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劇団四季と浅利慶太


本書を読む数カ月前に浅利慶太氏が亡くなった。
演劇に一時代を築いた方の逝去とあって、盛大なお別れ会が帝国ホテルで催され、大勢の参列者が来場した。私も友人に誘われて参列した。

すべての参列者に配られた浅利慶太氏の年譜には、演劇を愛する一人の気持ちが込められていた。
その年譜には劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていて、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、演劇への理想が強くにじみ出ていた。
また、豪華に飾られた棺の両脇には演出家として俳優に指導する姿や演劇論を語る在りし日の浅利氏の映像が流されており、棺の前で黙祷する列に並びながら、参列者が浅利氏について思いを致せるように配慮されていた。

「なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか」でも書いた通り、宝塚歌劇の運営体制の裏側を知ってしまってからというもの、私は演劇の理想を見失いかけていた。
そんな私は、浅利氏の説く演劇論に救いを感じた。
劇団四季を宝塚と並び称される劇団にまで育て上げた浅利氏は、劇団の運営をどう考えているのだろうか。
私は浅利氏のお別れ会に参列したのを機会に、浅利慶太氏と劇団四季についてきちんと本をよまねば、と決めた。タイトルそのものの本書を。

著者は政治について語る評論家だ。
そんな方がなぜ演劇を?と思う。だが、劇団四季の躍進を支えた一つの要因に浅利氏と政治家との関係があったことは言うまでもない。
そうした関係が劇団四季の経営を支えたことは、ネットで少し検索すればゴシップ記事として出てくる。
また、著者と劇団四季や浅利慶太氏の縁は、本書の「あとがき」で著者が語っている。血縁も地縁もなく、パーティーで浅利氏の知己を得たことで、著者は劇団四季や浅利慶太氏に物書きとしての興味を抱いたそうだ。
ゴシップ趣味ではなく、劇団四季や浅利慶太氏は本来、興行経営の観点から論じられるべきではないか、という著者の意志。それが本書を生んだ。
もちろん浅利氏と知己である以上、本書は劇団四季と浅利慶太氏の立場に立って論を進める。だから良い面しかみていない。それは前もって頭に入れておいても良いと思う。だが、それでも本書の分析は深いと思う。

まえがきに相当する「オーバーチュア」では、劇団四季の概要と本書がどういう方針で劇団四季と浅利氏を描くかを示す。
劇団四季に対する批判は昔から演劇界にあったらしい。その批判とは、セリフが明朗で聞き取りやすいがゆえに、かえって実生活とは乖離しているというもの。
え?と私は耳を疑う。私はあまり耳が良くない。なので、セリフがよく聞き取れない演目は評価しない。なので、セリフが聞き取れないことがなぜ批判の対象になるのか理解できない。
そもそも観客は舞台の全てを感じ取ろうとするはずではないのか。
私にとってはセリフも重要な舞台の要素だと思う。だが、昔の新劇にはそうした演劇論がまかり通っていたらしい。いわゆる「高尚」な芸術論というやつだろうか。
芸術は高尚であっても良いはず。だが、さすがにセリフが聞き取りずらい事を高尚とは認めたくない。浅利氏でなくても憤激するはずだ。そうした演劇論が「オーバーチュア」では紹介されている。かなり興味深い。

「第1章 ロングランかレパートリーか」
劇団四季は日本で唯一のロングラン・システムを演ずる劇団。それでありながらレパートリー・システムも手掛けている。
他の劇団、例えば宝塚歌劇団は五組がそれぞれに1~2カ月の公演期間の演目を切り替えるレパートリー・システムを採用している。
劇団四季は「キャッツ」や「オペラ座の怪人」「ライオン・キング」など、ロングランが多い印象がある。
それが実現できた背景には劇団四季の創意工夫があったことを著者は解き明かしてゆく。
例えば専用劇場。それによって常に劇団四季の演目が上演できるようになった。
また、地方の都市にある劇場でも演目が上演できるよう、シアター・イン・シアターという舞台装置のパッケージ化を進めるなど、効率化に工夫を重ねてきた。
そうした工夫の数々がロングランを可能にしたといえる。

