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人の身に起こる死について


先日の大雨による熱海の土石流による被害によって亡くなられた方々。
そして、元プロ野球選手の大島選手が大腸がんでお亡くなりになったこと。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

私自身の行動にリンクするところがあったので、一文をしたためてみました。

土石流が起こった7/3の3週間前、私は熱海駅の三つ隣の根府川駅を訪れていました。
関東大震災で駅舎や列車が海に流され、多数の死者を出した災害。私はこの災害のことを書籍などで知っていましたが、駅をきちんと訪れたことがありませんでした。どのような地形でどのような土石流が流れたのか、一生懸命イメージを膨らませてきました。
その後、駅舎のすぐ脇に建てられた慰霊碑、近くの道に沿って立っていた慰霊碑、白糸川鉄橋の下にある慰霊碑などを訪れ、手を合わせてきました。
いつ、同様の事故が起こっても備えられるように。

その日から3週間後、土石流による災害が起こってしまいました。動画で見た土石流の威力の前には、人の備えなど無力です。
災害は決してひと事ではありません。私はそのことを心に刻むとともに、亡くなられた方の身になって心を痛めました。
私もいつ、同じような被害にあってもおかしくないのです。

そして、大島選手の死去です。昭和のプロ野球に親しんだ私には、大島選手の姿はおなじみでした。
70歳は早すぎますね。

大島選手の命を奪ったのが大腸がんだったとのことですが、ちょうどその日、私は市から案内された大腸がん検診の申し込みをしたところでした。
その後に大島選手の逝去のニュースを聞いたので、何かの暗合のように思いました。私も健康ケアに心を配らないと、という思いを新たにしたのが大島選手の死でした。

大島選手のブログ https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/ はこのような言葉で締めくくられていました。

命には
必ず終わりがある

自分にもいつか
その時は訪れる

その時が
俺の寿命

それが
俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない

俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで

俺はいつも通りに
普通に生きて

自分の人生を、命を
しっかり生ききるよ

全くその通りですね。とても心にしみます。

私も必ず死にます。自らの残りの余命を常に感じながら生きています。
その一方で、自分の命を生ききれているか、日々の生活が惰性に落ちていないか、を常に感じています。

今の私は大島選手のように生ききれているとは、思っていません。やりたいことが多すぎるのに、時間は足りない。
寿命は甘んじて受け入れるとしても、絶対に死ぬ前に後悔はするまい、と思います。
70歳といえば、定年が65歳だとして、5年間。65歳で引退できたとして、5年で自分のしたいことが本当にできるのでしょうか。
それを考えると、今のうちから一瞬も無駄にしてはならないと思うのです。

土石流によって亡くなられた方も、ある日突然このような形で命を奪われるとは思っていなかったことでしょう。

大島選手のように、自らの死に対して気持ちを整える時間があればまだ救いがあるのかもしれません。

私もやり残したことがないようにしなければ。

弊社のメンバーにも私の技術などを伝えていきたいと思います。
うちの娘たちにも、私の少々枠をはみ出した生き方などを伝えていければ。


今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで


新型コロナウィルスの発生は、世界中をパンデミックの渦に巻き込んでいる。
だが、人類にとって恐れるべき存在がコロナウィルスだけでないことは、言うまでもない。たとえば自然界には未知のウィルスが無数に潜み、人類に牙を剥く日を待っている。
人類が築き上げた文明を脅かすものは、人類を育んできた宇宙や地球である可能性もある。
それらが増長した人類に鉄槌を下す可能性は考えておかねば。
本書で取り扱うのは、そうした自然災害の数々だ。

来る、来ると警鐘が鳴らされ続けている大地震。東海地震に南海地震、首都圏直下地震、そして三陸地震。
これらの地震は、長きにわたって危険性が言われ続けている。過去の歴史を紐解くと発生する周期に規則性があり、そこから推測すると、必ずやってくる事は間違いない。
それなのに、少なくとも首都圏において、東日本大震災の教訓は忘れ去られているといっても過言ではない。地震は確実に首都圏を襲うはずなのにもかかわらず。

本書は日本の歴史をひもとき、その時代時代で日本を襲った天変地異をとり上げている。
天変地異といってもあらゆる出来事を網羅するわけではない。飢饉や火事といった人災に属する災害は除き、地震・台風・噴火・洪水などの自然災害に焦点を当てているのが本書の編集方針のようだ。

著者は、そうした天変地異が日本の歴史にどのような影響を与えたのかという視点で編んでいる。
例えば、江戸末期に各地で連動するかのように起こった大地震が、ペリー来航に揺れる江戸幕府に致命的な一撃を与えたこと。また、永仁鎌倉地震によって起こった混乱を契機に、専横を欲しいままにした平頼綱が時の執権北条貞時によって誅殺されたこと。
私たちが思っている以上に、天変地異は日本の歴史に影響を与えてきたのだ。

