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私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


EXCELを使っていて、誰もが一度は遭遇したことがある #DIV/0エラー。セルの関数式で、ある数または関数の結果が0で割られた際に出現するエラーだ。0で割ると正常な結果を得られない。これはEXCELでもどうしようもない仕様だ。もちろんバグではない。数を0で割ることは高等数学でもできないのだから。本書の第0章では、米国軍艦ヨークタウンがプログラム内に潜んでいた0で割るバグによって止まってしまったエピソードも紹介される。

本書はこの0に焦点をあて、人類が0を使いこなそうと努力して来た歴史がつづられる。

第1章は古代バビロニアからエジプト、ギリシャ、ローマ、マヤの諸文明の0の扱いをみていく。そしてもちろんそれらの文明は0を知らぬ文明だった。数を数えたり、暦を作ったり、面積を調べる上で、数があることが前提だから当然だ。数がないという概念を数体系に含める必要はなかったのだから無理もない。実務に不要な0はこれら文明では顧みられなかった。逆にマヤ文明に0の概念があったことのほうがすごい。

第2章では、ギリシャに焦点が当てられる。そこでは0に迫ろうとする者たちが現れるからだ。その者の名はゼノン。彼によるアキレスと亀のパラドックスだ。亀の歩みにアキレスは永遠に追いつけないというアレだ。あのパラドックスが0の概念を如実に表していること、それを私は本書で知った。つまりこのころすでに無限に小さな数として0は発明されていたかもしれないのだ。だが、そのチャンスはアリストテレスがゼロを退けたことで一千年以上遠ざかる。なぜ彼の学説がそれほど長く用いられたか。それは彼の学説が神の存在証明に有用だったからに他ならない。

アリストテレスは0を忌避すると同時に無限の証明も拒否した。無限とは外側の数だ。地球は不動である事は当時の常識だった。では何が天体を動かすのか。それはさらに外の天体が動かすからに違いない。ではその外の天体は、さらに別の天体によって動かされている。ではその天体を動かすのは、、、と考えて行くと最終的に仕組み全体を動かす存在が求められる。アリストテレスはそれを神となぞらえた。神とは人知を超えるところにあるから神なのだ。0も無限も。

その考えはのちにキリスト教会によって布教に取り入れられる。神の存在が信仰の前提であるキリスト教会にとっては、アリストレテスの考えは金科玉条とすべきものだったのだろう。そのため、神の存在を証明するアリストテレスの学説が長きにわたり西洋世界を覆い続ける。

西洋にとっては不運とでも言おうか。0がなくてもギリシャは繁栄し、ローマは版図を広げてしまったのだから。さらに0にとっては不運なことにローマ崩壊後、神の存在が広く求められる。アリストレテスの神学を受け継いだキリスト教の繁栄だ。0を忌避したアリストレテスの神学は、西洋から0の存在する余地を奪い去ってしまう。その結果が西洋にとっての暗黒期だ。

本書を読んでいて気づくのは、数学の発展と文明の発展が対になっていることだ。あたかも寄り添い合う双子のように。そしてローマ崩壊後の西洋は暗黒期に突入し、東洋は逆に発展してゆく。その事実が対の関係を如実に表す。

足踏みを続ける西洋を尻目に0は東洋で産声を上げる。インドで。

0123456789。これらをいわゆるアラビア数字と呼ぶ。でも、実はこれらの数字はインドで産まれたのだ。インド生まれの数字が、なぜアラビア数字と呼ばれるようになったのか。この由来にも文明の伝播と数学の伝播が重なっていて興味深い。当時の西洋は、イスラム教とともにやって来たアラブ商人が席巻していた。アラブ商人が商売を行う上で0はすこぶる便利な数だったのだ。そして当時のイスラム社会は数学でも世界最先端を行っていた。アルゴリズムという言葉の語源は、当時のイスラム世界の大数学者アル=フワリズミの名前に由来することなど興味深い記述がたくさん出てくる。

そして、この時期に1を0で割ると無限大になる無限の観念が西洋に伝わる。いまや旧弊となった神の理論に徐々にほころびが見え始める。その結果、起こったのがルネサンスだ。ルネサンスと言えば後世のわれわれにはきらびやかな美術品の数々でその栄華の残照を知るのみ。だが、数学は美術の世界にも多大な影響を与えた。

