ところが本書には当時の文学の最新が登場しない。これは著者の関心の偏りなのか、それとも第三の新人とはいえ、しょせんは新人、深く顧みられなかったのだろうか。いま、平成から令和をまたごうとする私たちにとって、”第三の新人”の発表した作品群はすでに古典となりつつある。泉下の著者の目にその後の日本の文学はどう映っているのだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。

「Ⅲ.思想のあり方について」については、上にも軽く触れた。西洋の思想は一つの根っ子から分かれたササラ型なので、ある共通項がみられる。それに対し、日本の思想はタコつぼ型であり、相互に何の関連性もない、というのが著者の思想だ。

本章は講演を書き起こししており、前の二部に比べると格段に読みやすい。それもあってか、日本の思想には相互に共通の言語がなく、それぞれに独自の言語から獲得した思想の影響のもと、相互に閉じこもってしまっているという論旨がすんなりと理解できる。本章から学べる事は多い。例えば私にしてみれば、情報処理業界の用語を乱発してはいないか、という反省に生かせる。

業界ごとの共通言語のなさ。その罠から抜け出すのは容易ではない。私は30代になってから、寺社仏閣の中に日本を貫く共通言語を見つけ出そうとしている。が、なかなか難しい。特に情報処理の分野では、ロジックが幅を利かせる情報処理に共通言語が根付いていない。そんな貧弱な言語体系でお客様へ提案する場合、お客様のお作法に追随するしかない。ところが、その作業も往々にしてうまくいかない。このタコつぼの考え方を反面教師とし、システム導入のノウハウにいかせないものだろうか。

「Ⅳ.「である」ことと「する」こと」も講演の書き起こしだ。これは日本に見られる集団の形式の違いを論じている。「である」とはすでにその地位に安住するものだ。既得権益とでもいおうか。血脈や人種や身分に縛られた組織と本書でいっている。一方で「する」とはそういう先天的な属性よりも、人の役割に応じた組織をいう。つまり会社組織は「する」組織に近い。我が国の場合、「である」から「する」への組織が進んでいるようには見えるが、社会の考え方が「である」を引きずっているところに問題がある。それを著者は「「である」価値と「する」価値の倒錯」(198)と表現している。著者は第四部をこのような言葉で締めくくる。「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと」(198-199P)

著者はまえがきで日本には全ての分野をつないだ思想史がなく、本書がそれを担えれば、と願う。一方、あとがきでは本書の成立事情を釈明しながら、本書の視点の偏りを弁解する。私は不勉強なので、同様の書を知らない。今の日本をこうした視点で描いた本はあるのだろうか。おそらくはあるのだろう。そこから学ぶべき点は多いはずだ。そしてその元祖として本書はますます不朽の立場を保ち続けるに違いない。

‘2018/06/03-2018/06/21


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


日本の原爆―その開発と挫折の道程


「栄光なき天才たち」という漫画がある。かつてヤングジャンプで連載されており、私は単行本を全巻揃えていた。日本の原爆開発について、私が最初にまとまった知見を得たのは、単行本6巻に収められていた原爆開発のエピソードからだ。当時、何度も読み返した。

我が国では原爆を投下された被害だけがクローズアップされる向きにある。もちろん、原爆の惨禍と被爆者の方々の苦しみは決して風化させてはならない。そして、それと同じくらい忘れてはならないのは、日本が原爆を開発していた事実だ。日本が原爆を開発していた事実を知っていたことは、私自身の思想形成に少なからず貢献している。もし日本が原爆開発に仮に成功していたら。もしそれを敵国に落としていたら。今でさえ複雑な日本人の戦争観はさらに複雑になっていたことだろう。

本書は日本の原爆開発の実態にかなり迫っている。著者の本は当ブログでも何度も取り上げてきた。著者の筋の通った歴史感覚にはいつも信頼をおいている。そのため、本書も安心して手に取ることができた。また、私は著者の調査能力とインタビュー能力にも一目置いている。本書のあちこちに著者が原爆開発の関係者にインタビューした内容が引用されている。原爆開発から70年以上たった今、関係者の多くは鬼籍に入っている。ではなぜ著者が関係者にインタビューできたのか。それは昭和50年代に著者が関係者にインタビューを済ませていたからだ。原爆開発の事実を知り、関係者にインタビューし、原稿に起こしていたそうだ。あらためて著者の先見性と慧眼にはうならされた。

「はじめに」からすでに著者は重要な問題を提起する。それは8/6 8:15から8/9 11:02までの75時間に日本の指導者層や科学者、とくに原爆開発に携わった科学者たちになすすべはなかったのか、という問いだ。8/6に原爆が投下された時点で、それが原爆であることを断定し、速やかに軍部や政治家に報告がされていたらポツダム宣言の受諾も早まり、長崎への二発目は回避できたのではないかという仮定。それを突き詰めると、科学者たちは果たしてヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることをすぐ判断できたのか、という問いにつながる。その判断は、技術者にとってみれば、自分たちが作れなかった原爆をアメリカが作り上げたこと、つまり、技術力で負けたことを認めるのに等しい。それが科学者たちの胸の中にどう去来し、原爆と認める判断にどう影響したのか。そしてもちろん、原爆だと判断するためには日本の原爆開発の理論がそこまで及んでいなければならない。つまり、日本の原爆開発はどの程度まで進んでいたのか、という問いにもつながる。

また、著者の着眼点の良さが光る点がもう一つある。それは原爆が開発されていることが、日本の戦時中の士気にどう利用されたか、を追うことだ。空襲が全国の都市に及び始めた当時、日本国民の間に「マッチ箱一つぐらいの大きさで都市を丸ごと破壊する爆弾」を軍が開発中である、とのうわさが流れる。「広島 昭和二十年」(レビュー)の著者が著した日記の中でも言及されていたし、私が子供のころ何度も読んだ「漫画 日本の歴史」にもそういったセリフが載っていた。このうわさがどういう経緯で生まれ、国民に流布していったか。それは軍部が劣勢の戦局の中、国民の士気をどうやって維持しようとしたか、という考察につながる。そしてこのようなうわさが流布した背景には原爆で敵をやっつけたいという加害国としての心理が国民に働いていたことを的確に指摘している。

うわさの火元は三つあるという。学者の田中館愛橘の議会質問。それと雑誌「新青年」の記事。もう一つ、昭和19年3月28日と29日に朝日新聞に掲載された科学戦の様相という記事。それらの記事が国民の間にうわさとなって広まるまでの経路を著者は解き明かしてゆく。

そして原爆開発だ。理化学研究所の仁科芳雄研究室は、陸軍の委嘱を受けて原爆開発を行う。一方、海軍から委嘱を受けたのは京都帝大の荒勝文策研究室。二つの組織が別々に原爆を開発するための研究を行っていた。「栄光なき天才たち」でも海軍と陸軍の反目については触れていたし、それが日本の原爆研究の組織的な問題点だったことも描かれていた。本書はそのあたりの事情をより深く掘り下げる。とくに覚えておかねばならないこと。それは日本の科学者が今次の大戦中に原爆の開発は不可能と考えていたことだ。日本に作れないのなら、ドイツにもアメリカにもソ連にも無理だと。では科学者達は何のために開発に携わっていたのか。それは二つあったことを関係者は語る。一つは、例え原爆が出来なくても研究することに意義があること。もう一つは、原爆の研究に携わっていれば若い研究者を戦場に送り出さずにすむ計算。しかし、それは曖昧な研究への姿勢となり、陸軍の技術将校に歯がゆく思われる原因となる。

仁科博士が二枚舌ととられかねない程の腹芸を見せ、陸軍と内部の技術者に向けて違う話を語っていた事。複数の関係者が語る証言からは、仁科博士が対陸軍の窓口となっていたことが本書でも述べられる。著者の舌鋒は仁科博士を切り裂いていないが、仁科博士の苦衷を察しつつ、無条件で礼賛もしないのが印象的だ。

また、実際に原爆が落とされた前後の科学者たちの行動や心の動き。それも本書は深く詳しく述べている。その中で理化学研究所出身で陸軍の技術将校だった山本洋一氏が語ったセリフがは特筆できる。「われわれはアメリカの原爆開発を疑ったわけですから、アメリカだって日本の技術がそのレベルまで来ているか、不安だったはずです。そこで日本も、原子爆弾を含む新型爆弾の開発に成功したのでこれからアメリカ本土に投下する、との偽りの放送を流すべきだったのです。いい考えではありませんか。そうするとアメリカは、たとえば長崎には投下しなかったかもしれません」(186ページ)。著者はこの発想に驚いているが、私も同じだ。私は今まで多くの戦史本を読んできたが、この発想にお目にかかったことはなかった。そして私はこうも思った。今の北朝鮮と一緒じゃねえの、と。当時の日本と今の北朝鮮を比べるのは間違っている。それは分かっているが、チキンレースの真っただ中にいる北朝鮮の首脳部が戦意発揚に躍起になっている姿が、どうしても我が国の戦時中の大本営に被ってしまうのだ。

山本氏は8月6日にヒロシマに原爆が投下された後、すみやかにアメリカの国力と技術力から算出した原爆保有数を算出するよう上司に命じられる。山本氏が導き出した結論は500発から1000発。その計算が終わったのが8月9日の午前だったという。そのころ長崎には二発目の原爆が炸裂していた。また、広島へ向かう視察機に搭乗した仁科博士は、搭乗機がエンジンの不調で戻され、ヒロシマ着は翌八日になる。つまりここで冒頭に書いた75時間の問題が出てくる。ヒロシマからナガサキまでの間に意思統一ができなかったのか、と。もっとも戦争を継続したい陸軍はヒロシマに落とされた爆弾が原爆ではあってほしくなくて、それを覆すためには確固たる説得力でヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることを示さねばならなかった。

そして科学者たちの脳裏に、原爆という形で核分裂が実証されたことへの感慨と、それとともに、科学が軍事に汚されたことへの反発が生じること。そうした事情にも著者はきちんと筆を割き、説明してゆく。

それは戦後の科学者による反核運動にもつながる。例えばラッセル=アインシュタイン宣言のような。そのあたりの科学者たちの動向も本書は見逃さない。

「おわりに」で、著者はとても重要なことをいう。「今、日本人に「欠けている一点」というのは、「スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ」と「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」とは、本質的に歴史的意味がことなっていることを強く理解すべきだということだ。この二つの構図を混同してはならないと自覚しなければならない」(258ページ)がそれだ。私もそのことを強く思う。そしてぼんやりと考えているとヒロシマ・ナガサキ・フクシマを同列に考えてしまいかねない罠が待ち受けていることにも思いが至る。

もう一つ「日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場には立たなかった。だが原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の世代への加害者になる可能性を抱えてしまった」(260ページ)という指摘も重要だ。下手に放射能被害の不安を煽ったりする論調には反対だし、私は事故後の福島には三度訪れている。だが、煽りに対して反対することと、原発事故からの教訓を読み取る必要性は分けるべきだ。

「あとがき」で著者は重ねて書いている。「本書は、あえて日本の原爆製造計画という、日本人と原子力の関係の原点ともいうべき状態を改めて確認し、そこに潜んでいた問題をないがしろにしてきたために現在に繋がったのではないかとの視点で書いた。」(266P)。この文章も肝に銘ずる必要がある。いまや日本の技術力は世界に冠たるレベルではなくなりつつある。このまま日本の技術力が地に落ちてしまうのか、それとも復活するのか。それは原発事故をいかに反省し、今後に生かすかにかかっている。海外では雄大な構想をもつ技術ベンチャーが増えているのに、日本からはそういう風潮が生まれない。それは原爆開発の失敗や敗戦によって萎縮してしまったからなのか、それとも原発事故の後遺症によるのか。問うべき点は多い。

‘2017/11/21-2017/11/23


HUNTING EVIL ナチ戦争犯罪人を追え


人類の歴史とは、野蛮と殺戮の歴史だ。

有史以来、あまたの善人によって数えきれないほどの善が行われてきた。だが、人類の歴史とはそれと同じくらい、いや、それ以上に悪辣な蛮行で血塗られてきた。中でもホロコーストは、その象徴として未来永劫伝えられるに違いない。

