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文明が衰亡するとき


著者の本を読むのは初めてだ。

以前から著者の名前は高名な国際政治学者として知っていた。

今、世界は不透明な状態になりつつある。
40も半ばを過ぎた私がこれから生きていくにあたり、何を指針とすべきか。

40歳半ばとは本来、より広い視野と知見を持っているべき年齢だ。
技術者として生計を立てている私と言えども、技術と言う枠だけにとらわれず文明にまで視野を広げて物事を捉えていかねばなるまい。

文明。その言葉だけを考えてみると、その実態はとてもあいまいだ。
その言葉を聞いて真っ先に考えるのは、長らく続いている印象だ。
ところが私たちの世代が世界史で習ったエジプト・バビロニア・インダス・中国の四大文明は、遺跡にその姿を残すのみ。その繁栄の様子は歴史の彼方に埋もれてしまった。
一方で文明を人類全体の枠組みで捉えなおすと、昔から脈々と受け継がれてきた文明は今の現代の世界として続いている錯覚を受ける。
文明とは、あらゆる意味を包括した言葉であるため、逆に実態を掴もうとするとどこかに遠ざかってしまうのだ。

となると、個々の文明を詳しく見ないことには、文明の本質は把握すらおぼつかない。
著者は本書で、代表的な時期と場所の文明を取り上げる。
四大文明がそうだったように、文明は繁栄と衰亡の時期を行き来する。景気の波のように興廃の振幅を幾度もへて、そしてついには衰えていく。それがほとんどの文明の宿命だ。

わが国にしても、戦後の焼け跡から立ち上がり、世界史上でも有数の繁栄を誇った。だが、バブル崩壊を境に一転、長きにわたる停滞が続いた。停滞の今から振り返ると、もうあれほどの繁栄には二度と恵まれないのでは。そんな憶測が多数を占めている。
そうした悲観的な観測が世間を覆う中、私は日本の将来について何をなすべきなのだろう。
再びわが国が繁栄するため、社会を引っ張っていくべき年齢。それが40代から50代の熟年世代なのだろう。もう、新たな活力は若い世代に負けるし、斬新な発想も難しいかもしれない。だが、脂ののった年代でもある。そのような世代が次の世界に何を引き継ぎ、何を残すのか。
そのためにも、果たして日本の今後はどうなるのかは考えねばなるまい。もちろん、その予測は人によって多様なはず。

日本は皇室が二千年近く続いている国であり、そう簡単には衰亡しないと言う意見もある。
一方で、経済的な面から考えれば、資源のない日本にはこれ以上の発展は望めないという声もある。
私の意見では、経済的な発展はもう見込めないだろうと思っている。少子化はすでに挽回の不可能な地点を越えてしまったからだ。
ただ、日本が培ってきた文化的な素養がこれからの世界に貢献できる可能性は高いと見ている。

そうした文明の未来を占うにあたり、これまでの世界の諸文明がどのように衰亡したのかを知識として持っておくことは必要だと思う。

本書が書かれたのは1980年代の初頭だ。つまり日本が上り調子になっていた時期にあたる。
オイルショックを乗り越え、ジャパン・アズ・ナンバーワンのスローガンが一世を風靡し、バブルが崩壊する未来は予兆すらなかった頃である。

著者はまずローマ帝国の歴史を見る。
なぜあれほどの規模と繁栄を誇ったローマ帝国が滅びたのか。その歴史を追いながら衰退の原因を検証していく。

私たちが思っている以上に当時のローマの文明は進んでいた。今に比べると技術力は足りないが、当時の技術の粋があらゆる知恵と工夫となって集められていた。都市に施された設備の洗練は進み、文化は栄え、繁栄は何世紀も続いた。