例えばフィボナッチが発見したフィボナッチ数列は、黄金比率の確立に貢献した。また、ブルネレスキが見いだした消失点は、絵に奥行きを与えた。無限の彼方の一点に絵の焦点を凝縮させるこの考えは、無限の考えに基づいている。この辺りの事実も興奮して読める。

ルネサンスは教会の権威が揺らぐに連れ進展する。教会の権威に挑戦した皮切りはコペルニクスの地動説の証明だ。その後、数学者たちが次々に神の領域に挑んで行く。以後の本書は、数学者たちによる証明の喜びが中心となる。いまや神は発展を謳歌し始める数学と文明に置いていかれるのみ。

まずはデカルトとパスカル。デカルトによる座標の発明は、軸の交点である0の存在なしにはありえない。パスカルは真空の発見とともに確率論の祖として知られる。パスカルの賭けとは、神の存在確率を証明したものだ。だが、その論理を支えているのはパスカル本人による信仰しかない。すでに神が科学の前に劣勢であることは揺らがない。

ニュートンによる微積分の発見は、無限小と無限大が数式で表せるようになったことが革命的だ。そしてこれによって科学者たちの関心は神の存在証明から離れて行く。替わりに彼らが追い求めるのはゼロと無限だ。この二つは常に相対する双子の観念だ。しかし、その正体はなかなか姿を見せない。ニュートンの微分はそもそも無限小の二乗を無限に小さい数であるため0に等しいとみなしたことに突破口を見い出した。無限小を二乗したら0と扱い、なかったこととすることで、証明のわずかなほころびを繕ったのだという。それによって微分の考え方を確立したニュートンは、微分によってリンゴの落下から惑星の軌道まであらゆるものが数式で説明できることを示したのだ。その考え方は同時期に微積分を考案したライプニッツも表記法は違えど根本の解決は一緒だったらしい。ニュートンとライプニッツがともに抱えた根本の矛盾―0で割る矛盾や無限小を二乗すると0として扱うことも、無限小で割ってなかったことにすれば解消しうるのだと述べられている。

そしてこの辺りから私の理解は怪しくなってくる。二次関数グラフや曲線に対する接線など、かつて苦労させられた数学の魔物が私を襲う。ついには虚数や複素数がまでもが登場して私の苦手意識をうずかせる。複素平面、そして空間座標や球が登場するともうお手上げだ。

有理数と無理数の定義上、あらゆる数を覆えるほど小さい単位。それがゼロ。そのような定理は私の理解力に負えない。私には論理の飛躍とすら思えてしまう。

だが、それを発見してからの量子力学や物理学の世界はまさに0の概念から飛躍手に発展した。相対性理論やブラックホールなど、話は宇宙論に広がって行く。ひも理論や超弦理論、そしてビッグバンや宇宙定数、赤方偏移。それらは最新の宇宙論を学ぶ人には常識と言える概念だそうだ。それらはすべて無限とゼロの完全な理解の元に展開される理論なのだ。一つだけ私の腑に落ちたのは、あらゆる物質の基本要素をゼロ次元のゼロとしてしまうと、成り立たない理論がでるため、紐のような次元のあるもので物質を成り立たせる、それがひも理論という下りだ。といっても数式のレベルではまったく理解していないのだが。

本書は宇宙の終わりまで話を広げる。宇宙に終わりが来るのか。来るとすればそれはどんな終わりか。無限に広がり続け、やがて熱が冷めてゆくのか。宇宙はある一点で収縮へと転じ、収縮の果てにビッグバンの瞬間の膨大な熱に終わるのか。

本書の答えは前者だ。ゼロから生まれた宇宙は無限に広がり、冷たくなるゼロを迎えると結論を出している。本書は以下に挙げる一文で幕を閉じる。

宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

本書には付録として三つの証明がついている。
ウィンストン・チャーチルが人参であることの数学的証明。
黄金比の算出方法。
現代の導関数の定義。
カントール、有理数を数える
自家製ワームホールタイムマシンをつくろう

こうやって見ると数学とはかくも魅力的で学びがいのある学問に思える。そう思って数式を見た瞬間、私の意欲は萎えるのだ。普段プログラムロジックをいじくり回しているはずの私なのに。

