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ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


ハル、ハル、ハル


本書は、三編の短編からなっている。
どれもがスピード感に満ちており、一気に読める。

「ハル、ハル、ハル」
「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ」という一文で始まる本編。
“全ての物語の続編”というキーワード。これが本編を一言で言い表している。

全ての物語とは、出版された小説に限らない。あらゆるブログやツイッターやウォールやストーリーも含む。物語は何も発表されている必要はない。人々の脳内に流れる思考すら全ての物語に含められるべきだからだ。
この発想は面白い。

物語とは本来、自由であるはず。物語と物語は自由につながってよいし、ある物語が別の物語の続編であるべきと決めつける根拠もない。
場所や空間が別であってもいい。物語をつむぐ作者の性別、人種、民族、時代、宗教は問わない。どの物語にも人類に共通の思考が流れている限り、それが続編でないと考える理由は、どこにもない。

本編のように旅する三人組のお話であっても、読者である私の人生に関係のない登場人物が出てこようとも、それはどこかで私=読者のつづる物語とつながっているはず。
十三歳。男。十六歳。女。四十一歳。男。本編の三人の登場人物だ。

私に近いのは四十一歳の男だろう。彼と私に似ているところは性別と年齢ぐらい。
彼はリストラに遭い、妻子にも逃げられ、今はタクシー運転手をしている。そんな設定だ。

そんな彼が偶然拾ったのが、子供のような年齢の若い男女。二人はなぜか拾った拳銃を持っており、それで男を脅してきた。どこか遠くに行け、と。

三人の名前のどこかにハルがつくため、奇妙な連帯感でつながった三人は、あてもなく犬吠埼を目指す。ちょうど、人生について投げやりになっていた年長のハルは、若い二人の勢いにあてられ、誰かの続編の物語を生き始める。

そう考えてみると、そもそも私たちの人生も誰かの人生の続編と言えないだろうか。それは生殖によってつながった生物的なつながりという意味ではない。時代や場所や文化は違えど、一人の人生という物語を生きることは、誰かの人生の続きを生きることにほかならない。同じ惑星で生きている限り、人がつむぐ物語は誰かの物語に多かれ少なかれ関連しているのだから。

私たちは本編に出てくるハルたちの物語をどう読むべきだろうか。自分の人生に関係ないとして退けてよいだろうか。作り話だと知らぬふりをすれば良いだろうか。
どれも違う。
彼らの行動は自分たちのひ孫が起こす未来かもしれないし、並行している可能性の現実の中で自分がしでかす暴挙なのかもしれない。

「そして物語に終わりはない。全部の物語の続編にだって。この場面のあとにも場面はずっとずっと続いて。時間は後ろに流れ続けて」(71P)

私たちの人生にも、本来の終わりはない。意識のある生物があり続ける限り。
終わりが来るとすれば、56億7千万年あとに地球が消え去るか、あらゆる原子が一点に終息したビッグクランチの時点だろう。
だが、そんな無意味なことを考えても仕方がない。それより、誰もが誰もの人生の続編を生きていると考えたほうが、生きやすくはないか。著者が本編で提案した物語の意味とは、そういうことだと思う。

「スローモーション」
一人の少女の日記だったはずなのに、それがどんどんと意味を変えていく本編。
さまざまな少女の文体がめまぐるしく変わり生まれてゆく文章は、少女の移ろいやすい意識のあり方そのものだ。

自分と他者。世間と仲間。外見と内面。
少女の意識にとってそれらを区別することは無意味だ。
全てが少女の中で混在し、同じレベルで入れ代わり立ち代わり意識の表層に現れる。

そんな鮮やかな文章の移り変わりを堪能できる。

そして本編はある出来事をきっかけに、少女が過去をつづっていたはずの文章が、現在進行する時間の流れに沿い始める。

それもまた、現実を自我の中に消化しながら生きる少女の意識にとっては、矛盾がなく存在する自分なのだ。

さらに少女の日記はレポートとしての文章から報道としての性格を帯び始める。
その移り変わりは、今の世に氾濫するSNSのあり方を表しているように思える。
人の意識が無数に公開され、自分で自分の感想を報道して飽きない今の世相を。

著者がそれを見越して描いていたとすれば本編のすごさは実感できる。
小説としての可能性も感じさせながら、今の世を切り取って批評する一編だ。

「8ドッグス」
本編のタイトルを日本語に訳すと八犬。
ここから想像できるのは「南総里見八犬伝」だ。
言うまでもなく江戸時代に書かれた日本文学史上に残る作品だ。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が書かれた玉を持つ八人が、さまざまな冒険をへて里見家の下に参ずる物語だ。

