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私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


ドキュメント 滑落遭難


ここ数年、滝に関心を持ち、ひとりであちこちの滝を訪れている。ここ二年は山登りのパーティーに参加し、あちこちの山へ登るようになってきた。
そのパーティーのリーダーによる硬軟を取り混ぜた見事なリーダーシップに、私自身も経営者として学ぶところが多い。

私の場合、独りで移動するにあたってはかなりむちゃもしている。体力にはある程度の自信があり、パーティーでの移動とはちがって速度を緩める理由がないためだ。実際、一人の行動では標準タイムよりもペースが速い傾向にある。
それは過信だ。その過信が事故を招きかねないと肝に銘じている。そのため、山はあまり一人では登らず、なるべくパーティーで訪れるようにしている。

実際、本書を読む一年前には、独りで相模原の早戸大滝をアタックし、遭難しかけたことがある。
それがどれほどの危険な状況だったのかは、正直なところ、まだ甘く見ていた。本書を読むまでは。
本書を読むと、私のその時の経験は、実は相当に危険な状況だったのではないか、と思うようになった。

本書を読んだことで、そうした無謀な行動は控えなくては、と思うようになった。
また、遭難の事例を通じ、人々の山への熱意がより感じられた。それによって私に残された命がある限りは、できるだけ多くの山に訪れたいと意識するきっかけにもなった。

本書は、六例の遭難事例が載っている。また、それに加えて埼玉県警山岳救助隊の報告としてさまざまな遭難の事例がドキュメントとして収められている。

まず富士山。私自身は、まだ富士山に登ったことがない。しかも冬山に関してはスキーであちこちを訪れた程度であり、山登りを目的に置いたことはない。
スキーで訪れた際に、雪山の視野の悪さは充分すぎるほど知っているし、あえて雪山を目指そうとする意欲はない。

とはいえ、実際に雪山での滑落がどれほど想像を絶するものかは、本書の記述から感じ取れる。おそらく、スキー場の急斜面よりももっと強烈な斜面を転げ落ちていったのだろう。
夏山でもよく目にするのが、登山道の脇にありえない角度で斜面が口を開けている光景だ。あの斜面を転がり落ちたらどういうことになるか。想像するだけで恐ろしい。
本書で書かれている通り、そもそも止まることすら不可能になるのだろう。
ここで取り上げられた方は500メートルを滑落したと言う。そのスピードがどれほど強烈だったのか。

本編では教訓として富士山の冬山トレイルであれば、さほど難易度が高くないという錯覚と、下準備の不足を指摘している。また、登山届が未提出だったことや、救急療法に関する知識の不足というところも教訓として上がっている。
これらの教訓は、私にとって耳の痛い内容を含んでおり、私がもし無謀な思い付きを実行していたら間違いなく糾弾の対象となることだろう。ちょっとやばいと思った。

続いての事例は、北アルプスの北穂高岳だ。こちらは山のベテランがガレ場から滑落し、膝を強打したというものだ。
本書に載っている事例の中では最もケガとしては軽いが、膝の打撲がひどくて下山できず、ヘリコプターを呼ぶ羽目になったという。
ヘリコプターを呼んだことによる救出のための費用は相当かさみ、その額なんと440,000円だという。
山岳保険に加入していたため、実際の費用は抑えられたそうだが、山岳保険に入っていない私の身に置き換えてみると、これはまずいと痛感した。
また、ストックの重要性にも触れられているが、私はまだ持っていない。これもまずい。

続いては、大峰山脈・釈迦ケ岳の事例だ。
練馬区の登山グループ17名が、新宿から大峰山系の釈迦ケ岳に向かっていたところ、続けて2件の事故を起こしてしまう。そのうちの1人は、首の骨を折って即死するという痛ましい事故だ。

当日の天気は地元の人に言わせれば山に行くべきではない程度の雨脚だったという。一方でパーティーのリーダーであるベテランの引率者は小雨だったという。
出発時間も早いほうがよかったという批判があり、そのリーダーは時間には問題なかったと言い張っている。つまり平行線だ。
責任逃れと切って捨てることもできるが、実際の状況はその場にいた方しかわからない。ただ、それで人が死んでしまったとすれば大問題だ。

著者は大峰山の自然を守ろう会の方の意見を紹介している。事故が起きたあたりは、修験道の修行場であり仏の聖域でもある。そのような場所に人が入るべきではないと言う意見は、登山そのものへの問題提起だ。
決して登山自体が悪いわけではないと断った上で、いわゆる昨今流行している登山ツアーのあり方について一石を投じる。ここで事故が起こったコースは、二つの日本百名山に登れることから、登頂数が稼げるコースとしても人気があったという。こうした登頂数を稼ぐ考え方に問題の根がある、と。これは私自身も肝に銘じなければならない。

続いては赤城山・黒檜山だ。
数日前に訪れたばかりの冬山を急遽、一人で登ることになった遭難者の五十代女性。
数日前に訪れていたことによって冒険心を起こしてしまったのか、違う道を行ってしまった。登山届がでておらず、単独行だったので足取りも推測するしかない状態だが、迷った揚げ句に体力を消耗し、最後は滑落して動けなくなって凍死したということらしい。
自らの経験への過信と、何かあった時に備えた装備の不足とリスクマネジメントの欠如がもたらした事例だ。

ちょっと知っているから、と芽生えた冒険心に誘われるまま、違う道に分け入ってしまう。これは似たような行動をしがちな私にとって、厳に教訓としなければなるまい。

続いては、北アルプス・西穂高岳独標の事例だ。
登山には着実なステップアップの過程がある。まず近所の小さな山から始め、やがて千メートル級の山、二千メートル級の山、さらには冬山、そして単独行といったような。
その道のりは長くもどかしい。それが嫌だから着実なステップを踏まずに次々と難易度の高い山に挑戦し、そして大ケガを負う。
そんな人がいる中、本編で事故にあった方は着実で堅実なステップアップをこなしてきた方だ。準備も多すぎるほど詰め込むタイプで、事故には遭いにくいタイプ。

ところが、山荘からすぐ近くの独標へ向かう途中で滑落してしまう。そこから一気に400メートルを滑り落ちてしまう。
奇跡的に命は取り止めた後、ほんのわずかだが、つながった携帯電話を頼りに、切れ切れに遭難の一報も出すことができた。
重すぎるザックがバランスを崩した原因となったが、そのザックがクッションになり、さらにザックの中には連絡手段や遭難時の備えが入っていたことが功を奏した。

なによりも、この方が生きて社会復帰してやる、との強い意志を持っていたことが、生き延びた原因だという。これもいざとなった場合に覚えておかねばなるまい。

続いては、南アルプス・北岳の遭難事例がとり上げられる。
この編で語るのは滑落した当人ではなく、それを間近で目撃し、救助にも携わった方だ。
この時期の北岳にはキタダケソウという可憐な花が咲き乱れ、それを目当てに訪れる人も多いのだとか。だが、六月末とはいえまだ雪渓は残っている状態。そこをアイゼンやピッケルもなしで向かおうとする無謀な行為から、このような事故が起こる。夏山とはいえ、準備は万端にする。思い込みだけで気軽に訪れることの危険を本編はよく伝えている。

最後は、埼玉県警山岳救助隊があちこちの事例を挙げている。
ここであがっている山はそれ程の高峰ではない。
それでも、ちょっとした道迷いや油断によって転落は起こりうる。
高峰に登ろうとする際は心の準備に余念がないが、低山だとかえって気楽な気持ちで向かってしまうため、事前に山に行ったことを教えずに向かってしまうことはありそうだ。そうなると遭難の事実も分からず、救助隊も組織されない。
そうやって死んでいった人の多さを、本編は語っている。
多分、私がもっとも当事者になりそうなのが、ここで取り上げられた数々の事例だろう。

