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アクアビット航海記-エンジニアによる発信


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中で、私のキャリア上の転機となってきたのは発信ではないかと思います。

技術者の方はアドボケイターやエバンジェリストという言葉を聞いたことがあるでしょうか。かくいう私もkintoneエバンジェリストという肩書をサイボウズさんからいただいています。

なお、余談ですが私はその時までエバンジェリストの言葉すらよく知りませんでした。引き受けたのはよいのですが、何をすればよいのか全く分かりませんでしたので。

しかも当時私がいた常駐先(某大手信販会社基幹刷新プロジェクトのPMO)は猛烈に忙しく、エバンジェリストの事を何もできずにいました。よく私がクビにならなかったと思います。正直、レアキャラと呼ばれていました。クビ候補筆頭だったはずです。お声がけくださった後、辛抱強く育ててくださったサイボウズ社のうっし~さんには感謝しかありません。

さて、そうしたエバンジェリストやアドボケイターという方が行う発信は確かに発信の見本だと思います。スティーブ・ジョブズが鮮やかに行っていたようなプレゼンテーションなんてできるはずがない。発信なんてしょせん雲の上の人たちがやるもの。そう思っていませんか。全くその必要はありません。

それを以下に書いていこうと思います。

意思を伝えることが発信

まず、発信とは技術者であるあなた自身の意思表明です。例えば、到底一人ではやれるはずのない実装を任されたとします。そこで何も意思を示さず、言われるがままにやらされてしまっていては、自分の心身はむしばまれるばかりです。

きっとあなたはこういうはずです。それは無理です。間に合いません、と。多分大丈夫だと思います。これらも立派な発信です。

もしくはエージェントやチームリーダーからこの案件ができるか、という問い合わせがきた際、あなたは自分のスキルを顧みて、こう答えるはずです。「できます」「楽勝です」「無理です」「鬼畜ですか?」「寝ながらできます」。これも立派な発信です。

まずは自分自身のスキルや状況をはっきりと相手に伝える。発信とはまずここから始まるはずです。

仕事している間はしょせん金を稼ぐ手段と割り切り、ポーカーフェイスで羊の皮をかぶって仕事をする人もいるでしょう。そうした方も、プライベートでは自分を友人や親や配偶者にさらけ出しているはずです。発信とはまず意思の伝達から始まります。

私のキャリアでいうと、まずは学生や若い頃の芦屋市でのアルバイト、派遣社員の日々が相当します。

状況をよくしたいと働きかける発信

自分自身の意思を表示するための発信はほとんどの人にとって当たり前の行為です。ですが、次のステップになると少しだけハードルが上がります。

例えば同じチームで気の合うAさんがやっている作業、見ていてとても非効率的。なんとかしたい。

そのような作業を見かねてアドバイスをしたとします。そしてAさんの業務効率は改善されました。これは立派な発信です。

では、特定のAさんにだけアドバイスをするのではなく、チームのミーティングの場で皆に対して発信することはどうでしょう。チームのメンバーは全員がAさんのように気の合うひとだけではありません。同じようにアドバイスしたつもりが、自分の仕事をけなされたと不快に思う人がでてくるかもしれません。ここから難易度が少しずつ上がっていきます。

この時、気を付けるべきは、相手を否定しないことです。否定せず、相手を認めた上で提案します。自分を振り返ってみてください。自分も完璧ではないですよね。未来も予測できないし、Wikipediaをそらんじて相手を驚かすこともできないはずです。人は完璧ではないのに、相手より絶対に正しいことはないはずです。それを踏まえ、相手を立てながら、改善点を伝えます。これも発信です。

むしろ、上に書いたエバンジェリストやアドボケイターとは、こうした発信をより多くの人にしているだけだともいえます。こうしたほうがよいですよ、楽になりますよ、という。

私のキャリアでいうと、スカパーのカスタマーセンターで働いていた頃、Excelの登録件数を集計する仕組みを改善しようと、マクロを使って効率を上げたことが挙げられます。この時、私はチーム内に自ら提案したように記憶しています。

自分の範囲外に働きかける発信

自分の周りの環境を変えられたら、今度はその範囲を少しずつ広げていきましょう。今の世の中にはありがたいことに発信する手段が無数にあります。ブログやSNSといった。こうした手段を使わないのはもったいない話です。