「第2章 俳優」
この章は、私にとって関心が深い。もちろん宝塚歌劇団との対比において。
宝塚歌劇の場合、ジェンヌさんは生徒の扱いでありながら、実際は舞台の上ではプロとして演じている。そして生徒の扱いでありながら、公演以外のさまざまなイベントに駆り出される。
そのため、ジェンヌさんは舞台だけに集中できない。

それを補完するのが宝塚に独自のファンクラブシステムだ。
私設ファンクラブであるため宝塚歌劇団からは公認されない。当然、宝塚歌劇団からファンクラブの代表に対する手当は出ない。
ところが、実際はジェンヌさんのさまざまな雑事はファンクラブの代表が代行している。チケットの手配や席次までも。むろん、無償奉仕で。

一方の劇団四季には、そもそもそうした私設ファンクラブがない。属する俳優に序列は付けないのだ。
宝塚歌劇団は一度トップスターにになると、原則としてどの公演も主演が約束される。ところが劇団四季は各公演の配役をオーディションによって決める。毎回、公演ごとに出演が約束されていないため、出演機会も限られる。
それでありながら、団員には劇団から固定給と言う形で支払われている。
生活の基盤がきちんと保障されており、なおかつ課外活動のようにファンと触れ合う必要もない。お客様とのお食事に同席する必要もない。だから劇団四季の俳優は舞台だけに集中できる。
俳優が舞台だけに集中することが演目の質に良い影響すを与えることは言うまでもない。
本書には俳優の名簿も出ているし、給与システムや額までも掲載されている。

それでいながら、演目ごとのオーディションによって団員の中に慣れも甘えも許さない。
そうした四季の運営を窮屈だと独立し、離れた人もいる。その中には著名な俳優もいる。著者のそうした人に対する目は厳しい。
劇団四季に独自のセリフ回しや、稽古などは、他の劇団ではなかなかまねができないようだ。どちらが優れているというより、それこそが宝塚歌劇団との一番の違いではないだろうか。

「第3章 全国展開と劇場」
第1章でシアター・イン・シアターが登場した。
パッケージングされた劇場設営の仕組みは、ある程度限られた劇場にしか使えない。
だが、それ以外の地方都市までカバーし、劇団四季の公演は行われている。
劇場ごとに装置も大きさも形も違う中、演目によっては上演できる劇場との組み合わせがある。
本章には地方巡業の都市と演目のマトリクスが掲載されている。
それだけの巡業を可能とするノウハウが、劇団四季には備わっているということだ。

このノウハウはまさに劇団四季に独自かもしれない。
東京や大阪、名古屋、札幌、福岡といった大都市でなければ演劇が見られない。
そうした状態を解消し、演劇に関心を集める意味でも、劇団四季が全国を巡る意義は大きいと思う。

「第4章 経営&四季の会」
この章も私にとって関心が深い。
劇団四季は、ファンクラブによる無償の奉仕(宝塚歌劇団)のような方法を取らずに、いったいどうやって経営を成り立たせているのか。おそらく、経営の手法にも長年のノウハウが蓄積されていることだろう。
余計な人や空き時間が出ないような勤務体系が成されているに違いない。
一人の社員が複数のタスクでをこなしつつ、流動する柔軟な作業体制がつくられているのではないだろうか。その分、社員は大変かもしれないが。

また、ファンクラブを公認のみに一本化していることも特筆すべきだ。
一本化するかわりにサポートやサービスを手厚くしているのではないか。
さらに私設ファンクラブの場合、どうしてもファンクラブごとに方法やサービスやサポートに差が生じる。また、その活動が奉仕に頼っている以上、ファンクラブごとの資力の差がサービスの差となる。それはファンにとって不公平を生みかねない。
ファンクラブが一本化されていることでサービスは均質になる。密接な関係を持ちたいファンには不満だろうが、不公平さを覚えるファンも減る。

本書には、観客目線と言う言葉が頻出する。
この言葉が劇団四季と浅利氏の哲学の根底にあるのだろう。
もちろん本書が劇団四季にとってよいことを書く本であることは承知。それを踏まえると、経営の中には見えない闇もあることだろう。書けない内容もあるだろう。
それでも劇団四季がここまでの規模まで成長した事実は、政治家との関係が有利に働いただけでは説明できないと思う。
今までの歴史には経営や運営の数知れぬ試行錯誤があったに違いない。
本書には浅利氏が生涯の七割を経営に割いてきた、という言葉がある。おそらくその努力を軽く見てはならないはず。