こうして本書を読み終えてみると山の怖さが迫ってくる。
本書を読む少し前、私は十数人のパーティーの一員として至仏山に登った。
そこから見下ろす尾瀬は格別だったが、雲の動きがみるみるうちに尾瀬の眺望を覆い隠してしまい、それとともに気温がぐっと下がったことも印象に残っている。これが山の怖さの一端なのだろう。

私はまだ自分が山の本当の怖さを知らないと思っている。また、私は自分の無鉄砲な欠点を自覚しているため、独りで無謀な登山はしないように心がけている。
だが、その一方で私は一人で滝を巡りに行くことが多い。多分、私にとって危険なのは滝をアタックしてアクシデントに遭遇した場合だろう。
滝に向かう時、おうおうにして私は身軽だ。遭難時のことなど何も考えていない。

冒頭に書いた早戸大滝の手前であわや遭難しかけた事など、まさに命を危険にさらした瞬間だったといえる。
早戸大滝は今までもなんどもチャレンジし、その度に引き返す勇気は発揮できている。
この引き返す勇気を今後も忘れないためにも、本書はためになった。

‘2019/9/9-2019/9/10


2020年10月のまとめ(個人)


昨年から、毎月ごとに個人と法人を分けてまとめを書きます。

公私の「私」

●家族とのふれあい

§ 総括 コロナウィルスに翻弄されたこの数カ月。
十月になっても世の中には不安の影が覆っています。それを受け、コロナと共存するための風潮が広まっています。

今月は妻の手術の入院がありました。無事に手術は成功し、一週間の入院を経て退院しました。術後の経過も良好のようです。昨年からの不安の種の一つが取り除かれました。
面会も不可能だったりと、大変な状況の中、家族で乗り越えられたことは大きいですね。

私自身も、あまりにも仕事が山積みし、月末になって倒れてしまい、末日には数年ぶりに病院に行きました。
先月読んだ「死」についての分厚い本が常に頭をよぎりました。

両親や妻の手術、私自身の体調など、あらためて生きる意味を問いたくなります。人生が有限であること。残された時間があとわずかであること。

たとえ死ねば全てが無に消えると分かっていても、全力で自分に与えられた生を全うしたい。仕事もプライベートも。
今は仕事に集中し、好きなことは引退後に、などという悠長な考えではなく、今を両方とも全力で生きる、という決意とともに。
そうした考えが娘たちにも伝わればいいな、と思っています。

私が仕事が詰まり、今月は完全にワークライフバランスが崩れてしまいました。
そうした多忙な状況を見極めながら、引き続き工夫を重ねて、自粛の中でも生きる喜びを謳歌したいと思います。

家族とは一回、妻とは三回、妻と長女とは四回、長女とは四回、長女と次女とは一回、お出かけしました。

いずれにせよ娘たちは巣立ちます。私は仕事以外にやりたいことが盛りだくさんな人間なので、子離れや引退をきっかけに老け込まなさそうですが、限られた人生でも家族との時間を大切にしたいと思っています。

§ 月表

・十月お出かけ

東京油組総本店、吾妻橋、隅田公園リバーサイドギャラリー、東京じゃんがら、BOOKOFF 浅草稲荷町店、下谷神社、馬賊、浅草薬酒バー、東雲寺、味の民芸、しゃぶ葉町田市民病院、ウエスト、町田市民病院、サニーベッカリー、鶴川駅前図書館、吉野家、アメリア三和、アメリア町田根岸ショッピングセンター、町田市民病院、オーケー 町田森野店、ウェルパーク 町田旭町店、セブンイレブン 原町田大通り店、町田東急ツインズ、北海道らーめん ひむろ 浅草店、中華料理 菜香、山下公園、蘭州牛肉拉麺、関帝廟、Coeur & Heart、町田市民病院、多摩川、らーめんくじら軒 横浜本店、籠屋(秋元酒店)、多摩水道橋、モスバーガー 鶴川店、新田毎、ジョーシン つるかわ店、スシローぐりーんうぉーく多摩、高座山、杓子山、葭池温泉前駅、モスバーガー 鶴川店、旧白洲邸 武相荘、きつねくぼ緑地、ダイソー 町田金井店ジョーシン つるかわ店、カフェ・ベローチェ、イトーヨーカドー

・十月ツイート
https://togetter.com/li/1615978

§ 家族のお出かけ 家族で出かけたのは、上の年表で黄地に太字にしているイベントです。家族で出かけたのは、今月は2回です。まずは入院と手術を控えた時期に次女の誕生日にしゃぶ葉に行きました。
また、もう一度は、退院した妻が寿司を食べたいというので、たくさんの寿司をいただきました。
家でも鍋を囲んだりたこ焼きパーティーをしたり。

まずは、妻が無事に退院できたことがよかったです。

今回のコロナを通し、生きる意味を日々感じているからこそ。家族の意味はそこにあります。
家という基盤がある幸せを噛みしめつつ、生きる意味とは何か、死ぬと人は無に消えるのか。コロナを通して生きる意味を考えたいと思います。


§ 妻とのお出かけ 妻と出かけたのは、上の年表で桃地に太字にしているイベントです。今月は妻と二人で三回お出かけしました。
とはいえ、お出かけしたのは入院の時などであり、あとは近所に一度出かけた程度です。

§ 妻と長女とのお出かけ 上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月は妻と長女と三人で四回お出かけしました。
一つはお彼岸から少し遅れての墓参りです(10/4)。
あとは近所のお買い物などです。

§ 妻と次女とのお出かけ 上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月はその機会はありませんでした。
次女とも今月はあまり触れあえていません。次女もよく出かける人なので当然なのですが。


§ 娘たちとのお出かけ 上の年表で青地に太字にしているイベントです。
今月は妻の手術があったため、長女と次女とで一回お出かけしました。
町田の街中で美味しい料理を三人で食べました。私は写真のようにチーズフォンデュを。
長女には、とあるサイトのイラストを手伝ってもらっていました。無事にうまく公開もできました。

●私自身の十月(交友関係)

§ 関西の交流関係 今月は、仕事がいろいろと忙しく、関西に帰る時間がありませんでした。
仕事では関西の方とよくお話ししていたのですが。また、関西からの案件も3,4件頂いており、またうかがうことになりそうです。


§ 今月の交流 今月は仕事が忙しく、飲み会がゼロでした。一度も誰とも飲まなかったのは、いつ以来か覚えていないです。


●私自身の十月(文化活動)

§ 読書・観劇レビュー 読んだ本のレビューを記す読ん読ブログの執筆は、主に2019年に読んだ6冊分となりました。
レビュー執筆は、私の中では大切なライフワークとして位置付けています。このところ、書く時間があまり取れず、先月は一冊分しか書けませんでした。なので、今月は仕事の合間に六冊をアップしました。
この期間を質を落とさずに縮めたい。それが去年に引き続いての課題です。書く行為への熱意は衰えていませんので、引き続き続けたいです。

一昨年の春まで連載していたCarry Meさんの運用する本音採用サイトの「アクアビット 航海記」を弊社サイトにアップする作業ですが、今月は1本アップしました。
(「アクアビット航海記 vol.25〜航海記 その12」)
上京した私が仕事をはじめ、そこで技術者としての最初の足掛かりをつかむ様子を振り返っています。

今月、書いた本のレビューは6本(
島津は屈せず
八日目の蝉」「動物農場
<インターネット>の次に来るもの
昭和史のかたち
原爆 広島を復興させた人びと
背番号なし戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史 1936-1946