かつて平安の頃までは、天変地異は政争で敗れた人物の怨霊が引き起こしたたたりだとみなされていた。
太宰府に流された菅原道真の怨霊を鎮めるため、各地に天満宮が建立されたのは有名な話だ。
逆に、神風の故事で知られる弘安の大風は、日本を襲った元軍を一夜にして海中に沈め、日本に幸運をもたらした。
本書にはそういった出来事が人心をざわつかせ、神仏に頼らせた当時の人々の不安となったことも紹介している。
直接でも間接でも日本人の深層に天変地異が与えてきた影響は今の私たちにも確実に及んでいる。

本書は私の知らなかった天変地異についても取り上げてくれている。
例えば永祚元年(989年)に起こったという永祚の風はその一つだ。
台風は私たちにもおなじみの天災だ。だが、あまりにもしょっちゅう来るものだから、伊勢湾台風や室戸台風ぐらいのレベルの台風でないと真に恐れることはない。ここ数年も各地を大雨や台風が蹂躙しているというのに。それもまた、慣れというものなのだろう。
本書は、歴史上の洪水や台風の被害にも触れているため、台風の恐ろしさについても見聞を深めさせてくれる。

本書は七章で構成されている。

第一章は古代(奈良〜平安)
白鳳地震
天平河内大和地震
貞観地震
仁和地震
永祚の風
永長地震

第二章は中世(鎌倉〜室町〜安土桃山)
文治地震
弘安の大風
永仁鎌倉地震
正平地震
明応地震
天正地震
慶長伏見地震

第三章は近世I(江戸前期)
慶長東南海地震
慶長三陸地震津波
元禄関東大地震
宝永地震・富士山大噴火(亥の大変)
寛保江戸洪水

第四章は近世II(江戸後期)
天明浅間山大噴火
島原大変
シーボルト台風
京都地震
善光寺地震

第五章は近代I(幕末〜明治)
安政東南海地震
安政江戸地震
明治元年の暴風雨
磐梯山大噴火
濃尾地震
明治三陸大津波

第六章は近代II(大正〜昭和前期)
桜島大噴火
関東大震災
昭和三陸大津波
室戸台風
昭和東南海地震
三河地震

第七章は現代(戦後〜平成)
昭和南海地震
福井大地震
伊勢湾台風
日本海中部地震
阪神淡路大震災
東日本大震災

本書にはこれだけの天変地異が載っている。
分量も相当に分厚く、636ページというなかなかのボリュームだ。

本書を通して、日本の歴史を襲ってきたあまたの天変地異。
そこから学べるのは、東南海地震や南海地震三陸の大地震の周期が、歴史学者や地震学者のとなえる周期にぴたりと繰り返されていることだ。恐ろしいことに。

日本の歴史とは、天災の歴史だともいえる。
そうした地震や天変地異が奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・幕末・明治・大正・昭和・平成の各時代に起きている。
今でこそ、明治以降は一世一元の制度になっている。だが、かつては災害のたびに改元されていたと言う。改元によっては吉事がきっかけだったことも当然あるだろうが、かなりの数の改元が災害をきっかけとして行われた。それはすなわち、日本に災害の数々が頻繁にあったことを示す証拠だ。
そして、天変地異は、時の為政者の権力を弱め、次の時代へと変わる兆しにもなっている。
本書は、各章ごとに災害史と同じぐらい、その時代の世相や出来事を網羅して描いていく。

これだけたくさんの災害に苦しめられてきたわが国。そこに生きる私たちは、本書から何を学ぶべきだろうか。
私は本書から学ぶべきは、理屈だけで災害が来ると考えてはならないという教訓だと思う。理屈ではなく心から災害がやって来るという覚悟。それが大切なのだと思う。
だが、それは本当に難しいことだ。阪神淡路大震災で激烈な揺れに襲われ、家が全壊する瞬間を体験した私ですら。

地震の可能性は、東南海地震、三陸地震、首都圏直下型地震だけでなく、日本全国に等しくあるはずだ。
ところが、私も含めて多くの人は地震の可能性を過小評価しているように思えてならない。
ちょうど阪神淡路大震災の前、関西の人々が地震に対して無警戒だったように。
本書にも、地震頻発地帯ではない場所での地震の被害が紹介されている。地震があまり来ないからといって油断してはならないのだ。

だからこそ、本書の末尾に阪神淡路大地震と東日本大震災が載っている事は本書の価値を高めている。
なぜならその被害の大きさを目にし、身をもって体感したかなりの数の人が存命だからだ。
阪神淡路大地震の被災者である私も同じ。東日本大震災でも震度5強を体験した。
また、福井大地震も、私の母親は実際に被害に遭い、九死に一生を得ており、かなりの数の存命者が要ると思われる。

さらに、阪神淡路大地震と東日本大震災については、鮮明な写真が多く残されている。
東日本大震災においてはおびただしい数の津波の動画がネット上にあげられている。
私たちはその凄まじさを動画の中で追認できる。

