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アクアビット航海記 vol.46〜航海記 その30


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防に巻き込まれてゆく自分。鍛えられました。

誕生と死と転職の2003年


さて、久々に家の話題に戻りたいと思います。
本連載の第三十七回第三十八回第三十九回で書いた、私たち家族が住んでいた広すぎる家と重すぎる圧。その家をどうやって処分したか。
その経緯を今回と次回とその次までかけて書こうと思います。

2003年の7月に職を変えた事は本連載の前回前々回で書きました。
それによってわが家から相模原市の職場までは、自転車でも通えるほどの近さになりました。

職住近接が実現できたことは、私に家を処分するための時間を与えてくれました。そろそろ四年にわたって重荷となっていた家の処分に向け、動き出す時です。

ただし、2003年はまだ家の問題に取り組むには時期が熟していませんでした。私にとっての2003年は、転職の他にもさまざまな出来事がありました。
2002年の年末(12/29)より、山下さんに裏の家に防犯もかねて住み始めてもらったことは本連載の三十九回でも触れました。

明けて2003年。次女が生まれたのはこの年の10月4日、天使の日でした。その一方、次女が生まれる二カ月ほど前には、父方の祖父が亡くなりました。兵庫の明石で営まれた通夜と告別式にも出席しました。また、次女が生まれた日は、母方の祖母の告別式に重なりました。もちろん、私が福井まで参列することは叶いませんでした。

転職と誕生と逝去。慌ただしい2003年でした
当時、私は30歳になったばかりでした。それまでの人生で人の死に直面した経験は持っていました。
大学二回生、20歳の頃に友人がアルバイトの帰りに過労で亡くなりました。その友人とは一緒に自動車教習所に入学しに行った仲です。お骨拾いにも参加させてもらい、つまんだ箸の先の軽さに友人の死を痛感しました。また、同じ年の秋には、友人の女の子が脳腫瘍でなくなりました。彼女が亡くなる前日、明石の兵庫県立がんセンターの緊急治療室でみた、管につながれたその子の姿は私に失神するほどの衝撃を与えました。

その時に味わった死の実感から10年。その節目に経験した娘の誕生と祖父母の死。それは、私に人生の両極端を教えてくれました。そして私にあらためて人生のはかなさと有限を突きつけました。

ただ、この時の私はそのような感慨をただ持て余すだけでした。
ゆとりはありません。もちろん、発想も勇気も実力も機会もありません。次女が生まれ、転職することだけで手一杯でした。そもそも家が片付いていない以上、身動きは取れません。

熾烈な交渉の始まり


そんな年に家の処分について動きがありました。
前年末に妻が次女を妊娠したこともあって、地主の家に地代の払い込みに訪れたのは五月の連休明けのある日でした。
支払が遅れたことをもって、地主はわが家から経済的なゆとりが失われつつあることを察したのでしょう。そして、頃やよしと思ったのでしょう。地主から今後の借地権の行方について考えたいとの提案が切り出されたのはこの時でした。

それまでは毎年末に私が一人で支払いに行っていました。そして、その度に世間話をのんびりして、帰っていました。
私も交渉を本格的に進めるタイミングを見計らっていました。そろそろ舵を切らねばと思っていました。そのため、地主から話を切り出してくれたのは好都合でした。それまでの四年間、話を切り出させるまで我慢したかいがありました。
2003年の年末。地代275万円を収めに行きました。その時は五月に地主から家の話を切り出されていたこともあり、私も地主も借地権を含めた家の処分について、遠慮なく意見交換を進めました。

強大な地主の壁

もちろん、お互いが相手の出方を見ながらの駆け引きです。
妻が祖母からもらった遺産が地代の支払いに費やされていることや、その遺産も含め、家からお金が尽きかけていることは、私もおくびにも出しません。
ひょっとすれば、こちらの事情など地主が興信所などを使って調べていたのかもしれません。私がシラを切ろうとも。

私がたった一人で対峙する地主。その方は、町田近辺の不動産業界で知らぬ人はモグリといわれるほどの方。やり手の凄腕地主として、町田駅近辺にいくつも土地を所有していました。
一見、穏やかな印象を与える顔貌。しかしその裏には老獪さが潜んでいます。私の父親と同じぐらいの年齢です。そしてその目からときおり放たれる眼光の鋭さ。まさに海千山千。百戦錬磨とはこういう人を指すのでしょう。
世間話をしていたかと思えば、いつの間にか家の話題に踏み込んできます。油断させておいて、いきなり直球を投げ込んでくる交渉術は変幻、そして自在。
人生の修羅場を切り抜けてきたであろう人物と一対一。その眼光に負けぬよう、目をそらさず話を聞き、応じ、話をし続ける。それは一瞬も気の抜けないギリギリの果たし合いのようなものでした

当時の私が交渉術など知るはずもありません。
話の主導権を握るスキル。話のつなぎ方。話の切り出し方。話の緩急。経験の全てが不足していました。それまでの人生で交渉など未経験なのだから当たり前です。
ブラック企業にいる頃、毎晩何十件もの見知らぬお宅に突撃訪問を繰り返していました。それは、今から思えば交渉とは呼べません。交渉とはそもそも双方が対等であるべきもの。訪問した私は、訪問されたお宅にとっては警戒の対象でしかありません。対等とは程遠い立場でした。
パソナソフトバンクにいる頃は、双方が対等の立場で参加する商談に何度か参加させてもらいました。それとて、数回を除けば私は商談の場の主役ではなく単なる添え物。ただついて行った人に過ぎません。

この地主こそが、私のそれまでの三十年の人生に立ちふさがった初めての、そして強大な壁でした。
ブラック企業にいた頃、私を丸刈りにし、皆の前でクビ宣告をした営業所長も私にとっては壁でした。
ですが、今になって思えばこの時に私の前に立ちふさがっていた壁は営業所長ではなく私自身でした。しかも、三カ月でクビになり、壁を乗り越える前に私が砕け散りました。
しかし、地主との交渉に当たっては砕け散る選択肢はありません。背を向けることも許されません
私が砕け散る時。それは家族が分解するときです。離婚は当然。関東にはいられなくなった私は、関西の実家に逃げ戻るしか道がなかったはずです。
そして、借地権が妻と義父に設定されている限り、私が逃げようとその借地権は引き続き妻と義父と娘を苦しめ続けるはずです。当時の私は何が何でもこの壁を乗り越える必要がありました。

ここで私が地主から逃げていたら、私の人生に計り知れないダメージを与えていたことでしょう。逃げや玉砕までは行かなかったとしても、壁を乗り越えられなかった自分を負け犬と感じ、今の私はなかったことでしょう。
ブラック起業の朝会で衆人の中でクビを宣告されました。皆の前で丸刈りにもされました。その屈辱や雪辱を果たせぬまま、今まで馬齢を重ねていたと思います。
多分、今の家にも住んでいないでしょう。多分、起業もできていないはず。家族も持たぬまま、孤独でい続けたかもしれません。なにより、私自身が自分を失っていたはずです。

当時の私にとって強大すぎる壁であったこの地主。
今となって思うのですが、この地主は私の成長に欠かせぬ人物でした。そのように感謝の念すら抱いています。
この後の本連載でも書きますが、地主とのタフな交渉をへて、私は相当に鍛えられました。

住んでいる家を処分するには、新たな家を確保する必要があります。
どこに住むのか。予算は。職場は。どれもが揺るがせにできない大きな問題でした。

2004年の松の内が明けて早々、地主から候補となる家が記されたFAXを受け取ります。
いよいよ、一年五カ月にわたる家探しの日々の始まりです。

次回は家探しの日々、そして地主や町田市との熾烈な交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版


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本書はその重厚な分厚さと、壇上にあぐらをかいて語る著者の風貌が目につく。本屋や書評でも見かけ、読みたいと思っていた。
そこで47歳の誕生日の自分へのプレゼントとして妻に買ってもらった。

47歳。あと3年で50歳を迎える。いわゆるアラフィフだ。人生の後半戦であり、その後にやってくる死が意識の端にのぼり始める。

永遠に続くはずと思い込んでいた日々。そのはるか先に暗闇、つまり無が口を開けている。無が私たちの前途を黒く塗りつぶす光景は、想像の難しい領域だ。だが、誰にも必ずその終わりは来る。それに備えておかなければ。
本書のテーマである「死」は、私にとって知っておかねばならないテーマだった。

本書はイエール大学で23年間続いたという講義の内容をもとにしている。
とはいえ、本書は死についての本質を明快に語ってくれるわけではない。世に多くある哲学書と同じく、本書は死の概念の周囲を歩き回りながら、さまざまな視点と切り口から死の本質を覗き込もうとしている。
死は著者の慧眼を持ってしても一言で言い表せる類の概念ではない。そのため、本書は決して読みやすいとは言えない。

だが、ありとあらゆる切り口と視点から死と生を語る本書は、私たちにその概念を考えるきっかけを与えてくれる。

自己の同一性や時間の概念。魂の存在や死後の世界。そして自殺は倫理的に正しいのかについての考察。

以前もどこかで書いたように思うが、子供の頃の私は死を恐れていた。
死んだらどうなるのか。自分が死んだ後、世の中は何も変わらず続くのに、世界でたった一つの自我は無に消える。そのことが耐え難く恐ろしく、心の底から死に慄いていた。
頭では、ほぼ全ての人間が自我を持っていることは分かっている。だが、自分の主観から見た世界は、他人の客観から見た世界の間には絶対的な違いがある。唯一無二の自我。それがどうにも理解できないでいた。

それから40年以上が経過した今、私は日々の仕事の忙しさを乗りこなすのに精一杯だ。死や虚無を恐れる暇がない。
私にとって仕事とは、死の恐怖を忘れるために人類が発明した営みだと思っている。
でなければ仕事のための仕事や、管理のための管理がまかり通っている理由がない。

だが、無我夢中で仕事と戦っていた時期に終わりが見え、ある程度乗りこなせるようになってきた。子育ても娘の卒業が見えた今、関わる必要が薄れてきた。

そうなると、次に考えるのは自分の死にざまだ。後半生では、死に向かうだけの自分の生きかたを考えなければ。

だが、今の私には死それ自体や、死の後に来るはずの虚無よりも恐ろている事がある。それは、残りの時間に自分がやりたいことがやれない未練だ。死の瞬間、私は自分のしたいことができずに死んでいく無念を全霊で悲しむだろう。

そうした迷いの数々を振り切りたくて、本書を手に取った。

著者はまず自らの死生観を明らかにする。そこで明言するのは、死後の魂を否定することだ。来世や輪廻、天国を否定する著者の口調に一切の迷いはない。死ねばそれで終わり。救いもなければ、やり直す機会もない。そもそも著者にとって死は悪いものですらない。

死は悪くない。その考えは果たしてどこから来るのか。死とはいったい何にとって悪いのだろうか。死を残念がるのは、死する主体、つまり魂なのか。その時に死ぬのは肉体だけで、魂は別と主張する人もいる。
では、肉体と魂は別々の存在なのだろうか。肉体が死んでも魂が別ならば、死を恐れる必要がない。魂があるなら死後の世界も生まれ変わりもあるだろう。天国すら存在するかもしれない。
だが、それを実証する術は私たちにはない。著者は魂の不在を主張する。だが、ないことを証明できない以上、魂が存在しないとも断言しない。

魂や意識は今の科学でも説明ができない。物質主義に寄った立場を隠そうとしない著者も、魂の存在については両者が引き分けと言っている。

著者は物質主義を貫くが、性急に結論を出さない。デカルトやプラトンの見解を援用し、詳細に彼らの哲学を検討し、本当に魂は存在しないのかについての綿密な論考を重ねてゆく。

私たちが魂を信じる理由は、自己の一貫性があるからだ。夜に寝て朝に起きた時、前の日の私と今の私は同一人物だ。私たちはそれを当たり前のこととして受け入れている。だが本来、それは証明ができない。同一に見えるのは外見だけ。もし精神に変調をきたした場合、前の日と次の日の自分は同じなのだろうか。それを証明する手段はない。だが、私たちはその同一性を当たり前のようにして日々を生きている。

