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男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか 不景気も吹き飛ばすタカラヅカの魅力


私の実家の近くを流れる武庫川にそって自転車で一時間も走れば、宝塚市に着く。宝塚大橋を過ぎると右手に見えるのが宝塚大劇場。今や世界に打って出ようとするタカラヅカの本拠地だ。そのあたりは幼い私にとってとてもなじみがある。宝塚ファミリーランドや宝塚南口のサンビオラにあった大八車という中華料理屋さん。このあたりは私にとってふるさとと言える場所だ。

ところが本書を読み始めた時、私の心はタカラヅカとは最も離れていた。それどころか、車内でタカラヅカのCDが流れるだけで耐えがたい苦痛を感じていた。

なぜタカラヅカにそれほどストレスを感じるようになったのか。それは、妻が代表をやっていることへのストレスが私の閾値を超えたからだ。代表というのはわかりやすくいうと、タカラジェンヌの付き人のことだ。タカラジェンヌの私設ファンクラブの代表であり、マネジャーのようによろずの雑事を請け負う。その仕事の大変さや、理不尽なことはここには書かない。また、いずれ書くこともあるだろうから、そちらを読んでもらえればと思う。

私は、妻や妻がお世話をしているジェンヌさんに含むところは何もない。だが、それでも私が宝塚歌劇に抱いたストレスは、CDを聞くだけで耐えがたいレベルに達していた。

本書は、タカラヅカの世界に偏見を持つ方へ、タカラヅカの魅力を紹介する本だ。だから、わたしには少しお門違いの内容だった。

断っておくと、私は観劇は好きだ。今までにもいくつもの観劇レビューをブログにアップしてきた。舞台と客席が共有するあのライブ感は、映画やテレビや小説などの他メディアでは決して味わえない。コンサートの真価を感情を発散させることにあるとすれば、観劇の真価は感情に余韻を残すことにあると思う。

だから著者が一生懸命に熱く語るタカラヅカの魅力についても分かる。観客としてみるならば、タカラヅカの観劇は上質の娯楽だ。もし内容がはまれば、S席の金額を払っても惜しくないと思える。私が今まで見たタカラヅカの舞台も感動を与えてくれた。だが、本書を読むにあたって、私の心はタカラヅカの裏方の苦労や現実も知ってしまっていた。

心に深い傷を負った私がなぜ本書を手に取ったか。それは本書を読む10日ほど前、友人に誘われ、劇団四季の浅利慶太氏のお別れ会に参列したためだ。

浅利慶太氏は劇団四季の創始者だ。晩年は演出家としてよりも経営者として携わることの方が多かったようだ。つまり、理想では運営できない劇団の現実も嫌という程知っている。そんな浅利氏だが、すべての参列者に配られた浅利慶太の年譜からは、演劇を愛する一人の気持ちがにじみ出ていた。劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていたが、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、創立者が抱く演劇への理想が強くにじみ出ていた。

ひるがえってタカラヅカだ。すでに創立から105年。創立者の小林一三翁が亡くなってからも60年がたつ。きっと小林翁が望んだ理想をはるかに超え、今のタカラヅカは発展を遂げたのだろう。だが、小林一三翁が理想として掲げた国民劇としての少女歌劇団と今の宝塚歌劇のありように矛盾はないだろうか。私には矛盾が見えてしまった。上にも書いた代表という制度の深い闇として。

もう一度ファンの望むタカラヅカのあり方とはどのようなものか知りたい。それが本書を読んだ理由だ。代表が嫌だからと駄々をこねて、すねていても仕方がない。タカラヅカから目を背けるのではなく、もう一度向き合って見ようではないか。

本書は私の気づいていなかった視点をいくつも与えてくれる。とても優れた本だと思う。

ヅカファンに限らず、あらゆるオタクは自らがはまっているものを熱烈に宣伝し、広めたがる。いわばエバンジェリスト。著者も例外にもれず、一生懸命ファンを増やそうとしている。中でも著者のターゲットは男性だ。

第一章では「男がタカラヅカを観る10のメリット」と題し、読者の男性をファンにしようともくろむ。たしかにここに書かれていることは分かる。モテる? まあ、私はタカラヅカに理解があるからといってモテた記憶はないが。ただ、タカラヅカを観ると意外に教養が身につくことは確かだ。もっとも、私が妻子に言いたいのは、タカラヅカが取り上げたから食いつくのではなく、元から自分の知らない世界には好奇心は持っておいてほしいこと。もっとも、極東の私たちが西洋の歴史など、タカラヅカがやってくれなければ興味が持てないのもわかる。そうやって受け身でみるからこそ、新たな知識が授かるのもまた事実。

第2章でも著者のタカラヅカ愛は止まらない。ここで書かれている内容も、妻からはたまに聞く。絶妙としか言いようのない世界。勧進元にしてみれば、完璧なビジネスモデルだと思う。ある程度放っておいても、ファンがコミュニティを勝手に運営し、盛り上げてくれるのだから。著者が挙げるハマる理由は次の五つだ。

(1)じつは健全に楽しめる。
(2)「育てゲー」的に楽しめる。
(3)財布の中身に応じて楽しめる
(4)年代に応じて楽しめる。
(5)「死と再生のプロセス」を追体験できる。

結局のところあらゆるビジネスはファンを獲得できるかどうかにかかっている。そして実際にタカラヅカはこれだけの支持を受けている。これはタカラヅカのコンテンツが消費者を魅了したからに他ならない。代表制度には矛盾を感じる私も、このことは一ビジネスマンとして認めるにやぶさかではない。

第3章では組織論に話が行く。ここは私にとっても気になった章だ。だが、ここの章では裏方には話が及ばない。代表の「だ」の字も出ない。あくまで表向きのスターシステムや組ごとにジェンヌ=生徒を切磋琢磨させる運営システムのことを紹介している。外向けには「成果主義」、組織内では「年功序列」、この徹底した使い分けがタカラヅカの強さの源泉である。と109ページで著者は説く。徹底したトップスター中心主義を支える年功序列と成果主義。さらに著者はそれの元が宝塚音楽学校の厳しいしつけから来ているという。