よく炎上を恐れて発信しないという人がいます。ですが、炎上するには理由があります。火のない所に煙は立たぬ、といいますが、やましくなければ炎上しないのです。

もちろん、著名人や芸能人となると別です。その立場を享受しているだけでうらやましがられ、やっかみの対象に選ばれます。そしていわれのない非難と炎上を招きます。ですが、あなたはまだ著名人でもなければ、有名税を払う必要もありません。

世の中には無数のツイートがあり、無数の動画が流れています。その中であなたが炎上するとしたら、よほど運が悪いか、誰かにちょっかいをかけてしまったかのどちらかだと思います。または明らかに世の中の大多数の動きに逆らった発信をするか。

あなたがどれだけ陰謀論を信じているところで、それは大多数ではありません。コロナワクチンや国葬に反対していても同じ。それはあなたの信条や意見として尊重されるべきですが、それを他人に強制すべきではありません。

もし、大多数の意見ではなくても、状況をよくしたいと働きかける発信をしたい場合は、やり方を考えましょう。その場合も上に書いた通り他人を否定しないことです。まず相手の立場と信条を受け入れ、理解した上で具体的な代案を出すとよいでしょう。

コロナワクチンや国葬に反対していても、それを認めさせたいがために相手を否定すると、炎上の当事者に祭り上げられます。ようはそうした悪目立ちをせずに発信すればよいのです。

私のキャリアにとっては、インターネット黎明期にBBSやメールマガジン、またはICQなどで見知らぬ人と会話していた時期にあたります。私も相手をけなしてしまう失敗をしましたし、自分のされて嫌な思いを味わいました。

人々を巻き込む発信

プレゼンの達人と呼ばれる人々は、プレゼンの結果に拍手をもらえたり、学びになりましたと言ってもらえたりすることをゴールとしていません。

エバンジェリストやアドボケイターも含め、そうした方々は相手が実際に行動に移った時をもってゴールとします。つまり、相手を巻き込んだ時です。

これはなかなか難しい問題です。そもそもプレゼンの成果を知る由はありません。無表情で反応の薄い人があとで行動を起こすこともあれば、コクコクとうなづいていた方が夜の懇親会で昼間の記憶を飛ばすこともあるからです。

どうすれば人を巻き込めるか。それは私にも答えがありません。熱意をこめ、抑揚をつけ、相手の目を見る。そうした技術はいくらでもネットや本にのっています。私も自分のプレゼンがどこまで人を巻き込めているか、まったく手探りのまま登壇しています。

ただ、言えるのは、自分がこうなりたい、こういうあり方が望ましいという信念を誰も傷つけず、それでいて確信を込めて語ることです。

当然、語るにあたっては裏付けとなる実績が要ります。その実績は結果を積み重ねていくしかありません。私も商談で依頼されたことをやった経験がなくてもやれますとハッタリを利かせることもあります。ですが、それらはネットを調べればわかることです。苦しんでも、寝ずに不休でも、やり遂げねば実績はたまりません。

私のキャリアにとっては、kintoneでいくつかの案件をこなし、エバンジェリストに任命され、法人成りを果たしたあたりまで私が人を巻き込むことはできていなかったはずです。

発信すると自分が楽になれます

自分がそうだからわかるのですが、このように順をおって発信することは、かならずあなたのキャリアを助けます。

別にエバンジェリストになる必要はありません。例えば会社勤めであっても、自分の意思を伝え、チーム・会社をよくしたいと発信することは重要です。そしてそれが社外にまで広まった時、転職やヘッドハンティングの対象に選ばれることもあるでしょう。または副業で人を巻き込む仕事をする際に、もしくは近所付き合いの際にイベントを誘う際にも役に立つことでしょう。

結局、発信とは自分を楽にするためにあるのです。発信をためらい、発信を億劫がると、受け身の人生になってしまいます。発信とは自分の人生を能動的に生きるための営みなのですから。

発信すれば、結果はあとからついてきます。結果とは例えば会社内の地位であったり、良き配偶者との出会いだったり。または私のように運よくエバンジェリストとしてお声がかかるかもしれません。もちろん収入にも跳ね返ってきます。