著者はこの同一性を魂ではなく人格だと説く。記憶、肉体、魂で歯なく人格。
著者は人格こそが人の本質であることをほのめかす。この自己同一性があるからこそ、私たちは自分の人格を信じる。同一性が大切なことは、時間と空間を隔てても保持できることからも分かる。肉体と魂は別ではく、肉体の一機能である脳機能の発現こそ人格。

ここまで、本書の400ページ弱が費やされている。まだ半分だ。死とはまず何の主体に対しての死なのか。それをきちんと定義しておく。それが著者のアプローチだ。

ここまで論を深めた上で、著者はようやく死とは何かについて語る。意識の不在が死であるなら、睡眠もまた死と言えるはずだ。だが、睡眠が死とは違うことは誰もがわかっている。
そもそも本人にとって悪い事とは何か。悪い事と意識が認識して初めて、それが悪い事になる。意識とは生きている。悪い事を認識するには生きていることが必要だ。
では、意識が虚無である死のなかで、死は本人にとって悪い事なのだろうか。

さらに、意識のない状態が悪ならば、生まれてくる前の状態は本人にとってどういう状態なのか。生とは無限の時間の中で一瞬だけの間の話なのだろうか。

死が人間にとって悪くないとすれば、生きている間は人にとってどのような状態なのか。それが永遠に続く、いわゆる不死の状態は人にとって果たしてあるべき姿なのか。それは悪いことではないのか。

上に出てきた自己同一性の問題も不死が必要なのかについて考える題材になる。不死の体現者となった時、人は何百年、何万年と生きるだろう。その時、膨大な時を隔ててもその人は果たして同じ人物と言えるのだろうか。
10,000年前の自分が考えていたことを完全に覚えていない場合、自分は10,000年前の自分と同じ人物と言えるだろうか。
不死も同じ理由だ。しかも、不死と言っても常に成長を続けることはできない。どこかで衰えや飽きに苛ませられる。その時、不死は人にとって良いことではなくなる。むしろ、身の毛のよだつと言う表現まで使って著者は不死を拒否する。
そのように突き詰めて考えると、死は悪いことでない。

その上で著者は人生の価値、人生の良し悪しが何かについて述べる。
結局、人は死によってその生を中断させられる。来世も転生もなく。限られているからこそ、生を輝かせようとする。

著者は本書において明確な生の本質を語らない。むしろ、著者自身も自らの考えをまとめながら死を考えているように思う。
だが、著者による回りくどくも精緻な分析は、私たちが普段、考えずにやり過ごしている己の生を考えさせてくれる。本書から明確な死の定義を求めようとしても無駄だ。
だが、宗教が形骸化し、元となった仏典や経典が顧みられなくなった今、現代の人が死を考え直さねばならない現実を本書は教えてくれる。

正直に言うと、私は本書を読んでもなお、膨大な時間を求めている。数万年の生を。だが、いざ不死が自分の身に訪れた時、一億年もの間、衰えや飽きを知らずに生きていけるだろうか。
それを考えるためにも折に触れ、本書を読みなおしてみようと思う。

2020/9/2-2020/9/25


タイガーズ・ワイフ


生と死。
それは私たちに人間にとって永遠の問題だ。頭ではわかっているつもりになっても、心で理解することが難しい。

人が自分の死を実感することは、不可能のようにも思える。それは、死が儀式で飾られる今の日本ではなおさら到達できない概念のように思える。

かつての戦争では、無数の人が死んだ。空襲によって燃え上がった翌朝の街には黒焦げの焼死体が数限りなく転がっている。それが当たり前の日常だった。
そうした光景が当たり前になると死への感覚がマヒしてしまう。その時に同時に起こるのは、死が日常になることだ。実感として死が深く刻み込まれる。
戦乱に次ぐ戦乱の日々が続いた中世の日本ではなおさら死は身近だったはずだ。
今の日本は平和になり、死の感覚は鈍っている。もちろん私もそうだ。それが平和ボケと呼ばれる現象ではないだろうか。

平和な日本とは逆に、世界はまだ争乱に満ちている。例えば本書の舞台であるバルカン北部の国々など。
著者はセルビアの出身だという。幼時に騒乱を避け、各国を転々とした経験を持ち、アメリカで作家として大成した経歴を持っているようだ。
そのため、本書には生と死の実感が濃密なほどに反映されている。

例えば舞台となったセルビアとその周辺国。バルカン半島は火薬庫と呼ばれるほど、紛争がしきりに起こった地である。
死者は無数に生まれ、生者は生まれてすぐに死を間近にしていた。

本書において、著者は人の死の本質を描こうとしている。生と死をつかさどる象徴があちこちに登場し、読者を生死への思索へと向かわせる。
例えば主人公は、人の生と死を差配する医者だ。主人公に多大な影響を与えた祖父も医者だった。本書の冒頭はその祖父の死で始まる。

主人公は、祖父の死の謎を追う。なぜ祖父は死ぬ間際に誰にも黙って家族の知らない場所へ向かったのか。何が祖父をその地に向かわせたのか。
主人公は奉仕活動に従事しながらの合間に祖父の死を追い求める。
奉仕活動の現場で主人公は墓掘りの現場に遭遇し、人々の間に残る因習と向き合う経験を強いられる。墓場は濃厚な死がよどむ場所であり、このエピソードも本書のテーマを強める効果を与えている。

祖父の生涯を追い求める中、主人公は祖父の子供時代に起きた不思議な出来事を知る。
永遠の生命を持つ謎めいた男。殺しても死なず、時代を超えて現れる男。祖父はその男ガヴラン・ガイレと浅からぬ因縁があったらしい。
不死もまた、人の生や死と逆転した事象だ。

不死の本質を追究することは、生の本質を追い求める営みの裏返しだ。
そもそも、なぜ人は死なねばならないのか。死は人間や社会にとって欠かせないのだろうか。不死を願うことは、生命の本分にもとるタブーなのだろうか。
死が免れない運命だとすれば、なぜ人は健康を願うのか。そもそも死が当たり前の世界であれば、医者など不要ではないか。
著者は生と死に関する疑問の数々を読者に突き付ける。そして、死と生の不条理と不思議を描いていく。

祖父の謎めいた出来事の二つ目は生を象徴する出来事だ。つまり誕生。
ここから著者はバルカンの豊穣な神話の世界を描いていく。
サーカスから逃げ出した虎が周辺の人々を襲う。そんな中、夫のルカに日頃から虐待されていた幼い嫁は、夫のルカが忽然と姿を消した後に妊娠が発覚する。
虎が辺りを彷徨っている目撃情報もある中、幼かった祖父は、幼い嫁に食料をひそかに運んでやる。
あたりには虎の気配が満ちている中、幼い嫁と幼かった祖父は襲われずに生き延びる。幼い嫁は虎の嫁ではないかといううわさがまことしやかに語られる。

そんな虎を追って、剥製師のクマのダリーシャが罠をあちこちに仕掛ける。だが虎は捕まらない。やがてクマのダリーシャも死体となって見つかる。その姿を見つけたのは薬屋のマルコ・パロヴィッチ。

著者は、ルカや虎の嫁、クマのダリーシャ、薬屋のマルコといった人々を生い立ちから語る。
彼らの生い立ちから見えてくるのは、街の歴史と、戦争に苦しんできた人々の生の積み重ねだ。
そうした歴史の積み重ねの中に祖父や主人公は生を受けた。無数の生と死のはざまに。

やがて虎の嫁が臨月を迎えようとした頃、虎の嫁は死体で見つかる。そして虎は忽然と姿を消す。

本書の冒頭は、祖父に連れられた動物園での主人公の追憶から始まる。
なぜ祖父がそれほどまでに動物園の、それも虎に執着するのか。それがここで明かされる。
虎はあくまでも生きのびようとしたのだ。生への執着をあらわにして。
だが、動物園は相次ぐ戦乱の中で放置され、動物たちは次々と餓死していった。
祖父が子供の頃に見かけた虎はどこかに子孫を残しているのだろうか。

成長して医師になり、重職に上り詰めた祖父は、子供の頃と若い日に出会った生と死の象徴である二人の人物に再び出会うため、最後に旅にでた。
主人公はそのことに思い至る。

生と死に満ちた時代を生き抜いた祖父は、生涯を通じて生と死のメタファーに取り付かれていた。
おそらくそれは、著者自身の体験も含まられているはずだ。
あとがきには訳者による解説が付されている。そこでは祖父のモデルとなった人物との交流があったそうだ。

そうした思い出を一つの物語として紡ぎ、神話と現実の世界を描いている本書。戦争に苦しめられた地であるからこそ、生と死のイメージが豊穣だ。

生と死、そして戦争を描く手法は多くある。その二つの概念を即物的に描かず、歴史と神話の世界のなかに再現したところに本書の妙味があると思う。

‘2020/07/18-2020/07/31


やし酒飲み


本書はアフリカ文学の最高峰としての評価を得ているようだ。
私も本書の独特の世界に惹かれた。

アフリカと聞くと、私たちは子供の頃に刷り込まれたイメージに縛られてしまう。
未開の地。広大なサハラ砂漠を擁する北部。またはサバンナのそこら中に野生動物が闊歩している大陸。
旱魃や腹を肥大させた子供の写真が脳裏に刻まれている。ルワンダのフツ族とツチ族の凄惨な内戦がニュースを彩った日からさほどたっていない。
民族同士で無益な抗争に明け暮れる一方で、極度の飢えに苦しんでいる。そんな印象が強い。

いわゆる発展途上国だらけの大陸。
そんな印象が今や一新されていることは、ネットで少し検索してみればすぐ分かる。
大都会には高いビルも並んでいる。インフラが整う前に世界の情報技術の恩恵を受けたため、モバイルを使ったマイクロ・エコノミーが他国より発達している。
むしろ、文明に疲れ始めた西洋文明の諸国よりもアフリカにこそ今後の発展が約束されている。そんな話もよく耳にする。

とはいえ、アフリカは遠い。私たちにとってネットで知る実情のアフリカは、幼い頃に聞いたターザンがジャングルで動物と語らうアフリカに及んでいない。それが正直な印象だ。

その印象に縛られた視点から見た時、本書が描くアフリカは私たちの幼い頃の印象を上書きしてくれる。
呪術が有効で、不可思議な出来事が頻繁に起こる地。

主人公はやし酒造りの名人を求め、あちこちを旅して回る。
この構成は、私たちがよく知る日本神話の世界に近い。
日本神話の中では、イザナギが黄泉の国に行った妻を追い、山彦は兄たちに言いつけられて旅をする。そしてスサノオは、さまざまな地をさまよう。

旅は神話にとって、欠かせない要素だ。ギルガメシュも旅をしていたし、モーゼと彼に従う人々もエジプトから約束の地を目指した。

本書は、まさに神話の世界を現代の物語として著している。
もっとも、アフリカにも人々が語り継いできた物語があるはずだ。著者がそれらを思い起こしながら本書を著したことは間違いない。
しかも本書で主人公たちはJUJUというものに願いをかけ、その力で困難を乗り越えていく。

JUJUとは、依り代のようなものに違いない。それは私たちも神話の世界でお馴染みのものだ。
例えばスサノオは八岐大蛇を退治する前、生贄にされそうになっていたクシナダヒメを櫛に変えて八岐大蛇と対決する。
そもそも、国産み神話からして、イザナギとイザナミがかき混ぜた矛から滴り落ちた雫から国が産まれる。スサノオもイザナギの鼻から産まれたとされている。(左の眼から天照大神、右の眼から月読命)。神自体をものから産まれたものとみなすのが日本神話だ。
今でも山そのものを御神体とみなして祈る風習は私たちの中に普通に息づいている。他にも呪いの藁人形の習俗もある。

本書で主人公がJUJUに願いをかけ、願いを託す行動は、実は日本人にとっては特に珍しくないことが分かる。
また、本書に登場する出来事は乱雑で雑多に思えるかもしれない。だが、それらは日本であってもお馴染みの概念だ。

例えば王様やそこで働く人々の間にある労働のあり方。さらには、生産と消費のつながり。また感情と制度の反目も描かれている。芸術と仕事の対立も。
もちろん本書が最も念入りに描いているのは生と死の表裏一体の関係だ。結局、先に挙げた概念も生と死を取り巻く出来事に過ぎない。
私たちは何のために生き、死ねばどうなるのか。それは日本だろうがアフリカだろうが全く関係なく、どこでも共通の関心事である。

