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甲子園 歴史を変えた9試合


そろそろ夏の甲子園が始まる。本稿は百回記念大会が始まる前日に書き始め、百一回大会が始まる前日にアップした。

私の実家は甲子園球場に近い。なので、甲子園球場には幼い頃からなじみがある。長い夏休みを持て余す小学生には、高校野球の開催中の外野スタンド席は絶好の暇つぶしの場だった。最近でこそ有料になったと聞くが、私が子供の頃の外野席は無料だった。私の場合、外野スタンド席だけでなく、アルプススタンドにも無料で入ったことがある。長野高校の応援団にスカウトされ、応援団の頭数に入れられたのだ。全く縁のない選手たちに声援を送った経験はいまだに得難い経験だったと思っている。

また、私は甲子園球場のグラウンドにも入った。西宮市の小・中学生は、もれなく甲子園球場のグラウンドに入る機会が与えられるのだ。西宮市小学校連合体育大会、西宮市中学校連合体育大会は毎年行われ、グラウンドで体操やリレーを披露する。いや応なしに。私は都合四回、グラウンドで体操を披露したはずだ。

実際の選手たちが試合を行うグラウンド。そこに入り、広大な甲子園球場を見回す経験は格別だ。西宮市民の特権。私は初めて甲子園球場の中に入った時、高校野球の試合は何試合も見た経験があった。数え切れないほど。その中には球史でたびたび言及される有名な試合もある。

そうした経験は、私に甲子園に対する人一倍強い思いを持たせた。西宮市立図書館には野球史に関する本がたくさん並んでおり、子供の私は球史についての大人向けの本を何冊も読んだ。プロ野球史、高校野球史。だから、大正時代の名選手や昭和初期の名勝負。甲子園の歴史を彩る試合の数々は、私にとって子供の頃からの憧れの対象だ。

本書は、そんな私にとって久々の甲子園に関する本だ。内容はいわゆるスポーツ・ノンフィクション。雑誌の「Sports Graphice Number」で知られるような硬派な筆致で占められている。本書の発行元は小学館。Numberのようなスポーツ・ノンフィクションを出している印象はなかった。だから、こういう書籍が小学館から出されていることに少し意外な思いがあった。

だが、本書の内容はとてもしっかりしている。むしろ素晴らしいと言っても良い。本書は全部で9章からなっている。それぞれの章はそれぞれ違う執筆者によって書かれている。各章の末尾には執筆者の経歴が載っているが、私は誰も知らなかった。だが、誰が執筆しようと、内容が良ければ全く気にしない。

本書の各章で取り上げられる試合は、どれもが球史に残っている。

まず冒頭に取り上げられているのが、ハンカチ王子こと斉藤投手とマー君こと田中投手が決勝でぶつかった名試合。平成18年の夏、決勝。早稲田実業vs駒大苫小牧の試合だ。決勝再試合が行われたことでも知られている。この両試合をハンカチ王子は一人で投げぬいた。マー君は両試合ともリリーフの助けを借りたが、ハンカチ王子は一人でマウンドを守り、優勝を果たした。本編はハンカチ王子の力の源泉があるのかを解き明かしている。

本編にはハンカチ王子が鍼治療を受けていたことが描かれる。私はそのことを本書を読むまで知らなかった。プロに入った後、斎藤投手は今も鍼治療を受けているのだろうか。甲子園で名声を高めた斎藤投手のその後を知っているだけに、そのことが気になる。

本書は2007年に初版が出ている。当然、その後の両投手については何も書かれていない。マー君がニューヨーク・ヤンキースでローテーションの一員として活躍していること、ハンカチ王子が日本ハムに入団するも、芽が出ずに苦しんでいることも。

続いて描かれるのは、平成10年夏の決勝だ。横浜vs京都成章の試合。横浜の松坂投手が決勝でノーヒットノーランを59年ぶりに成し遂げたことで知られる。

本書が出版された後の松坂投手も浮き沈みのある野球人生を歩んでいる。西武ライオンズからレッドソックスに移籍し、ワールドシリーズでも優勝を果たした。ところが、日本に戻ってからはソフトバンクで三年間、一度も一軍で勝ち星を挙げられず、その翌年に拾われた中日ドラゴンズで復活を遂げた。本書ではレッドソックスに入団したところまでが書かれている。松坂投手の選手生活の成功を誰もが疑わなかった時期に描かれているからこそ、今、本編を読むと感慨が増す。

