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王とサーカス


当ブログで著者の作品を扱うのは、本作が四作品目となる。二番目に読んだ『さよなら妖精』は、ユーゴスラビアからきた少女マーヤの物語だった。語学留学で日本にやって来たマーヤが日本の文化に触れ、クラスの皆と交流を深める様子を描いた一編だった。とても幻想的で余韻の残る一編だ。皆に鮮烈な印象を与え、帰国していったマーヤ。その後も彼女を手助けしようと試みる主人公。それに対し、全ての事情を知ったうえで手助けをやめたほうがよいと助言する少女。その少女こそが、本作の主人公太刀洗万智だ。あとがきによると、太刀洗万智は著者の他の作品には登場していないそうだ。つまり、本書が二度目の登場ということ。

なお、本書の中に『さよなら妖精』を思い起こさせる描写はほぼ登場しない。57ページと133ページにそれがほのめかされてはいるが、『さよなら妖精』を読んでいない読者には全く意味をなさないはずだ。本書は安易な続編とは一線を画している。あとがきでも著者は『さよなら妖精』を読んでいなくてもよい、と述べている。

高校三年生だった万智を、10年以上の年月をへて著者の作品に再登板させた理由は何か。それはおそらく、二つの作品に共通するテーマがあるからだろう。そのテーマとは、日本から見た外国、外国から見た日本。そして著者にとってそのテーマを託せるのが、自らが創造した太刀洗万智だったという事だろう。『さよなら妖精』で彼女が得た経験の重みの大きさを物語っている。一人の女性が見聞きする外国と、彼女が知る外国から見た日本。それが本書にも、大きなテーマとして流れている。

日本から見た外国は、外国から見た日本とどう違うのか。一対一の関係でありながら、その伝わり方は全く違う。相手が遠く離れているうえに、間に挟むジャーナリストの紹介の仕方にも左右されるからだ。旅人が外国で受け取る印象はリアルだ。それでいて、現地の人でなければわからないこともある。しょせん旅人であるうちは表面的な理解しかできない。ましてや現地の人が行ったことのない日本に対して持つ知識など、さらに実態からかけ離れているに違いない。

本来、それを仲立ちするのはマスメディアによる報道だ。つまりジャーナリズム。見たことも行ったこともない異国を理解するには、ジャーナリストの力を借りなければならない。ジャーナリストは自国の情報を携えたまま、異国で情報を収集する。それは個人が内面で受け取るやり方に依存する。そして、そのジャーナリストが書いた記事は、マスメディアに乗る。不特定多数の読者に対して一方向でまとめて発信される。そこには一対一の関係はない。不特定多数の読者が記事をどう読むかはまちまちなので、さらに一対一の関係とは程遠い情報の伝達がされる。だからジャーナリストは、大勢の受けてに等しく伝わるような発信の仕方を心がけるのだ。

本書が追求するのはジャーナリストのあり方だ。ジャーナリストとは何を伝えるべきなのか、もしくは何を伝えてはならないのか。記事の中で取り上げられる取材対象の意図をどこまで汲み取るべきなのか。そのような心構えは駆け出しのジャーナリストなら誰もが叩き込まれているはず。ただし今ではそうした心得も怪しくなってきた。1980年代に写真週刊誌が行き過ぎた取材をしたことによって、ジャーナリストが持つべき心構えがそもそも受け継がれていない、という疑問が世間に生じ始めたからだ。さらにインターネットによって情報の流通のあり方が変わった。今は素人のジャーナリストがSNS界隈に無数に湧いている。そしてはびこっている。もはやジャーナリズムとは有名無実に成り果てているのだ。ジャーナリストの心構えを遵守するのがプロのジャーナリストだけであったとしても、世にあふれるツイートやウォールや記事の前ではジャーナリズムなどないに等しい。

女子高生が自分の自殺をツイキャスで放映したり、自殺原場で居合わせた人がその様子をカメラに収める。そしてそれをネット上に流す。今は素人でも即席のジャーナリストになれる時代。その流れは誰にも止められない。