「第5章 上演作品」
ロングラン・ミュージカル(海外)。オリジナル・ミュージカル。中型ミュージカル(海外)。ファミリーミュージカル。ストリートプレイ(海外)。現代日本創作劇。その他。
著者は劇団四季の上演する演目をこの七種類に分けている。
海外のミュージカルだけに限っても、劇団四季はかなり豊富なレパートリーを持っている。
そしてそれらの中には、劇団四季が独自に翻案し、その成果が本場からも評価されている演目があるという。もちろんそうした翻案には浅利慶太氏の手腕によるところが大きいはずだ。

結局、難解な芸術だけによっているだけでは、劇団の経営は立ちいかない。
だから、芸術を追求するストリートプレイも挟みつつ、有名なミュージカルでお客様を呼ぶ。そうした理想と現実を併用しながら劇団四季は経営されてきたのだろう。
ただ、本省に出ている現代日本創作劇の演出家がいないという浅利氏の嘆きが、少し気になる。
私もそれほど演劇には詳しくないが、日本にもよいシナリオがあるように思うのだが。

「第6章 半世紀の歴史」
この章では浅利慶太氏の生い立ちから、劇団四季の旗揚げとその後の発展を描いていく。
学生劇団として旗揚げしてから、さまざまな挫折をへて、今の劇団四季がある。本章では挫折の数々も描かれている。もちろん政治家との出会いについても描かれている。
もともと浅利氏の一族は政財界に顔が広かった。そうした持って生まれた環境が劇団四季の成長に寄与していることは間違いないだろう。
それでも、本書で描かれる歴史からは、日本の演劇を育ててきた浅利氏の執念を感じる。

本章で大事なのは、そうした挫折の中でどういう手を打ってきたか、だ。
劇団四季が日本屈指の劇団に成長したいきさからは経営の要諦を学べるはずだ。

「第7章 劇団四季の未来」
本書は浅利氏が存命のうちに書かれた。今から十六年前だ。
だが浅利氏はすでに社長と会長の座を降り、取締役芸術総監督の立場に降りていた。つまり経営を他の人間に任せていた。
任せるにあたっては、劇団四季は浅利慶太氏がいなくなっても独り立ちできると判断したのだろう。実際、そのような意味の言葉を浅利氏はたびたび発しているようだ。

その後、浅利氏がいなくなってからの劇団四季はどう成長するのか。著者は大丈夫だろうと書いている。
浅利氏も自らがいなくなった後の事には何度も言及しているようだ。
それらを引用しながら、舞台、経営、大道具、意匠、営業、人事、教育に至るまでの多彩な要素で劇団四季が盤石になっていることが書かれている。

私も本書を読んだ後、浅利慶太追悼公演の「エビータ」を見に行った。素晴らしい舞台であり、感動した。
あとは十数年たってどうなるか、だ。
宝塚歌劇団も小林一三翁がなくなって十数年後、ベルばらブームの成功によって当初の理想から変質していった。それは経営の正常化のためである。ただ、同じ轍を劇団四季が踏み、営利の海外ミュージカルのみを上演する劇団になってしまうのか。
それとも今のらしさを維持しつつ、世界でも通用する劇団に成長するのか。楽しみだ。

本書はそれを占うためにも有益な一冊だと思う。

‘2018/10/24-2018/10/25


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2015/guysanddolls/


ミュージカル エリザベート


昨年10月以来の観劇は、奇しくも同じ演目であるエリザベートとなった。前回は宝塚歌劇団花組の、しかも娘役トップの蘭乃はなさん退団公演を兼ねていた。今回は帝国劇場での一般公演。しかもエリザベート役は宝塚を退団したばかりの蘭乃はなさんが再び演じ、宝塚退団前後の蘭乃はなさんの成長ぶりを目撃することができた。これも縁であろうか。今回は前から3列目という間近で一部始終を観劇することができた。いつも素晴らしいお席を取って頂き、田中先生本当にありがとうございます。

宝塚花組による公演は大変素晴らしく、二幕物の正統派ミュージカルが好きな私は、どっぷりとその世界観に浸ることができた。その際にアップしたレビューにも書いているが、役者の演技もさることながら、舞台装置や演出の工夫が実に美しく、舞台美術の有るべき姿を見せつけられた思いだった。今回の公演も同じ小池氏による演出である。同じ演出家が同じ素材を元にどのような調理を見せてくれるのか。宝塚歌劇団と宝塚以外の公演、しかも男性役者が入ることで演目がどのように変化するのか、非常に楽しみにしていた。

