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ミスター・メルセデス 下


下巻は上巻からの承前で「毒餌」の章で始まる。ホッジズの友人ロビンスンの捜査を妨害しようと、ブレイディはロビンスン家の犬を毒殺しようとくわだてる。ところがその毒餌を、ブレイディの同居する母アンが誤って口にしてしまう。泡を吹いて死んでゆく母。これをみた時、ブレイディからタガが外れる。善良な市民という名のタガが。

ただでさえ、ホッジズとの息迫るやりとりでささくれ立ち高ぶっているブレイディの精神。すでに暴走し始めていた彼の心の崩壊は、母の死によってますます拍車がかかる。身から出た錆、という言葉はブレイディはこれっぽっちも届かない。「青いデビーの傘の下」のメッセージにホッジズを殺すと宣言し、ホッジズの車に爆弾を仕掛ける。ところが車が爆発した時、ホッジズの車を運転していたのはジャネル・パタースン。ホッジズがメルセデスを調査する中で知り合い、恋仲になったミセス・トレローニーの妹だ。恋人を殺されたホッジズの怒りは頂点に達し、二人の戦いは誰にも止められない段階に突入する。この戦いは「死者への電話」の章で著者の培ってきたスキルのすべてを費やして描かれる。

本書には登場人物がそれほど多くない。少なくとも著者の今までの大作よりは控えめだ。そして、ホッジズとブレイディの対決が大きな構成となっている。なので物語の視点は二人の行動に合わせて動く。二人のすぐ上から見下ろす神の視点だ。視点も限定され、視野も広くない。ホッジズとブレイディの戦いに迫った描写が主になる。だから読者は存分に二人の戦いを堪能できる。

ホッジズは、メルセデス・キラーがどうやってミセス・トレローニーのメルセデスのキーを開けたかを突き止める。そしてメルセデス・キラーがブレイディ・ハーツフィールドであることも突き止めてしまう。

荒ぶるブレイディの次なるたくらみ。それをホッジズがどう食い止めるのか。一気に物語はクライマックスに向かう。「キス・オン・ザ・ミットウェイ」で描かれるクラスマックスへの流れは著者が得意とするところだ。著者の熟練のストーリーテリングを読者は存分に堪能できる。この章は、著者が今までに発表して来たホラーの骨法をいかし、従来の筆さばきのまま、のびのびと書ける。この章の流れは、過去に著者が出してきた幾多の名作を思い出させる。そしてミステリーである以上、超常現象も不要だ。

それどころか、著者はスタイルを変える必要もない。なぜならここまで本書を読んで来た読者は、すでに本書がミステリーであると了解しているからだ。だからこの章が今までの著者の作品を思い出させたとしても、ミステリーとして違和感なく読める。追い詰められ、自暴自棄になった犯罪者と、猟犬のような探偵の知恵比べ。そこには善と悪の対立が明確に描かれている。

断章として置かれた「公式声明」は本書のミステリーとしての締めだ。ここで著者はミステリーとしての作法にのっとっている。いったん本書をミステリーとして終わらせた後、著者は本書の結末を読者が予想する方向から少しずらす。カタルシスでもカタストロフィでもない結末へと。その結末は本書の続編を予感させる。そして実際、本書には続編が用意されている。本書の結末も、続編以降と密接につながるはずだ。

そこで著者は、ほんの少しだけ著者の得意とするジャンルに読者を誘い込む。もちろん、ミステリーの枠組みを大きく外れない程度に。ミステリーとしての本書が締められた後、エピローグで描かれるのが「ブルー・メルセデス」だ。

本書は見事なまでにミステリーとして完結している。そればかりか、続編としての色っ気を放ちつつ、著者の従来のホラー路線のファンにもサービス精神を発揮している。「ミステリーを書いたけど、ホラーもまだまだ書くよ」と。だが、そのようなサービス精神を断章に挟み、続編に色気を出すにせよ、ミステリーとしての結構が素晴らしいことが第一だ。そこがきちんと描かれていること。ロジックやプロットがかっちりしており、読者のイマジネーションをホッジズとブレイディの対決に向かせたこと。それが本書をミステリーとして成り立たせている。
だからこそ、本書はエドガー賞を受賞できたのではないか。