今月、書いた抱負は0本() 。
今月、書いた旅日記は0本() 。
今月、書いた物申すは0本() 。
今月、書いた弊社の活動ブログは1本(
RPA界の技術者の皆様にお話しをしました
)。

§ 今月の読書 今月は14冊の本を読みました。内訳は時代小説七冊、ビジネス書一冊、組織論一冊、企業ノンフィクション一冊、歴史書二冊、ミステリ一冊、技術解説書一冊。

今月は前半に本を読みました。それと今月は仕事での移動が多かったので、本を読む時間は取れたためです。

私の今年の目標の一つは本を出版することですが、早く出したくなった体験でした。
§ 今月の映画 今月の映画鑑賞は0本です。
今月もキングダムは見られずじまい。これで7カ月見られていません。一方で、当時お客様より教えていただいた鬼滅の刃は、妻子がはまっており、よくテレビで見ていたので私も何度か。

§ 今月の舞台 舞台については、今月は0本です。

§ 今月の音楽 今月は生演奏を聴く機会がありませんでした。ただ、今月はついにYouTube Musicに移行しました。今年は春先から70年代の洋楽を聴きまくっています。今月もそれは変わらず。Eric Clapton、George Harrison、Linda Ronstadtの3アーチストをほぼ聞いていました。
仕事だけの今月にあって、音楽に助けられました。
そういえば妻の手術が成功した日は、Eddie Van Halenの訃報が届いた日でした。また聴かないと。
§ 今月の美術 今月は、美術館への訪問はしていません。芸術の秋だというのに。

§ 今月のスポーツ 今月は外出もほとんどできず、このままではどこにも行かずに終わってしまうと思ったので、一日だけ山登りを敢行しました。
鳥居地峠から高座山、杓子山への縦走を往復で。
先月、長篠の古戦場で登った城山を除けば、今年の春先に山に登ったきりだったので、体力の衰えは顕著でした。
何度も断念を考えたほどでしたが、頂上から見た富士山の見事さは登った甲斐がありました。
§ 今月の滝 今月、訪れた滝は0滝です。前述の山登りの中で行きたかったのですが、滝に行く時間がなく。

§ 今月の旅行 今月は、25日までどこにも行けずにいました。
これはまずい、と山登りをしたのは上に書いたとおりです。

結局、高座山と杓子山から富士山の雄姿と忍野八海を見たのが全てです。



§ 今月の駅鉄 趣味の駅訪問は一駅です。「葭池温泉前(10/25)」
葭池温泉前駅は、山登りの後に立ち寄りました。明るい緑に塗られた小ぶりな駅でした。
できれば葭池温泉に浸かってから帰りたかったですが断念。

§ 今月の酒楽 今月は仕事が忙しく、飲み会がゼロでした。
しかも体調不良もあって家も含めても酒自体をあまりぼ飲んでいません。
第三週の日曜日には日本酒の達人の方々より、日本酒バーでの飲み会にお誘い頂いていました。
ですが、仕事で断念。月を通して一度も誰とも飲めずじまいだったことを考えると、無理を押しても行っておけばよかった。
浅草で仕事帰りに薬酒バーを見つけ、ふらりと入って飲んだぐらいです。
それとこれも仕事の途中でよった酒屋で麦冠の芋を買いましたが、まだあまり飲めていません。


§ 今月のその他活動 人生も半分を過ぎ、一層焦りが募っています。少しでも日々に変化をつけようとする気持ちに衰えはありません。
今、心身が動くうちに仕事もプライベートも全力で。その考えには揺るぎがありません。

・公園は三カ所。「隅田公園リバーサイドギャラリー(10/2)」「山下公園(10/14)」「きつねくぼ緑地(10/26)」
・博物館はゼロカ所。
・駅は一駅。「葭池温泉前駅(10/25)」
・入手したマンホールカードはゼロ枚。
・滝はゼロ滝。
・温泉はゼロカ所。
・山は二山。「高座山(10/25)」「杓子山(10/25)」
・酒蔵はゼロカ所。
・神社は一カ所。「下谷神社(10/3)」
・寺は二カ所。「東雲寺(10/4)」「関帝廟(10/14)」
・教会はゼロカ所。
・史跡はゼロカ所。
・遺跡はゼロカ所。
・城はゼロカ所。
・灯台はゼロカ所。
・水族館はゼロか所。
・風景印はゼロ枚。
・御城印はゼロ枚。

私がまだ訪れていない場所の多さにめまいがします。他の活動もまだまだやりたいことがいっぱいあります。
それなのに、今月は仕事に追われてほとんど出かけられていません。
こういう毎日を続けていると、疲れに追われてあっという間に老け込んでいきそうです。
一番怖いのは年齢から来るあきらめと気力の減退です。これだけは防ぎたい。

家族との縁もこれから姿を変えていくことでしょう。仕事もいつかは引退を求められるでしょう。そうなったときにやることがない、とよくある老残にならぬよう。
人はいつかは死ぬ。コロナウィルスの蔓延はそのことを教えてくれました。先月は「「死」とは何か」という本を読み通しました。
人の明日はわかりません。人気俳優や女優も自死を選び、私も不意の体調不良に襲われる。
ですから、いつかやろう、引退してからやろうといっていると、未来の自分にそれを妨げられてしまいます。
今を生きているのですから、今、やるべきことをしなければ。
後悔だけはしないように。
仕事だけでなく、いまのうちに時間の合間を見つけ、行けるところに入っておこうと思います。

一方で、将来のこともそろそろ考えねばなりません。
法人のまとめには書いた通り、コロナにもかかわらず、法人としての売り上げは確保できています。ただ、私個人としては投資もしなければ賭け事もせず、不労所得のタネも持っていません。
つまり、一人で私自身の体だけが頼りです。
なので、体に何かがあれば収入は尽きます。そろそろ貯蓄のことも考えていかなければ。

それぞれの場所で俳句も読みました。今月は5句。いずれもツイートまとめに載せています。

あらためて「私」を振り返ってみました。来月もコロナと共存しつつ、自らの生に後悔のないような日々となることを信じて。


至仏山登山 2019/7/21


尾瀬の朝は早い。
4時半に起き、朝靄に漂う尾瀬を散策に出かけました。
三百六十度の尾瀬が瞬間ごとに姿を変えてゆく雄大な時間の流れ。それは、言葉にはとても表せない経験です。
一年前の朝、尾瀬の大地に立ち、壮大な朝の一部始終に心を震わせた経験は、私の中に鮮やかに残っていました。
今年は、山ノ鼻小屋から尾瀬の湿原に歩き、朝を全身で感じたのですが、正直に言うと昨年を凌駕するほどの感動までには至りませんでした。
今年も十分に素晴らしい朝だったのですが。昨年、尾瀬の朝を感じた初めての経験がそれだけ鮮烈で、得がたいものだったのでしょう。
尾瀬小屋は山ノ鼻よりさらに奥に位置していて、自然相も景色も違うのでしょうし。季節や場所によって自然はかくも違う顔を見せる。そのような当たり前のことを思い出させてくれました。それもまた、尾瀬の魅力の一端なのだと思います。


朝ごはんを食べ、小屋を出発したのは、7時少し前。
目の前にそびえる至仏山に向け、19名のパーティは歩みます(数が減っているのは、昨日のうちに帰られた方がいたので)。
昨日、目に焼きつけておいた至仏山の山容と麓へと至るアプローチ。ところが、行けども行けども麓にたどり着きません。
都会の人工物に慣らされた私たちは、尾瀬の広大な自然の中で距離感を失い、惑わされる。昨年も感じた距離感の喪失は、尾瀬ならではのものかもしれません。嬉しい錯覚といいますか。
そうした日常の汚れを気づかせてくれるのが旅の効能。なかでも尾瀬の効能はてきめんです。


