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週末沖縄でちょっとゆるり


本書を読んだのは沖縄へ向かう機中だ。私にとっては九カ月ぶりの沖縄、前回の旅は沖縄戦と琉球文化を知る旅だった。ただ、二十二年ぶりの沖縄だったため、各訪問先のごとの思い出を作るのに精一杯だった。その時のブログは以下のリンクに書いた通り。今回は家族との旅を楽しむつもり。戦跡も巡るが、美ら海水族館やビーチにもいく。
家族で沖縄 2018/3/26
家族で沖縄 2018/3/27
家族で沖縄 2018/3/28

前回の旅で触れることのできた琉球の文化はほんの一部。沖縄にはもっと奥深いところに旅人の心を揺り動かす何かがあるはず。そう思い、今回は沖縄の文化について事前に予習することにした。

本の内容が現実にリンクした時、読書の醍醐味は実感となる。この実感は、おととしに家族で訪れた長崎で味わった。浦上天主堂が一部の遺構を残して撤去された経緯を描いた本< ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 >を読んだ翌日、長崎の街を歩いた時に感じた思い。本に描かれた天主堂の遺構や再建された天主堂をこの目で見たときに感じた感動は、読書家としての私自身の生き方に誤りはないと確信させた。

本書は実に面白かった。そして本書の内容が私の沖縄の旅にリンクした。だからこそ思い出に残った。

第一章の「沖縄そば」がすでにそうだった。前回の私の沖縄旅の目的の一つは、沖縄そばの神髄を知ることにあった。そのことは先に紹介したブログに書いたとおり。私が旅の途中で食べたのは豊見城にある「名嘉地そば」さんだ。それはとてもおいしかった。だが、革命的な発見を思わせるほどでもなかった。私が知っている沖縄そばとは、本土で食べるものだった。本土で食べる沖縄そばは、本当に沖縄そば本来の味なのだろうか。その探究心に駆られて訪れた「名嘉地そば」さんは、本土で食べる沖縄そばをおいしくした味だった。だが、それでは私の沖縄そばの本質を知りたい欲求を満たせない。私の知らない沖縄そばがあるのでは、と疑っていた。

東南アジアから台湾をへて沖縄、そして日本。その円弧上に沿って北上するうちに、麺文化は食べる麺からすする麺へと姿を変えて行く。そう書いたのは著者だ。それは確かに瞠目すべき発見に違いない。ところが、著者が発見はした事実とはそれだけにとどまらない。著者は沖縄そばが本土に影響されつつある現状をも発見する。そして著者は、沖縄そばが次第に食べるそばから啜るそばに変わってゆきつつあるのでは、と懸念する。その事実は、ずいぶん前から沖縄に足を運んできた著者だからこそ気づけたのだろう。おそらく著者の発見とは、食文化を語る上でずいぶんと貴重なものだと思う。

著者は沖縄そばを知るため、那覇から食べ歩きを始める。その探求はファミリーマートで売られている沖縄そばにまで及ぶ。本書で紹介されているファミリーマートの沖縄そばは私も目撃した。だが、本書を読んでいたためか食指は動かなかった。

著書の探究は那覇では実を結ばなかった。だから著者は国道58号線を北上しながら食べる沖縄そばを求める。そして、普天間にある三角食堂と、名護の八重食堂で著者は食べる沖縄そばに巡り合う。両者ともに那覇ではなく、郊外で見つかったところが興味深い。著者は、沖縄そばの中に那覇そばというカテゴリーがあるのでは、と結論を出す。それもまた興味深い。なぜならば、Wikipediaからの知識では、沖縄そばは那覇で生まれ、発展したはずだから。
ちなみに今回の沖縄の旅において、私は糖質オフダイエット中だったのであまり沖縄そばを食べなかった。しかし、知念岬の近くにある南城市地域物産交流館で食べた野菜そばはとてもおいしかった。

