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翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて


何も考えずに笑える映画が見たい。
そんな妻の希望に応えて観てきた。

本作は『翔んで埼玉』の続編だ。私は『翔んで埼玉』を家族と一緒にテレビで見たことがある。
虐げられる埼玉と支配する東京、そして周囲に蟠踞する県の関係はとても斬新だった。いわば、県民ショーのようなアプローチだ。
旅を愛する私としては楽しめた。

本作は何も考えずに楽しむべき映画なので、レビューなど無粋な営みは本作にはむしろ邪魔だと思う。本来ならばこの記事を書く必要もない。
だが、私にとって本稿は観劇記録を残すための場である。そのため、あまり堅苦しい内容にならないように書き残しておく。

本作は近畿を舞台にしている。
前作で舞台となった埼玉や東京や千葉や神奈川は本作にはほとんど登場しない。

では「翔んで埼玉」なのにどう翔べば舞台が近畿になるのだろうか。

前作も含めて「翔んで埼玉」で描かれる世界は、私たちの住む日本とは別の世界、別の時間線からなっている。
それでいながら、この後で例を挙げる通り、私たちがよく知る地形や建物、ランドマークや文化風土が登場するのが本作の面白さだ。むしろ、ずれていることに面白さがある。

近畿に無理やりつなげる話の流れは、埼玉から東京に伸びる六路線の争いを発端とする。
東武、JR、西武は東京に進出することだけに血道をあげ、埼玉を横につなげようとする構想には目もくれない。バラバラの埼玉を一つにまとめるため、主人公の麻実麗は越谷に海を作ろうとする。そこで和歌山の白浜まで行くことから本作の物語は動き出す。

そもそも、埼玉に武蔵野線を作りたいとの切実な願いがすでに現実世界を無視している。現実に存在する武蔵野線の存在は本作では当然のように無視されている。そこにツッコミを入れてはいけないのだ。

そして、一行が訪れた近畿のあちこちは、かなり異様な場所に変えられている。
アホらしくてなんぼの本作ではあるが、元関西民の私から見ても、そのくだらなさとぶっとび具合は何度も声を出して笑わされた。

たとえば、片岡愛之助さんが演ずる大阪府知事は冷酷かつド派手。隈取りのようなメイクがまた憎々しさを醸し出している。通天閣のふもとの新世界あたりに登場する知事の背後には通天閣がそびえ、周りを親衛隊のような連中が囲む。当然その親衛隊が身を包むユニフォームは黄色の縦縞。まさにタイガースのイメージそのものである。
このような吹っ切れた戯画感は本作の面白さに確かに貢献している。忖度無用でガンガン突っ込んだ笑いがいい。滑ろうが受けようがお構いなし。関西を知らない方にとっては本作は面白みを感じにくいかもしれないけど、それも気にしない製作陣のすがすがしさが素敵だ。だからこそ、私たちも面白さを感じて大笑いする。

極め付けは、大阪府知事に逆らったものはすべて甲子園の地下に放り込まれる設定だ。
甲子園出身の私としては、地元をおちょくりおってという苛立ちより前に、甲子園の地下を巨大な労働収奪の地獄に変えてしまう発想に笑うしかなかった。
「甲子園へ放り込んだれ〜!」と吠える大阪府知事の台詞回しは流石の一言。

海外のヒーロー物の映画にもこのような地下牢獄(『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のような)が出てくるが、監督の年齢はひょっとして私と同年代ではなかろうか、と思わせられた。
そこで働く労働者の姿は、完全にチャーリーとチョコレート工場に登場する映像そのものであり、ウンパルンパそのものを堂々とパクり、完全に確信犯として笑いをとりに来ている。

私の故郷兵庫ですらも、芦屋とそれ以外の街の間といった具合に分けられている。
それでいながら藤原紀香さん演じる市長は神戸なんやからようわからん。
そうした思い切った区分けの仕方が本作の良さだ。

裏で何を考えているかわからない京都人のことも揶揄されている。そこに登場する山村紅葉さんの強烈な存在感は、神戸市長と不倫している設定の川崎真世さん扮する京都市長すら凌駕してしまっていた。
その一方で、大阪や兵庫に比べると印象の薄い和歌山と奈良の気の毒なこと。例えば一行が最初に訪れた和歌山など、白浜を除けばパンダしか出てこない。奈良も鹿とわずかな出番のせんとくん以外はスルーされている。うーん。

和歌山や奈良をさしおいて、本書のサブタイトルに祭り上げられている琵琶湖。
だが、かつて甲子園に住んでいた私にとって、琵琶湖や滋賀のイメージは実はそれほど強くなかった。たとえ琵琶湖が近畿の水がめであり、淀川を通じて琵琶湖から水の恩恵を受けていたにもかかわらず。

そのような各県のあいだの歪んだ距離感も本作に描かれる面白さだ。
本作の中では、琵琶湖のすぐそばに甲子園があるような感じで描かれている。だが、電車でもこの距離は近くはない。むしろ小旅行ですらある。
そもそも、甲子園が大阪の牢獄と言う時点でもう時空が歪みまくっている。

本作には最新の近畿の名所が登場しない。肩で風を切って歩いているはずの「あべのハルカス」や「空中庭園」も出てこない。「USJ」も全くと言ってもいいほど登場しない。
そのかわりに本作に登場している近畿って、一昔前の近畿ちゃうの?
監督の世代ってひょっとして私と同じ位で、しかも若い時期に上京したんと違う?と思いたくなった。知らんけど。

東京の誰かが関西に抱いているなんとなくの知識の断片をさらに拡大すると、本作で描かれたような感じに戯画化されるんやろか。

これは元関西人としてはとても気になる視点だ。
なるほど、私が上京した当時もそういうふうに思われていたんやろか、と。
この視点は、もう少し視野を広げれば外国の方が日本に対して思うステレオタイプなイメージにも通ずるのかもしれない。例えば、ハラキリ、カロウシ、ゲイシャ、スシ、ポケモンのような。

本作を見ていると、自分の中の故郷への視点と、世間の人、特に関東の人が近畿に対して抱くイメージのどちらが正しいのか、自信を無くす。

実は旅をしない一般の方にとって、近畿のイメージとは、古い情報からアップデートされていないのだろうか。インターネットが情報を簡単に提供する今の時代にもかかわらず。

そうした困惑を私に引き起こす本作。そうした認識のずれも含めて記憶に残る映画だった。

‘2023/12/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


甲子園 歴史を変えた9試合


そろそろ夏の甲子園が始まる。本稿は百回記念大会が始まる前日に書き始め、百一回大会が始まる前日にアップした。

私の実家は甲子園球場に近い。なので、甲子園球場には幼い頃からなじみがある。長い夏休みを持て余す小学生には、高校野球の開催中の外野スタンド席は絶好の暇つぶしの場だった。最近でこそ有料になったと聞くが、私が子供の頃の外野席は無料だった。私の場合、外野スタンド席だけでなく、アルプススタンドにも無料で入ったことがある。長野高校の応援団にスカウトされ、応援団の頭数に入れられたのだ。全く縁のない選手たちに声援を送った経験はいまだに得難い経験だったと思っている。

また、私は甲子園球場のグラウンドにも入った。西宮市の小・中学生は、もれなく甲子園球場のグラウンドに入る機会が与えられるのだ。西宮市小学校連合体育大会、西宮市中学校連合体育大会は毎年行われ、グラウンドで体操やリレーを披露する。いや応なしに。私は都合四回、グラウンドで体操を披露したはずだ。

実際の選手たちが試合を行うグラウンド。そこに入り、広大な甲子園球場を見回す経験は格別だ。西宮市民の特権。私は初めて甲子園球場の中に入った時、高校野球の試合は何試合も見た経験があった。数え切れないほど。その中には球史でたびたび言及される有名な試合もある。

そうした経験は、私に甲子園に対する人一倍強い思いを持たせた。西宮市立図書館には野球史に関する本がたくさん並んでおり、子供の私は球史についての大人向けの本を何冊も読んだ。プロ野球史、高校野球史。だから、大正時代の名選手や昭和初期の名勝負。甲子園の歴史を彩る試合の数々は、私にとって子供の頃からの憧れの対象だ。

本書は、そんな私にとって久々の甲子園に関する本だ。内容はいわゆるスポーツ・ノンフィクション。雑誌の「Sports Graphice Number」で知られるような硬派な筆致で占められている。本書の発行元は小学館。Numberのようなスポーツ・ノンフィクションを出している印象はなかった。だから、こういう書籍が小学館から出されていることに少し意外な思いがあった。

だが、本書の内容はとてもしっかりしている。むしろ素晴らしいと言っても良い。本書は全部で9章からなっている。それぞれの章はそれぞれ違う執筆者によって書かれている。各章の末尾には執筆者の経歴が載っているが、私は誰も知らなかった。だが、誰が執筆しようと、内容が良ければ全く気にしない。

本書の各章で取り上げられる試合は、どれもが球史に残っている。

まず冒頭に取り上げられているのが、ハンカチ王子こと斉藤投手とマー君こと田中投手が決勝でぶつかった名試合。平成18年の夏、決勝。早稲田実業vs駒大苫小牧の試合だ。決勝再試合が行われたことでも知られている。この両試合をハンカチ王子は一人で投げぬいた。マー君は両試合ともリリーフの助けを借りたが、ハンカチ王子は一人でマウンドを守り、優勝を果たした。本編はハンカチ王子の力の源泉があるのかを解き明かしている。

本編にはハンカチ王子が鍼治療を受けていたことが描かれる。私はそのことを本書を読むまで知らなかった。プロに入った後、斎藤投手は今も鍼治療を受けているのだろうか。甲子園で名声を高めた斎藤投手のその後を知っているだけに、そのことが気になる。