私は二十世紀の歴史を取り扱った写真集を何冊も所持している。その中には、ホロコーストに焦点を当てたものもあり、目を背けたくなる写真が無数に載っている。

ホロコーストとは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量殺戮だ。一般的にはホロコーストで通用している。だが、ヘブライ語ではこの用例は相応しくないそうだ。ジェノサイド、またはポグロムと呼ぶのが正しいのだとか。それを断った上で、本書ではナチスによるユダヤ人の大量抹殺政策をホロコーストやユダヤ人殲滅作戦と記している。

ユダヤ人のホロコーストは、ナチス・ドイツの優生思想によって押し進められた。なお、ユダヤ人を蔑視することは歴史的にみればナチスだけの専売特許ではない。中世の西洋でもユダヤ民族は虐げられていたからだ。だが、組織としてホロコーストほど一気にユダヤ人を抹殺しようとしたのはナチスだけだ。将来、人類の未来に何が起ころうとも、ナチスが政策として遂行したようなレベルのシステマチックな民族の抹殺は起こりえない気がする。

本書は、ナチス・ドイツが壊滅した後、各地に逃れたナチス党員の逃亡とそれを追うナチ・ハンターの追跡を徹底的に描いている。

ナチス残党については、2010年代に入った今も捜索が続けられているようだ。2013年のニュースで98歳のナチス戦犯が死亡したニュースは記憶に新しい。たとえ70年が過ぎ去ろうとも、あれだけの組織的な犯罪を許すわけにはいかないのだろう。

日本人である私は、本書を読んでいて一つの疑問を抱いた。その疑問とは「なぜ我が国では戦犯を訴追するまでの経過がナチス残党ほど長引かなかったのか」だ。その問いはこのように言い直すこともできる。「なぜナチスの戦犯は壊滅後のドイツから逃げおおせたのか」と。

本書はこの問いに対する回答となっている。

ナチス・ドイツは公的には完全に壊滅した。だが、アドルフ・ヒトラーの自殺と前後して、あきれるほど大勢のナチス戦犯が逃亡を図っている。たとえば「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ。ユダヤ人殲滅作戦の現場実行者アドルフ・アイヒマン。トレブリンカ収容所長フランツ・シュタングル。リガの絞首人ヘルベルツ・ツクルス。末期ナチスの実力者マルティン・ボルマン。

かれらは逃亡を図り、長らく姿をくらましつづけていた。これほどの大物達がなぜ長期間逃げおおせることができたのか。著者の綿密な調査は、これら戦犯たちの逃亡ルートを明らかにする。そして、彼らが逃亡にあたって頼った組織についても明らかにする。

その組織は、多岐にわたっている。たとえばローマ・カトリック教会の司祭。または枢軸国家でありながら大戦後も体制の維持に成功したスペイン。もしくはファン・ペロン大統領がナチス受入を公表していたアルゼンチン。さらに驚かされるのが英米の情報部門の介在だ。東西の冷戦が生んだ熾烈なスパイの駆け引きにナチス戦犯を利用したいとの要望があり、英米の情報部門に保護されたナチス戦犯もたくさんいたらしい。これらの事実を著者は徹底した調査で明らかにする。

上に挙げたような複数の組織の思惑が入り乱れた事情もあった。そして連合国側で戦犯リストが円滑に用意できなかった理由もあった。これらがナチス戦犯が長年逃れ得た原因の一つだったのだろう。そのあたりの事情も著者は詳らかにしてゆく。

ナチス戦犯たちにとって幸運なことに、第二次世界大戦の終戦はさらなる東西冷戦の始まりだった。しかもドイツは冷戦の東西の境界である。東西陣営にとっては最前線。一方で日本は冷戦の最前線にはならなかった。せいぜいが補給基地でしかない役どころ。そのため、終戦によって日本を統治したのはアメリカを主軸とする連合国。ソ連は統治には参加できず、連合国の西側による秩序が構築された。日本とドイツが違うのはそこだろう。

わが国の戦犯はBC級戦犯を中心として、アメリカ軍の捜査によって訴追された。約5700人が被告となりそのうち約1000人が死刑判決を受けた。その裁判が妥当だったかどうかはともかく、1964年12月29日に最後の一人が釈放されたことでわが国では捜査も裁判も拘置も完全に終結した。それは悪名高い戦陣訓の内容が「生きて虜囚の辱めを受ける勿れ」と書かれていたにもかかわらず、戦後の日本人が潔く戦争責任の裁きを受けたからともいえる。もっとも、人体実験の成果一式をアメリカに提供することで訴追を逃れた旧関東軍731部隊の関係者や、アジテーターとして戦前の日本を戦争に引き込み、戦後は訴追から逃れ抜いたままビルマに消えた辻正信氏といった人物もいたのだが。ただ、我が国の戦後処理は、ドイツとは違った道を歩んだということだけはいえる。

戦後、ユダヤ人が強制収容所で強いられた悲惨な実態とともにナチスの残虐な所業が明らかになった。それにもかかわらず、ナチスの支援者はいまも勢力を維持し続けている。彼らはホロコーストとは連合国軍のプロパガンダに過ぎないと主張している。そしてナチスの思想、いわゆるナチズムは、現代でもネオ・ナチとして不気味な存在であり続けている。

本書が描いているのはナチス戦犯の逃亡・追跡劇だ。だが、その背後にあるナチズムを容認する土壌が今もまだ欧州諸国に生き続けている事。それを明らかにすることこそ、本書の底を流れるテーマだと思う。

本書は、ナチ・ハンターの象徴である人物の虚像も徹底的に暴く。その人物とはジーモン・ヴィーゼンタール。ホロコーストの事実をのちの世に伝えるためのサイモン・ウィーゼンタール・センターの名前に名を残している。著者はヴィーゼンタールのナチス狩りにおける功績の多くがヴィーゼンタール本人による虚言であったことや、彼が自らをナチス狩りという世界的なショーのショーマンであった事を認めていた事など、新たな事実を次々と明らかにする。著者の調査が膨大な労力の上に築かれていたことを思わせる箇所だ。

本書を読むと、いかに多くのナチス戦犯が逃げ延びたのかがわかる。今や、ナチス狩りの象徴ヴィーゼンタールも世を去った。おそらく逃げ延び続けているナチ戦犯もここ10年でほぼ死にゆくことだろう。そうなった後、ナチスの戦争責任をだれがどういう方向で決着させるのか。グローバリズムからローカリズムに縮小しつつある国際社会にあって、ナチスによるホロコーストの事実はどう扱われて行くのか。とても興味深い。

ドイツや欧州諸国では、ホロコーストを否定すること自体に罰則規定があるという。その一方、我が国では上に書いた通り、戦犯の追及については半世紀以上前に決着が付いている。ところが、南京大虐殺の犠牲者の数や従軍慰安婦の問題など、戦中に日本軍によって引き起こされたとされる戦争犯罪についてはいまだに被害国から糾弾されている。

一方のドイツでは大統領自身が度々戦争責任への反省を語っている。一方のわが国では、隣国との間で論争が絶えない。それは、ドイツと日本が戦後の戦犯の訴追をどう処理し、どう決算をつけてきたかの状態とは逆転している。それはとても興味深い。

私としては罪を憎んで人を憎まん、の精神で行くしか戦争犯罪の問題は解決しないと思っている。あと30年もたてば戦争終結から一世紀を迎える。その年月は加害者と被害者のほとんどをこの世から退場させるに足る。過去の責任を個人単位で非難するよりは、人類の叡智で同じような行いが起きないよう防止できないものか。本書で展開される果てしない逃亡・追跡劇を読んでそんな感想を抱いた。

‘2017/02/07-2017/02/12


B29墜落―米兵を救った日本人


本書も前年秋に淡路島で訪れた学園祭のブックバザーで無料でいただいた一冊だ。

太平洋戦争も敗色が誰の目にも明らかになった昭和20年。多くの国民が「戦局必ずしも好転せず」を理解したのは、日夜を問わず日本各地に飛来したB29を見上げてからだろう。日輪の下を、夜の闇の中をゆうゆうと舞い、大量の焼夷弾をばらまいて行く機影。その圧倒的な機数と不気味な飛来音は、戦争の悲惨さを象徴していたのではないか。

防衛部隊も日本上空を覆い尽くすB29に手をこまねいていたわけではない。高射砲で応戦し、撃ち落そうと試みる。が、高射砲はB29のはるか下方で破裂し、B29に損害どころか脅威すら与えない。高射砲の射程距離よりも上空を飛ぶB29は、悠々と飛び去ってゆく。結果、ほとんどのB29が無傷だったと伝わっている。だが、全く撃ち落とせなかったわけではない。日本の各地で何百機(本書では485機。米側資料では327機)かは撃墜に成功したらしい。そのすべてが撃墜できたのではなく、その中には機体の整備不良その他の原因で墜ちた機もあったことだろう。

本書はそのうちの一機、今の茨城県守谷市とつくば市の間、旧板橋村に落ちたB29について書かれた本だ。著者は幼い頃、その様子を見聞きしたという。そして、長じてから幼き日に経験したこの事件に興味を持ち、その一部始終を調べた。その成果が本書だ。

本書は落ちた地に住んでいた著者を含めた住民からの視点で書かれている。ただ、墜落機の乗員のその後と、遺族の立場にも配慮していることが特記できる。両方の立場から墜落を描いていることは、特定のイデオロギーや史観に囚われない著者の良心として評価したい。

太平洋戦争時の日本について、評価は今もなお分かれている。鬼子日本の所業と今も非難し続ける国もある。南京大虐殺はなかったとし、東京裁判は連合国による一方的な見せしめ裁判とする立場もある。私ばどちらの立場にも与しない。前者は一部の日本人の行動を指して、日本のすべてを悪としているから。後者は一部の人の行動やその判決を日本人全体のことと受け止めているからだ。一部の行いを集団に広げて解釈せずにはすまない。それは極端な見方でしかない。その場所や立場によって流動的に立場も責任も変わっていくはず。だから、究極的にはその時代、その場にいた者にしか戦争犯罪は断罪はできないはず。そう思っている。日本の軍人にも立派な行いをしたと伝わる人は何人もいる。逆に中国や朝鮮半島に住んでいた民衆で卑劣な行いをした人もいたはず。

当時の我が国もそう。標語である鬼畜米英の言葉が街中に流布していた。ましてやB29といえば国土や親族を焼き払ってゆく憎んでも憎みきれない悪魔の兵器。不時着した米兵は本来ならば人道的に捕虜として取り扱われるべき。だが、米軍捕虜を虐待した事例があったことは、遠藤周作氏の『海と毒薬』でも知られているとおり。当時の日本人の一部が非難されるべき行いをしたことは公平に認めねばなるまい。

それを前提としてもなお、一部の日本人の行いをもって全ての日本人を断罪するのはおかしい。善か悪か。全ての日本人をどちらかに寄せようとするからおかしくなるのだ。著者は、旧板橋村に墜ちたB29の事例を通じて、その極端な評価に一石を投じたかったのだと思う。当時のすべての日本人が米兵を憎んでいたのではない。墜落し、傷ついた米兵に対し、敵味方を超えて接した村民がいたのだ。その事実を著者は丹念に追ってゆく。旧板橋村に墜ちたB29からは、3人の米兵が生存者として救出された。だれが救出したのか。もちろん旧板橋村の住民たちだ。住民たちは米兵を放置せず、虐待もせず、そして介抱した。介抱した上でしかるべき部署に引き渡した。八人はやけどがひどく、墜ちた時点ですでに死んでいたという。が、住民たちはそれらの敵兵をきちんと菰に包んで埋葬したという。

住民たちが救出した3人は、本書によると土浦憲兵隊に渡されたという。そしてそのうち一人は戦犯として死刑にされ、残り二人は麹町の捕虜収容所で米軍の空襲に遭い、命を落としたとか。

彼ら自身の命が失われたことは残念だ。だが、彼らは言ってみれば戦死だ。しかも敵国の領土で死んだ。それは、あえていえば仕方ないことだ。彼らは、敵国の領土を侵犯し、大勢の人々を殺しあえる、そして死んだ。ただ、彼らの死が残念だと思うのは、もし彼らが戦後も生き、旧板橋村の住民の救助を覚えていてくれたら、ということだ。そうすれば当時の日本にも、捕虜をきちんと扱う住民がいたことがもっと知られていたのに。