私たちはそうした情報と本書を組み合わせ、想像しなければならない。本書に載っているかつての災害のそれぞれが、動画や写真で確認できる程度と同じかそれ以上の激しさでわが国に爪痕を残したということを。
同時に、確実に起こるはずの将来の地震も、同じぐらいかそれ以上の激しさで私たちの命を危機にさらす、ということも。

今までにも三陸海岸は何度も津波の被害に遭ってきた。だが、人の弱さとして、大きな災害にあっても、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。そして古人が残した警告を無視して家を建ててしまう。便利さへの誘惑が地震の恐れを上回ってしまうのだ。
かつて津波が来たと言う警告を文明の力が克服すると過信して、今の暮らしの便利さを追求する。そして被害にあって悲しみに暮れる。

そうした悲劇を繰り返さないためにも、本書のような日本の災害史を網羅した本が必要なのだ。
ようやくコロナウィルスによって東京一極集中が減少に転じたというニュースはつい最近のことだ。だが、地震が及ぼすリスクが明らかであるにもかかわらず、コロナウィルスがなければ東京一極集中はなおも進行していたはず。
一極集中があらゆる意味で愚行の極みであることを、少しでも多くの人に知らしめなければならない。

本書は、そうした意味でも、常に手元に携えておいても良い位の書物だと思う。

‘2019/7/3-2019/7/4


労働基準法と就業規則


平成三十一年を迎えた新年、令和の時代を間近に控え、私は自分の経営する会社に社員を雇う事を真剣に検討していた。

人を雇うといっても簡単なことではない。ましてや、十数年の間を一人でやっていく事に慣れてしまった私にとって、雇用にまつわる諸々の責任を引き受ける決断を下す事は、とても大きなハードルとなっていた。

ただ単に人に仕事を教え、ともに案件をこなしていく。それだけなら話は簡単だ。
だがそうはいかない。
人を雇う事によってさまざまに組織としての縛りが発生する。給与の定期的な支払いも欠かせない。だから営業上の努力も一層必要となる。そして会社として法律を全体で守っていかねばならない。そのために社員を統括し、不正が起きないよう管理する責任もある。
そうした会社として活動の基準として、就業規則の策定が求められる。

雇用とそれにまつわる諸作業の準備が必要なことは分かっていた。
そのため、前年の秋ごろから税理士の先生や社労士の先生に相談し、少しずつ雇用に向けた準備を始めていた。

本書は、その作業の一環として書店で購入した。

先に十数年にわたって一人での作業に慣れていた、と書いた。
一人で作業するのは楽だ。
何しろ、就業ルールについては自分が守っていればいいのだから。だから長きにわたって一人の楽な作業から抜け出す決断もくださずにいた。

もちろん、就業ルールは自分の勝手なルールで良いはずがない。
私の場合、常駐の現場で働く期間が比較的長かった。そのため、参画した現場に応じたルールは守るようにしていた。
例えば、労働時間は定められていた。遅刻や早退があっても、そこには契約上の勤務時間が定められていた。休日や休暇についても同じ。

ところが、私は二年半まえに常駐先から独立した。
完全に自由な立場になってからは、労働時間や休日ルールからは完全に自由な身となった。好きなときに働き、好きなときに休む。
その自由はもちろん心地よく、その自由を求めて独立したような私にとっては願ったものだった。それ以来、私はその特権を大いに享受している。

ところが人を雇用する立場になると、完全に自由と言うわけにはいかない。私がようやく手に入れた働き方の自由を再び手放さなければならないのだ。
なぜなら、仕事を確実にこなすためには完全な放任はあり得ないからだ。
私は自分自身が統制や管理を好まないため、人に働いてもらうにあたっても自由にやってもらいたいと思っている。もちろんリモートワークで。

業務を回すため、かなりの管理を省けるはずだ。だが、たとえわずかでも統制や管理は発生する。
だが、それだけではない。
就業規則の策定は企業として必要になってくる。
もし弊社が自由な働き方を標榜する場合も、その旨を就業規則に明記しなければならない。
リモートワークやフレックスタイムを採用するのなら、その枠組みを設けている事を就業規則として宣言しなければならない。

たとえ私と雇用した従業員の間に完璧な信頼関係が成り立っていたとしても。紳士協定に甘えた暗黙の雇用関係は許されない。ましてや自由な放任主義などは。

仮に社員の数が少ない間、すべての社員を管理できていたとする。でも、将来はそんなわけにはいかなくなるはずだ。もし人を雇用し、会社を成長させていくのであれば、一人で全ての社員の勤務を管理することなど不可能になってくるに違いない。
将来、弊社が多くの社員を雇用できたとする。その時、私がすべての社員の勤務状況を把握できているだろうか。多分無理だろう。
つまり、いつかは人に管理を任せなければならない。その時、私の考えを口頭だけでその管理者に伝えられると考えるのは論外だと思う。
だからこそ、管理者の人がきちんと部下を統括できるよう、就業規則は必要となるのだ。

