Articles tagged with: 海軍将校

軍神広瀬武夫の生涯


本書が取り上げている広瀬武夫。
実はつい最近までの私が持つ広瀬武夫への知識は、ごくわずかでしかなかった。
せいぜい、日露戦争において活躍した軍人として。

特に、旅順港を巡る戦いでどのような役割を果たしたのか。その人となりは。なぜ軍神と奉られたのか。東郷平八郎や乃木希典のような元帥格でもない中佐が軍神として、広瀬武夫命として祭神として祀られるようになったのか。
そうした広瀬武夫についての詳しい知識は私にはなかった。

2020年夏に仕事で大分に出張した際、前日に原尻の滝や岡城跡や竹田の街並みを訪れた。
竹田の街に足を踏み入れるとすぐに出会ったのが廣瀬神社。立派なたたずまいの鳥居を見かけ、つい立ち寄ってみた。
そして、廣瀬神社の祭神ってあの広瀬中佐?という驚きを得た。

広瀬中佐についてつたない知識しか持っていなかった私は、なぜ豊後竹田に廣瀬神社があるのかも知らずにいた。

竹田は広瀬中佐の出身地である。日露戦争の当時、軍神として奉られるほどの活躍が報じられ、各地に広瀬中佐の銅像が建てられた。
出身地の竹田には神社が建立された。それがこの廣瀬神社だ。

境内には広瀬中佐に関する資料館も建てられていた。廣瀬武夫記念館だ。私はもちろん、中をじっくりと見学した。

軍人として旅順港封鎖作戦において前線の陣頭に立って指揮をとり、自らが沈没させた船に取り残された部下を助けるため、三回も船の中を探し回り、ついに捜索を断念して本船に戻ろうとした刹那、砲弾で命を散らせたその最期。

私が廣瀬武夫記念館で知った広瀬中佐の実像とは、軍神としての姿だけではない。
漢詩を良く詠み、柔道家であると同時に謹厳で実直な人物。それでいて、ロシアに留学していた際は、ロシアの武官令嬢と恋に落ちるなどの話もあった偉丈夫。

廣瀬武夫記念館には、ロシアで広瀬中佐に熱い思いを寄せた二人の女性のうち一人からの手紙も展示してあった。
また、広瀬中佐はロシアから育ての母である祖母に向けて絵葉書を何度も送ったそうだ。その手紙の実物が廣瀬武夫記念館には数多く展示されていた。その孝行心にも印象を受けた。
武の人としてだけではなく、文の人としても才能を持っていた広瀬中佐。明治の時代が生み出した偉人であり、私にとって目指すべき人として映った。

本書は、廣瀬神社と廣瀬武夫記念館を訪れた私が、より深く広瀬中佐の人となりを知りたいと思って読んだ一冊だ。
本書はいわゆる伝記にあたる。
竹田の広瀬記念館の展示も時系列でその生涯を追い、人となりを教えてくれた。が、展示物だけでは理解がおぼつかない。
本書はそれを文章の形で補完してくれる。

広瀬中佐の生涯が教えてくれること。それは、明治という時代のある一面に過ぎない。
だが、明治時代がわが国のピークの一つであったことに異を唱える人は少ないはずだ。
毀誉褒貶はあるかもしれないが、明治とはわが国の歴史でも特筆すべき時代であった。
富国強兵の名の下に教育が整備され、国が強力なリーダーシップを発揮した。

もちろん、わが国の歴史を見渡せば、広瀬中佐に匹敵するような方はいつの世にもいたことだろう。
だが、広瀬中佐には残された肖像画や遺品が多い。後世の私たちがその面影をしのぶことができる手がかりに富んでいる。
さらに、戦争放棄をうたった現代の私たちは、軍人という存在を身近に感じることが少ない。
直近の軍人といえば、日本が大敗を喫した第二次大戦の軍人の肖像が真っ先に浮かんでしまう。

日本が勝った戦で、その活躍を容易にしのぶことが出来る直近の人物こそが広瀬中佐だ。
しかも広瀬中佐は私たちにとっての雲上人である元帥ではなく佐官である。それもあって私たちにとって手の届く位置にいる。