ところが本編の主役は京都成章の選手たちだ。決勝でノーヒットノーランを許してしまった男たちのその後の人生模様。これがまた面白い。それぞれが松坂投手のような有名人はない。だが、有名でなくても、人にはそれぞれドラマがある。どんな人の一生も一冊の小説になり得る。本編はそれをまさに思わせる内容だ。社会人野球、整体師、スポーツ関係のビジネスマン。高校時代の努力と思い出を糧に人生を生き抜く人々の実録。私がついに無縁のまま大人になり、今となっては永遠に得られない高校時代の死に物狂いの努力。だからこそ今、京都成章の選手たちに限らず、全ての球児がうらやましく思える。

続いては昭和59年夏の決勝。取手二vsPL学園。
わたしはこの試合、球場に観に行ったのか、それとも家で観戦したのか覚えていない。記憶はあいまいだ。わたしが最も甲子園観戦に熱中した時期は、この試合も含めたKKコンビの活躍した三年間に重なるというのに。PLがこの試合で負けた事は覚えている。この年の選抜も岩倉高校に負けたPL学園。だが、わたしの中ではこの時期のPL学園こそが歴代の最強チームだ。

それは、自分が最も高校野球にはまっていた時期に強さを見せつけたチームだから、ということもある。私がPL学園の打棒を目の当たりにしたのは、この翌年。昭和60年夏の二回戦の事だ。東海大山形を相手に29-7で打ちまくった試合だ。この試合、私は弟と外野スタンドで観ていた。そしてあまりの暑さに体調を崩しかけ、最後まで観ずに帰った。だが、打ちまくるPL学園の強さは今も私の印象に強く残っている。

その試合から30年ほどたったある日、私は桑田選手の講演を聞く機会があった。娘たちの小学校に桑田投手が講演に来てくれたのだ。巨人と西武に別れたKKコンビ。かたや巨人でケガに苦しんだ後、復活を遂げ、大リーグ挑戦まで果たした。かたや引退後、覚醒剤に手を出し、苦しい日々を送っている。清原選手については以前、ブログにも書いた。29-7で勝った試合では清原選手がマウンドに立つ姿まで見た。PL学園とはそれほどのチームだった。ところが今や野球部は廃部になっている。過ぎ去った月日を感じさせる思いだ。

昭和57年夏の準々決勝。池田vs早稲田実業。
私の中でPL学園がヒーローになった瞬間。それは池田高校を昭和58年夏の準決勝で破った時からだ。その大会でPLが打ち負かした池田高校は、私の中で大いなる悪役だった。なぜ池田高校が悪役になったか。それは、本章に書かれた通り。大ちゃんこと荒木投手を無慈悲なまでに滅多打ちにした打棒。それは、幼い私の心に池田高校=悪役と刻印を押すに十分だった。

アイドルとして甲子園を騒がした荒木投手のことは、幼い私もすでに知っていた。荒木投手のファンではなかったが、あれだけ騒がれれば意識しないほうが変だ。ちなみに私が初めて甲子園を意識したのはその前年のこと。地元の西宮から金村投手を擁して夏を制した報徳学園の活躍だ。この時、すでに荒木投手は二年生。この頃の甲子園は。毎年のように話題となる選手が私を惹きつけた。良き時代だ。

本編では早実と池田の数名の選手のその後も描いている。あの当時の早稲田実業、池田、PLの選手は、九人の皆が有名人だったといえる。だからこそ、その後の人生で良いことも悪いこともあったに違いない。著者は有名だからこそ被ったそれぞれの人生の変転を描く。当時のメンバーが年月をへて、調布で再び縁を結ぶくだりなど、人生の妙味そのものだ。

昭和49年夏の二回戦。東海大相模vs土浦日大。
この試合は私が生まれた翌年に行われた。この試合で対決した両チームの中心選手は、プロ野球の世界でも甲子園を舞台に戦う。原選手と工藤選手のことだ。工藤選手は1980年代の阪神タイガースの主戦投手としておなじみ。原選手はいうまでもなく甲子園でやじられる対象であり、今はジャイアンツの監督だ。

本章は原貢監督を抜きには語れない。この数年前に三池工を率いて夏を制した原監督。その性根には炭鉱町の厳しさが根付いている。この試合でサヨナラのホームを踏んだ村中選手もまた、炭鉱町を転々とした少年期を過ごした方で、今は東海大甲府の監督をされているという。土浦日大の村田選手の人生も野球とは縁が切れない。厳しさが敬遠される昨今、当時は普通に行われていたであろうスパルタ指導は顧みられない。だが、本編を読むとスパルタ指導があっての制覇であることは間違いない。その判断は人によってそれぞれだが、その精神までは否定したくないものだ。

平成8年夏の決勝。松山商業vs熊本工。
この試合が今の世代にとってのレジェンドの試合になるだろうか。ここで戦った二校は大会創成期から古豪の名を確かにしている。そんな二校が60年以上の時をへて決勝で戦う。しかもともに公立校。興奮しない方がおかしい。ところがこの頃の私は、甲子園から関心が離れていた。球児どころか自分の人生の面倒を見られずにさまよっていた時期。