だからこそ、本書に書かれた内容は把握しておかねば。多様な労働と、それを支える法律をきちんと押さえた本は。それは経営者としての務めだ。

本書は8つの章からなっている。

第1章 労働基準法の基礎知識
第2章 雇用のルール
第3章 賃金のルール
第4章 労働時間のルール
第5章 休日・休暇のルール
第6章 安全衛生と災害補償のルール
第7章 解雇・退職のルール
第8章 就業規則の作成

本書がありがたいのは、CD-ROMもついており、書類のテンプレートも豊富に使えることだ。

もう一つ、本書を読んでいくと感じるのは、労働者の権利擁護がなされている事だ。
労働者の権利とは、会社という形態が生まれた17世紀から、長い時間をかけて整備されてきた
年端もいかない子供を遅くまで劣悪な環境で働かせていた産業革命の勃興期。
だが、劣悪な状況は17世紀に限った話ではない。つい最近の日本でもまかり通っていた。

私自身、若い頃にブラック企業で過酷な状況に置かれていた。

働く現場は、労働者側が声を上げないかぎり、働かせる側にとってはしたいようにできる空間だ。
容易に上下関係は成立し、ノルマや規則という名の統制も、経営側の意志一つで労働者側は奴隷状態におかれてしまう。

私はそういう目にあってきたからこそ、雇う人にはきちんとした待遇を与えたいと思っている。
だからこそ、今のような脆弱な財務状況は早く脱しないと。

結局、弊社が人を雇う話は一年以上たった今もまとまっていない。業務委託や外注先を使い、これからもやっていく選択肢もあるだろう。だが、雇用することで一つ大きな成長が見込めることも確かだ。そのことは忘れないでおきたい。

本書を読んだことが無駄にならぬよう、引き続きご縁を求めたいと思う。

‘2019/01/13-2019/01/17


三陸海岸大津波


3.11の津波は、日本人に津波の恐ろしさをあまねく知らしめた。ネット上に投稿された数々の津波動画によって。

私自身、それらの動画をみるまでは津波とは文字どおり巨大な波だと勘違いしていた。嬉々としたサーファーたちがパドリングして向かう巨大なパイプラインを指すのだと。しかし3.11で沿岸を襲った津波とは、海が底上げされる津波だ。見るからに狂暴な、ロールを巻いた波ではない。海上は一見すると穏やか。だが、実はもっとも危険なのはこのような津波なのかもしれない。

本書は、3.11が起きるまでに、三陸海岸を襲った代表的な津波三つを取り上げている。すなわち明治29年(1894年)の明治三陸地震の津波、昭和8年(1933年)の昭和三陸地震の津波、最後に昭和35年(1960年)のチリ地震津波である。

著者の記録文学はとても好きだ。時の流れに埋もれそうなエピソードを丹念に拾い、歴史家ではなく小説家視点でわれわれ読者に分かりやすく届けてくれる。記録文学の役割が過小に評価されているように思うのは私だけではあるまい。

だが、著者の筆力をもっても、津波とは難しい題材ではなかったか。

なぜか。それは、時間と時刻だ。

時間とは、過ぎ去った時間のこと。本書が書かれたのは1970年だという。明治三陸津波からは76年の月日がたっている。もはや経験者が存命かどうかすら危ぶまれる年月だ。では、昭和三陸津波はどうだろう。こちらは被害に遭ってから38年。まだ体験談が期待できるはず。

だが、ここで時刻という壁が立ちはだかる。明治も昭和も地震発生時刻は夜中である。津波が三陸沿岸を総ざらいしたのは暗闇の中。つまり、目撃者からは行動の体験は引き出せても、視覚に映った記憶は期待できないのだ。

二階の屋根の向こうに波濤が見えた、海の底が引き潮で数百メートルも現れた、という目撃談は本書に載っている。だが、断片的で迫力にかける。そもそも夜分遅くに津波に襲われた被災者の方々が克明に状況を目撃しているほうがおかしいのだ。

被災者に立ちはだかるのは暗闇だけではない。津波とは一切を非情に流し去る。朝があたりを照らしても、元の風景を思い出すよすがは失われてどこにもない。そして、その思い出すらも時の経過が消し去って行く。荒れ狂う波が残した景色を前に、被災者はただ立ち竦むしかない。後世に残すに値する冷静緻密な絵や文章による描写を求めるのは被災者には酷な話だ。写真があればまだよい。だが、写真撮影すら一般的でない時代だ。

