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成功している人は、なぜ神社に行くのか?


本書は、神社に祈ることの効用を勧めている。その中にはスピリチュアルな視点も含んでいる。
本書が説く効用とは、端的に成功を指している。成功とは政治や経営なども含め、人を統率し、その名を天下に残すことにある、と考えてよいだろう。
古今、天下人の多くは特定の神社を崇敬していた。成果を上げ、成功した人の多くに共通するのが、特定の神社を熱く崇敬していたことだという。

私は神社仏閣によく立ち寄る。
訪れた旅先の地に鎮座する神社で旅の無事を祈る。そして家族、会社、地域や親族の発展を望み、日本と世界の安寧を願う。

私は誰に祈っているのか。
もちろん、神社であれば御祭神が祀られている。寺であれば安置された仏様がいる。
私の祈りはおおまかにいえば、それらの神仏に対して捧げられている。
ただ、私は具体的な神仏を念頭に置いて祈っていない。例えばスサノオノミコトとかタケミカヅチとか、廬舎那仏とか。私は、目の前の本殿や本堂に鎮座する神仏というより、自分の中に向けて真剣に祈っている。

当たり前だが、宗教が信仰の対象とする神は私の中にはいない。私にとって神仏とは目に見える形で存在するものでもない。
仮に神仏がいたとしても、そうした存在は私たちの認識の外にいる、と考えている。例えばこの宇宙を創造した存在がいたとする。その知的存在を神と呼ければ、神は実在すると考えてもいい。だが、私たちにはその存在を認識することは到底無理。なぜなら宇宙ですら知覚が覚束ないのに、その外側から宇宙を客観的に見ることのできる存在を知覚できるわけがないからだ。
だから私は、神は目に見えず、知覚も不可能な存在だと考えている。
とはいえ、神が知覚不能の存在だとしても、自分のうちの無意識にまで降りることができれば、神の片鱗には触れられるのではないだろうか。その無意識を人は昔から集合的無意識といった言葉で読んできた。
神のいる世界に近づくためには自分を深く掘り下げる必要がある。私はそう思っている。

では、自分のうちに遍在するかもしれない神に近づくためにはどうすればよいか。必ず寺社仏閣で詣で、そこで祈ることが条件なのだろうか。
私は日常の生活では神に近づくことは容易ではないと思っている。
なぜなら、日常はあまりにも雑事に満ちているからだ。自分の無意識に降りられる機会などそうそうないはず。

今、わが国は便利になっている。外を歩いてもスマホをつければ情報がもらえる。
ふっと思い立って旅することも、いまや気軽にできるようになった。
それは確かに喜ばしいことだ。
だが、その便利さによって、あらゆることが気持ちを切り替えずにこなせるようになってきた。気持ちと集中力を極限にまで高めなくてもたいていのことはできてしまう。
だが、その状況になれてしまうと、正念場にぶちあたった際、人は力を発揮する方法を忘れてしまう。
仕事でも暮らしの中でも、いざという時の集中力がなければ乗り超えられない局面はやって来る。
危機的な状況に出会うたびに、日常の態度の延長で局面にあたっていても大した成果は得られない。

自分の中で気を整え、集中して力を発揮するための術を身につけておかないと、平凡な一生で終わってしまう。自分の中で気持ちを切り替えるための何かの言動が必要なのだ。
だから、私たちは神社仏閣に訪れ、静謐な空間の中で祈る。日常からの変化を自分の中に呼び覚ますために。

私も長じるたびに雑事に追われる頻度が増えてきた。その一方で、スキルやガジェットを駆使すればたいていのことはこなせるようになってきた。
だが、ここぞという局面で成果を出すためには、気持ちを込める必要も分かってきた。そうでなければ成果につながらないからだ。そのため、私は神社仏閣で祈る時間を増やしている。たとえスピリチュアルな感覚が皆無だとしても。

さて、前置きが長くなったが本書だ。

冒頭にも書いた通り、わが国には幾多の英雄が名を残してきた。今でも政治家で国の政治を動かす立場になった人がいる。
そうした人々の多くに共通するのが、神社を熱く崇敬していたことだ。
古くは藤原不比等、白河上皇、平清盛、源頼朝、北条時政、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康から、現代でも佐藤栄作、松下幸之助、出光佐三、安倍晋三。etc。
藤原不比等と春日大社、平清盛と厳島神社。源頼朝と箱根神社。徳川家康と諏訪大社。

それらの偉人のうち、何人かは自らが祭神になって祀られている。
有名なのは豊国神社。豊臣秀吉が祀られている。日光東照宮と久能山東照宮には徳川家康が。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は東郷神社の祭神でもある。

今までの歴史上の物語を読むと、そうした英雄が戦いの前に神社で戦勝を祈願する描写のいかに多いことか。
祈りとは「意(い)宣(の)り」。つまり意思を宣言することだ。
言霊という言葉があるように、意思を常に宣言しておくことは意味がある。常に意思を表に表しておくと、周りの人はそれを感じ取り、御縁を差し伸べてくれる。
かつて聞いたエピソードで、こんなことが印象に残っている。それは電話相談室の回答で、流れ星を見かけたら三回願いを唱えられたらその願いは叶うのはなぜか、という質問への回答だ。
なぜ願いは叶うのか。それは流れ星を見たら即座に自分の願いが三回思い浮かべられるほど、普段から頭の中でその願いを考えているからだ。

私も法人を立ち上げた40歳過ぎから神社への参拝頻度を増やした。
この忙しない情報処理業界でなんとか経営を続けて居られるのも、こうした祈りを欠かさなかったからではないかと思っている。
上に書いた通り、自分の中でけじめをつけ、気持ちを切り替えるためだ。