本書をそのように読めば、この混沌とした物語の筋が通り始めてくる。

本書はやし酒をモチーフにしている。物心がついた後、飲むことしか能のない主人公がやし酒造りの名人を求めてさまよう話だ。だが、単なる酔っ払いの話ではない。
もちろん、人は酔うとあれこれおかしな妄想を頭に湧かせる。
一方で、普段の生活ではそのような妄想は理性の名の下に押さえ込み、人前ではおくびにも出さない。
その裏側では押さえ込まれた想像力がスキを見つけて表に出ようとたくらんでいる。
酒を飲めば理性のブロックが外れ、あらゆるものが混じり合った想像力の出番だ。人の内面には得体のしれない想像力が渦巻いている。

だからこそさまざまなものが入り混じった、本書のような取り留めもない神話の世界は私たちをどこか懐かしい思いにさせる。
理性にブロックされた整然とした世界でなく、ありったけの想像力を駆使した奇想天外な世界。
本書は、そのような多彩な物語を展開するからこそ、西洋文明の人々に支持されたのだろう。

本書の巻末で訳者の土屋哲氏が、実は本書はアフリカでは評判が高くなく、西洋諸国でとても高評価を得ていると紹介している。

それは西洋が理性の名のもとに押さえつけた、整然としない内面を本書が存分に開放しているからだろう。

冒頭に記した通り、幼い頃に植え付けられたアフリカに対するイメージはぬぐいがたい。だが、そのイメージのまま、豊かな想像力を押さえ込むのが正しいと思い込まされていないだろうか。むしろそのような原始的な力こそが、人間を人間として強くするように思う。
これから情報技術はより進化し、私たち人間の外で圧倒的な力を発揮していくに違いない。その時、私たちはもう一度自らの人間的な能力に目を向けるはずだ。この豊潤の想像力をどのように操るか。本書はそれをまさに体現した一冊だと思う。

‘2020/05/26-2020/05/29


神在月のこども


実は本作の存在を知ったのは、劇場に入る数時間前のことだ。
それまで、本作を見に行く予定どころか、映画館に行くつもりすらなかった。

ぶっつけ本番で見た本作だが、とても面白かった。
それは、旅が好きで神社によく参拝する私の嗜好に合っていたからだと思う。

本作はロードムービーとしても楽しめる。
東京の日常を脱し、各地の神社を巡って出雲へと至る旅。それを思うだけでも気分は高揚する。さらに、神具の勾玉の力によって、普通の人間に比べて何十倍も早く動けるなんて羨ましすぎる。その設定だけで悶えてしまう。
コロナで移動が制限されている今、本作は私の心を旅へと、出雲へと駆り立ててくれた。

以下はネタバレが含まれています。

そもそもなぜ本作を見ようと思ったか。それは昨晩、私のTwitterに届いた画家さんについて詳しく知りたいというメンションに始まる。
そのメンションをきっかけに、私は25年前と2年前に訪れた出雲にまた行きたくなった。
メンションをくださった方は、私が25年前に日御碕灯台の前で出会った占いをする画家さんについて触れた2年前の出雲旅のブログを読まれたのだろう。ところが、私もその画家さんの詳細は詳しく知らない。
今回のメンションをきっかけに、まだお元気だというこの画家さんのことを知りたいと思った。
出雲にまた行きたい、と妻に言ったところ、妻も出雲に行きたい、と。その流れで、妻が興味を持っていた本作を見に行こうと決まった。
一緒に観に行った長女が、本作に出てくる某声優さんのファン(恵比寿様)だったことも本作の観劇を後押ししてくれた。

母を病でなくしてしまった主人公の葉山カンナ。幼い頃からカンナと一緒に走り、走ることの喜びを教えてくれた母の死を悲しむあまり、小学校で走る行事にも消極的でやる気が出ない。そればかりか、作り笑いでその場をやり過ごそうとする卑屈な女の子になってしまった。
一年が過ぎ、母が倒れたマラソン大会がやってきた。だが、カンナは走ることに真剣になれないまま、声をかけてくれた父のもとを走り去ってしまう。
たどり着いたのが家と学校の間にある牛島神社。ここで母の形見の勾玉を身に着けたところ、時間が止まる。さらに巨大な牛と人の言葉を操る白兎が目の前に現れる。

白兎のシロから聞いたのが、母弥生が韋駄天の末裔だったこと。
母が毎年十月に出雲大社で催される神在祭に、各地の馳走を運んでいたこと。
今年は今日の夜の7時から始まるため、それまでに各地を巡って馳走を集め、それを出雲に持っていかなければならないこと。間に合わない場合、来年度の神議りに差しさわりがあること。

縁結びの神である大国主命の力があれば、あの世にいる母と再び合わせてくれるかも!そう思ったカンナは勇躍して出雲へと走る。
だが、かつて韋駄天に敗れ、鬼になった一族の末裔である夜叉がカンナとシロから勾玉と馳走を奪う。かつて一族が被った恥辱をすすぎ、韋駄天の座に返り咲こうとする夜叉。
だが、やがて走ることに共通の喜びを感じているカンナと夜叉の間には絆が生まれ、夜叉も一緒に出雲まで同行する約束を交わす。

夜の7時までとはいえ、それは人間の尺度での時間。実際はその何十倍のスピードで動ける。各地の神社を巡り、その神社の祭神から賜った馳走を集めながら、出雲へと向かう。
その道のりがとても面白い。作中で確認しただけでも牛島神社から愛宕神社、さらに蛇窪神社が登場する。さらに鴻神社に移動する。そして神流川に向かう。
諏訪大社から奈良井宿、須賀神社から元伊勢神社、白兎神社、美保神社とたどっていく。
馳走を集めるにはこのルートが最短なのだろうけど、今までに聞いたことのないルートだ。

妻は本作に出てきた神社の多くを訪れたことがあるそうだ。だが、私は基点の牛島神社すら参拝したことがない。私が参拝したことがあるのは愛宕神社、諏訪大社、元伊勢神社、出雲大社くらい。
私にまだ参拝していない神社を教えてくれたのも本作の効能だ。神社の魅力とは、由緒書や境内の佇まいや本殿などの意匠だけでなく他にもあるはず。本作を見ていると神社についての知識をより深く知りたくなる。

本作の効能は他にもある。本作は子どもにも向けてメッセージを発している。それはあきらめない心だ。そして、自分の好きなことを信じる力。その気持ちを失わないことも本作のキーメッセージだ。
さらに、今の世の中は神社や神々のような人と人とを結びつける存在が忘れ去られようとしている。その結果、人の心から思いやりが失われ、イライラやと人をひがんだりねたんだりする感情が人の心を病ませている。本作にも黒く湧き上がる禍々しい気が描かれる。カンナの心やせわしない街の人々からも。

私も旅をして各地の神社を巡り、その清新で厳粛な境内から気を受け取りたい。ともすれば消耗する日常からわが身を守るためにも。
コロナで苦しんだからこそ、本作が伝えるメッセージは皆さんに届くはずだ。
それとともに、早くコロナが完全に収まり、人々が再び気を遣わずに旅ができる時代になることも願う。

なお、最後に少しだけ疑問が生じたことも書いておく。
それは、夜の7時までに出雲大社に馳走を届けなければならないのに、なぜ日の落ちた海岸でのんびり横になって休んでいるのだろう。そんなささいな疑問が頭から離れなかった。
もう一つ、これは制作の皆さんやスタッフの皆さんのせいではないはずだが、本作で描かれた大国主命から、なぜか某宗教法人の啓発アニメーションの世界を感じてしまった。見たこともないのに。なぜだろう。神谷明さんが話しているにもかかわらず。
それと、古代の出雲大社本殿って、神々が食事をする場所なんだろうか。これもふと疑問に思った。神議りならまだ分かるのだが。
でも、それも私の知識が不足しているだけかもしれない。まずは日本書記や古事記に触れ、知識を蓄えたいと思う。

‘2021/10/10 イオンシネマ多摩センター


私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


人の身に起こる死について


先日の大雨による熱海の土石流による被害によって亡くなられた方々。
そして、元プロ野球選手の大島選手が大腸がんでお亡くなりになったこと。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

私自身の行動にリンクするところがあったので、一文をしたためてみました。

土石流が起こった7/3の3週間前、私は熱海駅の三つ隣の根府川駅を訪れていました。
関東大震災で駅舎や列車が海に流され、多数の死者を出した災害。私はこの災害のことを書籍などで知っていましたが、駅をきちんと訪れたことがありませんでした。どのような地形でどのような土石流が流れたのか、一生懸命イメージを膨らませてきました。
その後、駅舎のすぐ脇に建てられた慰霊碑、近くの道に沿って立っていた慰霊碑、白糸川鉄橋の下にある慰霊碑などを訪れ、手を合わせてきました。
いつ、同様の事故が起こっても備えられるように。

その日から3週間後、土石流による災害が起こってしまいました。動画で見た土石流の威力の前には、人の備えなど無力です。
災害は決してひと事ではありません。私はそのことを心に刻むとともに、亡くなられた方の身になって心を痛めました。
私もいつ、同じような被害にあってもおかしくないのです。

そして、大島選手の死去です。昭和のプロ野球に親しんだ私には、大島選手の姿はおなじみでした。
70歳は早すぎますね。

大島選手の命を奪ったのが大腸がんだったとのことですが、ちょうどその日、私は市から案内された大腸がん検診の申し込みをしたところでした。
その後に大島選手の逝去のニュースを聞いたので、何かの暗合のように思いました。私も健康ケアに心を配らないと、という思いを新たにしたのが大島選手の死でした。

大島選手のブログ https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/ はこのような言葉で締めくくられていました。

命には
必ず終わりがある

自分にもいつか
その時は訪れる

その時が
俺の寿命

それが
俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない

俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで

俺はいつも通りに
普通に生きて

自分の人生を、命を
しっかり生ききるよ

全くその通りですね。とても心にしみます。

私も必ず死にます。自らの残りの余命を常に感じながら生きています。
その一方で、自分の命を生ききれているか、日々の生活が惰性に落ちていないか、を常に感じています。

今の私は大島選手のように生ききれているとは、思っていません。やりたいことが多すぎるのに、時間は足りない。
寿命は甘んじて受け入れるとしても、絶対に死ぬ前に後悔はするまい、と思います。
70歳といえば、定年が65歳だとして、5年間。65歳で引退できたとして、5年で自分のしたいことが本当にできるのでしょうか。
それを考えると、今のうちから一瞬も無駄にしてはならないと思うのです。

土石流によって亡くなられた方も、ある日突然このような形で命を奪われるとは思っていなかったことでしょう。

大島選手のように、自らの死に対して気持ちを整える時間があればまだ救いがあるのかもしれません。

私もやり残したことがないようにしなければ。

弊社のメンバーにも私の技術などを伝えていきたいと思います。
うちの娘たちにも、私の少々枠をはみ出した生き方などを伝えていければ。


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


蜩ノ記



人はいつか死ぬ。それは真理だ。

大人になるにつれ、誰もがその事実を理屈では理解する。そして、死への恐れを心に抱えたまま日々を過ごす。
だが、死への向き合い方は人それぞれだ。
ある人は、死の現実を気づかぬふりをする。ある人は死の決定に思いが至らない。ある人は死に意識が及ばぬよう、目の前の仕事に邁進する。

では、死の到来があらかじめ日時まで定められているとしたら?