そんなわけで、著者の取材活動にも関わらず、本書は全般的に資料不足が否めない。でも著者は明治、昭和の津波体験者から可能な限り聞き取りを行っている。

視覚情報に期待できない以上、著者は他の感覚からの情報を集める。それが聴覚だ。本書には音についての情報が目立つ。地震発生時に二発響いたとされる砲声とも雷鳴とも聞こえる謎の音。海水が家屋を破壊する音や家にいて聞こえるはずのない水音。目には映らない津波の記憶も、耳の奥にはしっかりと残されている。そういった情報は聞き取りでも残された文献からも拾うことができる。

地震の記録としてよく知られるのは、宏観現象だ。宏観現象とは、前兆として現れた現象のことだ。本書は宏観現象も網羅している。

なかでも秀逸なのは、ヨダという東北弁の語彙の考察だ。ある人は揺れがないのに襲いかかる津波をヨダといい、ある人は揺れの後の津波をヨダという。著者が出した結論は後者である。その様な誤解が生じたのは、本書で三番目に取り上げるチリ地震津波の経験が影響しているのだろう。地球の裏側で起こった地震の津波が2日後に死者を出すほどの津波になるとは誰も思うまい。

そして、そういった波にも甚大な被害を受けること。それこそがリアス式地形を抱える三陸の宿命なのだろう。

だが、宿命を負っているにも関わらず、三陸の人々の全員に防災意識が備わっているかと言えばそうでもない。

著者の聞き取りは、三陸の人々が地震にたいして備えを怠っていたことを暴く。津波を過小評価し過去の地震の被害を軽くみた人や、誤った経験則を当てはめようとして逃げなかった人が津波にはやられている。

今の時代、昔から受け継がれてきた知恵が忘れられているのはよく言われる。しかし、昔の人たちも忘れることについては同じだったのかもしれない。

明治の地震でも更地と化した海沿いから、高台に家屋を移す試みはなされた。しかし、漁師は不便だからという理由でほどなく海沿いに転居する家が後を絶たなかったとか。そしてそれらの家は、後年、沿岸を襲った津波の被害に遭う。

結局、人とは喉元を過ぎれば熱さを忘れる生き物かもしれない。その意味でも著者の記録文学は残っていくべきなのである。

‘2016/6/29-2016/6/29


この六年を契機にSNSの過去投稿について思ったこと


今日で東日本大震災が発生して六年が経ちました。テレビやブログでも六年の日々が取り上げられているようですね。

今日の14:46を私は家で仕事しながら迎えました。六年前のその瞬間も同じ。あの時も家で仕事していました。違う事といえば、今日は直前に町田市の広域放送で黙祷を促されたことでしょうか。よい機会をもらえたと思い、しばし目を閉じ自分なりに物思いにふけります。

この六年を自分なりに振り返ろうかと思ったのですが、やめておきます。昨年秋に二回ほど郡山に仕事でお呼ばれしました。郡山の素敵な方々や産物や美しい風景の数々。地震が起きてから東北の方々に何も貢献できていなかった自分に少しは区切りはつけられました。でも私はいまだに浜通りや三陸を訪問できていません。私が東日本大地震を語るには時期が早いようです。
弊社は、福島を応援します。(まとめ版)
弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/1版)
弊社は、福島を応援します。(10/2版)

ふと、3.11前後の日記を覗いてみたくなりました。その頃の日記には一体何を書いていたのか。そして何を思ったのか。当時の私はまだmixiを利用していました。今や全くログインすることのないmixi。今回の機会に久々に当時のmixi日記を覗いてみることにしました。

久々に訪れるmixiはユーザーインターフェースが刷新された以外は案外同じでした。六年前の3.11の前後に書いた日記にもすぐアクセスできました。時間軸ではなく、年と月でカテゴライズされたmixi日記へのアクセスはFacebookに慣れた身には逆に新鮮です。日記ごとにタイトルが付けられるのも、後から日記を見たいニーズには適しています。私のようにSNS利用のモチベーションが自己ログ保存にあるような人にはうってつけですね。

最近のSNSはタイムライン表示が全盛です。Facebook、Twitter、Instagram、Snapchat。どれもがタイムライン表示を採用しています。mixiも過去日記の閲覧が容易とはいえ、基本はタイムライン表示です。多分、膨大に飛び込んでくる情報量をさばくには、タイムライン表示が適しているのでしょう。Snapchatに至っては投稿してもすぐ自動消去され、それが絶大な支持を得ているのですから。

mixiのように後から投稿を容易に閲覧できる機能はもはや流行から外れているのでしょう。今を生きる若者にはそもそも、後日のために投稿を取っておくという発想すらないのかもしれません。私も二十歳前後の記録は友達と撮りまくった写真以外はほとんど残っていないし。

でも、3.11の時のような天災では、アーカイブされた記録が後になって大きな意味を持つと思うのです。つい先日にも膨大にアップされたYouTube動画を場所や時間でアーカイブし、検索できる仕組みが東北大学によって公開されたとか。動画でふりかえる3.11ー東日本大震災公開動画ファインダーー