とはいえ、普段観劇の機会も少ない私。失礼ながら蘭乃はなさん以外はキャストの方々に対する予備知識もないまま、舞台に臨んだ。

死神トートは、宝塚版では中性的なキャラクターとして設定されていた。ただでさえ中性的な宝塚男役が演ずるにははまり役といってよい。今回は男性がトートを演ずる訳だが、男性が中性的な雰囲気をいかにして身に纏うか。死神の感情を超越した冷徹さと、エリザベートへの愛をいかに両立して演じ切るのか。客席が暗くなり、固唾を呑んで舞台を見つめる私の関心はそこにあった。

ところが冒頭の裁判シーンからして驚かされることになる。妻からは事前知識として宝塚版とほぼ同一の内容と聞いていた。ところが、このシーンからすでにはっきりとした演出の違いが見られた。エリザベート殺害犯であるルイジ・ルキーニ裁判の流れは同じだが、今回版では裁判の証人として、エリザベートの時代を生きた人々を墓から蘇らせる演出が採られていた。埃にまみれたベール状の衣装はかなり独創的で、子どもから大人からが墓から一斉に蘇るシーンは鮮烈に印象付けられた。宝塚版ではこのあたりの演出が曖昧で、証人も現れないまま、あっさりと次の展開に進んでしまい、印象が残りづらい演出となっていた。さらに今回版では証人が舞台に現れきったところでルキーニが上を指さす。そこに吊られて降りてきたのは死神トート。ここで独唱のソロを響かせる。ここで私の心は一気に井上芳雄さん演ずるトートに魅入られた。それはまさに魅入られたといっても過言ではない。中性的な美声と登場シーンが鮮烈なあまり、私だけでなく観客の多くが井上さん演ずるトートに印象付けられたといってもよい。そこあったのは男性や中性といった性別を超えた美しさ。

ここで先に今回版の難点を指摘しておく。今回版は登場人物の歌声にブレが感じられたことが心残りだった。特に主演である蘭乃はなさんの声がたまにひっくり返ったりしたのは惜しい。いずれも感情を表に出す部分、歌詞になると荒れてしまった。もっともそれは、良くとらえるならば感情表現の一つとして許せる範囲ではある。また、フランツ・ヨーゼフ演じる佐藤隆紀さんも一か所だけだが声がひっくり返ってしまった箇所があった。とはいえ、他の方々の台詞にトチリは見られず、歌声も声量も内容もはっきりと耳に聞こえたため、難点と言えるのは上の二か所ぐらいだろうか。しかしそういった難点は、全てトート演ずる井上さんの圧倒的な歌唱力で帳消しになったといってもよい。まだ30回ぐらいの私の浅い観劇経験の中でしか言えないのが残念だが、今まで聞いた中で一番魅了された声だった。

硬軟取り混ぜ、抑揚や声のトーンも実に感情豊か。中でも「最後のダンス」のシーンはとてもよかった。宝塚版よりも幾分かロック調を増したアレンジにロック調の節回しやシャウトを響かせたそれは、荒々しさが粗暴に陥らず、感情溢れる中にも冷徹さを残す絶妙な歌唱だったといえる。

こういった宝塚版にはないロック調のアレンジ。このような宝塚版との演出の違いは随所に見られた。例えば少女時代のエリザベート(=シシー)が父と過ごすシーン。エリザベートの性格形成に大きな影響を与えた父は、今回版ではフランスの家庭教師と浮気をしていたことを独白する。宝塚版には無かった演出である。また、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚初夜のシーン。尾上松也さん演ずるルイジ・ルキーニからは「やることやったら世継ぎが生まれ」という台詞が吐かれ、同時に卑猥なしぐさをクイっと見せる。エリザベートが夫フランツの浮気を知る場面は、自身が夫から移されたと思われる性病の症状によってだし、マダム・ヴォルフの館のシーンでは、出てくる娼婦たちの衣装はかなりぎりぎりで、ある娼婦の貞操帯を開け閉めする音まで舞台に響かせる。いずれもいわゆるスミレコードの枠内では不可能な演出であり、演出家の小池氏にとっては腕の見せどころだったのではないだろうか。また、舞台上でフランツ・ヨーゼフとエリザベート。トートとルドルフといった方々が披露した接吻も、宝塚版では見られないことは無論である。