しかし、領土の拡張はある規模に至った時点で止まる。そして、ローマ帝国の版図はそれ以上広がらなかった。年月が徐々に、ローマの活力を奪って行った。
それだけではなく、領土が広がることで帝国の広大な地域から人が集まった。それは軍隊に顕著だった。軍隊が領土の維持に不可欠である以上、やむを得ない。
人が交わるのは、生物的には健全なことだ。だが、ローマ建国から繁栄に至るまでを支えてきた気質に他民族の文化や考え方が混ざったことで、国民から一体感が失われていった。国民意識とでも言おうか。
建国した頃のローマ人が抱いていた文化と活力は徐々に変質していき、そこに経済の衰退が重なることでさらに帝国はほころびていった。

著者は、経済的な衰退こそがローマ帝国崩壊の原因であるとの立場をとっている。
ゴート族をはじめとしたゲルマン諸族の侵入はローマ帝国にとってとどめの一撃でしかなかった。それまでにローマ帝国は衰退への道を確実に歩んでおり、滅びるべくして滅びたと考えるべきだと。
経済的な衰退がはじまった中、広大な国土を維持するために官僚の肥大を止められなかった。それによって意思の決定が硬直し、国の統制が国の隅々に行き渡らなくなった。それがローマの衰退の要点だと著者は説く。

続けて著者は、ヴェネツィアの繁栄と衰退の歴史を見ていく。
ヴェネツィアは、イタリア半島の付け根に築かれた干潟の上の都市からはじまった。そして地中海を交易と海軍で制圧し、中世の地中海世界を席巻した。その歴史は都市国家としてあまりに著名である。
その威力は当時の十字軍の目的を変質させ、各国の王をヴェネツィアの意思に従わせるほどであったと言う。

ヴェネツィアの存在がルネサンスの原動力となったこともよく知られている。地中海の一都市から生まれたルネサンスが、暗黒の中世と言われた長きにわたる西洋の停滞を終わらせた。今の西洋が主体となっている国際社会の礎を築いたのはヴェネツィアとすらいえるかもしれない。

だが、「新しい事業に乗り出す冒険的精神や活力の衰頽と守旧的性格の増大、自由で開放的な体制から規制と保護の体制への変化、すなわち柔軟性の喪失と硬直化」(164ページ)
という言葉の通り、ヴェネツィアにも衰退が見られた。ヴェネツィアを成長させた質実剛健な文化が失われ、快楽に流されるようになったあとは覇権を失った。

最後に著者はアメリカを語る。
アメリカと言えば現在も世界をリードするGNPでも第一の国家であり続けている。だから、アメリカに衰退を当てはめることには違和感がある。

だが、本書が書かれた当時のアメリカは、ベトナム戦争による敗北や、貿易赤字の増大によって衰退の傾向が色濃く出ていた。
合わせて当時は、日本が世界でも有数の経済力を発揮し出した時期。やがてアメリカを凌駕するのも時間の問題と考えられていた。

著者は、アメリカに象徴される西洋主導の工業文明そのものが衰えているのではないかとの視点を提示する。産業革命によってイギリスが世界の七つの海を制覇するまでに巨大化した。それ以降、イギリスの文化を受け継いだアメリカが世界をリードしてきた。

だが、各地で発生する公害はどうだろう。原油やその他の資源を消費することで成り立つ経済のあり方に発展の持続は見込めない。
著者はアメリカも政府が大きくなったことで国家が硬直していると指摘する。
ただ、このままアメリカは衰退するとは断定しない。しかし徐々に衰退していくのではないかと言う予想を示す。

最後に日本だ。
著者は、日本の今後を占う上で、ヴェネツィアやオランダなど小さな島国が発展したモデルに日本の今後のヒントがあるのではと提案する。
そうした国は通商で国家の繁栄を支えていた。日本も通商で世界に出ていけるのではないかと示唆する。

だが、本書が生み出されてから40年近くが経過した今、日本の衰退は明らかだ。
それは国としての柔軟性が欠けていることにあらわれている。
製品の製造にこだわるあまり、ソフトウエアの重要性に気付かなかった日本。今や世界のITの主導権は西洋やアジアの各国に握られている。
それはすなわち、アメリカが代表する西洋が再び文明の主導権を奪回したことでもある。