広瀬中佐は、わが国が世界を驚かせた日露戦争の勝利に多大な貢献を果たした。
わが国は明治維新から短期間で成長を遂げ、日露戦争に勝利するまでに至った。それは世界史上における奇跡の一つであり、広瀬中佐の生涯は、その軌跡の一つの好例でもある。
寺子屋の教育から数十年。広瀬中佐のような国際派の軍官を生む明治へ。明治は、国の整備と成長が成果となって国民に還元され続けた幸せな時代だ。

言うまでもなく、今のわが国の状態は明治期の高揚からは程遠い。
いくつでもその理由は挙げられるだろう。
その一方で、今の時代があらゆる面で明治時代に劣っていたかというと、そうも言い難い。

組織や国が優先される社会は息苦しい。
さしずめ、国に殉じた広瀬中佐の最期などは、息苦しい明治の空気に押し殺されたと言えるのかもしれない。
だが、広瀬中佐はそうした世の中であっても、個の力を鍛え上げることで生き抜いた。

広瀬中佐をつき動かした力とは何なのだろう。それが本書には記されている。
勤王主義。
広瀬家がどのような家だったのか。広瀬中佐がどのような思想の影響を受けて育ったのか。本書の前半で語られるのはそうした背景だ。

かつて天皇家が南北に分かれて戦った南北朝時代。後醍醐天皇を戴き、南朝方について足利家に抗した武将たちがいた。南朝に殉じ、戦地に倒れたそれらの武将たちは、後世、尊王家から大いなる尊敬が払われた。楠木正成や新田義貞、北畠顕家などのそうそうたる武将に並んで称されるのが菊池武光だ。

菊池武光に代表される菊池一族の影響は竹田にも及んでいた。広瀬家にも代々、その遺徳が伝わっていた。
「いいか、わが家の祖先は、勤王を旗印に起ち上がり、最後まで勤王に殉じた。したがって、われわれ子孫もまた勤王に終始しなければならぬのじゃ」(10ページ)
といったのは広瀬中佐の父、重武。幕末には志士として活動した父の言葉はすなわち祖母の智満子の言葉でもある。
上にも書いたように広瀬中佐がロシアから何度も絵葉書を送った相手こそが祖母の智満子。育ての母である祖母の影響は大きい。そうした環境で育った広瀬中佐の生涯が勤王主義に終始したことは当然だ。

広瀬中佐の幼き頃から、こう教え込まれていたはずだ。
国のために役立つ人間になる。天皇や国に殉じるため、個の能力を極限まで高める。培ったその能力は天皇家を頂点とした国のために使う。

明治とは、今の私たちから見ると窮屈で息苦しい時代だ。
だが、勤王主義に生きる人々にとっては逆だったのはないだろうか。
長きにわたった武家政権からようやく天皇を頂点とした政権に移り、わが世の春と水を得た魚のように感じていたのではないか。

今の世の全てが悪いとは決して言えない。
が、天皇家を戴いた明治はGHQによって否定された。そのかわり、経済大国として生きる道を見いだしたはずが、バブル後の失われた数十年によって自信を失った。今や技術立国としての誇りすら地に堕ちた。
結果、国としてのよりどころを失ったのが今のわが国の姿だと思う。

広瀬中佐の生き方を追ってみると、国としての何かの柱が必要と思えてならない。
それが皇国主義である必要も拝金主義である必要もない。だが、違う何かが必要だ。
多様性国家を打ち立ててもよい。サブカル立国としての未来に賭けてもよい。

あるいは、観光立国として生きるのもよいかもしれない。私が竹田の街並みを愛でたように。

また竹田には訪れたいと思う。廣瀬神社にも。

2020/11/21-2020/11/26


日本辺境論


日本を論じるのがもっとも好きな民族は日本人。良く聞くフレーズだ。本書にも似た文が引用されている。

はじめに、で著者は潔く宣言する。本書もまた、巷にあふれる日本論の一つに過ぎないことを。そして、本書の論考の多くは梅棹忠雄氏や養老孟司氏ら先人の成果に負っていることを。著者の姿勢は率直だ。本書を先賢によって書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなもの、とすらいうのだから。(P23)

