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明日をどこまで計算できるか? 「予測する科学」の歴史と可能性


本書は、科学は果たして未来を予測できるのかという点に着目した一冊だ。
人工知能が世界を滅ぼす可能性が取り沙汰されている昨今だが、果たして今の科学は未来を確実に予測できるのだろうか。

それを克明に追っている本書はとても面白い。

本書は、過去に人類がどのように予測に取り組んできたかを追う。そして現在の状況と未来に人類は予測を実現させられるのかを検証している。
予測とは人類にとって生存そのものに関わる問題だ。その解決への努力は、人類の進化の歴史でもある。

そもそも未来は定まっているのだろうか。私たちはどこまで未来を予測できるのだろうか。そして私たちは未来を変更できるのだろうか。私たちは自由意志の名のもとに生きていると信じているが、未来が定まっていたとすれば、私たちに生きる意味はあるのだろうか。
予測とは科学的な問題だと思われているが、実は極めて哲学的な問題なのだ。

過去において、人々の予測とは経験に基づいており、観念的なものにすぎなかった。
それでも科学者たちは、神の力に恐れおののくしかない過酷な現実を何とか乗りこなそうとモデルを作り上げようとしていた。宗教の名のもとにおける決定論は、人を予測から遠ざける装置としての威力を発揮していた。
予測することは神をも恐れぬ所業であり、バベルの塔のように神威によって一掃されるべき営みであった。

ところが、人類が科学の力を備えるにつれ、徐々に予測が現実的なものとなってきた。
人が神の運命に従うのか、それとも自由意志を持った存在なのか。そうした哲学的な論考も科学者によって唱えられるようになる。

「あるものに自由意志があるかどうかと考える場合、そのものの挙動をどの程度まで予測可能と考えるかにかかっていることが多い。あるシステムが完全に予測可能な場合、あるいは完全にランダムである場合には、私たちは、そのシステムが外からの力を受けていると仮定しがちである。しかし、もしシステムがその中間的な状態で動いていて、その挙動には認識可能なある種のパターンや秩序があるものの、予測はまだ難しい場合には、私たちは、そのシステムが独立して動いていると考える。」(124ページ)

今この瞬間にも、世界中で予測のための絶えざる試みと研究が続けられている。
例えば天気予報であり、病気の振る舞いであり、経済の景気の波など。

どれも人類の暮らしと生活と生存において欠かせない。まさに私たちが切望する営みだろう。
それらは人工知能が情報技術の粋を集めて予測しようとしている。だが、それらは全て、過去からの経験を探った結果にある。機械学習や深層学習による膨大なデータの学習によって。
そうした振る舞いはそもそも観察者効果によっての影響を与えているし、そもそも量子自体の振る舞いとしても不確定であるため、過去の経験値が全てにおいて未来を予測するわけではない。

物理的な法則によらない市場の景気の波は、人類の振る舞いの結果だ。そもそも、市場とは価値を交換する場所だが、その価値は状況に応じて変化する。つまり、予測によって市場に影響があった場合、その影響に引きずられて予測も変わってしまう。
「価値は固定された本質的な属性ではなく、状況とともに変化する流動的な性質である。」(248p)

本書の著者は人類の未来をあまり良い方向に予測していないようだ。
一方で人類を含めた生命のふるまいは予測できないともいっている。

「予測可能でないことは、生命の深淵なる性質だ。行動があまりに読まれやすい生き物は死に絶える。そして、予測不可能な環境においては、動的な内部秩序のようなものを保ちつつ創造的に活動する能力が欠かせない。正と負のフィードバック・ループのバランスが、生命プロセスが計算に還元できないことと相まって、複雑な生命体のふるまいを正確にモデル化することを不可能にしている。問題は、複雑な生命体は不安定なわけではなく、創造性と制御能力を併せ持っているという点にある。」(359p)

著者の人類やこの星の予測は以下のようなものだ。

「数百年以内のいつか、人口過剰と環境ストレスが最大の問題となり、貧困国の多くの人が干魃と飢餓で弱ったまさにそのとき、世界規模のパンデミックが起こるだろう。各国が検疫を強化し、人々が家に留まることで、世界中が連携して必要な物を必要な時に必要なだけ生産・調達する経済システムは崩壊するだろう。数年が経ち、疫病が鎮静化したとき、以前の経済システムを始動させてみる――が、錆びついているだろう。炭素排出量は下がり、やがて気候が安定する。戦争と侵略と暴動の時代を経て、人類も安定する。ふつうの暮らしに戻り、以前と違って賢く、謙虚で、自然に敬意を払うようになっている。」(372p)