やがて至仏山の登山口に着きました。そこからは登りです。
ところが、登山道には水が流れ落ちていました。数日前まで雨が降っていた名残なのか、それとも雪解け水なのか。
水に気を取られ、思ったよりも負担になる登りでした。


とはいえ、自然の中だと別人のように力が湧き出る私。植物相が変わる高さまではずっと先頭でした。
その後しばらく岩場で後続のみなさんを待った後は、数名でさらに上へと目指します。今度はじっくりと時間をかけながら。


というのも、私たちの背後には尾瀬の大湿原が少しずつその全容を見せてくれていたからです。
少し標高を上げると、その分だけ姿が広がる尾瀬。登るたびに背後を振り返ると、その都度違った顔を見せる尾瀬。
そうやって尾瀬を見下ろす快感を知ってしまうと、一気にてっぺんを目指して登るなどもったいなく思えます。また、登山道の脇には名も知らぬ高山植物のあれこれが姿を見せ始めました。こうした可憐な花々も私の足を引き留めます。
これらの花々は昨日は湿原で見かけませんでした。山に登らなければ出会えなかった尾瀬の魅力がここにも。
一緒に登っていた方が高山植物に詳しく、たくさんの名前を教わりました。


至仏山の山肌を彩る豊かな自然を楽しみつつ、振り返るたびに、広大な姿を横たえる尾瀬に目を奪われる。
私の登山経験などたかが知れていますが、そんな乏しい登山経験の中でも、この時に見下ろした尾瀬のすばらしさは別格で、人生でも屈指の眺めだったと断言できます。
湿原を歩くだけでなく、上からその素晴らしさを堪能する。それこそが登山の喜び。そして魅力。その本質に気づかされた道中でした。


古来から山男を、山ガールや旅人を引き寄せてきた尾瀬の魅力。それは私ごときが語りつくせるものではなく、私の見た尾瀬も、尾瀬が見せる無限の魅力の一つにすぎないはず。

頂上に近づくにつれ、急速に湧いてきた雲が尾瀬を覆い隠します。
まるで私たちの眼下に広がっていた先ほどまでの尾瀬が幻だったかとでもいうように。
その気まぐれなふるまいも、尾瀬の魅力の一つ。そうした振る舞いに出会う度、旅人はまた尾瀬へと足を運ぶのでしょう。


雲が湧き、気温も下がってきました。視界も少し悪くなってきたので、登りの足を早めました。
途中には高天ケ原と名付けられた場所があり、少し休憩もできましたが、この日の高天ケ原は急に湧いてきた雲によって灰色に染まっていました。仏に至る道は容易なものではない、ということを教えるかのように。
山の天気の変わりやすさをつくづく感じつつ、気を引き締めながら最後の登りへ。


9時48分。至仏山の山頂につきました。標高2228m。私にとって日本百名山の登頂は大菩薩嶺に次ぐ二峰目です。
達成感に浸りたいところですが、狭い山頂付近には大勢の登山家がたむろして混雑しており、落ち着くことなどとても無理な状況でした。


そんな混雑の中、後続の皆さんを待っていたのですが、一部の方が登りに難儀されているとの情報が。
なので、まず15名で集合写真を。
この時、晴れ間が広がっていたらとても映えたのでしょうが、先ほどから湧き上がってきた雲が去る様子はなく、写真の背景が少し曇り空だったのが惜しい。
でもみんな、いい顔です。達成感にあふれています。雲を吹き飛ばすほどの晴れやかな姿がうれしいです。


女性の皆さんはお手洗いのこともあるので、皆さん先に出発しました。
で、私はMさんとそこでしばらく後続の方を待つことにしました。体力にはまだ余裕があったので、遅れた方の荷物でも持とうかな、と。
結局、至仏山頂には1時間以上いました。やがて後続の皆さんも合流しました。
なので無事を祝って、そこで5人で再び写真を撮り、山ノ鼻小屋の方が持たせてくださったおむすびをパクパク。

そこから小至仏山へと向かいます。
私が荷物を持つまでもないとのことだったので、私の荷物は増えなかったのですが、ここから小至仏山への道も岩場が続き、油断はできません。
高山植物を愛でながら、帰りのバスの時間もにらみながら、山の景色を堪能しながら進みます。
小至仏山には11時50分に着きました。こちらも小という名が付きますが、標高2162m。私の中では生涯で二番目の高峰です。
雲がまだ辺りを覆っており、そこからの尾瀬の眺望は楽しめませんでしたが、辺りは登頂の達成感を感じるには十分すぎる景色。実にすがすがしい。


そこからは険しく危険な岩場を通りながらの下りでした。途中には雪が溶けきれずに残っている箇所も通り、ここがまぎれもない高山であることを思いださせてくれます。
オヤマ沢田代や原見岩と名付けられた岩に登るなどしながらの道でしたが、登りで遅れた方が下りでも苦戦しており、私とMさんが先に降りては、後続でサポートについてくださったお二方を含めた三名を都度待つ展開に。


途中、大学のパーティをやり過ごしたり、水場で花や草を写真に収めたりしながら、ぎりぎりバスに間に合いそうなタイミングをみて、最後はMさんと二人で鳩待峠へ。
無事に皆さんと合流し、後続の方もあとから合流することができました。無事下山。

来た時と同じく「ゆる歩様」を掲げた「OIGAMI」号に乗りまして、私たちが向かったのは「わたすげの湯」。ゆる歩山登りの会は温泉が付いてくるのがうれしい。
汗を流し、足腰の凝りをほぐす湯けむり時間の心地よさ。
休憩所では皆さんがビールを頼んでいたので、私もついご相伴してしまいました。こういう時間って本当に幸せですよね。


再び「OIGAMI」号に乗って上毛高原駅へ。そこで解散となり、それぞれの思いを載せて帰路へ。
この日の夜、東京駅近辺で打ち上げのお誘いをいただきましたが、私は翌朝早くに車に乗って羽田へ向かわねばならず、無念の辞退。
本当は皆さんと旅の思い出を語らいたかったのですが。
とはいえ、せっかく大宮に来たので、夕飯はなにか珍しいものを食べたい。そう思って駅前をぶらぶらしました。結局、これといったお店が見つからず、丸亀製麺に入ってうどんを。こういう締めもまた私らしいというか。

さらに、新宿では尾瀬のことを無性に知りたくなり、駅前のBOOKOFFに立ち寄って尾瀬の本を買い求めました。

こうして、二日間の尾瀬と至仏山の旅は終わりました。今回、ご一緒した19名の皆さん、「OIGAMI」号のドライバーの方、宿の皆さん、誠にありがとうございました。


2020年上半期個人の抱負(実践版)


 ウイスキー検定二級の取得、唎酒師に向けて勉強開始

昨年、二級に向けて勉強するはずが、仕事が忙しくて全く手が回りませんでした。
昨年は仕事で複数の資格を取得したので、個人的な資格にも再度チャレンジしたいと思います。

 トランクルームの棚設置

こちらも仕事の忙しさの中ですっかり後手に回っていました。
本が大量にたまっているので、読んだ本から順次移せるよう、棚を作成したいと思います。

 東京オリンピック・パラリンピック

今のところチケットは取れていません。
ですが、パラリンピックも見たい試合が多々あります。
チケット取得へあきらめずに努力したいと思います。

 海外1国、国内12都道府県の旅行

ここでいう旅行とは、その地を足で歩くことです。
日本の滝百選の滝は8カ所を目指します。
近畿/中部/関東/東北の駅百選は20カ所を目指します。
日本の城百選、続日本の城百選の城は10カ所を目指します。
酒蔵は3カ所、ウイスキー蒸留所は3カ所訪問します。
日本百名山、続日本百名山の登頂は三座は目指したいです。
去年はほとんど未達だったので、今年は時間の配分を考えて。