わが国の意思決定や組織文化は残念ながら時代の流れについていけなかった。
確かに日本は一度、世界のトップに上り詰めかけた。だが、今は衰退した状態である。
本書では文明の衰退のパターンが描かれてきた。そこに共通するのは、官僚組織の硬直だ。それが国の衰退につながる。今までの文明が衰退してきたパターンでもそれは明らか。
本書が上梓された際にはわが国が衰退することなど誰にも予想できなかったはずだが、やはりパターンにはまったといえようか。

私は組織から抜け出し、一人で活動してきた。そして今度は人を雇用して組織を作ろうとしている。果たして私の組織は衰退していくのだろうか。それは私の努力次第だ。
実際、私以外にも自らが組織を作り出そうとしている人は多くいるはずだ。そうした組織を連携させ、一つのうねりを作り出す。遠い将来の衰退が確実だとしても、それが私たちの世代のやるべきことではないだろうか。

‘2020/01/18-2020/01/25


星籠の海 下


上巻で広げるだけ広げた風呂敷。そもそも本書が追っている謎は何なのか。読者は謎を抱えたまま、下巻へ手を伸ばす。果たして下巻では謎が明かされるカタルシスを得られるのだろうか。下巻ではさすがにこれ以上謎は広がらないはず。と、思いきや、事件はますますよくわからない方向に向かう。

石岡と御手洗のふたりは、星籠が何かという歴史の謎を追いながら、福山で起こる謎の事件にも巻き込まれてゆく。その中で、福山に勢力を伸ばし始めた宗教団体コンフューシャスの存在を知る。しかも、コンフューシャスを裏で操る黒幕は、御手洗が内閣調査室から捜査を依頼されていた国際的なテロリストのネルソン・パク本人である事実をつかむ。どうも福山を舞台とした謎めいた事件の数々は、宗教団体コンフューシャスの暗躍にからんでいるらしい。

ここが唐突なのだ。上巻でたくさん描かれてきた謎とは、御手洗潔とネルソン・パクの宿命の対決に過ぎないのか、という肩透かし。そもそも、宿命の対決、と書いたが、私はネルソン・パクをここで初めて知った。御手洗潔に宿命のライバルがいたなんて!これは『御手洗』シリーズの全て順番に忠実に読んでこなかった私の怠慢なのだろうか。シリーズを読んできた方にはネルソン・パクとは周知の人物なのだろうか。シャーロック・ホームズに対するモリアーティ教授のように。私の混乱は増すばかり。多分、おおかたの読者にとってもそうではないか。

御手洗潔の思わせぶりな秘密主義は毎回のことなのでまあいい。でも、急にネルソン・パクという人物が登場したことで、読者の混乱はますはずだ。それでいながら、辰見洋子が瀕死でテーブルに両手両足を縛り付けられている事件や、赤ん坊が誘拐され、その両親は柱に縛り付けられるという新たな謎が下巻になってから提示される。どこまで謎は提示され続けるのだろうか。それらの謎は、どれも福山を舞台にしていることから、コンフューシャスの暗躍になんらかの繋がりはあるのだろう。でも、読者にはそのつながりは全く読めない。小坂井茂と田丸千早は演劇を諦めて福山に戻ってきた後、どう本筋に絡んでくるのか。鞆で暮らすヒロ少年と忽那青年は本筋で何の役割を果たすのか。そこにタイトルでもある星籠は謎をとく鍵となるのだろうか。

無関係のはずの複数の事件を結びつける予想外のつながり。その意外性は確かに推理小説の醍醐味だ。だが、本書の場合、そのつながりがあまりにも唐突なので少々面食らってしまう。辻褄を無理矢理合わせたような感触すらうける。コンフューシャスという宗教団体に黒幕を登場させ、実は御手洗はその黒幕をずっと追っかけていた、という設定もいかにも唐突だ。