ここで私は引っかかった。最近は宝塚音楽学校もかつての厳しさがなくなり、生徒の親の圧力もあってかなり変質しつつある、と聞く。その割には、厳しい上下関係が代表の間でも守られる圧力があることも聞く。生徒間の軋轢の逃げ場が代表に行っているとなれば、ちょっと待てと思ってしまうのだ。たしかにタカラヅカはベルばらブームで復活した。それ以降は安定の運営が続いている。代表の制度などのファンクラブの組織もベルばらブームの頃に生まれたという。だから代表がタカラヅカの隆盛に大きな役割を担っているのは確かだろう。

そりゃそうだ。ジェンヌさんのこまごました身の回りのフォローも代表やスタッフがこなしているのだから。そしてその労賃はタカラヅカ歌劇団から支出されることはないのだから。代表制度は、ファンたちが勝手に作りあげた制度。宝塚歌劇としては表向きは全く知らぬ存ぜぬなのだ。

もちろん、今のジェンヌさんの活動が代表に支えられているのはわかる。メディア出演や舞台、練習。今のジェンヌさんの負担はかつてのジェンヌさんをかなり上回っているはず。今の状態で代表制度を無くせばジェンヌさんはつぶれてしまうだろう。それも分かる。日本社会のあり方は変わっている。昔は大手を振りかざして精神論をぶっても通じたが、今やパワハラと弾劾されるのがオチだ。

だが、それにしても代表に頼る風潮が生徒さんの間で濃くなってはしまいか。タカラヅカの文化を受け継ぐにあたってついて回る歪みやきしみや負担が代表にかかっている場合、代表制度が崩壊すれば、それはタカラヅカ崩壊につながる。

私が危惧するのは、宝塚の厳しい伝統やしつけとして受け継がれてきた文化が、じつは形骸化しつつあるのでは、ということ。しかもそれが代表制度への甘えとして出て来てはしまいか、ということだ。できればこの章ではそのあたりにも触れてほしかった。

本書で描かれるようなタカラヅカの魅力は確かにある。一観客としてみると、これほど素晴らしい世界が体験できることはそうそうない。そりゃ、皆さんだって劇場に足を運ぶだろう。だが、先にも書いた劇団四季も同じぐらい人々を魅了している。そして劇団四季にはそうした半ば公認され、非公認の私設ファンクラブなる矛盾した存在はない。劇団員がお茶会に駆り出されることもなく、舞台に集中できる仕組みが整っている。四季にできていることがタカラヅカにできない? そんなはずはない、と思うのだが。

裏方を知ってしまった私は、タカラヅカの今後を深く憂う。私が平静な心でヅカのCDを聞けるのがいつになるのかはともかく。著者の熱烈な布教にも関わらず、私の心は揺るがなかった。

‘2018/10/4-2018/10/4


星籠の海 下


上巻で広げるだけ広げた風呂敷。そもそも本書が追っている謎は何なのか。読者は謎を抱えたまま、下巻へ手を伸ばす。果たして下巻では謎が明かされるカタルシスを得られるのだろうか。下巻ではさすがにこれ以上謎は広がらないはず。と、思いきや、事件はますますよくわからない方向に向かう。

石岡と御手洗のふたりは、星籠が何かという歴史の謎を追いながら、福山で起こる謎の事件にも巻き込まれてゆく。その中で、福山に勢力を伸ばし始めた宗教団体コンフューシャスの存在を知る。しかも、コンフューシャスを裏で操る黒幕は、御手洗が内閣調査室から捜査を依頼されていた国際的なテロリストのネルソン・パク本人である事実をつかむ。どうも福山を舞台とした謎めいた事件の数々は、宗教団体コンフューシャスの暗躍にからんでいるらしい。

ここが唐突なのだ。上巻でたくさん描かれてきた謎とは、御手洗潔とネルソン・パクの宿命の対決に過ぎないのか、という肩透かし。そもそも、宿命の対決、と書いたが、私はネルソン・パクをここで初めて知った。御手洗潔に宿命のライバルがいたなんて!これは『御手洗』シリーズの全て順番に忠実に読んでこなかった私の怠慢なのだろうか。シリーズを読んできた方にはネルソン・パクとは周知の人物なのだろうか。シャーロック・ホームズに対するモリアーティ教授のように。私の混乱は増すばかり。多分、おおかたの読者にとってもそうではないか。

御手洗潔の思わせぶりな秘密主義は毎回のことなのでまあいい。でも、急にネルソン・パクという人物が登場したことで、読者の混乱はますはずだ。それでいながら、辰見洋子が瀕死でテーブルに両手両足を縛り付けられている事件や、赤ん坊が誘拐され、その両親は柱に縛り付けられるという新たな謎が下巻になってから提示される。どこまで謎は提示され続けるのだろうか。それらの謎は、どれも福山を舞台にしていることから、コンフューシャスの暗躍になんらかの繋がりはあるのだろう。でも、読者にはそのつながりは全く読めない。小坂井茂と田丸千早は演劇を諦めて福山に戻ってきた後、どう本筋に絡んでくるのか。鞆で暮らすヒロ少年と忽那青年は本筋で何の役割を果たすのか。そこにタイトルでもある星籠は謎をとく鍵となるのだろうか。

無関係のはずの複数の事件を結びつける予想外のつながり。その意外性は確かに推理小説の醍醐味だ。だが、本書の場合、そのつながりがあまりにも唐突なので少々面食らってしまう。辻褄を無理矢理合わせたような感触すらうける。コンフューシャスという宗教団体に黒幕を登場させ、実は御手洗はその黒幕をずっと追っかけていた、という設定もいかにも唐突だ。

本書が、星籠とは何かと言う謎をひたすらに追っかけていくのであればまだ良かった気がする。それならば純然たる歴史ミステリーとして成立したからだ。ところが、他の複数のエピソードが冗長なあまり、それらが本筋にどう繋がるのかが一向に見えてこない。このところ、著者は伝承や伝説をベースに物語を着想することが多いように思うが、あまりにも付け足しすぎではないだろうか。むしろ、上下で二分冊にする必要はなく、冗長なエピソードは省き、冒険活劇めいた要素もなくしても良かったと思う。