本書は2007年に初版が出ている。当然、その後の両投手については何も書かれていない。マー君がニューヨーク・ヤンキースでローテーションの一員として活躍していること、ハンカチ王子が日本ハムに入団するも、芽が出ずに苦しんでいることも。

続いて描かれるのは、平成10年夏の決勝だ。横浜vs京都成章の試合。横浜の松坂投手が決勝でノーヒットノーランを59年ぶりに成し遂げたことで知られる。

本書が出版された後の松坂投手も浮き沈みのある野球人生を歩んでいる。西武ライオンズからレッドソックスに移籍し、ワールドシリーズでも優勝を果たした。ところが、日本に戻ってからはソフトバンクで三年間、一度も一軍で勝ち星を挙げられず、その翌年に拾われた中日ドラゴンズで復活を遂げた。本書ではレッドソックスに入団したところまでが書かれている。松坂投手の選手生活の成功を誰もが疑わなかった時期に描かれているからこそ、今、本編を読むと感慨が増す。

ところが本編の主役は京都成章の選手たちだ。決勝でノーヒットノーランを許してしまった男たちのその後の人生模様。これがまた面白い。それぞれが松坂投手のような有名人はない。だが、有名でなくても、人にはそれぞれドラマがある。どんな人の一生も一冊の小説になり得る。本編はそれをまさに思わせる内容だ。社会人野球、整体師、スポーツ関係のビジネスマン。高校時代の努力と思い出を糧に人生を生き抜く人々の実録。私がついに無縁のまま大人になり、今となっては永遠に得られない高校時代の死に物狂いの努力。だからこそ今、京都成章の選手たちに限らず、全ての球児がうらやましく思える。

続いては昭和59年夏の決勝。取手二vsPL学園。
わたしはこの試合、球場に観に行ったのか、それとも家で観戦したのか覚えていない。記憶はあいまいだ。わたしが最も甲子園観戦に熱中した時期は、この試合も含めたKKコンビの活躍した三年間に重なるというのに。PLがこの試合で負けた事は覚えている。この年の選抜も岩倉高校に負けたPL学園。だが、わたしの中ではこの時期のPL学園こそが歴代の最強チームだ。

それは、自分が最も高校野球にはまっていた時期に強さを見せつけたチームだから、ということもある。私がPL学園の打棒を目の当たりにしたのは、この翌年。昭和60年夏の二回戦の事だ。東海大山形を相手に29-7で打ちまくった試合だ。この試合、私は弟と外野スタンドで観ていた。そしてあまりの暑さに体調を崩しかけ、最後まで観ずに帰った。だが、打ちまくるPL学園の強さは今も私の印象に強く残っている。

その試合から30年ほどたったある日、私は桑田選手の講演を聞く機会があった。娘たちの小学校に桑田投手が講演に来てくれたのだ。巨人と西武に別れたKKコンビ。かたや巨人でケガに苦しんだ後、復活を遂げ、大リーグ挑戦まで果たした。かたや引退後、覚醒剤に手を出し、苦しい日々を送っている。清原選手については以前、ブログにも書いた。29-7で勝った試合では清原選手がマウンドに立つ姿まで見た。PL学園とはそれほどのチームだった。ところが今や野球部は廃部になっている。過ぎ去った月日を感じさせる思いだ。

昭和57年夏の準々決勝。池田vs早稲田実業。
私の中でPL学園がヒーローになった瞬間。それは池田高校を昭和58年夏の準決勝で破った時からだ。その大会でPLが打ち負かした池田高校は、私の中で大いなる悪役だった。なぜ池田高校が悪役になったか。それは、本章に書かれた通り。大ちゃんこと荒木投手を無慈悲なまでに滅多打ちにした打棒。それは、幼い私の心に池田高校=悪役と刻印を押すに十分だった。

アイドルとして甲子園を騒がした荒木投手のことは、幼い私もすでに知っていた。荒木投手のファンではなかったが、あれだけ騒がれれば意識しないほうが変だ。ちなみに私が初めて甲子園を意識したのはその前年のこと。地元の西宮から金村投手を擁して夏を制した報徳学園の活躍だ。この時、すでに荒木投手は二年生。この頃の甲子園は。毎年のように話題となる選手が私を惹きつけた。良き時代だ。

本編では早実と池田の数名の選手のその後も描いている。あの当時の早稲田実業、池田、PLの選手は、九人の皆が有名人だったといえる。だからこそ、その後の人生で良いことも悪いこともあったに違いない。著者は有名だからこそ被ったそれぞれの人生の変転を描く。当時のメンバーが年月をへて、調布で再び縁を結ぶくだりなど、人生の妙味そのものだ。

昭和49年夏の二回戦。東海大相模vs土浦日大。
この試合は私が生まれた翌年に行われた。この試合で対決した両チームの中心選手は、プロ野球の世界でも甲子園を舞台に戦う。原選手と工藤選手のことだ。工藤選手は1980年代の阪神タイガースの主戦投手としておなじみ。原選手はいうまでもなく甲子園でやじられる対象であり、今はジャイアンツの監督だ。

本章は原貢監督を抜きには語れない。この数年前に三池工を率いて夏を制した原監督。その性根には炭鉱町の厳しさが根付いている。この試合でサヨナラのホームを踏んだ村中選手もまた、炭鉱町を転々とした少年期を過ごした方で、今は東海大甲府の監督をされているという。土浦日大の村田選手の人生も野球とは縁が切れない。厳しさが敬遠される昨今、当時は普通に行われていたであろうスパルタ指導は顧みられない。だが、本編を読むとスパルタ指導があっての制覇であることは間違いない。その判断は人によってそれぞれだが、その精神までは否定したくないものだ。

平成8年夏の決勝。松山商業vs熊本工。
この試合が今の世代にとってのレジェンドの試合になるだろうか。ここで戦った二校は大会創成期から古豪の名を確かにしている。そんな二校が60年以上の時をへて決勝で戦う。しかもともに公立校。興奮しない方がおかしい。ところがこの頃の私は、甲子園から関心が離れていた。球児どころか自分の人生の面倒を見られずにさまよっていた時期。

当時の私には今と比べて圧倒的に時間の余裕があり、まだ甲子園の実家に住んでいた。なので、タイミングが許せば生でバックホームを見られたかもしれない。今さらいっても仕方がないが、私の人生自体が、本編で描かれた奇跡のバックホームのようなドラマを求めていた雌伏の時期だったこともあり、この試合は見ておきたかった。

直前のライト守備交代。そして直後の大飛球とバックホームによる捕殺。まさにドラマチック。バックホームの主役である人物は本編ではテレビ業界の営業マン。当時、両校を率いた名監督も既に他界、もしくは引退している。もう本稿を書いている今から数えても22年もの時がたっている。それは伝説にもなるはずだ。

昭和36年夏の準決勝。浪商vs法政二。
そう考えると、本編が取り上げたこの試合は、もはやレジェンドどころか歴史に属するのだろう。長い高校野球の歴史でも速球の速さでは五本の指に入ったと称される尾崎行雄氏。そして私が野球をみ始めた頃には、既に現役を引退する寸前だった柴田選手。両校が三期連続でぶつかり、どの大会も勝った側のチームがその大会を制したというから、並みのライバル関係ではない。

オールドファンにとっては今も高校野球で最強チームというと、この二チームが挙がるという。時代を重ねるにつれ、より強いチームは現れた。だが、屈指の実力を持つ二チームが同時に並び立ち、しのぎを削った時期はこの頃の他にない。この時期を知る人は幸運だと思う。宿命のライバルという言葉は、この二チームにこそふさわしい。二チームに所属するメンバーを見ると、私が名前を知るプロ野球選手が何人もいる。それほどに実力が抜きんでいたのだろう。それにしても、一度は尾崎投手の投げる球を生で見たかったと思う。

平成12年夏の三回戦。智辯和歌山vsPL学園。
これまた有名な対決だ。この時、私は既に東京に出て結婚していた。私が人生で高校野球から最も離れていた頃。だから本編で書かれる試合の内容にはほとんど覚えがない。この試合に出場していた選手たちすら、今や30代後半。この試合の出ていた選手の中でも、後年プロに進んだ選手が数名いるとか。だが、残念なことに彼らの活躍も私の記憶にはほとんどない。

当時の私は一生懸命、東京で社会人になろうとしていた。それを差し引いても、この頃の私が野球観戦から遠ざかっていたことは残念でならない。甲子園歴史館にはよくいくが、展示を見ていても、この頃の高校野球が一番あやふやだ。

昭和44年夏の決勝。松山商vs三沢。
冒頭に書いた通り、子供の頃の私は高校野球史を取り上げた本はよく読んでいた。その中で上の浪商vs法政二と並び、この決勝再試合は必ず取り上げられていたように思う。三沢のエースだった太田幸司氏は、プロ入り後、近鉄で活躍されており、プロを引退した後もよく実家の関西地区のラジオでお声は耳にしていた。無欲でありながらしぶとく勝ち進んだ背景に、基地の街三沢の性格があることを著者は指摘する。今の三沢高校には復活の兆しが芽生えているとか。

この試合は本書の冒頭に描かれたハンカチ王子とマー君による決勝再試合によって、伝説の度合いが薄れた。とはいえ、この試合もやはり伝説であることには変わりない。

本書が取り上げているのはこの9試合のみだ。だが、中等野球から始まる長い大会の歴史には他にもあまたの名勝負があった。春の選抜大会にも。そうした試合は本書には取り上げられていない。たとえば昭和54年の箕島vs星稜。江川投手が涙を飲んだ銚子商との試合。奇跡的な逆転勝利で知られる昭和36年の報徳学園と倉敷商の試合。そうした試合が取り上げられていない理由は分からない。取材がうまくいかなかったのか、その後の人生模様を描くうえで差しさわりがあったのか。ひょっとすると他の書籍でノンフィクションの題材になったからなのか。延長25回の激闘で知られる、昭和8年の中京商vs明石中の試合も本書には登場しない。私の父が明石高の出身なのでなおさら読みたかったと思う。