著者は彼らの戦死の背後に、日本人による救助活動があったことを記し、後世に残してくれている。

先に、著者の視点を評してバランスとれている、と書いた。それは、亡くなった十一人の米兵の遺族にも連絡を取り、きちんとフォローしていることだ。米兵にだって遺族はいる。B29から大量の焼夷弾を落とし、多数の日本人を殺した。そんな米兵とはいえ、愛する家族がいたこともまた事実。家庭ではよき父、良き夫、良き息子であったかもしれない。それなのに、戦争では敵国に赴き、多くの家族を殺戮せねばならない。それこそが戦争の許しがたい点なのだ。著者はそういった配慮も怠らずに米兵たちのその後を書く。

マクロな視点から見れば、戦争とは国際関係の一つの様態に過ぎない。そこでは死は一つの数字に記号化される。だが、ミクロの単位では死とは間違いなく悲劇となる。 そして、悲劇であるが故に憎しみの応酬が生まれる。その応酬は無益としかいいようのないものだ。著者の調査は、無益な憎しみを浄化するためにも価値のあるものだ。

本書にあと少し工夫が欲しいな、と思ったことがある。それは本書の構成だ。少し前段が冗長のように思う。本書は前書きで旧板橋村へのB29の墜落、村人による救出活動を描く。そのあと、著者はアメリカでの対日国民感情の悪化、戦局の推移、空襲の発案といった空襲の背景に筆を費やす。それから、日本国内を襲ったり焼夷弾爆撃の実態を描く。本格的に主題となるB29の墜落と米兵の救出の一部始終が採り上げられるのは、本書も半ばを過ぎた頃だ。これはバランスとして偏っているように思った。

著者の執筆姿勢が一人一人の米兵の生い立ちや遺族とのやりとりにまで及んでいて、丁寧な作りであるだけに惜しい。年代順に並べる意図はわかるが、前書きと最初の章で墜落自体を書いた後で、じっくりと背景を描いても良かったのではないだろうか。

だが、それらは、著者の苦労を無にするものではない。日米の不幸な歴史を一機のB29の運命を素材に描いた本書は、素晴らしい仕事だと思う。

‘2017/01/23-2017/01/24


日本のいちばん長い日 決定版


本書を読むのは二度目だ。私が二十年以上前から付けている読書記録によれば、1997年の2月以来、十九年半をへての再読となる。

その間、私は太平洋戦争について書かれた本をたくさん読んできた。それらの本を読んできたにもかかわらず、本書は私の中で不動の位置を占めている。おそらく今後もそうあり続けるはずだ。それは、戦後七十年の節目に本作が再度映画化され、劇場で鑑賞したことで確固となった。(レビュー)

本書は決定版と銘打たれている。前回私が読んだのも決定版だ。私は初版を読んだことがないため、本書から受けた印象は全て決定版から得られた。その印象は十九年半前、初めて本書を読んだ私に鮮烈な影響を与えた。私の中に根付いていた日本陸軍への印象を一変させたのだ。それまでは当時の陸軍すなわち悪という一面だけの見方に縛られていた。ところが、本書によって陸軍にもさまざまな人物がいたことを知ったのだ。それは、陸軍を一括りに断罪することの愚かさを私に教えた。それまで持っていた教科書で習った知識では陸軍によって戦争は始められ、遂行され、終戦までも引き延ばされた、という記憶だけが残っていたのだ。もちろん、紙数の都合上、細かく説明はできなかったのだろう。だが、本書に書かれていた内容は、そんな浅い知識をひっくり返すだけの力があった。まさに私の知識は塗り替えられたのだ。特に阿南陸軍大臣への印象が変わったことは記憶に鮮やかだ。御前会議で戦争継続を一貫して訴えた阿南陸相の姿。その表面だけをみれば、軍人の硬直した思考と捨ててしまうものだ。ところが、本書を読んだ後はそんな通り一遍の批判は慎まねば、と思わせる迫真性がある。前回、読んだ際に感じた印象は今回も変わらなかった。新鮮さこそ薄れたとはいえ、今も変わることがない。

本書は著者にとっての出世作だ。文藝春秋社を定年退職してからの著者は、歴史探偵と名乗って活発な文筆活動を繰り広げている。昭和史だけでなく幕末史にも手を出すほどに。だが、本書は著者にとって出世作というよりも原点だと思う。もともと本書は五十年以上前、著者が三十代の頃に発表されている。それ以来、今もなお出版され続けている。昭和史にとって価値ある一冊との評価をおとしめられることなく。今回の二度目の映画化を劇場で見た後、あらためて本書を読んだ。やはり本書から教えられることは多い。そしてスクリーンの中で当時の様子が映像となって頭にしみ込んだことで、本書がより理解できた気がする。それは私が十九年半の間に積み重ねた経験や知識に相乗りして、本書を理解する上でよき助けとなってくれた。

十九年半の間、私にとって糧となったのは書物だけではない。たとえば、二年ほど前に訪れた鈴木貫太郎記念館での経験もそうだ。この時の訪問は、私の知見を深めてくれた。鈴木貫太郎記念館には白川一郎画伯による「最後の御前会議」の実物が展示されている。厳粛な御前会議の様子が書かれた原画。それを眼前でみたときの私の気持ちは、ただ感無量。その体験は私の中で貴重な思い出として残っている。この記念館には鈴木貫太郎氏の大礼服なども飾ってある。それらを見ると鈴木首相が大将として威厳のあった人物だったことが伺える。 人の訪れることも少ないであろう記念館は、確かに「日本の一番長い日」の余韻を伝えていた。

そういった背景を頭にたたき込んだ上で本書を再読する。すると、鈴木首相の腹のすわった政権運営ぶりに得心がいくのだ。鈴木首相は首相として失敗もした。如才なく立ち回れた政権運営だったとはいえない。それでも見事に終戦に持ち込んだ。在任中、鈴木首相はボケていたわけでも、逃げを打っていたわけでもないのだ。おそらくは軍の圧力をとぼけていなし、はぐらかして交わし続けていたはず。鈴木首相が傑物だったことを記念館の訪問と本書、そして映画によって再確認できたと思う。

阿南陸相もまた同じだ。本書で再現された阿南陸相の言動から読み取れること。それは、阿南陸相が陸軍内の暴発を抑えるためにぎりぎりで綱渡りをしていたことだ。刃の上を裸足で歩くがごとし。足を踏み外せば足だけでなく日本が破滅する。そんな阿南陸相の抱いていたであろう緊迫感が読者の胸に迫ってくる。

一方で神州不滅を信じていた若手将校の焦りもリアルに描かれている。彼らを衝き動かして極限の焦りや危機感。それらに打ち克つには玉音放送を防ぐ以外ない。そのためには玉音盤を奪取するほかすべきことはない。そんな若さゆえの純な気持ち。そこを現代の価値観で測ろうとすれば彼らは理解できない。そして彼らの焦りや危機感は、今のわれわれには決して理解できないのだろう。

この暴走に直面した陸軍の将官がクーデターに同調せず統制を保ったこと。この冷静な態度が宮城事件を不発に終わらせたことも見逃せない。宮城事件が成功していれば、私がこの文書を書くことはおそらくなかっただろう。そもそも日本という国もなかった可能性だってあるのだ。当時の挙国一致の風潮を非難することは簡単だ。国民の多くが軍国主義にあてられ、載せられたことは事実だろう。だが、クーデターに同調しなかった将官たちは、熱に浮かされた若手将校に引きずられなかったのだ。陸軍の将官が若手将校に同調せず、個人としてきちんと対応したこと。それが、暴走する将校たちの企図を頓挫させ、日本を破滅から救ったことは忘れてはならない。

また、本書は私に一つの思い付きを与えてくれた。それは、日本が島国であることだ。それは日本人に島国の心を養った。大陸の端。周りは海に囲まれ逃げ場がない。その地理的条件は日本に守る強さを備わらせたのだ。

今までの我が国の歴史を振り替えると、大陸に攻め込んだ際はことごとく敗れている。白村江の戦い、文禄・慶長の役、シベリア出兵。そして太平洋戦争。日清戦争も勝ったとはいえ、戦局を決定づけたのは海戦だ。日露戦争では多大な犠牲を出してようやく旅順攻略戦に勝利した。が、ロシアに講和を決意させるほどの決定的な勝利は日本海海戦によることに異論はないはず。日清戦争の後は大陸に足掛かりを作ろうとして三国からの干渉で遼東半島の返還を余儀なくされた。日露戦争後は満州で利権を確保し、朝鮮半島への支配権を強化できたが、その支配も太平洋戦争の敗戦で水の泡と消えた。要するに我が国は攻めは不得手であり、本来やるべきではないのだ。

一方で守りに入ると、案外日本は強い。元の侵略を神風で退けたのはよく知られている。薩摩藩や長州藩は、イギリスに完膚なきまでにやっつけられたが占領の憂き目を見ず、逆にそれをばねに倒幕を果たした。幕末には開国を余儀なくされたが、不平等条約を撤廃させ、返す刀で近代化を達成してしまう。徹底的にやられたはずの太平洋戦争も、あまりにも見事な負けっぷりを見せる。それがGHQの占領後に経済大国として世界を驚かせる原動力になった。それでいながらアメリカに国防を任せるというしたたかさを身につけるのだ。要するに我が国は守りに入ってこそ真価を発揮する、とても打たれ強い国なのだ。

それは第二次大戦でのナチス・ドイツの敗北と日本の敗北を比べてみればわかる。ナチス・ドイツが破滅する直前、指揮系統は乱れに乱れた。ヒトラーはじめ著名なナチスの指導者たちは自殺し、さらに膨大な数のナチス戦犯達に逃亡を許してしまった。しかし我が国は違う。一度敗北を受け入れたら、実に従容たる態度を示した。あれだけ完膚なきまでの敗北を喫しながら、昭和天皇の戦争責任は結局不問となった。

日本がこれだけ徹底的に敗北しながら、国としての組織が瓦解しなかった事。その理由とは何だろう。それは、本書で書かれた宮城事件に際しての陸軍指揮官の対応が表わしているのではないだろうか。国の存亡がかかった瀬戸際にあってもなお、統率を旨とする精神。天皇の臣下として統率を聖なるものとして奉じ、若手将校の跳ね返りを抑え込む国民性といえばよいか。現代に生きるわれわれは、当時の重臣たちの終戦の決断までがあまりにも鈍いことにじれったさを感じる。だが、あれだけ国土が蹂躙されてからの降伏だったからこそ軍は暴発せずに軍備を解いたのではないか。そしてかなりの戦力を保持していたにもかかわらず、大本営からの降伏を受け入れた関東軍の態度にも、天皇の威厳がついに保たれ続けた我が国の美徳を見ることができる。仮に若手将校のクーデターが成功していたらどうなっただろう。おそらく日本は戦争を継続していたことだろう。そして天皇制をも危機にさらしていたはずだ。私が習う言葉もアルファベットだけになっていたこともありうる。本書に描かれた若手将校たちの言動を読んでいると、彼らの行動が真剣であること、まかり間違っていればクーデターが成っていた可能性が高いことがわかる。だからこそクーデターを冷静に止めた陸軍の将官たちは賞されるべきなのだ。彼らの冷静な判断があったからこそ、若手将校による暴発は最小限で収まり、日本は国の体裁を保ったまま終戦を迎えられた。こう言っても言い過ぎではないと思うのだが。

本書で逐一書かれた出来事。それは確かに『日本の一番長い日』と呼ぶにふさわしい。だが、それ以上に、「日本の一番堅い日」だったのではないだろうか。日本の底知れぬ堅さを示した日々、という意味で。

ここ数年、日本の国防に不安の声が上がっている。北朝鮮の暴発や中国の膨張、日本の経済不況など不安要素は多い。だが、この期に及んでもまだ我が国の守りに強い本領は発揮されていないように思える。そして前回、我が国の専守の強さが発揮された時こそが、本書に描かれた一日だったのではないか。空襲や原爆など国土が荒廃し、天皇制も未曽有の危機に立たされた終戦時。本当の危機に瀕した時、日本人に何ができたのか。それを確かめるためにも本書は読まれるべきなのだ。そして日本の底力を知るためにものちの世に長く伝えられるべき一冊なのだ。

‘2016/12/29-2016/12/30


黄昏のベルリン


著者の作風には、二つの要素が欠かせないと思う。それは、叙情の香りと堅牢な論理が同居していることだ。

叙情を表現する上で、著者の流麗な文体は似つかわしい。著者の作品には日本を舞台とする物語がある。それらを紡ぎ出すうえでも流麗な文体は長所となっているようだ。

ところが、本書の主な舞台はベルリンだ。ベルリンの過去と今を結ぶナチス残党狩りをテーマとしたサスペンス。そこに著者の叙情性が入り込む余地はあるのだろうか。あるのだ。