星籠が何を指すのかという謎を追うだけでも、十分に意欲的な内容になったと思う。星籠が何かということについては、本稿では触れない。ただ、それは歴史が好きな向きには魅力的な謎であり、意外な正体に驚くはず。そして、星籠の正体を知ると、なぜ本書が福山を舞台としたのか、という理由に納得するはずだ。また、上巻の冒頭で提示された、瀬戸内海という場を使った壮大な謎が、物語にとって露払いの役割にしかなっていない事を知るはずだ。それは瀬戸内海という海洋文化を語るための導入の役割であり、大きな意味では無駄にはなっていない。

だが、その謎を軸にした物語を展開するため、エピソードを盛り込みすぎたことと、冒険活劇めいた要素を盛り込みすぎたことが、本書をいささか冗長にしてしまったようだ。もちろん、下巻で、上巻から展開してきた多くの謎は収束し、とかれてゆく。だが、謎の畳まれ方がいく分、乱雑に思えてしまうのは私だけだろうか。その豪腕ともいうべき物語のまとめ方はすごいと思うが。

本書を映画化するにあたり、雑誌「ダ・ヴィンチ」で特集があった。著者のインタビューも載っているし、今までの著者の名作の紹介も載っている。その特集をあらためて読むと、著者の偉大さをあらためて思う。上巻のレビューにも書いた通り、私の人生で最もなんども読み返したのは『占星術殺人事件』。私にとって、永遠の名作でもある。その一冊だけでも著者の評価はゆるぐことはないだろう。

本書を『占星術殺人事件』と比べると、私にとってはいささか冗長で、カタルシスを得るには至らなかった。ただし、本書を読んで数カ月後、思いもよらない形で私は本書とご縁ができた。kintoneのユーザー会で訪れた福山、そして鞆。どちらも、本書で描かれたようなおどろおどろしさとは無縁。本書でヒロ少年と忽那青年が暮らす鞆は、豊穣に広がる海が、かつての水軍の栄華を思い起こさせてくれた。街並みもかつての繁栄を今に残しており、歴史を愛する私にとって、素晴らしい体験を与えてくれた。美しく、また、楽しい思い出。

その旅を思い出し、初めて本書の真価が理解できた気がした。本書はいわばトラベルミステリーの一つなのだと。著者は福山の出身であり、本書は映画化されている。つまり、本書は、映画化を前提として描かれたに違いない。そこに著者の得意とする壮大な謎解きと、福山の歴史ロマンをくわえたのが本書なのだ。福山や鞆を訪れた経験の後、本稿を書き始めて、私はそのことに思い至った。

トラベルミステリーと聞くと、手軽なミステリーとの印象がついて回る。だが、本書を仮にトラベルミステリーととらえ直してみると、印象は一変する。福山とその周辺を魅力的に描き、歴史のロマンを取り上げ、さらには大胆なトリックがいくつも。さらには冒険活劇の要素まで加わっているのだ。つまり、本書は上質のトラベルミステリーといえるのではないだろうか。もちろん、そこに悪い意味はない。

本稿を書きながら、また、福山と鞆の浦に行きたくなったのだから。

‘2018/09/05-2018/09/05


星籠の海 上


本書は映画化されるまで存在に気付かなかった。映画の番宣で存在をしったので。かつてのように推理小説の状況をリアルタイムでウォッチする暇もない最近の私。推理小説の状況を知るのは年末恒例の「このミステリがすごい」を待ってからという状態だ。本書が『御手洗』シリーズの一冊だというのに。

御手洗潔といえば、名探偵。私が今までの人生で最も読み返した本は『成吉思汗の秘密』と『占星術殺人事件』。御手洗潔は後者で鮮烈なデビューを果たした主人公だ。御手洗と言えば相棒役の石岡を外すわけにはいかない。御手洗と関わった事件を石岡が小説に著す、というのが今までの『御手洗』シリーズのパターンだ。

本書の中で石岡が述懐した記録によれば、本書は『ロシア幽霊軍艦事件』の後に起こった事件を小説化しているという設定だ。そして本書の後、御手洗潔はスウェーデンに旅立ってゆく。本書は、御手洗潔が最後に国内で活躍した事件という体をとっている。

ではなぜ、著者は御手洗潔を海外に飛び出させてしまったのだろう。それは著者が御手洗潔を持て余してしまったためだと思う。本書の冒頭で描かれるエピソードからもその理由は推察できる。

かのシャーロック・ホームズばりに、相手を一瞥しただけでその素性を見抜いてしまう観察力。『占星術殺人事件』の時に描かれたようなエキセントリックな姿は影を潜め、その代わりに快活で多趣味な御手洗潔が描かれている。つまり、パーフェクト。超人的な観察能力は『占星術殺人事件』の時の御手洗潔には描かれておらず、もっと奇天烈なキャラクターとして登場していた。ところが今の御手洗潔はパーフェクトなスーパーマンになってしまっていた。そのような人間に主人公を勤めさせ続けると、著者としては推理小説が書けなくなってしまう。なぜなら、事件が起こった瞬間に、いや、事件が起こる前に超人的な洞察力で防ぐのがパーフェクトな名探偵だからだ。神がかった人間が秘密をすぐに見破ってしまうとすれば、著者はどうやって一冊の本に仕立て上げられるというのか?