当時の私には今と比べて圧倒的に時間の余裕があり、まだ甲子園の実家に住んでいた。なので、タイミングが許せば生でバックホームを見られたかもしれない。今さらいっても仕方がないが、私の人生自体が、本編で描かれた奇跡のバックホームのようなドラマを求めていた雌伏の時期だったこともあり、この試合は見ておきたかった。

直前のライト守備交代。そして直後の大飛球とバックホームによる捕殺。まさにドラマチック。バックホームの主役である人物は本編ではテレビ業界の営業マン。当時、両校を率いた名監督も既に他界、もしくは引退している。もう本稿を書いている今から数えても22年もの時がたっている。それは伝説にもなるはずだ。

昭和36年夏の準決勝。浪商vs法政二。
そう考えると、本編が取り上げたこの試合は、もはやレジェンドどころか歴史に属するのだろう。長い高校野球の歴史でも速球の速さでは五本の指に入ったと称される尾崎行雄氏。そして私が野球をみ始めた頃には、既に現役を引退する寸前だった柴田選手。両校が三期連続でぶつかり、どの大会も勝った側のチームがその大会を制したというから、並みのライバル関係ではない。

オールドファンにとっては今も高校野球で最強チームというと、この二チームが挙がるという。時代を重ねるにつれ、より強いチームは現れた。だが、屈指の実力を持つ二チームが同時に並び立ち、しのぎを削った時期はこの頃の他にない。この時期を知る人は幸運だと思う。宿命のライバルという言葉は、この二チームにこそふさわしい。二チームに所属するメンバーを見ると、私が名前を知るプロ野球選手が何人もいる。それほどに実力が抜きんでいたのだろう。それにしても、一度は尾崎投手の投げる球を生で見たかったと思う。

平成12年夏の三回戦。智辯和歌山vsPL学園。
これまた有名な対決だ。この時、私は既に東京に出て結婚していた。私が人生で高校野球から最も離れていた頃。だから本編で書かれる試合の内容にはほとんど覚えがない。この試合に出場していた選手たちすら、今や30代後半。この試合の出ていた選手の中でも、後年プロに進んだ選手が数名いるとか。だが、残念なことに彼らの活躍も私の記憶にはほとんどない。

当時の私は一生懸命、東京で社会人になろうとしていた。それを差し引いても、この頃の私が野球観戦から遠ざかっていたことは残念でならない。甲子園歴史館にはよくいくが、展示を見ていても、この頃の高校野球が一番あやふやだ。

昭和44年夏の決勝。松山商vs三沢。
冒頭に書いた通り、子供の頃の私は高校野球史を取り上げた本はよく読んでいた。その中で上の浪商vs法政二と並び、この決勝再試合は必ず取り上げられていたように思う。三沢のエースだった太田幸司氏は、プロ入り後、近鉄で活躍されており、プロを引退した後もよく実家の関西地区のラジオでお声は耳にしていた。無欲でありながらしぶとく勝ち進んだ背景に、基地の街三沢の性格があることを著者は指摘する。今の三沢高校には復活の兆しが芽生えているとか。

この試合は本書の冒頭に描かれたハンカチ王子とマー君による決勝再試合によって、伝説の度合いが薄れた。とはいえ、この試合もやはり伝説であることには変わりない。

本書が取り上げているのはこの9試合のみだ。だが、中等野球から始まる長い大会の歴史には他にもあまたの名勝負があった。春の選抜大会にも。そうした試合は本書には取り上げられていない。たとえば昭和54年の箕島vs星稜。江川投手が涙を飲んだ銚子商との試合。奇跡的な逆転勝利で知られる昭和36年の報徳学園と倉敷商の試合。そうした試合が取り上げられていない理由は分からない。取材がうまくいかなかったのか、その後の人生模様を描くうえで差しさわりがあったのか。ひょっとすると他の書籍でノンフィクションの題材になったからなのか。延長25回の激闘で知られる、昭和8年の中京商vs明石中の試合も本書には登場しない。私の父が明石高の出身なのでなおさら読みたかったと思う。

100回記念大会の開幕日。私は実家に帰った。観戦はできなかったものの、第四試合のどよめきを球場の外から見届けた。そのかわり、甲子園歴史館に入って大会の歴史の重みを再び感じ取った。明日、百一回目の甲子園の夏が始まる。

百回大会は金足農業の快進撃が大会を盛り上げ、今年も地方大会からさまざまなドラマが繰り広げられた。また、素晴らしいドラマが見られればと思う。私も合間をみて観戦したいと思う。