本書の主人公は青木優二。そこそこ名を知られた画家だ。彼のもとに謎めいた女性エルザが近づいてきたことから話は始まる。エルザによって、青木は自らの出生にまつわる事実を教えられる。それは自身が第二次大戦末期のベルリンで産まれた可能性が高いというものだ。エルザは、金髪碧眼のアーリア人種の容姿を備えていながら、日本人よりも完全な日本語を操るドイツ人だ。

著者は、エルザに完璧な日本語能力と日本文化の素養を与える事によって、日本の叙情を表現しているのではないか。青木もまた、エルザが教えてくれたことで、自分が生来抱いていた違和感の訳を知る。それは、自分の容姿が西洋人らしく彫りの深いこと、考え方の道筋が日本人らしくないことによる。青木はそれを自覚することで、逆に日本的な考え方とはなにかについて思いを巡らせてゆく。

どういう組織がエルザを青木のもとに派遣してきたのか。ただ、日本語がうまいだけではない。ベッドの上でも魅力的なエルザ。青木にとってなくてはならない女性となったエルザの謎めいた素性が、読者の興味を引っ張ってゆく。

自らのルーツさぐりと、エルザへの愛着。それは青木をベルリンへと飛ばせる。

そしてベルリンについた青木は、今まで知識としてしか知らなかったホロコーストの真実を知る。そればかりか、自分がガウアー収容所から奇跡的に生還した赤子だったことも知らされる。父がユダヤ人で母が日本人。当時の日本がナチスの同盟国だったとはいえ、ユダヤ人の赤ん坊が収容所で生き残れる確率はほぼない。そればかりか、青木は自身が収容所を実際に裏から操っていた女看守のマルト・リビーによって人体実験の対象にされていた事実を知らされる。

エルザの回りには、怪しげな対立組織が暗躍する。そして、別人に成り済まし、戦後を生き延びてきたマルト・リビーの下には、おなじく看守のハンス・ゲムリヒが南米からやって来て接触を図ろうとする。

エルザをあやつるアメリカ人の青年マイク。マルト・リビーの正体を見抜き、青木を収容所から救いだしたソフィ・クレメール。彼らが目指す目的はさ二つ。一つは青木を第二のアンネ・フランクに、反ナチスの象徴に仕立てあげること。もう一つは、マルト・リビーを法廷に引きずり出すこと。

ここらあたりから、冒頭で述べた著者のもう一つの作風である論理の色が濃くなってくる。著者は複雑な組織間の思惑をさばきつつ、背後で二条三重の仕掛けを忍ばせてゆく。著者の仕掛けた某略の罠に、青木も読者も翻弄されてゆく。著者はそればかりでなく、もっと大がかりで大胆な真相を提示する。

本書を読み終えた時、読者は真相の深さと、この題材が日本人の作家から産まれてきたことに驚きを禁じ得ないはずだ。

本書が海外に翻訳されたかどうかは知らない。でも、本書の謎やテーマは、海外にも充分通用するはずだ。もしまだ英訳がされていないのであれば、ぜひ英訳して欲しいものだ。著者がすでに亡くなった今、もう遅いかもしれないが。

‘2016/11/27-2016/11/27


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


海賊と呼ばれた男(下)


下巻では、苦難の数々を乗り切った國岡商店の飛躍の様が描かれる。大体、こういった伝記ものが面白いのは創業、成長時につきものの苦難であり、功成り名遂げた後は、起伏に欠けることが多く、自然と著者の筆も駆け足になってしまうものだ。上巻では敗戦によって一気に海外資産を失ったピンチがあった。そのピンチを國岡商店はラジオ修理の仕事を請け負ったり、海軍が遺した石油廃油をタンクの底から浚って燃料確保したりと、懸命に働いて社員の首を切ることなく乗り切った。

果たして、安定期に入り苦難の時期を過ぎた國岡商店の姿は読むに値するのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用。面白いのだ、これが。

なぜ面白いかというと、本書では日章丸事件が取り上げられているからだ。國岡商店、つまり出光興産が世界を驚かせた事件。それが日章丸事件。むしろ、この事件こそが、著者に本書を書かせた理由ではないかと思う。 日本の一企業が石油メジャーに堂々とけんかを売り、英海軍も手玉にとって、イランから石油を持ち帰ったのだから。

日章丸事件を一文で書くとすればこうなる。日本から派遣された一隻のタンカーがイランから買い取った石油を日本に持ち帰った。それだけなのだ。だが、その背景には複雑な背景がある。まず、産油国でありながら石油利権を英国に牛耳られていたイラン国民の思いを忘れるわけにはいかない。長年の鬱屈が石油国有化法案の可決と石油の国有化宣言へとつながった。宣言を実行に移し、国内の全油田をイラン国営にした。それはイランにとってはよいが、英国石油メジャーにとっては死活問題となることは必然だ。石油メジャーの背後には、第二次大戦後、国力衰退の著しい英国の意向が働いていることはもちろん。イランの石油国有化は英国が世界中に石油不買の圧力を掛ける事態に発展した。 つまり、國岡商店が喧嘩を売ったのは、世界でも指折りの資源強国、そして海軍国家の英国なのだ。

本書ではそのあたりの背景やイランとの交渉の様子、その他、準備の進捗が細かく描かれる。いよいよの出航では、船を見送る國岡鐵三の姿が描き出される。日章丸に自社と日本のこれからを託す鐵三は、日章丸に何かあった場合、会社だけでなく自分の人生も終わることを覚悟している。まさに命を懸けたイラン派遣だったわけだ。そんな鐵三が日章丸を託したのは新田船長。海の男の気概を持つ新田船長が、海洋国家日本の誇りを掲げ、冷静かつ大胆な操艦でイランまで行き、石油を積んで帰ってくる。その姿は、8年前の敗戦の悔しさの一部を晴らすに足りる。かつて石油が足りず戦争に惨敗した日本が、英国を相手に石油で煮え湯を飲ませるのだから。しかも今回はイランを救う大義名分もある。日本は戦争に負けたが、経済で世界の強国に上りつめていく。その象徴的な事件こそが、日章丸事件ではないだろうか。

残念なことに、日章丸事件から数年後、モサデク政権は米英の倒閣工作によって瓦解し、イランの石油を國岡商店が独占輸入することはできなくなった。でも、それによって國岡商店は敗戦以来の危機を脱する。日章丸事件以降の國岡商店の社史は、さまざまなできごとで彩られていく。そこには栄光と困難、成功と挫折があった。自社で製油所を構えることは國岡商店の悲願だったが、10カ月という短期で製油所を竣工させたこと。製油所の沖合にシーバースを建設したこと。第二、第三の日章丸を建造したこと。宗像海運の船舶事故で犠牲者が出たこと。石油の価格統制に反対し、石油連盟を脱退したこと。「五十年は長い時間であるが、私自身は自分の五十年を一言で言いあらわせる。すなわち、誘惑に迷わず、妥協を排し、人間尊重の信念を貫きとおした五十年であった。と」(291ページ)。これの言葉は創業五十年の式典における店主の言葉だ。

店主としても経営者としても、見事な生涯だったと思う。私にはおよびもつかない境地だ。だが、やはり家庭面では完全とは行かなかった。とくに、先妻ユキとの間に子供ができず、ユキから離縁を申し出る形で離縁する部分は、複雑な気分にさせられる。また、本書には家庭のぬくもりを思わせる描写も少ない。國岡鐵三や、モデルとなった出光佐三の家庭のことは分からない。だが、長男を立派な後継者としたことは、家族に対しても、きちんと目を配っていたことの表れなのだろう。

ただ、それを置いても、本書には女性の登場する余地が極めて少ない。本書には男女差別を思わせる表現はないし、ユキが鐵三と別れる場面でも双方の視点を尊重した書きかたになっている。だが、女性が登場することが少ないのも確かだ。ユキ以外に登場する女性は、右翼に絡まれた受付嬢ぐらいではないか。しかも鐵三が右翼を 気迫で 追っ払うエピソードの登場人物として。ただ、本書に女性が出てこないのも、本書の性格や時代背景からすると仕方ないと思える。

女性があまり登場しないとはいえ、本書からは人間を尊重する精神が感じられる。それは國岡鐵三、いや、出光佐三の信念ともいえる。一代の英傑でありながら、彼の人間を尊重する精神は気高い。その高みは20代の私には理想に映ったし、40台となった今でも目標であり続けている。

ただ、佐三の掲げた理想も、佐三亡き後、薄らいでいるような気がしてならない。佐三の最晩年に起きた廃油海上投棄や、公害対応の不備などがそうだ。本書に登場しないそれらの事件は、佐三が作り上げた企業があまりに大きくなりすぎ、制御しきれなくなったためだろう。しかも今、佐三が一生の間戦い続けた外資の手が出光興産に伸びている。最近話題となった昭和シェル石油との合併問題は、佐三の理念が浸食されかけていることの象徴ともいえる。出光一族が合併に反対しているというが、本書を読めばそのことに賛同したくなる。

日本が世界に誇る企業の一社として、これからも出光興産には理想の火を消さずに守り続けて欲しいと思う。海賊と呼ばれたのも、既定概念を打ち破った義賊としての意味が込められていたはずだから。

‘2016/10/09-2016/10/09


海賊と呼ばれた男(上)


20年ほど前に出光佐三の伝記を読んだ事がある。記録を確認したところ、1996年5月のことだ。

なぜその時期に出光佐三の評伝を読んだのか。その動機はもはや記憶の彼方に飛んでしまった。だが、なんとなく想像できる。それは、当時の私が出光佐三の経営哲学に自分の理想の場を求めていたからだ。救いを求めていたと言って良いかもしれない。働くとは何か。企業とは何か。利潤や収奪とは何か。当時の私は理想論に縛られ完全に生きる目的を見失っていた。利益や利潤を軽蔑し、そのために働くことを良しとしていなかった。そんな悩みに落ち込んだ当時の私は、新卒就職せずに母校の大学の図書館で悶々と読書に励んでいた。読書の日々において、利潤を追わず、社員をクビにしない経営哲学を標榜していた出光佐三に惹かれたのはうなずける。

あれから20年の時をへて、自分も少しは大人になった。だが、あの頃に掲げた理想が誤っていたとは思っていない。要はあの頃の自分が世の中を知らなさすぎ、自分自身を知らなさすぎたのだと思っている。20年の月日は私にITの知識と経験値を授けてくれた。今は、あの時に掲げた理想を実現するには、自分が率先して働かねばならないという事を知っているし、自分が人々の役に立てるだけのIT技術を身につけたことも、これから次々に登場するIT技術を追える気概を持っていることも知っている。

そんな自分だからこそ、興味があった。本書を読んで何を思うか。本書で描かれる出光佐三の経営哲学から何を感じるか。私自身が本書を読んだ結果にとても興味を持っていた。

本書は出光佐三をモデルにした国岡鐵造が主人公だ。彼は国を思い、自らの信ずる経営哲学を全うした人物として書かれている。彼の人生は国家による経済統制やメジャー石油会社からの妨害や干渉と戦って来た歴史でもある。本書はそれらが描かれる。

本書は上下巻に分かれたうちの上巻だ。本書はそこからさらに大きく二部に分かれる。まず描かれるのは、敗戦から独立までの数年間、次いで国岡商会創立から太平洋戦争開戦までの日々。本書は、廃墟となった東京の描写で幕をあける。

なぜ、廃墟から筆を起こしたか。それには著者なりの理由があるに違いない。廃墟からもう一度不屈の心で立ち上がろうとする出光佐三の姿に、戦後復興の日本を重ねるのは容易だ。だが、著者はそれ以上に喝を入れたかったのだろう。世界を相手に戦う主人公の姿に、著者の理想とする日本人像を投影して。著者は右寄りの論客として最近目立っている。だが、私が思うに著者は右だ左だという以前にこの国が好きなんだろうと思う。この国の伝統と文化が。そして、著者は今の日本人を歯がゆく思っているのだろう。この国をもう一度輝かせるためにどうすれば良いか。その答えを国岡鐵造、いや、出光佐三の生涯に見いだしたように思える。だからこそ、本書は廃墟になった日本から物語を始めたのだと思う。