発信とは、誰のためでもありません。自分のためにやるのです。

最初のうちは、発信しても何の反応もないでしょう。でも、反応など気にしてはいけません。いいねがつかなくても、誰かの目に触れる。恥ずかしがらずに発信することは、あなた自身の知見を高め、より熱の入った洗練された内容に磨き上げられていくはずです。3年ぐらい、地道に発信しましょう。やがて、少しずつ反応が増えてゆくはずです。

そうなればこっちのものです。

発信しても否定されないコミュニティがあります

いかがでしょうか。もし、発信という営みに興味が出てきたら、全国津々浦々、どこかでやっている勉強会に出てみることをお勧めします。手練れのエバンジェリストもいれば、まだ発信をし始めた方もいます。

私たちもそうした方を決してけなしません。否定しません。それはもっともやってはいけないことです。私たちはまず誰の発言でも受け入れます。そしてもし改善が必要なら穏やかにそれを伝えます。

実際、私も何度もダメ出しを穏やかに頂いてきましたし、それを受けて自分なりに改善を重ねてきました。もちろん、私などまだまだです。すごい発信者は何人もいますから。私はただ、それを目指して努力するだけです。自分の望む人生に。自分にとって心地よい生き方のために。

まとめ

ここで書いたことがどなたかのご参考になれば幸いです。


本の未来はどうなるか 新しい記憶技術の時代へ


本書が発刊されたのは2000年。ようやくインターネットが社会に認知され始めた頃だ。SNSも黎明期を迎えたばかりで、GAFAMがまだAMでしかなかった頃の話。
ITが日常に不可欠なものになるとは、ごく一部の人しか思っていなかった時代だ。

本書を読んだのは2019年。本書が書かれてから20年近くがたった時期だ。本書を読んでいる今、ITが社会にとって欠かせない存在になっている事は言うまでもない。
情報デトックスという言葉もあるぐらいだ。もしデトックスを行いたい場合、山籠りか無人島で生活するしか手はない。それほど世の中に情報があふれている。
一方で情報があふれすぎているため、情報の発信地だったはずの本屋が次々と潰れている。そして、新刊書籍の発刊も減りつつある。
本を読むには電子書籍を使うことが主流となり、授業はオンラインかタブレットを使うことが当たり前になってきた。

著者はそんな未来を2000年の当時に予測する。そして本という媒体について、本質から考え直そうとする。
それはすなわち、人類の情報処理のあり方に思いをはせる作業でもある。
なので、著者の考察は書籍の本質を考えるところから始まる。書籍が誕生したいきさつと、本来の書籍が備えていた素朴な機能について。
そこから著者はコンピューターの処理と情報処理の本質についての考察を行い、本の将来の姿や、感覚と知覚にデジタルが及ぼす効果まで検討を進める。

本書の記述は広範囲に及び、そのためか少しだけ散漫になっている。
本書の前半は、グーテンベルクによる印刷技術の発明に多くの紙数が割かれている。活版によって同じ内容を刷る技術が発明されたことによって、本が持つ機能は、情報の伝達から消費へと変わっていった。
というのも、グーテンベルクが書物を大量も発行する道を開くまでは、書物とは限られた一部の特権階級の間で伝わるものであり、一般の庶民が本に触れる事はなかったからだ。

それまでの情報とは、人々の五感を通して伝えられるものでしかなかった。わずかに、パピルスや木簡、粘土板、石版に刻まれるメモ程度に使われる情報にすぎなかった。書簡も大量に生み出せないため、人と人の間を行きかう程度で、世にその情報が拡散することはなかった。
その時代、情報とは、人のすぐそばにあるものだった。
情報を欲する人の近くに情報が集まり、人々の脳や感覚に寄り添う。
情報を受ける人間と発信する人間がほぼ一対一の時代。だから、情報が影響を及ぼす範囲とは個人の行動範囲にほぼ等しかった。

ところが、グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、発信した本人から空間、時間、時代を超えて情報が独り歩きする道を作った。個人の行動範囲を超えて情報が発信できるようになったこと。それこそがそれまでの情報媒体とは圧倒的に違う点だ。
そして、独り歩きするようになったことで、それまでの一対一でやり取りされた書簡が、一対多で広がっていった。

それによって、当時の人々は知識を大量に取り込むことが可能になった。
当時の有名な書物の印刷部数は、実は現代の一般的な書物の部数と比べて遜色がなく、むしろ多かったという。人々が競って書物を求めたからだろう。
今の私たちの感覚では、現代の書籍の出版部数の方が当時よりも多いと思ってしまう。だが、そうではなかったのだ。これは本書を読んで知った驚きだ。
要するに、今のベストセラーを除いたおびただしい数の書物は、お互いの出版部数を共食いしているのだ。