その有名な物語を背景に奏でつつ、著者が語るのはある男の内面だ。
彼女であるねねを思いつつ、律義に生きる彼の思考の流れはどこか危うさをはらんでいる。
ねねのためといいながら彼が行う行動。それは、八犬伝をもじった刺青を自らに彫るなど、どこか狂気の色を帯びている。

徐々に暴走してゆく狂気は、ねねを見張るところまで突き進んでいく。
そしてそこで知った事実が彼の狂気にさらなる拍車をかけてゆく。

ここで出てくるのは皮膚だ。彼は皮膚に仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字を丸で囲って彫り込む。それらの文字は社会で生きる規範となるべき意味を持っている。
だが、それらの文字が皮膚に彫り込まれることで、現実と自我を隔てる境目は破れ、彼の狂気が現実の社会に害を及ぼしていく。

狂気の流れがこれらの文字を通して皮膚へ。それを文学としてメッセージに込めたことがすごい。

‘2020/01/29-2020/01/29


僕が本当に若かった頃


老境に入った著者が過去の自分を思い返しつつ、そこから生まれた随想を文章にしたためる。
本書を一言で言い表すとこのようになる。

本書に収められた十の短編をレビューにまとめることは、正直言ってなかなか難解だ。

なぜなら、本編には、著者自身の人生を彩った出来事が登場し、著者の親族も登場し、そして著者が今までに発表した作品の登場人物が登場するからだ。

著者の代表作である『同時代ゲーム』はよく知られている。その世界観が著者が生まれ育った四国の山奥の村をモチーフとされていることも。
そうした作品に登場する人物は、著者の人生にも登場する人物でもある。そうした人物が本書にはあちこちで登場する。だから、著者の作品を読んでいないと読者には何のことか分からなくなってしまうのだ。

「火をめぐらす鳥」
この一編は、著者の生涯を持って生まれた息子との日々を描いている。
今や作曲家として著名な光氏と過ごした時間は、著者にどのような影響を与えたのか。
その一端が描かれる本編からは、光氏の存在が著者の作家活動に大きな影響を与えたことが見て取れる。

「「涙を流す人」の楡」
華やかな外交官との交流を語る内容が一転して、著者の育った四国の山奥の谷間の村の描写へと変わる。
その二者を繋ぐイメージがニレの木だ。楡を通して結びついた二つの世界。

その二つの世界の主人公である著者は時間によって隔てられている。
百戦錬磨の外交官との談論ができるようになった、と著者が感慨をもつ今。そして、四国の谷間の村の幼い頃の経験。
著者の育った谷間の村の狭いけれど豊かな世界が授けてくれたことは、著者の今と確かにつながっている。
その谷間の村の経験は、著者の作家活動にも大きな恵みをもたらしてくれた。そう著者は振り返る。

そしてそうした自分にさらなる成熟がもたらされたのも、外交官との交流があったからだと著者は述べる。
N大使の逝去に際して書かれたと思われる本編で、著者は今の自分の心で過去を再構成する。

それにしても著者の文章の読みにくさといったら!

「宇宙大の「雨の木」」
時間と空間をつらぬいて遍在する「不死の人」。
不死の人を小説に書きたいと願う著者が、文学の影響や好みを自由自在に語る。
三島由紀夫を批判し、フォークナーの作品世界を好む著者。
著者の探し求めるイメージの断片がさまざまに現れる。

“雨の木”は著者の作品でも登場する。
著者が想起する多様なシンボルが本編のように混交して現れることで、著者の小説の基本的なイメージが形をなしてゆく様子をうかがうことができる。

「夢の師匠」
谷間の村の「夢を読む人」と「夢を見る人」を見て育った著者の子供の頃の記憶。
彼らが戦争によって境遇を変えられてしまう様子は、著者に強い印象を刻む。
そのイメージを通し、続いての「治療塔」の構想へとまとまってゆくいきさつを記した一編だ。

平田篤胤全集の「仙童寅吉」の話と、ゲルショム・ショーレムの「ユダヤ神秘主義」に書かれた中世ヨーロッパの祈禱神秘主義をめぐる引用。
それらに刺激を受けたという著者がそれらを引用しつつ、SFへとイメージを広げてゆく。