作者としても扱いに困る存在になってしまったのだ。御手洗潔は。だからこのところの『御手洗』シリーズは、御手洗潔の子供時代を描いたり、日本で苦労しながら探偵役を務める石岡からの助けに、簡潔なヒントをスウェーデンからヒントをよこす役になってしまった。

本書はその意味で御手洗潔が日本で最後に手掛けた事件だという。今後御手洗潔が日本で活躍する姿は見られない気がする。本書は石岡のメモによると1993年の夏の終わりに起こった設定となっている。

著者の作品は、壮大な科学的事実を基に着想されていることが多い。死海の水がアトピー治療に効くとか、南半球と北半球では自然現象で渦の向きが逆転するとか。本書もそう。ところが著者は、もはやそうした謎をもとに物語を構築することをやめてしまったようだ。本書はどこからともなく死体が湧いて打ちあがる瀬戸内海の興居島の謎から始まる。ところがそのような魅力的な謎を提示しておきながら、その謎はあっけなく御手洗が解いてしまう。

ただし、そのことによって、著者は瀬戸内海に読者の目を向けさせることに成功する。紀伊水道、豊後水道、関門海峡のみが外海の出入り口であり、潮の満ち引きに応じて同じ動きをする海。それを御手洗潔は時計仕掛けの海と言い表す。

それだけ癖のある海だからこそ、この海は幾多の海戦の舞台にもなってきたのだろう。そして今までの歴史上、たくさんの武将たちがこの海を統べようとしてきた。平清盛、源義経、足利尊氏。そのもっとも成功した集団こそ、村上水軍。本書はもう一つ、村上水軍に関する謎が登場する。戦国の世で織田信長の軍勢に敗れた村上水軍は、信長の鉄甲船に一矢報いた。ところが、本能寺の変のどさくさに紛れ、その時に攻撃した船は歴史の闇に消えたという。

ところが、幕末になり、ペリー率いる四隻の黒船が浦賀沖に姿をあらわす。黒船に対応する危急に迫られた幕府から出船の依頼がひそかに村上水軍の末裔に届いたという。それこそが本書のタイトルでもある星籠。いったい星籠とは何なのか、という謎。つまり本書は歴史ミステリーの趣を濃厚に漂わせた一冊なのだ。

ところが、上巻のかなりの部分で星籠の謎が語られてしまう。しかも本書は、本筋とは違う挿話に多くの紙数が割かれる。これは著者の他の作品でもみられるが、読者は初めのうち、それらの複数のエピソードが本筋にどう絡むのか理解できないはずだ。

本筋は御手洗や石岡が関わる興居島の謎だったはずなのに、そのほかに全く関わりのない三つの話が展開し始める。一つ目は、小坂井茂と田丸千早の挿話だ。福山から東京に出て演劇に打ち込む青春を送る二人。その栄光と挫折の日々が語られてゆく。さらに、福山の街に徐々に不気味な勢力を伸ばし始めるコンフューシャスという宗教が登場し、その謎めいた様子が描かれる。さらに、福山にほど近い鞆を舞台に忽那青年とヒロ少年の交流が挟まれる。ヒロ少年は福島の原発事故の近くの海で育ち、福山に引っ越してきたという設定だ。共通するのは、どの話も福山を共通としていること。そこだけが読者の理性をつなぎとめる。

四つのストーリーが並行してばらばらに物語られ、そこに戦国時代と幕末の歴史までが関わってくる。どこに話が収束していくのか、途方にくれることだろう。そもそも本書でとかれるべき謎が何か。それすらわからなくなってくる。興居島に流れ着く死体の謎は御手洗が解いてしまった。それを流したのは誰か、という謎なのか。それともコンフューシャスの正体は誰か、という謎なのか。それとも星籠の正体は何か、という謎なのか。それとも四つの話はどうつながるのか、という謎なのか。

そもそも本書が追っている謎は何なのか。それこそが本書の謎かもしれない。目的が不明な小説。それを狙って書いたとすれば、著者のミステリー作家としての腕はここに極まったといえよう。

下巻になると、それらの謎が少しずつ明かされてゆくはず。そんな期待を持ちながら上巻を閉じる。そんな読者は多いはずだ。

‘2018/09/04-2018/09/04


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


繁栄の昭和


いつの間に筒井御大の最新作が出ていたのを見逃していた。不定期的にWeb連載されているblog「偽文士日録」1、2ヶ月に一度はチェックしているのに。不覚。

本書は短編集である。題名を見ただけでは高度成長期の日本を舞台にした内容と思う向きもあろう。高度成長期といえば、著者がスラップスティックの傑作を連発していた時期。繁栄とは著者自身の脂の乗り切った作家生活のそれを
指しているのではないかと。しかし、そうではない。

繁栄の昭和
大盗庶幾
科学探偵帆村
リア王
一族散らし語り
役割演技
メタノワール
つばくろ会からまいりました
横領
コント二題
附・高清子とその時代

「繁栄の昭和」
時代設定や文体など、本書に収められたそれぞれの短編は旧かな遣いこそ使っていないが昭和初期を意識している。名探偵や魔術師といった登場人物の肩書きは江戸川乱歩のそれ。主人公は緑川英龍なる架空の探偵小説作家の愛読者という設定。その主人公がとある事件の探偵を頼まれ捜査に乗り出す。ご丁寧に事件の犯行現場見取り図まで載せられている。

主人公は自らを緑川英龍の小説世界の登場人物になぞらえる。そして主人公の生きるのが昭和40年代なのに昭和初期を思わせる描写になっていること。そしてそれが緑川英龍の昭和の繁栄をとどめたいとする意図であることを看破する。言わば本編は小説のメタ世界を描いた一編である。著者にとってはメタ小説はお手の物だろうが、それを敢えて作り物っぽい昭和初期の時代設定でやってみせたのが本編。

「大盗庶幾」
少年の頃、ポプラ社の少年探偵団シリーズに熱中した人は本編に喜ぶに違いない。華族に生まれ、好奇心や運命の導きで軽業や変装を覚えた男の成長譚が本編だ。少年探偵団シリーズを読み込んだ方には、早い段階でこの物語が誰を描いた物語かピンと来るはず。そういえば江戸川乱歩の著作でも、他の方の著作でも彼の成り立ちを読んだことがないことに気付いた。しかし、彼の前半生は、少年探偵団シリーズの愛読者にとって大いに気になるはずだ。何故執拗に明智小五郎に挑戦状を叩きつけ続けるのか、彼の財力や組織力はどこから湧いてくるのか。本編末尾に明かされる正体は、もはや蛇足といってよいだろう。怪人二十面相。