私が本書から考えたのは、人徳やオーラといった目に見えないモノが与える人生への影響だ。国岡鐵造は、創業期から幾度ものピンチに立たされて来た。そして絶体絶命のピンチの度に人から手を差し伸べられ、事業を継続することができた。例えば日田重太郎。彼は六千円の大金を返却無用と鐡造に差し出す。六千円とは当時の金銭価値なら大金に相当する。それは創作ではなく、出光商会の歴史にも刻まれることらしい。つまり、鐵三にとって無二の恩人こそが日田重太郎なのだ。投資が無駄になればなったでともに乞食になればいい。そんな日田重太郎の言葉はそうそう出るもんじゃない。そして、それを言わせた鐵三もただの人ではない。だからこそ並ならぬ興味が湧くのだ。鐵三を救うのは日田重太郎だけではない。大分銀行の支店長に、GHQの高官。並ならぬ人物が鐡三に手を差しのべる。

なぜ、皆は鐡三に手を差し伸べようと思うのか。なぜ、ここまで鐵三は人を引き寄せるのか。私はそれを人徳という言葉一つでは片付けたくない。人徳ももちろんあるだろうが、鐵三にあるのは、無私の信念だと思う。私利を求めず、社会のために還元する信念が、鐵三をここまでの高みにあげたのだと思う。

出光興産と云えば 、社員を馘首しない事で知られている。創業以来、幾度となく経営上の危機はあった。それらの危機は本書にも書かれている。社員を大切にするという社風は創業者の信念に基づくものだ。「店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」(22ページ)。これは本書冒頭、鐡三が役員たちを叱った言葉だ。敗戦で海外資産が全てうしなわれ、会社の存続自体が危うい時期。そのような時期に社員を整理したいという役員たちの意見はもっともだが、鐡さんは断固拒否し、叱りつける。その上で、日本の復興に向けて壮烈な決意を述べる。

鐡三の信念は、教育者や宗教家の道に進んでいてもひとかどの人物となりえたことだろう。だが彼は商売の道を選んだ。それは多分、日本の戦後にとって幸いだったのだろう。どういうきっかけが彼を商人の道に進ませたのか。それは、彼が学んだ神戸高商の内池教授の言葉だろう。「経済や産業はこれからますます発展していく。消費は非常な勢いで伸びていく。需要は多様化し、従来の問屋がいくつも介在するシステムでは追いつかなくなる。今後は生産者と消費者を結びつける役割を持つ商人の存在がいっそう大きくなる」(170ページ)。

だがそれから120年。まだ我が国から問屋は無くなっていない。オンラインショッピングの進展は問屋の勢力を削ぎつつあるが、仕組みは今も健在だ。今の、そして将来の出光興産が果たしてどうなるのか。それはわからない。が、われわれは本書で國岡商会の歩みを通して、出光興産の動きも知ることになる。戦後の混乱期を乗り越えつつある國岡商会を目撃したところで本書は幕を閉じる。残りは下巻で。

なお、一箇所だけ著者による読者へのサービスがある。作中に永遠の0に登場する彼が一瞬姿をみせるのだ。それは戦前、昭和十五年の話。私はそのページも名前もメモっているが、ここでそれを明かすのは野暮の極みだろう。何にせよ嬉しいサプライズだ。

‘2016/10/08-2016/10/09


ひめゆりの塔


ひめゆりの塔

私がひめゆりの塔を訪れてから、二十年以上が経つ。

その年月は、細かな記憶をだいぶ薄れさせてしまった。どんな外観だったか、どんな入口だったか。もはや覚えていない。けれども、展示ホールに漂っていた雰囲気は今も心に鮮やかだ。鎮魂歌が流れる展示ホールの壁一面にはひめゆり部隊の方々の写真がずらりと。皆が少女の姿でわれわれ来館者を見下ろしていた。私に強い印象を与えたのは、その厳粛で荘厳な雰囲気だ。

他の展示内容はあまり記憶に残っていない。敵から身を潜めたガマ内部のジオラマや負傷者を看護するひめゆり部隊の姿など、悲惨な戦場の様子が再現されていたように思う。だが私の記憶はおぼろげだ。

ひめゆり部隊の皆さんが経験した戦場の悲劇とは、もっと生々しいものだったはずだ。より騒々しくより切迫感に満ち、人の発するあらゆる臭いや兵器の漂わせる金臭さ。そのような生々しさは厳かな展示ホールからは一掃されていた。いつまでも若々しく美しい写真の中の彼女たち。われわれは、彼女たちの御魂安らかなれ、と祈るしかないのだろうか。彼女たちの生涯が惨たらしい状況に閉ざされたことよりも、荘厳で清らかな天界に昇った姿で記憶すべきなのだろうか。

断っておくと、展示のあり方に物申すつもりは毛頭ない。むしろ彼女たちが払った犠牲の尊さに、胸の塞ぐ思いが残っている。二十年たった今も厳粛な雰囲気が記憶に刻まれているということは、それだけ展示に訴える何かがある証だ。展示ホールにはそれだけのインパクトがあった。

だが、それだけで良いのだろうか。彼女たちの経験した悲劇をそうした印象で固定してしまう事は正しいのだろうか。彼女たちは紛れもなく生きていたことを忘れてはならない。壁に掲げられることで、彼女たちは神格化にも近い扱いを受けている。生身の人間だったにもかかわらず。ただ、重く苦い時代に産まれてしまっただけの。壁に掲げられたひめゆり部隊の皆様は、時代の犠牲者として額に固定されている。それで済ましてしまって良いはずはない。

本書はひめゆり部隊についての小説だ。史書でもないしルポルタージュでもない。本書は一貫して当事者からの視点で描かれている。書き手の神の視点から見下ろし、劇の登場人物を操るように彼女たちを書かない。沖縄戦の当事者であるひめゆり部隊の乙女たち。彼女たちの目に映った戦場は理不尽だ。その不条理を描くにあたって著者は完全と言って良いほど自らの姿を隠し通している。本書で著者は戦場の現実をひめゆり部隊の彼女たちに語らせていることに徹する。戦場とは最も似つかわしくない若い女性の視点は戦争の非現実性を際立たせる。ひめゆり部隊と名付けられていても、隊員は十代の乙女たち。彼女たちの目を通して見た戦場は、何が無意味でどこが歪んでいるのか。

あの年頃の女子高生の感情の揺れ。それは娘を持つ私にも心当たりがある。移ろいやすく、何にでも笑い、少しのことに傷つく。大人都合での物言いに反発する。それは時代を遡った当時も同じはずだ。

ひめゆり部隊の皆さんも、沖縄が戦場となる前は、屈託ない女学生の生活を謳歌していたことだろう。美しい献身の心と他人を羨み妬む心を同居させた大人と子供の境目を揺れる女性として。登場するカナ、雅子、時子、ミトは皆、そのように描かれる。

彼女たちは真っ直ぐだ。国体護持も八絋一宇も関係ない。ただ、自分達が置かれた理不尽な現状を真っ直ぐに憤る。

14ページ
「わたしたちは、たくさん見てきたわ。でも、美しい死にかたって一つもなかったわ。みんなむごたらしく、みじめで、みにくかったわ。『天皇陛下ばんざい』をいった者はひとりもいなかったわよ」

81ページ
(沖縄だからがまんできるんで、本土がこんな目にあったらたまらんよ!)ある将校がぬけぬけといい放った一言だった。

134ページ
「国なんか、もうどうでもいいのよ!わたしはただひとりの人間を殺してやりたいと思うだけよ!」

徐々に南へと追い詰められてゆく彼女たち。皇軍のため全てを犠牲とすることを求められる日々。だが、そんな中でも彼女たちは理想を、人間としてのあり方を考える。そして美しい死を死にたいと願う。その一方でカナの従兄真也への恋心を秘めつつ、恋敵として穏やかならぬ感情を競い合う。学校の中での立場や名声を羨み、妬み合う。ここには彼女たちを一切美化せず、生身の乙女として書こうとする著者の意思がある。

兵隊にも色々といる。戦陣訓が顔に大書されたような軍人もいれば、彼女たちに生き延びることを諭す軍人細川のような人もいる。マナ達に戦場での実態や戦局の​推移を語る真也も大局から戦場を時代を見据えようとしている。本書に登場する人物は善悪を一面化せず、複層的に描かれている。それもまた評価できる。

24ページ
「とんでもないことだ!絶対に死を求めてはいけません。求めなくても、死はくるべき時にきます。生きぬけるだけ生きなければならない義務があることを、あなたは知らなければいけません。兵隊の道づれなんて、それこそとんでもないことです」

このように登場人物のセリフを紹介すると、著者の思想傾向をアカだ左だあげつらう人もいるだろう。だが、私はそうは思わない。著者自身のあとがきには、詳しい沖縄戦の概要とその後が解説されている。だが、昭和天皇の戦争責任や、とうとう沖縄訪問が果たせなかったことについては一切触れていない。上に引用したとおり、昭和天皇を揶揄したような悪口は確かに本書で吐かれる。しかしそれら悪口は、昭和天皇個人ではなく、戦争の象徴であり統帥権の総攬者としての昭和天皇に向けられているように思える。

そもそも、本書で著者が問いたいのは国體のあり方や経済制度といったイデオロギーではないと思う。 なぜ我々がこのような弾幕地獄の只中で這いずり回っているのか、なぜ軍人に国の礎となることを強制されるのか、という怒り。沖縄を本土防衛のための捨て石の戦場とした指導者への告発。それほどまでに、唯一の地上戦の戦場となった沖縄が背負わされた現実は深刻だったのだと思う。著者が拠っているのはイデオロギーではなく、沖縄が強いられてきた悲しみの歴史である事は見間違えてはならない。

本書の解説のなかで、岡部伊都子氏が貴重な指摘をしている。本書に出てくる女学生の誰もがウチナーグチを喋らず、ヤマトグチを操っている事に岡部氏は初読で違和感を感じた、と。それは皇国臣民として標準語を強制されたからだ、と指摘している。実は私は本書を読んだ直後、その事に迂闊にも気づかなかった。多分、それは私が本土の人間に染まっているからなのだろう。本土の人間で、なおかつ戦後30年近くたってから生まれた私には、沖縄戦の現実など所詮は理解できそうにないのかもしれない。

私は、日本が十五年戦争に突き進まなければならなかった事情は理解する。でも、それと沖縄県民が払った犠牲は別に考えなければならないと思う。海軍の大田沖縄方面根拠地隊司令官が自決一週間前に海軍次官宛に送った電報の締めくくりの言葉は有名だ。
「沖縄県民カク戦ヘリ。 後世沖縄県民に対し特別な御高配のあらんことを」
大田司令官が遺言として訴えた言葉には、当時の軍人にも本書の細川や真也のような人物がいた事を示している。だが、大田司令官の願いは今もなお叶えられてはいない。それは基地問題で明らかだ。

戦争は悪だ。戦争は悲劇しか産まない。それは言うまでもない。そして、沖縄県民は身に染みて感じているに違いない。なのに中国の領土拡張の野心の矛先は、尖閣諸島を含んだ沖縄に向いている。それは残念だが事実だ。北朝鮮という暴発国家も依然として健在だ。きな臭い国際政治の交点に沖縄が位置している事。これは沖縄に入って如何ともしがた地政学上の宿命だ。だが、それを単に宿命と片付けるのは、沖縄の方々があまりに気の毒だ。

それは、基地に挟まれた地に住む私にとっては、看過してはならないもんだいのはず。だがヤマトグチで喋るひめゆり部隊の彼女たちに違和感を感じなかった私は、まだ他人事として考える部分を持っている。そして20年前の訪問の記憶を薄れさせようとしている。

本稿をアップする少し前に妻がひめゆりの塔を訪れた。そして私は本稿を推敲することで本書の内容を深く思い返した。さらに、来たる六月の私の誕生日祝いに沖縄を独り旅する機会をもらった。当然、沖縄を訪れた際は、20年ぶりにひめゆりの塔を訪れたいと思う。そして本書から得た印象と彼女たちの遺影を重ね合わせてみようと思う。その時、20年間私の中で止まったままだった彼女たちが再び動き出すかもしれない。その時、私は前回の訪問では気づけなかったこと初めて知るはずだ。彼女たちが懸命に生き、悩み、そして未来をに希望を持つ人間だった事、そしてその可能性を活かす機会が永遠に喪われてしまった事を。