著者の啜るそばと食べるそばの切り分けは興味深い。おそらく的を射た指摘なのだろう。ただ著者は、啜るそばに変わったからと言って沖縄そばがまずくなったのではなく、むしろ全体のレベルは上がっているという。
私が知りたい沖縄そば。それは食べるそばを指すのだろうか。であれば、多分まだお目にかかったことがないはず。私が本土で食べたことのある、そして前回と今回の旅で食べた沖縄そばとは、本土向けにアレンジされた啜るそばではないか。ということは、私はまだ沖縄そばを知らない。多分、食べる沖縄そばを味わえた時、ようやく私は沖縄そばの世界の入り口に立てるのだろう。それまでは沖縄そばについて蘊蓄を披露するのはよしたい。

なお、本章の補足としてシーブンについての考察も載っており、これも興味深かった。シーブンとは沖縄の定食屋で出されるサイドメニューのことだという。メニューに載っている料理を注文すると、サービスでサイドメニューがドドんと出される。その量の多さは、料理に込められたサービス精神の表れだ。私はまだシーブンを知らない。前回も今回も定食屋には入らなかったから。さらに私は、ホテルや観光地の食事しか沖縄料理をしらない。だから、沖縄料理を語る愚は避けなければ、と自戒した。

第二章「カチャーシー」も、本書を読んですぐ、旅の中で経験したことの一つだ。

カチャーシーとは何か。それは琉球の踊りだ。阿波おどりや盆踊りのようなものと思えばいい。だが、それらの踊りとは明らかに違う、琉球に独自の振りがあるのだという。本書にはこう書かれている。「なお、不慣れな本土の人間が踊ると、たいていは阿波踊りになる。」(71ページ)

著者が栄町市場のカメおばぁにカチャーシーを習う。そして、カチャーシーが何かを悟る。沖縄ではめでたいことがあるとすぐにその場でカチャーシーを皆で踊り狂うという。

本書を読んだ後、私はカチャーシーが何かを体験する。それは国際通りでのことだ。妻が以前の旅で訪れたという波照間https://hateruma.jcc-okinawa.net/という店に入った(実は妻の勘違いで、違う店だったのだが)。このお店で食べた料理はおいしかったが、それ以上に島唄三線のライブがあり、私の中で印象に残っている。島唄三線のライブが終わりに近づくと、座敷で飲み食いしていた客が何人もランダムにステージに上げられ、皆で踊る。私は幸いなのか残念なのか、ステージに連れていかれなかったため、カチャーシーを踊る経験は積めなかった。だが、これがカチャーシーか、と目の前で見聞きできたのは大きい。本書を読んでいた私は、目の前の楽しげな騒ぎがカチャーシーであることを理解できた。

本章は本書の中でも核心ともいえる。なぜなら、沖縄病について考察されているからだ。著者はその中で本土と沖縄の根本の違いについても鋭く触れている。

沖縄病について触れた文章を引用する。
「沖縄病という病は、基本的に片思いだから、その人の沖縄への思いだけが空まわりする。しかしどこか嬉しい。片思いとは、そういうものだ。かつて僕自身、かなり重い沖縄病を患っていたから、そのあたりの感覚はよくわかる。
 沖縄病に罹った人たちの一部は、移住を決意する。沖縄に移り住む・・・それは簡単なことではない。若者が沖縄に仕事を見つけて移るのならまだしも、本土生活の基盤があった人にとっては大変な覚悟である。人生のターニングポイント・・・と考える人もいる。そこまで沖縄への思いが増幅される。」(64P)

著者は自らが経験したカチャーシーを語り、まだ沖縄の人になりきれていない自分を悟る。それは八重山商工が甲子園に出た時のことだ。試合に勝った後、自然とカチャーシーがスタンドで沸き起こる。ところが著者はその場にいながら腰が上がらなかったのだという。それでも著者は悟る。
「カチャーシーとは踊りではなく、嬉しさを示す手段なのだ。」(88P)

著者はカメおばぁからカチャーシーを教えられながら、笑顔がないことを注意される。カチャーシーとは喜びの表現だからだ。そしてうれしさとは自然に出てくるものでないと駄目だ。観察者として傍観するのではなく、主導者として表現しなければならない。そこに沖縄と本土の違いがある。著者は沖縄と本土の違いを考える。ところが核心をつこうとしてつけていない。著者自身が自身の本土から来た者としてのアイデンティティと沖縄に染まる理想を紐づけようとして苦心している様が本章からはよく分かる。だから本章は本書でも核となるのだ。