だからといって、ジャーナリズムのあり方をこのまま貶めておいて良いのだろうか。誰もがジャーナリストになれる時代の宿命として諦めたほうがよいのか。いや、報道のあり方と、ジャーナリストとしての心構えが有効であることに変わりはないはず。報道する側と報道される側。その構図は、文明が違っても、技術が進んでも変わらないはずだから。

著者が本書を著したのも、あとがきで少し触れているとおり、知る欲求についてひっかかりを覚えたからだという。つまり、ジャーナリズムについて思うところがあったからだろう。著者はその舞台としてネパールを選んだ。ネパールとは中印国境に位置する国だ。歴史的にも中国とインドの緩衝国としての役割を担っており、今もその影響で軋轢が絶えない。近くのブータンが国民総幸福量という政府による独自の指標を発表しているのとは大違いだ。ネパールの物騒な情勢を象徴する事件。それこそが、本書で取り上げられるネパール王族殺害事件だ。国王夫妻や皇太子を始め、十名もの王族が殺害された事件。公式には、結婚に反対された皇太子が 泥酔して銃を乱射し、挙句の果てに自殺したことになっている。しかし、陰謀説がまことしやかにささやかれているのも事実だ。それはネパールが引き受けて来た緩衝国としての葛藤と無関係ではない。

太刀洗万智はフリーのジャーナリストとして、アジア旅行の特集を取材するためにネパールへとやってきた。そして、ネパールの激動に遭遇する。王族がほぼ殺される。その事件がネパールに与えた影響の大きさは、日本で同じようなことが起こったと仮定するだけで想像できるだろう。宮殿前広場に群がり、怒号をあげる群衆たち。ネパール全体が動揺し、不穏な空気に包まれる中、太刀洗万智は一連の出来事をフリーのジャーナリストとして報道しなければならないとの使命感に囚われる。

彼女はネパールをさまよう中、少しずつ人脈を増やす。その中で得た一つのつてがラジェスワル准尉にたどり着く。ラジェスワルは惨劇の当日、王宮で警備についていた。つまり事件を目撃した可能性が高い。だが、会ったラジェスワルからは、にべもなく拒絶される。そればかりか、ジャーナリストとしての存在意義をラジェスワルから問われる。彼はこう語る。「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。意表を衝くようなものであれば、なお申し分ない。恐ろしい映像を見たり、記事を読んだりした者は言うだろう。考えさせられた、と。そういう娯楽なのだ。それがわかっていたのに、私は既に過ちを犯した。繰り返しはしない」(p175-176)。彼女はそれを突きつけられ、何も言い返せない。ラジェスワルの「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」(P176)「だが私は、この国をサーカスにするつもりはないのだ。もう二度と」(P177)という言葉が彼から発せられた止めとなる。

このラジェスワルのセリフが本書のタイトルに対応していることは言うまでもない。このやり取りこそ、本書の肝となっている。

しかし、太刀洗万智がラジェスワルに答えを述べる機会は失われる。ラジェスワルが死体で発見されたからだ。彼女はその死体も目撃する。死体に「INFORMER」と刻まれた死体。つまり密告者。隠密裏に会っていたはずなのにラジェスワルは密告者として殺されたのだ。彼女もラジェスワル殺害の関係者として、取調を受ける。

ネパールに居合わせたジャーナリストとしてルポルタージュの依頼を受けた太刀洗万智は、ラジェスワルの死の謎を解きながら、ジャーナリストとしての在り方を見いだそうと苦悩する。苦悩しつつ、取材を続ける。

彼女は結局、ジャーナリストとしての自らをもう一度見つけ出す。本書の謎解きにはあまり関係ないので書いてしまうと「「ここがどういう場所なのか、わたしがいるのはどういう場所なのか、明らかにしたい」BBCが伝え、CNNが伝え、NHKが伝えてなお、わたしが書く意味はそこにある。」(403P)という結論を得る。

そして、彼女はラジェスワルの死体に刻まれたINFORMERという文字は記事にも起こさず、撮った写真も載せない。それは彼女がラジェスワルから学んだジャーナリストとしてのあり方に背くからだ。伝えることと伝えるべきことに一線を引く。それは伝える側にあるものとして最低限守るべき矜持。