これは決して悲観的な予測ではないと思う。
むしろ、地球を含めた総体として考えれば、人類という一つの生物の種が栄枯盛衰を繰り返すだけに過ぎないともいえる。ガイア理論のように。

もちろん、人類が技術的なブレイクスルーを果たし、宇宙へと乗り出す予測もありえるだろう。
シンギュラリティが達成され、人工知能によって滅ぼされた予測もありえるだろう。

どちらにせよ、私たちの予測に関わらず、この星の運命はより大きな未知の現象に委ねるしかないのだろう。
どのように予測しようとも、恐竜を絶滅させたような隕石が来たら終わりなのだろうし。

‘2020/08/02-2020/08/12


不思議な数列フィボナッチの秘密


かつての私は、数列が苦手だった。
中学生の頃は、一年生の頃こそ数学のテストは全て百点を取っていたが、二次関数が登場する二年生以降は惨敗の連続だった。百点満点中、10点台や20点台を連発していたことを覚えている。

こうした数式を覚えて、いったい世の中の何の役に立つのか。当時の私にはそれが全くわからなかった。当時の教師もそうした疑問には全く応えてくれなかった。もっとも、こちらからそのような問いを発することもなかったのだが。
そんな気持ちのまま、二次関数や座標や配列、そして数式を一方的に教えられても全く興味が持てずにいた。それが当時の私だった。

ところがここ二十年、私はシステムの開発者として生計を立てている。
かつての私が全く人生に役に立たない、と切り捨てていた数学を普段から業務で用いている。
もし昔の私に会えるのなら、勉強を怠っていた自分に数学が役に立つことを教えたいくらいだ。実例を交えながら。

例えばExcelのVBAを使い、セルの値を得たい場合を考えてみる。
D列からデータが始まるセル範囲で、求めたいデータが三列おきに現れるとする。それをどうやってマクロで取り込むか。
そうした際に数列の考え方を使っているのだ。
具体的にはこのようにマクロを組む。
・繰り返しで一定の条件に達するまで処理を行う。
・繰り返しの処理の中で変数の値に1を加える。
・上記の変数に3をかける。
・その掛けた結果に4を加える。
すると、繰り返し処理の中で得られる変数の値は、一つ目は4、次は7、以降は10、13、16、19と続く。これらの列番号をExcelの列番号、つまりアルファベットに当てはめるとD、G、J、M、P、Sとなる。

そのように、一定の規則でつながるセルの位置や値を見極め、それを処理として実装する処理は事務作業で頻繁に発生する。そうした作業はExcelのデータを参照し、編集を行う際に必須だからだ。日常的に必要になってくるといえよう。Excelだけでなく、他のプログラムでもプログラム時に数列の考え方は必須だ。
私は当初、業務に必要になっていたからそうしたプログラムを覚えていた。そしてプログラムを日常の業務で当たり前に使うようになってきたある日、その営みこそ、私がかつて苦手としていた数列や配列そのものということに気づいた。

そもそも私はなぜ数学が苦手になってしまったのだろう。よくわからない。子供の頃は、数字の不思議な性質に興味を持っていた時期もあったはずなのに。
例えば切符に書かれた数字。最近では電車に乗る際に切符を買う機会がなくなってしまったが、かつては切符を買うとその横に四桁の数字が印字されていた。その四桁の数字のそれぞれを、四則演算を使って10にするという遊びは欠かさず行っていた。
その遊び、実は数論の初歩として扱われるそうだ。

そうした数字の不思議な性質は、子供心に不思議に思っていた。
今も、ネットで〇〇数を検索してみると、不思議な数の事例が書かれた記事は無数に出てくる。〇〇には例えば完全、素、三角、四角、友誼、示性、黄金などが当てはまる。

本書は、不思議な数の中でもフィボナッチ数に焦点を当てている。フィボナッチ数とは、並んだ数値の二つの和を次の項目の値としたものだ。0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144のように。数字が徐々に大きくなっていくのが分かる。しかもそれぞれの数字には一見すると規則性が感じられない。

ところがこの数字の並びを図形にしてみるとさまざまな興味深い動きを描く。例えばカタツムリの殻。螺旋が中から外に広がるにつれ徐々に大きくなる。この大きくなる倍率はすべてフィボナッチ数列に従っている。またあらゆる植物の葉のつき方を真上から見ると、それぞれが日の当たるように絶妙に配置されている。これらも全てフィボナッチ数列の並びに近い。
ほかにもひまわりの種やDNAの螺旋構造など、自然界でフィボナッチ数列が現れる事例は多いという。自然は効率的な生態系を作るにあたってフィボナッチ数を利用しているのだ。