 毎月一度の一人のみの実施

これは昨年、実現できました。
酒の種類、場所は問いません。毎月一度は一人で反省する時間を作ります。

 毎月一度の一人旅の実施

上に書いた12都道府県の旅は、この一人旅で実現していきたいです。
仕事で地方を訪問する機会を増やすことで実現できるはずだと思っています。
ワーケーションが実現できる自信もつきましたし。
三泊は車中泊をしながらの遠距離の旅がしたいですね。

 SNS

SNSは毎日のFacebookへの投稿は続けます。人生360度を表現するため、投稿内容をなるべく雑多にする方針は変えるつもりはありません。
また、Twitterも同様に不定期で続けます。俳句や雑感や仕事も交えながら。
さらにInstagramも同様に不定期で続けます。よく撮れた写真の公開場所として。

ここ二年、私自身の投稿へのいいねやメンションが減ることは承知で、あえて他人様のSNSには無反応でした。昨年後半から、仕事をこなしながらの余裕が出てきたので、今年はまた他人様の投稿に反応する時間を増やすつもりです。ただし自分からフレンドリクエスト申請をしないポリシーは変えませんが。

 レビュー執筆にあたっての音声入力の勉強

読書量が少し減ってきているのが昨年の反省です。
また、読書レビューをアップするスピードも落ちてきています。
これを両立するために引き続き音声入力の可能性を追求します。

 娘たちのフォロー

家族との融和を大切に、締めるところはきっちりと。

 両親と関西の友人への感謝

昨年は関西の友人に数度しか会えていません。
今年はその機会を増やします。
また、両親に会いに帰る機会も増やします。
今年は私の人生に強烈なインパクトを残した阪神・淡路大震災から25年たった年なので。

 体のケア

いくつか、私の肉体に衰えが出てきています。
早いタイミングで基本健診を受けに行きます。
仕事と個人と地域の三方よしの両立はまず体から。

 人に会って感謝する

SNSでできないこと。それは、対面で会っての感謝です。
忙しい毎日で、すべての人にお会いすることが次第に難しくなってきています。
が、折を見て伺ったりしながら、交流と感謝の基礎は対面にあり、を実践したいと思います。

 家計をきっちり

だいぶ家計には統制が効いてきたように思います。
ですが、まだまだです。引き続き長女と協力していきたいと思います。

 当抱負のアラート表示

昨年は下半期の抱負をアップし忘れたので、この抱負が書きっぱなしにならぬようにします。
毎月末に通知やアラートで自分にリマインドを投げます。
なおかつ、毎月末に書くまとめでは、計画の進捗も含めて書きます。
また、下半期に入る前に、下半期用の抱負(実践版)を書きます。


山女日記


10日後にせまった尾瀬旅行。その前に山の気分を味わっておこうと思って手に取ったのが本書だ。

タイトルのとおり、本書は山を訪れる女性が主人公だ。それぞれの短編を連ね、全体で一つの長編として成り立っている。短編の連作であるため、各編の主人公は違う。だが、全くの独立ではない。連作である以上、どこかに関わりが仕掛けられている。本書の場合、それぞれの短編で少しずつ登場人物が重なり合わされている。前の短編の中で描かれたその他の登場人物が、次の話では主人公となり、その話では前の短編で主人公だった人物がチョイ役として登場する。偶然にそんな出会いが続くはずはない。ところが、本書に登場する人々は、皆が山を通してつながっている。山の頂上は狭い。そしてそこへのルートは限られている。狭く限られた空間を共有するから、山を求めて集まった人々に縁が生じる。山へ登る人々。彼らは、山の頂上という集約された一点を目指し、狭い道を行き交い、頂上でたむろする。つまり、わずかな時間で多生の縁が結べる人種なのだ。

リアルな山での交流のほかにも、本書には山ガールが書き込む山女日記というサイトも登場する。こうしたサイトも小道具として登場させつつ、山という共通の対象を軸に据えながら、著者は本書をつむいでいく。著者が描く人々は、自らのうまくいったりいかなかったりする人生を見つめなおすために山へと向かう。その人生のあやが物語となって本書を生み出す。

なぜ皆、山に登ろうとするのか。これは永遠のテーマだろう。なぜマラソンを走るのか。なぜポケモンGoにはまるのか。なぜ仕事に熱中できるのか。なぜ結婚に踏み切れるのか。人生の酸いと甘いを味わって行く中で、人は似たような疑問になんどもぶち当たる。なのに、なぜ山に登るときだけその問いは投げかけられるのだろうか。私は疑問に思う。生の営み自体、問いなくして成り立つのだろうかと。それでも人は問わずにはいられない。「なぜ山に登るのか」と。

それは多分、山には明確な目的があるからだろう。てっぺんに立つという目的。その目的はこれ以上ないほど確かだ。ところが、登った苦労が頂上で報われるのもつかの間。登頂した後の下山の行程は登りに比べて少しむなしい。山登りの魅力を知らぬ者にとって、その行き帰りの徒労は不可解でしかないはず。目的が明らかなのに、その前後は苦しい。しょせん、山登りの喜びは山に行ったものしかわからないのかも。

それだけの大変な思いをして山に行く理由。それは、日常からの解放にほかならない。本書に登場する主人公たちは、日常の悩みを抱えたまま山にきっかけを求める。山では仕事や地位など関係ない。そうした下界のしがらみに関係なく、山に入ればただてっぺんを目指すだけ。道中は黙々と歩こうが、喋りながら歩こうが自由だ。時間と空間はたっぷりとあり、心の重しを吐き出すには理想。山が好きな人たちは、頂上だけでなくその前後の道のりすら、心の重しを除く絶好のチャンスに変える。

結婚を控えたOL律子が、同僚の由美と二人で妙高山を登る。そんな二人は、特に仲が良いわけでもないただの同僚。二人で行こうと誘い合わせたわけではなく、間を取り持つ舞子に誘われただけの話。ところが間を取り持つ舞子が急に来られなくなり、二人で山を登る羽目になる。由美と二人なのを気づまりに感じる律子。なぜなら、律子が結婚の仲人を頼もうとする上司は由美の不倫相手。そんな複雑な思いを抱えて二人で歩く山は疲れる。その気づまりに耐えられない律子は不倫のことや結婚観など、話を由美にぶつけてしまう。でも、誰にも気兼ねせずに済む山だからこそ、腹の中を探りあうことなく直接問いただせるのだ。そんな山の魅力が語られるのが本編だ。「妙高山」

バブル期に上昇する周りに煽られ、婚期を逃したまま今や40歳を過ぎた美津子。もともとは山岳部に属して山に頻繁に行っていたにもかかわらず、就職先の同僚たちが高級志向だったため、つられて自分を装い、人生を見失っていた。焦りもあって参加したお見合いパーティーで知り合ったのが神崎さん。彼に誘われて山に登ったことで虚飾が剥がれ、山の中でかつての自分を取り戻す。うわべではなく、本心を見せはじめる美津子と神崎さん。二人の大人が惹かれあって行く様を描く。山は虚飾や肩書を不要にする。「火打山」