‘2017/03/11-2017/03/15


虚無回廊


巨星墜つ、の印象がとかく強かった著者の訃報。小説家として、イベントプロデューサーとして、精力的に活動した著者。その存在は巨大だったように思う。

だが、私自身、著者の作品はそれほど多く読んでいない。多分10冊いくかいかないかではないか。今さらながら、読めていない著者の作品をもっと読みたいと思っている。そもそも最近は、著者の作品自体をあまり見掛けない。『日本沈没』以外は忘れ去られつつある作家になっているのではないか。そんな気がしてならない。それはとても残念なことだと思う。

もともと、SFというジャンルは時の流れに弱い。それはもちろんそうだろう。だが、それは舞台が近未来であった時の話。遠未来の小説の場合、発表当時の内容に技術的陳腐化を避ける工夫が凝らされていれば、長く生き残る可能性はある。

本書もそう。本書は1987年に発表された。1987年とは、Windowsは3.1に達しておらず、インターネットも研究室の中でしか使えなかった時代。だが、博識で知られた著者の識見は、1987年の時空にいながら30年後の今を、さらに未来を見通していたかのようだ。

本書に盛り込まれているのは、当時では最新の科学的知見だ。それは、マスコミ報道よりもさらに研究領域に踏み込んでいないと知ることのできないはず。つまり、1987年であってもその内容は相当先進的。それゆえ、本書で述べられているあらゆる描写に、2016年のわれわれが読んで違和感を覚える箇所は少ない。

それにしても本書は欲張りな小説だ。SFといっても幅広いので、取り上げられるテーマはいろいろありうる。だが本書は、SFが守備範囲とするテーマのうちかなりをカバーしようとしている気がする。ファーストコンタクト、異星人接触、データ化による自我変容、自己同一性、異星居住、時間空間のありかた、そして宇宙論。著者は作家人生で培ってきた全てを本書に詰め込もうとするかのように、持てる全てを惜しみ無く取り込んでいる。

結果的に本書は、著者にとって最後の長編となった。多分、著者自身もそれを予感していたのだろう。あらゆるアイデアを盛り込み、作家生活の集大成とするつもりだったのではないか。

あとがきでは著者にとって後輩のSF作家たちが座談会形式で本書をネタにしている。そこでも触れられているが、著者は常々SFが低く見られている現状を憤っていたという。私もそれには賛成だ。

SFとは、一概に定義できるような形式ではない。が、今のわれわれが住む場所、時代とは違った視点を描く表現形式、という定義もあながち間違ってはいないはず。であるからこそ、SFは他の時代、他の星系が舞台となることが多いのだ。では逆に、他の時代や場所を描いていなければSFとはいえ取るに足りないジャンルなのだろうか。そうではないことはもちろんだ。多くのSFに書かれている内容は、場所が違えど、時代が違えど、読み物として優れている。ある時代、ある星系が舞台であっても、内容は人間の感性に訴える必要はあるにせよ、そこの未来星人の星人生がしっかり書き込まれていなければならない。それが現代地球人の目から見て異世界だからこそ、われわれはSFを楽しむ。だから、SFに書かれているのは、その時代、その場所の人から見れば、なんの変哲もない私小説のようなことだってある。せいぜいが日常の刺激となるような冒険小説のように取られることだってある。はたまた、そこで問い掛けられる観念は、純文学の最高峰に位置するかもしれない。本書において著者が書き出そうと苦心する人工実存は、他の星人には切実な社会的問題となりえるのだ。それがたまたま、私たち太陽系の西暦2000年代初頭の視点で書かれ、読まれているだけで。

実はそう考えると、SFを一段低く見る風潮はあまり根拠のないように思える。たぶん著者を含めたSF界の人々が苛立つのもそこにあるのだろう。空想から生まれた社会にも、われわれの実人生にとって得られる気づきはたくさんあるはず。

一方で、SFには世界観の理解が求められる。観念的な記号に満ちた哲学書が文学として読まれないのと同じく、科学理論や知識がないとSFを読むのは難儀なことだ。ことに本書のような内容ならなおさらに。おそらくそれこそがSFの抱える宿命なのだろう。最先端のさらに先を書くことがテーマだとすれば、最先端をを知らぬ読者にはなにも伝わらないというジレンマ。それこそSFの抱える問題なのだろう。