第三章「LCC」は、沖縄の航空事情について語る。今回の沖縄の旅でも私たちはスカイマークを使った。それだけに、著者の言いたいことが理解できた。東京都心部から成田空港へのアクセス時間や、成田から那覇へのLCCの発着の時間。LCCの誕生が沖縄本島へのアクセスだけでなく石垣島や宮古島への往来を楽にしたこと。沖縄へしょっちゅう行き来するという著者だからこそ書ける考察に満ちていたのが本章だ。

第四章「琉球王国と県庁」は、本書の中でも若干異質だ。少なくとも、本書のタイトルが表わすゆるさとは違う。硬派な内容で埋められている。基地問題と沖縄。地上戦と沖縄。本土の沖縄。米軍と沖縄。どれほど沖縄が観光で栄えようとも、それらの問題を忘れ去るわけにはいかない。そうした矛盾の中で沖縄はどう生きてきたのか。そして、これからどう生きようとするのか。それを著者は探っていく。本章からは、被害者としての沖縄だけではなく、したたかな沖縄の姿も見えてくる。

著者は沖縄を取り上げるライターとして、観光本も手掛けているそうだ。著者は観光地沖縄を扱いながらも、被害者としての沖縄を忘れていいのか、と自らに問う。また、同時に米軍基地の存在が沖縄に利益を与えている現状もきちんと踏まえる。理想と現実の両者を見つめながら、沖縄は生きていかなければならない。基地がいい、悪いといった単純な二元論に陥っていないところが評価できる。

「沖縄は戦争の犠牲になった。しかし、本土の人々が、加害者意識に縁どられた視線をいくら向けてくれても、沖縄の人が豊かになるわけではなかった。沖縄の人々がほしいのは、同情ではなく、島が生きていく方法論だった。」(147P)
この文は、基地の反対運動に奔走する運動家への問題提起になっている。沖縄=善、本土=悪という視点にこだわっていては導き出すのもむずかしいだろう。本書が朝日文庫に収められており、親会社が朝日新聞社である事を考えると興味深い。
今回の沖縄旅行の三日目の朝、私は県庁前あたりをうろついた。その前の夜は北谷のアメリカンビレッジにも訪れた。初日はひめゆりの塔やアブチラガマで戦地に立った。本章は、そうした私の経験にリンクした。この章も本書では見逃せない。

第五章「波照間島」もまた味わい深い章だ。波照間島という日本最南端の島。その地を「離島の離島」という言葉で描き出しつつ、そこを訪れる訪問者の心境を探ってゆく。著者の友人で「ウルトラマン研究序説」を編集した人物がいるという。その人物は結局自死の道を選んだそうだ。そして自死する前に波照間島をいく度も訪れていたとか。そして一人で凧を挙げていたことが紹介される。著者はその友人を感傷的に振り返る。離島の離島は果たして人生の終着駅になりうるのだろうか。

今回の旅では波照間島には行かなかった。が、那覇で訪れた居酒屋の名前が波照間だったこともあり、本書と私の旅のリンクは続く。

第六章「農連市場」は、再開発の波によって姿を消した農連市場の姿をカメラマンの阿部稔哉氏が写真に収めている。再開発された農連市場の横を通ったのは、旅行の二日目、美ら海水族館へと向かう時。外観もすでに新しい姿だったので、本書に収められたような姿はみられなかった。だが、旅の三日目に市場本通りとむつみ橋商店街を少し歩いた。両方ともに昔ながらの庶民的な雰囲気に満ちていた。おそらく在りし日の農連市場もこのような場所だったのでは、と推測できたように思う。

第七章「コザ」は、今や寂れてしまったコザを仲村清司氏が文章に著している。コザは沖縄市にあり、嘉手納基地の足元にある。日本返還前にコザ暴動がおこった場所でもある。そのコザはかつては米兵で大賑わいだったらしいが、今は閑散としているという。その歴史や今の現状をルポルタージュの風味で描いたのが本章だ。

旅の二日目の夜、沖縄在住の友人の一家と北谷のアメリカンビレッジで夕食を一緒に過ごした。アメリカン・ビレッジは繁盛しており、沖縄でも成功したショッピングセンターとして評価が高いようだ。訪れた私も家族もアメリカン・ヴィレッジの活気を楽しんだ。アメリカンのはビレッジはコザからそう離れていない。