本書は、あらためて人の死を読者に突きつける。
死ぬ日が定められた人は、いかに端座し、その日を迎えるべきなのか。

本書は江戸時代の豊後の羽根藩が舞台だ。まず、江戸時代という時代の設定がいい。
戦国の世の刹那的な生と死の観念を色濃く残す時代。
それでいながら、合戦がなく平穏な時代。
死ぬ覚悟を常に懐に抱えているはずの武士も、気を緩めると保身への誘惑に屈してしまう。江戸時代とは、武士にとって自らの存在意義が試される時代でもあった。

そんな時代を生きながら、自らに下された死を受け入れ、決められた死までの日々を屹然と受け入れる男がいる。
その男の名は戸田秋谷。
秋谷が死を下された理由。そこに秋谷の咎はない。
にも関わらず、秋谷は決然として生きる。死を嘆いたり、運命にあらがったりしない。
藩から命じられた家譜編纂の仕事を粛々とこなしながら、妻子を養っている。
その凛とした姿は、近隣の民からは尊敬の念を向けられている。

秋谷の家譜編纂の手伝いを命じられたのが壇野庄三郎。
彼は、藩内で誤解から生じた刃傷沙汰を起こし、藩から謹慎を命じられる身だ。
庄三郎は戸田秋谷の家に住み込み、生活をともにしながら仕事を手伝う。手伝いを名目に掲げているが、庄三郎が言外に受けた命とは、実際には秋谷の監視役を兼ねていることは明らか。
藩からの命には、編纂する家譜の内容を監視する役目もあった。
秋谷が死罪を命ぜられるに至った事件のあらましを、秋谷自身が自分に有利なように改ざんせぬよう監視する役目。そこには、藩の思惑を感じさせる。

秋谷の一家は、秋谷の病弱の妻織江や、娘の薫、息子の郁太郎からなる。秋谷の一家と暮らすうち、庄三郎は秋谷の人物に惹かれてゆく。
秋谷が死に値する軽挙を犯すような人物にはとても思えない。秋谷の人物の深みからは、そうした軽々しさが微塵も感じられない。
藩から命に何かの思惑が潜んでいるのではないか。それは藩の歴史に関する何かの秘密に関するのでは。藩への忠誠が薄らぎだすとともに、藩からの任務と戸田家への思いの間で庄三郎が板挟みになる。

他の諸藩と同じく、羽根藩にも問題がある。それは代官による収奪や、それに抗する百姓の反抗として現れていた。
ところが、秋谷の治めた地ではそうした騒ぎが起きない。それは秋谷の人物に民が畏敬の念を持っていたからだ。
秋谷の薫陶を受けて育った郁太郎も村の少年と分け隔てなく交わる。秋谷自身に身分で人を判断せず、公平に接する考えがあり、それが一層、民の心を惹きつけていたのだろう。

ところが藩から民に対する圧力は増し、藩の暗躍も盛んになるばかり。
民と藩の緊張が高まる中、秋谷はどう身を処するのか。
秋谷と庄三郎の共同による編纂作業は進み、藩の過去に潜む事情も明らかとなる。そして、その作業は、秋谷の死罪が無実である確証も明らかにした。
だが、調査が進むにつれ、秋谷の死の期日も刻一刻と近づいてゆく。

本書で描かれるのは、もののふの姿だ。秋谷という一人の男の。
合戦はなくなり、武士が統治する立場を利して薄汚れた利権を漁るようになって長い。
そのような風潮の世にあって、秋谷が自分を律する態度の気高さ。

冒頭で本書の舞台は江戸時代であり、生と死の観念が戦国の余韻を残すと書いた。
ところが、本書の舞台となる時期は、十九世紀に入ってすぐの頃だ。大坂の役からは百八十年、島原の乱から数えても百六十年は経過している。
実は本書の登場人物たちが生きる時代は、現代の私たちが最後の戦い(太平洋戦争)を体験した時間より百年ほど長く太平の時代に生きている。
私たちが最後に戦争の廃虚を目にしたのは七十年前に過ぎないというのに。

その事実に思い至った時、死を達観しているように見える秋谷の態度を時代が違うからと片付けるのは乱暴に思える。
秋谷の生き方と対立する、利権と保身に凝り固まった藩の重鎮たちも、私たちは心から軽蔑できるのだろうか。
著者はそうした問いかけも含めて本書を記していることだろう。
現代人の死生観が急速に変質してしまった事。今の日本人が失ってしまった厳しい生と死の観念。
それらを秋谷の生きざまを通して描いているのが本書だ。

もう一つ、本書が描くのは親から子への生きざまの伝え方だ。
本書が最も感動を与えるのがこの部分だ。
親の責任。それは時代が違っても変わらない。
親として子に何をか伝え、何をか教えるべきか。それはどういう方法が適切なのか。
現代の親もぶち当たる悩みだ。もちろん私も親として試行錯誤した。親としての振る舞いは難しい。

親としてのあり方を秋谷は示す。
本書も終盤に差し掛かる中、秋谷の親としての本領は発揮される。息子に、そして娘に。最も心を動かされる場面だ。
そこから読み取れるのは、たとえ時代が違っても、親と子の関係は普遍である事だ。
将来、社会のあり方がどう変わろうとも、親と子の生物としての関係は維持されるはず。
その時も親と子の中で受け継がれるべき本質は変わらないはず。その本質を本書は教えてくれる。

私も娘二人の子育てが終盤に近づきつつある。
ひょっとしたら娘たちはそれぞれの伴侶を得、私にとって義理の息子ができるかもしれない。そうなった時、息子を育てたことがない私にとっては、新たな試行錯誤の日々が始まることだろう。
本書から得られるものは多い。

名作として心に刻んでおきたい一冊だ。

‘2019/3/9-2019/3/10


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


別れ


フィクションのエルドラードと銘打たれたこのシリーズに収められた作品は結構読んでいる。ラテンアメリカ文学の愛好者としては当然抑えるべきシリーズだと思う。加えて本書の訳者は寺尾隆吉氏。とあらば読むに決まっている。氏の著した『魔術的リアリズム』は、2016年の私にとって重要な一冊となったからだ。

本書は三編からなっている。それぞれが味わい深く、優れた短編の雰囲気を醸し出している。

「別れ」
表題作である。訳者の解説によると、著者は本編を偏愛していたらしい。著者にとって自信作だったのだろう。

海外の小説を読んでいると、描かれる距離感に戸惑うことがある。小説に置かれた視点と人や建物との距離感がつかみにくくなるのだ。日本を舞台にした小説なら生活感がつかめ、違和感なく読めるのだが。その訳は、読者である私が他国の生活にうとく、生活感を体で理解できていないからだろう。だから、生活どころか訪れたことのない地が舞台になると描かれた距離への違和感はさらに増す。それがラテンアメリカのような文化的にも日本と隔たった地を舞台としていればなおさらだ。ラテンアメリカを舞台とした本書も例に漏れず、読んでいて距離がつかみづらかった。描かれた距離の違和感が私の中でずっとついて回り、後に残った。その印象は若干とっつきにくかった一編として私に残り続けている。

本編の舞台はペルー。謎めいた男の元に届く意味ありげな封筒。それを男に届ける主人公はホテルマン。次第に泊まっている男の正体がバスケットボールの元ペルー代表であることが明かされる。そして、男を診断した医師の話によると、男は不治の病にかかっているとか。次第に明らかになってゆく男の素性。だが、男は町の人々と打ち解けようとしない。それどころか部屋に閉じこもるばかり。

ある日、男のもとにサングラスをかけた女が訪れる。すると男はそれまでとは一転、朗らかで明るい人物へと変貌する。そして、女の訪問とともにそれまで定期的に届いていた二種類の封筒が来なくなる。数週間、男の元に逗留した女が去ると、再び二種類の封筒は定期的に届き始める。さらに、男の態度も世捨て人のような以前の姿に戻る。

夏のクリスマスが終わる頃、男の元には別の若い娘がやって来る。男は山のホテルで、若い娘との時間を過ごす。口さがないホテルの人々の好奇の目は強まる。娘が去ってしばらくすると、再びサングラスの女が来る。今度は子供を連れて。さらには若い娘も再び姿をあらわす。男のもとで2組の客人は鉢合わせる。一触即発となるかと思いきや、二組は友情を結ぶかにも見える。

そうした客人の動きを主人公はメッセンジャーとなって観察する。一体この男と二組の訪問者はどういう関係なのか。町の人々の不審は消えない。彼らのそばを送迎者となって動き回る主人公までもが、町の人々の容赦ない好奇の目にさらされる。男が死病によって世を去る直前、主人公は男に渡しそびれていた二通の封筒を見つける。そして中を開いて読む。そこには男と若い娘、そして母子との関係が記されていた。そして自分だけでなく、ホテルの人々がひどい誤解をしていたことに気付くのだ。主人公の胸にはただ苦い思いだけがのこり、物語は幕をとじる。

本編は男と二組の関係が最後まで謎として描かれていたために、あいまいさが際立っていた。そのあいまいさは、それぞれの関係どころか、小説の他の距離感までもぼやけさせていたように思う。本編で距離感をつかめなかった点はいくつかある。例えばホテルと山の家との距離。そして、登場人物たちをつなぐ距離感だ。例え閑散期であっても、一人の男の動向がうわさの的になるほどホテルは暇なものだろうか、という疑問。それほどまでに暇なホテルとはどういう状況なのか。その疑問がついて回る。それほどまでに他人に排他的でいながら、ホテルが営めるほどの需要がある街。そして、繁忙期は逆に人が増えることで男の行方がわからなくなる1950年代のペルー。一体どのような人口密度で、人々のつながりはどこまで密なのか。本編を読みこむにはその距離感が肝心なはずだが、私にはそのあたりの感覚がとうとうつかめずに終わった。

なぜ距離感が求められるのか。それは本編が別れをテーマとするからだ。別れとは人と人とが離れることをいう。つまり距離感が本書を読み解く上で重要になるのだ。それなのに本書で描かれる距離感からは、男と女性たちの、男と町の人々の距離感が測りにくかった。当時のラテンアメリカの街並みを思い浮かべられない私にとって、これはもどかしかった。かつて女にもて、栄誉につつまれた男が、あらゆるものとの別れを余儀なくされる。男の栄光と落魄の日々の落差は、距離感がともなってこそ実感となって読者に迫るはずなのだ。それが私に実感できなかったのは残念でならない。男と女の悲哀。そこに人生の縮図を当てはめるのが著者の狙いだとすればこそ、なおさらそう思う。男は女たちだけでなく、人生からも別れを告げようとするのだから。

本編が人々の口に交わされるうわさとその根源となる男女の関係を描き、その中から別れの姿をあぶりだそうとしていたのなら、そこに生じる微妙な距離感は伝わらねばならない。それなのに本書が描く距離感を想像できないのは残念だった。なお、念のために書くと、著者にも訳者にも非がないのはもちろんだ。

続いての一編「この恐ろしい地獄」は、若い尻軽女を妻に持つ、さえない中年男リッソが主人公だ。リッソが妻グラシア・セサルの所業にやきもきしながら、自暴自棄になってゆく様子が書かれている。訳者によると、本編は実話をもとにしているという。それも、三行ほどの埋め草記事。それを元にここまでの短編に仕立てたらしい。

女優である妻グラシアを愛しつつ、彼女の気まぐれに振り回されるリッソ。みずからに放埒な妻を受け止められるだけの度量があると信じ、辛抱と忍耐でグラシアの気ままを受けいれようとするリッソ。だが、悲しいかな、器を広げようとすればするほど、器はいびつになって行く。浮名を流し、自らの発情した裸の写真を街にばらまくグラシア。リッソが幾たびもの別居の末、グラシアを、そして人生を諦めて行く様子が物悲しい。リッソの諦めは、すべての責任をグラシアではなく自分自身に負わせることでさらに悲劇的なものになる。そしてグラシアの破廉恥さすら、非難のまとにするどころか悲しみの中に包んでいくように。生真面目な新聞の競馬欄を担当するリッソ。真面目に実直であろうとした男が、女の振る舞いを負うてその重みに押しつぶされて行く様子。その様を男の視点だけに一貫して書いているため、とても説得力に満ちている。

「別れ」では距離感の把握に難儀した。逆に本編は、男からの視点で描かれているため距離感がつかみやすい。男と女の関係は、日本だろうとラテンアメリカだろうと変わらないということなのだろう。

最後の一編は「失われた花嫁」だ。

結婚するため、ウェディングドレスを着てヨーロッパに向かった若い娘モンチャ・インサウラルデが、結婚相手から裏切られる。その揚げ句サンタ・マリアへと戻ってくる。そして街の家に閉じこもり、庭を徘徊してすごすようになる。