それはつまり、出版部数には一定の上限があることを意味している。出版業界が好況を呈していた三十年ほど前の状況こそが幻想にすぎなかったのだ。
情報技術が書籍を衰退させたのではなく、もともと書籍の出版部数には限界があった。このことは本書の指摘の中でも特筆すべき点だと思う。

さまざまな本が無数に発行される事は、情報の氾濫に等しい。しかもその氾濫は、真に情報を求める人が必要な時に必要な情報を得られない事態にもつながる。
すでに20世紀中頃、そうした情報の氾濫や埋没を予測していた人物がいる。アメリカの原子力開発で著名なヴァニーヴァー・ブッシュだ。
ブッシュは適切な情報処理の機器としてメメックスを考案した。本書にはメメックスの仕組みが詳細に紹介されている。そのアイディアの多くは、現代のスマホやタブレットPCが実現している。インターネットもブッシュのアイデアの流れを汲んでいる。

情報処理とは、つまりインプットの在り方でもある。この文章を私は今、iPadに対し声で入力している。それと同じアイデアを、当時のブッシュはヴォコーダという概念ですでに挙げていた。まさに先見の明を持った人物だったのだろう。

他にも、ウェブカメラやハイパーリンクの仕組みさえもプッシュの頭の中にアイデアとしてあったようだ。
通説ではインターネットやハイパーリンクのアイディアは、1960年代に生まれたという。ところが、本書によればブッシュはさらに遡ること10数年前にそうしたアイデアを温めていたという。

続いて著者は、ハイパーリンクについて語っていく。
そもそも本とは、ページを最初から最後のページまでを順に読み進めるのがセオリーだ。私自身も、そうした読み方しか出来ない。
だが、ハイパーリンクだと分の途中からリンクによって別のページと情報を参照することができる。Wikipediaがいい例だ。
そうした読み方の場合、順番の概念は不要になる。そこに、情報の考え方の転換が起きると著者はいう。つまり、パラダイムシフトだ。
もっとも私の知る限りだと、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』は、各章を順番を問わず行き来するタイプの小説だったと思う。ちょうど、後にはやったゲームブックのように。
その形態がなぜ主流にならなかったのかは考える必要がありそうだ。

情報を断片に分け、その一部だけを得るという考えが、書籍のあり方に一石を投じる。そのような著者の主張にはうなずけるだけの説得力がある。
本を一冊まるまる読む必要もないし、本を最初から順に読む必要もない。
その考えを突き詰めると、本を買うには必要な部分だけでよい、という考えにもつながる。
それは、今の本の流通のあり方そのものに対して変革を促す、と著者は予測する。事実、今はその変革が起こっている最中だろう。まずはWikipediaによって。おそらく著者の分析と予測はあながち間違っていないと思う。

また本書では、タイムマシン・コンピューティングと言う考え方を紹介する。
それは、同じ場所に対して時間による動画や画像の記録を行うことにより、同じ場所にいながら時代を自在に行き来できる概念だ。
私が知る限り、このアイデアは現実の生活では広まっていないと思う。実際の生活で活用できるシーンがないからだろう。
おそらくそうした概念が真に世の中に受け入れられるとすれば、VRが普及した時だろう。だが、今のVRはまだ人間の五感を完全に再現できず、脳内の認識とも調和しきれていないと思っている。私も既に経験済みなだけに。

本書は、監視カメラやオーウェルが描いた監視社会についても触れている。また、別のページでは電子ペーパーや電子書籍の考えを説明し、今後はどのようなハードウエアがそうした情報機器を実現するかという論点でも考察を重ねる。
ところが、電子ペーパー自体は現代でもまだ広まっているとはいえない。それは、電子ペーパーのコストが問題になるからだ。
そもそもアプリやウェブページの技術が進んだ今、電子ペーパーがなくとも、端末1つで次々とページを切り替えられる。
だから、電子ペーパーの意味はないという著者の指摘は的を射ていると思う。
デジタル・サイネージは最近街角でもよく見るようになってきた。だが、そうした媒体も、よく見るとスマホやタブレットの延長に過ぎない。電子ペーパーである意味はあまりないのだ。
電子ペーパーを代替するデバイスは、Kindleやkoboやスマホやタブレットが実現したため、電子ペーパーという考え方はまだ時期尚早なのだろう。
その事を本書は20年近くも前に唱えていた。