最近では昆虫や植物の機能や動きを研究する動きがある。バイオミメティクスと呼ぶこれらの研究から、科学上の発見や、新たな素材の開発や商品の機能が生まれることがあるという。
フィボナッチ数列を学ぶことで、私たちの非効率的な営みが、より効率的に変わるかもしれないのだ。

本書にはフィボナッチ数にまつわる不思議な性質や計算結果が豊富に紹介される。
正直に言うと、それらの計算結果を実生活や科学の何かに役立てられる自信は私にはない。だが、そうした法則を見つけてきたことで、人類はこれまで科学を発展させてきた。

おそらくフィボナッチ数に隠された可能性はまだあるのだろう。フィボナッチ数は、未来の人類が技術的なブレークスルーを達成する際に貢献してくれると期待している。
例えば、私が思いついたのは暗号だ。暗号化にフィボナッチ数を役立てられるように思える。
暗号の一般的な原理は、ある数とある数を掛けて出来た数値からは何と何を掛けた結果なのかが推測しにくい性質に基づいている。例えば桁数が約300桁ある二つの素数のそれぞれを掛けた数があったとしても、それが掛けられた二つの素数を見つけ出すのに、最新鋭のスパコンでも何億年もかかり、量子コンピューターでも非現実的な時間を要するという。

この暗号を作る際、フィボナッチ数列を使って作るのはどうだろう。フィボナッチ数列も数が膨大だが、それらは全て数式で表せる。
これを何かの解読キーとして用い、何番目のキーを使わなければ復号できないとすれば、暗号として利用できるように思う。もちろん、私が思いつくような事など、数学者がとっくの昔に思いついているだろうけど。
だが、暗号以外にも情報処理の分野でフィボナッチ数が活用できるかもしれないと考えてみた。
私のような素人でも暗号への使い道がすぐに思いつけたほどだから、優秀な数学者が集まればフィボナッチ数列のより有用な使い道を考えてくれるはずだ。

かつての私のような数学が苦手な人にこそ、本書は読んでもらいたい。

‘2020/07/12-2020/07/18


怪談―不思議なことの物語と研究


このところ、右傾化していると言われる日本。そのとおりなのかもしれない。今になって気づいたかのように、日本人が日本の良さを語る。

とはいえ、従来から日本の良さを語る日本人が皆無だったわけではない。要はこのところの国勢の衰えに危機感を持った方が増えたということだろう。だが、その国の良さを認めるという行為は、本来、国が栄えようが衰えようが関係ないように思える。それが証拠に、古来より他国からの来訪者に我が国の美点を取り上げられることも往々にしてあった。それだけではなく、我々が他国の方の指摘に教えられることも多かったように思う。それら来訪者の方々は、日本が世界の中で取るに足らぬ存在だったころに、日本の良さを称え、賞賛した。古代に朝鮮半島や中国から渡ってきた渡来人達、戦国の世にキリスト教をもたらした宣教師達、幕末から明治にかけて技術を携え来日した雇われ西洋人達、等々。

彼らが見聞きし書き残した古き良き日本。その文章には、現代に通ずる日本の良さが凝縮されている。今の我々の奥底で連綿と伝わっているにも関わらず、忘れさろうとしている日本が。彼ら異邦人から我々が教わることはとても多い。にわか愛国者達がネット上で呟く悪態や、拡声器でがなり立てるヘイトスピーチなど、他国を貶めることでしか自分を持ち上げられない次元とは違う。

著者もまた、異文化である日本の素晴らしさを認め、海外にそのことを伝えた一人。そればかりか、日本に心底惚れ込み、日本人女性と結婚し帰化までした。

本書の現代はKWAIDANである。原文は英文で書かれ、アメリカで刊行された。耳なし芳一、ろくろ首、雪おんな、などといった日本でも著名な物語のほか、あまり有名ではない日本各地の民話や昔話を種とした話が多数収められている。その意味では純然たる著者の創作ではない。しかし、その内容は種本の丸写しではなく、著者が日本に伝わる話を夫人の力を借りて翻訳し、翻案したものという。つまり、日本の精神を、西洋人である著者の思考でろ過したのが本書であると言える。

では、本書の内容は西洋人の異国趣味的な観点から日本の上澄みだけを掬ったものに過ぎないのか。本書を読む限り、とてもそうは受け取れない。本書の内容は我々現代日本人にも抵抗なく受け入れられる。それは我々が西洋化してしまったために、西洋風味の日本ばなしが違和感なく受け入れられるという理屈ではあるまい。ではなぜ西洋人の著者に本書が執筆できたのだろうか。