私は夕食の場で友人にコザの今がどうなのか聞いた。すると、まだ夜のコザは華やかだと言って夜の様子を写真で見せてくれた。米兵が多数たむろする歓楽街として、コザは今も機能しているようだ。ただし、女性が行く場所ではないとか。

それは仲村氏が取材した後、コザが盛り返したためなのか。それとも仲村氏のルポのタイミングがたまたま寂れていた時間帯だったのか。私には分からない。だが、北谷アメリカンヴィレッジがこれだけにぎわっていることは確かだ。コザの賑わいがそっくり北谷に移っただけなのかもしれないし、そもそもコザを訪れたことのない私には判断できない。どちらにせよ、私は今までの三度の沖縄旅行でコザに行ったことがない。次回、沖縄を訪れたあかつきにはコザを訪れようと思う。友人の一家もコザの近くに住んでいることだし。

第八章「沖縄通い者がすすめる週末沖縄」
第九章「在住者がすすめる週末沖縄」の両章はタイトルそのままの内容だ。それほどページ数は多くない。だが、ガイドマップには載っていない情報なので面白いかもしれない。むしろ、著者の視点ではない沖縄が紹介されており、ためになる情報だ。本書の他の情報と同じく。

‘2018/03/26-2018/03/26


家族で沖縄 2018/3/26


思い切って家族で沖縄へ、と妻が企画したのが今回の旅。その前触れには、二月に修学旅行で沖縄に行った長女の意向があります。その中で長女はアブチラガマに行き、ボランティアのガイドさんの話にとても感銘を受けたのだとか。そのガイドさんの名前は忘れたけど、お礼が言いたい、という長女の想いを実現させることが今回の目的です。

4月からは娘たちが二人とも受験生に。旅行にはそうそう行けなくなる。それを見越しての今回の旅です。これが家族四人の最後の旅になるかもしれない、との思いで。

Am6:30に羽田を発つSkymark511便に乗るため羽田へ。私は昨年の沖縄ひとり旅の時と同じく、パソコンを持参して来たので、搭乗口の近くでしばし作業。そして睡眠。まだ寒さを感じる羽田の早朝から、9:30に那覇空港へ。とたんに陽気が体を包みます。一気に旅気分。ここは沖縄。家族でそろって飛行機に乗って出かけるのは1年半ぶり。皆が高揚します。那覇に着いたらすぐにレンタカーの送迎バスに乗りました。昨年の一人旅ではレンタカーの手違いで時間を無駄にしました。その時と同じ轍は踏みますまい。

さて、レンタカーを借りたわれわれは一路、アブチラガマへと向かいました。道中、沖縄の空気や雰囲気を存分に味わいながら街を流します。次女はすでに興奮しています。無理もありません。次女がリゾート地に来るのはずいぶん昔にフラの大会に出るためハワイを訪れて以来ですから。道沿いのあらゆるお店に突っ込みと笑いと解説を交えています。こういう時、家族を連れてきて良かったと思います。

車はカーナビに従いアブチラガマへ。ところが事前に予約しておいたアブチラガマの見学時間は午後。なのでカーナビの目的地を変更。知念岬に狙いを定めます。知念岬。そこは昨年、私がひとり訪れた地。近くの斎場御嶽ではいたく感動し、琉球で最も聖なる地の厳粛さが今もまだ息づいていることを全身で受けました。そこは私に命を吹き込んでくれました。

今回、旅の開始を知念岬にしたのは良かった。まず最初に沖縄の海の美しさを家族に見せられたから。折りしもパラグライダーがすぐ上空を飛び回っており、海はどこまでもきらめいて青。海の向こうに久高島が横たわり、凪いだ海は平和そのもの。 昨年、私が訪れた際は台風の翌日でした。そのため空も海も台風がかき回した痕跡を荒々しく残していました。今年は波打ち際まで独り向かい、海の透き通る美しさをじっくりと味わいました。その間、娘たちと妻も知念岬の公園でのんびり。海と空の広がりを全身で感じてくれたはず。