街にある薬局には薬剤師バルテーが住みついていたが、助手のフンタに経営権を奪われ、店は廃墟へと化してゆく。いつのまにか店に住み着いたモンチャとともに。

本編を彩るのはただ滅び。本編の全体に滅び行くものへの哀惜が強く感じられる。ウェディングドレスを狂った老婦人が着流し、町を彷徨う姿に、美しきもののたどる末路の残酷さを著している。著者はその姿を滅びの象徴とし、本編のもの寂しい狂気を読者に印象付ける。それは、美女が骨に変わり果ててゆく様子を克明に描いた我が国の九相図にも、そして仏教の死生観にもつながっている。

モンチャの死を確認した医師ディアス・グレイは、街ぐるみでモンチャを見て見ぬ振りし続けた芝居、つまりモンチャの狂気を狂気として直視しない振る舞いの理由を理解する。
「彼に与えられた世界、彼が容認し続けている世界は、甘い罠やうそに根差しているわけではないのだ。」154ページ

私にとって著者は初体験だが、後者二つは短編としてとても優れていると思う。ただ、訳者あとがきで寺尾氏が述べているように、なかなかに訳者泣かせの作家のようだ。多分「別れ」にしても距離感をうまく訳出しきれなかったのだろう。だが、他の作品も読んでみたいと思う。

‘2017/12/01-2017/12/07


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


恐るべき子供たち


ジャン・コクトーは、昨年観劇した「双頭の鷲」の作者として興味を抱いた。レビュー(https://www.akvabit.jp/%e5%8f%8c%e9%a0%ad%e3%81%ae%e9%b7%b2/)の冒頭では、ジャン・コクトーの異才ぶりを表現した有名なコラージュ写真を引き合いに出し、その異才の一部に触れた。実際「双頭の鷲」自体がとても面白く、ジャン・コクトーがなぜこれほどまでに高名なのか、その理由が少しだけ理解できた気がする。

ジャン・コクトーは作家としても才能を発揮したとされている。私は本書を読むまで作品を一冊も読んだことがなかった。だが、私は岩波文庫に収められた本書を持っていた。異能の人が描く小説とはいかなるものか。「双頭の鷲」のように今の私たちにも理解できる作品に仕上がっているのか。それで本書を読んだ。

私は本書を期待して読み始めたのだが、ちょっと期待値を高く持ちすぎたようだ。しっくり来ない。小説の世界に没入しきれないまま読み終えてしまった感じだ。

なぜ小説の中に入れなかったのか。それが何かをつらつら考えながら本稿を書いている。まず思ったのは、訳文が古いということ。しかも”てにをは”にいくつか間違いがある。この2つは読みながら感じたことだ。本書の奥付には、本書の初版が1950年代と書かれている。さすがに半世紀前の訳文は今の時流にそぐわない。訳文のあちこちに時代のずれを感じる。

もう一つは本書に付けられた『恐るべき子供たち』という邦題だ。確かに本書の原題は『Les enfant Terrible』で、直訳すると『恐るべき子供たち』に間違いない。ただ”子供”という単語の語感からは10歳以下の児童を想像する。だが、子供たちという割に、登場人物の年かさはティーンエージャーのそれだ。 しかも、本書に登場する”子供”は、娼婦と一夜を過ごすこともある。つまり、子供と呼ぶには年を食いすぎている。

それでいて現代の感覚から見ると本書の”子供”たちは、それほど大それた事をしでかしていない。 本書で描かれたような出来事が仮に10歳以下の子供たちだけで行われたとすれば、現代でも”恐るべき”で通用するのかもしれない。だが今や海外では10歳以下の子供による銃発砲事件も起きているという。本書のように雪つぶての中に石を仕込んで相手を気絶させる程度では驚かない。これは時代の変化であり、どうしようもないことだ。そもそも本書の”子供たち”が”子供たち”でいるのは一部の間だけだ。数年たった後が書かれる二部では結婚もするし、登場人物の一人はフランスと海外を行き来するビジネスマンになっている。となると、”子供たち”という表現からはますます遠ざかる。

一つは、本書にちりばめられた詩的表現だ。詩人としても名作を残したジャン・コクトーであるがゆえ、文章のあちらこちらに詩的表現が目立つ。その表現は古びた訳文の中にあってなおも光を放っている。だが、訳文が古いため、それらの詩的表現は光を放つ前に訳文の中で浮いている。

と、散々本書には批判を加えた。が、私の批判にもかかわらず、本書は今でも名作となりうる要素がたくさん詰まっていると思う。
それは登場人物たちの関係性が明確に定まっているからだ。主人公のポール。その姉のエリザベート。エリザベートを愛してしまうジェラール。エリザベートの勤める店にいた娘アガート。ポールとエリザベートは姉と弟だが、二人の絆は強い。だが、もろく崩れやすい。本書は複数の人物がポールとエリザベートを翻弄し、はかなげな二人に人間の運命を突きつける物語だ。

ポールが思春期に入ってすぐ、ダルジュロスが彼の心を魅了する。そこには同性に対する憧れがある。異性に興味を持つ前、少年は自分を導き、支配してくれる同性に憧れる時期がある。私もそうした心の動きには心当たりがあるからわかる。ところがダルジュロスはポールが自分を崇拝する気持ちに乗ずるあまり、石入りの雪玉を胸に投げ、ポールの前から退学という形で去ってしまう。ポールの胸を体の痛みに加え、ダルジュロスを失った空白がむしばむ。ついでポールの依存する心は姉のエリザベートに向かう。ところが姉弟の母が亡くなったことで、姉弟を守るものがいなくなったばかりか、ジェラールとエリザベートが結婚し、ポールの心の落ち着き先がなくなる。

エリザベートはジェラールと結婚したものの、ポールに対して複雑な感情を抱き続けている。それは異性に対するものでなければ、一人の弟としてでもない。年の若い、弱い者への支配欲とでもいおうか。だからこそ、ポールがアガートと結ばれそうになると、エリザベートの心には嫉妬心が芽生える。そんなエリザベートに付け入ったのが、再び現れたダルジュロス。彼は本書の物語に波紋を生じさせ、物語を進めるために姉弟の関係を乱す。いわゆるトリックスターだ。第一部ではダルジュロスのこしらえた石入りの雪玉がポールを倒す。そして第二部で再登場したダルジュロスはエリザベートを通じて、ポールを再び倒す。

弟の関係を頼り、頼られる関係から描いたこと。そこに、ティーンエージャーの持つ心の揺らぎが加わり、周りの人間たちとの関係がますます存在自体をかき乱す。人間とは不安定な運命の下にある。その真理をティーンエージャーの群像の上に投影したのが本書だ。

関係性をきっちり読者が把握しないと、本書はわけが分からない。だからこそ、今の文体でもう一度日本語訳を行なければならない。そうすれば、本書はジャン・コクトーの傑作として再び評価されるのではないだろうか。

おそらく「双頭の鷲」も当時の脚本をそのまま脚本として使えば古めかしいはず。それを今のスタッフが現代の感覚で翻案したからこそ見応えのある舞台になったのだろう。多分、本書も新訳で読むと違った印象を受ける気がする。光文社からも新訳が出ているというし、萩尾望都さんが漫画化もしているという。私もそれらを読んでみたいと思う。

‘2017/06/13-2017/06/18


悟浄出立


本書によって著者は正統な作家の仲間入りを果たしたのではないか。

のっけからこう書いたはよいが、正統な作家とは曖昧な呼び方だ。そして誤解を招きかねない。何をもって正統な作家と呼べばよいのか。そもそも正統な作家など存在するのか。正当な作家とは、あえていうなら奇をてらわない小説を書く作家とでもいえばよいかもしれない。では本書はどうなのか、といえばまさに奇をてらわない小説なのだ。そう言って差し支えないほど本書の語り口や筋書きには正統な一本の芯が通っている。

今まで私は著者が世に問うてきた著作のほとんど読んできた。そして作品ごとに凝らされた奇想天外なプロットに親しんできた。その奇想は著者の作風である。そして私が著者の新作に期待する理由でもある。ところが本書の内容はいたって正統だ。それは私を落胆させるどころか驚かせ、そして喜ばせた。

文体には今までの著者の作風がにじんでいる。だが、その文体から紡ぎだされる物語は簡潔であり、起承転結の形を備えている。驚くほど真っ当な内容だ。そして正統な歴史小説や時代小説作家が書くような品格に満ちている。例えば井上靖のような。または中島敦のような。

著者の持ち味を損なわず、本書のような作品を生み出したことを、著者の新たなステージとして喜びたいと思う。

本書に収められた五編は、いずれも中国の古典小説や故事に題材を採っている。「悟浄出立」は西遊記。「趙雲西行」は三国志演義。「虞姫寂静」は史記の項羽伝。「法家孤憤」は史記に収められた荊軻の挿話。「父司馬遷」は司馬遷の挿話。

それぞれは単に有名小説を範としただけの内容ではない。著者による独自の解釈と、そこに由来する独自の翻案が施されている。それらは本書に優れた短編小説から読者が得られる人生の糧を与えている。

「悟浄出立」は沙悟浄の視点で描かれる。沙悟浄は知っての通り河童の妖怪だ。三蔵法師を師父と崇め、孫悟空と猪八戒と共に天竺へと旅している。活発で短気だが滅法強い孫悟空に、対極的な怠け癖を持つ猪八戒。個性的な二人の間で沙悟浄は傍観者の立場を堅持し、目立たぬ従者のように個性の薄い妖怪であることを意識している。ただ従者としてついて歩くだけの存在。そのことを自覚しているがそれを積極的に直そうともしない。

そんな沙悟浄は、怠け癖の極致にある猪八戒がかつて無敵の天蓬元帥として尊敬されていたことを知る。なにが彼をそこまで堕落させたのか。沙悟浄は問わず語りに猪八戒から聞き出してみる。それに対して猪八戒から返ってきた答えが沙悟浄に自覚をもたらす。猪八戒はかつて天蓬元帥だった頃、天神地仙とは完成された存在であることを当たり前と思い込んでいた。ところが過ちがもとで天から追放された人間界では、すでに完成されていることではなく、完成に至るまでの過程に尊さがあることを知る。猪八戒の怠け癖やぐうたらな態度も全ては過程を存分に味わうための姿。

そんな猪八戒の人生観に感化された沙悟浄は、自ら進んで完成までの経過を歩みたいと思う。そして従者であることをやめ、一団を先導する一歩を踏み出す。それはまさに「出立」である。

「趙雲西航」は、趙雲が主人公だ。趙雲といえば三国志の蜀の五虎将軍の一人としてあまりにも有名だ。蜀を建国したのは劉備。だが、劉備率いる軍勢は魏の曹操や呉の孫権と比べて基盤が未熟で国力も定まっていない流浪の時期が長かった。劉備玄徳の人徳の下、関羽や張飛と共に各地を転戦する中、諸葛亮孔明という稀有の人物を軍師に迎え、運が開ける。諸葛亮の献策により、劉備の軍勢は蜀の地に活路を見いだす。本編は蜀へと向かって長江を遡上する舟の上が舞台だ。

慣れぬ舟の上で船酔いに苦しむ趙雲は、自らの心が晴れぬことを気にしていた。それは間も無く50に手が届く自らの年齢によるものか、それとも心が弱くなったからか。冷静沈着を旨とする趙雲子龍の心からは迷いが去らない。

先行していた諸葛亮孔明より招きを受け、陸に上がった趙雲は、陸に上がったにもかかわらず、気が一向に晴れない心をいぶかしく思う。なぜなのか。理由は模糊としてつかみ取れない。

そんな趙雲の心の曇りが晴れるきっかけは、諸葛亮孔明が発した言葉によって得られた。諸葛亮が言外ににおわせたそれは、郷愁。趙雲は中原でも北東にある沛県の出身だ。そこから各地を転戦し、今は中原でも真逆の南西にある蜀へ向かいつつある。名声はそれなりに得てきたが、逐電してきた故郷にはいまだ錦が飾れずにいる。それが今でも残念に思っていた。そしてこのまま蜀の地に向かうことは、故郷の母と永遠に別れることを意味する。天下に轟かせた自らの名声も、親不孝をなした自らの両親に届かなければ何の意味があろうか。そんな真面目な英雄の迷いと孝心からくる悔いが描かれる。これまた味わい深い一篇だ。私のような故郷から出てきた者にとってはなおさら。