100回記念大会の開幕日。私は実家に帰った。観戦はできなかったものの、第四試合のどよめきを球場の外から見届けた。そのかわり、甲子園歴史館に入って大会の歴史の重みを再び感じ取った。明日、百一回目の甲子園の夏が始まる。

百回大会は金足農業の快進撃が大会を盛り上げ、今年も地方大会からさまざまなドラマが繰り広げられた。また、素晴らしいドラマが見られればと思う。私も合間をみて観戦したいと思う。

‘2018/07/23-2018/07/24


カミソリシュート―V9巨人に立ち向かったホエールズのエース


当ページのブログでは何度も書いているが、私の実家は甲子園球場のすぐ近くだ。私が小、中学生だった9年間はすっぽり80年代におさまっている。つまり、80年代の甲子園とともに育った。タイガースが怒涛の打撃を披露する強さや、脆く投壊する弱さ。高校球児が春夏に躍動する姿。歓声や場内アナウンスが家にまで届き、高校野球は外野席が無料だったので小学生の暇つぶしにはうってつけ。そんな環境に身を置いた私が野球の歴史に興味を持ったのは自然の流れだ。難しい大人向けのプロ・アマ野球に関する野球史や自伝を読み、自分の知らない30年代から70年代の野球に憧れを抱く少年。野球史に強い興味を抱いた私の志は、大人になった今もまだ健在だ。

著者は、甲子園の優勝投手でありながら、投手として名球会に入った唯一の人物だ。ところが、私にとってはそれほどなじみがなかった。私が野球に興味を持ち始めた頃もまだ現役で活躍していたにもかかわらず。それは、著者が所属していたのが横浜の大洋ホエールズで、甲子園ではあまり見かけなかったからかもしれない。そもそも、著者の全盛期は私が物心つく前。なじみがなかったのも無理はない。

しかし、それから長い年月をへて、著者に親しむ機会が増えてきた。というのも、私はこのところ仕事で横浜スタジアムの近くによく行く。その度にベイスターズのロゴをよく見かける。そして、最近のベイスターズは親会社がDeNAになってから、マーケティングや観客の誘致に力を入れている。昨年の秋にはレジェンドマッチ開催のポスターを駅で見かけ、とても行きたかった。当然著者もその中のメンバーに入っている。

実は本稿を書くにあたり、レジェンドマッチの動画を見てみた。70歳になった著者の投球はさすがに全盛期の豪球とは程遠い。が、先発を任されるあたりはさすがだ。ベイスターズ、いや、ホエールズの歴史の中でも著者が投手として別格だったことがよく分かる。そんな著者は、2017年度の野球殿堂入りまで果たしている。

なお、同時に殿堂に選ばれたのは星野仙一氏。くしくも本書を読んでから本稿を書くまでの一週間に、星野氏が急死するニュースが飛び込んできたばかり。そして著者と星野氏は同じ岡山の高校球界でしのぎを削った仲。著者より一学年上の星野氏のことは本書でもたくさん触れられている。

本書は著者のプロ一年目の日々から始まる。プロの洗礼を浴び、これではいかんと危機感を持つ著者の日々。プロで一皮むけた著者の姿を描いた後、著者の生い立ちから語り直す構成になっている。

よく、ピッチャーとはアクが強い性格でなければ務まらないという。最近のプロ野球の投手にはあまり感じられないが、かつての野球界にはそういう自我の強いピッチャーが多いように思う。別所投手、金田投手、村山投手、江夏投手、鈴木投手、堀内投手、星野投手など。それを証明するかのように、本書は冒頭から著者の誇り高き性格が感じられる筆致が目立つ。特に1970年の最優秀防御率のタイトルを、当時、監督と投手を兼任していた村山投手にかっさらわれた記述など、著者の負けず嫌いの正確がよく表れていると思った。投球回数の少ない村山投手に負けたのがよほど悔しかったらしい。でも、それでいいのだと思う。著者は巨人からドラフト指名の約束をほごにされ、打倒巨人の決意を胸に球界を代表する巨人キラーとなった。対巨人戦の勝ち星は歴代二位というから大したものだ。一位は四百勝投手である金田投手であり、なおさら著者のすごさが際立つ。著者は通算成績で長嶋選手を抑え込んだことにも強い誇りを持っているようだ。

著者の負けん気の強さが前に出ているが、それ以上に、先輩・後輩のけじめをきちんとつけていることが印象に残る。著者からみた年上の方には例外なく「さん」付けがされているのだ。星野さんもそう。プロでは著者の方が少し先輩だが、学年は星野氏の方が一つ上。「さん」付けについては本書はとても徹底している。そのため、本書を読んでいると、誰が著者よりも年上なのかすぐに分かる。

もう一つ本書が爽やかなこと。それは著者が弱かったチームのことを全く悪く言わないことだ。著者は、プロ野球選手としての生涯をホエールズに捧げた。そのため、一度もペナントレースの優勝を味わっていない。甲子園で優勝し、社会人野球の日石でも優勝したのに。ところが、負けん気の強さにも関わらず、著者からは一度もホエールズに対する悪口も愚痴も吐かれない。そこはさすがだ。1998年にベイスターズが成し遂げた日本一について、自分がまったく関われなかったことが寂しいと書かれているが、そこをぐっと抑えて多くは語らないところに著者の矜持を感じた。

もっとも、生え抜き選手をもっと大切にしてほしいと、球団に対して注文は忘れていない。著者はベイスターズ・スポーツコミュニティの理事長を務め、横浜から球団が出て行ってほしくないと書いている。だからこそ、冒頭に書いたようなレジェンドマッチのような形で投球を披露できたことは良かったのではないだろうか。

それにしても、著者が大リーグのアスレチックスにスカウトされていたとは知らなかった。さらには、冒頭で触れたように甲子園優勝投手で、投手として名球会に入ったのは著者だけである事実も。ともに本書を読むことで知った事実だ。

野球史が好きな私として何がしびれるって、著者のように弱いチームにいながら、巨人に立ち向かった選手たちだ。こういう選手たちが戦後のプロ野球を盛り上げていったことに異を唱える人はいないだろう。正直、今も巨人を球界の盟主とか、かつての栄光に酔ったかのように巨人こそが一強であると書き立てるスポーツ紙(特に報知)にはうんざりしているし、もっというと阪神の事しか書かない在阪スポーツ紙にも興味を失っている。今や時代は一極集中ではなく地方創生なのだから。それは日本という国が成熟フェーズに入ったことの証だともいえる。だが、著者が現役の頃は、日本が登り調子だった。その成長を先頭に立って引っ張っていたのが東京であり、その象徴こそが「巨人、大鵬、卵焼き」の巨人だったことは誰にも否定できない。V9とは、右肩上がりの日本を如実に現した出来事だったのだ。そして、それだけ強い巨人であったからこそ、地方の人にとってはまぶしさと憧れの対象でもあり、目標にもなりえたのだ。そのシンボルともいえる球団には敵役がいる。著者や江夏投手、星野投手、松岡投手や外木場投手のような。そうした他球団のエースが巨人に立ち向かう姿は高度成長を遂げる日本の縮図でもあり、だからこそ共感が集まったのだと思う。

私は、かつて日本シリーズで三年連けて巨人を破ったことで知られる西鉄ライオンズのファンでもある。だからこそ、数年前に催されたライオンズ・クラシックにはとても行きたかった。同じくらい、ベイスターズのレジェンドマッチがまた開かれた暁にはぜひ行きたいと思っている。巨人に立ち向かい、ともにプロ野球を、そして戦後の日本を盛り上げた立役者たちに敬意を示す意味でも。

まずは、横浜スタジアムでの公式戦の観戦かな。できれば阪神戦が良いと思う。そして、実家に帰った際には甲子園歴史館で、著者が甲子園で優勝した記録を探してみたいと思う。

‘2017/12/27-2017/12/27


血脈(中)


中巻では、久が心中した後の佐藤家の日々が描かれる。

本書の全体を通じて言えることだが、佐藤家の血脈を書き記すにあたり、著者は様々な人物の視点を借りる。本書第一章でもそれは同じ。「兄と弟」と銘打たれている本章だが、視点は八郎と節だけに留まらない。それ以外の人物、洽六、シナ、愛子、弥、カズ子、ユリヤからの視点が項ごとに入れ替わり現れる。特に本書の第一章ではそれが顕著だ。

ハチローは詩人として絶頂期にあり、洽六は小説家としての老いを感じるようになる。節の浮気相手の心中記事でも、佐藤紅緑の息子ではなく、ハチローの弟と書かれる始末。そんな洽六をシナは冷静に観察し、愛子は洽六の愛情が自分に注がれることを疎ましがる。節の乱脈は収まらないものの、ハチローが一人立ちし、シナが佐藤家の柱石としてがっしり固めるので、佐藤家の乱脈を描く本書においては、比較的小粒のエピソードが多い章である。とはいえ、世間一般的には充分に波乱万丈な訳だが。本書を読み進めるにあたっても、「佐藤家の人びと ー「血脈」と」は座右の書として手放せず、始終紐解きながらの読書となった。

心中した久を愛子が思い出すシーンでは、ブイブイを樹から落として捕まえるエピソードが登場する。ブイブイとはカナブンのこと。私も子供の時は普通にブイブイと呼んでいた。このような甲子園を思い出させる話が出て来るたび、私は本書に登場する人々の破天荒な人生から、自分の少年時代にも通ずる、かつての牧歌的な甲子園へと想いを馳せてしまうのだ。