‘2018/07/23-2018/07/24


左腕の誇り 江夏豊自伝


本書を読み終えて半年が経とうとしている。その間、本書のレビューは後回しにし、他の本のレビューを優先した。それが幸いしたのか、本書をレビューとして蘇らせるのに時宜を得た事件が起きた。その事件とは、清原さんの覚醒剤による逮捕。

逮捕以来二週間がすぎたが、まだマスコミの報道は続いている。プロ野球界を揺るがす事件に対し糾弾の炎よ燃え盛れ、とばかりに報道はまだ鎮火する様子をみせない。

私は逮捕当日、そして10日後にブログを書いた。共に清原さんの将来の更生と復活を願う主旨だ。そしてその両方で江夏氏を引き合いに出した。覚醒剤で逮捕され、服役を経て、見事に更生した江夏氏のことを。江夏氏が更生できたのだから、清原さんにできないはずはない、と。

何故そう書けたのか。それは、本書の内容が鮮やかに頭に入っていたから。

本書では球史に残る名投手、江夏豊が余すことなく自らを語っている。自伝故に、手前味噌なところもあるかと思いきや、その内容は率直だ。少年時代の野球との出会い。甲子園には手の届かなかった高校時代。阪神入団のいきさつ。林コーチとの出会いと投球への開眼。藤本監督の薫陶。村山投手との交流。そして年間奪三振数世界一の栄光。

本書を読むと、投手江夏にとっての体力的なピークが入団二年目だったことがわかる。

長嶋選手のライバルであった村山投手から、王選手をライバルとするように指示された逸話はよく知られている。ライバルは王選手。それを実践するように、日本記録タイとなる三振を王選手から奪い、その後の打者一巡を三振を奪うことなくしのぎ、再び王選手から三振を奪って日本記録を達成する。プロ野球史に残る名勝負といえるだろう。

若い時にのみ許される、怖いもの知らずの天狗。「一度は大いにテングになるべきだと僕は思っています」「しかしテングの鼻は必ずどこかで折れる。自分に自信が持てなくなるときが何度もやってくる。そのとき、どう立ち直るかが、その人の価値だと思うんですね」(140P)。後年の江夏氏は、この言葉を実践した。また、このような言葉もある。「野球という一つの世界で、天性だけで飯が食えるといったら一年二年です。あとは本人の努力と工夫」(147P)

三年目以降の江夏投手は、身体の故障や不調との戦いだった。私自身、本書を読むまでは勘違いしていた。オールスターでの九連続奪三振。延長十一回に自らのホームランでノーヒットノーラン達成。江夏の21球で知られる1979年日本シリーズの投球。どれも投手江夏の才能が成せた技、と。ところが本書を読むと、それらの偉業の裏に江夏氏の苦悩と努力と克服があったことが分かる。

特にオールスターでの9連続奪三振は、剛球投手の真骨頂と思われがちだ。しかし、すでにこの時、投手江夏は心臓に病を抱えた状態だった。ニトログリセリンが手放せなくなっていた経緯も本書には綴られている。昭和46年といえば、巨人がV7を成し遂げた年。巨人に結果としてV9を許したとはいえ、当時の阪神が弱かったかというとそうではない。むしろ、巨人によく喰らいついていたといえる。江夏氏は心臓病を抱えながらエースとして奮闘し、なおかつオールスターで空前絶後の偉業を達成したのだから大した者だ。しかもこの試合では、自らホームランも放っている。9連続奪三振をなしとげながら、打席ではホームランを放つなど、もはや漫画の世界の話だ。漫画の世界という言葉で思い出すのはこのところの大谷選手の活躍だ。しかし、四十年以上前に、江夏氏のような投手がいたことを忘れてはならない。

そしてこの心臓病発症と、9連続奪三振の偉業を境に、江夏氏の球運に陰りが生ずる。

江夏氏といえば傲岸不遜な一匹狼とのイメージがついて回っている。実際、本書を通して読むと、要領よく立ち回るのが苦手な氏の生き方が伝わってくる。決して自分から壁を築いている訳でもない。人を自ら遠ざけることもしない。ただ愛想よく振る舞うのが苦手なだけ。でも、圧倒的な球威を持つゆえに、江夏氏の周りには人が集まる。それを疑わずに受け入れる江夏氏は、エースとして持ち上げられる。そして、利用される。

人が集まれば派閥が出来上がる。当時の阪神タイガースは、村山投手という大エースに、今牛若丸と称された吉田選手がいた。その中で江夏氏は派閥争いに巻き込まれ、意に染まぬ形で村山投手とも気まずくなってしまう。後を継いだ金田監督との関係も当初は蜜月だったが、監督自身の人望のなさに、江夏氏から愛想をつかす。

恐らくはこういった派閥にほとほと嫌気がさしたのだろう。江夏氏が徐々に孤高の一匹狼の殻をまとっていく様子がよくわかる。江夏氏の言葉に辛辣な風味が混じり始めるのもこの辺りから。このあたり、氏と同じく派閥嫌いな私にとっては身につまされる思いで読んだ。