「虞姫寂静」は、虞美人草の由来ともなった虞姫と項羽の関係を描いている。虞姫は項羽の寵愛を一身に受けていた。だが項羽は劉邦に敗れて形勢不利となり、ついには垓下において四面楚歌の故事で知られるとおり劉邦軍に包囲されてしまう。

自らの死期を悟った項羽は、虞姫を逃がすために暇を申しつける。項羽と共に最期を遂げたいと泣いて願う虞姫に対し、項羽は虞の名を召し上げる。そうすることで、虞姫を項羽の所有物でなくし、自由にしようとする。意味が解らず呆然とする彼女の前に表れたのは范賈。項羽の軍師として有名な范増の甥に当たる人物だ。そもそも虞姫を項羽に娶わせたのも范増だ。その甥の范賈が虞姫に対し、なぜ項羽がここまで虞姫を寵愛したのか理由を明かす。

その理由とは、虞姫が項羽の殺された正妃に瓜二つだったから。誰よりも項羽に愛されていた自らの驕りに恥じ入り、その愚かさに絶望する虞姫。やがて死地に赴こうとする項羽の前に再び現れた虞姫は渾身の舞を披露し、再び項羽から信頼と虞の名を取り戻すと、その場で自死し果てる。虞美人草の逸話の陰にこのような女の誇りが隠れていたなど、私は著者が詳らかにするまでは想像すらできなかった。これまた愛の業を堪能できる一篇だ。

「法家孤憤」は、荊軻の話だ。荊軻とは秦の始皇帝の暗殺に後一歩のところまで迫った男。燕の高官に短期間で上り詰め、正規の使者として始皇帝の下に近づく機会を得る。だが、後ほんのわずかなところで暗殺に失敗する。

だが、本編が主題とするのは暗殺失敗の様子ではない。しかも主人公は荊軻ですらない。荊軻と同じ読みを持つ京科が主人公だ。同じ読みであるため官吏の試験で一緒になった二人。しかも試験官の間違いから京科だけが官吏に受かってしまう。望みを絶たれた荊軻は京科に法家の竹簡を託すといずこともなく姿を消してしまう。

数年後、暗殺者として姿を現した荊軻は、始皇帝暗殺の挙に出る。そして失敗する。一方、荊軻より劣っていたはずの京科は官吏として実務経験を積み、今や秦が歩もうとする法治国家の担い手の一員だ。京科は、かつて己に法家の竹簡を託した荊軻は法家の徒ではなく、己こそが正統な法家の徒であることを宣言する。

歴史とはその時代を生きた人の織りなすドラマだ。そこに主義を実現するための手段の優劣はなく、個人と組織の相克もない。そこにあるのは、歴史が後世の読者に諭す人として生きる道の複雑さと滋味だけだ。

「父司馬遷」。これは末尾を飾る一編である。そして印象的な一編だ。あえて漢の武帝に逆らい、匈奴に囚われの身となった友人の李陵をかばったことで宮刑に処された司馬遷。宮刑とは、宦官と同じく男を男でなくする刑だ。腐刑ともいわれ、当時の男子にとっては死にも勝る屈辱だった。本編の主人公は司馬遷の娘だ。兄たちや母が宮刑を受けた父から遠ざかる中、彼女は父に近づく。そして生きる意味を失いかけていた父に対して「士は、己を知る者のため、死す」と啖呵を切る。娘から投げられた厳しい言葉は、司馬遷を絶望から救いだす。今なお中国の史書として不朽の名声を得ている史記が知られるようになったきっかけは、司馬遷の娘の子供が当時の帝に祖父の遺した書を伝えてことによるという。

娘が父の心を救う。それは封建的な考えが支配的だった当時では考えにくい。だが、それをあえて成し、父の心を奮い立たせた娘の行いこそ父を思いやる強さがある。そんなことを味わいながら読みたい一編だ。

五編のどれもが正統で味わい深い。まさに本書は著者にとって転機となる一冊だと思う。

‘2017/03/16-2017/03/16


ペドロ・パラモ


本書の存在は、昨年読んだ『魔術的リアリズム』によって教えられた。『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾隆吉氏は本書の紹介にかなりのページを割き、ラテンアメリカ文学の歴史においてなぜ本書が重要かを力説していた。それだけ本書がラテンアメリカ文学を語る上で外せない作品なのだろう。それまで私は本書の存在すら知らなかった。なので、本書の和訳があればぜひ読みたいと思っていた。そこまで激賞される本書とはいかなる本なのか。そんな私の願いはすぐに叶うことになる。多摩センターの丸善で本書を見つけたのだ。しかも岩波文庫の棚だから値段も控えめ。その場で購入したことは言うまでもない。

そして本書は、2017年の冒頭を飾る一冊として私の読書履歴に加わることになった。ここ数年、新年の最初に読む本は世界文学全集が続いていた。ゆっくりと読書の時間がとれるのは新年しかないので。ところが2017年は年頭から忙しくなりそうな感じ。そのため比較的ページ数が少ない本書を選んだ。

本書は、ラテンアメリカ文学史に残る傑作とされている。だが、一度読んで理解できる小説ではない。二度、三度と読まねば理解はおぼつかないはずだ。すくなくとも私には一度目の読破では理解できなかった。

なぜなら、本書は場所と時代が頻繁に入れ替わるからだ。本書はたくさんの断章の積み重ねでできあがっている。訳者によるあとがきの解説によると七十の断章からなっているとか。そして各章のそれぞれで時代と場所を変えている。さらには話者も変わるのだ。各章が続けて同じ時代、同じ場所を語ることもあれば、ばらばらになることもある。それらは、章の冒頭で断られる事なく切り替わる。そもそも章番号すら振られていない。つまり、それぞれの章の内容や登場人物を丹念に把握しないとその断章がどの時代と場所を語っているのか迷ってしまうのだ。そのため本書を読み通すだけでも少し苦労が求められる。

読者は本書の冒頭の文で本書のタイトル『ペドロ・パラモ』の意味を知る。それはフアン・プレシアドが会おうとする自らの父の名前である。ところがすぐに読者は「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」というセリフがファン・プレシアドに投げかけられる(14P)ことで困惑する。タイトルになった人物が死んでいるとはどういうことだろう、と。さらには、冒頭の断章がフアン・プレシアドの視点になっているはずなのに、フアン・プレシアドと会話している相手が、たった数ページの間に二転三転するのだ。そもそもフアン・プレシアドは誰と話しているのか。フアン・プレシアドに話しかけているのは誰なのか。読者は見失うことになる。そしてファン・プレシアドはいくつかの断章でいなくなり、別の人物の視点に物語は切り替わる。さらに、主人公であるはずのペドロ・パラモは死んでいる。その時点で誰が本書の主人公なのかわからなくなる。多分、死んでいるペドロ・パラモは主人公ではなりえない。と思ったら終盤では過去の世界の住人としてペドロ・パラモが登場する。そして、それまでの断章でも語り手が次々と切り替わるのだ。どの時代、どの場所の人物の視点で物語が語られているのか、わからなくなる。もはや誰が主人公なのか、読者は著者の仕掛けた世界に惑わされてゆくばかりだ。

本書が読みにくい理由はその外にもある。それぞれの場所や時代ごとに目を引くような比喩や表現による書き分けがないのだ。印象に残るエピソードが現れないので、記憶に残りにくい。それぞれの場所と時間ごとのエピソードに関係が付けにくいのだ。そして、全体的なトーンは暗めだ。前向きな展開でもない。その上、登場人物たちの発するセリフは微妙に食い違う。それらは読者に釈然としない感じを抱かせる。誰が誰に語っているのかもはっきりしないセリフが次々と積み重なり、読者の脳に処理されずに溜まってゆく。明らかに過去からの亡霊と思われるセリフが違う書体で随所に挟まれる。セリフとセリフの間には、話者の間にコミュニケーションがなりたっている。が、それはある瞬間でブツリと途切れてしまうのだ。そして何事もなかったかのように次の断章に繋がってゆく。本書を読むだけでもとても難儀するはずだ。

だが、そういったもやもやは、本書を読み終えた時点でかなり解消されるだろう。なぜこれほどまでに曖昧な印象を受けるのか。その理由を読者が知るのは、本書を読み終え、本書の構造を理解してからとなる。その時、読者は知る。なぜ、本書の登場人物の話す言葉や視線がぼやけているのか。なぜ、頻繁に死を示すことばや比喩が登場するのかを。

本書が込み入っているのは時間と場所だけではない。生者と死者の関係も同じように込み入っているのだ。普通に話している相手が実は死者であり、さらには断章の主人公さえも死者である物語。死者と生者が混在する世界。死者ゆえに時間を超越する。死者故に空間を飛び越えて遍在できる。そのため、本書は複雑なのだ。何次元もの層が複雑に折り重なっている。そしてわかりにくい。

また、もう一つ。本書を分かりにくくしている要素がある。それは構造だ。本書が70の断章で成り立っていることは上に書いたが、全体の行動がループしているのだ。それも本書をわかりにくくしている。本書の終わりが本書のはじまりにつながるのだ。つまり、終わりまで読んでようやく本書の始まりの意味に気づく仕掛けになっている。上に書いたとおり本書を2度、3度読まねば理解したといえない理由はここにある。

『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾氏は本書の円環構造を、このように書いている。
「円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある」(92P)、と。

ここでいう自己生産とは登場人物による会話が、次の展開を呼ぶことを意味する。先にも書いたとおり、本書は断章のセリフが次の断章を呼び出している。だから本書の主人公は誰でもよいのだ。死者でもよいし、過去の住人でもよい。会話だけが主人公のいない本書に一貫して流れ続ける。そう考えると『ペドロ・パラモ』とは主人公をさすタイトルではない。どんな呼び方でも構わないと思える。ところが本書のあとがきの訳者の解説ではペドロ・パラモにも意味があることを教えられるのだ。ペドロが石、パラモは荒れ地。ということはペドロ・パラモを求める意図とは、「荒れ地の石」をもとめる旅にもつながる。だからこそ本書はつかみどころがない。登場する人々は死に、あらゆるものが読者にあいまいな世界。目的が荒れ地の石なのだから当然だ。その意味ではペドロ・パラモは主人公ではなく、本書の存在そのものかもしれない。

本書が荒れ地の石なのであれば、読者はそもそも何を求めて本書を読めばよいのだろう。それは読者もまた死ぬという絶対的な真実を突きつけるためなのか。もしそうだとすれば、個人にとって救いがない。だが、本書はもう一つ世のならいとは堂々めぐりにあることも示している。それは種族としての希望として考えられないだろうか。たとえ個人の営みはむなしく虚になることがわかっていても、種族は未来に向けて延々と円を描き続けていく。そこに読者は希望を見いだせないだろうか。本書を読む意味とは円環の仕組みにこそあるのかもしれない。

訳者はこう書いている。「断片と断片をつなぐ伏線の中に、うっかりして見落としてしまいそうなものもたくさんある。読み返して、ふと気づいたりするのだが、こんな目立たぬところにもこういう仕掛けがあったのかと驚くと同時に、作品の隅々にいたるまでの精緻な構築にあらためて感嘆の声をあげてしまいそうになる。」(217P)

原書と日本語訳を何度も読み返したはずの訳者にしてこのような感慨を持つぐらいだ。私など本書の仕掛けのほんの一部しか知らないに違いない。なにしろまだ一度しか読んでいないのだから。だからこそ必ずや本書は読み直し、理解できるように努めたいと思う。

‘2017/01/01-2017/01/09


原子雲の下に生きて


本書は、長崎原爆資料館で購入した。

長崎に訪れるのは三度目だが、原爆資料館は初めての訪問。前の二回は時間がなかったり、改装工事で長期休館中だったりとご縁がなく、三度目にしてようやく訪問することができた。だが、ようやく実現したこの度の訪問も私にとっては時間がとれなかった。資料館に来る前は如己堂や浦上天主堂に寄り、資料館の後には福岡に戻る用事があったからだ。当然、売店でもじっくりと本を選ぶ時間はなかった。5分程度だったろうか。そんなわずかな時間で購入した二冊のうちの一冊が本書だ。本書の編者である永井隆博士は長崎の原爆を語る上で欠かせない。なので売店には編者の作品が多数並んでいた。あまたの編者の著作の中で本書を選んだことに深い意味はない。ただ、最低でも一冊は著者の作品を買おうと決めていた。