第二章の「衰退」では、そんな甲子園の家を手放す日が描かれる。愛子の姉早苗が嫁ぎ、洽六の老いがますます進行し、小説家としては開店休業状態となる。世間では太平洋戦争が始まり、愛子にも縁談が舞い込む。素行が大分落ち着いてきた節とカズ子夫妻が一時甲子園の家に寓居するが、彼らも老化が進む洽六に窮屈を感じて出て行ってしまう。そんな訳で、日本の敗戦が濃厚となってきた昭和19年春、洽六とシナ夫妻は静岡の興津へと転居することになる。

一方で弥は徴兵され、理不尽な軍隊での日々を過ごす。そして兵役で留守中に妻に不貞を働かれる。戦局はますます破滅的な局面を示す。興津の家もどうなるか分からない。早苗には二人の、愛子には一人の子が産まれるが、それがシナの気苦労をかえって増やす。そんな中、興津の家も空襲の危険があるため、洽六とシナ夫妻は信州蓼科へと疎開する。

昭和20年。日本の敗北は誰の目にも明らか。そんな中、洽六の息子二人は揃って戦火に斃れる。洽六の枕元に現れた弥の幻像は、弥が戦死したことを知らせる。また、カズ子からの便りが、節が広島で原爆に焼かれたことを伝える。

衰退とは、日本の国運もそうだが、佐藤洽六の精神力にもいえること。本章ではそうした衰退の日々が克明に記される。甲子園の家は、以降の本書の中では一顧だにされない。まるで佐藤紅緑という人物の盛名とともに消え去ったかのように。私が本書を読むきっかけとなった佐藤紅緑の建てた豪邸は、僅か十数年の間しか存在しなかった。いつ家屋が壊されたのかは知らないが、実に儚いものだ。未だに石垣は残っているとはいえ。

第三章の「敗戦」もそう。節と弥が舞台から退場し、戦争も終わったはずの佐藤家であるが、まだまだ闘いは終わらない。愛子は結婚して子供まで授かったにも関わらず、亭主が戦時中に覚えたモルヒネ中毒により離縁の憂き目を見る。さらに八郎の師匠であり、紅緑の弟子として知られる福士幸次郎まで死ぬ。上巻から何度も登場しては洽六の世話を焼く福士幸次郎は、佐藤家の変人たちにも負けず劣らずの奇矯な人であり、奇人度では本書の中でも一、二を争うかもしれない。それでいて憎めない人物なのだ。その天衣無縫な言動は本書の中でも好感度が高い。

だが、福士幸次郎こそは佐藤紅緑が一番頼りにしていた人物。その人物が亡くなったことで、いよいよ紅緑の衰えに拍車がかかる。だが、紅録が戦前に発表し、一躍少年向け小説の対価となさしめた「あゝ玉杯に花うけて」がリバイバルヒットし、それを土産に洽六とシナは八郎卓へ寄寓することになる。

しかし八郎の生活も乱脈さでは父親に負けない。妻妾同居で暮らし、夏は裸で過ごす奇特な八郎。長男の忠は戦時中は予科練に志願するも、終戦で何もするでもなく無気力になり、妻妾同居の日々が正妻のるり子を遂に死に至らしめる。そんなるり子を悼んで発表した八郎の死は、忠から見て嘘八百。そんな日常に耐えられない洽六とシナ夫妻は、八郎宅を出て世田谷区上馬を終の家として求める。

第四章の「洽六の死」では、著者は愛子の目を借りて父が老い死んでいく姿を描く。冷酷なまでに。老残もいいところの洽六の最晩年は、かつての洽六に精力と威厳があっただけになおさら寂しいものがある。八郎が天皇から恩寵の品や勲章をもらったことで感極まった洽六は、若き日から欠かさずつけていた日記を断筆する。その日記こそは上中巻と著者が本書を書く上でかなりの貢献をしたと思われる。そしてその日記を執筆を辞めたことで、洽六にとっての最後の拠所が切れたかとでもいうように、洽六は一気に死へと駆け下りてゆく。

今回、本稿を書くにあたってところどころ拾い読みをした。改めて思ったのだが、洽六の老いから最期に至るまでの著者の筆は怖いまでに老いの惨めさと残酷さ描きだす。私はその老いのあまりのリアルさに、思わず老いから逃げるように50キロ以上、自転車で遠征の旅を敢行したほどだ。

‘2015/09/08-2015/09/12


血脈(上)


西宮ブログというブログがある。故郷の様子を知るための情報源としてたまに拝見している。

西宮ブログでは複数の常連ブロガーさんによる書き込みがブログ内ブログのような形で設けられている。常連ブロガーさんは、それぞれの興味分野について徒然に自由に記している。私にとってほとんど読まないブロガーさんもいれば、よく読ませて頂く方もいる。よく読むブロガーさんの一人に、seitaroさんがいる。seitaroさんが主宰するのは西宮が登場する文学や西宮にゆかりのある文人を詳しく紹介するブログである。それが阪急沿線文学散歩https://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpoだ。

本書の著者である佐藤愛子氏が甲子園に住まわれていたことを知ったのは、こちらのブログによる。著者は、父である著名な作家の佐藤紅緑氏とともに昭和初期の10数年にわたって甲子園で少女時代を過ごしたという。しかも2軒の家にまたがって。1軒目は甲子園球場のすぐ傍に建っていたようだ。今、阪神甲子園駅のバスターミナルに沿って三井住友銀行が支店を構えている。そのすぐ裏の区画、今は西畑公園になっている場所がどうやらそうらしい。2軒目の場所は、1軒目から今の甲子園線に沿って1.3kmほど北上したあたり。1軒目も2軒目も、私にとってよく知る場所だ。そらで道案内が出来るほど。それもそのはず、2軒目が建っていたのは私の実家から徒歩数分しか離れておらず、至近といってよい場所である。

私が幼稚園の頃から25歳まで大半を過ごした実家。その近くにこれほど有名な方が住まわれていたとはついぞ知らなかった。しかも著者はいまだ存命の方であるというのに。そもそも佐藤愛子氏の著書を読むのは本書が初めて。父である佐藤紅緑氏の本はまだ一度も読んだことがない。小学生の頃は、2軒目の家のすぐ近くに友だちの家があり、その傍の交差点でよく遊んでいたものだ。私の記憶では、通りがかりの老婦人に阪神タイガースの有名な選手の家があれ、と教えて頂いたことがある。確か名前に藤が付いていたように思う。藤がつく阪神の有名選手は多数いるが、おそらくはミスタータイガースこと藤村富美男選手の家だったのではないか。が、佐藤紅緑氏や愛子氏が近くに住んでいたことは誰にも教えてもらえなかった。そしてそのまま実家を離れ、40歳過ぎまで知らずにきてしまった。少し残念である。

本書を読み始めたのは丁度私の里心が増していた時期だった。seitaro氏のブログによれば、著者は西宮・甲子園を舞台に様々な作品を残しているという。俄然、著者に興味を持った私は色々と作品を調べてみた。そしてたどり着いたのが本書。著者の作品を始めて読む私にとって本書は相応しいはず。そう思って読み始めたのだが、読み終わった今はその判断が正しかったことを確信している。

佐藤紅緑から、息子のサトウハチロー、そして著者。日本文学史に燦然と名を残す三名が揃って登場する本書は、佐藤家の一族の血脈を余すところなく描いた大河小説である。そして本書には上に挙げた3名以外にも多数の人物が登場する。みなさん個性あふれる人物だ。そこで登場する佐藤家の人物のほとんどが社会不適合者であり、枠に収まること出来ぬ宿業を持て余す。ある者は野たれ死に、ある者は原爆で一瞬に焦がされ、ある者は行方不明となる。放恣な日々しか送ることのできない一族の血。それは血脈によって繋がり、登場人物たちを様々な運命へと追いやっていく。

身内を語る著者の筆には容赦がない。容赦がないというよりも、身内ゆえに手加減を知らないというべきか。その筆致は客観的でありながら、身内故の遠慮なさで著者自らを育てた一族を描き出す。血脈によってつながる一族の数奇な運命の流れを。

その流れが上中下巻に分かれた本書に収められている。上中下巻のそれぞれが文庫本としても厚めのページ数となっている。そのため本書は、全体としてかなりの分量となる。登場人物は別冊に収められている佐藤家の系図に載っているだけで62名。それに外部の関係者を加えると総勢100名は下らないだろう。膨大な登場人物を相手にするには少々心細いと思われる方には、本書の番外編として「佐藤家の人びと-「血脈」と私」がお勧めだ。私もその虎の巻ともいうべき本を座右に置きながら上中下巻を読み通した。その虎の巻には系図や年表、そして主な登場人物たちの写真が豊富に載っている。もし本書を読む方がいれば、是非とも「佐藤家の人びと-「血脈」と私」を併せて読まれることをお勧めする。

血脈の上中下三冊は2015年の私の読書歴でも印象深い読書だった。それは、本書がとても面白かったからだ。昔の甲子園のことが書かれているから、という気持ちで手に取った本書だが、それ以上に内容に引き込まれた。大正から昭和にかけてのわが国の文士といえば、無頼派という印象が強い。個性的で波乱万丈の。とはいえ、特別な興味がない限り無頼派の生活ぶりをわざわざ知ろうとは思わないはず。本書に描かれる生き様は無頼派のそれだが、著者はそのあたりを巧く小説として組み立て、本書を読みやすく面白い大河小説として仕立てている。

豪放でありながら繊細な佐藤紅緑こと洽六。その後妻である横田シナ。洽六の前妻のハル。ハルと洽六の間には五人の子供がいる。喜美子、八郎、節、弥、久。シナとの間には早世した六郎と早苗、そして著者。女好きでありながら国士のような激情家である洽六は、シナへの想いを抑え切れず、家庭を顧みず崩壊させる。その様が上巻である本書では書かれている。