一方では、私が宝塚版で印象に残った舞台の美しい演出の数々が省かれていたのは残念であった。おそらくは舞台装置の違い(宝塚版は東京宝塚劇場、今回版は帝国劇場)によるものと思われる。そもそも帝国劇場の舞台は少々狭く感じた。舞台上にはセットが所狭しと置かれ、舞台上に潤沢な余裕を感じられなかった。とはいえ、プロセミアム・アーチの装飾は死神の意匠を反映して実に重厚、それでいて東京宝塚劇場のそれよりも数段凝った造りとなっていた。広さの都合で舞台装置の演出が省かれていたことは認めるとしても、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが出会うシーンの出演者がタイミングを合わせて行う早回し食事の演出や、絶望にくれるエリザベートが一転して自らの人生の自由へと決意する場面の完全な静寂、窓に浮かぶ月に向かって歌い上げる場面など、舞台装置に関係なく演出に取り入れて欲しい場面までもが削られていたのは惜しいところである。

とはいえ、今回版ではスミレコード以外にも宝塚版ではできなかったと思われる演出の工夫が随所に設けられていた。例えば演者の老け方。本作はエリザベートの生涯を追想していくのが筋である。つまり演者は老けて行かねばならない。宝塚版では辛うじて北翔海莉さん演ずるフランツ・ヨーゼフが3~4段階ほどに老けていく姿が見られた程度であった。しかし本作ではフランツ・ヨーゼフはもちろんのこと、ハプスブルグ帝国の官吏たちや、革命家たちに至るまで、舞台を経るごとに等しく老けさせていた。それも3~4段階ではなく、私の見た所5~6段階に分けて。場面の度に髭が蓄えられ、髪は灰色から順に白くなっていく。この様は見事であった。場面ごとに他の登場人物が老けていく一方、全く変わらない容姿を見せる死神トートとルイジ・ルキーニ。二人の異質性が自然と浮き彫りになる見事な演出と云えよう。そもそもエリザベートの息子ルドルフ。ルドルフの少年時代を演ずるのは小学生(大内天さん)であり、青年となったルドルフは古川雄大さんがきっちりと青年の姿を演じてくれる。メイクや衣装替の都合上、また少年の配役など宝塚版では制限のある演出であり配役が、今回版ではきちんと演出に取り入れられていたのはお見事。

また、今回版のほうが史実の人物であるエリザベートにより密接したアプローチを採っていたように思える。例えば二幕冒頭でルイジ・ルキーニが売り子に扮してエリザベートのグッズを客席に配りまわる。妻の隣の方がマグカップをもらっていたが、配られたそれらのグッズには史実に残されたエリザベートの写真が転写されていた。同時に舞台上のハプスブルク家の紋章が刻まれた石版には、エリザベートの写真が投影されるという演出が施されていた。また、ルドルフが死す場面でも、葬儀の祭壇にひれ伏すエリザベートの実写真が投影され、物語の史実性を高める効果を与えていた。また、舞台によってはセットの背後に画像や画像を投影することで、舞台の作り物の印象をそらすような演出がされていたのも心に残った。

ただ、役者さんについては宝塚のほうが良かったと思える点もあった。例えば宝塚版のフランツ・ヨーゼフはトップ就任前の専科時代の北翔海莉さんが演じていたわけだが、母親ゾフィーとエリザベートの間に板挟みになる苦悩。この苦悩が今回のフランツ役を演じた佐藤隆紀さんの演技には少し見られなかったように思う。前回観たレビューにも書いたが、
 フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなので
 ある。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすれば
 するほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも
 甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。

この点で、もう少しフランツの有能さやそれゆえの苦悩が前面に出せていればさらに良かったと思う。

また、狂言回しであるルイジ・ルキーニ。本作の肝ともいえる人物であり、この人物が操作する筋、観客への内容紹介は重要である。ここが揺らぐと本作のねらいが観客に伝わらず、劇自体がブレてしまう。本作の尾上松也さんの演技は無論素晴らしく、ルキーニらしさが出ていてとても良かった。私にとっては甲乙付けがたいのだが、宝塚版で見た望海風斗さん演ずるルイジ・ルキーニのほうが、伝法さ、無頼さにおいて印象に残った。それは女性である望海風斗さんが演じたため私の印象に残ったのかもしれない。