「治療塔」
著者にとって珍しいと思われるSF作品。
筒井康隆氏と著者の交流は知られているが、本編は筒井氏の影響から生まれたのだろうか。
古い地球を見捨てる人類と、古い地球に留まり続ける人類。
新しい人類にならんとする人々は、治療塔で癒やされる。
著者にとって、人類や地球は理想の姿ではないだろう。ところが治療塔の概念は、人類が自ら根本的に成長を遂げることを諦めてしまっているかのようだ。
それは著者自身の諦めの表れなのだろうか。『治療塔』はまだ読んでいないので、機会があれば読んでみたいと思う。

「ベラックワの十年」
ダンテの「神曲」をモチーフにした著者の作品『懐かしい年への手紙』に登場させなかった道化者のべラックワ。

その姿を振り返りながら、自らの中の道化の部分や放埒さを思い起こそうとする一編だ。
本書の中では読みやすい部類に入る。

ノーベル賞を受賞し、難解と言われる作風のため、著者に近づきがたい印象を受けているのなら、本編で書かれた著者の姿から印象が変わるかもしれない。

「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
性的に放縦だったとされるマルゴ公妃の生涯を振り返るテレビ番組をきっかけに、ある人物の放縦と性的な自由さを探ってゆく一編。

著者の思索の対象はマルゴ公妃だけではない。テレビ局のスタッフである篠君の言動も著者の興味を引く。その二人を通して、著者は人の自由さとは何かについて考えを深めてゆく。

著者にとって冒険とは文学的なそれに等しいと思う。だが、著者は自由で羽目を外した行いをする人物には見えない。きっと堅実だったと思う。動くよりも見る側の人。
その証拠に以下のような文章が登場する。
「事実、小説家は志賀、井伏といった例外的な「眼の人」をのぞいて、見る瞬間にではなく、文章を書き、書きなおしつつ、かつて見たものをなぞる過程でしだいに独特なものを作ってゆくのだ。」(202p)

「僕が本当に若かった頃」
著者が20歳の頃、家庭教師をしていた繁君。ひょんなことで繁君の消息がわかったことから、著者が当時のことを思い出し、つづってゆく一編。
まさに著者が若かった頃の話だ。

かつて著者の前から消息を絶った繁君に何が起こったのか。繁君はその理由を長文の手紙で知らせてくる。
本編に載っているその手紙は果たして著者の創作なのか。それとも繁くんの実際の手紙なのか。私にはわからない。

繁君の秘密が明かされてゆく様は本編は、ミステリーを読んでいる気分になる。

「茱萸の木の教え・序」
著者の故郷の四国から、孝子ことタカチャンの残した文書やその他の事績をまとめる段ボールが送られてきたことから始まる一編。
孝子とは、著者の従妹にあたる。起伏の多い人生を送った末、亡くなった。
著者の伯父がその一生をまとめたいと、作家である著者に託す意図で送ってきた資料の数々。

著者はタカチャンの思い出を振り返る。その中で著者は故郷で繁っていた茱萸の木に着目する。タカチャンの残した文の中でもいく度か取り上げられる茱萸の木。
伐採されてしまった茱萸の木に語りかけていたタカチャンの思いは何か。それを探りながら著者はタカチャンの一生をつづってゆく。

そうすることで著者なりに同時代を生きたタカチャンの鎮魂を果たそうとするかのように。

「著者から読者へ」
これは本書に収められた「僕が本当に若かった頃」を書いた著者から読者に向けての手紙の体裁をとっている。
著者にとっては「僕が本当に若かった頃」は、旅の疲れを癒やす作品でもあったようだ。

解説の井口時男氏の文章は、大江健三郎という巨大な作家の著作群の中で、本書が占める意味を克明に記している。
その中で本書のいくつかで登場した若い頃の著者=僕の出来事は、徹底的に言語化された「僕」というテキストになっていることが示される。つまり、本書は私小説ではないし、エッセイもどきの小説でもない。
本書は著者がその小説技法を存分に生かした巧妙な短編群なのだ。

‘2018/11/20-2018/11/28


スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け


1977年に第一作が封切られてから42年。
その期間は、私の年齢にほぼ等しい。

私の場合、旧三部作についてはリアルタイムで体験していない。全てテレビ放送で観た世代だ。
それでも、一つの物語が終わろうとする場面に立ち会う経験は、人を感慨にふけらせる。

一方で42年にわたったシリーズが完結と銘打たれると違和感を感じるのは否めない。
故栗本薫氏の言葉を借りるなら、物語とは本来は永遠に続くものである。であるなら、スター・ウォーズとは本来、永遠に続く物語の一部分に過ぎないはずだ。
だが、本作は幕を閉じた。語られるべき無数のエピソードを残して。
その点については正直にいうと違和感しかない。