その時、私が何を感じ、何を受け取るか、今から楽しみだ。

‘2017/04/27-2017/04/30


特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか


日本を太平洋戦争に突入させたのは軍部。こういった認識が主流となって久しい。しかし、私の理解では非難されるべきは軍部だけではない。マスコミによる煽動も同じく日本を敗戦に陥れた元凶だと思う。同時に、その煽動に安易に乗せられた大衆にも責任の一端はあるだろう。開戦それ自体に追い込まれたのはアメリカによる謀略があったにせよ。

だが、それによって軍の責任が軽くなることはない。道行く人々に「太平洋戦争では陸軍と海軍どちらの責任が重いとお考えですか?」とインタビューしてみる。すると、陸軍と答える人が大半だと思う。満州事変から盧溝橋事件に至るまで陸軍に引き起こされた謀略の数々。それらきっかけが日本を戦争の泥沼に引きずり込んだ事は誰にも否定できないだろう。

しかし、陸軍だけにすべての責任を追っかぶせるのは酷だ。海軍にも敗戦の責任の一端はあると思う。例えば、五・十五事件で犬養首相を暗殺したのは海軍将校達だ。そして、太平洋戦争の開戦にあたってもそう。海軍は真珠湾攻撃の実行を担っただけではない。実際と違う保有軍事力の情報が海軍軍令部の一部軍人の策謀によって中央に流され、その誤った情報をもとに開戦が決断され敗戦へと至ったのだから。これは保阪正康氏の著作に書かれていたことだ。だが、陸軍の主戦派の多くがA級戦犯として刑場に消えたのに対し、絞首刑を宣告された海軍関係者はいない。海軍の中で戦争に日本を引きずり込んだ黒幕達は裁かれることなく戦後を生きた。

結果として海軍の名誉はほぼ無傷で保たれたといってもよい。それは日独伊三国同盟に強硬に反対した米内、山本、井上の三大将の功績もあるだろう。しかし、それだけではない。海軍の名誉は、海軍の負のイメージを一身に背負ったまま、多くを語らず自刃した人物のおかげで保たれたのかもしれない。その人物こそ、本書の主人公である大西瀧治郎中将である。

実際のところ、海軍はついていた。真珠湾攻撃は、開戦通告直後に攻撃開始されるように計画しており、騙し討ちと糾弾されてもおかしくないぎりぎりの作戦だった。ところが在ワシントンの日本大使館が開戦通告文書を渡すことに手間どり攻撃後に通告することになってしまった。その結果、真珠湾攻撃の道義的責任は外務省の失態として評価が定まりつつある。また、真珠湾攻撃を立案した山本五十六元帥は、戦死して国葬されたことで東京裁判での訴追を逃れた。そして海軍による特攻戦術は、特攻の父とされる大西中将が全ての悪名を背負ったまま何も語らず死んだ事で、特攻の全てをあたかも大西中将個人が発案したかのように思われている。結果として海軍の名誉は保たれたわけだ。

大西中将は、特攻の父としての悪名を一身に負わされたといってもよい。狂気の仮面をかぶせられ、スケープゴートに仕立てられ。映画「日本の一番長い日」の中でも、大西中将はエキセントリックな雰囲気をまとった徹底抗戦派としてほんの少しだけ登場する。

「日本の一番長い日」のクライマックスが阿南陸軍大臣の自刃である事は多くの方に理解してもらえると思う。阿南大臣の自刃は陸軍の暴走を鎮め、宮城事件程度の小規模な反乱だけで武装解除は進んだ。阿南大臣の身の処し方は見事であり、永く世に伝えられるべき潔さだと思う。しかし、阿南大臣の自死の翌日に大西中将が自刃したことは、「日本の一番長い日」では全く触れられていない。しかし、大西中将の自刃がなければ、海軍内でも暴走があったかもしれない。

本書は、著者による聞き書きをもとにして編まれている。そもそも特攻とは何か。大西中将の実像とはいかなるものだったのか。

特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたこと。

それらの事実を著者は掘り起こす。丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにする。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からはかなりの時間をかけてお話を伺ったようだ。戦後60年以上の時間をへて、そこまでの聞き取りができたのはどうしてか。それは、お二方とも特攻について戦後ずっと考え続けていたから。その探求の成果は、お二方のそれぞれの著作として形になっている。角田氏は「修羅の翼」、門司氏は「空と海の涯で」。

自身の体験を追想するだけでなく、より深く特攻の意味を考え抜く。特攻戦術とは何か、大西中将の真意はどこにあったのか。著作を出してもなお、お二方の探求は終わらなかったようだ。そして時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きする。お二方はそのことをとても残念に思っていたのだろう。そんな折の著者のインタビューは、彼らが考え続けた想いを吐露するまたとないタイミングだったのだろう。特攻戦術の責任者としての立場にありながらも人の情を備えて続けていたかに見える大西中将が、後世これほどの悪名を被らねばならなかったのは何故か。角田氏と門司氏の生涯の課題が、著者のインタビューによって引き出され、明らかになっていくさまはスリリングですらある。

大西中将の副官の立場から見た大西中将。特攻隊長の立場から見た大西中将。大西中将の実像とは、エキセントリックなイメージとは違い、戦地にあっても暖かみが感じられる人間的なものだったそうだ。逆に、中将配下の二人の現場司令官には明らかな精神の変調が見られたという。そういった指揮官たちの言動は、本書に詳しく書かれている。門司氏が大西中将から聞いた特攻作戦が「統率の外道」であることや、特攻を命じた中将自身の自責の念を目撃する様子など。そういった様子からは、大西中将の真意がわれわれの大西中将に対して持つイメージと大きく違うことが感じられる。ただ、大西中将がフィリピン着任後、特攻戦術の実施を司令官に命じた現場に門司氏は出席しなかったようだ。そのため、どういう口調で大西中将が作戦命令を発したかは門司氏も著者も想像で補うしかなかったようだ。

大西中将の悪名はどの言動で定まったのか。本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将が敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに理由がありそうだ。確かにその言葉はエキセントリックだし、後の世から誤解されても仕方ないところはある。

だが本書を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようだ。特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、お二方の記憶からは温厚で情のある中将でいた様子が伺える。

ではなぜ。

ここに、本書が到達した独自の結論がある。少なくとも私は本書でそのことを初めて知った。つまり、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということだ。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったかと著者はいう。

しかし、皮肉にも使える特攻機が出払ってしまい、刀折れ矢尽きたフィリピンからはこれ以上の特攻機が出せなくなる。大西中将の真意は中央に届かぬまま、終戦へのきっかけをつかめぬままにずるずると負け戦は続く。沖縄戦でも戦艦大和による特攻航海しか策のない戦局。しかしそれでも戦争終結への道は見えない。

そこで本土へと戻った大西中将は、昭和天皇が御聖断を下せないのは、まだ軍が戦争をやり尽くせていないからだ、とエキセントリックに「二千万を特攻へ」と叫び続けた。これが本書で著者の行き着いた大西中将の真意であり、角田氏と門司氏の見た大西中将の実像なのだろう。

とても興味深い観点であり、大西中将の温厚な実像とエキセントリックな言動の釣り合いを取りうる説得力のある説だと思う。

大西中将の遺書は靖国神社遊就館に展示されている。門司氏はこの覚悟が定まった遺書はいったいいつ書かれたのか、についての考察も重ねたという。

聖断が下る御前会議直前にいたってもなお、激烈に戦争継続を訴えては、温厚な米内大臣に大声で説教されていた大西中将。本書ではその説教すらも米内大臣と大西中将の間で演じられた腹芸ではないかとの説も紹介している。そして、遺書は最後の御前会議から閉め出された大西中将が、本来なら出席していた会議の時間を使って書いた、というのが門司氏の説だ。その遺書は、終戦への聖断が下ることが確実になり、ようやくエキセントリックな抗戦派の仮面を脱いだ大西中将の真意が表れている、と門司氏は解釈する。

ここまで書いて思い出すのは、冒頭にも書いた阿南陸軍大臣だ。陸軍の暴走を命掛けの腹芸と自らの死で抑えきった死にざまと大西中将のそれは、どこか通ずるところはないか。

ところが、先に述べた「日本の一番長い日」での大西中将の扱いは、阿南大臣とは正反対だ。「日本の一番長い日」の著者である半藤氏には責任はないが、本書をもって大西中将の実像がより理解されることを望まずにはいられない。今のまま誤解され、海軍の汚名を一身に被らせたままではあまりにも気の毒だから。

本書は、戦後の大西中将の奥さまが慰霊と謝罪に徹した余生の様子や、門司氏と角田氏が慰霊する日々、そして少しずつ世を去って行く特攻隊関係者の消息を描き続ける。

長命を全うし、大西中将の真意を考え続けた門司氏は、平成20年8月16日に逝去する。奇しくもその命日は平成と昭和で年号が違うだけで大西中将の命日だ。まさに出来すぎた物語のような最期である。が、大西中将の人柄や誤解されたままの真意を世に正しく知って欲しいと願った門司氏が、命を掛けてたどり着いた目標だったとすれば、見事である。

‘2016/01/26-2016/01/30


杉原千畝


2015年。戦後70年を締める一作として観たのは杉原千畝。言うまでもなく日本のシンドラーとして知られる人物だ。とかく日本人が悪者扱いされやすい第二次世界大戦において、日本人の美点を世に知らしめた人物である。私も何年か前に伝記を読んで以来、久しぶりに杉原千畝の事績に触れることができた。

本作は唐沢寿明さんが杉原千畝を演じ切っている。実は私は本作を観るまで唐沢さんが英語を話せるとは知らなかった。日英露独仏各国語を操ったとされる杉原千畝を演ずるには、それらの言葉をしゃべることができる人物でないと演ずる資格がないのはもちろんである。少なくとも日本語以外の言葉で本作を演じていただかないとリアリティは半減だ。しかし、本作で唐沢さんがしゃべる台詞はほとんどが英語。台詞の8割は英語だったのではないだろうか。その点、素晴らしいと感じた。ただ、唐沢さんはおそらくはロシア語は不得手なのだろう。リトアニアを舞台にした本作において、本来ならば台詞のほとんどはロシア語でなければならない。しかも杉原千畝はロシア語の達人として知られている。スタッフやキャストの多くがポーランド人である本作では、日英以外の言葉でしゃべって欲しかった。迫害を受けていた多くの人々がポーランド人であったがゆえに英語でしゃべるポーランド人たちは違和感しか感じなかった。そこが残念である。しかし、唐沢さんにロシア語をしゃべることを求めるのは酷だろう。最低限の妥協として英語を使った。そのことは理解できる。それにしてもラストサムライでの渡辺謙さんの英語も見事だったが、本作の唐沢さんの英語力と演技力には、ハリウッド進出を予感させるものを感じた。

また、他の俳優陣も実に素晴らしい。特にポーランドの俳優陣は、自在に英語を操っており、さらに演技力も良かった。私は失礼なことに、観劇中はそれら俳優の方々の英語に、無名のハリウッド俳優を起用しているのかと思っていた。だが、実はポーランドの一流俳優だったことを知った。私の無知も極まれりだが、そう思うほどに彼らの英語は素晴らしかった。ポーランド映画はほとんど見たことがないが、彼らが出演している作品は見てみたいものだ。かなりの作品が日本未公開らしいし。

だが、それよりも素晴らしいと感じた事がある。本作はほとんどのシーンをポーランドで撮影しているという。ポーランドといえばアウシュヴィッツを初めとしたユダヤ人の強制収容所が存在した国でもある。本作にもアウシュヴィッツが登場する。ユダヤ人の受難を描く本作において、ポーランドの景色こそふさわしいと思う。そして合間には日本の当時の映像を挟む。それもCGではなく当時の映像を使ったことに意義がある。刻々と迫る日本の敗戦の様子と、それに対して異国の地で日本を想い日本のための情報を集めながらも、本国の親独の流れに抗しえなかった千畝の無念がにじみ出るよい編集と思えた。

また、本作においては駐独大使の大島氏を演じた小日向さんの演技も光っていた。白鳥大使こそは日本をドイツに接近させ、国策を大いに誤らせた人物である。A級戦犯として裁かれもしている。しかし本作ではあえてエキセントリックな大使像ではなく、信念をもってドイツに近づいた人物として描いている。この視線はなかなか新鮮だった。単に千畝のことを妨害する悪役として書かなかったことに。千畝の伝記は以前に読んだことがあるが、白鳥氏の伝記も読んでみたいと思った。