そして江夏氏の孤高のイメージは、本書内で吉田氏のことを「吉田義男」とほぼ呼び捨てする事件で固まる。江夏氏にそうさせたのは何か。それは、阪神タイガースからのトレード放出。江夏氏に無断で、騙し討ちのような形で南海へトレードに出されたのだ。未だにこの件では、江夏氏の怒りが融けることはないようだ。私にとっても、このエピソードは以前から知っていたし、印象に残っている。人の付き合いは堂々と正面から行うべき、と私の肝に刻み込まれたエピソードである。

南海に移った江夏氏は、野村監督の野球術に心酔する。そして短いイニングで試合を締めるための投球に開眼し、野球人として新境地を開く。投球術にはますます磨きがかかり、蓄積したデータと緩急取り混ぜた打者との駆け引きにプロとしての真価を発揮する。この辺りの身の処し方など、世のビジネスマンにとって参考になるはずだ。少なくとも私は、このくだりを読んで私自身の技術者人生の行く末に思いを致さずにはいられなかった。

野村監督の南海解任に従い、南海から広島へ。そして広島東洋カープで演じたのが有名な江夏の21球だ。故山際淳司氏がノンフィクション小説として作品化し、SportsGraphicNumberの創刊号を飾ったことでも知られている。この日本のスポーツノンフィクションの金字塔となった余りにも有名な一編では、職人芸ともいえる投球術が堪能できる。

が、意地悪く読めば、独りで満塁にしたピンチを独りで収拾しただけともいえる。つまり、一人相撲。野球は一人でもできる、と言い放った言葉が一人歩きし、それが江夏氏の孤高のイメージ形成に一役買った経緯は本書にも記されている。だが、その言葉は図らずも江夏氏の不幸の原因を言い当てているのではないか。江夏氏の不幸とは、才能を発揮したスポーツが団体競技だったことだろう。しかも、江夏氏の自身は人一倍職人気質だったにも関わらず、団体競技で輝いてしまう。そのギャップに苦しみつつ投げ抜いたことが、より一層人々に強い孤高の印象を与えたのだと思う。

上にも書いたエピソードの数々は、あまりにも劇的すぎる。それはファンが江夏氏をヒーローに祭り上げるには十分すぎるレベルだ。そのレベルが高ければ高いほど、人から寄せられる期待が熱ければ熱いほど、当の本人は、イメージに縛られてしまうのではないだろうか。まるで溶けた蝋が体にまとわりつくように。

そして、そのイメージが輝かしければ輝かしいほど、自らのイメージに縛られることになる。それを埋めるために、麻薬、覚醒剤にたよってしまう。それは、決して擁護すべきことではないのだろう。他の道を極めた達人たちは麻薬に溺れなかったではないかと言われればそれまでだ。だが、我々凡人には高みに達してしまった江夏氏のような人の苦しみは理解できない。そもそも人の内面の苦しみを完全に理解することなど不可能。安易な断罪など以ての外、ということは弁えておきたいものだ。

江夏氏の覚醒剤の一件は、江夏氏から聞き書きして本書を構成した波多野氏によってエピローグで触れられている。が、本書の刊行からさらに時を経て本書に触れた我々は、江夏氏が覚醒剤から見事に更正したことを知っている。

江夏氏の更生には、江夏氏を知るプロ野球人達の尽力が大きかったと聞く。本書にはその辺りのエピソードは出てこない。それらの方々は、江夏氏の公判において証人となって江夏氏を親身に擁護したと聞く。ともにプロ野球道の高みを極め、自らのセルフイメージと現状がギャップの乖離がどれほどの苦しみかを共感できる仲間。そのような仲間達に恵まれたことは、晩年の江夏氏にとって幸運だったのではないか。

清原氏が逮捕の少し前に名球会の試合に出場した動画がyoutubeで観られる。そこには、67才の江夏氏と75才の王氏の対決も登場する。もちろん、両者の間にかつてあったはずの緊張感は片鱗も見られない。でも、そこには自らのセルフイメージの幻影から解き放たれた江夏氏の幸せな姿があった。私にはその姿がとても良いものに映った。

清原さんはどうだろう。江夏氏が見事に覚醒剤から縁を断ったように、清原さんには何としてでも復活した姿を見せて頂きたい。そして、その過程において清原さんの苦しみをもっとも理解できる人とは江夏氏その人ではないだろうか。そして、本書は清原さんにこそもっとも読んでほしい。