本書は、感覚そのものをデジタルに変えられないかという取り組みも紹介している。
そして、そうした先進的な取り組みの成果を私たちは、生活の中で目にしている。ウエアラブル・コンピューターについても本書は紹介を怠っていない。感覚もデジタルとして受発信できる機器が、今後はますます登場することだろう。

本書の後半は、本そのものよりも情報を扱うメディアの考察に費やされている。
おそらく今後、本が情報処理や娯楽の主役に返り咲く事はほぼないだろう。それどころか、紙で書かれた本自体、図書館でしかお目にかかれなくなるに違いない。
ただ、情報を保存する媒体は何かしら残るはずだ。それがタブレットなのかスマホなのか、それとも人体のアタッチメントとして取り付けられる記憶媒体なのか。私にはわからない。

だが、情報媒体は、人の記憶そのものを保管する媒体として、近い将来、さらに革新的な変化を遂げることだろう。そして、私たちを驚かせてくれるに違いない。

20年前に出された本書であるが、鋭い視点は今もまだ古びていない。

‘2019/7/10-2019/7/21


王とサーカス


当ブログで著者の作品を扱うのは、本作が四作品目となる。二番目に読んだ『さよなら妖精』は、ユーゴスラビアからきた少女マーヤの物語だった。語学留学で日本にやって来たマーヤが日本の文化に触れ、クラスの皆と交流を深める様子を描いた一編だった。とても幻想的で余韻の残る一編だ。皆に鮮烈な印象を与え、帰国していったマーヤ。その後も彼女を手助けしようと試みる主人公。それに対し、全ての事情を知ったうえで手助けをやめたほうがよいと助言する少女。その少女こそが、本作の主人公太刀洗万智だ。あとがきによると、太刀洗万智は著者の他の作品には登場していないそうだ。つまり、本書が二度目の登場ということ。

なお、本書の中に『さよなら妖精』を思い起こさせる描写はほぼ登場しない。57ページと133ページにそれがほのめかされてはいるが、『さよなら妖精』を読んでいない読者には全く意味をなさないはずだ。本書は安易な続編とは一線を画している。あとがきでも著者は『さよなら妖精』を読んでいなくてもよい、と述べている。

高校三年生だった万智を、10年以上の年月をへて著者の作品に再登板させた理由は何か。それはおそらく、二つの作品に共通するテーマがあるからだろう。そのテーマとは、日本から見た外国、外国から見た日本。そして著者にとってそのテーマを託せるのが、自らが創造した太刀洗万智だったという事だろう。『さよなら妖精』で彼女が得た経験の重みの大きさを物語っている。一人の女性が見聞きする外国と、彼女が知る外国から見た日本。それが本書にも、大きなテーマとして流れている。

日本から見た外国は、外国から見た日本とどう違うのか。一対一の関係でありながら、その伝わり方は全く違う。相手が遠く離れているうえに、間に挟むジャーナリストの紹介の仕方にも左右されるからだ。旅人が外国で受け取る印象はリアルだ。それでいて、現地の人でなければわからないこともある。しょせん旅人であるうちは表面的な理解しかできない。ましてや現地の人が行ったことのない日本に対して持つ知識など、さらに実態からかけ離れているに違いない。

本来、それを仲立ちするのはマスメディアによる報道だ。つまりジャーナリズム。見たことも行ったこともない異国を理解するには、ジャーナリストの力を借りなければならない。ジャーナリストは自国の情報を携えたまま、異国で情報を収集する。それは個人が内面で受け取るやり方に依存する。そして、そのジャーナリストが書いた記事は、マスメディアに乗る。不特定多数の読者に対して一方向でまとめて発信される。そこには一対一の関係はない。不特定多数の読者が記事をどう読むかはまちまちなので、さらに一対一の関係とは程遠い情報の伝達がされる。だからジャーナリストは、大勢の受けてに等しく伝わるような発信の仕方を心がけるのだ。