だが、本作を語るにはやはり千畝の姿勢に尽きる。なぜ千畝がユダヤ人に大量のビザを発給したのか。そこには現地の空気を知らねばならない。たとえ日本の訓示に反してもユダヤ人を救わずにはいられなかった千畝の苦悩と決断。それには、リトアニア着任前の千畝を知らねばならない。満州において北満鉄道の譲渡交渉に活躍し、ソビエトから好ましからざる人物と烙印を押されたほどの千畝の手腕。そういった背景を描くことで、千畝がユダヤ人を救った行為の背後を描いている。実は北満の件については私もすっかり忘れていた。だが、関東軍に相当痛い目にあわされたことは本作でも書かれている。そしてそういった軍や戦力に対する嫌悪感を事前に描いているからこそ、リトアニアでの千畝の行為は裏付けられるのである。

戦後70年において、原爆や空襲、沖縄戦や硫黄島にスポットライトが当たりがちである。しかし、杉原千畝という人物の行動もまた、当時の日本の側面なのである。千畝以外にも本作では在ウラジオストク総領事や日本交通公社の社員といったユダヤ人たちを逃すにあたって信念に従った人々がいた。それらもまた当時の日本の美徳を表しているのである。日本が甚大な被害を受けたことも事実。日本人が中国で犯した行為もまたほんの一部であれ事実。狭い視野をもとに国策を誤らせた軍人たちがいたのも事実。しかし、加害者や被害者としての日本の姿以外に、千畝のような行為で人間としての良心に殉じた人がいたのもまた事実なのである。軽薄なナショナリズムはいらない。自虐史観も不要。今の日本には集団としての日本人の行動よりも、個人単位での行動を見つめる必要があるのではないか。そう思った。

‘2015/12/31 TOHOシネマズ西宮OS


日本のいちばん長い日


70年前、日本のいちばん長い日に日本の将来を憂い、かつ、戦後の日本のために命をかけて動いた人々がいた。そして、丁度70年後の8/14から15日にかけて、私はスクリーンを通し、それら人々の動きを食い入るように見ていた。

「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」

これは、原作から抜粋した鈴木首相の台詞である。手元に原作がなく、Webソースからコピーしたが、本作ではこの台詞やそれに対する阿南陸相の返答はほぼ同じ内容で再現されていた。70年前、日本の復興を信じた人々の思いを噛みしめるように、再建成った日本の安全な映画館で本作を見られる幸せを実感した。

本作は、戦後70年を掛けて成し遂げた日本映画の最高峰といえるのではないか。俳優陣の演技は圧巻だし、美術や時代考証、衣装など文句のつけようもない。本作のパンフレットには、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などの解説が載っている。そこから読み取れるのは、監督やスタッフの凄まじい熱意である。熱意と、モデルになった人々に対する敬意あってこその本作と云える。

本木雅弘さん演ずる昭和天皇は、その容姿や所作など今まで様々な俳優によって演じられた昭和天皇の中でも、後世の基準となるかもしれない素晴らしさである。今まで昭和天皇が日本人監督によってこれほど真正面から撮られたことは無かったのではなかろうか。そこには畏れ多さもあったことだろう。しかしもう70年である。昭和天皇が崩御されてからもすでに四半世紀以上の時が過ぎた。これからは歴史上の人物として取り上げられていってよいと思う。
本作で本木さん演ずる昭和天皇は、超越したような孤高の雰囲気が劇中一貫して保たれていた。また、昭和天皇が戦前、統帥権と立憲君主としての立場の狭間にあって、意思表示すらも自制していたことはよく言われる。意思表示をぎりぎりまで抑えながらも毅然とした決断を述べる部分など、当時の昭和天皇が抱える制約や苦悩を良く演じ切っていたと思う。鈴木総理との以心伝心で終戦の聖断を下したシーンなど、当時の実際を垣間見ているようにすら思える。実は私はもっくんの演技を観るのは、ドラマも含めて初めてなのだが、素晴らしい俳優であると思った。
東条元首相への謁見で、サザエの貝殻を軍隊に例えた東条元首相の比喩を一蹴するシーンやナポレオンを引き合いに出して、東条元首相を窘めるシーンがあった。原作を読んだ記憶ではそのようなシーンは無かったように思えるが、パンフレットによればサザエのシーンは原田監督の演出だとか。そこまで突っ込んで東条元首相を諌めた史実はなかったように記憶しているが、監督の解釈として興味あるところだ。

阿南陸相を演じた役所広司さんも、また素晴らしい演技であった。阿南陸相と役所さんの容貌は、個人的には本作に登場する人物の中で一番ギャップがあったように思う。しかし、それすらも気にならなくなるほどに役所さん演ずる阿南陸相は素晴らしかった。阿南陸相は子煩悩な家庭第一の人としてよく知られている。そういった家庭的な温かみと、陸軍にあって人望を備える厳しさとの両立が演じる側には必要となる。阿南陸相は、陸軍の暴発を抑えるために和戦両様の腹芸を打つといった、本作にあって一番難しい「やくどころ」だと思うが、さすがに芸名に相応しく見事に本作を引き締めていた。ちなみに私にとっての阿南陸相は、命を懸けて和戦の釣り合いをぎりぎりまで見極めた、日本史に残る軍人であり役者だと思っている。日本史の中でもっともっと評価されてよい方だと思っている。機会があれば墓前にも参拝したいとも思っている。それゆえに、自刃直前に言ったとされる「米内を斬れ!」が本作では割愛されていたことが少しひっかかった。本作中でも米内海相との丁々発止のやりとりもあり、原作ではたしかその台詞はあったように思うのだが・・・勘違いかな。

鈴木貫太郎首相は、私にとってまた思い入れ深い方である。昨年の秋、一人で旧関宿町の鈴木貫太郎資料館を訪問した。墓前にも参拝し、その人間的な広い器の一端に触れさせて頂こうと思っていた。その際に得た鈴木首相の印象と、山崎努さん演ずる姿は見事に一致していた。まさに俳優の芸の深さに頭が下がる想いである。鈴木首相もまた、和戦両様の構えで新聞や軍を煙に巻き、聖断へと持ちこんだ人である。戦前の華々しい軍果の数々もそうだが、敗戦後の日本にとっても欠かす事のできない方である。しかし、私が昨秋に資料館を訪問した際は、私以外2人しか訪問者がおらず、実相寺の墓地には私以外誰もいなかった。今では全く世の中から忘れられてしまった方なのだが、本作を通じて再び見直されることを強く願う。故鈴木首相が在任中の失敗として述懐していることとして、ポツダム宣言への「黙殺」報道がある。本意として「黙殺」ではなかったのに、そのように海外には報道されたことで、ヒロシマ・ナガサキの悲劇が起きた。本作の中では「黙殺」との台詞が出ているが、そのあたりの経緯も描かれている。原作ではどのように描写されていたのか覚えていないが、気になるところである。

松坂桃李さん演ずる 畑中健二少佐もまた見事であった。早口な台詞など、追い詰められ、触れれば切れる刃のような状態にあった彼らの様子は、このような感じだったろうと思わせる。宮城事件を起こした将校たちの狂気紙一重の純粋さがなければ、陸軍の暴発を恐れるがゆえに腹芸を打った昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相の行動にリアリティが生まれない。得てして後世の平和な我々にとって、あの時、原爆を落とされ、ソ連が参戦するぎりぎりの状況にあってもなお国体護持に拘る姿勢、陸軍の暴発を極度に恐れる姿勢は、非現実的に思える。陸軍将校たちが唱える本土決戦の非現実さを笑うのは、後世の平和な我々には簡単である。しかし、当時の純粋育成された軍将校にとっては、開戦以来、島嶼部の戦闘以外で負けていないのに戦争を放棄することなどありえない。そのような事情は鑑みるべきだろう。ましてや満州や中国に数百万の将兵を温存出来ていたとするならば。そのあたりの狂気紙一重の純粋さを演じ切っていた松坂桃李さんは私にとってほとんど初見の俳優さんなのだが、今後興味を持って観て行きたいと思う。

堤真一さんの迫水久常書記官長役もまたよかった。昭和天皇とはまた違う、現場の空気に染まらず、冷静に客観的に見るその演技は、なんとなく私自身の仕事上のそれに通ずるところがあり、共感できた。会議の仕切りなど事務方の取りまとめ役の所作を、見事に演じていたと思う。ただ、どこか私にとって腹に落ち切れていない部分があり、それが何か考えていたのだが、ようやく分かった。上に挙げた歴史上の人物は、大抵他の著作や伝記などで触れた経験があるのだが、迫水氏については、全く読んだことがないのだ。終戦時の日本を取り上げた文章にあって、迫水氏はほぼ登場するにも関わらず、人物像に焦点を当てた文章にはまだお目にかかったことがない。他の方々の演技は私の腹に完全に落ち、そのイメージとの一致に膝を叩く思いだったのに、迫水氏だけは現実の氏のことをほとんど知っておらず、これは一度関連書籍を探して見なければ、と思った。

本作は、70年後の日本人が当時の日本を描写している。そのため、日本を描写したハリウッド作品とは、時代考証に求められるレベルが違う。各段の厳密さが求められるのは当然である。私のような素人の現代史好きにとって、ロケ地や衣装、美術、音楽、時代考証などで本作におかしな点は見られなかった。本作は、東京を舞台としたシーンが多いが、関西のロケ地が多いという。だが、観ていて違和感は抱かなかった。
関西のロケ地の中でも私に縁のあるロケ地が二か所あった。一つは、天皇の居室や吹上御所として登場した甲子園会館。ここは私の実家から徒歩数分の場所にあり、普段は武庫川女子大のキャンパスとして使われている。幼少時から外観はよく見ているのに、まだ中に入ったことは一度もない。数年前の帰省の際に外観はじっくりと観たが、本作を観て強く館内を見学したくなった。もう一つは、滋賀の五箇荘にある藤井彦四郎邸である。ここは4年前、一人で訪れ、邸内にも入った。本作では阿南陸相の三鷹の邸宅として使われており、観劇中は全く気付かなかった。あとでパンフレットを観て藤井彦四郎邸であることに気付いた次第。これは悔しかった。そのほか、京都御所や舞鶴の旧東郷邸や神戸税関など、関西人としては嬉しい場所が多数ロケ地で使われていたことがパンフレットに載っていた。本作は間違いなくDVDが発売されるだろうし、私も買い求めると思うが、劇場で観られない方もパンフレットだけでもお買い求めることをお勧めしたい。

また、本作の様な内容は、云い方は悪いが簡単に観客を泣かせることが可能といえる。しかし、あえてそういう演出を採らなかったことに逆に監督の真摯な想いが伝わってきたように思える。もちろん昭和天皇の胸を打つ言葉、鈴木首相の達観したような凄味、阿南陸相の温かみと国を思う想いなど、胸が熱くなるシーンは沢山ある。阿南陸相の妻が三鷹から空襲下の東京を陸相官邸まで駆けつけ、最期に間に合わなかったものの、戦死した子息の最期の様子を物言わぬ遺体に切々と語りかける場面など、観る方によっては号泣必至かもしれない。しかし、彼らが命を懸けて得た日本の繁栄に安住している私のような観客からみると、ただただ感謝の気持ちが胸を満たすのである。

’15/8/14 イオンシネマ 新百合ヶ丘


あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書


夏の風物詩。人によってそれぞれである。ある人は花火に夏の開放感を味わい、ある方は甲子園のアルプススタンドに熱気を感ずる。四季折々の風物に事欠かない日本。中でも夏は格別の趣を人々の元へ運ぶ。その色合いは総じて開放的かつ前向きである。

そんな色合いとは異なり、毎夏、思い出したかのようにマスコミに取り上げられる事柄がある。それは戦争に関する話題である。いわゆる終戦記念日であるポツダム宣言受諾、広島・長崎への原爆投下など我が国において開放的かつ前向きとは言い難い出来事が起こった季節。太陽は眩しく、雲は空を衝き、影が色濃く地面に映る季節である。