本書が、星籠とは何かと言う謎をひたすらに追っかけていくのであればまだ良かった気がする。それならば純然たる歴史ミステリーとして成立したからだ。ところが、他の複数のエピソードが冗長なあまり、それらが本筋にどう繋がるのかが一向に見えてこない。このところ、著者は伝承や伝説をベースに物語を着想することが多いように思うが、あまりにも付け足しすぎではないだろうか。むしろ、上下で二分冊にする必要はなく、冗長なエピソードは省き、冒険活劇めいた要素もなくしても良かったと思う。

星籠が何を指すのかという謎を追うだけでも、十分に意欲的な内容になったと思う。星籠が何かということについては、本稿では触れない。ただ、それは歴史が好きな向きには魅力的な謎であり、意外な正体に驚くはず。そして、星籠の正体を知ると、なぜ本書が福山を舞台としたのか、という理由に納得するはずだ。また、上巻の冒頭で提示された、瀬戸内海という場を使った壮大な謎が、物語にとって露払いの役割にしかなっていない事を知るはずだ。それは瀬戸内海という海洋文化を語るための導入の役割であり、大きな意味では無駄にはなっていない。

だが、その謎を軸にした物語を展開するため、エピソードを盛り込みすぎたことと、冒険活劇めいた要素を盛り込みすぎたことが、本書をいささか冗長にしてしまったようだ。もちろん、下巻で、上巻から展開してきた多くの謎は収束し、とかれてゆく。だが、謎の畳まれ方がいく分、乱雑に思えてしまうのは私だけだろうか。その豪腕ともいうべき物語のまとめ方はすごいと思うが。

本書を映画化するにあたり、雑誌「ダ・ヴィンチ」で特集があった。著者のインタビューも載っているし、今までの著者の名作の紹介も載っている。その特集をあらためて読むと、著者の偉大さをあらためて思う。上巻のレビューにも書いた通り、私の人生で最もなんども読み返したのは『占星術殺人事件』。私にとって、永遠の名作でもある。その一冊だけでも著者の評価はゆるぐことはないだろう。

本書を『占星術殺人事件』と比べると、私にとってはいささか冗長で、カタルシスを得るには至らなかった。ただし、本書を読んで数カ月後、思いもよらない形で私は本書とご縁ができた。kintoneのユーザー会で訪れた福山、そして鞆。どちらも、本書で描かれたようなおどろおどろしさとは無縁。本書でヒロ少年と忽那青年が暮らす鞆は、豊穣に広がる海が、かつての水軍の栄華を思い起こさせてくれた。街並みもかつての繁栄を今に残しており、歴史を愛する私にとって、素晴らしい体験を与えてくれた。美しく、また、楽しい思い出。

その旅を思い出し、初めて本書の真価が理解できた気がした。本書はいわばトラベルミステリーの一つなのだと。著者は福山の出身であり、本書は映画化されている。つまり、本書は、映画化を前提として描かれたに違いない。そこに著者の得意とする壮大な謎解きと、福山の歴史ロマンをくわえたのが本書なのだ。福山や鞆を訪れた経験の後、本稿を書き始めて、私はそのことに思い至った。

トラベルミステリーと聞くと、手軽なミステリーとの印象がついて回る。だが、本書を仮にトラベルミステリーととらえ直してみると、印象は一変する。福山とその周辺を魅力的に描き、歴史のロマンを取り上げ、さらには大胆なトリックがいくつも。さらには冒険活劇の要素まで加わっているのだ。つまり、本書は上質のトラベルミステリーといえるのではないだろうか。もちろん、そこに悪い意味はない。

本稿を書きながら、また、福山と鞆の浦に行きたくなったのだから。

‘2018/09/05-2018/09/05


星籠の海 上


本書は映画化されるまで存在に気付かなかった。映画の番宣で存在をしったので。かつてのように推理小説の状況をリアルタイムでウォッチする暇もない最近の私。推理小説の状況を知るのは年末恒例の「このミステリがすごい」を待ってからという状態だ。本書が『御手洗』シリーズの一冊だというのに。