本書の時代背景は大正四年から昭和九年まで。
第一章 予兆
第二章 崩壊のはじまり
第三章 彷徨う息子たち
第四章 明暗

第一章は八郎の視点で書かれている。女優としての成功を求め洽六邸へ寄宿する横田シナ。そんな横田シナへ想いを掛け、果ては狂恋に翻弄される洽六。その狂態が縦横に荒れ狂うのが本章である。それは正妻ハルの存在を瞬時にかき消す。そればかりか洽六の激情はハルや子供たちの存在を忘れ、去っていったシナを追って大阪まで旅立たせるほどのものである。しかもハルとの最初の子である長女の喜美子が結核で瀕死の状況でありながら。洽六が東京に戻って程なく喜美子は死ぬ。シナに翻弄され恋慕する父の狂態を見ながら成長する八郎と弟の節。八郎の少年としての性への興味が猥雑な歌や会話となって、ただでさえ強烈な本章に嵐の予感を振り撒く。あまりの不良っぷりに洽六の書生の福士幸次郎の付き添いで八丈島へと流されてしまう八郎を描いて本章は幕を閉じる。

第二章は、勘当された八郎の替わりに、弟の節の視点で物語が進む。すでに三男の弥は五才になっていたが、もはや家族の体を為していない洽六邸から、西宮鳴尾の密蔵伯父宅へ里子にやられる。密蔵伯父とは洽六の兄である。当時、大阪毎日新聞の経済部長の職に就いていた。後年、この縁で洽六は鳴尾に住むことになる。そしてそれは、まだ甲子園球場が出来る前の話。甲子園が甲子園ではなかった時期から佐藤家は西宮に縁があった訳である。一方、洽六とシナの旗上げた劇団は上手くいかず、シナは洽六の束縛を逃れようと煩悶する。長男六郎を喪い、長女早苗が産まれたことで洽六に縛られてしまうことを厭うシナは、女優としての最後のチャンスをつかむために洽六の影響力のないところで己の力を試そうとする。もはや佐藤家は解体寸前であり、洽六はシナを我が物とするため、正妻であるハルを離縁しようとする。八郎は荒れ狂う血を発散させるため無軌道な日々を送り、節に世の道理を教えるものは誰もいない。洽六の抑えようもない狂恋だけが佐藤家を駆けまわる。シナへの抑えられない狂熱を鎮めるため、洽六はヨーロッパへと旅立つ。

第三章は「彷徨う息子たち」との題名通り、物語の視点も彷徨う。視点はシナだったり八郎だったり節だったり弥だったりとまちまちだ。外遊から帰国した洽六は映画撮影所長としての職を得、兄の住む甲子園に居を定める。ここで洽六はようやく大衆作家一本でやっていく覚悟を固める。シナは長女早苗を産んだ後、著者自身である愛子を産み、女優としての将来を断念して洽六に屈服することになる。しかし、東京に残した八郎と節の素行は改まるどころか放埓の限りを尽くす。八郎は詩に自らの道を見出そうとするが、節は人をだまし、人の好意に乗り、洽六の財布を当てにする自堕落な人間として成長する。実母のハルは亡くなり、三男の弥は、鳴尾で当てのない少年時代を送る。

私にとって本章で描かれる弥の少年時代は特に印象に残っている。鳴尾で少年時代を過ごした彼の日常には、私にとってお馴染みの地名が多数出てくるからだ。「鳴尾村で一番喧嘩が強いのは上鳴尾のガキらだった。上鳴尾ではおとなも喧嘩に強い。子供の喧嘩におとなが出てくる。知識階級の集落である西畑の子供は上鳴尾とは喧嘩をしない」(417P)
上鳴尾とは、今は八幡神社があるあたりだ。八幡神社には私も小学生の頃は夜店が楽しみでよく行った。私の悪ガキとしての思い出にも八幡神社は欠かせない場所だ。上鳴尾には小学校時代に遊んだ友人が沢山住んでいた。本書を読んで、そうか、上鳴尾は喧嘩が強かったんかぁ、と思った次第。西畑という集落は上に書いた著者の1軒目の家のあったところだ。ここで弥の親友として登場する菅沼久弥という少年は苗字を森繁と変え、枝川の向こう側の今津に引っ越していく。著者は敢えて久弥少年のその後には触れない。が、私にはピンと来た。後年の大名優が鳴尾甲子園にこのような縁で繋がっていたとは本書を読むまで知らなかった。

第三章に書かれているような甲子園の描写こそが、私を本書へと導いたことは間違いない。が、本書が描く濃密な血脈の模様は魅力となって私を取り込む。いまや、在りし日の甲子園が書かれている事だけが本書の魅力ではなくなってきた。佐藤家の奔放な血脈の魅力は甲子園が登場しようとしまいと私をがっちりと捕まえる。

八郎は詩人として名が売れ始める。身を固めるために結婚するが、箍の外れた生活態度はますます悪化するばかり。金があるだけになお始末が悪い。節も結婚するが、人の好意に付けこむ癖は改まることを知らない。弥は無気力な日々を送り、洽六に叱られては自殺を図って新聞に載る。シナは女優としての道を洽六に閉ざされ意気消沈するばかり。洽六はそんなシナを元気づけるために、1軒目の近くにシナの思うような家を建てさせようと決意する。その家こそが、私の実家から徒歩数分の2軒目の家である。

第四章は、大衆小説家として全盛期を迎えた洽六が描かれる。新たに建てた家は宏壮そのもの。私も本書を読んだ数か月後に訪れてみた。今は大阪ガスの寮として使われているらしく、家屋こそ失われている。が、石垣は今もなお健在。佐藤紅緑の全盛期を偲ばせるに充分な威容だった。

しかし、新しい家で新規一転といかないのが、佐藤家の血脈のなせる業である。四男の久も無気力な生活を立て直すため、仙台で嫁を娶って働くことになる。が、生活力がとにかく欠けているのが佐藤家の男の多くに見られる特徴である。自活できぬまま、洽六からの仕送りなしでは生きていくことの出来ない久。その仕送りさえも中間に入った節によって全て抜かれてしまう。貧窮の末、心中を図って死ぬ久。上巻の最後は、佐藤家の中で最大のロクデナシである節に対し、洽六が想いの丈をぶつける手紙が引用されて幕を閉じる。作家として成功したにも関わらず、家長としては失敗しかしていない洽六の反省の弁ともとれるのがこの場面。上中下を通じて、著者は残された実際の書簡類を多数引用する。よくもまあきちんと保管しておいたと思うばかりに。

ここまで上巻の大筋を書いてきた。本書は筋を書かねばレビューとして成り立たせるのが難しい。それほどに複雑に筋は分かれる。上に描いた以外にもエピソードがまだまだ沢山載っているのが本書だ。全ては血脈のなせる振る舞い。洽六とその父弥六から始まる津軽の血は、中巻に受け継がれてもまだ留まるところを知らない。

‘2015/08/31-2015/09/08


野球博物館の役割-断罪ではなく感動を伝える


先日、2/11に東京ドームの野球殿堂博物館に行ってきました。記憶が確かなら私にとって四回目の訪問です。四回目といっても、前回の訪問からはだいぶ間が開いてしまいました。前回の訪問がいつかはよく覚えていませんが、10年ぶりでしょうか。展示内容も大分忘れていました。今回久々に訪れてみて、野球殿堂博物館が狭く感じました。私の記憶ではもっと広かったような気がしたのですが。あれ?こんな狭かったっけ?と。

多分、それは甲子園歴史館に慣れたからでしょう。私が野球殿堂博物館から遠ざかっていた10年の間、甲子園歴史館には足繁く通いました。毎年、帰省の度に足を運んだと言っても過言ではありません。甲子園歴史館は広さもさることながら、その資料の豊かさで他の追随を許しません。

中等野球から始まる高校野球100年の歴史はざらではありません。幾多の名勝負が豊中球場、鳴尾球場、そして甲子園球場で繰り広げられました。甲子園歴史館には、それら歴史の生き証人であるボールやグラブ、旗やスコアブックが展示されています。映像資料もふんだんに用意され、動画で熱戦の様子が流されています。私などは、訪れる度に毎回資料を見ているだけで目頭が熱くなります。

甲子園歴史館に展示されている品々は、歴史に残る熱戦の目撃者でもあります。その日、甲子園のグラウンドで飛び交った白球の行方や、スタンドの熱気や応援団の歓声を無言で今に伝えてくれているのが、それらの展示品なのです。例えそれら品々の持ち主がどのような人生を歩もうとも、ボールやグラブが歴史的な一戦に一役かったことは事実です。それら展示品を無かったことは誰にもできません。
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ここ10日ばかり、清原さんの覚醒剤による逮捕の件が世を騒がせています。中には、ゴシップ記事に近いものも見受けられます。反響の大きさからも清原さんが野球界に残した足跡の大きさがうかがえます。このことについては先日ブログにも書きました。

今回の清原さん逮捕に関し、私にとって印象に残ったニュースが二つあります。
一つは甲子園歴史館からの清原さん関連資料の撤去。記事
もう一つは日本プロ野球名球会による除名するつもりはないとの柴田副理事長による談話。記事

実に対照的な措置です。日本プロ野球名球会が清原さんを除名しないし、するつもりもないと明言したことは大いに評価したいと思います。今回、私が野球殿堂博物館を訪れたのは二つ目的がありました。一つは戦没野球人を慰霊する鎮魂の碑が見たかったこと。もう一つは清原さんの業績が残されているかを確認したかったことです。後者の目的については果たせませんでした。そもそも清原さんの展示スペースは用意されていなかったようです。野球殿堂博物館のプロ野球の展示スペースが狭く、おそらく今回の騒動で展示品を入れ替えることもしていないのでしょう。つまり日本プロ野球名球会と野球殿堂博物館は、今回の件については現時点では静観の態度をとるという事を意味します。