私もまた、この季節に思い出したように戦争関係の本を手に取る。

特定の史観に絡め取られないよう、左寄りの本を読めば、次は右寄りの本に手を伸ばす。私の読書スタイルである。そんな中、半藤一利氏と著者の一連の作品は、読み終えた後に左右のバランスを取る必要がない。両者のスタンスは、特定のイデオロギーに与せず染まらない。中道をまっすぐに進み、筋を通すことに専心しているように見受けられる。そのため、私も左右の揺れを気にせず、安心して読める。

本書は、著者がそのようなスタンスを貫きつつ、「あの戦争」の通史を分かりやすく伝えることを狙った一冊である。

しかし、中道を進むことは、冒険に走らないことでもある。つまり、本書の内容が教科書的な、なんの新味もない味付けになってしまう恐れがある。私にしてみれば、本書を手に取ったのは通史としての総括を期待していた。そのため、本書から新説を得ようといった期待は持たずにページを繰った。

しかし、さすがというべきか。本書ではそのような期待はいい意味で裏切られた。まず、構成である。通常、このような総括本は、戦争の歴史を時系列で追う。複雑な思惑が絡み合う戦争において、時系列からの捉えは必須と思われがちである。しかし、本書は単純な時系列による構成ではない。戦争を、いくつかの要素に分け、それらの内容を分析することで、その総体を戦争としてとらえようとする。

本書は第一章として、旧日本軍のメカニズムから取り上げる。つまり戦争前史としての大正デモクラシーやワシントン・ロンドン海軍軍縮条約/会議や昭和大恐慌、五・一五事件などの事件ではなく、日本を戦争へ導いた前史として、軍隊の構造からメスを入れる。なぜ軍部の専横が起こったのか、なぜ一部軍人は独走したのか。それを著者は旧日本軍のメカニズムに原因を求める。新鮮な視点である。

第二章は、開戦に至るまでのターニングポイントとして、時系列を少し進め、二・二六事件から始まる軍部の専横に焦点を当てる。天皇機関説の反動で昭和天皇は神格化され、一部軍人はそれを錯覚し、勝手に天皇の名を借りて暴走を始める。太平洋戦争での日本の破滅は、陸軍の暴走にその責を負わせるのが現代の我々の大勢だろう。しかし、本章では黒幕として海軍の一部署を挙げる。ともすれば米内・山本・井上各将の強硬な日独伊三国同盟への反対が持ち上げられ、善は海軍、悪は陸軍と二元化されがちである。しかし石油備蓄がわずかと虚位報告をし、日本を南進へと追いやった責は海軍の一部にあり、と著者は喝破する。私にとって聞いたことのない視点からの糾弾であり、陸軍ばかりが悪ではなかったと知っていたとはいえ、驚きであった。

第三章は、快進撃から泥沼へと題し、もはや敗戦が明確になりつつある中、なぜずるずると破滅への道を歩んでしまったのかを著者は示す。そもそもどういった条件で勝利とみなすか、という策のないまま突き進んだ戦争。いずれも相手国からの働きかけでしか終結点を持っていなかったことに著者の軍部を斬る筆先は向く。日本が主体として戦争に幕を下ろすことを考えておらず、そこにいつまでも戦争が長引いた原因があると著者はいう。

第四章 敗戦へ──「負け方」の研究として、もはや滅亡の道を進むかのように見える日本で、策を練り、日本を上手く負けさせるために努力するわずかな人々の姿を描く。無能な指揮官と無策の大本営にも関わらず、昭和天皇を始めとした戦争終結への努力は、負け方が不得手な日本にあって、今後の指針となるべき示唆に満ちている。

第五章 八月十五日は「終戦記念日」ではない──戦後の日本は、冒頭にも書いた通り、8月15日が終戦記念日として国民にまかり通っている常識に一石を投じる。8月15日はあくまでポツダム宣言受諾の意思表示した停戦でしかなく、ミズーリ号艦上での重光葵全権による降伏文書への調印ですら、終戦とはみなしていない。シベリアや南方の島々に戦士たちが残されている以上、戦後という言葉を使って戦争を終わらせるのはいかがなものかと著者は問う。

それは、夏になると戦争を取り上げるマスコミや、夏になると戦争関連の本を手に取る私への、強烈な問題提起である。

’14/08/12-‘14/08/15


夜愁〈下〉


承前として、上巻から続く1944の章で本署は始まる。これから読まれる方の興を削いでしまうので、登場人物たちの動向については書かない。が、本章で起こる様々な出来事は、運命や時代に左右される人々について、心に訴えかけるものがある。戦争という緊迫した状況下では、人は普段被る仮面を剥がされ、うろたえ、醜い姿もエゴもさらけ出す。空襲に怯えるロンドンで、爆撃された廃墟の傍で、V2が飛来する恐れの中、人々は生きる。

人が懸命に、も生きようとする本章には、色々と心に残る場面が登場する。空襲のさなかにどうしようもなく惹かれあうレズビアン。爆撃が迫る中、牢獄に閉じ込められた子供たち。爆撃された街で、堕胎によって瀕死となる女性。わが日本でも空襲体験やそれを描いた小説も多々あれど、本書の空襲描写は、ことさら印象に残る。おそらくは私を捨てて救護活動に没頭する消防士の視線からみた空襲描写が多いからであろうか。

1944の章の描写を通し、1947の章に登場した人々の過去に何があったのか、読者は理解する。1947の登場人物達に共通する空虚さの中に、嵐の中を潜り抜けてきた人々の反動を観る。

最後に1941年。

普通の小説ならば、プロローグとして書かれる内容の本章だが、本書は末尾の章として置かれている。1944年の大戦を懸命に生きる登場人物達。彼らがどうして大戦の混乱を、それぞれの立場で身を置くようになったのか。本章ではそれが書かれる。

繰り返すが、本章の内容は登場人物たちの紹介であり、本来ならばプロローグとして物語の前提を説明するものである。

上巻のレビューの最初に、本書を読んだことを3年半しか経っていないのに忘れたと書いた。なぜ忘れたかについては、すでに上に書いてきた通りである。つまり、文章の構成順と物語の時間軸の順序が逆だからであり、本来ならプロローグにあたる部分が最後に来ているためである。物語の時間軸に沿えば、最後に置かれるべきシーンが冒頭の1947の章に配されている。そのため、従来の小説の読み方では読後感が混乱してしまうのである。特に、斜め読みに読んでしまうと、全く記憶に残らないということになってしまう。おそらくは3年半前の私は、そのような読み方をしてしまったのだろう。言い訳をするようだが、丁度この時は、私的に衝撃的な出来事があり、本書に集中できていなかったのかもしれない。

だが、今回は前回の失態を取り返せたのではないかと思う。本書の凄さと意図が把握を実感することができたように思う。

1941の章の最期は、廃墟の中から救い出された少女の美しさに、消防士が感動する場面で終わる。
1944の章の最期は、空襲に死んだと思った恋人が見つかり、消防士がそのことを友人に告げる場面で終わる。その恋人が友人と情を通じあっているとも知らずに。
1947の章の最期は、ロンドンをさまよい、ロンドンの静けさを、うつろに見る元消防士の視線で幕を閉じる。元消防士のケイの視線で。

本書はレズビアンという愛の形を、時代に翻弄された無残な愛の終わり方で描いたものである。その無残な愛の形を描くためには、時間軸では無残に、文章構成では感動で終わらせる必要があったのだと思う。本書のラストが、感動で終われば終わるほど、その愛が無残に終わる結末を知る読者には、なおさら虚しく響いてしまう。そんな効果を狙っての、本章の構成だとすれば、その効果は確かに上がっているといえる。

’14/07/02-‘14/07/08


夜愁〈上〉


実は本書を読むのは二度目である。3年半前に一度読み終えている。本好きで、様々な本を読んできた私だが、再読する本はそれほどあるわけではない。どれだけ面白い本を読もうが、同じ本をもう一度読むよりは、別の本に手を伸ばす。それが私の読書スタイルである。

本書はわずか3年半の間を経て再読することになった。本書がそれだけ再読に耐えうる内容か、と問われるとそうとばかりは云えない。では、なぜ再読したか。それは、単に私が前に読んだ内容を忘れてしまっていたからである。読み始めて数十ページでようやくそれに気が付いた。3年半しか経っていないのに、内容を忘れてしまう本書。本書が読むに堪えない内容かというと、違う。むしろ素晴らしい内容であることを、再読によって再確認させられた。本書で描かれている作品世界は、実に濃密で素晴らしい。では、私がなぜ内容を忘れてしまったのか。そのことについて、本書の素晴らしさと合わせて、上下巻の本レビューを通じて記そうと思う。

本書の舞台は第二次大戦中の英国ロンドンである。大戦下の各都市に違わず、ロンドンもまた、様々な戦争の荒波に晒された都市である。きな臭い欧州情勢に怯える開戦前夜。V2ロケットの空襲に脅かされた開戦中。勝利するも、第二次大戦中勝利者の主役の座をアメリカに奪われた空虚感の漂う終戦後。第二次大戦中の写真集を観ても、ロンドンを被写体とした写真は、空襲に備えたガスマスクを被った人物や、空襲に被災した建物など、陰鬱とした対象が採り上げられている。

本書は、文庫本で上下2巻に別れているが、その中で3章に分かたれている。1947、1944、1941という順番の3章に。これは云うまでもなく、西暦の年数を示している。すなわち、終戦後の1947、大戦末期の1944、大戦開始直後の1941。本書の最大の特徴は、この3章の順番にある。

まず、1947年。

大戦に勝利したものの、勝利の立役者であるチャーチルは失脚し、インドをはじめとした海外の植民地も独立の動きを強める。勝者の高揚感もなく、没落の予感に震える大英帝国。衰退の道を辿るロンドンの匂いが、本章の行間のあちこちから立ち上っている。屋根裏部屋に逼塞するケイ。37歳の彼女は、男に見間違えられる格好で、世捨て人のような暮らしを過ごす。彼女の過去に何があったのか。ヘレンとジュリア。レズビアンの関係である彼女たちは、ヘレンの嫉妬からくる倦怠期の兆候を迎えている。彼女たちはどうやって出会ったのか。ヘレンと共に働くヴィヴ。新しい時代の働く女性である彼女には、探し求めている女性がいる。それは誰で、なぜ探し求める必要があるのか。恋人のレジーとは不倫の関係を続けている。真面目に働く技師であるダンカン。ヴィヴの弟であり、まだ若いのにマンディ氏という老人と生活を共にし、沈滞しきった毎日に苛立ち始めている。偶然にも仕事場でばったり、過去の友人であるフレイザーに出会い、若者らしい振る舞いを思い出したかのように街にでる。マンディ氏とはなぜ同居することになり、フレイザーとはどんな過去を共有したのか。

本章の終わりで、何かが劇的に変わることはない。何かが解決することもない。しいて言えば、ヴィヴが探していたケイに巡り合い、過去に託された品物を渡せたのみである。ダンカンはマンディ氏との時間から逃れようと飛び出し、ヘレンは嫉妬の余りに自殺を図り、ジュリアとの仲は倦怠から醒めない。

ロンドンは、大戦後の溌剌とした勝者気分を取り戻す訳でもなく、ぼんやりとした時間を過ごしていく。登場人物たちのその後は、ロンドンの霧のように、杳として見えない。

続いて1944年。

V2ロケットの襲来と、バトル・オブ・ブリテンの興奮が街を活気で覆っている。至る所に空襲があり、家屋が爆撃され、人々は斃れ、泣き崩れ、泣く間もないほどの救助活動に忙殺される。

1947の章にでてきた登場人物たちの境遇は大きく違っている。まだ読んでいない方のために、詳細は書かないが、1947のそれぞれの過去が、戦争という非常時の中、細やかに、鮮やかに描かれる。

上巻は、1944の章の途中で一旦幕を閉じる。戦争に翻弄される、人々のその後が、どうなるかに気を持たせつつ。

’14/06/25-‘14/07/02


重光・東郷とその時代


この方の著書は公平な著述を心がけている点に好感が持てます。当著作では日本の混迷の時代を取り上げていますが、戦士や将官に対する視線も外交を混乱させた批判的な目ではなく、憂国の士としてとらえている点が印象的です。

皇国主義すれすれというところですが、よくよく読むとそうでないことがよみとれます。

ただ、広田氏と松岡氏には批判的です。近衛氏にも。ポジションに対する自覚の足りない人に対しての筆致は非常に厳しいものがありますが、そうあってこそです。

’11/8/24-’11/8/27