「科学探偵帆村」
著者の元々の得意分野であるSFに昭和初期の荒唐無稽な空想科学小説の赴きを加えた小品。とはいえ、本編の舞台は昭和から平成の現代へと移る。処女懐胎をテーマに御大の放つ毒がちらちらと漂う一編。特に最後の文などは著者の作品ではおなじみの締め方だ。

「リア王」
著者のもう一つの顔が舞台役者であることは有名だ。本編では舞台役者としての自身に焦点を当てている。短編の場を借り、著者が望む演劇の姿を披瀝する。とかく堅苦しく考え勝ちな演劇論に一石を投じた一編といえよう。

「一族散らし語り」
著者が一頃影響を受けていたマジックリアリズム。私も著者のエッセイなどからマジックリアリズムを知り愛好するようになった。そのマジックリアリズムを日本古来の怪談風味で味付けた一編。願わくば、この路線で凄まじい長編を上梓して頂ければ。御大なら出来うると思うのだが。ま、これは単なる一ファンの世迷い言である。

「役割演技」
著者の風刺がピリッと効いている。社交界の華やかな舞台に現れては消える主人公。実は社交界の華という役割を担う、下層階層の雇われ人。ブランドや女優のカタカナ語の乱舞する前半から、マイナスイメージのカタカナがまばらな後半まで。著者の風刺精神は今なお健在で嬉しくなる。

「メタノワール」
テレビ界でも未だに顔の利く著者の多彩な交流が垣間見える一編。実名で俳優達がズバズバ登場。俳優としての著者の、舞台裏と舞台上の姿が交わりあい、役割の境目が溶けて行く。俳優としての己を表から引き下げ、メタ世界から見つめた世界観は流石。

「つばくろ会からまいりました」
短い掌編。入院した妻に変わって家政婦としてやって来た若い女性との交流を描いている。家で夕食を誘ったところ、呑みすぎて泊まってしまった彼女。モヤモヤとしながら男は手を出さない。翌朝、彼女は行方不明となり、妻は昏睡状態となる。妻が彼女の姿を借りて、最後に交流するという筋。愛妻家として知られる著者の今を思わせる好編。

「横領」
小心ものであるが業務上背任の罪を犯した男女の寸劇がハードボイルドタッチに描かれる。著者のペダンチックな思想が登場人物の部分として登場し、著者の考えの断片を短編化しようとした一編。本書に収められた諸編の中ではいまいち消化できなかった一編である。

「コント二題」については、ノーコメント。

「附高清子とその時代」
本編はかつて著者の上梓したベティ・ブーブ伝を彷彿とさせる。トーキー時代の女優高清子をについてエッセイ風に論じている。私にとって高清子とは全く初耳の女優だが、著者の筆にかかると興味が湧いてくるから面白い。トーキー時代の日本映画は全く見たことがないのだが、引き込ませる。私のように興味ない人をも引き込ませるほど語ることのできる著者の文才を羨ましく思う。

著者の創作意欲はまだまだ衰えそうもない。それは冒頭に紹介した「偽文士日録」を読んでいる

‘2015/8/28-2015/8/30


ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2015/guysanddolls/


ミュージカル エリザベート


昨年10月以来の観劇は、奇しくも同じ演目であるエリザベートとなった。前回は宝塚歌劇団花組の、しかも娘役トップの蘭乃はなさん退団公演を兼ねていた。今回は帝国劇場での一般公演。しかもエリザベート役は宝塚を退団したばかりの蘭乃はなさんが再び演じ、宝塚退団前後の蘭乃はなさんの成長ぶりを目撃することができた。これも縁であろうか。今回は前から3列目という間近で一部始終を観劇することができた。いつも素晴らしいお席を取って頂き、田中先生本当にありがとうございます。

宝塚花組による公演は大変素晴らしく、二幕物の正統派ミュージカルが好きな私は、どっぷりとその世界観に浸ることができた。その際にアップしたレビューにも書いているが、役者の演技もさることながら、舞台装置や演出の工夫が実に美しく、舞台美術の有るべき姿を見せつけられた思いだった。今回の公演も同じ小池氏による演出である。同じ演出家が同じ素材を元にどのような調理を見せてくれるのか。宝塚歌劇団と宝塚以外の公演、しかも男性役者が入ることで演目がどのように変化するのか、非常に楽しみにしていた。

とはいえ、普段観劇の機会も少ない私。失礼ながら蘭乃はなさん以外はキャストの方々に対する予備知識もないまま、舞台に臨んだ。

死神トートは、宝塚版では中性的なキャラクターとして設定されていた。ただでさえ中性的な宝塚男役が演ずるにははまり役といってよい。今回は男性がトートを演ずる訳だが、男性が中性的な雰囲気をいかにして身に纏うか。死神の感情を超越した冷徹さと、エリザベートへの愛をいかに両立して演じ切るのか。客席が暗くなり、固唾を呑んで舞台を見つめる私の関心はそこにあった。

ところが冒頭の裁判シーンからして驚かされることになる。妻からは事前知識として宝塚版とほぼ同一の内容と聞いていた。ところが、このシーンからすでにはっきりとした演出の違いが見られた。エリザベート殺害犯であるルイジ・ルキーニ裁判の流れは同じだが、今回版では裁判の証人として、エリザベートの時代を生きた人々を墓から蘇らせる演出が採られていた。埃にまみれたベール状の衣装はかなり独創的で、子どもから大人からが墓から一斉に蘇るシーンは鮮烈に印象付けられた。宝塚版ではこのあたりの演出が曖昧で、証人も現れないまま、あっさりと次の展開に進んでしまい、印象が残りづらい演出となっていた。さらに今回版では証人が舞台に現れきったところでルキーニが上を指さす。そこに吊られて降りてきたのは死神トート。ここで独唱のソロを響かせる。ここで私の心は一気に井上芳雄さん演ずるトートに魅入られた。それはまさに魅入られたといっても過言ではない。中性的な美声と登場シーンが鮮烈なあまり、私だけでなく観客の多くが井上さん演ずるトートに印象付けられたといってもよい。そこあったのは男性や中性といった性別を超えた美しさ。