それにもかかわらず、9作目である本作をもって、シリーズをいったん完結させると言う決断は評価できると思う。

というのも、スター・ウォーズとは1つの文化でありサーガであり、人類に共通の遺産ともいえるからだ。
エピソードⅦのレビューにも書いたが、スター・ウォーズ・サーガは人々にとってあまりにも普遍的な物語となってしまった。そのため、スター・ウォーズにはいままでの物語を越えた新たな展開や、意表をついた設定の変更が許されない。いわば聖域でもあるし、不可侵の存在に祭り上げられてしまっている。

それは、スター・ウォーズのテンプレートと言っても良いほどだ。
テンプレートとは、言い方は悪いがマンネリズムであり、言い方を変えれば、安定の…である。このテンプレートに乗っかっている限り、これ以上エピソードを連ねても意味はないと思う。
そうした意味で、ここら辺でスカイウォーカーの物語に区切りを打つことには賛成だ。

だが、テンプレートにはテンプレートの良さがあり、それこそがスターウォーズの中毒性の源でもある。
むしろ、これからのスター・ウォーズとは、共通の世界観を下敷きにしたまま、他のメディアで展開した方が良いと思う。その方が深みが増すと思うのだ。

スター・ウォーズに特有の展開は、エピソードⅣ、エピソードⅥの二作ですでに提示されてしまっている。
大勢で敵陣に侵入し、なんらかの手段で敵の致命的な隙をつく。その一方で超人的な能力を持つジェダイが単身、敵陣に乗り込み宿命に立ち向かう。物語の終盤はその両面からストーリーが展開される。

エピソードⅦはその設定を踏襲し、しかもそれを逆手にとってどんでん返しを何度も組み込むことで、新旧の両世代にスター・ウォーズの魅力を知らしめた。

本作もその設定を踏襲している。
スカイウォーカーの物語を完結するためには、意表を衝いたストーリーである必要はないのだろう。
9作の間に敷かれた伏線を回収し、すべての矛盾や疑問を何億人もいる世界中のファンに対して示す。そのプレッシャーたるや大変なものだったはずだ。
だから、本作がどういう風に幕を閉じるのか。気になっていた。

そもそも旧三部作であるエピソードⅣ〜Ⅵが先に製作された理由の一つは、当時の撮影技術が未熟だったためだという説がある。
その説によれば、ジョージ・ルーカスはエピソードⅠ〜Ⅲに取り掛かるまで10数年の時間を待つことに費やし、技術の進化が構想に追いつくのを待ったという。
だが新三部作が公開されるまでには、そこからさらに20年の月日が必要だった。今や特殊効果の描写はほぼ現実と変わらないレベルにまで到達しようとしている。

その証として挙げられるのが、前作の公開後すぐに亡くなったレイア姫ことキャリー・フィッシャーが、エピソードⅦに登場したときの姿とほぼ変わらない容姿で本作でもスクリーンに登場していることだ。
それはつまり、特殊効果やCGが現行の映像形式の中では究極にたどり着いたことを示している。技術の力は俳優の存在意義すら揺るがすようになっている。
かつてジョージ・ルーカスが映像技術の進化を待った段階はとうにすぎているのだ。

であるならば、新三部作では何を語るべきなのか。
旧三部作では、親子の関係を描き、次の三部作では師弟の関係を描いた。
エピソードⅦからの三部作は、血統に頼らない関係を描いていたように思う。

偶然巡りあった個人がチームとして、友達として大義のために団結し、冒険に向かう。そこには何かのメッセージを感じざるを得ない。
情愛よりも肉親愛よりも、友情や絆が優先される。新三部作では、この点に重点が置かれていたように思う。

それは作中の登場人物だけではない。映画に関わったすべてのスタッフにも言えることだと思う。映画を作り上げることは、壮大な数の人々が共同で行う作業だ。
その中のどれが欠けても映画は完成しない。誰が怠けても作品に隙がうまれる。その事は、私のような映画製作の門外漢にとっても容易に理解できる。

上質な映画でありながら、世界中のファンの期待に応える作品を生み出す苦労。それを成し遂げたものこそ、仲間の団結ではないだろうか。

それを示すのが、本作のクライマックスのシーンにこめられている。
レイが宇宙にあまねく存在するフォースを知覚するシーンだ。
今までに登場したジェダイの声がレイにフォースを通してメッセージを送る。
フォースとは宇宙に普遍の力であり、共通意志の集合体であることが理解できる瞬間だ。