清原さんに今一番欠けているのは、自らへの自信であり、理解者だと思う。本書に詰まっている江夏氏の輝かしい業績とその後の変転は、清原さん自身のプロ野球人生を思い出させることだろう。そして、江夏氏の過ごした浮沈の激しい人生は、江夏氏には失礼な言い方になるかもしれないが、優れた一編の小説にも似た極上の読後感を与えてくれる。

私の家のすぐ近くに、江夏氏が引退試合を行なった多摩市一本杉公園野球場がある。その駐車場の脇にあまり目立たぬ佇まいで、江夏氏がお手植えした木が育っている。なんの装飾もてらいもなく、素っ気無いプレートにそれと書かれていなければ絶対にそれとは気づかない木だ。でも、この簡潔にして素朴な様子こそが、江夏氏の浮沈に満ちた人生の到達点であるように思えてならない。

素晴らしい一冊。

‘2015/10/28-2015/11/08


野球博物館の役割-断罪ではなく感動を伝える


先日、2/11に東京ドームの野球殿堂博物館に行ってきました。記憶が確かなら私にとって四回目の訪問です。四回目といっても、前回の訪問からはだいぶ間が開いてしまいました。前回の訪問がいつかはよく覚えていませんが、10年ぶりでしょうか。展示内容も大分忘れていました。今回久々に訪れてみて、野球殿堂博物館が狭く感じました。私の記憶ではもっと広かったような気がしたのですが。あれ?こんな狭かったっけ?と。

多分、それは甲子園歴史館に慣れたからでしょう。私が野球殿堂博物館から遠ざかっていた10年の間、甲子園歴史館には足繁く通いました。毎年、帰省の度に足を運んだと言っても過言ではありません。甲子園歴史館は広さもさることながら、その資料の豊かさで他の追随を許しません。

中等野球から始まる高校野球100年の歴史はざらではありません。幾多の名勝負が豊中球場、鳴尾球場、そして甲子園球場で繰り広げられました。甲子園歴史館には、それら歴史の生き証人であるボールやグラブ、旗やスコアブックが展示されています。映像資料もふんだんに用意され、動画で熱戦の様子が流されています。私などは、訪れる度に毎回資料を見ているだけで目頭が熱くなります。

甲子園歴史館に展示されている品々は、歴史に残る熱戦の目撃者でもあります。その日、甲子園のグラウンドで飛び交った白球の行方や、スタンドの熱気や応援団の歓声を無言で今に伝えてくれているのが、それらの展示品なのです。例えそれら品々の持ち主がどのような人生を歩もうとも、ボールやグラブが歴史的な一戦に一役かったことは事実です。それら展示品を無かったことは誰にもできません。
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ここ10日ばかり、清原さんの覚醒剤による逮捕の件が世を騒がせています。中には、ゴシップ記事に近いものも見受けられます。反響の大きさからも清原さんが野球界に残した足跡の大きさがうかがえます。このことについては先日ブログにも書きました。

今回の清原さん逮捕に関し、私にとって印象に残ったニュースが二つあります。
一つは甲子園歴史館からの清原さん関連資料の撤去。記事
もう一つは日本プロ野球名球会による除名するつもりはないとの柴田副理事長による談話。記事

実に対照的な措置です。日本プロ野球名球会が清原さんを除名しないし、するつもりもないと明言したことは大いに評価したいと思います。今回、私が野球殿堂博物館を訪れたのは二つ目的がありました。一つは戦没野球人を慰霊する鎮魂の碑が見たかったこと。もう一つは清原さんの業績が残されているかを確認したかったことです。後者の目的については果たせませんでした。そもそも清原さんの展示スペースは用意されていなかったようです。野球殿堂博物館のプロ野球の展示スペースが狭く、おそらく今回の騒動で展示品を入れ替えることもしていないのでしょう。つまり日本プロ野球名球会と野球殿堂博物館は、今回の件については現時点では静観の態度をとるという事を意味します。

一方、甲子園歴史館の判断には疑問が付きます。記事を読むと「教育上の配慮から」との取ってつけたようなコメントが出されています。しかし教育上の配慮というのはあまりにも解せない文句です。事大主義の極致ともいえる判断であり、利用者としては困惑するほかありません。

今回の一連の報道の中には、清原さんがプロ野球選手として現役で活躍している時から覚醒剤を使用していたという記事もあります。その真偽はまだわかりません。しかし仮に清原さんが現役の際に覚せい剤を使用したとして、穢されるのはプロ野球選手としての実績のはずです。その点、日本プロ野球名球会や野球殿堂博物館が何らかの措置をとるのならまだ分かります。しかし甲子園歴史館が展示しているのは、清原さんの高校時代の実績です。まさかPL学園の選手として成し遂げた数多の実績すら、覚せい剤の影響下にあったと疑っているのでしょうか? まさか。たとえその後の人生で転落したからといって、高校時代の実績は実績として認めるべきでしょう。あの時スタンドで味わった感動や興奮が、何十年か後の過ちで全て否定されてしまうのでしょうか。それは一高校野球ファンとして到底納得のいくものではありません。