知念岬公園を堪能した後は道の駅に寄りました。まだ沖縄で何も食べておらず、最初の沖縄料理はここでおいしい沖縄そばやロコモコ。ちょうど糖質オフダイエットをしている最中でしたが、沖縄そばとあれば食べないというのが無理です。沖縄の海を見ながらとてもおいしい食事のひとときを過ごしました。本来ならば近くの斎場御嶽にも連れて行ってやりたかったのですが、アブチラガマの時間が迫ってきたため次の場所へと移ります。

娘が修学旅行で訪れたアブチラガマ。そこは沖縄戦で起こった悲劇を今に伝える場の一つ。沖縄戦では多くの兵や住民、そして動員学徒が米軍に追い詰められました。その場所が今もなお、残されています。それもリアルなかたちで。その地の底には光は届かず、生と死のはざまが闇に凝縮されています。押し込められた深い苦しみ。それを発散することもできない漆黒。そんな闇の中で兵隊や看護学生が閉じこもり、出口の見えない絶望を味わっていました。今回、私たちをご案内してくださったガイドの方は石嶺さんといいます。長女が修学旅行で教わったガイドさんとは別の方だったようですが、とても精力的かつ情熱的な語りをされる方で、私たちはその語りから地の底に何があり、地上の歴史からどう隔絶されているのかを学びました。

アブチラガマ。その入り口は観光地にありがちなこと様相とは程遠い。もちろん、チケットの売り場らしき小屋はありますが、壕の入り口自体は何の飾りもありません。

入るとすぐ中は真っ暗です。懐中電灯がないと何も見えません。漆黒の闇。壕の外がどうなっているのか何もわかりません。わずかな湧水、それも岩から浸み出すようなわずかな水だけが全て。この湧水を頼りに人々は生きながらえました。石嶺さんは私たちにこの真っ暗な中の絶望と孤独、そして生きていることの大切さを一生懸命語ってくれます。生きるという営みの実感。今の子供たちが希薄にしか持たず、分かろうにも分かり得ない感覚。

これからどうやって生きていけばいいのか。娘たちが受験を控えた今、漠然と生についての不安を感じていることでしょう。そんな中、石嶺さんの話から何かを感じ取ってくれたのであればうれしい。

アブチラガマの中を歩きつつ、その中で石嶺さんが教えてくれたこと。それは生の厳しさ、死の近さだけではありません。孤独という状態 。それが石嶺さんが何よりも実感させたかったことだと思います。それは周りに誰がいようと生きるのは自分1人である事実。真の孤独は今のSNSや情報に囲まれた社会では味わえません。生と死の境目が曖昧でありながら、誰も頼るもののない孤独。壕に閉じこもった誰もが自分のことで手一杯で、人に頼れない心細さ。アブチラガマの絶対的な闇は、私たちに生の実感を教えてくれます。

アブチラガマを出る前、石嶺さんは私たちをある場所に導きました。そこは出口にほど近い場所。暗闇なのは相変わらずですが、わずかな光が洞窟内にこぼれ出ています。それは外の光です。そしてその光がわずかに洞窟内の一点だけを照らしているのです。それを見た時、壕内の人々の喜びはいかばかりかものだったか。想像ができます。一寸先も見えない中では、その光は希望そのものだったはず。絶望から希望への転換を石嶺さんは熱く語ります。

普段は陽気で快活な次女も、アブチラガマの中では無言でした。彼女なりにその荘厳かつ厳粛な空気を感じていたのでしょうか。二回目の長女はもちろん。彼女たちなりにいろいろな思いを噛み締めてくれたことでしょう。私にとってもここは初めて。平和祈念資料館やひめゆりの塔にもジオラマや保存された壕はありましたが、それらは明かりに照らされ、時の流れにさらされ続けています。ですが、アブチラガマの闇は当時の闇を引きずっていました。だからこそ壕内に響く石嶺さんの話はとてもよく胸に染み入りましたし、私たちにはとても教えられない平和を愛する心命と、そのかけがえのなさを娘たちに伝えてやれたと思います。石嶺さんありがとうございました。

アブチラガマから外に出た時、陽光が私たちの目を射ます。死の闇から生の光へ。そのコントラストこそ、生の実感に他ならないのです。アブチラガマの真上は、通ってもそれと気づかない道路と畑です。そこに咲いていたハイビスカスがとても印象に残りました。