フォースに込められた集合意志とは、40数年の間、スターウォーズに関わったあらゆるスタッフの集合意志でもある。
何万人、いや何億人の意志がスター・ウォーズを育て上げ、世界で最も愛されるサーガへと成長させた。
そのスタッフやファンの意思こそが、親子や師弟の絆を凌駕する仲間の意志とは呼べないだろうか。

そうしたものに支えられた本作は、良い意味で9作の末尾を飾るエピローグなのだ。
だからこそ、本作のクレジットの筆頭に登場するのはレイア姫ことキャリー・フィッシャーであり、続いて登場するのがルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルなのだと思う。

なお、クレジットで一瞬見かけたが、ダークサイドに堕ちたアナキン・スカイウォーカーを演じたヘイデン・クリステンセンの名前もあった。
どのシーンで登場したのだろう。役名を見逃してしまった。
それを確認するためにも、全エピソードは観直したい。

そして無限に広がるスター・ウォーズサーガのエピソードの可能性についても思いを馳せたい。製作したスタッフのエピソードについても。

‘2019/12/26 イオンシネマ新百合ヶ丘


時をかける少女


筒井康隆展に行き、感銘を受けた事は『宇宙衛生博覧会』のレビューで書いた。
筒井康隆展はファンにとってうれしい内容に満ちていた。会場には、今まで著者が発表してきた名作たちがさまざまな形で紹介されていた。その中でも一つの空間を占めていたのが本書だ。
著者の名を広め、一つの作品として幅広い層から支持を得た作品だから当然だろう。本書と本書からマルチメディア展開したグッズの展示は圧巻だった。

その展示を見てからというもの、私の脳裏から『時をかける少女』のテーマソングが鳴り止まなくなった。
原田知世さんと松任谷由実さんのどちらもGoogle Musicで何度も聞いたが鳴り止まなかった。鳴り止ませるには映画をみるか、原作を読むほかない。

そう思っていた時、トランクルームに本を預けに行ったら、以前しまっておいた本の山の一番上に本書が覗かせていた。これは何かの啓示に違いない。
前回、本書を読んだのがいつだろう。全く思い出せない。おそらく私が著者の本を集中的に読んでいた1995年から1997年の頃に読んだはず。

正直、本書の内容はほとんど覚えていなかった。
なので、とても新鮮だった。また、なぜ本書、いや、本書の表題作がこれほど支持されているのか、今も支持されているのかが分かった気がする。

どこかで読んだ気がする説明がある。
それによると、本編が発表されてから50年以上がたつが、いまだにタイム・リープは実現されていない。
そのため、私たちにとって本編で描かれたタイム・リープの考えは今もなお、うらやましさの対象なのだ。
だから技術がこれだけ進歩しても、読者の心をときめかせ、古さを感じさせない。
それが、映画化は4回、テレビドラマ化は5回と繰り返しメディア化されてきた理由なのだろう。

そして新しいながらも、本編からは懐かしき少年・少女小説の折り目の正しさを感じる。
読者に著者が語りかけ、同意を求めるような語り口。ポプラ社の少年探偵団・シリーズや、ルパン・シリーズを読んだ時のような懐かしさ。そうした小説に親しんだ私のような層には、本編はたまらない思い出を蘇らせてくれる。

しかも本編は、少年・少女小説でありながら恋を描いている。
その恋も、子供っぽい初恋ではなく、未来の感性を予想した率直な告白なのがよい。
本書が発表されてから50年がたつが、このような形の告白はまだ一般的になっていない。だから今も本編が新鮮なのだろう。

もう一つ。本編には未来の技術がほとんど描かれない。本編には未来が関係するのだが、それにも関わらず、著者は書いた当時の技術しか登場させていない。
昔のSF小説を読むと、現代より遥か先の未来を書いていながら、すでに私たちにとって古く寂れた技術が登場し、私たちの興を殺ぐことがままある。本編にはそれがない。唯一「磁気テープ」が出てくる場面があり、その部分は著者自身の手によって書き換えてほしいと思う。
だが、それ以外に私たちがレトロだと感じる未来の道具は登場しない。それがよい。

そうした部分は著者が執筆した当時に考慮したのかどうかはわからない。
だが、結果として本書は今でも古びずに読み継がれている。そして幾度となく複数のメディアで作られ続けている。
著者が冗談で本編を称して「金を稼ぐ少女」というが、まさにそのような存在なのだろう。

続いての二編も、少年・少女の小説の伝統をよく受け継いだ語り口だ。

「悪夢の真相」
著者が心理学に造詣が深いことはよく知られている。
本編は、日常の出来事を深層心理の面から描いていく。大人にとってみると、何気ない日常は、子供にとっては重大であり新鮮だ。