ここで先に今回版の難点を指摘しておく。今回版は登場人物の歌声にブレが感じられたことが心残りだった。特に主演である蘭乃はなさんの声がたまにひっくり返ったりしたのは惜しい。いずれも感情を表に出す部分、歌詞になると荒れてしまった。もっともそれは、良くとらえるならば感情表現の一つとして許せる範囲ではある。また、フランツ・ヨーゼフ演じる佐藤隆紀さんも一か所だけだが声がひっくり返ってしまった箇所があった。とはいえ、他の方々の台詞にトチリは見られず、歌声も声量も内容もはっきりと耳に聞こえたため、難点と言えるのは上の二か所ぐらいだろうか。しかしそういった難点は、全てトート演ずる井上さんの圧倒的な歌唱力で帳消しになったといってもよい。まだ30回ぐらいの私の浅い観劇経験の中でしか言えないのが残念だが、今まで聞いた中で一番魅了された声だった。

硬軟取り混ぜ、抑揚や声のトーンも実に感情豊か。中でも「最後のダンス」のシーンはとてもよかった。宝塚版よりも幾分かロック調を増したアレンジにロック調の節回しやシャウトを響かせたそれは、荒々しさが粗暴に陥らず、感情溢れる中にも冷徹さを残す絶妙な歌唱だったといえる。

こういった宝塚版にはないロック調のアレンジ。このような宝塚版との演出の違いは随所に見られた。例えば少女時代のエリザベート(=シシー)が父と過ごすシーン。エリザベートの性格形成に大きな影響を与えた父は、今回版ではフランスの家庭教師と浮気をしていたことを独白する。宝塚版には無かった演出である。また、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚初夜のシーン。尾上松也さん演ずるルイジ・ルキーニからは「やることやったら世継ぎが生まれ」という台詞が吐かれ、同時に卑猥なしぐさをクイっと見せる。エリザベートが夫フランツの浮気を知る場面は、自身が夫から移されたと思われる性病の症状によってだし、マダム・ヴォルフの館のシーンでは、出てくる娼婦たちの衣装はかなりぎりぎりで、ある娼婦の貞操帯を開け閉めする音まで舞台に響かせる。いずれもいわゆるスミレコードの枠内では不可能な演出であり、演出家の小池氏にとっては腕の見せどころだったのではないだろうか。また、舞台上でフランツ・ヨーゼフとエリザベート。トートとルドルフといった方々が披露した接吻も、宝塚版では見られないことは無論である。

一方では、私が宝塚版で印象に残った舞台の美しい演出の数々が省かれていたのは残念であった。おそらくは舞台装置の違い(宝塚版は東京宝塚劇場、今回版は帝国劇場)によるものと思われる。そもそも帝国劇場の舞台は少々狭く感じた。舞台上にはセットが所狭しと置かれ、舞台上に潤沢な余裕を感じられなかった。とはいえ、プロセミアム・アーチの装飾は死神の意匠を反映して実に重厚、それでいて東京宝塚劇場のそれよりも数段凝った造りとなっていた。広さの都合で舞台装置の演出が省かれていたことは認めるとしても、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが出会うシーンの出演者がタイミングを合わせて行う早回し食事の演出や、絶望にくれるエリザベートが一転して自らの人生の自由へと決意する場面の完全な静寂、窓に浮かぶ月に向かって歌い上げる場面など、舞台装置に関係なく演出に取り入れて欲しい場面までもが削られていたのは惜しいところである。

とはいえ、今回版ではスミレコード以外にも宝塚版ではできなかったと思われる演出の工夫が随所に設けられていた。例えば演者の老け方。本作はエリザベートの生涯を追想していくのが筋である。つまり演者は老けて行かねばならない。宝塚版では辛うじて北翔海莉さん演ずるフランツ・ヨーゼフが3~4段階ほどに老けていく姿が見られた程度であった。しかし本作ではフランツ・ヨーゼフはもちろんのこと、ハプスブルグ帝国の官吏たちや、革命家たちに至るまで、舞台を経るごとに等しく老けさせていた。それも3~4段階ではなく、私の見た所5~6段階に分けて。場面の度に髭が蓄えられ、髪は灰色から順に白くなっていく。この様は見事であった。場面ごとに他の登場人物が老けていく一方、全く変わらない容姿を見せる死神トートとルイジ・ルキーニ。二人の異質性が自然と浮き彫りになる見事な演出と云えよう。そもそもエリザベートの息子ルドルフ。ルドルフの少年時代を演ずるのは小学生(大内天さん)であり、青年となったルドルフは古川雄大さんがきっちりと青年の姿を演じてくれる。メイクや衣装替の都合上、また少年の配役など宝塚版では制限のある演出であり配役が、今回版ではきちんと演出に取り入れられていたのはお見事。

また、今回版のほうが史実の人物であるエリザベートにより密接したアプローチを採っていたように思える。例えば二幕冒頭でルイジ・ルキーニが売り子に扮してエリザベートのグッズを客席に配りまわる。妻の隣の方がマグカップをもらっていたが、配られたそれらのグッズには史実に残されたエリザベートの写真が転写されていた。同時に舞台上のハプスブルク家の紋章が刻まれた石版には、エリザベートの写真が投影されるという演出が施されていた。また、ルドルフが死す場面でも、葬儀の祭壇にひれ伏すエリザベートの実写真が投影され、物語の史実性を高める効果を与えていた。また、舞台によってはセットの背後に画像や画像を投影することで、舞台の作り物の印象をそらすような演出がされていたのも心に残った。

ただ、役者さんについては宝塚のほうが良かったと思える点もあった。例えば宝塚版のフランツ・ヨーゼフはトップ就任前の専科時代の北翔海莉さんが演じていたわけだが、母親ゾフィーとエリザベートの間に板挟みになる苦悩。この苦悩が今回のフランツ役を演じた佐藤隆紀さんの演技には少し見られなかったように思う。前回観たレビューにも書いたが、
 フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなので
 ある。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすれば
 するほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも
 甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。