あとがきで著者は、私たちが毎日むさぼっている「知るという快楽」への小さな引っかかりについて書いている。まさにそうだ。本書が教えてくれるのは、知ることへの問いかけ。情報が氾濫している今、知る快楽は無尽蔵に満たせる。そしてそこから得た気づきや考えを披露したいという欲求。それを満たす場も機会もありあまるほど与えられている。私もそう。知識をむさぼることに中毒になっている。日夜を問わず常に情報を得ていないと、落ち着かない。本は二、三冊携帯していることは当たり前。それに加えてパソコン、スマホ、タブレットも持ち歩いている。知識をため込みつつ、日々のネタをSNSに発信している。にわかのジャーナリストこそ、私だ。

私は多分、これからも情報に囲まれ、情報を咀嚼し、情報を発信しながら生きていくことだろう。それはもう私の性分であり病だ。死ぬまで止められそうにない。だからこそ、発信すべき情報については、気をつけねばならないと思う。SNSを始めた当初から、発信する情報は他人に迷惑をかけないよう絞ってきたつもりだ。だが、これからもそうでありたい。そして素人ではあるけれど、プロのジャーナリストと同じく自分が書いたものには責任を持つ。そのために実名発信を貫くことも曲げない。にわかのジャーナリストであっても、すたれつつあるジャーナリズムをほんの一部でも伝えていきたいし、そうできれば本望だ。

著者がミステリーの分野で有名だから、本書もきっとエンターテインメントのカテゴリで読まれることだろう。だが、本書がそのために遠ざけられるとしたら惜しい。本書が問いかけるテーマとはより広く、もっと深い奥行きを持っているのだから。何らかの発信を行っている人にとって、本書から得られるものは多いはず。

‘2017/10/09-2017/10/16


ギッシング短編集


19世紀に書かれた小説を読むと、ぎこちない場面転換や心理描写に戸惑うことが多い。現代の我々は、洗練された語りに恵まれて過ぎていて、19世紀の小説が回りくどく思えるのは仕方のないことかもしれない。偉大なるディケンズの長編小説であっても、冗長な記述に読む気を失うこともしばしばある。

著者は、その時期の英国で名を馳せた作家である。短編集である本書で初めて著者の名と作品に触れることができた。本書の語りは簡潔であり、冗長とは無縁の素朴な味わいである。名品そろいの短編集といってもよいだろう。

著者が活躍したのはビクトリア女王の治下、繁栄を極めた大英帝国の絶頂期。その繁栄の下で、貧民や中産階級の庶民が多数いたことは良く知られている。本書に登場するのは中産階級の人々。彼らが主役となる物語が多くを占める。彼らは慎ましく、素朴で質素でいて愚か。それでいて、絶対王政の軛から逃れた近代市民としての自己意識を持ち、産業革命のもたらした繁栄に浮かされている。本書では時代に翻弄され、自分の人生を生きようと努力する人々の姿が各短編に活写され、当時の時代感が良く読み取れる。

とくに冒頭の「境遇の犠牲者」は、その時代感が良く読み取れた一編として、強い印象を受けた。プライドの高く絵に才能のない絵描きと、腰が低く絵の才に溢れた細君の話。ある日夫婦のアトリエにやって来た高名な画家が持ち帰った絵が画壇で評判を呼び、売れっ子となるのだが、その絵は亭主の筆ではなく、細君の手習いの絵。以降、評判になるのは細君の絵だけで、それを亭主の絵として売り続ける。プライドゆえにその事実を認めない亭主と、実直に絵を描いては亭主の手柄にし続ける細君。やがて細君はそのプレッシャーから筆を折り、亭主のために尽くす人生を選ぶ。細君が世を去り、絵の先生として余生を送る亭主は、私は生活のために絵描きの道を諦めた「境遇の犠牲者」だ、と独白する。