そして、自分の考えがどれだけ以前の記憶によって左右されているか。どれだけ夢が過去の経験と結びついているか。
その記憶や経験は覚えていないものも多い。例えば胎児の頃、乳児の頃の記憶も含めて。

そうした子供の視点から日々の出来事を描いていくことで、本編は少年・少女にも心の不思議さを伝えている。
当時ではいまよりも新鮮な作品として存在感があったことだろう。残念なことに私は本編のことをほとんど覚えていなかった。それは多分、本編の筋書きに印象がなかったからだろう。
もちろん本編にはドラマチックな出来事が登場する。だが、細かくエピソードを積み上げ、背後に隠されていた過去の出来事に秘められた謎を明かす本編では、それはかえって印象に残らなかったのだろう。

「果てしなき多元宇宙」
これこそSF、と呼べるような一編だ。
多元宇宙とは、複数の異なる時空で時間軸が存在し、その中では地球や日本があったり、別々の意志を持った存在が生活を行っている。お互いは行き来できることもなく、存在すら知らない。
多元宇宙は設定上では自由に理論を設定できるので、SF作家には便利な存在だ。
おそらく昔から数えきれないほど類似の設定で物語が描かれてきたはずだ。

著者もその設定を借り、とある次元で起こった大事故によって複数の時空に影響を与えるまでになったと設定する。
それによって日本の平凡な女の子が全く違う時空に移動したり、日本で夢見ていた生活が実現できる、という物語だ。

こうやって三編を読むと、ライト・ノベルの創始者こそが著者である、という理由もわかる気がする。
いつまでも作品を発表し続けてほしいと願う。ちなみに私の脳内でヘビーローテーションしたテーマ曲は、本書を読んだことで終息した。

‘2018/10/24-2018/10/24


私の家では何も起こらない


本書は一軒の家についての本だ。ただし、家といってもただの家ではない。幽霊の住む家だ。

それぞれの時代に、さまざまな人物が住んでいた家。陰惨な出来事や代々の奇矯な人物がこの家で怪異なエピソードを紡いできた。そうした住人たちが残したエピソードの数々がこの家にさらなる怪異を呼び込み、さらなる伝説を産み出す。

本書は十編からなっている。各編はこの家を共通項として、互いに連関している。それぞれの編の舞台はばらばらだ。時間の流れに沿っていない。あえてバラバラにしている。バラバラにすることでかえって各エピソードの層は厚みを増す。なぜならそれぞれの物語は互いに関連しあっているから。

もちろん、そこには各エピソードの時間軸を把握した上で自在に物語を紡ぐ著者の腕がある。家に残された住人たちの思念は、無念を残したまま、その場をただよう。住人たちによっては無残な死の結果、人体の一部が残されている。人体に宿る思念が無念さを抱けば抱くほど、家には思念として霊が残る。この家の住人は、不慮の事故や、怖気を振るうような所業によって命を落として来た。そうした人々によるさまざまな思念と、そこから見たこの家の姿が、さまざまな角度でこの家を描き出し、読者へイメージとして伝えられる。

世にある幽霊屋敷とは、まさにこのようなエピソードと、残留した想いが作り上げて行くのかもしれない。不幸が不幸を呼び、思念が滞り、屋敷の中をこごってゆく。あまたある心霊スポットや幽霊屋敷とは、こうやって成り立ってきたに違いない。そう、読者に想像させるだけの力が本書にはある。冒頭の一編で、すでにこの家には好事家が集まってきている。彼らは、家主の都合など微塵も考えず、今までにこも屋敷を舞台として起こったあらゆる伝説や事件が本当だったのか、そして、今も誰も知らぬ怪異が起こっているのではないか、と今の持ち主に根掘り葉掘り尋ねる。迷惑な来訪者として、彼らはこの家の今の持ち主である女流作家の時間を容赦なく奪ってゆく。もちろん、こうした無責任な野次馬が幽霊屋敷の伝承にさらなる想像上の怪異を盛り付けてゆくことは当然のこと。彼らが外で尾ひれをつけて広めてゆくことが、屋敷の不気味さをさらに飾り立ててゆくことも間違いない。

たとえ幽霊屋敷といえど、真に恐るべきなのは屋敷でなければ、その中で怪異を起こすものでもない。恐るべきは今を生きている生者であると著者はいう。
「そう、生者の世界は恐ろしい。どんなことでも起きる。どんな悲惨なことでも、どんな狂気も、それは全て生者たちのもの。
それに比べれば、死者たちはなんと優しいことだろう。過去に生き、レースのカーテンの陰や、階段の下の暗がりにひっそりと佇んでいるだけ。だから、私の家では決して何も起こらない。」(26p)