なぜそう決めていたかというと、編者のことをもっとよく知りたかったからだ。原爆資料館に来る前日、長崎への往路で読んだのが高瀬毅著「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」だ。そのレビューにも書いたのだが、その中で著者の高瀬氏は、原爆は神が浦上に与えた試練という編者の言葉を、キリスト教信者でない被爆者への配慮がないと非難している。その言葉を文字通りに解釈してよいならば、私もとても容認できない。ただ、そこに誤解や早合点がないかはおさえておく必要がある。編者がクリスチャンである事実とともに。そして編者はこのような批判にも関わらず、いまだに人々から尊敬され続けている。その理由は著者の発信した著作の中にもあるが、もう一つは如己堂にもあるのではないか。この旅で原爆資料館に訪れる前、如己堂も立ち寄った。如己堂は編者の居宅として知られているが、訪れたのは初めて。二畳しかない如己堂で病に侵されたまま起居し、なおかつ膨大な文章を遺した編者の意志は並大抵ではない。如己堂の狭さを眼前にすると、編者に私心があるなど、とても思えない。

著者が語ったとされる「原爆は神が浦上に与えた試練」を、信仰心によって視野が狭まった発言と読むことは簡単だ。それをまんまとアメリカのイメージ改善策に利用されただけ、と片付けることも可能だ。だがそこで、あの発言にはもっと深い別の意味があったとは読めないだろうか。それは、編者は批判を受けることを承知でもう一段高いレベルから原爆を捉えていたとの考えだ。その場合、われわれの方が逆に編者はクリスチャンである、という偏見で言葉を受け取っていた可能性もある。私は著者の考えがどちらかを知りたいと思った。永井隆記念館に行けなかったこともあってなおさら。

病床でも我が子を慈しんだという著者。そうであれば、子供たちの被爆体験を編んだ本書に慈愛の視点が含まれているはず。そのような判断を売店でとっさにくだし、本書を購入した。だが、結論から言えば永井博士の真意を知ることはできなかった。なぜなら本書は、純粋に被爆児童の体験記だからだ。

体験記が本書に収録されるにあたり、特定の意図で選ばれたのかどうかを私は知らない。ただ、編者の意図を詮索することは無用だ。無用かつ失礼ですらあると思う。

本書に収められた被爆体験は、下は四歳から上は十五歳の児童によってつづられている。まだ物心も付かない子の場合、そもそも何が起こったか理解せぬままに、そばにいたはずの父や母が突然凄惨な姿に変わり果る。あどけないがゆえに真に迫っており涙を誘う。

一方で年かさの子供たちの体験には、当事者にしか書けない切迫感がある。見たままに聞いたままに、人類史上、未曽有の現場に居合わせた体験。何が起こったのか分からぬにせよ、事実を認識し、記憶できる年齢で被爆し、体験したこと。本書に収められた体験記は被爆の残虐さを雄弁に語っている。

体験談を寄せた中には、よく知られた人物もいる。吉田勝ニさんは、右側頭部にひどいやけどを負った。その痛々しいやけどの様子は、長崎原爆資料館にも写真が展示されている。吉田氏の体験談は、被爆の瞬間から被爆後の治療のつらさや、ケロイドによる差別にまで及んでいる。それは延び盛りの青春を原爆に奪われた方のみが叫ぶことのできる魂の声だ。吉田氏が受けたやけどの画像が生々しいだけに、本書で読む体験記は一層われわれの胸に迫る。

あと、本書には再録されていないし、もはや叶わぬ願いとはわかっているが、体験談を聞きたかった方がいる。長崎の被爆少年としてはこの方も著名な方だ。死んだ赤ん坊をおんぶし、焼き場の前で唇をきつく噛んで直立不動でたつ少年。ジョー・オダネル氏による写真で知られたあの少年だ。あの少年の素性は今もなお不明のままという。その固く結ばれた口には、どんなおもいが溢れだしそうになっていたのだろう。残酷で不条理な現実を前に、何かを叫びたくとも日本男児の誇りからか、かたくなに口をつぐむ。

本書に遺されたのはそれぞれが切実な被曝の体験だ。そして、同じだけ悲痛な何万倍もの気持ちが野に満ちていた。そこは何をどう言い繕うとも正当化されることはない。原爆投下には投下側の言い分もあるだろう。それは認めよう。だが、無警告に一般市民の、とくに幼子の頭上に投下した道義上の罪は消えることはない。それは本書に記された体験記が声を大にして主張している。

そして、本書を編纂した永井博士にしても、単に神の試練として全てを委ねるだけでなく、恐らくはいろいろな思いを感じ、汲み取り、考え、悩み、その上で、あのような言葉として絞り出すほかなかったのではないか。たとえ非クリスチャンへの配慮が欠けていたとはいえ。

‘2016/11/14-2016/11/14


人間臨終図鑑II


本書では享年五十六歳から七十二歳までの間に亡くなった人々の死にざまが並べられる。五十六歳から七十二歳まで生きたとなれば、織田信長の時代であれば長生きの部類だ。当時にあっては長寿を全うしたともいえる。

人生の黄昏を意識し始めた人々は、死に際して諦めがいい。とはかぎらない。

本書に収められている以上は、それぞれがその世界で名を成した人々だ。努力に研鑽を重ね、なにがしかの実績を重ねて来た人々でもある。が、そういった人々こそ、まだまだ道なかば、と思いながら日々を生きているのではないか。死を前にして、自分はまだ若いと考えたことだろう。

人の死にざまを描くことで、その人の一生を総括できるのか。著者がこの図巻で試みようとするのは難儀な試みだ。その人の一生を知りたければ葬儀の参列者を観察すればいい。誰が言ったかは知らないが、一面の真理をついている。では、その人の死に方を観察すれば、その人の一生は理解できるのか。悟ったように従容と死に臨むことができれば、その人は生涯を悔いなく過ごせたといえるのか。これまた難しい問いだ。

私自身、齢四十三を数えた自らの人生を振り返ると、道半ばどころか、ひよっこもいいところだと思っている。まだまだ知りたいことやりたいことが無数に残っている。仮に今、死期を知らされたところで、きっと未練で取り乱すに違いない。

産まれた瞬間に死刑宣告を受けるのが生きとし生けるものの定め。それは頭ではわかっていても、悟りを開くにはやるべきことがまだまだ残っている。そう思っている。もちろん、一生を悟りの中に生きることもありだろう。だが、そこに諦めは持ち込みたくない。死に臨むなら、諦めの中でなく、やり切った満足の中に臨みたい。最後に一念発起し、盛大に花火を打ち上げるのも良いが、生半可な花火ではかえって悔いが残るかもしれない。それであれば体力のある今のうちにやりたいことをやっておきたい。

本書を読むと、否応なしに死に方について思いを致したくなる。日々を生きるのに精一杯な状態では、死に方について考える暇もないだろう。であれば、せめて他人が死に臨んでどのように納得したのか。どのように折り合いをつけたのか。その様を知り、自らの死生観を養うのがよい。いまだかつて、死で自らの生を終わらせなかった人間はいない。これを書いている私にもやがて死は訪れる。これを読んでくださっているあなたにも。死は等しくやってくる。

そして、死ぬ事を、頭のなかでわかったような気になっているのも私も含めて皆一緒だ。それであれば、少しでも自分の死に際して、慌てず騒がず、悔いなくその時を迎えるにはどうすればいいか。本書は、やがて訪れる死を前に、読んでおくべき一冊だと思う。

’2016/07/08-2016/07/10


百年法 下


上巻では、百年法を成立させる過程で笹原が自死を遂げる。その志を継いだのが内務省で笹原の部下であった遊佐。

遊佐は百年法を国民にあまねく浸透させるためには民主主義では生ぬるいと考える人物だ。権限を持った施政者による強力な指導がこれからの日本共和国には必要との持論を持っている。その持論にのっとり、遊佐は首相の座に就く。そして大統領に野党党首だった牛島を擁立する。大統領といっても、現代フランスやアメリカのような任期制の大統領ではない。内政にも強大な権限を持つ終身大統領だ。遊佐は自らの信ずる政治体制を実現するため、合法的に大統領へ無限の権力を集中させる。上巻は、自らが擁立した牛島大統領により、足を掬われる遊佐の狼狽で幕を閉じる。

下巻では政治と国民の断裂は深刻になる。百年法は施行されたが、その徹底はおざなりになる。百年たったにも関わらず当局に出頭しない者は増加し、彼ら逃亡者は各地でコミュニティを作って自活の道を選ぶ。闇IDカードが横行し、政府が派遣した軍隊が逃亡者コミュニティを掃討することが頻発する。生存権の制限を徹底したい政府と生存本能に忠実な国民の間の争い。それが描かれるのが下巻だ。

下巻では、政府内部の権力闘争も執拗に描かれる。それは牛島大統領と遊佐首相による暗闘だ。著者は本書のサブテーマにマキャベリズムのあり方も取り上げる。為政者とは国民に対してどうあるべきなのか。権力を得る前と得た後で人はどう変わりうるか。人は権力を手にした時、どう振る舞うべきか。そして、権力闘争を勝ち抜くために求められる資質とは何か。

マキャベリズムとは、ルネサンス期の政治思想家マキャベリが唱えた思想のことだ。ウィキペディアの定義を引用すると、どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想だ。だが、マキャベリズムが生まれでたのは、かつてマキャベリが活躍したフィレンツェやその周辺の都市国家が群雄割拠した中世の時代背景があってこそ。いまや覇道が大義として通用した中世ではない。21世紀半ばの情報技術の豊かな日本共和国を舞台として、いかにマキャベリズムを具体化するか。著者の思考実験には、生死という人間にとっての究極の選択が欠かせなかったのだろう。

上巻のレビューで、著者は本書において主張したかったことが多数あるはずと書いた。その一つは家族のあり方だ。不老が実現した社会では、子が親を養う事が不要となる。つまり親子の縁はもはや足枷でしかなくなるということだ。

著者は本書で様々な社会実験を行う。そのうち、私が被験者に置かれたくない実験。それこそが家庭の意味が崩壊した社会に生きることだ。こと家庭に関しては私は保守的な考えを持っている。多分、不老が実現した社会では本書の予言通り家族制度は溶解することだろう。だが、仮にそうだとして、それを今の日々にどう活かすのか。家庭だけでなく、労働のあり方にも相当な変化が起きるはずだ。社会構造が変わることで、子を持つ意味も根底から覆る。本書はそういった思考訓練にも使えるかもしれない。

本書下巻には正体不明の阿那谷童仁というテロリストが暗躍する。政府にたてつく反百年法のシンボル。活動年代の長さは、HAVI処置による長命だけでなく、複数の人間が何代にもわたって阿那谷童仁を襲名しているかのようだ。その存在は、生存権を脅かされた国民による反旗のシンボルのよう。だが、阿那谷童仁の行動からはこれといった信念が感じられない。阿那谷童仁が仮に逃亡者の代弁者であったとして、逃亡者の信念の根底にあるのは国に生殺与奪権を握られていることの反抗だけなのか。それとも逃亡者とはただ本能に正直なだけの人々の集まりなのか。

その判断は読者に委ねられる。家族という価値観が崩れた後、人は何を支えに生きて行くべきなのか。それを問う事は、本書の底流を成す重要なテーマだと思う。国家による生存権の掌握や、その運営にあたる政治家の持つべき矜持も重要だ。だが、人が生きる目的を探る事は、そもそも小説という芸術の根幹にも関わることだ。本書では、種族の繁栄という大義名分が喪われた人が何を目標に生きるのか、との問いがなされる。この問いは表立って出てこないが、本書を読む上で見逃せない。

著者は、最終的には本書の筋を国家としてのあり方につないでゆく。宗教や思想、主義、哲学、生きがい、人生観、価値観。そういった精神的なものは、国民の一人一人に任せておけばよい。と著者はその是非を読者に預ける。上にも書いたような人としての生きがいは本書の重要なテーマではあるが、最終的にはそれは読者それぞれの価値観によるとでもいうかのように。

では、国政を預かる者の責務はなにか。結局は、国民の生活基盤を整える事ではないか。国民がそれぞれの生きがいを全うし、人間らしい生活を営むための基盤。それを整え、提供することが国の責務なのだろう。なぜなら、それができるのは国家だけだからだ。

