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ミステリークロック


「トリックの奇術化とは、まさにそういうことなんですよ。機械トリックは、奇術で言えば種や仕掛けに当たりますが、それだけでは不完全です。言葉や行動によるミスリードなどで、いかに見せるかも重要になります。機械的なトリックは、人間の心理特性を考慮した演出と相まって、初めて人の心の中に幻影を創り出すことができるんです」(202-203ページ)

これは本書の中である人物が発するセリフだ。
機械的なトリックとは、古今東西、あらゆる推理作家が競うように発表してきた。
謎にみちた密室がトリックを暴くことによって、論理的に整合性の取れた形で鮮やかに開示される。その時の読者のカタルシス。それこそが推理小説の醍醐味だといっても良い。
その再現性や論理性が美しいほど、読者の読後感は高まる。機械的なトリックこそは、トリックの中のトリックといえる存在だ。

冒頭に引用したセリフは、まさに著者が目指すトリックの考えを表していると思う。

本編にはそうしたトリックが四編、収められている。

「ゆるやかな自殺」
冒頭の一編は、さっそく面白い密室トリックを堪能できる。
やくざの事務所で起こった事件。やくざの組事務所とは、読者にとっては異空間のはずだ。入ったことのある人はそうそういないはず。私ももちろんない。
その事務所内に残された、一見すると自殺にしか見えない死体。
事務所の性格から、厳重に施錠された組事務所に誰も入れなくなったため、鍵を開けるために呼ばれた榎本。彼は、現場の様子を見るやいなや、自殺の怪しさに気づいてしまう。

本編は登場人物にとっても密室だが、読者の通念にとっても密室である。そこが本編のポイントだ。
なぜなら、組事務所という舞台設定は、読者にとって堅牢な固定観念がある。そのため、読者は勝手に想像が膨らませ、著者の思惑を超えて密室を構成する。
そのミスリーディングの手法がとても面白いと思った一編だ。

「鏡の国の殺人」
美術館「新世紀アート・ミュージアム」で起こった殺人を扱った一編。
新世紀とか現代美術という単語が付くだけで、私たちはなにやら難解そうな印象を抱いてしまう。

本編も野心的な光によるトリックが堪能できる。
「新世紀アート・ミュージアム」という、いかにも凝った仕掛けの美術館。つまり、仕掛けは何でもありということだ。
そして、執拗なまでに監視カメラが厳重に設置される館内において、どのように犯人は移動し、殺人を犯したのか。その謎は、どのような仕掛けによって実現できたのか。
トリックの醍醐味である、変幻自在な視覚トリックが炸裂するのが本編だ。

視覚トリックと言えば、私たちの目が錯視によってたやすく惑わされる事はよく知られている。
今までにもエッシャーのだまし絵や、心理学者によるバラエティに富んだ錯視図がたくさん発表されていることは周知の通りだ。
それらの錯視は、私たちの認知の危うさと不確かさを明らかにしている。

著者にとっては、本編のトリックは挑み甲斐のあるものになったはずだ。
本編は、錯視を使ったトリックもふんだんに使いつつ、他のいろいろなトリックも組み合わせ、全体として上質の密室を構成している。そこが読みどころだ。

「ミステリークロック」
山荘で起こった密室殺人。鉄壁のアリバイの中、どのようにして犯罪は行われたのか。
さも時刻が重要だと強調するように、本編では時刻が太字で記されている。

現代の作家の中でも伝統ある本格トリックに挑む著者。本編はその著者が、渾身の知恵を絞って発表した意欲的なトリックだ。
時計という、紛れもなく確かで、そして絶対的な基準となる機械。その時計を、いくつも使用し、絶対確実な時間が登場人物たちの上を流れていると錯覚させる。

記述される時間は太字で記され、読者自身にも否応なしに時間の経過が伝わる。
その強調は、時間そのものにトリックの種があることを明らかにしている。だが、読者がトリックの秘密に到達することは絶対にないだろう。多分、私も再読しても分からないと思う。