これこそが本書のテーマだ。怪異も歴史も語るのは死者ではなく生者である。生者こそが現在進行形で歴史を作り上げてゆく主役なのだ。死者は、あくまでも過去の題材に過ぎない。物事を陰惨に塗り替えてゆくのは、生者の役割。ブログや小説やエッセイや記事で、できごとを飾り立て、外部に発信する。だから、一人しか生者のいないこの家では決して何も起こらないのだ。なぜなら語るべき相手がいないから。だからエピソードや今までの成り立ちも今後は語られることはないはず。歴史とは語られてはじめて構成へとつながってゆくのだ。

つまり、本書が描いているのは、歴史の成り立ちなのだ。どうやって歴史は作られていくのか。それは、物語られるから。物語るのは一人によってではない。複数の人がさまざまな視点で物語ることにより、歴史には層が生じてゆく。その層が立体的な時間の流れとして積み重なってゆく。

そして、その瞬間の歴史は瞬間が切り取られた層に過ぎない。だが、それが連続した層で積み重なるにつれ、時間軸が生じる。時間の流れに沿って物語が語られはじめてゆく。過ぎていった時間は、複数の別の時代から語られることで、より地固めがされ、歴史は歴史として層をなし、より確かなものになってゆく。もちろん、場合によってはその時代を生きていない人物が語ることで伝説の色合いが濃くなり、虚と実の境目の曖昧になった歴史が織り上げられてゆく。ひどい場合は捏造に満ちた歴史が後世に伝わってしまうこともあるはずだ。

しょせん、歴史とは他の時代の人物によって語り継がれた伝聞にしか過ぎず、その場では成り立ち得ないものなのだろう。

著者は本書を、丘の上に建つ一軒家のみを舞台とした。つまり、他との関係が薄く、家だけで完結する。そのように舞台をシンプルにしたことで、歴史の成り立ちを語る著者の意図はより鮮明になる。本来ならば歴史とは何億もの人々が代々、語り継いでいく壮大な物語だ。しかしそれを書に著すのは容易ではない。だからこそ、単純な一軒家を舞台とし、そこに怪異の色合いをあたえることで、著者は歴史の成り立ちを語ったのだと思う。幽霊こそが語り部であり、語り部によって歴史は作られる。全ての人は時間の流れの中で歴史に埋もれてゆく。それが耐えられずに、過去からさまよい出るのが幽霊ではないだろうか。

‘2018/07/24-2018/07/25


アラビアの夜の種族


これはすごい本だ。物語とはかくあるべき。そんな一冊になっている。冒険とロマン、謎と神秘、欲望と愛、興奮と知性が全て本書に詰まっている。

アラビアン・ナイトは、千夜一夜物語の邦題でよく知られている。だが、私はまだ読んだことがない。アラジンと魔法のランプやシンドバッドの大冒険やシェヘラザードの物語など、断片で知っている程度。だが、アラビアン・ナイトが物語の宝庫であることは私にもうかがい知ることが可能だ。

本書はアラビアの物語の伝統を著者なりに解釈し、新たな物語として紡ぎだした本だ。それだけでもすごいことなのだが、本書の中身もきらびやかで、物語のあらゆる魅力を詰め込んでいる。内容が果たしてアラビアン・ナイトに収められた物語を再構成したものかどうかは、私にはわからない。ただ、著者は一貫して本書を訳書だと言い募っている。著者のオリジナルではなく、著者が不詳のアラビアン・ナイトブリード(アラビアの夜の種族)を訳したのが著者という体だ。前書きでもあとがきでもその事が述べられている。そればかりか、ご丁寧に訳者註までもが本書内のあちこちに挿入されている。

本書が著者の創作なのか、もともとあった物語なのかをそこまで曖昧にする理由はなんだろうか。それは多分、物語の重層性を読者に意識させるためではないかと思う。通常は、作者と読者をつなぐのは一つの物語だけだ。ところが、物語の中に挿入された別の物語があると、物語は途端に深みを持ちはじめる。入れ子状に次々と層が増えていくことで、厚みが増えるように、深さがますのだ。作者と読者をつなぐ物語に何層もの物語が挟まるようになると、もはや作者を意識するゆとりは読者にはない。各物語を並列に理解しなければならず、作者の存在は読者の脳裏から消え失せる。そして本書の様に何層もの物語で囲み、ご丁寧に著者は紹介者・翻訳者として入れ子の中心に身を隠すことで、読者からの眼は届かなくなる。読者は何層にも層を成した物語の皮をめくることに夢中になり、芯に潜む著者の存在にはもはや関心を払わなくなるのだ。