著者は本書でそういった問題点に気を配っている。宇宙空間に人類の認識では把握できない物体が出現する。本書はその物体がテーマとなるが、著者のその配慮は適切だと思う。本書での事物の描写は細かい。微に入り細をうがつという表現がぴったりなほど。そうしながら著者の該博な知識は、本書のあちこちに大量の科学的語彙をばらまかずにいられない。

それはもはや、無謀ともいえる領域だ。あらゆるSFテーマを最新の科学知識を加えて盛り込み、しかもSFが好きな読者以外にもアピールしようというのだから。

畢生の大作を、という著者の意気込みが垣間見える。しかし残念なことに、本書は未完に終わった。やはり構想が壮大すぎたのだろう。だが、そこから本書の内容が破綻していると見るのは早計だ。

たしかにあらゆるSFテーマを盛り込もうとしているため、読みながら戸惑ってしまうことは事実だ。

本書の出だしはヒデオ・エンドウという技術者が主人公だ。研究者の妻アンジェラと人工実存を作る研究を行う中、子を持つことについての意見が対立する。子を持つことは人としての存在意義に関わるのかいなか。両者の論点はそこにある。生物としての子とアルゴリズムによる人工実存の子の両方を望む妻と、研究の道を極めたいエンドウ。

その結果は別離、そして妻の死という悲劇に終わる。

一方でエンドウの属する地球政府は、宇宙空間に突如現れた長さ二光年の物体の扱いに苦慮していた。一体この物体は何か。調査ないしは使節団を送り込まねばならない。しかし、地球からこの物体に生体の人間を送り込むには時間がかかりすぎる。そのため、エンドウの研究にあらためて脚光が当てられる。つまり、人工実存をこの物体に送り込もうというのだ。人工実存であれば地球からの使節としても相応しい振る舞いができるし、寿命にも限りがない。かくして人工実存がその構造体に赴いて、というのが本書の粗筋だ。

読み終えてだいぶたつが、こうやって粗筋が頭の中で思い出せることが本書の筋が破綻していない証拠だ。

にもかかわらず、本書は未完に終わっている。巻末に付された座談会によれば、著者が結末を迷ったため、とうとう完成されずに終わったのだという。だが、本書の巻末もギリギリになって著者は虚無回廊が何かについて定義している。

「無」を媒介項として「虚宇宙」と「実宇宙」をつなぎ、しかもそのつなぐルートは「回」でも「廊」でも、どちらでも「位相的に等価」であるような存在(378ページ)

著者が関西を拠点にしていたことは知られている。そして、阪神淡路大震災に遭遇したことで鬱になってしまったことも。そのようなことは著者自身がメディアに書いているので知っている方もいるだろう。もし仮に、著者が精力的であり続けたとしたら、本書は完結し、日本SF史に残る作品になっていたかもしれない。惜しいことをしたものだ。実は本書には著者自身によって2000年初夏に記されたあとがきが付されている。それによると、完結の形ははっきりしないが、おぼろげながら構想が徐々にある方向を目指していると書かれている。

ということは著者は続きの構想を誰にも漏らしていなかったのか。そして、それこそが、本書のような大作が未完のまま30年寝かされている理由だと思われる。しかし、これほどの作品が未完のままでいいはずがない、と思うのは私だけだろうか。本書を書き継ぐ有志の作家はいないのか、との声があがったはずだ。著者の作品でもっとも知名度の高い作品が『日本沈没』であることに異論はないだろう。そして、そちらは作品として完結していたにも拘らず続編が別の作家(谷甲州氏)によって書かれている。

であるなら、本書を未完のままとせずきちんと作品として完結させるのは日本SF界に課された課題ではないか。巻末に付された掘晃氏、山田正紀氏、谷甲州氏による座談会ではそのような男前な意見は吐かれなかった。だが、「『虚無回廊』本篇の続きを誰か他の人間が書くのは難しいけれど、皆がそれぞれ影響を受けた部分、興味を持った部分を書いていくのは面白いと思いますよ。」と堀氏も語っている。ファンとしては他の作家でもいいので志を受け継ぎ、本書の完結に挑んで欲しいものだ。

著者の有名な作品名をおそれながら流用するならば、「継ぐのは誰か」がファンの心の声なのだから。

‘2016/10/10-2016/10/14