ミステリークロックと言うだけあって、本編は時計に対する記述の豊かさと絶妙なトリックが楽しめる一編だ。
冒頭に挙げたトリックに対するある人物のセリフは、本編の登場人物が発している。

本編は、時間という絶対的な基準ですら、人間の持つ知覚の弱点を突けば容易に騙される事実を示している。
これは同時に、人間の感覚では時間の認識することができず、機械に頼るしかない事実を示している。
機械の刻む時が絶対と言う思い込み。それこそが、犯罪者にとっては絶好のミスディレクションの対象となるのだ。

本編は、その少し古風な舞台設定といい、一つの建物に登場人物たちが集まる設定といい、本格ミステリーの王道の香りも魅力的だ。
工夫次第でまだまだトリックは考えられる。そのことを著者は渾身のプライドをもって示してくれた。
本編はまさに表題を張るだけはあるし、現代のミステリーの最高峰として考えても良いのではないだろうか。

「コロッサスの鉤爪」
深海。強烈な水圧がかかるため、生身の人間は絶対に行くことができない場所だ。
深海に潜る艇こそは、密室の中の密室かもしれない。
潜水服をまとわないと、艇の外に出入りすることは不可能だ。また、潜水服を着て外に出入りできたとしても、何千メートルの深海から命綱なしで海面にたどり着くことは不可能に近い。

そんな深海を体験したことのある読者はほとんどいないはず。なので、読者にとって深海というだけで心理的な密室として認識が固定されてしまう。その時点ですでに読者は著者の罠にはまっている。

そうした非現実的な場所で起こった事件だからこそ、著者はトリックを縦横無尽に仕掛けることができる。そしてその謎を追う榎本探偵の推理についても、読者としては「ほうほう」とうなずくしかない。
それは果たしてフェアなのだろうか、という問いもあるだろう。
だが、密室ミステリとは、犯罪が不可能な閉じられた場所の中で、解を探す頭脳の遊びだ。
だから本来、場所がどこであろうと、周りに何が広がっていようと関係ないはずだ。その場所に誰が行けるか、誰が事件が起こせるか。
その観点で考えた時、トリックの無限の可能性が眠っているはずだ。
それを教えてくれた本編は素晴らしい。

今や、ミステリの分野でトリックのネタは尽きたと言われて久しい。
ところが、人の心理の騙されやすさや、人の知覚の曖昧さにはまだ未知の領域があるはず。
そこに密室トリックが成り立つ余地が眠っていると思う。
本書のように優れたトリックの可能性はまだ残されているのではないだろうか。

本書にはミステリの可能性を示してくれた。そして頭脳を刺激してくれた。

‘2019/6/12-2019/6/13


海に生きる人びと


本書は沖縄旅行に持って行った一冊だ。

沖縄といえば海。海を見ずに沖縄へ行くことはできない。切っても切れない関係。それが沖縄と海の関係だ。「うみんちゅ」なる言葉もあるくらいだから。

そんな海の人々を知るには本書の民俗学的なアプローチが有効だと思い、かばんにしのばせた。結局、旅行中に読めなかったが。

ところが今回の沖縄旅行で訪れた海とは、観光としての海だった。民俗学の視点で考え込むより、青く透き通る美しい海で遊ぶこと。妻子の目的はそれだった。私も楽しんだけれど。

ところが一カ所だけ、海を民俗学的に扱っている場所を訪れた。その場所とはうるま市立海の文化資料館。ここは、海中道路の途中にある。沖縄本島から海中道路を渡った先には浜比嘉島、平安名島、宮城島、伊計島がある。これらの島々は沖縄でも造船技術の発達した場所。中国大陸に影響を受けた造船技術が現代もなお受け継がれている。それもある一家に相伝で伝わっているという。