幼少期から父と山を数えきれないほど登り、2〜3000メートル級の山など普通に登っていた私。山に関しては一人でなんでもこなせてしまう。ところが集団行動では一人だけ行動できても団体行動が旨。そんな団体行動で皆に合わせるのが億劫で、団体登山から遠ざかっていた。なにしろ、学生時代に来た槍ヶ岳では登頂直前で仲間の一人が膝を痛め、断念を余儀なくされた。久々に父と登った時ですら、最新の用具に見向きもしない父が膝を痛めて直前で断念。そうした経験が私をかたくなにさせた。山は一人に限る、と。今回、三度目の槍ヶ岳に一人でやってきた私。偶然、同行することになった周りの人たちの登山を助けつつ、自分の山履歴、ひいては人生を振りかえる。彼女が集団の登山に喜びを感じることはないだろう。だが、山は分かち合う相手がいた時にこそ違う表情を見せる。山は自分を見つめ直す機会となるし、人との関係を見直す機会にもなる。「槍ヶ岳」

幼い頃から何かと三歳上の姉に上から目線で接せられてきた主人公の希美。三十五歳になっても父と二人暮らし。不定期に翻訳の仕事をこなすものの生計を立てるまでには至らない。姉はさっさと結婚して不自由ない暮らしをしている。それが何をおもったか、姉から突然、山に行こうと誘われる。これはひょっとして私に説教するつもりだろうか、と身構える希美。山でも姉から指図され、説教を食らい、口喧嘩を始めてしまう。ところが、そんな姉から返ってきたのは驚きの事実。今まで上から目線でさ指示されてきた姉もまた、悩める女性であったことに気づく希美。山とは長幼の差すら埋める。格差に悩める時こそ山に登るべきなのかもしれない。「利尻山」

続いては「利尻山」で登場した姉妹が視点を逆転して描かれる。妹には夫から離婚を切り出されたことを告白したが、娘の七花をつれてこれからどう生きてゆけばよいのか、を悩む主人公。七花にはよい生活を送らせたい。離婚が原因で心に傷を負わせたくない。であれば、小学五年生になったことだし山に登らせてみよう。同行するのはもちろん妹。七花の成長を感じながら、自分のこれまでの人生や結婚生活のどこに落とし穴が待ち受けていたのだろうと思い悩む。そんな思いをよそに、仲良く笑い合ったりしながら先に登ってゆく妹と七花。体力の限界がきてどうしようもなくなった時、妹からまさかの説教を食らう。するとそれに対して母をいじめるなと反発する七花。肘張って生きてきた自分のかたくなさに気づかされる瞬間。山とは自分の限界を気づかさせる機会なのだ。「白馬岳」

最初の「妙高山」で間を取り持つはずが山に行かれなかった舞子。彼女は、劇団員で稼ぎのない彼氏の小野大輔から山の誘いを受ける。向かったのは箱根。舞子は、なりたい自分になるため、社会人になってから一年発起して自分に数々のミッションを課した。そのミッションをこなす中で自分は社会人として世に溶け込み、何者かになれたはず。でも、その自信にはどこか、確かさが伴わない。舞子を置いて妙高山に二人で登った律子と由美は山での縁で仲が良くなり、舞子は自分だけ仲間外れにされた気分に陥る。果たして自分は正しい道を歩んでいるのだろうか。自分が立てたミッションは正しかったのだろうか。そう悩む舞子に届いた大輔からのお誘い。そうして登った先には富士山が見える。そこで初めて舞子は大輔の思いに気づく。なぜ富士山を見せたかったのかという狙いにも。目標をいくつ立てようと、それは数字にしかならない。目標を追う自分を客観的にみなければ、目標をいくら実現しても自信にはならない。なぜなら自らが登る山の全容を、その山に登る登山者は見ることができないのだから。確かにその通りだ。「金時山」

これまでの各編に共通するのは山に導かれた女性たち。彼女たちをつなぐ縁は山を介してのもの。そうした山を愛する女子たちが書き込む「山女日記」というブログの存在も縁をつないでいた。そのブログで評判を呼んでいたのが山用の帽子。その帽子は本書の何編かでも登場し、読者に印象を与えた。その帽子を作った柚月が本編の主人公だ。かつて旅行会社に勤めていたころ、恋人の吉田と「トンガリロ」を旅した。当時、ニューカレドニアに赴任していた柚月と日本の吉田。遠距離恋愛の中、ようやくお互いの予定を工面しあい、旅したのがトンガリロ。ロード・オブ・ザ・リングのロケ地としても有名なこの山で、二人は恋人としての時間を過ごした。ところが、仕事を辞めて途上国で働きたいという吉田の夢は叶わず、そこから二人の間にずれが生じる。その時の思い出と別れから十五年。再び訪れたトンガリロで柚月と同行することになったのは、上の各編で登場した人々のうち数人。時間の経過は柚月を少しは名の知られた帽子職人にした。だが、柚月にはかつての恋人吉田が心に残っている。過去を忘れるためにも山に登りなおす必要があったということだろう。

山は麓からの稜線でつながる。点と線。それは人々の間に通ずる縁でもある。つまり山とは人生の縮図でもある。本編は本書の締めにふさわしい余韻を残す。

私の場合、自分の時間が無限でない苦しさを常に抱いている。その悩みを解き放つために尾瀬に行った。尾瀬ではただ、考えを忘れ、ひたすら美しい景色に見とれるだけだった。山は私を確かに解放してくれた。それもまた山の効用だと思う。

‘2018/05/17-2018/05/22


槍ヶ岳開山


日本の仏教をこう言って揶揄することがある。「葬式仏教」と。

平安から鎌倉に至るまで、日本の宗教界をリードしてきたのは紛れもなく仏教であった。しかし、戦国の世からこのかた、仏教は利益を誘導するだけの武装集団に堕してしまった。その反動からか、江戸幕府からは寺院諸法度の名で締め付けを受けることになる。その締め付けがますます仏教を萎縮させることになった。その結果、仏教は檀家制度にしがみつき「葬式仏教」化することになったのだと思う。

では本当に江戸時代の仏教は停滞していたのか。江戸時代に畏敬すべき僧侶はいなかったのか。もちろんそんなことはない。例えば本書の主人公播隆は特筆すべき人物の一人だろう。播隆の成した代表的な事跡こそが、本書の題にもなっている「槍ヶ岳開山」である。

開山とは、人の登らぬ山に先鞭を付けるということだ。人々が麓から仰ぎ見るだけの山。その山頂に足跡を残す。そして、そこに人々が信仰で登れるようにする。つまり、山岳信仰の復興だ。山岳信仰こそは、行き詰っていた江戸仏教が見いだした目標だったのだろう。そして現世の衆生にも分かりやすい頂点。それこそが山だったのだ。登山を僧や修験者といった宗教家だけのものにせず、一般の衆生に開放したこと。それこそが播隆の功績だといえる。

だが、播隆が行ったのは修行としての登山だ。修行とは己自身と対峙し、仏と対話する営み。純粋に個人的な、内面の世界を鍛える営みだ。それを、いかにして小説的に表現するか。ここに著者の苦心があったと思われる。

本書には、越中八尾の玉生屋の番頭岩松が、後年の播隆となって行く姿が描かれている。だが、その過程には、史実の播隆から離れた著者による脚色の跡がある。wikipediaには播隆の出家は19の時と書かれているらしい。wikipediaを信ずるとなると、19で出家した人間が番頭のはずがない。ただ、どちらを信ずるにせよ、槍ヶ岳を開いたのが播隆であることに変わりはないはず。

播隆に槍ヶ岳を登らせるため、著者はおはまを創造する。越中一揆において、おはまは岩松が突き出した槍に絶命する。仲の睦まじいおしどり夫婦だった二人だが、夫に殺された瞬間、おはまは夫をとがめながら絶命する。一揆の当事者として成り行きで農民側に加担することになった岩松は、越中から逃げて放浪の旅に出る。おはまが最後に己に向けた視線に常に胸を灼かれながら。