この点で、もう少しフランツの有能さやそれゆえの苦悩が前面に出せていればさらに良かったと思う。

また、狂言回しであるルイジ・ルキーニ。本作の肝ともいえる人物であり、この人物が操作する筋、観客への内容紹介は重要である。ここが揺らぐと本作のねらいが観客に伝わらず、劇自体がブレてしまう。本作の尾上松也さんの演技は無論素晴らしく、ルキーニらしさが出ていてとても良かった。私にとっては甲乙付けがたいのだが、宝塚版で見た望海風斗さん演ずるルイジ・ルキーニのほうが、伝法さ、無頼さにおいて印象に残った。それは女性である望海風斗さんが演じたため私の印象に残ったのかもしれない。

結論として違う観点や演出でエリザベートを観られたことは幸運であった。蘭乃はなさんの歌声は宝塚版のほうが良かったとはいえ、今回版の歌声の荒れも、かろうじて感情表出の範囲として受け入れられる範囲だった。彼女にとって退団前と退団後、同じ役に続けて出られたことは本当に幸せだったといえるだろう。そしてそれは、はからずもその両方の舞台を観ることのできた私にとっても同様である。今回はカーテンコールも3回。最後のカーテンコールではスタンディング・オベーションで送られたわけだが、私もその一人となり、立って拍手で閉幕を見送ることができた。

2015/7/12 帝国劇場 開演 12:30~
https://www.tohostage.com/elisabeth/


エリザベート 愛と死の輪舞


今年100周年を迎え、衰えることを知らない宝塚。100年の長きに亘り劇団が存続してきたことは、実に素晴らしいことである。歴代のスタッフや生徒、OGや観客の貢献はいうまでもない。それに加え、時代の節目でモン・パリやパリ・ゼット、ベルサイユのばらに代表される素晴らしい演目に恵まれてきたことも大きい。

私が初めて宝塚を観劇したのは、今から18~9年ほど前の「ミー・アンド・マイガール」。天海祐希さんが主演の舞台で、かなりの印象を受けた。次に観たのが「ロミオとジュリエット」。3年半前の正月にみたこの作品によって、妻の宝塚熱は再燃し、娘二人も宝塚好きになった。思い出深い一作である。この2作によって、私にとっての宝塚が印象付けられた。ともに2幕物で、起伏に富んだ物語が舞台の上で所狭しと演ぜられる。エリザベートも2幕物であり、海外ミュージカルの輸入翻案というのも同じである。以前から機会があれば観ようと思っていたところ、今回ご招待を頂き、妻と観劇してきた。

結論からいうと、素晴らしい、の一言である。

本作は従来の物語にない構成を採っている。題名にもなっているエリザベートは、ハプスブルグ王朝の末期を生きた、フランツ・ヨーゼフⅠ世の妃でありながら、自由を愛する精神の持ち主として著名な人物である。しかし、トップ演ずる主役は彼女ではない。主役であるのはトート。死神である。エリザベートが見せる奔放な行動の背景に、死への無意識の憧れ、つまり死神トートに魅入られていたのではないか、という発想から成り立つのが本作である。そこに魅入られる=愛という要素を加え、ミュージカルとして成り立つ作品として仕上がっている。

本作は史実にも残るエリザベート暗殺犯のルイジ・ルキーニの裁判から幕を開ける。裁判の審理を進める上で、エリザベートの生涯を追想するというのが全体の構成である。そのため、全編に於いて狂言回しとしてルイジ・ルキーニが登場し、観客と舞台をつなぐ架け橋となる。本作では望海風斗さんが演じていたが、発声が実によく、耳の聞こえにくい私にもよく届いた。ともすれば台詞の聞こえにくいミュージカルで、狂言回しのセリフが聞こえないことは致命傷である。過去にルキーニを演じてきたのも、私でも名を知る錚々たる方々である。妻にそのことを聞いたところ、ルキーニ役はトップへの登竜門である役なのだとか。納得である。

私は、宝塚も好きだし、お声を掛けて頂ければ出来るだけ観させて頂いている。しかし、宝塚のスターシステムにはそれほど興味がない。もちろん、歴代スターの存在感や演技については文句のあるはずもない。ファンがトップの一挙手一投足に目を煌めかせ、青田買いと称して若手に注目するのも良くわかる。が、私の好みはそこにはない。宝塚以外の演劇も含め、私が興味を持って観るのは演出面の工夫である。そして、演出面での工夫にこそ、宝塚の素晴らしさと、100年続いてきた秘密があるのではないかと考えている。

本作は小池修一郎さんの潤色・演出であるが、随所に面白い仕掛けが施されていた。例えばエリザベートをフランツが見初める場面。その瞬間にいたるまでの過程を、映像を早送りするかのように全員の動きを速める。実にコミカルで、かつ流れを壊さない絶妙な演出であると感じた。この動きを舞台で実現するために、出演者たちは何度もリハーサルを繰り返したことだろう。また、舞台背景にガラス張りのセットが配されるシーンでは、セットの背景に宮廷の出席者たちを一瞬で移動させ、宮廷の賑やかさを保持したまま、その宮廷とは一線を画するエリザベートの孤独と、その孤独に付け入ろうとするトートを演出する。姑にあたるゾフィーからつらく当たられ、エリザベートが自死しようとする場面では、ロック調のオーケストラが目立つ本作において、一転して完全なる静寂に舞台を浸す。エリザベートの啜り泣きだけが舞台に響き、本作の転調ともなる抑えが効いた名場面である。そして静寂の後、彼女は人生の自由を求め、その魂を蘇らせる。それとともに、背景の空に自室の窓だけを浮かび上がり、スモークが舞台脇から湧いて舞台を覆う。この場面の美しさは本作のクライマックスとも思えるほど素晴らしく、窓を吊っているはずのピアノ線もうまく隠され、本当に浮いているかのようであった。