一方、甲子園歴史館の判断には疑問が付きます。記事を読むと「教育上の配慮から」との取ってつけたようなコメントが出されています。しかし教育上の配慮というのはあまりにも解せない文句です。事大主義の極致ともいえる判断であり、利用者としては困惑するほかありません。

今回の一連の報道の中には、清原さんがプロ野球選手として現役で活躍している時から覚醒剤を使用していたという記事もあります。その真偽はまだわかりません。しかし仮に清原さんが現役の際に覚せい剤を使用したとして、穢されるのはプロ野球選手としての実績のはずです。その点、日本プロ野球名球会や野球殿堂博物館が何らかの措置をとるのならまだ分かります。しかし甲子園歴史館が展示しているのは、清原さんの高校時代の実績です。まさかPL学園の選手として成し遂げた数多の実績すら、覚せい剤の影響下にあったと疑っているのでしょうか? まさか。たとえその後の人生で転落したからといって、高校時代の実績は実績として認めるべきでしょう。あの時スタンドで味わった感動や興奮が、何十年か後の過ちで全て否定されてしまうのでしょうか。それは一高校野球ファンとして到底納得のいくものではありません。

人によって振幅の差こそありますが、深みも高みも栄光も挫折もあってこその人生ではありませんか。一度の過ちで過去の実績を否定することは、人間の一生をあまりに平板に単純にみる態度です。人の生をそのような平板な単純な営みとみなすことこそ、教育上の配慮が足りないと思えるのですが。

野球殿堂博物館と日本プロ野球名球会は、全くの別組織ですが、ともにプロ野球の歴史に敬意を払う点で同門ともいえます。名球会については発足時の経緯もあって批判的な意見も良く耳にします。が、私は名球会の会員の方々が成し遂げた実績は素直に凄いと思っています。対象外だった大正生まれの川上氏や別所氏、若林氏、野口氏、杉下氏、中尾氏、藤本氏の実績と併せて一つの基準として尊重すべきと思います。もちろんそれは清原さんの実績にも当てはまります。名球会の会員には同じく覚醒剤で服役した江夏豊氏の名前もあります。服役して一旦自主退会したものの、見事に更生した江夏氏を名球会は受け入れています。実に懐の深い対応ではありませんか。

ブログにも書いた通り、甲子園歴史館は高校野球の歴史に加え、阪神タイガースの歴史も展示されています。私が昨秋に訪れた際は、江夏豊氏はちゃんと阪神タイガースの名投手の一人として取り上げられていました。江夏氏は容疑者ではなく、実刑判決を受けて服役したにも関わらず。一方、清原さんはまだ判決前の容疑者の状態です。それなのに覚醒剤に縁のないはずの高校時代の実績すら否定されようとしています。これはあまりに不公平です。

甲子園歴史館と野球殿堂博物館(日本プロ野球名球会)。両者のこの対応の違いはなにかを考えてみました。それはプロとアマチュアの意識の違いなのかもしれません。甲子園歴史館はアマチュアイズムを標榜するあまり、今回の事件に過剰反応してしまったのではないでしょうか。

でも、私はそうじゃないと思うのですよね。プロやアマチュア以前に、野球をテーマにした博物館が持つべき視点は別にあると思うのです。それは「野球とはこんなに人を感動させるスポーツなんですよ」というシンプルなものです。過去に幾多の名勝負がグラウンドで繰り広げられ、過去に先人たちが作り上げてきた歴史の積み重ねの上に今の野球がある。このことを展示し、野球の素晴らしさを伝えることが、この両施設に課せられた使命ではないでしょうか。野球の素晴らしさとは、グラウンド上で選手たちが魅せるプレイに限定されるはずです。何十年も後の一選手の私生活の過ちが、野球の魅力を損なうとはとても思えません。甲子園歴史館の関係者の方がもしこの拙いブログを読まれることがあれば、是非とも清原さんに関する展示品の復活をお願いします!

蛇足ですが、今回の訪問で思ったことを最後に書きます。それは野球殿堂博物館のことです。そろそろ野球殿堂博物館は施設を拡充すべきです。野球殿堂博物館の展示は、プロ野球に留まらず、日本代表のスペースや女子プロ野球や高校大学社会人まで含めています。それは、日本の野球を巡る状況を網羅的に展示する意味で、実に素晴らしいことだと思います。でも、限られたスペースですべてを紹介しようとするあまり、一つ一つの紹介が中途半端になっているように思えてなりません。それこそ、東京ドームなのですから、栄光の巨人軍の歴史を大々的に展示するスペースがあってもよいはずです。少なくとも甲子園歴史館の阪神タイガースの展示スペース並の広さは欲しいところです。過去に後楽園球場を本拠地にしていた日本ハムファイターズの展示もありですよね。私は阪神ファンですが、巨人の歴史が今のプロ野球を作り上げたことを否定するつもりはありません。

それでは野球殿堂博物館を拡充するにはどうしたらよいでしょう。左隣のグッズショップは残しても良いと思います。が、反対側の飲食店は移動してもらい、その空きスペースを使って野球殿堂博物館の展示スペースを広げるべきでしょう。東京ドームが出来て間もなく28年を迎えようとしています。東京ドーム開業30周年あたりの目玉として、野球殿堂博物館の大幅拡充があっても良いのではないでしょうか。

広がった博物館には、日本の野球の歴史を全て網羅し、幾多の名選手の品々が展示されるとよいですね。江夏氏と清原さんの展示ももちろん。もっともお二方の殿堂入りまでは望みません。しかし野球の歴史において一時代を築いたお二人の実績は顕彰されるべきです。二人ともそれだけの実績と積み重ね、数多くの感動を我々に与えてきたのですから。


甦れ、甲子園のヒーローよ!


清原さんが覚醒剤所持の疑いで逮捕されましたね。

正直、あまり驚きませんでした。ブログや報道からも孤独感漂っていましたし。かつての甲子園での活躍を知る私としては、ただただ寂しいです。

私は人生で一度だけ、日射病になりかけたことがあります。それは、甲子園球場のレフトスタンドでした。グラウンドでは、PL学園の打棒が爆発し、東海大山形のナインを打ちのめしていました。29-7というワンサイドゲーム。あまりの点差に余裕が出たのか、清原さんもマウンドで投球を披露した熱暑の中の試合です。

子供の頃甲子園に住んでいた私にとって、球場は馴染みの場でした。夏休みは暇さえあれば観戦に行ったものです。外野は無料だったし。

小学生の私にとって、グラウンドで躍動する高校球児達は、憧れを通り越して、畏敬する存在でした。実際の歳の差よりずっとずっと大人に見えたものです。
今回の逮捕で改めて知ったのは、清原さんが、私のたった6才しか上でないということ。当時の感覚では20歳くらい上の印象だったのに。

数年前、娘たちが通う小学校に桑田氏が講演に来てくださいました。桑田氏といえば、PL学園でKKコンビとして清原さんと並び称された方です。私ももちろん講演を拝聴しました。子供の頃の憧れの対象を目の前にして興奮しないわけがありません。とはいえ、私は桑田氏については永らく誤った印象を持っていました。憎き巨人に入ったことだけでも敵だったのに、面白おかしく歪められた報道が加われば、キライにならないはずがありません。しかし、子供たちやかつての子供たちである我々に語りかける桑田氏の素顔は、実に丁寧でした。私は一気に氏のファンとなりました。子供の頃に感じた、20歳年上との感覚は揺らぎませんでした。桑田氏は、「氏」のままです。

しかし、今回の逮捕によって、清原さんは、「さん」付けになってしまいました。たった6歳しか違わない清原さんに。

挫折は人を強くするといいます。今回のニュースで一番残念に思うのは、清原さんが巨人に入団できなかったという挫折から這い上がった姿を見せてくれなかったことです。意中の巨人に入団出来ず、翌年の日本シリーズでライオンズの一員として巨人を倒す直前、感極まって一塁ベース上で泣いた姿はよく知られています。その姿は美しかった。

一方、順風満帆に巨人に入団した桑田氏は、偏向報道に泣かされ、肘の重傷に苦しめられました。復活のマウンドで膝まずいてプレートに手をおいた所作には感動させられました。その姿は我々に真の挫折から立ち直った人の美しさを教えてくれました。

数年前の講演でも、挫折から立ち直る美しさ、夢を求め続ける姿勢を子供たちや親たちに語り伝えて下さいました。娘たちにとっても私にとっても得難い経験だったと思います。

挫折は人を強くします。思うに清原さんにとって、ドラフトで巨人に選ばれなかったことは挫折ではなかったのではないか。今回の逮捕こそが人生で初めて味わう挫折だったのではないかと思います。日本シリーズで巨人に勝ち、西武黄金時代を作り上げました。満足な成績を挙げられなかったとしても、意中の巨人で四番を勤めました。無冠の帝王と呼ばれながらも、2000本安打も500本塁打も成し遂げました。挫折どころか、まぶしいばかりの野球人生でしょう。

面識もなく、かつては20歳以上も年下だった私ごときが清原さんの心中を推し量ることは、おそらくはおこがましいことなのでしょう。しかし、今回の件が清原さんにとって初めて味わう挫折に違いない。そう思います。

そしてその姿は、かつて同じプロ野球人として覚醒剤に手を出し、服役した江夏豊氏を思い出させます。江夏氏も、孤独感に負けてつい出来心でヤクに手を出してしまったと聞きます。が、プロ野球界の仲間たち多数に支えられ、立派に更正されたとか。今春の阪神のキャンプでも臨時コーチを任じられたとの嬉しいニュースはまだ耳に心地よく残っています。

清原さんにも、江夏氏と同じように立ち直って頂きたい。そう切に願っています。そして、清原さんのプレーする姿に見とれた少年の私が畏敬の念を思い出させるように、清原さんではなく清原氏と呼べる存在になって戻ってきて欲しい。心からそう思います。

いつの日か、臨時コーチ扱いではなく、タイガースの一軍コーチや監督として、江夏氏と清原氏が甲子園に並び立つ日がくる。そんな楽しい想像したっていいじゃないですか。それが現実の光景となれば、これほど嬉しいことはありません。植草アナの名台詞を引くまでもなく、二人とも甲子園の申し子といっても良い存在なのですから。

そんなことを想いつつ、書いてみました。
甦れ、我が甲子園のヒーローよ!