本書はすでに続編とさらに続々編まで出ているという。近いうちに読もうと思う。

‘2017/08/10-2017/08/11


ミスター・メルセデス 上


著者と言えばモダン・ホラーの帝王。私は著者の作品のほとんどを読んできた。そして私の意見だが、著者はホラーに関わらず現代で最高の作家の一人だと思っている。例えば『IT』は読んでいて本気で鳥肌が立った。映画のような映像のイメージに頼らず、文章だけでこれほどの怖さを読者に届けられる。著者の腕前はもはやただ事ではない。

そして本書は、著者が初めて本格的なミステリーに挑んだ一作だ。信じられないことに、はじめて本格的に手掛けたミステリーがいきなりアメリカのミステリーの最高賞であるエドガー賞の長編部門を受賞してしまった。まさにすさまじいとしか言いようがない。

本書は著者にとって初の本格的なミステリーと銘打たれてはいるが、ここ数年の著者の作品にはミステリーの要素が明らかに感じられていた。作品を読みながら、ミステリーの要素が増していることは感じていた。いずれ著者はミステリーにも進出するのではないか。そんな気がしていた。そして満を持して登場したのが本書。当然のことながら抜群に面白い。

ただ、言っておかなければならないのは、本書がミステリーだからといって著者のスタイルが全く変わっていないことだ。たとえば冒頭。早朝から市民センターに列を作り、合同就職フェアの開場を並んで待つ人々。眠いながらも職を求めることに必死な人々の様子を著者は熟練の筆致で書き分ける。細かく、しかもくどくなく。たくさんの登場人物を書き分け、血の通った人物として肉付けする著者の腕は今までの作品の数々で目の当たりにしてきた。本作にもブレはない。まさに安定の筆さばき。プロローグにあたる「グレイのメルセデス」で見せる著者の腕は、ホラーの巨匠として読者の顔を恐怖に引きつらせた今までと劣らず素晴らしい。たかだか10数ページのプロローグにおいてすら、すでに読者をひきつけることに成功している。ライトを煌々と照らしながら列をなす人々に突っ込んでくるメルセデス・ベンツの強烈な恐ろしさ。人々の恐怖と絶望と呆然の刹那が描かれた出だしからしてページを繰る手が止まらない。

続いての「退職刑事」では、スミス&ウェッスンの三八口径のリボルバーを撫でつつ、人生を無気力に過ごすホッジズの姿が映し出される。彼は刑事を退職して半年たち、時間と暇を持て余している。ついでに人生も。退職後に失ってしまった生きがいを、永遠の眠りに変えて救ってくれるはずのリボルバー。その日を少しずつ先延ばししながら、テレビを無気力に眺めている。そんな日々を送っていたホッジズに一通の封書が届く。その送り主は、自分こそが市民センターで8人の市民が轢き殺した事件の犯人、メルセデス・キラーであると名乗っていた。そして手紙の中で己を捕まえられないまま警察を退職したホッジズをあざ笑い、挑発していた。

日々に倦みつつあったホッジズに届いた手紙。それは老いた刑事の心に火をともす。果たしてその手紙は、ホッジズは元同僚に渡すのか。そうするはずがない。ホッジズはまずじっくりと長文の手紙を検討する。文体や語句、活字に至るまで。そこから犯人の人物像を推測し、これが果たして真犯人によって書かれたものかどうかを考える。その知的な刺激はホッジズから自殺の欲望を消し飛ばす。そればかりか、現役の頃、自らを充実させていた猟犬の本能を呼び覚ました。

そしてすぐに登場するのがブレイディ・ハーツフィールド。のっけから犯人であることが示される彼は、犯人の立場で読者の前に現れる。そう、本書は刑事と犯人の両方による視点で描かれる。読者はホッジズとブレイディの知恵比べを楽しめるのだ。ブレイディは挑発的だが、知能も持っている。ホッジズとの駆け引きをしながら、善良な市民として町に溶け込んでいる人物として登場する。

ホッジズがどうやってブレイディに迫るのか。読者はその興味で次々とページをめくるはずだ。まず、ホッジズは元同僚に連絡し、調査を進める。そこで問題となるのは、どうやってブレイディはメルセデスを運転したのか、という謎だ。8人を轢き殺したメルセデスの持ち主はミセス・トレローニー。ところが彼女は絶対に鍵は施錠したし、自分が持っているマスターキーは紛失したこともないし、スペアキーは常に同じ場所に保管していると言い張る。ところがもしそれが事実だとすれば、メルセデス・キラーはメルセデスをどうやって運転したのか。できるはずがないのだ。そして今や、ミセス・トレローニーはこの世の人ではない。愛車が殺戮に使われた事実は彼女を自死に追いやるに十分だった。つまり、どうやってメルセデス・キラーは運転席に入り、人々の上に猛スピードで突っ込んだのかという謎を説くヒントはミセス・トレローニーからはもらえなくなったのだ。その謎を解くべきは刑事たち、そしてホッジズたち。

