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ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09


マスカレード・ホテル


またまた著者の傑作が誕生した。一読してそう思った。

連続殺人事件。被害者には犯人からのメッセージが。そこから類推される次の犯罪現場はコルテシア東京。東京屈指の一流ホテルとされている。犯人も被害者も分からぬ中、捜査員をホテルスタッフとして従事させることで犯罪を未然に防ごうと警視庁はホテル側に提案する。

ホテル側もその提案を呑み、各持場に数名の捜査員が配属される。そんな中、新田警部補はフロントクラークに配属される。ホテル側の担当は山岸尚美。彼女は凄腕のフロントクラークであり、仮とはいえ新田はホテルマンとしての立ち居振舞いから対応までびしびししごかれる。抵抗する新田に、そんな人がフロントにいたら、犯人にはすぐ刑事だとばれるはずだと一蹴する山岸。

本編に充ちているのは、ホテルマンとしてのプライドと矜持だ。お客様に対し節度を持って臨機応変に対応する判断力。どうやってお客様に不快な思いをさせず快適に過ごして頂くか。その一点に向け、最大限の努力を払うホテルマンの描写は、我々一般人にとって圧倒されるものだ。私もかつてホテルの配膳を2年やっていた。宴会の裏側についても多少は知っている。それでも本書で描かれたフロントクラークのプロ意識や配慮の数々には、強い印象を受けた。

人を疑うことが仕事の警察と、お客様に対するサービスが仕事のホテルマンが随所で火花を散らす。そして、 火花をちらすのは刑事とホテルマンだけではない。ホテルマンとお客様の間にも摩擦は存在する。

ホテルマンとしての新田に執拗に難癖をつける栗原。山岸を指名する盲目の老婦人片桐。さらには他のお客様。ホテルには様々なお客様が来訪する。お客様相手の仕事を多数こなしていくうちに、急造ホテルマンの新田はホテルマンの仕事に対する敬意を抱くようになる。それはほかならぬ山岸への敬意にもつながる。山岸もまた、栗原に対する新田の対応を見るにつけ、新田のプロ意識に対する敬意を持つようになる。本書で描かれるプロ意識は、読後にも強い印象となって残るはずだ。

新田は悪が行われることを食い止めるため、ホテルマンに専念する。その一方で、連続殺人の最初の現場となった品川署の能勢刑事と連携する。連携しながら、組織の論理にも板挟みになりつつ、捜査を進める。新田の焦りが山岸のプロ意識と火花を散らす下りは、本書の読みどころだろう。しかし、それだけでは疲れてしまう。そこに割り込むのが、能勢刑事の存在だ。茫洋として一見すると頼りない能勢刑事。しかし能勢の腰の低さと粘り腰、そして人当たりの柔らかさが、ぎすぎすしがちな新田と山岸の関係のクッションとなる。ここらの人物配置の巧さはさすがといえる。

果たして連続殺人の犯人は誰なのか。そして被害者は誰なのか。その真相は深く、実に鮮やかなものである。マスカレード・ホテルという本書の題名は伊達ではない。一見折り目正しく華やかなホテルにあって、登場人物のほとんどがマスカレード=仮面を被っているのだから。

本書が素晴らしいのは、ホテルマンと刑事の価値観の衝突を描くだけに留まらなかったことにある。価値観の衝突の単なる添え物として事件があったのでは、事件の謎が解かれた後の余韻は薄れてしまう。少なくとも読後、プロ意識への考えは深まるかもしれないが、読後のカタルシスは薄いままだ。仮面が暴かれた時、事件の真相も暴かれる。本書の骨幹を成す事件の動機や手口が鮮やかであればあるほど、本書の読後にプロ意識に対する尊敬の念と、良質のサスペンスを読んだ後の喜びが相乗して効果を生む。推理小説とは謎が解かれる経緯を楽しみ、驚くのが本分のはずだ。本書はプロ意識の衝突を主題に書きながらも、推理小説としての王道を外していないことが素晴らしい。

本書は著者の傑作のひとつに間違いなく加えられると思う。

‘2015/03/26-2015/03/27