だからといって、本書を先人たちの成果の絞りかすと軽んじるのは愚かなこと。絞りかすどころか、含蓄に富んでいる。もし本書が絞りかすだとすれば、誰が本書を出版するものか。著者一流の謙遜だと思う。その証拠に著者は先ほどの宣言に続けてこう書いている。本書の「唯一の創見は、それら先人の貴重な知見をアーカイブに保管し、繰り返し言及し、確認するという努力を私たち日本人が集団的に怠ってきているという事実に注目している点です」と(P23)。

著者の謙遜にもかかわらず、本書の内容は新鮮だ。確かに結論こそ先賢の業績に沿ったものかもしれない。しかし、著者が論拠とするエピソードは現代の風俗を含んでいる。つまり本書は、現代の視点で見直した日本論なのだ。もっとも今風とはいえ、著者が本書で展開する論考にはインターネットからの視点が抜けているのは事実だ。しかし、本書での著者の結論から逆をたどれば、ネット社会が盛んな今もなお辺境にある日本という見方もできるのだ。

日本のどこが辺境なのか。「I 日本人は辺境人である」で著者は検証を試みる。日本の辺境性を明らかにするため、著者が取り上げた例は多岐に渡る。余りにも範囲が広すぎるため、ここで一々挙げることすらためらわせるくらいに。ほんの一例を紹介してみる。オバマ大統領の就任演説。太平洋戦争における海軍将校や大臣達の言葉。ヒトラーの戦争観。中華思想と小野妹子の親書。征韓論と日清日露戦争時の日本外交。

そこから導き出す著者の論点を要約すると、日本人のメンタリティは、他国との比較によって築き上げられてきたとの結論に落ち着く。「はじめに」で著者が告白したとおり、他国との比較という先人が出した日本への論考は枚挙に暇がない。丸山眞男、川島武宜、梅棹忠雄といった碩学諸氏。これら諸氏が主張したことは、今まで日本人が世界の主人公として主体的に振る舞ってきたことは一度もないということ。日本が主体となるのではなく、他国との比較において日本の在り方を突き詰めたところに、日本人の心性や文化はあるということ。それは良いことでも悪いことでもない。それが日本なのだ、という現状認識がある。それが著者の出した結論であり、よって立つ視座である。以下に本書の中でそのことが端的に述べられている箇所を抜き出してみる。

私たちの国は理念に基づいて作られたものではない。(P32)

私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語る(P34)。

國體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している(54P)。

特に最後の引用が含まれる52ページから56ページの部分は、太平洋戦争の総括がなぜ今も出来ないか、との問いへの回答になっている。東京裁判において、戦争の共同謀義の罪状にあたる証拠が見つけられず、その罪状で求刑出来なかったことはよく知られている。そこから、昭和初期の日本が國體や戦争の行く末を考えずに戦争に突き進んでいった理由について、本書の論考はヒントになるだろう。

最近はとくに、日本と他国を比べ優劣を語る議論がまた勢力を盛り返している。ネット論壇ではとくに。しかし、そのような比較論は、すでに先人達が散々論じ尽くしている。もはやそれを超える画期的な視点の日本論は出てきそうにない。著者もそれは先刻承知しているのだろう。だからこそ本書は先賢らが提示した論をなぞるだけ、と「はじめに」で述べているのだ。その前提として著者が「I 日本人は辺境人である」で主張するのは、こうなったらとことん「辺境」を極めようではないか、ということである。ここまで「辺境」を保ちつつ国を続かせてきた国は他にない。我が国が普通の国でないのなら、その立場を貫こうではないか、というわけだ。それが本書の、そして著者のスタンスである。

続く「II 辺境人の「学び」は効率がいい」で著者は辺境人として生きる利点を語る。そもそも日本には起源から今にいたる自国の思想の経歴が語れない、という特徴がある。自らの思想の成り立ちが語れないということは、論考に幅や余裕がなくなること。それは、自説について断定的な姿勢をとることであり、譲るゆとりを忘れることでもある。そういった病理を炙り出すため、本書で著者が取り上げたのは国歌国旗にまつわるナショナリズムだ。戦後の日本を縛り付けてきた左右両翼の争い。その論争の行く末は、いまだに見えない。それもここで挙げた論理を当てはめることで理由がつきそうだ。左右の思想ともに自らの思想が経てきた歴史や深みを語れない。それは借り物の思想だから、というのが著者の意見だ。