御手洗潔といえば、名探偵。私が今までの人生で最も読み返した本は『成吉思汗の秘密』と『占星術殺人事件』。御手洗潔は後者で鮮烈なデビューを果たした主人公だ。御手洗と言えば相棒役の石岡を外すわけにはいかない。御手洗と関わった事件を石岡が小説に著す、というのが今までの『御手洗』シリーズのパターンだ。

本書の中で石岡が述懐した記録によれば、本書は『ロシア幽霊軍艦事件』の後に起こった事件を小説化しているという設定だ。そして本書の後、御手洗潔はスウェーデンに旅立ってゆく。本書は、御手洗潔が最後に国内で活躍した事件という体をとっている。

ではなぜ、著者は御手洗潔を海外に飛び出させてしまったのだろう。それは著者が御手洗潔を持て余してしまったためだと思う。本書の冒頭で描かれるエピソードからもその理由は推察できる。

かのシャーロック・ホームズばりに、相手を一瞥しただけでその素性を見抜いてしまう観察力。『占星術殺人事件』の時に描かれたようなエキセントリックな姿は影を潜め、その代わりに快活で多趣味な御手洗潔が描かれている。つまり、パーフェクト。超人的な観察能力は『占星術殺人事件』の時の御手洗潔には描かれておらず、もっと奇天烈なキャラクターとして登場していた。ところが今の御手洗潔はパーフェクトなスーパーマンになってしまっていた。そのような人間に主人公を勤めさせ続けると、著者としては推理小説が書けなくなってしまう。なぜなら、事件が起こった瞬間に、いや、事件が起こる前に超人的な洞察力で防ぐのがパーフェクトな名探偵だからだ。神がかった人間が秘密をすぐに見破ってしまうとすれば、著者はどうやって一冊の本に仕立て上げられるというのか?

作者としても扱いに困る存在になってしまったのだ。御手洗潔は。だからこのところの『御手洗』シリーズは、御手洗潔の子供時代を描いたり、日本で苦労しながら探偵役を務める石岡からの助けに、簡潔なヒントをスウェーデンからヒントをよこす役になってしまった。

本書はその意味で御手洗潔が日本で最後に手掛けた事件だという。今後御手洗潔が日本で活躍する姿は見られない気がする。本書は石岡のメモによると1993年の夏の終わりに起こった設定となっている。

著者の作品は、壮大な科学的事実を基に着想されていることが多い。死海の水がアトピー治療に効くとか、南半球と北半球では自然現象で渦の向きが逆転するとか。本書もそう。ところが著者は、もはやそうした謎をもとに物語を構築することをやめてしまったようだ。本書はどこからともなく死体が湧いて打ちあがる瀬戸内海の興居島の謎から始まる。ところがそのような魅力的な謎を提示しておきながら、その謎はあっけなく御手洗が解いてしまう。

ただし、そのことによって、著者は瀬戸内海に読者の目を向けさせることに成功する。紀伊水道、豊後水道、関門海峡のみが外海の出入り口であり、潮の満ち引きに応じて同じ動きをする海。それを御手洗潔は時計仕掛けの海と言い表す。

それだけ癖のある海だからこそ、この海は幾多の海戦の舞台にもなってきたのだろう。そして今までの歴史上、たくさんの武将たちがこの海を統べようとしてきた。平清盛、源義経、足利尊氏。そのもっとも成功した集団こそ、村上水軍。本書はもう一つ、村上水軍に関する謎が登場する。戦国の世で織田信長の軍勢に敗れた村上水軍は、信長の鉄甲船に一矢報いた。ところが、本能寺の変のどさくさに紛れ、その時に攻撃した船は歴史の闇に消えたという。

ところが、幕末になり、ペリー率いる四隻の黒船が浦賀沖に姿をあらわす。黒船に対応する危急に迫られた幕府から出船の依頼がひそかに村上水軍の末裔に届いたという。それこそが本書のタイトルでもある星籠。いったい星籠とは何なのか、という謎。つまり本書は歴史ミステリーの趣を濃厚に漂わせた一冊なのだ。