著者は日本に来日する前から、超自然的な挿話を好んでいたという。そして諸国を渡り歩いた著者が日本を終の地と定めたのも、その超自然的な嗜好に相通ずるものを日本に感じたからではないか。超自然的とは合理的とは相反する意味を持つ。また、合理的でないからといってみだりに排斥せず、非合理な、一見ありえない現実を受け入れることでもある。我が国は永きに亘り、諸外国から流入する文化を受け入れ、自らの文化の一部に取り込んで来た。その精神的な器は果てしなく深く、広い。著者は我が国の抱える器の広さに惹かれたのではなかったか。

そうとらえると、本書の内容が今に通じる理由も納得できる。これらの話には、日本の精神的な奥深くにあるものが蒸留され、抽出されている。不思議なものも受け入れ、よそものも受け入れる話が。科学的な検証精神には、荒唐無稽な話として一蹴され、捨て去られる内容が、今の世まで受け継がれてきた。著者もその受け継がれた内容に、日本の精神的な豊かさを感じた。そしてその豊かさは、まだ我々が忘れ得ぬ美点として残っているはずである。

本書にはもう一つ、怪談噺以外にも著者のエッセイ風の物語が収められている。「虫の研究」と題されたその中身は、「蝶」「蚊」「蟻」という題を持つ3つの物語である。

「蝶」は日本に蝶にまつわる美しい物語や俳句があり、そこには日本人の精神性を解くための重要なヒントが隠されているという興味深い考察が為されている。蝶の可憐な生き様の陰には、日本人の「儚さ」「わびさび」を尊ぶ無常観があると喝破し、蝶を魂や御先祖様の輪廻した姿になぞらえるといった超自然的な精神性を指摘する。

「蚊」は日本の蚊に悩まされる著者の愚痴めいた文章から始まる。続いて蚊に対抗するには、蚊を培養する淀んだ水々に油を垂らすことで増殖を抑えることが可能、という対策を紹介する。そこで著者の論点は一転し、科学的に蚊を退治することに疑問を呈する。蚊を退治するために犠牲になる大切な物-佇む墓石の群れや公園の佇まいに対する慈愛の眼を注ぐ。蚊を退治するのではなく、共存共栄の道を探り、西洋的な科学万能な視点からは一線を画した視点を提示する。

「蟻」はその巣を営むためになされる無数の生き様から、社会的な分業の有り方を評価し、個人主義的な風潮に一石を投ずる。そればかりではない。今、最新の科学現場では、生物の生態から有益な技術が多数発見されている。有名なところでは、蜘蛛の糸の強靭な性質性から人工繊維の開発、サメの肌から水の抵抗を抑えた水着の開発、鳥の身体の形状からは新幹線など高速鉄道の形状の開発等が知られている。「蟻」には、このような蟻の社会的な能力から、人間が学べることがもっとあるのではないかという提起が為されている。今から100年以上前に刊行された本書に、今の最新科学技術を先取りした内容が書かれていることは、実に驚きと言わざるをえない。同時代の寺田寅彦博士の諸研究も、今の科学を先取りしていたことで知られる。が、著者の書いた内容も、同様にもっと評価されてもいいと思う。

これら3つの物語に共通するのは、謙譲の精神である。日本人の美徳としてよく取り上げられることも多い。著者が存命な頃の日本には、まだまだこのような愛すべき美徳が残っていたようだ。振り返って、現代の日本はどうだろうか。

もちろん、謂われなき中傷には反論すべきだし、国土侵犯には断固とした対応が必要だろう。ただし、そこから攻撃を始めた攻撃が、他国の領土で傷跡を残した途端、日本の正当性・優位性は喪われる。また、著者の愛した日本のこころも危ういものとなってしまう。著者は晩年、東京帝大の職を解かれ、日本に失望していたと伝え聞く。それは丁度、日清・日露戦争の合間の時期にあたる。著者の失望が、攻撃的になりつつあった日本へのそれと重ねるのは的外れな解釈だろうか。

今の日本も、少し危うい面が見え隠れし始めたように思える。果たして著者の愛した、超自然的な出来事や異文化の事物を受け入れる器は今の日本に残っているだろうか。また、著者の愛した謙譲の精神は今の日本から見いだせるだろうか。

何も声高に叫ぶ必要はない。ヒステリックになる必然もない。そんなことをするまでもなく日本の良さをわかっている人は地球上に数え切れぬほどいる。味方になってくれる人も大勢いる。そのことは、一世紀以上前に日本で生涯を終えたラフカディオ・ハーンという人の生涯、そして本書の中に証拠として残っている。

‘2014/9/19-‘2014/9/23