ここで私が思ったのは、左右の論争に決着がつけられないのは、自らの経緯が語れないということよりも、絶対的な宗教、決定的な思想が日本にないことが理由では、と思った。それは、目新しい考えでもなんでもない。ごく自然に出てきた私の疑問だ。

著者は、左右の思想になぜ論争の終わりが来ないのかについての理由を解き明かしにかかる。それは私の思ったことにも関係する。師弟という関係の本質。日本では芸事を極めることを「道」に例える。武道、茶道、書道など。道とは続くもので、終わりのないものの象徴だ。

著者はここで師弟関係の意味を極言する。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であったとする。でもその人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する(149P)。と。

著者がここで落語のこんにゃく問答を例に出すのは秀逸だと思う。しかし、著者がいうのは曖昧で形のない形而上の対象ではないだろうか。それらについては当てはまるかもしれないが、具体的な対象については「道」や「師弟関係」とは少し違うのではないか。目の前に見える近視眼的な対象に対する日本人の集中力は秀でている。それに異論のある方は少ないはずだ。著者にいわせれば、目の前に見えている対象は、学びの対象になりえないのだろうか。ここが少し疑問として残った。

そういった私の疑問に対し、著者は続く「III 「機」の思想」で”機”の概念を持ち出す。”機”とはなにか。それを説明するために著者は親鸞を担ぎ出す。親鸞もまた、道の終着点を見出すことの無意味さを知り、道という概念とは求め続けることに意味あり、ということを知る人ではなかったか。親鸞の有名な”悪人正機説”。この中には”機”の字が含まれている。

著者は親鸞を辺境固有の仮説を検証しようとした宗教家ととらえているようだ。「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」(166P)、という文にもそれが見られる。

修行の目的地という概念を否定した親鸞。それは、辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない(169P)、と著者は受け取る。

著者はここで”機”を説明するため、柳生宗矩を評するため沢庵和尚が使った「石火之機」という言葉を持ち込む。意思に基づいた動作ではなく、瞬間の動作。主体の意思さえない、本能の動作。反応以前の反応。それが「石火之機」だ。主体なく生きることは、すなわち辺境に生きることに等しい。そう著者は言いたいのだろう。ところがここまで書いておきながら、「悪人正機」の中の”機”について著者は特に触れないのだ。ここまで論を進めたのだから、あとは分かるでしょ?ということなのだろうか。であれば、あとはこちらで結論を導くしかない。それはつまり、存在論的に悪人であらねばならない我々が正しい”機”に導かれるには主体を捨てねばならない。”機”とはそういう”機”ではないか。

左右両翼の論争がなぜいつまでも終わらないのか、との著者の意見を噛み砕いているとここまで来てしまった。ここで改めて著者の言いたいことを私なりに解釈してみたいと思う。

主体がなく反応以前に反応する”機”。それは外来の事物について反応する前に有用性を見極め受け入れることである。日本人が辺境人としてあり続けたのは、”機”に導かれ道をしるため、主体を捨てて無私の境地で無条件に外来からの理論を信じてきたから。無条件に無私の境地の中で、その思想の由来や経緯を意識することなく外来思想を取り入れ続けてきたから。

多分、著者の結論を正しいとすれば、日本で思想の争いに決着を求めるのは無理だ。そして日本の思想に論理的整合性を求めるのは無駄なことだ。そこには私が考えたような絶対的思想の不在だけでない、別の理由がある。だが、それを承知で、著者は辺境人として生きてみようと呼びかけるのだ。その曖昧さをも受け入れた上で。

「IV 辺境人は日本語と共に」で著者は日本語を爼上にあげる。日本語は、表意文字と表音文字が混在しているのが特徴だ。そこには、仮名に対する真名という対比の関係がある。話し言葉を仮の名と呼び、外来の文字を真の名と呼ぶ。この心性がすでに辺境的なのだと著者はいう。外来の言葉を真の名と尊び、土着の言葉を借りの名という。つまり外来を重んじ、土着を軽んじる。この着眼点は凄いと思った。そしてそのことが日本を発展に導き、我々の文化に世界史上でも有数の重みを与えた。我々はそのことを素直に受け入れ、喜んでもいいのではないか。

年明け早々にヒントに富んだ書を読め、満足だ。

‘2015/01/15-2015/01/19