一揆で親を亡くした少年徳助を守るという名分のもと、旅を続ける岩松は椿宗和尚のもとに身を寄せることになる。そこで僧として生きることを決意した二人は、大坂の天王寺にある宝泉寺の見仏上人に修行に出される。そして見仏上人の下で岩仏という僧名を得、修行に明け暮れる。次いで京都の一念寺の蝎誉和尚の下に移り、そこで播隆という僧名を与えられることになる。八年の修行の後、播隆は椿宗和尚の元に戻る。

八年のあいだ、俗世から、おはまの視線から逃れるため、修行に没頭した播隆。皮肉にも修行に逃れようとしたことが播隆に威厳を備えさせてゆく。俗世の浮かれた気分から脱し、信心にすがり孤高の世界に足を踏み入れつつある播隆。だが、一方で播隆を俗世につなぎとめようとする人物も現れる。その人物とは弥三郎。彼はつかず離れず播隆の周りに出没する。一揆の時から播隆 に縁のある弥三郎は、播隆におはまの事を思い出させ、その罪の意識で播隆の心を乱し、女までめとわせようとする。播隆 と弥三郎の関わりは、本書のテーマにもつながる。本書のテーマとは、宗教世界と俗世の関わりだ。

だが、僧の世界にも積極的に俗世と関わり、そこに仏教者として奉仕することで仏業を成そうとする人物もいる。それが播隆 を僧の世界に導いた椿宗和尚だ。椿宗和尚は、播隆こそ笠ヶ岳再興にふさわしい人物と見込んで白羽の矢を立てる。

播隆は期待に応え、笠ヶ岳再興を成し遂げる。しかし、その偉業はかえって播隆 を、事業僧として奔走する椿宗和尚の影響下から遠ざけてゆく。播隆にとっての救いは、笠ヶ岳山頂でみた御来迎の神々しさ。おはまの形をとった 御来迎に恐れおののく播隆 は、おはまの姿に許しを得たい一心で名号を唱える。

再びおはまの姿をとった御来迎に槍ヶ岳の山頂で出会えるかもしれない。その思いにすがるように播隆 は槍ヶ岳開山に向け邁進する。だが、笠ヶ岳再興を遂げたことで弟子入り希望者が引きも切らぬようになる。一緒に大坂に修行に向かった徳助改め徳念もその一人。また、弥三郎は播隆にめとらせようとした女てると所帯を持つことになるが、その双子の片割れおさとを柏巌尼として強引に播隆の弟子にしてしまう。俗世の邪念を捨て一修行僧でありたいと願う播隆に、次々と俗世のしがらみがまとわりついてくる。

皮肉にも槍ヶ岳開山をやり遂げたことで、仏の世界から俗界に近くなってしまう播隆。そんな彼には、地元有力者の子息を弟子にといった依頼もやってくる。徳念だけを唯一の弟子に置き、俗世から距離を置きたがる播隆は、しつこい依頼に諦めて、弟子を取ることになる。さらには槍ヶ岳開山を盤石にするための鎖の寄進を願ったことから、幕府内の権力闘争にも巻き込まれてしまう。それは、犬山城を犬山藩として独立させようと画策する城主成瀬正寿の思惑。播隆の威光と名声は幕政にまで影響を与えるようになったのだ。播隆本人の意思とは反して。

播隆の運命を見ていると、もはや宗教家にとって静謐な修行の場はこの世に存在しないかに見える。それは、宗教がやがて来る開国とその後の文明開化によって大きく揺さぶられる未来への予兆でもある。宗教界も宗教者もさらに追い詰めて行くのだ。宗教はもはや奇跡でも神秘でもない。科学が容赦なく、宗教から神秘のベールをひきはがしてゆく。例えばたまたま播隆の元に訪問し、足のけがを治療する高野長英。彼は蘭学をおさめた学者でもある。長英は播隆に笠ヶ岳で見た御来迎とは、ドイツでブロッケン現象として科学的に解明された現象である事を教えられる。

本書は聖と俗のはざまでもがく仏教が、次第に俗へと追い詰められて行く様を播隆の仏業を通して冷徹に描いている。まな弟子の徳念さえも柏巌尼 との愛欲に負けて播隆のもとを去って行く。1840年、黒船来航を間近にして播隆は入寂する。その臨終の席で弥三郎がおはまの死の真相やおはまが死に臨んで播隆 に向けたとがめる視線の意味を告白する。全てを知らされても、それは意識の境が曖昧になった播隆には届かない。徳念と柏巌尼が出奔し、俗世に堕ちていったことも知らぬまに。西洋文明が仏教をさらに俗世へと落としてゆく20年前。播隆とは、宗教が神秘的であり得た時代の古き宗教者だったのか。

取材ノートより、という題であとがきが付されている。かなりの人物や寺は実在したようだ。しかしおはまの実在をほのめかすような記述は著者の取材ノートには触れられていない。おそらくおはまは著者の創作なのだろう。だが、播隆が実在の人物に即して書かれているかどうかは問題ではない。本書は仏教の堕ちゆく姿が主題なのだから。獣も登らぬ槍ヶ岳すらも人智は克服した。最後の宗教家、播隆自身の手によって。誤解を恐れずいうなら、播隆以降の仏教とは、葬式仏教との言い方がきつければ、哲学と呼ぶべきではないか。

‘2016/11/15-2016/11/19


山で失敗しない10の鉄則


私も不惑の年を過ぎ、アウトドア趣味の一つに、山登りを加えたいと思う。

ここ1、2年ほど滝の魅力に惹かれている。一瞬として同じ姿を見せることのない滝。ただ流れ落ちるだけの様を見ているだけで、1、2時間は優に過ごせてしまう。

もっといろんな滝を巡りたい。滝と対峙し、その飛沫を浴び続けていたい。しかし、滝を味わうためには、まず滝へ向かわねばならない。滝があるのはたいていの場合、山である。滝を極めるにはまず山への畏れを育まねば。車で近くまで乗り付けられる滝ならともかく、ほとんどの滝への行程は険しい。ハイキング気分で行くとトラブルにも巻き込まれかねない。

私にとって滝とは山への誘い水なのだ。文字通りに。滝は脇においたとしても、山登りの爽快感は他に変えがたい。子どもの頃は両親によく六甲に連れられたものだ。金剛山にも何度か登った記憶がある。だが、大人になってからは高尾山が精々。あとは10年ほど前に大学生達と丹沢の二の塔、三の塔を縦走したくらいだろうか。

山登りの経験が乏しい今の私が、千メートル以上の山へ向かうとなると、遭難する危険はかなり高いと云わねばなるまい。そんなわけでたまたま目についた本書を手に取った。

実は本書を手に取る前までは著者のことを全く知らずにいた。が、著者は中高年登山の普及に一役買った著名なクライマーなのだとか。本書はどこかの雑誌の連載を一冊に編んだものらしいが、山への心構え、そろえるべき装備や山での振る舞いなどを分かりやすく記して下さっている。エッセイ風の語り口なので構える必要もなくすらすらと8読み進められる。

しかも勿体ぶることもない。読み始めてすぐの8Pに早速山登り10の鉄則が記されている。このあたりの気前の良さも気持ちよい。

1.家族の理解を得ておく
2.装備と服装を整えておく
3.体力を養成しておく
4.技術を習得しておく
5.知識を蓄えておく
6.計画は万全にしておく
7.いい仲間を育成しておく
8.リーダーシップを発揮する
9.メンバーシップを発揮する
10.山岳保険に加入しておく