国と国民とはしょせん同化できるものではない。個人と国の価値観は常に対峙しあい、依存しあい、反発しあう。立場や視点によって国の立場も国民の立場も変わる。そして、国は国民がいなければなりたたない。国は国民の生存権を左右することはできても、それでもなお、一人一人の国民がいなければ、立ちゆかないのが国なのだ。そこを見据え、さらに先の未来を描き、バランスの取れた統治に徹するのが正しいマキャベリズムの姿なのかもしれない。

本書はこのように、様々な角度から社会や国の現状認識を揺さぶる。それだけの力を持った小説だ。ぜひ味わってみて欲しいと思う。

‘2016/6/23-2016/6/25


百年法 上


国家を成り立たせるための最低要件。それは政治学の初歩の問いではないか。この場で私が思いつく限りでも、国民、国境、そして軍隊も含む外交主体などが浮かぶ。最後に挙げた主体とは、国の実態を対外折衝を行える組織に置く考えに基づいている。つまり、対外折衝を国に対して行うからには、その組織を国と見なしても良い、ということだ。

一方、国を考える上で内政とは何を指すのだろうか。国民と統治者の間にサービスを介した関係が存在すること。それは誰にも異論がないはずだ。国民は国からサービスを受けるため税金を払い、国はその見返りにサービスとしての教育や福祉、治安を提供する。これは、政府の大小や主義主張の違おうとも、一般に認められる考えではなかろうか。今、私が考える国の内政機能といえば、せいぜいこのくらいしか思いつかない。

国防の名において、国民を外敵から守るといった秩序維持も国家の機能の一つに挙げてもよさそうだ。それだけにとどまらず、外交も内政も行き着くところは国内の秩序維持に集約される、といった意見にも私は反対しない。

国家が秩序維持を御旗に掲げた場合、個人の権利は縮小される。国民福利の原則を盾に、強制代執行の行使がなされる事案はよく耳にする。国家権力の名の下に、個人の権利は制限される。今さら基地問題や市街地開発を話題に出すまでもなく、お馴染みの話だ。

ただ、権利が制限されると言っても我が国の憲法には、生存権をはじめとする権利が明記されている。それら謳われた権利の保護は、たとえ建前であったとしても尊重されているといってよいだろう。なかでも生存権については、前憲法下で蔑ろにされた反省から現憲法ではかなり気が遣われていると思う。

日本国憲法が施行されて70年がたった今、生存権について国家が制限をかけるという試みはタブーに等しい。本書は、そのタブーにあえて踏み込んだ一冊だ。

そのタブーを描き出すため、著者は近未来SFの手法を採る。それは、パラレルワールドにおける近未来として読者の前に示される。なにせ、本書の舞台は日本共和国なのだから。1945年までは同じだが、第二次世界大戦の戦後処理の過程で共和国形態を採った日本。パラレルワールドの日本には大統領がいる。実務は首相が執る。本書に描かれる日本共和国の政体は、現代フランスの政治体制に近いだろうか。

ふとした偶然で発見されたヒト不老化ウィルス、略してHAVI。このウィルスこそが本書の着想の肝だ。不死を手に入れた人類の壮大な社会実験。そして、死なないということは、際限なく人が増え続けること。つまり、国家による生存権の制限が必須となる。その制限の根拠こそ百年法だ。

本書の扉や表紙折り返しには条文が掲載されている。
【生存制限法】(通称:百年法)
不老化処置を受けた国民は
処置後百年を以て
生存権をはじめとする基本的人権は
これを全て放棄しなければならない

自然死や事故死ならともかく、国家によって強制される死。それはかつての日本にあっては、赤紙に象徴された。なぜ著者は本書のパラレルワールドとわれわれが生きる世界の分岐点を1945年に設定したか。私はその理由は二つあると思う。一つは、日本共和国成立には太平洋戦争の敗北が必要だったこと。もう一つは、百年法施行に踏み切る指導者の背景に太平洋戦争前の死生観をおく必要があったからではないか。

本作中で百年法が最初に議会に提出されるのは西暦2048年。百年法を主導するのは内務省。内務省次官の笹原は、太平洋戦争を闘った軍人あがりの人物。HAVIウィルスに感染、つまり、不老となった。

笹原は、死と生が隣り合わせになっていた時代の空気を知り、国家による生存権の制限を知っている。つまり、国家による生存権の制限に再び踏み切るには適任な人物だ。

笹原自身も、百年法が施行されれば、一年後に生存権が停止されることになる。だが、彼は、自らも自死を前提とした覚悟で国民に決断を突きつける。まさに命がけで政治を行うとはこのことだ。

本書を通して、著者が訴えたいのは死生観の多様性を描くことだけではない。国家による生存権の制限は、著者のテーマの素材を活かす舞台に過ぎないと思う。著者が訴えたいことの一つは、政治家に求められる覚悟だ。

つまり、笹原が選んだような、国の行く末のためには命すら賭す信念。為政者が身にまとうべき矜持ともいえようか。

だが、それは云うは易し、の理想論に過ぎないようにも思う。笹原のような命を賭ける政治家が不在である今の日本。これは、今の日本がまだそこまで追い詰められていない事の証だと思う。まだ、今の日本には余裕があるということでもある。少なくとも本書で日本共和国が陥った状況には、今の日本は至っていないように思う。

つまり、著者が百年法や日本共和国という舞台を創造してまで描きたかったこととは、政治家の本分ではないだろうか。

本書では多様な登場人物が死生観を披露する。百年法の適用対象となっても当局に出頭せず逃亡者となる者。HAVIをそもそも受けず、自然のままの老化を選ぶ者。未練がましく葛藤しながら自らの終末まで生きようとする者。人によって価値観は十人十色だ。そんな多種多様な死生観を持つ人々を率いるには、生半可な信念では務まらない。本書で著者が一番訴えかけたかったのは死生を統べる為政者としての覚悟だろう。

そう考えると、なぜ著者は本書の日本を共和制にしたのか、天皇制を廃したのはなぜか、という疑問にも答えがでる。たとえ象徴とはいえ、国民の死生を左右する国に天皇がある設定。その設定に著者は踏み切れなかったのではないだろうか。

ここから強いて何かを受け止めるとすれば、国と国民の間に死生観が介在すること、だろうか。戦後70年を経た今、為政者ではなく、天皇の名の下に国民に死生を強いたことの影響。その微妙な影響は今なお残り続けている事実を本書からあらためて突きつけられたと思う。死生観の強制があった事実は、今も国と国民の間に抜き難く残っている。そんな感想を抱いた。私自身は、象徴としての天皇の在り方に賛成する立場だ。だが、この先、IT技術の進歩は国と国民の関係に深く関わってゆくことだろう。

本書からは、それらのあり方も含めて考えさせられた。

2016/06/22-2016/06/23


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


魂のリアリズム 画家 野田弘志


写実画。現実と寸分たがわぬ姿を再現する表現法である。目を中心に五感を最大限に働かせ、最新の手先の技術を駆使し、現実を別の次元であるキャンバスに写し取る。素晴らしい作品ともなると、その場の様子ばかりか、時間や匂いまで再現されており、ただ魅入るばかりである。私も抽象画よりはどちらかというと写実画の方が好みである。

だが、最近のIT技術の進展は、素人でも簡単に現実の一瞬を写し取ることを可能にした。デジカメの力を借りて。ディスプレイの画素を通し、プリンタから印字した紙の上で、人々はいとも簡単に現実の断面を鑑賞する。一見すると、画家が精魂込めた作品を、素人が労せずに再現しているようにも思える。写実画とはなんのために存在するのか、と疑問を持つ向きも多いだろう。写実画が好きな私にしても、心の片隅でそのような疑問を持たなかったと言えばうそになる。

本作は、現代日本にあって写実画の第一人者とされる野田弘志氏に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。野田氏の製作過程や芸術・美に対する考え方などが、71分という短めの尺に凝縮されている。前にも書いた写真と写実画の違いについては、本作が雄弁に語っている。

雄弁に語ると書いたが、本作は解説のセリフをだらだら流すだけの、教則ビデオのようなものではない。むしろ逆である。台詞は極限までそぎ落とされ、静謐と思えるほどの間が全編を通して流れる。ギターやチェロによる効果音楽も合間に流れるが、野田氏の製作過程の場面では、静寂、または時計のチクタク音のみが流れる。真摯な眼差しと手先の筆さばきがアップで映され、観客は、スクリーン全体で雄弁に語られる写真と写実画の違いを受け止める。そのあたり、本作では音響の使い方が実に適切である。監督を始めとするスタッフの真摯な仕事ぶりが本作で取り上げられている内容に反映されているのが感じられる。

本作冒頭で、野田氏の代表作の数々が映し出される。本作の中心に据えられるのは『聖なるもの THE-IV』という鳥の巣をモチーフとした作品である。野田氏のアトリエ近くに設えられていた野生の鳥の巣を巨大キャンバスに再現した一枚。本作ではその製作過程を中心として進行する。当初見つけた時は巣の中に1個の卵だったのが、2個になり、5個になり、5羽の雛が孵る。が、ある日野田氏が見てみると巣ごと忽然と消えていたという。おそらくは他の動物に雛ごとさらわれたのであろうと野田氏は語る。生と死をテーマに据える野田氏は、その誕生の尊さと、その儚さについて、生き永らえることのなかった雛たちの生が、キャンバスに永遠に残ることを願う。

製作過程はこうである。まず、デジカメで精緻な写真を撮影する。そしてキャンバスを自らの手で貼りつける。次にデジカメ写真を2m×2mほどのキャンバス大まで拡大する。拡大の際は、下書き用の写真なので複数の用紙に分割して印刷し、それをテープで貼り合わせる。キャンバスにカーボン紙を貼り付け、その上に先ほど貼り合わせた写真を載せる。あとはそこから輪郭などを線描ですべて書き込んでいく。毛布やタオルやクッションを駆使しての重労働である。終われば、書き込んだ内容がカーボン紙を通してキャンバスにうっすらと写し取られている。キャンバスを今度は可動式の台に垂直に立て、撮影した写真を観ながら、正確に写しつつ描いていく。

野田氏は語る。ただ写すだけでなく、デフォルメなどは自身の解釈も含めると。眼前にある美を目に映ったままに再現するのではなく、その奥に隠れている口には言えない美の本質を再現したいと。それは現実の単なる模倣ではなく、作品として魂を入れる作業である。製作過程を観ていると、本当にこれが精密な作品に仕上がるのか、と不安になるような出だしである。写真の輪郭をカーボン紙で模写した直後も、油絵具を塗り始めてからも、完成品に比べると遠く及ばない。それを野田氏は何度も粘り強く油絵具で重ね塗りを加えていく。すると絵に命が吹き込まれていく。見る見るうちに現実的なフォルムになる。色合いが写真に近づき、それを上回る。質感さえもが写真を凌駕する。

製作過程の合間に、北海道伊達市のアトリエ周辺の景色の季節の移り変わりが挟まれる。有珠山は色づき、太陽が山を鮮やかに染め、落ち葉が舞い、雪が白く覆う。野田氏はその合間にも奥様と雪かき道具を持参でゴミ捨てに行き、広島で整体師による整体治療を受け、講演を行い、絵画塾の主催者として弟子に絵の心を伝達する。画商の訪問を受け、愛弟子をアトリエに招いて絵の道を教え諭す。

野田氏はいう。一枚の絵に一年はかかると。本作もまた、一年の季節の移り変わりと、『聖なるもの THE-IV』製作過程の進展を同調させる。一年の間に野田氏がこなす様々な仕事の姿を通し、野田氏の肉声を通して、その芸術観や美に対する考え方が紹介される。

最後に入念なチェックと、署名を終えたときの、野田氏の満足げな顔が実によい。自らに向き合う魂の仕事を終えた男の顔である。この顔を観るために、もう一度本作を観ても良いぐらいである。作中で野田氏が語る一節で、イラストレーターの仕事を辞め、画家として一人立ちする決意を述べる下りと、何をどのように書きたいとかではなく、ただ絵が描きたいと思ったという下り。そして愛弟子に絵の道を諭す時の下り。仕事とはこうありたいものである。

’14/8/30 テアトル新宿