本書が追求するのはジャーナリストのあり方だ。ジャーナリストとは何を伝えるべきなのか、もしくは何を伝えてはならないのか。記事の中で取り上げられる取材対象の意図をどこまで汲み取るべきなのか。そのような心構えは駆け出しのジャーナリストなら誰もが叩き込まれているはず。ただし今ではそうした心得も怪しくなってきた。1980年代に写真週刊誌が行き過ぎた取材をしたことによって、ジャーナリストが持つべき心構えがそもそも受け継がれていない、という疑問が世間に生じ始めたからだ。さらにインターネットによって情報の流通のあり方が変わった。今は素人のジャーナリストがSNS界隈に無数に湧いている。そしてはびこっている。もはやジャーナリズムとは有名無実に成り果てているのだ。ジャーナリストの心構えを遵守するのがプロのジャーナリストだけであったとしても、世にあふれるツイートやウォールや記事の前ではジャーナリズムなどないに等しい。

女子高生が自分の自殺をツイキャスで放映したり、自殺原場で居合わせた人がその様子をカメラに収める。そしてそれをネット上に流す。今は素人でも即席のジャーナリストになれる時代。その流れは誰にも止められない。

だからといって、ジャーナリズムのあり方をこのまま貶めておいて良いのだろうか。誰もがジャーナリストになれる時代の宿命として諦めたほうがよいのか。いや、報道のあり方と、ジャーナリストとしての心構えが有効であることに変わりはないはず。報道する側と報道される側。その構図は、文明が違っても、技術が進んでも変わらないはずだから。

著者が本書を著したのも、あとがきで少し触れているとおり、知る欲求についてひっかかりを覚えたからだという。つまり、ジャーナリズムについて思うところがあったからだろう。著者はその舞台としてネパールを選んだ。ネパールとは中印国境に位置する国だ。歴史的にも中国とインドの緩衝国としての役割を担っており、今もその影響で軋轢が絶えない。近くのブータンが国民総幸福量という政府による独自の指標を発表しているのとは大違いだ。ネパールの物騒な情勢を象徴する事件。それこそが、本書で取り上げられるネパール王族殺害事件だ。国王夫妻や皇太子を始め、十名もの王族が殺害された事件。公式には、結婚に反対された皇太子が 泥酔して銃を乱射し、挙句の果てに自殺したことになっている。しかし、陰謀説がまことしやかにささやかれているのも事実だ。それはネパールが引き受けて来た緩衝国としての葛藤と無関係ではない。

太刀洗万智はフリーのジャーナリストとして、アジア旅行の特集を取材するためにネパールへとやってきた。そして、ネパールの激動に遭遇する。王族がほぼ殺される。その事件がネパールに与えた影響の大きさは、日本で同じようなことが起こったと仮定するだけで想像できるだろう。宮殿前広場に群がり、怒号をあげる群衆たち。ネパール全体が動揺し、不穏な空気に包まれる中、太刀洗万智は一連の出来事をフリーのジャーナリストとして報道しなければならないとの使命感に囚われる。

彼女はネパールをさまよう中、少しずつ人脈を増やす。その中で得た一つのつてがラジェスワル准尉にたどり着く。ラジェスワルは惨劇の当日、王宮で警備についていた。つまり事件を目撃した可能性が高い。だが、会ったラジェスワルからは、にべもなく拒絶される。そればかりか、ジャーナリストとしての存在意義をラジェスワルから問われる。彼はこう語る。「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。意表を衝くようなものであれば、なお申し分ない。恐ろしい映像を見たり、記事を読んだりした者は言うだろう。考えさせられた、と。そういう娯楽なのだ。それがわかっていたのに、私は既に過ちを犯した。繰り返しはしない」(p175-176)。彼女はそれを突きつけられ、何も言い返せない。ラジェスワルの「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」(P176)「だが私は、この国をサーカスにするつもりはないのだ。もう二度と」(P177)という言葉が彼から発せられた止めとなる。

このラジェスワルのセリフが本書のタイトルに対応していることは言うまでもない。このやり取りこそ、本書の肝となっている。

しかし、太刀洗万智がラジェスワルに答えを述べる機会は失われる。ラジェスワルが死体で発見されたからだ。彼女はその死体も目撃する。死体に「INFORMER」と刻まれた死体。つまり密告者。隠密裏に会っていたはずなのにラジェスワルは密告者として殺されたのだ。彼女もラジェスワル殺害の関係者として、取調を受ける。