人によって振幅の差こそありますが、深みも高みも栄光も挫折もあってこその人生ではありませんか。一度の過ちで過去の実績を否定することは、人間の一生をあまりに平板に単純にみる態度です。人の生をそのような平板な単純な営みとみなすことこそ、教育上の配慮が足りないと思えるのですが。

野球殿堂博物館と日本プロ野球名球会は、全くの別組織ですが、ともにプロ野球の歴史に敬意を払う点で同門ともいえます。名球会については発足時の経緯もあって批判的な意見も良く耳にします。が、私は名球会の会員の方々が成し遂げた実績は素直に凄いと思っています。対象外だった大正生まれの川上氏や別所氏、若林氏、野口氏、杉下氏、中尾氏、藤本氏の実績と併せて一つの基準として尊重すべきと思います。もちろんそれは清原さんの実績にも当てはまります。名球会の会員には同じく覚醒剤で服役した江夏豊氏の名前もあります。服役して一旦自主退会したものの、見事に更生した江夏氏を名球会は受け入れています。実に懐の深い対応ではありませんか。

ブログにも書いた通り、甲子園歴史館は高校野球の歴史に加え、阪神タイガースの歴史も展示されています。私が昨秋に訪れた際は、江夏豊氏はちゃんと阪神タイガースの名投手の一人として取り上げられていました。江夏氏は容疑者ではなく、実刑判決を受けて服役したにも関わらず。一方、清原さんはまだ判決前の容疑者の状態です。それなのに覚醒剤に縁のないはずの高校時代の実績すら否定されようとしています。これはあまりに不公平です。

甲子園歴史館と野球殿堂博物館(日本プロ野球名球会)。両者のこの対応の違いはなにかを考えてみました。それはプロとアマチュアの意識の違いなのかもしれません。甲子園歴史館はアマチュアイズムを標榜するあまり、今回の事件に過剰反応してしまったのではないでしょうか。

でも、私はそうじゃないと思うのですよね。プロやアマチュア以前に、野球をテーマにした博物館が持つべき視点は別にあると思うのです。それは「野球とはこんなに人を感動させるスポーツなんですよ」というシンプルなものです。過去に幾多の名勝負がグラウンドで繰り広げられ、過去に先人たちが作り上げてきた歴史の積み重ねの上に今の野球がある。このことを展示し、野球の素晴らしさを伝えることが、この両施設に課せられた使命ではないでしょうか。野球の素晴らしさとは、グラウンド上で選手たちが魅せるプレイに限定されるはずです。何十年も後の一選手の私生活の過ちが、野球の魅力を損なうとはとても思えません。甲子園歴史館の関係者の方がもしこの拙いブログを読まれることがあれば、是非とも清原さんに関する展示品の復活をお願いします!

蛇足ですが、今回の訪問で思ったことを最後に書きます。それは野球殿堂博物館のことです。そろそろ野球殿堂博物館は施設を拡充すべきです。野球殿堂博物館の展示は、プロ野球に留まらず、日本代表のスペースや女子プロ野球や高校大学社会人まで含めています。それは、日本の野球を巡る状況を網羅的に展示する意味で、実に素晴らしいことだと思います。でも、限られたスペースですべてを紹介しようとするあまり、一つ一つの紹介が中途半端になっているように思えてなりません。それこそ、東京ドームなのですから、栄光の巨人軍の歴史を大々的に展示するスペースがあってもよいはずです。少なくとも甲子園歴史館の阪神タイガースの展示スペース並の広さは欲しいところです。過去に後楽園球場を本拠地にしていた日本ハムファイターズの展示もありですよね。私は阪神ファンですが、巨人の歴史が今のプロ野球を作り上げたことを否定するつもりはありません。

それでは野球殿堂博物館を拡充するにはどうしたらよいでしょう。左隣のグッズショップは残しても良いと思います。が、反対側の飲食店は移動してもらい、その空きスペースを使って野球殿堂博物館の展示スペースを広げるべきでしょう。東京ドームが出来て間もなく28年を迎えようとしています。東京ドーム開業30周年あたりの目玉として、野球殿堂博物館の大幅拡充があっても良いのではないでしょうか。

広がった博物館には、日本の野球の歴史を全て網羅し、幾多の名選手の品々が展示されるとよいですね。江夏氏と清原さんの展示ももちろん。もっともお二方の殿堂入りまでは望みません。しかし野球の歴史において一時代を築いたお二人の実績は顕彰されるべきです。二人ともそれだけの実績と積み重ね、数多くの感動を我々に与えてきたのですから。


甦れ、甲子園のヒーローよ!