今までの著者の作品と本書を読み、大きく違う点。それは、「どう」物語が進むのかではなく、「なぜ」という視点を持ち込んだことだ。鍵はどうやって使われたのか。その謎こそが本書を王道のミステリーとして成り立たせている。ここにきて、読者は本書をミステリーとして読まねばならないことに気づく。ホラー作家のストーリーテリングに酔いしれている場合ではないぞ、と。これはいつものスティーヴン・キングとは一味違うぞ、と。そして本書は正当のミステリーとして読まれ始める。

続いての「デビーの青い傘の下で」では、ホッジズとメルセデス・キラーの間でメッセージが交換される。章の名前にもある「デビーの青い傘の下で」とはオンラインチャットの名称だ。メルセデス・キラーから送られてきた最初の手紙にIDが書かれており、メルセデス・キラーは大胆にもホッジズとの会話のパイプをつないできたのだ。そのオンラインチャットを通じて、ホッジズがメルセデス・キラーに連絡を取る。もちろん周到に準備を重ねた上で。ホッジズの狙いは一つ。いかにしてメルセデス・キラーを揺さぶり、日の光の下に引きずり出すか。そこに長年、猟犬として修羅場を潜ってきたホッジズの知恵のすべてが投入される。そしてホッジズとブレイディの間に駆け引きが始まる。この駆け引きこそ、本書の一番の魅力だ。ただでさえ登場人物の心を描き出し、さも現実の人物のように縦横無尽に操ることに長けた著者。そのスキルのすべてが宿敵の二人の会話に再現されるのだ。これが面白くならないはずがない。ディスプレイに描かれた文字を通し、元刑事と犯人が知恵のすべてをかけてぶつかり合う。ここが真に迫る描写だったからこそ、本書はエドガー賞を受賞したのだと思う。

ホッジズとブレイディの戦いは、続いての「毒餌」によって一層激しくなる。そして、感情をあらわにした駆け引きがブレイディの勝ち誇った心にほころびを生じさせる。正常に世の中を送っているように日々を繕っているが、彼の抱える異常性が少しずつあらわになってゆく。その結果がこの章の題となっている毒の餌だ。少しずつ二人の対決が核心に入り込んでいくところで本書は終わる。

著者の盛り上げ方の巧みさは相変わらずだ。一気に下巻に突入してしまうこと間違いなし。

‘2017/08/08-2017/08/09


少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


少年は残酷な弓を射る 上


本書は子をもつ親にこそ勧めたい。特に、難しい年齢の子をもつ親に。

子作りとはなんと罪作りな行いなのか。子育てとはなんて深淵で取り返しのつかない営みなのか。特に今のような中途半端に人間関係が希薄になり、中途半端に情報が流通している社会では、親が子を育てることはますます難しい。

子供を育てる。それは私がまさに日々直面する親としての現実だ。私も自分なりによき父であろうと努力して来たつもりだ。が、娘達からすれば物足りない点、欠けている点もあちこち目につくことだろう。とくに仕事の忙しさにかまけるのがもっともよろしくない。仕事に忙殺され、子どもをないがしろにすると、自らの子どもから手痛いしっぺ返しを食らう。これは私も経験済み。

親の一挙手一投足は、一刻一刻が取り返しの付かない影響を子供に与えている。良くも悪くも。本書を読むとその事実が重くのしかかってくる。重く歪んだ読後感を伴う本書だが、まぎれもない傑作だと思う。

本書は妻エヴァから夫フランクリンへの手紙に似た語りかけの形式をとる。離れた場所にいる夫への語りかけは、物語に定まった視点を生む。全てはエヴァの一人称で話が進んでゆく。近況を報告し、二人の間の過去の思い出を語るエヴァの語りを読み進めていくうちに、読者は二人の息子ケヴィンが大量殺人を犯した事実を知る。

冒頭からまもなくエヴァの語りは、少年院に面会に行き、ケヴィンと対峙する経緯に差しかかる。反省の色を浮かべるどころか、実の母を挑発するケヴィンとの一部始終を夫に語るエヴァ。事件後、二年たってもまだエヴァは事件の後始末に関わっている。本書は、事件が起こった後の混乱が収まった後もなお、自身の人生と子育ての日々を見つめ直そうとするエヴァの探求の旅だ。エヴァの胸につかえる思い 。彼女の胸を満たすのは、いったい何が悪かったのか、どこで間違えてしまったのか、との後悔。