ところが、上巻のかなりの部分で星籠の謎が語られてしまう。しかも本書は、本筋とは違う挿話に多くの紙数が割かれる。これは著者の他の作品でもみられるが、読者は初めのうち、それらの複数のエピソードが本筋にどう絡むのか理解できないはずだ。

本筋は御手洗や石岡が関わる興居島の謎だったはずなのに、そのほかに全く関わりのない三つの話が展開し始める。一つ目は、小坂井茂と田丸千早の挿話だ。福山から東京に出て演劇に打ち込む青春を送る二人。その栄光と挫折の日々が語られてゆく。さらに、福山の街に徐々に不気味な勢力を伸ばし始めるコンフューシャスという宗教が登場し、その謎めいた様子が描かれる。さらに、福山にほど近い鞆を舞台に忽那青年とヒロ少年の交流が挟まれる。ヒロ少年は福島の原発事故の近くの海で育ち、福山に引っ越してきたという設定だ。共通するのは、どの話も福山を共通としていること。そこだけが読者の理性をつなぎとめる。

四つのストーリーが並行してばらばらに物語られ、そこに戦国時代と幕末の歴史までが関わってくる。どこに話が収束していくのか、途方にくれることだろう。そもそも本書でとかれるべき謎が何か。それすらわからなくなってくる。興居島に流れ着く死体の謎は御手洗が解いてしまった。それを流したのは誰か、という謎なのか。それともコンフューシャスの正体は誰か、という謎なのか。それとも星籠の正体は何か、という謎なのか。それとも四つの話はどうつながるのか、という謎なのか。

そもそも本書が追っている謎は何なのか。それこそが本書の謎かもしれない。目的が不明な小説。それを狙って書いたとすれば、著者のミステリー作家としての腕はここに極まったといえよう。

下巻になると、それらの謎が少しずつ明かされてゆくはず。そんな期待を持ちながら上巻を閉じる。そんな読者は多いはずだ。

‘2018/09/04-2018/09/04


ローマ亡き後の地中海世界(上)


2013年の最大の読書体験である、著者作の「ローマ人の物語」。読み終えた後、後日談として本書があると知り、図書館で借りてきた。

ローマ帝国瓦解後、ルネサンスの訪れまでの中世ヨーロッパを俗に暗黒の中世という。少なくとも私の高校世界史レベルの知識ではそうであった。では、何を持って暗黒というのか。イスラム文明の進展に比べて停滞するヨーロッパの現状に対してか。それとも・・・

本書を読めば、中世ヨーロッパに対する曇った知識が磨かれること請け合いである。

ローマ帝国の分裂とそれに続く北欧民族によるイタリア半島やアフリカ沿岸部の覇権確立。イスラムの台頭と、国権による保護が手薄になったことをきっかけとした、サラセン人による海賊産業の隆盛。

つまり、暗黒の中世とは、海賊の跳梁による人々の拉致、奴隷化に対して無力な地中海沿岸部の人々の嘆き。その絶望感が暗黒という言葉となって後世に伝わったのではないかと思われる。そこには海賊の元締めであるイスラム文化に対して、有効な対策を打てずに1000年の時間を過したキリスト文化に対する無力感もあったことだろう。

本書で描かれる地中海世界では、アビニョン捕囚もカノッサの屈辱も、宗教改革ですらも重きを置かれない。重点的に描かれるのは、地中海を中心とした、イスラム文明とキリスト文明の衝突である。主題を太い幹一本に絞り、それ以外の枝葉には迷い込むことなく進んでいく著述には、清々しい想いさえ抱く。

何ゆえルネサンスが興り、何ゆえ西欧世界がルネサンス後、現代に至るまで世界の主勢力となったのか。そのあたりの歴史を理解するためには、必読の一書と思われる。

’13/12/23-14/01/01