結論として違う観点や演出でエリザベートを観られたことは幸運であった。蘭乃はなさんの歌声は宝塚版のほうが良かったとはいえ、今回版の歌声の荒れも、かろうじて感情表出の範囲として受け入れられる範囲だった。彼女にとって退団前と退団後、同じ役に続けて出られたことは本当に幸せだったといえるだろう。そしてそれは、はからずもその両方の舞台を観ることのできた私にとっても同様である。今回はカーテンコールも3回。最後のカーテンコールではスタンディング・オベーションで送られたわけだが、私もその一人となり、立って拍手で閉幕を見送ることができた。

2015/7/12 帝国劇場 開演 12:30~
https://www.tohostage.com/elisabeth/


エリザベート 愛と死の輪舞


今年100周年を迎え、衰えることを知らない宝塚。100年の長きに亘り劇団が存続してきたことは、実に素晴らしいことである。歴代のスタッフや生徒、OGや観客の貢献はいうまでもない。それに加え、時代の節目でモン・パリやパリ・ゼット、ベルサイユのばらに代表される素晴らしい演目に恵まれてきたことも大きい。

私が初めて宝塚を観劇したのは、今から18~9年ほど前の「ミー・アンド・マイガール」。天海祐希さんが主演の舞台で、かなりの印象を受けた。次に観たのが「ロミオとジュリエット」。3年半前の正月にみたこの作品によって、妻の宝塚熱は再燃し、娘二人も宝塚好きになった。思い出深い一作である。この2作によって、私にとっての宝塚が印象付けられた。ともに2幕物で、起伏に富んだ物語が舞台の上で所狭しと演ぜられる。エリザベートも2幕物であり、海外ミュージカルの輸入翻案というのも同じである。以前から機会があれば観ようと思っていたところ、今回ご招待を頂き、妻と観劇してきた。

結論からいうと、素晴らしい、の一言である。

本作は従来の物語にない構成を採っている。題名にもなっているエリザベートは、ハプスブルグ王朝の末期を生きた、フランツ・ヨーゼフⅠ世の妃でありながら、自由を愛する精神の持ち主として著名な人物である。しかし、トップ演ずる主役は彼女ではない。主役であるのはトート。死神である。エリザベートが見せる奔放な行動の背景に、死への無意識の憧れ、つまり死神トートに魅入られていたのではないか、という発想から成り立つのが本作である。そこに魅入られる=愛という要素を加え、ミュージカルとして成り立つ作品として仕上がっている。

本作は史実にも残るエリザベート暗殺犯のルイジ・ルキーニの裁判から幕を開ける。裁判の審理を進める上で、エリザベートの生涯を追想するというのが全体の構成である。そのため、全編に於いて狂言回しとしてルイジ・ルキーニが登場し、観客と舞台をつなぐ架け橋となる。本作では望海風斗さんが演じていたが、発声が実によく、耳の聞こえにくい私にもよく届いた。ともすれば台詞の聞こえにくいミュージカルで、狂言回しのセリフが聞こえないことは致命傷である。過去にルキーニを演じてきたのも、私でも名を知る錚々たる方々である。妻にそのことを聞いたところ、ルキーニ役はトップへの登竜門である役なのだとか。納得である。

私は、宝塚も好きだし、お声を掛けて頂ければ出来るだけ観させて頂いている。しかし、宝塚のスターシステムにはそれほど興味がない。もちろん、歴代スターの存在感や演技については文句のあるはずもない。ファンがトップの一挙手一投足に目を煌めかせ、青田買いと称して若手に注目するのも良くわかる。が、私の好みはそこにはない。宝塚以外の演劇も含め、私が興味を持って観るのは演出面の工夫である。そして、演出面での工夫にこそ、宝塚の素晴らしさと、100年続いてきた秘密があるのではないかと考えている。