駅を街のランドマークとする発想に物申す


のっけから、私の故郷の話で恐縮です。今年になって相次いで甲子園近隣の駅のリニューアル工事が話題に上がっています。

JR甲子園口駅は7/7から新駅ビルが供用開始となったそうです。
西宮経済新聞より
阪神甲子園駅は工事完了が来年末予定ですが、5月の連休に訪れた時は、すでに屋根が出来上がっていました。
西宮経済新聞より
これは2014/12月に実家に帰った際に撮影した建設途中の駅です。
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今年は夏の甲子園がはじまって百年目の記念すべき年。甲子園球場を擁するわが故郷として、これを機に一新したい気持ちも分かります。分かりますが、私にとってこのニュースから感じるのは寂しさのみです。

その寂しさとは、駅を街のランドマークとする発想に対してです。その発想は、今の日本を覆う安直で軽薄なそれと同じです。日本のランドマークとして君臨するのはイケイケな東京です。そして、ランドマークの地位におさまったまま、私のような地方人を集めてますます肥え太り、その安直な発想の下、麻痺しつつあります。東京は麻痺する日本の象徴とも言える場所になっています。今回の駅の建て替えニュースからは、それと同じ匂いが漂ってきました。東京に住む私は、甲子園がよりによって東京の悪しき発想をまねたことに寂しさを感じます。故郷が遠くなっていく無力感すら覚えます。

私の故郷西宮は、大阪神戸の中間に位置しています。ベッドタウンとして日本有数の規模を持ちながら、静かな住環境が保たれていました。ここ100年の時間軸で眺めると、球場は二つ、競輪場は二つ、競馬場も二つ。日本酒の醸造所は多数、アサヒビールやニッカウヰスキーの工場も立ち並んでいました。いわば、「飲む」「打つ」の男のロマンを備えた街が西宮です。そんな環境にありながら、西宮七園を代表として閑静な住環境が整っていることは、凄いことです。しかも、山あり川あり海あり池ありと自然さえも豊かに揃っています。こんな街、日本を見渡してもそうそうありません。たぶんどこに住もうとも死ぬまで西宮が一番だと云い続けるでしょう。l

かつて、落語家の露乃五郎さんは西宮を称してこう言いました。「ヘソのない街」と。ヘソとは街のランドマーク、自他共に認める中心地を指します。西宮の場合、それがありませんでした。もっとも、そう書くと誤解を受けそうです。甲子園球場、阪神パークを中心とした甲子園駅付近、阪急西宮球場を擁する西宮北口駅付近、西宮戎神社の門前町である阪神西宮駅付近。ランドマークぎょうさんあるやないかい、と。しかし、これらは西宮にとって唯一無二のランドマークとはいえません。これらは三ヶ所に分散しています。しかも通年営業の商業施設ではないため、特定の時期しか人を集めません。ランドマークとは、年中人が集まる場であり、その地域のオンリーワンの場所を指します。これら三ヶ所をヘソと呼ぶことはできないのです。

このバランスが崩れたのが阪神・淡路大震災です。震災復興の名の下に、西宮北口駅付近が一新されました。西宮球場は解体されて阪急西宮ガーデンズとなり、買い物客で賑わいを見せています。また、甲子園球場こそ健在ですが、阪神パークはららぽーと甲子園となり、キッザニア甲子園という目玉施設を中心に、多彩な店舗が集うショッピングモールとして賑わっています。阪神西宮駅は、高架化に伴いエビスタ西宮という駅ビルに生まれ変わりました。

これら三施設に共通するのは、通年集客の考えです。つまりはそれぞれの地が、わてこそ西宮のヘソにふさわしいねん、と名乗りを挙げたわけです。しかし、三施設とも一言で云えばショッピングモールに過ぎません。ショッピングモール三つできた所で、三すくみとなりかねません。いや、事実そうなっているように思えるのは私だけでしょうか。結果、西宮のヘソを作るどころか、ヘソのない街西宮の良さが却ってボヤけたように思えてなりません。しかもJR西宮駅前にも、臨港線沿いにも商業施設があちこちその図体を晒しています。東京から故郷に帰る度、西宮が平凡な街に変わりつつある、そんな寂しさに駆られていました。そこに来てこのニュースです。JR甲子園口駅は、私の幼少期より変わらぬ佇まいの駅でした。それが数年前から徐々に変わり、ついにはこの度の駅ビル完成と相成りました。阪神甲子園駅も、球場の大鉄傘をモチーフとした屋根付き駅に変わりつつあります。私が帰省する度、故郷に帰ってきたと実感させてくれる駅はもうありません。我が故郷の駅よいずこ。

これが故郷を出ていった者の身勝手な郷愁であることは理解しています。私が文句を言う筋合いもなければ資格もないことは承知の上です。

でも寂しいんです。悔しいんです。誇るべき故郷がよりによって東京の悪しき構図を真似たことが。

確かに阪神甲子園駅は通路も狭く、老朽化が進み、施設キャパオーバーになっていたことは認めます。春夏の高校野球ファンや、六甲おろしをガナる愛すべきトラキチ達をこれからも運び続けるためには必要な改修なのでしょう。でもこの改修によって、甲子園駅の下を潜る甲子園線のガード下に残っていた、私が二歳の時まで走っていた阪神電車の路面電車の遺構も消え去ることでしょう。JR甲子園口駅の北側駅舎は1934年の開業当時の風格を残していました。でも、先年のバリアフリー対応の通路付け替え工事は駅ビル建て替えまで進み、あえなく解体されてしまいました。これら駅の記憶も今や、時代の中に消え去ろうとしています。新しい駅ビルは阪神間モダニズムを体現したデザインになっているとか。とはいえ、私が故郷の駅と認識するにはまだまだ時間がかかりそうです。

両駅の建て替えは夏の甲子園百年記念という理由だけで建て替えられたように思えてしまいます。日本にあまねく知られた、西宮が誇る甲子園球場。類まれなランドマークを持ちながら、さらに駅を建て替えてランドマーク化することに寂しさが募る一方です。そう思うのは、故郷を離れた私だけなのでしょうか。

駅をランドマークに見立て、集客を期待する。この構図は、日本にとっての東京と同じです。日本の代表的な都会東京に投資、人口を集中させ、東京を日本のランドマークとする。最近では、ランドマークの中に駄目押すかのように新国立競技場というランドマークを建てようとしています。

ただでさえ一極集中が進み、地震リスクの高まる一方の東京。かつてはさみしい寒村だったこの地は、日本の繁栄を誇示するかのように飾られ、デコられ、ハコモノ展示場のランドマークと化しています。それらを縫って、定時運行すら危うくなってきた寿司詰め電車がひっきりなしに行き来します。

もう、これ以上日本のランドマークとして東京に重荷を背負わせるのはやめようよ、と言いたい。江戸開府以来400年。その歴史は尊重します。でも、今の東京には、私のような地方出身者が集まりすぎています。江戸っ子はどこに消えた?と思う事しきりです。東京はすでに疲れているのです。そんな疲れた東京に、首都直下型地震が来たらどうなるか? 枯れつつある地脈は息絶え、日本自体にも取り返しのつかない傷跡を残すことは間違いないでしょう。安政や大正の昔と比べても、今の東京が地震の直撃に耐えうるとはとても思えません。そして日本が東京に依存する割合も桁違いとなっています。東京の重荷を少し降ろして身軽にしてあげようよ、と云いたい。出来うるならば、オリンピックも名古屋や大阪、福岡に譲ってあげたいぐらいです。

そして同じように、西宮に言いたい。せっかく甲子園やえべっさんちゅう、日本一の球場や神社があるんやさかい、もおええがな、と。住み良い西宮のままで居てえな。駅は閑静なままに、乗降客が不便でないようにすればええだけやないの、と。

各地方にも云いたい。東京を真似るな、と。その地の文化や風土を大事に。限定キャラメルやラー油、プリッツやポッキー、B級グルメもいいけど、昔からの地元の産物を育て、誇れる地元でいて頂きたい。東京は遠からず地震でかなりの被害をうけるか、飽和しきって崩壊します。その受け皿として健在な地方でいて頂きたい、と。

そして政府や各自治体にもいいたい。これ以上東京にお金を使うより、その地域の歴史や文化を尊重した振興策にお金を使うべき、と。具体的には地域を思う議員への助成、真っ当な地域コンサルの招聘。地域芸能への甘えに堕さない補助。自治会へのアイデア公募。シャッター通りへの格安入居の援助。思い付くだけでも出てきますが、国や自治体が本気で振興に取り組めば、民間からまだまだ珠玉のアイデアが出てくると思います。集中の利点という名の下、東京への投資を行ってよい状態ではもはやありません。

今までも私自身、東京一極集中については色々言ったり書いたりしてきました。また、私自身が東京に住み、都心に通う現状に埋もれている中で、一極集中の弊害を書いたところで説得力がないことも痛く感じていました。近々、仕事上でとある提案を頂きます。その提案を私が受けるかどうかもまだ分かりません。が、家族が宝塚好きということもあり、あるいは家族からの理解ももらえるかもしれません。私自身、いつまでも痛勤電車で通うことに意味があるとは思っていません。ましてやITがこれだけ普及している今は。

そのぐらい、今の東京の混み具合には鬱屈が溜まっていますし、それに対して迎合的な姿勢を見せる地方の現状にも苛立ってもいます。日本を住みやすくするためにやるべき処方箋は多々あります。その中の一つとして、東京への一極集中を食い止めるための手は打たないと、と真剣に思います。