各種SNSでは、システムAPIなどを使って一括アーカイブはできるはずですし、Facebookでは一般アカウント設定から過去投稿の一括ダウンロードもできます。ただ、それだけでは足りません。mixiのように、容易に利用者が過去のウォール投稿やツイートにカテゴリーツリー経由でアクセスできるようにしても良いと思うのですよ。システム実装はあまり難しくないと思いますし。学術的な投稿アーカイブだけでなく、利用者にとっても過去日記を閲覧できる機能はあってもよいと思うのですが。

今回、過去の日記を久々に読み返して、過去の自分に向き合うのも悪くないと思いました。仕事を多数抱え、過去の日記を読み返す暇などほとんど無い今だからこそなおさらに。

とはいえ、気恥ずかしい記述があるのも事実。地震前最後に書いた日記は2011/3/8のこと。長女と二人で風呂に入ったこと。学校で性教育の授業を受けたと教えてもらったことが書かれてました。うーむ、、、これは気恥ずかしい。さらに、実名が求められないmixiでは私の書く筆致が全体的にのびのびしている気がしました。これは今の自分の書きっぷりについて反省しないと。


「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき


先週、4/26日に帰省した折、HAT神戸にある「人と防災未来センター」を訪問してきました。

のっけから結論をいうと、
「人と防災未来センター」を東京にもつくるべき。
これです。

さらに言えば、
特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。
これです。

このセンターの目的は、再び阪神・淡路大震災の被害を繰り返さぬため、後世に、未来に向けてメッセージを発信することにあると思います。確かに、阪神・淡路大震災の被災者にとり、遠い未来の阪神・淡路地域の防災を願うのは当然のことです。

しかし、それだけでよいのでしょうか。

私は、当センターの展示物の持つメッセージは、今の首都圏に住む人々にとってこそ切実に発信されるべきだと思うのです。江戸の昔から、東京には地震がつきもの。これは云うまでもありません。ここ150年に限っても安政江戸地震、関東大震災が発生しました。間隔から算出すると首都圏が大地震に襲われることは必至と言われています。

先日の東日本大震災では、首都圏も大きな揺れに襲われました。とはいえ、震源地は宮城県沖です。地震による直接の被害といってもお台場のビルが燃え、京葉工業地帯で爆発が起こったぐらいでした。首都圏に住まわれるほとんどの方にとって、地震の被害として記憶に残っているとすればなんでしょう。計画停電や電車遅延による心労、放射能汚染に対する恐れがせいぜいではないでしょうか。いづれも直接の地震被害ではありません。二次被害です。

しかし、このセンターの展示で阪神・淡路大震災の被害を見ると、東日本大震災で首都圏が被った地震による直接被害は、まったく過小なものであったと思わされます。そして、憂うべきなのは、そのことによって首都圏に住む方々が、地震への畏れを過小に認識し、それを定着させてしまったことでしょう。地震と言ってもたいしたことではない、という無意識の油断。このような油断が地震災害を広げることは云うまでもありません。当センターの目的は、そういった油断を諌め、将来の教訓とするためにこそあります。

なぜこのようなことを書くかというと、私自身、1.17と3.11の揺れをともに体験しているからです。といっても、1.17と3.11の揺れや建物被害の程度は比較にもなりません。町田で体験した3.11の震度五強の揺れは、1.17で体験した震度六強の揺れに比べても僅かなものでした。では、阪神・淡路大震災と同じ程度の揺れが首都圏を襲ったら何が起こるか。その被害の程度については私にも想像がつきません。相当な被害になる事は間違いないでしょう。私自身、あるいは命を落とすこともあるでしょう。

今回、初めて当センターを訪問し、そのことを強く感じたからこそ、自分への戒めとして本文を書くこととしました。

以下に、センターを訪問しての感想を述べていますが、結論は冒頭に書いた通りです。首都圏が阪神・淡路大震災と同じ揺れが起きたらどうなるか。そのことについて、首都圏の人はあまりに無関心です。首都移転の議論もすっかり下火となり、2020の東京オリンピックだけが先走っているように思えてなりません。私はそのことを強く危惧しています。少しでも多くの首都圏の方に、このセンターと同じような展示を見て頂きたい。

承知のとおり、今年は兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生して20年の節目の年です。1/17には追悼行事の報道で、当時の記憶を新たにした方も多いのではないでしょうか。わたし自身、薄れる一方の記憶を呼び起こし、当日にこのような一文をしたためました。

人と防災未来センターでは、20年を総括する特別展が催されています。今回の帰省は高校時代の友人達に招かれたのですが、良い機会と捉え、まだ未訪問だった当センターに足を運びました。IMG_3532

ガラスで覆われた印象的な外観のセンターは、西館と東館に別れています。西館一階から入場した私は、エレベーターで四階に案内されました。四階から二階へと下り、一度降りると上階へは戻れないようになっています。