まだ男女同権の風潮芽吹く前の、自己意識だけが高い哀れな男と自己の価値に気付かず男に尽くすだけの女の生涯が素朴な筆致で描かれている。

他にも本書には「ルーとリズ」「詩人の旅行かばん」「治安判事と浮浪者」「塔の明かり」「くすり指」「バンブルビー」「クリストファーソン」といった諸編が並べられているが、いずれも近代の自己意識に目覚め始めた人々の挿話である。本書には日々の糧のためだけに生きる人々は登場しない。本書に登場するのは、ようやく自分の余暇を持てる時代にあって、その余暇を持て余す人々である。彼らは余暇とどう付き合えばよいか分からず、実直な生活に回帰したり、人生に迷ったりする。素朴だった人々が余暇を得て、それを持て余す時代の転換期の雰囲気が良く出ている。

本書の語りは素朴である。素朴であるがゆえに、物事の本質をつかんでいるといえる。それはIT化の進んだ現代の我々が、生きることに対する不安の本質でもある。この時代の人々が余暇を得て持て余したように、ITによって便利になる一方の日々の営みの中、自分の存在意義を持て余すことにも通じる。19世紀の作とはいえ、読み方によっては今の我々にも得るところが多いのが本書だと思う。19世紀の著名な作家だけでなく、本書のように埋もれつつある諸作の中にも忘れ去るには惜しい本がある。そんなことを思った。

‘2014/10/22-10/24


ジュリアス・シーザー


私にとって最も大きな2013年の読書体験は、塩野七生著のローマ人の物語全巻読破である。そのシリーズでももっとも大きく取り上げられていたのがこの人物。世界史を語る上でも欠かせないのがジュリアス・シーザーである。ジュリアス・シーザーについてはシリーズ内でも様々な観点から分析が加えられた。その分析は、当時の文献や立像、金貨からのみに止まらない。後世の作家が描いたシーザー像から遡っての分析にまで至り、塩野氏の関心の高さが見える。

本書はその後世の作家が描いたシーザー像である。後世の作家と言っても、その作家自体が歴史に名を残す人物である。歴史に題材を採った本書が、さらに後世から、その書かれた時代を解くための題材となっている。ウィリアム・シェークスピアに採り上げられたジュリアス・シーザーは、どのような人物なのであろうか。

そんな期待を背負って読み始めた本書であるが、実はジュリアス・シーザーはそれほど出番がない。では誰が主役なのか。それは、ブルータスを始めとしたジュリアス・シーザー暗殺実行犯達である。本書は、実行犯達の暗殺後の内幕を描く群像劇である。

それぞれが各々の思惑をもってジュリアス・シーザー暗殺に及ぶ。しかし、暗殺後のことを考えていないため、有効な対策が打てない。そればかりか、暗殺の正当性を訴える場で、アントニーの演説によって巧みに民衆の怒りの矛先を変えられてしまい、一転して追われる身となる。

アントニーの演説のシーンが本書のクライマックスであることに異論はないだろう。演説によって場面で民衆の空気が変わっていく様をどうやって舞台上に表現するか。演出家にとって格好の見せ場であることは間違いない。私はまだ本作の舞台上で観たことがないが、是非見てみたい気がする。

しかし、何故何百年もの間、本作が読み継がれ、演じられ続けてきたのか。理由はアントニー演説の場以外にもある気がする。

例えばブルータスが暗殺派に与する決断に逡巡する場面か。それとも最後の敗れ去り、敗者となって死んでいく場面か。

いや、そうではない。私が思うに、それは舞台から早々に去った人物の存在ではないだろうか。その人こそジュリアス・シーザー。彼が舞台上に居ないにもかかわらず、彼の存在に恐れおののき、右往左往する暗殺者たち。不在であればあるほどその穴は彼らの足元で大きく口を開ける。そして民衆は不在であればこそ、失った輝きの後に引く闇に気づく。

不在であるがゆえにその不在の大きさを知らしめる。世界史上にジュリアス・シーザーの名を膾炙させたのも本作が大きな役割を果たしていることだろう。中世にあって、そのような見事な創作上の手法を作り上げたからこそ、本作が演じ継がれ、読まれ続けてきたのではないかと思う。

’14/04/14-’14/04/16