ネパールに居合わせたジャーナリストとしてルポルタージュの依頼を受けた太刀洗万智は、ラジェスワルの死の謎を解きながら、ジャーナリストとしての在り方を見いだそうと苦悩する。苦悩しつつ、取材を続ける。

彼女は結局、ジャーナリストとしての自らをもう一度見つけ出す。本書の謎解きにはあまり関係ないので書いてしまうと「「ここがどういう場所なのか、わたしがいるのはどういう場所なのか、明らかにしたい」BBCが伝え、CNNが伝え、NHKが伝えてなお、わたしが書く意味はそこにある。」(403P)という結論を得る。

そして、彼女はラジェスワルの死体に刻まれたINFORMERという文字は記事にも起こさず、撮った写真も載せない。それは彼女がラジェスワルから学んだジャーナリストとしてのあり方に背くからだ。伝えることと伝えるべきことに一線を引く。それは伝える側にあるものとして最低限守るべき矜持。

あとがきで著者は、私たちが毎日むさぼっている「知るという快楽」への小さな引っかかりについて書いている。まさにそうだ。本書が教えてくれるのは、知ることへの問いかけ。情報が氾濫している今、知る快楽は無尽蔵に満たせる。そしてそこから得た気づきや考えを披露したいという欲求。それを満たす場も機会もありあまるほど与えられている。私もそう。知識をむさぼることに中毒になっている。日夜を問わず常に情報を得ていないと、落ち着かない。本は二、三冊携帯していることは当たり前。それに加えてパソコン、スマホ、タブレットも持ち歩いている。知識をため込みつつ、日々のネタをSNSに発信している。にわかのジャーナリストこそ、私だ。

私は多分、これからも情報に囲まれ、情報を咀嚼し、情報を発信しながら生きていくことだろう。それはもう私の性分であり病だ。死ぬまで止められそうにない。だからこそ、発信すべき情報については、気をつけねばならないと思う。SNSを始めた当初から、発信する情報は他人に迷惑をかけないよう絞ってきたつもりだ。だが、これからもそうでありたい。そして素人ではあるけれど、プロのジャーナリストと同じく自分が書いたものには責任を持つ。そのために実名発信を貫くことも曲げない。にわかのジャーナリストであっても、すたれつつあるジャーナリズムをほんの一部でも伝えていきたいし、そうできれば本望だ。

著者がミステリーの分野で有名だから、本書もきっとエンターテインメントのカテゴリで読まれることだろう。だが、本書がそのために遠ざけられるとしたら惜しい。本書が問いかけるテーマとはより広く、もっと深い奥行きを持っているのだから。何らかの発信を行っている人にとって、本書から得られるものは多いはず。

‘2017/10/09-2017/10/16


苦役列車


マスコミへの露出を厭わない作家は多い。さしずめ著者などは最近のマスコミの寵児といえよう。テレビをほとんど見ない私ですら、何度かテレビ出演している著者を見掛けたくらいなのだから。

作家がテレビ出演することには私は全く抵抗がない。私が作家を判断する基準は発表された文章がすべてだ。テレビに出ようが何をしようが、作品が面白ければそれでいい。ましてやテレビ出演によって小説やエッセイのネタが広がり、面白くなるのなら大歓迎だ。著者のような私小説作家にとってはなおのことテレビ出演が作品に反映されることだろう。

それにしても私小説だ。ブログ全盛の、一億総私小説作家状態ともいえる昨今の世間。そのなかで著者は私小説を作風として勝負している。それはたいしたものだと思う。

誰もが自分の回りの出来事を呟き、語り、詠み、撮影する。そして無償で発表する。もちろん私もその一人だ。

あふれるばかりの素人私小説作家がネット上で切磋琢磨する中で、著者の日常を描いたブログは商業誌に文章が掲載されている。そればかりか本書は芥川賞を受賞した。凡百の私小説ブログに比べて本書は何が凄いのか。私自身そのことに興味があった。今まで読んだことのなかった著者の作品を手に取ったのは、そういうわけだ。