実に簡潔な鉄則である。しかし甘く見てはならない。本書の残り200頁あまりでは、この10の鉄則をじっくりと解説してくれる。ところどころには10の鉄則を甘く見たために起こった悲劇のエピソードを挟みながら、頃よく読者の気を引き締める。

用意すべき服装やストック、食糧や水。携帯する地図の見方。本書は私のような山の素人にとって有用な内容に満ちている。本書を読みこんだ後は、いつどこに行くかという決断だけが求められる。そして本書にはいつどこでという情報も懇切丁寧に記されている。春夏秋冬、それぞれの季節ごとの山の姿の紹介がエッセイ風に記され、こちらも力を抜いて読める。また、著者のお気に入り百山を挙げて下さっているが、本書を読む2か月前に読んだ「日本百名山」のような名峰高峰ではなく、素人にも親しめる100メートル級の山から多数紹介されている。ここで紹介されている山々はほとんどが日本百名山に入らない山々であり、まさに私のような初心者にとって行きたくなるような山ばかり。さすがに我が故郷の風景としてお馴染みの甲山や六甲山は入っていなかったが・・・

近々ちょっと行ってこようかな・・・

と、上の文章を書いたのが本書を読んだ直後の去年の7月。それからの私は徐々に山男ぶりを発揮することになる。9月には家族で上高地に行き、二連泊の車中泊を。さらに翌日は山梨から有楽町へ向かい、山登りを趣味とし奈良県山岳会の会員である大学の後輩からさらなる山の素晴らしさを教えられ。今年に入ってからも滝めぐりや山への訪問。さらには妻のご縁でお知り合いになったかたから山登りの会へと招待され、、、、本書を読み終えてから一年。この夏、一山は登りたいと思っている。

‘2015/7/6-2015/7/7


日本百名山


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レジャーに行くなら山と海どっち? よく聞かれる話題だ。しかし、この話題に軽々しく応えてはならない。なぜか。場合によっては、この答えがプライベート上の付き合いを左右しかねないからだ。

大抵、このような質問をする方はどちらかの嗜好に偏っていることが多い。海と山両方が同じぐらい好き、という方にはまだ巡り会ったことがない。この質問に対する答えは、今後のお付き合いに大きく影響すると思っておいたほうがよい。

なので、こういった質問に対して軽い気持ちで答えてはならない。質問してきた方は、一見しただけではそういう拘りを持たない方に思えるかもしれない。でも、皆が皆、(海が好き!)と大きく書かれたTシャツを着ている訳ではない。たとえそう見えなかったとしても海好きの方に軽々しく「あの、、、山が、」と遠慮がちに答える。それだけで、今後の付き合いにわずかな隙間が生じることは保障する。

これが明らかに機嫌を損ねるのならまだいい。しかし、海彦山彦は大抵、大人なのだ。だから始末が悪い。大人は相手の趣味嗜好をきちんと尊重する。相手の嗜好に立ち入らないのが大人の嗜みだから。でも、海好きの相手の場合、相手が山好きであることがわかった場合、表立った非難や不満を一切表さずに、海系のイベントには呼ばれなくなる。逆の場合もまたしかり。残念なことに。

海好きを好きでもない山には呼ばないし、山男を海に連れ出すような無粋な真似は控える。皆、大人だから。大人は相手の趣味嗜好を尊重するからこそ大人なのだ。

さて、本書は山についての名著である。当ブログでこのような本を持ち出すからには、私が山派であることは言うまでもない。

しかし、私は元々は両刀使いであった。海に行けば自らを大いに焼き上げるまで離れない。ビーチバレーにいそしみ、磯に潜ってウニを突き刺し、沖の浮きまで泳がずには気がすまない人だった。かつての私は年中焦げていたので、黒さに関するあだ名には事欠くことがなかった。子供の頃から大学を卒業するまで、兵庫、京都、福井の海に親しむ海人こそが私だった。

しかし、四十歳を迎える頃になって自分の嗜好が山に向いていることを認めねばならなくなった。その自覚は薄っすらと30歳の頃からすでに持っていたのだが、それをはっきり自覚したのが以下に書く出来事だ。

今から、十年近く前、家族ぐるみで付き合っていた方より、船釣りの話を頂いた。早朝、葉山漁港から船に乗り、烏帽子岩を回り込んで、釣りに興じた一日は、実に楽しかった。しかし、その後のどこかのタイミングで、そのお誘い頂いた方は、私に「山と海どっち?」という質問を投げてきた。そして私は正直に「実は山の方が、、、」という回答を返してしまったのだ。嘘が付けない私の過ちであるといえる。結果は冒頭にあげた通りだ。それ以来、釣りにお誘い頂いていない。10年間。

しかし、そうやって応えたことにより、私の意識は山に向いた。元々、幼少の頃より六甲の山々は家族ハイキングの定番コース。冬の金剛山にも連れていかれたこともあるし、冬山はスキーのゲレンデとして何度も登山と下山を繰り返したものだ。つまり山好きになる素地はあったのだろう。

しかし、山を攻略する機会は全く持てていないのが現実だ。そうしている間に不惑の年を迎えてしまった。関東に来てから上った山といえば、精々が高尾山や、丹沢の二の塔、三の塔が関の山。

一方で、不惑の歳になってから、滝の魅力に惹かれるようになった。今では独り、旅先で滝を求めて歩くまでになった。こうやって書いていても滝に行きたくてうずうずする自分がいる。滝の魅力については別にブログに著そうと思っているが、滝の前にいると1時間でも2時間でもいられる自分が不思議だ。なぜ、これほどまでに滝に惹かれるのか、自分でもわからない。

滝を求めて山道を歩くことは、すなわち山登りと一緒。そんな境地に至っている。あちこちの滝を巡るには、その滝を懐に抱える山を極めることと同じ意味。一度山についての本を読んでみようと思った。それならまず、山の名著として不朽の名を背負う本書に手を出してみるのが定石。

さて、前書きが長くなった。前もって断っておくと、私が本書で取り上げられた日本百名山のうち、登頂を果たした山は皆無である。ゼロ。

全く山に関してはハイカーレベルの初心者が私。しかし、本書で取り上げられた山々を称賛する著者の言葉には、心をくすぐられる。著者は実際に百山全ての頂を踏んでいる。説得力が違うし、まだアルピニストやクライマーが珍しい昭和初期から登山に取り組み、山登りがレジャー化する高度経済成長期においては登山に対する識者となった。その立場からの知見、意見が本書には散りばめられている。特に、登る人のまれな孤高の名峰を語る時、著者の筆は実に楽しそうだ。まだ登ったことのない私にも、その魅力は充分に伝わった。

本書を読み、せめて日本二百名山くらいから登ってみようと恋い焦がれる日々を送っている。

先日、とあるご縁から某県の山岳会員の方と飲む機会があった。2016年はその御指導の元、山デビューを果たしたいと思っている。

あとは、残り少ない人生で、どれだけ登れるか。富士山、甲斐駒ヶ岳、曇取山、大山、木曽駒ヶ岳、八ヶ岳あたりは登るまで死ねない。まだまだやりたいことのありすぎる人生。自分の人生を納得して死ぬための目標として、登山は値するのではないかと思っている。決して安い趣味ではないことは承知の上で。

大人として、相手の趣味を尊重することはもちろんだ。だが、その前にまず自分自身が趣味人としてある程度の域まで達しないことには、自分自身も尊重できなくなってしまう。残り何十年の人生で、まずは2016年、一歩を踏み出そうと思う。

‘2015/5/9-2015/5/13