本作は愛と死の輪舞という副題が付いている。輪舞とは寄り添うだけでなく、すれ違いの動きに特徴がある。ルキーニが再三台詞を発したように、本作ではエリザベートとフランツの夫婦間のすれ違いが描かれる。しかし本作で描かれるすれ違いはもう一つある。それは、エリザベートとトートの間で交わされるすれ違いである。愛を求める心と死へ誘惑のすれ違い。ある時はエリザベートが持つ生への渇望にトートが退き、ある時は息子の自死の衝撃で死を求めるエリザベートに、「死は逃げ場ではない」とトートが一蹴する。人と交わってこその人生であるが、そこにすれ違いが生ずる。そして人に意識がある限り、その時々によって自分の心の中でさえすれ違いが生ずる。本作では、独りの人間の内と外でのすれ違いによって、苦しむ人間を描いている。

このように、演出上の効果や原作に込められた意図は、それだけで深く考えることも可能なのだが、それも役者あってのこと。演出家の意図を再現する生徒さん(演ずるのは全てプロのタカラジェンヌであり、宝塚音楽学校の生徒さん)たちの演技が見事でなければ、演出の意図など観客には届かない。私のような素人が見ている限りでは、目立つ失敗もなく、見事な演技であった。本作がトップお披露目公演という明日海りおさん演ずるトートの冷徹とニヒルが混ざった様も良かったし、妻子からは歌に難ありと聞いていた、本作が退団公演である蘭乃はなさんの歌も十分素晴らしく、傾聴に値したものであった。そして上にも挙げた狂言回しルキーニを演ずる望海風斗さんもよかった。しかし本作でキーとなったのは、フランツ・ヨーゼフⅠ世を演ずる北翔海莉さんであろう。本作で、エリザベートの抱える苦しみにリアリティを与えるのは、エリザベートを苦しめる姑ゾフィーとともに、その息子でありエリザベートの夫であるフランツ・ヨーゼフの優柔不断さである。一般に、エリザベート贔屓の人々からは、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、愚夫にしてダメな国王と思われがちである。しかし実際の彼はそうではなかったと言われている。母に頭が上がらなかったこと以外は、勤勉で真面目な国王として後世に知られている。つまり、フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなのである。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすればするほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。そのあたりの難しい役柄を北翔海莉さんは見事に演じており、本作を先に見ていた妻がその演技を絶賛していたのも良くわかる。

愛と死のすれ違い、というテーマ以外にも、本作では自由を求める人の精神、がテーマとして流れている。皇后という立場でありながら、自由を求めずにはいられなかったエリザベートの精神。立場や組織の中で、人はどうやって自由を求める心を失わずに生きるのか。妻に聞いたところでは、北翔海莉さんは実力や人気でトップに立てる人材として衆目一致するところであった。が、トップにはなれないまま、専科として各組の舞台を引き締める役に引き下がったという。それに関しては歌劇団の人事上の都合という憶測が囁かれているとか。北翔海莉さんが抱えている屈託や葛藤を全く感じさせない溌剌とした演技。この姿に、エリザベートが立場を超えて自由を求め続けた精神の気高さを重ね合わせずにいられなかった。

2014/10/25 開演 11:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/elisabeth2014/



私の中でも読み通すのに苦戦した本の一つとして思い出されるであろう本書。あまりこういう言い方はしたくないけれど、訳に問題があるように思えてならない。

最初はこういう特異な文体を持つ著者なのかとも思ったが、どうにも読み進めにくい。設定や話の進め方にかなりのわざとらしさと不自然さが目立つのは元々の原書からしてそうなのか、それとも訳に問題があるのか。トルコ語訳者に競争はないのかもしれないけれど、せめて英訳版を参考にして頂きたかった。

読みにくさについての苦言はこれぐらいにして、本編に触れると、トルコの北東部カルス(Kars)という実在の街を舞台に、イスラムと西洋文明の相克を描き出した小説だ。主人公の名前を縮めてKaと記され、トルコ語では雪をKarというらしい。訳者あとがきによれば、そのあたりには特に意味はないとのことだが、そういう韻や言葉遊びが随所に散りばめられていると思われ、それが訳者や読者の苦労に繋がっていると思えてならない。

主人公のKaはドイツに政治亡命をして、10数年ぶりに帰省した詩人。西洋文明の空気を十分に吸った彼から見た、半分西洋で半分中近東というトルコ独自の文化がKaとその遺稿を呼んだ友人こと私の視点を交えて語られる。

イスラム原理主義者と西洋との折衷主義者などの争いが、雪に閉ざされたKarsで繰り広げられる中、登場人物が幾分芝居がかった口調で、トルコの国の抱える矛盾に苦しみつつ、クーデター騒ぎで騒然とする町の中で、愛や憎しみ、国家や民族へのそれぞれの思いをぶつけ合う、というのが本書のあらすじとなる。

本書の真骨頂は、トルコという国の抱える問題点を上記のような形で鋭く描きだし、熱く炙り出したところにあると思う。東洋と西洋の交差点として栄光と挫折の歴史を持つ同国、最近ではドイツへの移民に活路を見出そうとするも迫害にあい、かたや国内ではクルド人問題など自らも民族問題を内包した国であり、イスラム教国でありながらヨーロッパの一員として振る舞ったりと、国として民族としてのアイデンティティ確立に苦しんでいるような印象がある。東洋と西洋のはざまでアイデンティティ確立に苦しむ我が国に対しても他人事とは思えないところが、親日国として知られる所以ではあるまいか。

本書を読んでいる中、年末に読んだ養老氏内田氏の対談で出てきたユダヤ人とは何か、という問題を思い出さざるを得なかったけれど、本書でもトルコ人とは何か、というテーマが底流に流れていると思われる。

冒頭に訳者から登場人物や単語、そしてトルコの背景について解説がなされていることからも、トルコのそういった事情を知らずに本書を読むとなると相当読みづらいと思われる。

特に、詩人であるから本書中で19編の氏が重要なキーワードとして登場し、19編を雪の結晶のごとく図示化までしていながら、肝心の詩の中身については殆ど出てこないなど、文学研究家の研究対象となりそうな要素もあるだけに。

’12/1/3-’12/1/17