この資料館には船の実物や造船技術のあれこれが展示されていた。私は駆け足ではあるが、展示物を見て回った。

その上で本書を読んだ。本書は、日本各地で海とともに生きた人々を取り上げている。その生活や歴史を。漁をなりわいとする人々はどういう生活圏を作り上げてきたのか。そして時代とともにどう生活圏を変えてきたか。そしてどういう職業をへて、海に寄り添って文化を作り上げてきたか。それらが本書では詳しく描かれている。

それは、著者の該博な知識があってこそだ。そうでなければ、各地の地名、伝承、古文書をこれだけ登場させられないはず。そう思えるほど、本書には日本各地の地名や伝承が次々と出てくる。著者によると、これでもまだ表面だけだという。

それだけ各地に残る古文書には、人々の暮らしの歴史が膨大に含まれているのだろう。そして、海の人々の足跡が刻まれているのだろう。それをたどってゆくだけでわが国の漁民文化の変遷が見えることが本書から読み取れる。

その変遷はなかなか多様だ。各地に残る「あま」の地名。それはまさに漁民の移動と広がりの跡にほかならない。隠岐の海士、兵庫の尼崎、石川の尼御前、阿波の海部、肥後の天草など、各地の「あま」が付く地名にたくさん跡が残されている。今の千葉県の安房が、徳島の阿波の国から来ている可能性など、旅が好きな人には本書から得られる知識がうれしいはず。

現代に生きる私たちが「あま」と海を結びつけるとすれば、鳥羽の海女しか出てこないと思う。それも観光ショーとしての。またはNHKテレビ小説の「あまちゃん」ぐらいか。ところが、かつては各地の海で生計を立てる人々を総じて「あま」と呼んだそうだ。だから日本の各地に「あま」が付く地名が多いのだ。

本書は、各地の地名の成り立ちを追いながら漁民の移動の歴史を概観する。その各章だけでかなり興味深い歴史が手に入ることだろう。

さらに本書は時代を少しずつ下ってゆく。それは漁法の進歩にともなう生活のあり方の変化として描かれる。漁民によってその変化はいろいろだ。潜水の技術をいかし、アワビ取りで糧を得る人もいた。妻だけが海に潜り、夫は沖に出て漁に従事することもあった。漁師から職を替え、船による運搬を職業に選ぶ人もいた。海から陸に上がり、商いで身を立てる人もいた。海は長距離の行動を可能にする。だから、海に生きる人々の生活範囲は広い。

著者は泉州の佐野を例に出す。いまは関空の拠点だが、かつては海に生きる人が多かったという。はるかな対馬まで毎年遠出する人もいたし、日本沿岸を余さず巡る人もいたという。そうした人々が日本各地に痕跡を残し、その地に地名を残す。

本書はあくまでも海の人々に集中している。だから、歴史を語る際に欠かせない中央政府の動向はあまり出てこない。だが、本署の描写からは海の人々が時代に応じて変化していく明白な様子が感じられる。

著書の調査の綿密さ。それは、海と人の交流を克明に描いていることからも明らか。例えばクジラ漁。例えばエビス神の信仰。なぜエビス様は左手に鯛を持っているのか。それは海の神から来ているという。西宮出身の私にはエビス様はおなじみだ。だから、恵比寿信仰のイメージは強く私に刻まれている。

結局、本書から私たちは何を学べばよいか。それは人々の流動性だ。たかだか八〇年の人生で物事を考えると、定職や定住を当たり前と考えてしまう。ところが古来、日本人には海の民族としての絶え間ない行動の歴史があったことが本書から学べる。それなのに私たちには海への文化的視点があまりにも欠けている。

海を舞台に活動した文化の伝統を忘れたこと。それは、日本人の活力を低下させたのではないだろうか。かつての日本人にはフロンティアであり冒険家だった海の人々がいた。そして、今もそうした人々の末裔はいるはず。海の文明を思い出し、日本人が旅心を取り戻した時、日本はまた立ち上るのかもしれない。

本書を読み、そういった知見を養っておくのは決して悪いことではない。

‘2018/04/02-2018/04/18