四階は震災追体験フロアと銘打たれています。案内されたのは、立ち席のシアター。シアターの入り口には震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいと看板が立てられています。この看板の意味するところは、シアターを体験すればすぐに分かります。

当センターの目的は、防災の精神を未来に伝える事と受け止めました。防災の精神は、単に写真や遺物や文章を眺めるだけでは養われません。揺れの凄まじさに堅牢な建造物がいとも簡単に破壊される都市直下型地震の恐怖。この恐怖が刷り込まれてこそ、防災の必要性に目覚める。私はこのシアターの意味をそう体験し、心に刻みました。

shockと名付けられたシアターは、不規則で大きな凹凸が覆われたスクリーンが立体的に設置されています。直角三角形の長辺を想像すると分かりやすいです。観客は、震動を体感できる台のような場所に立ちます。前面のシアターには地震の揺れの凄まじさが映り、フラッシュが幾度も鋭く明滅し、サラウンド音響がシアター内に轟き、足元は揺れます。揺れるといっても、震度七の揺れではありません。それでは観客は映像を体験するところではなくなってしまうでしょう。揺れは抑えられているとはいえ、凸凹スクリーンに映る揺れの映像は凄まじい出来です。正直言って、これCGですよね?現実の映像ではないですよね?と聞こうかと思った程です。野島断層が断裂する瞬間を、阪急伊丹駅が崩壊する刹那を、長田区の住宅が粉々になる過程を、センター街のアーケードか原型を失う一瞬を、阪神高速神戸線が倒壊する数秒を、明石の天文科学館が揺れに翻弄される様子を、走行中の阪神電車が脱線する衝撃を、これら揺れの瞬間を偶然納めたアマチュアカメラマンの映像が残っており、それが上映されたかのよう。そのくらいリアルな映像でした。 

起震車という車があります。機械の力で震度七が体験できるというものです。私も体験したことがあります。その揺れに比べたらこのシアターの揺れはそれほどのことはありません。あの日の朝、両手で家を捕まれてめちゃくちゃに振り回されたような感覚を知る私にすればシアターの揺れは遠く及びません。でも、映像のリアルさがあまりにも真に迫っているため、20年前の恐怖が呼び起こされたようです。小学生以下のお子さんだと泣くかもしれません。

揺れの衝撃を味わった我ら観客は、シアターの外へ誘われます。そして、そこで目にするのは、病院の待合室。強烈な揺れに翻弄され、様々なものが散乱した病院に迷いこみます。20年前の朝に引き戻されたような空間です。病院の一方の壁は大破し、5時46分の明け方の暗い空が見えます。外に出ると、崩落した家の瓦礫が道路を塞ぎ、傾いた電柱から垂れ下がった電線が頭上に迫ります。高架からは路盤が崩れ、ずり落ちた線路が。これらのリアルな等身大ジオラマが、あの朝の、辺りを満たす奇妙な静寂を思い起こさせます。

ずり落ちた線路を潜ると、大震災ホールへと続きます。このシアターには、光も揺れも音響もありません。語り手は地震当時15歳の女性。激震により家は大破し、瓦礫の中に生き埋めとなるも、火の迫るなか、近隣の住民に助けられた経験を語ります。隣の部屋にいた姉は、「いいから、早よ行き!」という言葉を残し、焼死します。彼女がそのあと体験した、不安と寒さ、避難所生活のストレス、救急物資のありがたみが語られます。町は徐々に復興していきますが、土地を離れた人、賑わいを取り戻せない商店街の寂れなどをへて、彼女は震災体験を活かし、看護師になります。

ブログにも書いたように、私自身、地震当日からしばらくの時期は生きるのに必死で、復興の様子や街並みの様子はあまり覚えていません。しかし、こうやってシアターの彼女の体験を追ううちに、20年経って忘れてしまったこと、20年の時間の中に封じ込めてしまったものが思い出されます。感動しました。小学生の姉妹を連れた家族連れも来ていましたが、最初のshockでは平気だったのに、こちらのシアターではずっとすすり泣きの声を上げていました。

最初のshockの入り口に、震災追体験を望まれない方は三階へお進みくださいとの看板のことを書きました。その意味がよくわかりました。人によってはこれらの展示は余りにも強く当時を思い出させます。PTSDの症状に襲われる可能性も否定できません。常連客が再度の追体験を省くためだけといった理由もあるのでしょうが、シアターの内容にショックを受ける人への配慮もありそうです。この二つの映像と等身大ジオラマにはそうさせるだけの力があります。