清原さんが覚醒剤所持の疑いで逮捕されましたね。

正直、あまり驚きませんでした。ブログや報道からも孤独感漂っていましたし。かつての甲子園での活躍を知る私としては、ただただ寂しいです。

私は人生で一度だけ、日射病になりかけたことがあります。それは、甲子園球場のレフトスタンドでした。グラウンドでは、PL学園の打棒が爆発し、東海大山形のナインを打ちのめしていました。29-7というワンサイドゲーム。あまりの点差に余裕が出たのか、清原さんもマウンドで投球を披露した熱暑の中の試合です。

子供の頃甲子園に住んでいた私にとって、球場は馴染みの場でした。夏休みは暇さえあれば観戦に行ったものです。外野は無料だったし。

小学生の私にとって、グラウンドで躍動する高校球児達は、憧れを通り越して、畏敬する存在でした。実際の歳の差よりずっとずっと大人に見えたものです。
今回の逮捕で改めて知ったのは、清原さんが、私のたった6才しか上でないということ。当時の感覚では20歳くらい上の印象だったのに。

数年前、娘たちが通う小学校に桑田氏が講演に来てくださいました。桑田氏といえば、PL学園でKKコンビとして清原さんと並び称された方です。私ももちろん講演を拝聴しました。子供の頃の憧れの対象を目の前にして興奮しないわけがありません。とはいえ、私は桑田氏については永らく誤った印象を持っていました。憎き巨人に入ったことだけでも敵だったのに、面白おかしく歪められた報道が加われば、キライにならないはずがありません。しかし、子供たちやかつての子供たちである我々に語りかける桑田氏の素顔は、実に丁寧でした。私は一気に氏のファンとなりました。子供の頃に感じた、20歳年上との感覚は揺らぎませんでした。桑田氏は、「氏」のままです。

しかし、今回の逮捕によって、清原さんは、「さん」付けになってしまいました。たった6歳しか違わない清原さんに。

挫折は人を強くするといいます。今回のニュースで一番残念に思うのは、清原さんが巨人に入団できなかったという挫折から這い上がった姿を見せてくれなかったことです。意中の巨人に入団出来ず、翌年の日本シリーズでライオンズの一員として巨人を倒す直前、感極まって一塁ベース上で泣いた姿はよく知られています。その姿は美しかった。

一方、順風満帆に巨人に入団した桑田氏は、偏向報道に泣かされ、肘の重傷に苦しめられました。復活のマウンドで膝まずいてプレートに手をおいた所作には感動させられました。その姿は我々に真の挫折から立ち直った人の美しさを教えてくれました。

数年前の講演でも、挫折から立ち直る美しさ、夢を求め続ける姿勢を子供たちや親たちに語り伝えて下さいました。娘たちにとっても私にとっても得難い経験だったと思います。

挫折は人を強くします。思うに清原さんにとって、ドラフトで巨人に選ばれなかったことは挫折ではなかったのではないか。今回の逮捕こそが人生で初めて味わう挫折だったのではないかと思います。日本シリーズで巨人に勝ち、西武黄金時代を作り上げました。満足な成績を挙げられなかったとしても、意中の巨人で四番を勤めました。無冠の帝王と呼ばれながらも、2000本安打も500本塁打も成し遂げました。挫折どころか、まぶしいばかりの野球人生でしょう。

面識もなく、かつては20歳以上も年下だった私ごときが清原さんの心中を推し量ることは、おそらくはおこがましいことなのでしょう。しかし、今回の件が清原さんにとって初めて味わう挫折に違いない。そう思います。

そしてその姿は、かつて同じプロ野球人として覚醒剤に手を出し、服役した江夏豊氏を思い出させます。江夏氏も、孤独感に負けてつい出来心でヤクに手を出してしまったと聞きます。が、プロ野球界の仲間たち多数に支えられ、立派に更正されたとか。今春の阪神のキャンプでも臨時コーチを任じられたとの嬉しいニュースはまだ耳に心地よく残っています。

清原さんにも、江夏氏と同じように立ち直って頂きたい。そう切に願っています。そして、清原さんのプレーする姿に見とれた少年の私が畏敬の念を思い出させるように、清原さんではなく清原氏と呼べる存在になって戻ってきて欲しい。心からそう思います。

いつの日か、臨時コーチ扱いではなく、タイガースの一軍コーチや監督として、江夏氏と清原氏が甲子園に並び立つ日がくる。そんな楽しい想像したっていいじゃないですか。それが現実の光景となれば、これほど嬉しいことはありません。植草アナの名台詞を引くまでもなく、二人とも甲子園の申し子といっても良い存在なのですから。

そんなことを想いつつ、書いてみました。
甦れ、我が甲子園のヒーローよ!