それによって、著者が目指したものとは何か。著者の意図はどこにあるのか。それは当然、物語そのものに読者を引き込むことにある。アラビアン・ナイトを現代によみがえらせようとした著者の意図。それは物語の復権だろう。しかも著者が本書でよみがえらせようとした物語とは、歴史によって角を丸められた物語ではない。より生々しく、より赤裸々に。より毒を持ち、より公序良俗によくない物語。つまり、物語の原型だ。グリム童話ももともとはもっとどぎついものだったという。今の私たちが知っている童話とは、年月によって少しずつ解毒され、角がとれ、大人に都合のよい物語に変容させられていった成れの果ての。だが、本来の童話とはもっとアバンギャルドでエキセントリックなものだったはず。著者はそれを蘇らせようとしている。私のような真の物語を求める読者のために。

では、いったい何層の物語が隠れているのだろうか。本書には?

まず最初の物語は、アラビアン・ナイトブリードという著者とそれを翻訳し、紹介した著者の物語だ。それは、薄皮のように最初に読者の前に現れる。それをめくった読者が出会うのは、続いては、アラビアン・ナイトブリードの物語世界だ。その世界では今にもナポレオン軍が来襲しようとするエジプトが舞台となっている。強大なナポレオン軍を撃退するには、長年の平和に慣れすぎたエジプトはあまりにも脆い。そこで策士アイユーブは読めば堕落すると伝わる「災厄の書」を探し出し、それをナポレオンをへの贈り物にすることで、ナポレオンを自滅に追い込もうと画策する。首尾よく見つけ出した「災厄の書」は、その力があまりに強大なあまり、読むと翻訳者にも害を与えるという。だから分冊にして、ストーリーとして意味のない形にしたうえでフランス語に翻訳し、翻訳を進めながら物語を読み合わせようとしたのだ。ところがそれはアイユーブが主人であるイスマーイール・ベイをたばかるための仮のストーリー。その実は、魅力的な物語を知る語り部に物語を語らせ、それを分冊にしてフランス語に翻訳するという策だ。ここにも違う物語の層が干渉しあっているのだ。

そして次の物語の幕が上がる。直列に連なる三つの物語は、これぞ物語とでもいえそうな幻想と冒険に満ちている。その中では魔法や呪文がつかわれ、魔物がダンジョンを徘徊し、一千年間封じられた魔人が復活の時を待ち望む。裏切りと愛。愛欲と激情。妖魅と交わる英雄。剣と謀略だけが生き残る術。そんな世界。極上のファンタジーが味わえる。読むものを堕落させるとのうたい文句は伊達ではない。

一つ目は王子でありながら醜い面相を持つアーダム。彼が身を立てるために妖術師になっていく物語だ。醜い面相を持ちながら、醜い性格を隠し持つ。裏切りと謀略に満ちているが、とても面白い。

二つ目は、黒人でありながらアルビノとして生まれため、ファラーと名付けられた男。生き延びるために魔術を身に着け、世界を放浪して回る。その苦難の日々は、成長譚として楽しめる。

三つめは、盗賊でありながら、実は貴い出自を持つサフィアーン。盗賊でありながら義の心を持つ彼の、逆転につぐ逆転の物語。予想外の物語はそれだけでも楽しめること間違いない。

三つの物語はどんな結末を迎えるのか。三つの物語がアイユーブ達によって読み上げられ、一つの本に編まれた暁には何が起こるのか。それは本書を読んでもらわねばなるまい。一つ思い出せるのは「物語とは本来、永遠に続かねばならない」という故栗本薫さんの言葉だ。

もちろん本書は終わりを迎える。何層にも束ねられた物語も、本である以上、終わらねばならない。仕方のない事だ。それぞれの物語はそれぞれの流儀によって幕を閉じる。ただ、読み終えた読者は置き去りにされたと思わず、満足して本を閉じるに違いない。極上の物語を同時にいくつも読み終えられた満足とともに。

本書はとても野心に満ちている。複雑さと難解さだけに満ちた本は世の中にいくらでもある。本書はそこに桁違いのエンタメ要素を盛り込んだ。日本SF大賞と日本推理作家協会賞を同時受賞できる本はなかなかない。本書は何度でも楽しめるし、何パターンの読み方だってできる。その時、作家が誰であるかなど、どうでもよくなっているはず。それよりも読者が気をつけるべきは、本書によって堕落させられないことだけだ。

‘2017/08/27-2017/09/17


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3