続いて下りのみのエスカレーターで三階に降ります。震災の記憶フロアと名付けられたここは被害と互助、復興についての場です。かなり濃密な空間となっています。正直すべての展示を見るには体力と気力がいります。一字一句くまなく追うことは断念しました。でも、鷹取商店街の高熱でぐにゃぐにゃに溶けたアーケードの残骸や、揺れによってひどく歪んだ側溝の蓋など、印象に残る展示物も多かったです。様々な方の震災体験が豊富に展示され、行政の動きやNPOの活動など、実に濃い空間です。NPOには私も関心を持っており、ことさらじっくりと拝見しました。阪神・淡路大震災の起きた平成七年が日本のNPO元年とも言われるぐらい、地震後のNPO活動には特筆すべきものがありました。こういった専門的なことも学べるのがこちらのフロアです。IMG_3534

続いて二階へと下りました。一度二階に下ると三階のフロアには戻れないため、三階は生半可な気持ちでは見て回れません。しかし、防災・減災体験フロアという名の二階フロアは、比較的子供向けのワークショップや体験的な展示物が多く、少し拍子抜けしました。とはいえ、日本各地のハザードマップを集めたコーナーや多数用意されたPCによる災害ページの閲覧コーナーなど、じっくり腰を据えると学ぶべき点は多いです。家庭に備蓄すべき防災グッズも数多く展示されており、首都圏の人にこそ見てもらいたいフロアといえるでしょう。

こちらのセンターは西館と東館に別れていると書きました。二階には渡り廊下が設けられていて、東館に渡ることができます。東館の展示は、根本の限られた地球の資源や環境の大切さを学べる展示となっています。そして特別展示の場所としても。常設展はどちらかというと子供向けの内容が多く、帰京の時間が迫っていた私は、じっくりと見て回りませんでした。でも、特別展示は別です。

「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」と題された特別展はじっくりと見て回りました。手作り感あふれるボードに書かれた当日の被害やその後の復興が分かりやすくまとめられています。被災地の全ての家屋が白地図で貼りだされ、被害度に応じて色分けされています。被災して全壊認定を受けた私の実家も白地図でくっきりと示されており、色も塗られていました。しかしこうやって全体で見ると、我が家よりも重度の被害に遭った家屋の多さに言葉を失います。IMG_3550

こちらの特別展で首都圏の人々に特に見て欲しいのは、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など将来発生する大規模災害についての展示です。首都圏に住む人々にはお馴染みの景色が手書きイラストで30枚近く展示されています。戸越銀座や三軒茶屋、押上やお台場、新宿や多摩センターといった景色の。あえてキャプションは付されていませんが、首都圏に住む人にとってはどこを描いたか想像の付くイラストです。これらのイラストは全てあるテーマを基に描かれています。それは、地震発生後の人々が避難する様子です。あえて建物は想像し易くするため原型のまま描かれていますが、そこに登場する人々の様子は切迫しています。普段住んでいる街が被災したとき、何が起こるか想像してみて欲しいというのがこの展示の主旨なのです。

しかし、私は展示を観ながら素朴な疑問を抱くに至りました。それは、阪神間に住む人々はこれらのイラストをみてどこか想像つくのだろうかというものです。さらには、果たしてこの展示を首都圏の方々が見ることはあるのだろうか、という展示自体への疑問にもつながります。

ここにきて、冒頭にもあげた結論に繋がる訳です。「特別企画展として催されていた「1.17 阪神・淡路大震災20年 伝えよう 未来へ 世界へ」も含めて東京での展示をお願いしたい。」という結論に。今のままではこの展示は首都圏のほとんどの人の眼に触れることなく、特別展示の期間が終われば破棄されてしまうでしょう。それはあまりにも惜しい。防災がいま日本でもっとも必要な都市はどこかといえば、東京を中心とした首都圏に他なりません。当センターの展示物をもっとも見るべき人々が住まう場所も同じです。なのに、それが首都圏の人々に届いていないもどかしさ。私が本文を書こうと思い立ったきっかけもまさにそこにあります。

 叶うならば、東京に地震が来ないで欲しい。でも、科学的見地から、東京が地震に襲われることは免れない。であれば、少しでも被害が減らせるような方策を取るしかない。そのためには、首都圏に住まう人々に少しでも当センターのことを知らせるような運動を起こさねば。そのような動機から、本文を書きました。願わくはこの文をきっかけとし、首都圏の方々が当センターの展示に関心を持って下さるように。

 そうでなければ、20年前に亡くなられた6434人の犠牲が活かされなくなってしまいます。


関東大震災 消防・医療・ボランティアから検証する


吉村昭氏の名著やその他新書やムックの数々を読んできた私。春先には「東京・関東大震災前後」4-8188-0932-2 の論点のユニークさや細かさに勉強させられたのだが、こちらの本も参考になった。

未曽有の大災害になった理由を、当時の技術力の未熟さに帰しがちな、現代のわれわれ。ところが実は技術力の不足だけではないということを当時の様々な記録を丹念に記していくことで浮き上がらせていく。

今の首都圏の対策が本当にこの本に書かれたような色んな要因を踏まえて行われているのか疑問に思えてくる。

’11/9/17-’11/9/18