本書を読み終えて思うのは、本書はブログではなく確かに私小説だということだ。また、ここまで書いて初めてブログは私小説と呼ばれるのだ、という気づきだ。

まずは表題作。舞台は昭和、バブル真っ只中の時期だ。19歳の主人公が漂うようなその日暮らしを送っている。日当人夫として都内各所の倉庫に派遣される日々。疲れはてた後は苦役電車に乗って帰り、夕食を掻きこむように食べる。そして安酒をあおればその日の稼ぎが消える。そんな日々。恋人はもちろん、友すら出来ぬまま孤立に慣れきった日々。抜け出そうにも切っ掛けがつかめぬまま、時だけが過ぎて行く。そんな焦りを著者は自分のこととして赤裸々に語る。

その日の糧を得るためだけの成長もやり甲斐もない仕事の日々。金の貯まらぬ泥沼のような仕事。希望の持てない彼の日々は終わりの見えぬまま続いて行く。なのに周りの連中はバブルにうかれ、華やかに浮世をわたって楽しんでいる。著者が過ごす生活は、華やかな時代の陰にあって街を歩く人々の眼中には入らなかったことだろう。バブル期を舞台とする本書だが、実はその時代の人々より今の時代の人々にこそ理解されるのではないか。ニートや非正規職員の割合が過半数に近付く今、閉塞感や先細り感は今の方が強い。だが、本書で書かれた主人公の境遇に共感できる人の数は、むしろ現代の方が多い気がする。

だが、本書の世界観は、現代の若者には決して理解できない気がする。それはサイバースペースの有無だ。本書の時代、自分自身を外の世界に発信するためには、友人や仲間との交流がないと難しかった。友人や仲間との交流が希薄で、酒か風俗に逃げるしか無為な時間を潰し術がない主人公の焦りや閉塞感は、今の若者には理解されないだろう。今の時代、スマホさえもっていれば時間潰しの手段には事欠かない。発信手段も匿名に逃げれば何だって書き放題だ。

そういう環境を当たり前に享受している今の若者には、主人公の抱える屈託はおそらく理解できないはずだ。

そしてその事は、私小説ブログ全盛の今にあって本書が商業誌で評価される理由となるのではないか。

同じ時代に合わせた私小説ではなく、時代を遡った私小説。それは、もはや今の読者にとって私小説ではない。昭和末期を描いた時代小説と言ってしまって良いのかもしれない。

では、著者が昭和ではなく今を描いたらどういう私小説になるのか。その答えこそが本書の二編目に収められた「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」だ。

本編は現代が舞台だ。前編にあたる「苦役列車」の主人公=著者の今を描いている。昭和に遡った前編とは違い、今の主人公=著者を赤裸々に描いたこちらこそ私小説と呼んでもよいのではないか。

では「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」は凡百の私小説ブログとどうちがうのか。

それは自己開示の深さの違いではないかと思う。凡百の私小説ブログは、どうしたこうしたそう思ったで止まっている。いってみれば現在を過ごし、それを報告するだけのレベルだ。こうしたいああしたいなぜできない、と次の展開へと進むことはほぼない。あるとすれば自他啓発的な内容である事がほとんどだ。

「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」の全編に満ちているのは、こうしたいああしたいなぜできないという主人公=著者の羨望だ。そこから先に改善案や希望が述べられるわけでもない。書かれているのは言ってみれば著者の日常の確認と報告にすぎない。しかし、その日常は恥も外聞もかなぐり捨てた赤裸々な羨望に満ちている。ここまで堂々とあからさまに著者の日常や羨みを開示されると、それは立派な文学に昇華するのだろう。

おおかたのブログやSNSの投稿は、ここまで明からさまに自己は開示しない。私だってそう。私は実名投稿を旨としているし、一つのジャンルに偏った内容にならぬよう心掛けている。だが、ある程度プライバシーには配慮しているつもりだ。なので、本書の突き抜けた開けっ広げ感には到底及ぶところではない。著者の書きっぷりは個人情報保護のせせこましさを突き抜けた境地にある。その突破感が本書を商業ベースに乗る作品として成立させているのではないだろうか。

冒頭で著者をよくテレビで見かけると書いた。テレビに出演する営みとは、著者にとっては小説で自己を開示するのとあまり変わらないことのようだ。そして、ここまで情報化が進んだ今、自分が発信する情報の管理が求められていくことだろう。テレビの世界で自己を発信する著者は、その状況をどのように私小説として開示していくのだろう。そんな著者の私小説は読んでみたい気がする。

‘2016/03/16-2016/03/17