本書の設定では、ケヴィンが大量殺戮を犯してすぐにコロンバイン高校の銃乱射事件が起こったことになっている。それはケヴィンの犯行が世間に与えた衝撃の度合いを薄めた。ケヴィンは憤る。コロンバイン高校で銃乱射を行った二人の少年が自分の行いを薄めたことに。そこには反省など微塵もない。そして、エヴァの求める答えも救いもない。それでもエヴァは、息子から逃げずに定期的に少年院に通う。そしてその様子を逐一フランクリンに報告する。

エヴァは夫に便りを書きながら、同時に自分へと問いかける。二人が出会ったころのなれそめから遡れば、その問いへの答えがわかるとでもいうように。

ロケーション・ハンティングを営み、家を留守にすることの多いフランクリンと、海外へ向かうトラベラー向けの出版社経営に没頭するエヴァ。結婚してからも二人の仲は熱く、子作りの必要など感じないくらい。だが、エヴァとフランクリンの温度差はある日臨界を迎え、衝動的に避妊せずにセックスする。高年齢での妊娠はリスク。そしてエヴァにとっては今まで築き上げたライフスタイルが失われる恐れを抱きながらの妊娠。この辺り、女性の女性が描く細やかな描写が読者にさまざまな思いを抱かせる。

なお、著者の名前がライオネルとなっている。が、著者は女性だ。著者自身の意思で男性の名に思えるライオネルに改名したそうだ。著者の紹介によると、著者には子がいないらしい。それにもかかわらず、子を持つ母の思いがリアルに描かれている。著書の想像力の豊かさが見てとれる。

エヴァの語りから感じられるのは、自分の感情と責任に正直でありたいという率直さだ。すでに殺人犯の母と汚名を被った以上、自分を飾る必要もないということだろう。エヴァの語りを追うと、他の母親並みに妊婦学級に参加したり、我が子との対面を待ち望む気持ちがあるかと思えば、全てがどこかで間違った方向に進んでいるのではないかとおののき惑う気持ちも描く。そんな正直な心境をエヴァは夫に向けてつづる。その率直さはケヴィン誕生の瞬間の気持ちにも現れる。その気持ちとは感動がないという驚き。

著者は本書をありきたりの母と子として描かない。ケヴィンが大量殺戮に走った理由が今までの歩みのどこかに潜んでいなくてはならない。エヴァは、その原因を思い出すために当時の自分に向き合う。

子を持つことに積極的でないエヴァとそんな母の元に生まれたケヴィン。受胎の瞬間から破局は始まっていたかのようにエヴァの語りはケヴィンが誕生してからの日々を描き出す。母乳に興味を持たずひたすら泣きわめくケヴィンとそれを持て余すエヴァ。エヴァも愚かではない。ヒステリックに怒鳴り散らしたい気持ちを抑え、良き母であろうと努力する。だが、そんなエヴァをあざ笑うかのように、ケヴィンは父フランクリンの前では良き幼子として振る舞う。

以後、上巻では、ケヴィンとエヴァの緊張をはらんだ関係と、無邪気にケヴィンに騙され続ける父フランクリンの関係が描かれる。成長するにつれ行動に不穏な気配を帯びてゆくケヴィンに恐れを抱きながら母を演じようとするエヴァと、最初から自分が理想の父を演じていることに一瞬たりとも疑いを挟まないフランクリン。二人の夫婦としての温度にも微妙な差が生じ始める。

おそろしいのは、三人の関係だけではない。この展開を自然にグイグイ読ませる著者の力量も恐ろしい。本書がケヴィンの起こした破局に向かって突き進んでゆくことは予想できるのだが、それがどういう方向に向かうのか読者はわからぬままだ。わかっているのはケヴィンの起こした事件が重大であり、大勢を殺傷したこと。それ以外は詳細が語られぬまま物語が進んでゆく。読者は、スリリングな気持ちと不気味さを同時に味わうことになる。上巻も終わりを迎える頃には、夫婦が事態を打開するためシーリアという娘ももうける。シーリアはケヴィンと違って全く手のかからない天使のような娘。それが物語に一層の波乱の予感を与えつつ、本書は、下巻へと向かう。

‘2017/04/12-2017/04/15