続いて、私たちが向かったのは、ひめゆりの塔です。昨年も私1人で訪れました。が、今回も外すわけにはいきません。こんにちは沖縄の平和学習の一環で娘たちを連れて行こうと思いました。ところが、肝心の次女が車内で寝てしまいました。だからひめゆりの塔へ伺ったのは私と妻と長女だけ。去年、私は一人で訪れじっくりと見ました。なので私自身にとっての新たな発見はありません。ですが、今回はレクイエムホールに備え付けられた体験談のかなりに目を通しました。ここは何度訪れても厳粛な気持ちになってしまいます。前回は私1人でしたが、今回は娘と一緒なので、娘がどう考えているのか、平和の大切さを教えられます。

そしてひめゆりの塔の前にある優美堂でサーターアンダギーをおいしくほおばります。沖縄の料理と食事の豊かさと、そこに込められた平和の大切さを噛み締めながら、ひめゆりの塔を後にしました。もう一カ所、平和祈念公園にも行きたかったのですが、今回は寄る時間がありません。昨年は、私1人が訪れましたが、ここも見せたかった。特に、放映される米兵が撮影した動画は強い印象を残しています。海に浮かぶ幼児の死体。それが波に漂いつつ、当てどなく永久に口を閉ざしうつろな顔をさらしている。それはまさに衝撃でした。他にも無残な集団自決の遺体が動画で映し出されます。そうしたショッキングな動画は、私たちが享受する平和の価値を雄弁に語ります。そして、今の生の大切さも。

私たちは平和の大切さの余韻を感じつつ、那覇へと向かいます。今回、私たちが泊まるのは、ホテルグレイスリー那覇。妻が昨年、泊まって良かったと言い、私も一人で泊まりました。そこは沖縄の国際通りのまさにど真ん中。とても良いロケーション。そこにチェックインした私たちは早速、国際通りへと繰り出します。

あるいは娘たちにとって、沖縄とは陰惨な戦場の過去より、国際通りのエキゾチックな異国情緒の今こそが大事なのかもしれません。それもいいでしょう。あれこれ言うつもりはありません。そう言う私も泡盛の名店には舌なめずりなのですから。

私たちが今回訪れたのは、妻が家族と行きたいと言っていた居酒屋です。ところが場所と名前を忘れたらしく、私たちが入ったのは「波照間」と言うお店でした。ここで後ほどの時間を予約し、続けて国際通りを散策します。去年は大雨の中を歩き回ったので、泡盛のお店を訪れるだけで精一杯でした。今回は国際通りの賑わいと広がりを感じながら歩き回りました。家族で訪れる観光。これはこれで悪くありません。

さて波照間に戻ってきました。この波照間は沖縄民謡のライブがあります。実はここは妻の意中の店ではなかったようですが、私たちは焼酎や泡盛そして沖縄の名物に舌鼓を打ちながら、最後に沖縄民謡のサービスを楽しみました。琉球衣装に身を包んだ男性1人と女性2人による3人のショウ。とても風情があります。特に男性の方の顔は、私の知る大学の後輩にそっくり。女性も琉球風に結った髪が沖縄情緒を体現しており、とても美しかった。(ところがこの翌々日、お店に入ろうとするお二人の姿を国際通りで見かけました。完全に洋装でした。)

さて、食事を堪能した私たちは、さらに国際通りをのんびりと歩き回ります。妻や娘たちは沖縄の産物を。私はもっぱら泡盛巡り。そして存分に国際通りを堪能した後、私たちは宿へと戻りました。しばらく宿の中で旅の疲れを癒やした後、私と妻とで再び街へと出ます。ボートレースアンテナショップ 沖縄・国際通り Double Deckerというお店でお会いしたのは妻のココデンタルクリニックの患者さん。沖縄から町田へと通ってきてくれているありがたい方。そこでしばらく軽いお酒を飲みながらおしゃべり。ついで、私たちは夫婦で「ぱいかじ」へ向かいます。ここも妻が行きたがっていた場所です。「ぱいかじ」でもライブが行われているようですが今回はライブはやっていませんでした。でも、料理はおいしく、酒もうまい。何杯も泡盛をいただきました。こうやって夫婦で沖縄でお酒が飲める幸せをかみしめつつ。

それはとても幸せなひとときでした。すべてのことに感謝。