村上朝日堂の逆襲


エッセイを読むのも好きです。

特に村上春樹さんのエッセイはあまり気負った題材でもなく、何かを批判したりすることもあまりなく、他人を罵倒することもなく、人間なんて所詮は、といういい意味での諦めが漂っています。かといって毒にも薬にもならないエッセイかというと、そんなことはなく、油断していると蜂の一刺しにやられてしまうような、適度な緊張感を孕んでいるところもまたよいです。

本書は再読だったか初読だったかは忘れましたが、先日、実家から持ち帰ってきた数冊の蔵書のうちの一冊です。手に取ったのも、なんとなくという感じです。読む10日ほど前にお亡くなりになった、本書の共著者である安西水丸さんのことが直接の影響だったわけではありません。少しは影響があったのだろうけど。

村上春樹さんは、私の同郷の人です。なので、氏が書いた阪神間についてのエッセイを読む度に郷愁が掻き立てられます。そういえば本書を読む1か月前にも明石や三宮を訪れたのでした。そうでした。それで本書を手に取ったのだろうな。うむ。

本書でも、「関西弁について」「阪神間キッズ」「夏の終わり」の3編が私の郷愁を満たしてくれました。東京に住むものが、かつて住んでいた関西を眺めて、という構図も私の心境と同じ。

他にも「「うゆりずく」号の悲劇」でなんていう一篇も。船やトラックの側面に書かれている、あのなぞの言葉についての考察です。なんとなく気になっていたけれど、よくよく考えれば妙なことについて考えを致せるそのアンテナ感度には尊敬をおぼえます。

本書は、1985年から1986年にかけて連載されたもののようですが、当時の東京の状況を描いたエッセイもよいです。「政治の季節」「バビロン再訪」とか、当時も今も、東京って変わったようでいて、何も変わっていないのだな、と思ったりして。

でも本書に収められたエッセイで一番よかったのは「オーディオ・スパゲティー」かな。オーディオに凝ると配線や設備を揃えるのが大変、という要約すれば他愛もない内容なのだけれども、その背後の分析が鋭い。「少なくともテクノロジーに関してはデモクラシーというものは完全に終結してしまっているように僕には思える」なんて、今のITやSNS全盛の時代の状況を見通したセリフが1985年に書けるところに、村上春樹さんの凄味があると思いました。

’14/03/29-’14/04/01


南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史


甲子園球場に浜風が吹けば、場内アナウンスが聞こえる。そんな至近距離に私の実家はある。20代半ばで東京に出るまで、大半の年月を実家で過ごした私にとって、プロ野球とは阪神と同義であった。

阪神ファンにとって、憎き相手は巨人。阪神ファンにとって、これは常識。子供の頃からさんざん刷り込まれる。

ところが、子供の頃の私にとって、巨人よりも嫌いな球団があった。それは南海ホークス。

我が甲子園球場至近の小学校にも、迫害をものともせず、巨人ファンを貫く連中がいた。ある時、巨人ファンの友人と応援するチームのことでやり合った。確か1984年、甲子園が日本一に酔う前の年の事である。詳細な内容は忘れてしまったが、彼に対し、「巨人は嫌いやけど、南海の方がもっと嫌いや」と言い返したことがある。

当時の私の心を思い返すと、巨人ファンの彼に対するおもねりもあったとは思う。ただ、そのころの私にとって、また、甲子園付近の住民にとって、南海ホークスとはこのような扱いであった。小学生の頃から野球史が好きで、大人向けの野球史の本を読んでいた私。南海ホークスのかつての栄光を知らなかった訳ではない。それでも、80年代の南海ホークスは、私にとってくすんだ存在でしかなかった。

本書は、南海ホークス球団の歩みを軸に、野球ファンと球団の関わり合いに焦点を当てている。南海ホークスと言えば、鶴岡監督という個性の下、100万ドルの内野陣を形成し、プロ野球の歴史に確かな足跡を残している。私が思うに、間違いなく歴代最強チームの一つだろう。だが、本書ではプレーヤーの偉業やそれぞれの紹介にはそれほどページを割いていない。野村監督ですら現役時代のエピソードはささやき戦術や月見草の語りが登場するのみである。むしろ、ユニフォーム変更などといったファンサービスの実践者として、また、引退後の解説者、執筆者としての露出についての方が多く取り上げられている。ドカベン香川選手もわずかな登場のみである。

このように、本書ではあくまで南海ホークスという球団とファンとの関わり合いを中心に据え、プロ野球ファンの生態史の分析を主眼としている。もちろん、御堂筋パレードには紙数も割かれているし、ダイエーへの身売りにも筆を費やしているが、それは球団とファンの関わりを語る上で欠かせないから。それに反して、プロ野球史では避けて通れない2リーグ分裂のごたごたにはそれほど触れていない。それよりも、当初のパ・リーグの旗振り役であった毎日の離脱による、マスコミ露出の激減と、それによるパ・リーグの長期人気低落の原因分析に重きが置かれている。

また、本書では野球ファンの応援史としての記述も充実している。早慶戦の応援スタイルから始まり、トランペットや鉦や太鼓の応援スタイル。果ては広島ファンが発祥とされているジェット風船から、甲子園の応援スタイルへと話題は膨らむ。大変興味深い一節である。

本書の分析はさらに続く。私の嫌っていた80年代の南海ホークスが、懸命のファン獲得への努力を行っていたこと。ホークスを応援し続けるファンの願いをよそに、身売りされるまでの経緯。そして、南海亡き後のファンが、どのように心の整理をつけたかにも分析の幅は広がる。甲子園の超人気チームの陰で、これほどの悲哀のドラマが繰り広げられていたことに、私は胸を衝かれた。

そして終章では、福岡に移ったダイエーホークスが、どのようにして集客力を高めていったかについて、様々な角度から考察を重ねる。ダイエーという巨大小売業の物量作戦と、西鉄移転後にプロ野球が渇望されていたという利点はあったとはいえ、見事にファンの心をつかんだダイエーホークスの姿に、今後のプロ野球とファンの関係を託し、本書は幕を閉じる。

その後、私が大阪球場に行くことは遂になかった。千里山にある大学に通っていた頃、よく難波で飲んでいた。行こうと思えば行けたが、遂に行かなかった。一度だけ足を踏み入れたのは、友人と難波WINSに行った時のこと。既に住宅展示場と化していたその場所は、もはや球場ではなく、私の好奇心の慰みものとなっただけであった。1998年、取り壊し開始。

私がようやく難波パークスにある南海ホークスメモリアル施設を訪れたのは、2012年の夏のことである。訪問前から聞いていたが、野村捕手・監督の紹介が露骨なまでに抹消されている施設。野村選手側の要望によるものとはいえ、「哀しい」の一言である。

本書は熱烈なホークスファンであった著者二人によるものである。合間に著者二人による一編ずつのエッセイが挿入されている。本書内の冷静な筆致とは違い、ホークスファンとしての心の叫びが赤裸々に記されており、本書に素晴らしいアクセントを加えている。その一編は、南海ホークスメモリアル施設が出来る前に書かれたと思われる。その中に、ホークス記念館の実現を熱く訴えている下りがある。南海ホークスメモリアル施設は実はそのエッセイによって実現したのではないかとまで思える一編である。いつの日か、野村選手が南海ホークスメモリアル施設に紹介されることを願わずにはいられない。

奇しくも、私が本書を読み終え、本稿に手を付けるまでの間に、水島新司さんの「あぶさん」の連載最終話が発売された。縁を感じる出来事である。しかし、これで南海ホークスの物語が終わる訳ではないと思いたい。不当に南海ホークスを貶めていた少年時代の私。彼への懺悔の意図もこめ、南海ホークスという球団の物語が、大阪に今も息づいていることを、何らかの形で再び確認しに行きたいと思う。

’14/01/25-14/01/30


昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち


私の実家は甲子園であり、幼少のころから大和球士氏の書く大人向けの野球史書などを読む子供であったため、未だに本書のような秀作に出会うたびに、心が高鳴る。

本書は戦前最後の中等野球大会として開催されながら、主催者が朝日新聞社ではなく文部省とされたため、幻の中等野球大会として球史からもほとんど抹消されかかった大会の経過と、その大会に出場した選手たちの人生模様を丹念に描いた作品である。

一回戦から決勝までの全試合について、対戦相手2校の存命選手から話を聞き取り、彼らの野球にかける思いと、その思いをぶつけた試合の様子が克明に記録されていく様は、一級のスポーツノンフィクションである。

ナンバーによくあるような選手の克明な心の動きを追うというよりは、すでに老境に入った元球児達の回想を元に構成されているため描写が客観的に抑えられており、それが却って当時の状況を鮮明に伝えてくれる。

また、聞き取った相手の方の戦争への関わりや、戦後についてのエピソードも載っており、青春盛んな時期に野球を思いっきりしたかったという無念さが簡潔な文体の行間からにじみ出てくる。談話を録った方々の名前は敬称略ではなく、さん付けで記されている律義さにも好感が持てた。

それにしても国威発揚の名の元に球場という名の戦場に出された選手たちの悲愴なこと。

戦場ゆえに選手交代は認めないという、今のルールではありえない運営が行われ、タイガース史で名が残る富樫選手が、剛球投手として、一回戦から決勝戦まで進みながらも、途中で肩を壊し、ほとんど投げられる状態でないのに決勝戦も完投させられ、投手生命を絶たれたエピソードは、この大会の奇形ぶりを表す点として印象に残った。

元選手が著者に語った言葉が印象的であった。平和な時代に思いっきり野球がやりたかったです。僕らの時代の球児は皆、そう思っているんじゃないですかね」

’12/02/14-’12/02/16