本作は小池修一郎さんの潤色・演出であるが、随所に面白い仕掛けが施されていた。例えばエリザベートをフランツが見初める場面。その瞬間にいたるまでの過程を、映像を早送りするかのように全員の動きを速める。実にコミカルで、かつ流れを壊さない絶妙な演出であると感じた。この動きを舞台で実現するために、出演者たちは何度もリハーサルを繰り返したことだろう。また、舞台背景にガラス張りのセットが配されるシーンでは、セットの背景に宮廷の出席者たちを一瞬で移動させ、宮廷の賑やかさを保持したまま、その宮廷とは一線を画するエリザベートの孤独と、その孤独に付け入ろうとするトートを演出する。姑にあたるゾフィーからつらく当たられ、エリザベートが自死しようとする場面では、ロック調のオーケストラが目立つ本作において、一転して完全なる静寂に舞台を浸す。エリザベートの啜り泣きだけが舞台に響き、本作の転調ともなる抑えが効いた名場面である。そして静寂の後、彼女は人生の自由を求め、その魂を蘇らせる。それとともに、背景の空に自室の窓だけを浮かび上がり、スモークが舞台脇から湧いて舞台を覆う。この場面の美しさは本作のクライマックスとも思えるほど素晴らしく、窓を吊っているはずのピアノ線もうまく隠され、本当に浮いているかのようであった。

本作は愛と死の輪舞という副題が付いている。輪舞とは寄り添うだけでなく、すれ違いの動きに特徴がある。ルキーニが再三台詞を発したように、本作ではエリザベートとフランツの夫婦間のすれ違いが描かれる。しかし本作で描かれるすれ違いはもう一つある。それは、エリザベートとトートの間で交わされるすれ違いである。愛を求める心と死へ誘惑のすれ違い。ある時はエリザベートが持つ生への渇望にトートが退き、ある時は息子の自死の衝撃で死を求めるエリザベートに、「死は逃げ場ではない」とトートが一蹴する。人と交わってこその人生であるが、そこにすれ違いが生ずる。そして人に意識がある限り、その時々によって自分の心の中でさえすれ違いが生ずる。本作では、独りの人間の内と外でのすれ違いによって、苦しむ人間を描いている。

このように、演出上の効果や原作に込められた意図は、それだけで深く考えることも可能なのだが、それも役者あってのこと。演出家の意図を再現する生徒さん(演ずるのは全てプロのタカラジェンヌであり、宝塚音楽学校の生徒さん)たちの演技が見事でなければ、演出の意図など観客には届かない。私のような素人が見ている限りでは、目立つ失敗もなく、見事な演技であった。本作がトップお披露目公演という明日海りおさん演ずるトートの冷徹とニヒルが混ざった様も良かったし、妻子からは歌に難ありと聞いていた、本作が退団公演である蘭乃はなさんの歌も十分素晴らしく、傾聴に値したものであった。そして上にも挙げた狂言回しルキーニを演ずる望海風斗さんもよかった。しかし本作でキーとなったのは、フランツ・ヨーゼフⅠ世を演ずる北翔海莉さんであろう。本作で、エリザベートの抱える苦しみにリアリティを与えるのは、エリザベートを苦しめる姑ゾフィーとともに、その息子でありエリザベートの夫であるフランツ・ヨーゼフの優柔不断さである。一般に、エリザベート贔屓の人々からは、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、愚夫にしてダメな国王と思われがちである。しかし実際の彼はそうではなかったと言われている。母に頭が上がらなかったこと以外は、勤勉で真面目な国王として後世に知られている。つまり、フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなのである。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすればするほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。そのあたりの難しい役柄を北翔海莉さんは見事に演じており、本作を先に見ていた妻がその演技を絶賛していたのも良くわかる。

愛と死のすれ違い、というテーマ以外にも、本作では自由を求める人の精神、がテーマとして流れている。皇后という立場でありながら、自由を求めずにはいられなかったエリザベートの精神。立場や組織の中で、人はどうやって自由を求める心を失わずに生きるのか。妻に聞いたところでは、北翔海莉さんは実力や人気でトップに立てる人材として衆目一致するところであった。が、トップにはなれないまま、専科として各組の舞台を引き締める役に引き下がったという。それに関しては歌劇団の人事上の都合という憶測が囁かれているとか。北翔海莉さんが抱えている屈託や葛藤を全く感じさせない溌剌とした演技。この姿に、エリザベートが立場を超えて自由を求め続けた精神の気高さを重ね合わせずにいられなかった。

2014/10/25 開演 11:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/elisabeth2014/