本書には禰宜や宮司さんが行うような神道の正式な参拝方法が説明されているわけではない。
むしろ、私たちが気軽に神社で参拝するためのやり方を勧めている。
もっとも基本になるのは、年三回は参拝に行くこと。そしてきちんと心の中で祈ること。
私の祈り方はまだまだ足りないし、精進も必要だろう。そのためにも本書を折に触れて読み返してみたい。

‘2020/05/19-2020/05/22


女信長


実は著者の作品を読むのは本書が初めてだ。今までも直木賞作家としての著者の高名は知っていたけれど。
著者の作品は西洋史をベースにした作品が多い印象を持っていて、なんとなく食指が動かなかったのかもしれない。

だが、本書はタイトルが興味深い。手に取ってみたところ、とても面白かった。

織田信長といえば、日本史を彩ったあまたの英雄の中でもだれもが知る人物だ。戦国大名は数多くいる。その中で五人挙げよといわれた際に、織田信長を外す人はあまり多くいないはずだ。
戦国時代を終わらせるのに、織田信長が果たした役割とはそれほど偉大なのである。

以下に織田信長の略歴を私なりにつづってみた。
尾張のおおうつけと呼ばれた若年の頃、傅役である平手正秀の諌死によって行いを改めた挿話。
弟を殺すなどの苦戦を重ね、織田家と尾張を統一したと思ったのもつかの間、今川義元の侵攻が迫る。勢力の差から織田家など鎧袖一触で滅ぼされるはずだった。
ところが桶狭間の戦いで見事に今川義元を討ち取る功を挙げ、さらに美濃を攻め取り、岐阜城に本拠を移す。そこで天下布武を印判に採用し、楽市楽座の策によって岐阜を戦国時代でも屈指の城下町に育てる。
そこから足利義昭を奉じて京に足掛かりを築くと、三好家や松永家を京から駆逐する。さらには姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を敗走させ、基盤を盤石にする。
比叡山を攻めて灰塵と化し、石山本願寺も退去させ、長篠の戦で武田軍を打ち破り、安土城を本拠に成し遂げた織田政権の樹立を目前としたまさにその時、明智光秀の謀反によって業火の中に消えた、とされている。いわゆる本能寺の変だ。

その衣鉢を継いだ羽柴秀吉が天下統一を成し遂げ、さらにその事業は徳川家康によって整備された。江戸幕府による260年の平安な時代は、織田信長の偉業を無視しては語れないだろう。
織田が搗き、羽柴がこねし天下餅 座りしままに喰らう徳川
この狂歌は徳川幕府による天下取りが実現した際に作られたという。
当時の人にも徳川政権の実現は、織田信長による貢献が多大だったことを知っていたのだろう。

そうした織田信長の覇業の過程には、独創的な発想や、疑問とされる出来事が多いことも知られている。

独創的な発想として挙げられるのは、たとえば楽市楽座だ。他にも西洋の軍政を取り入れたことや、種子島と呼ばれた鉄砲の大規模な導入もそう。
疑問とされる出来事として挙げられるのは、たとえば正妻である濃姫が急に史実から消え去り、没年すら不明であること。また、本能寺の変によって燃え盛った本能寺の焼け跡から、織田信長らしき死骸が見つからなかったことも挙げられる。
そもそも、なぜ明智光秀が本能寺の織田信長を襲ったのか。その根本的な理由についても諸説が乱立しており、いまだに定説がないままなのだ。

そうした一連の謎をきれいに解釈して見せ、まったく新しい歴史を読者に提示して見せる。それが本書だ。ただ、織田信長が女だったという一点で整合性が取れてしまう。これぞ小説の面白さ。

もちろん、織田信長が女だったことを史実として認めることは難しいだろう。だが、歴史小説とは史実を基にした壮大なロマンだ。著者によってどのような解釈があったっていい。
源義経は衣川から北上し、大陸にわたって成吉思汗にもなりうる。徳川家康は関ケ原で戦死し、それ以後は影武者が務めることもありうる。豊臣秀頼は大坂夏の陣で死なず、ひそかに薩摩で余生を送ったってよい。西郷隆盛は城山で切腹せず、大陸にわたって浪人として活躍するのも面白い。
その中にはひょっとしたら真実では、と思わせる楽しさがある。それこそが歴史のロマンである。小説の創作をそのまま史実として吹聴するのはいかがなものかと思うが、ロマンまでを否定するのは興が覚める。

本書は、織田信長が女性だったという大胆極まりない設定だけで、面白い歴史小説として成り立たせている。
冒頭で、娘を嫁がせた尾張の大うつけを見極めてやろうとした斉藤道三に女であることを見破られる。そして処女を散らされる織田信長こと御長。この冒頭からして既にぶっ飛んでいる。

だが、そこで斉藤道三の心中を丁寧に描写するのがいい。その描かれた心中がとても奮っている。
群雄たちがせいぜい、ただ領地を切り取るだけの割拠の世。これを打破するには、まったく違う発想が必要。そうと見切った織田信秀が、男の発想では生まれない可能性を女である御長に託したこと。その意思を斉藤道三もまた認め、御長には自らが亡きあと美濃を攻め取るよう言い残したこと。
まさにここが本書の最大の肝だと思う。
冒頭で信長の発想が女の思考から湧き出たことを読者に示せれば、あとは歴史の節目節目で信長が成した事績を女の発想として結び付ければよい。

そして、信長について伝えられた史実や伝聞を信長が女性だったと仮定して解釈すると、不思議と納得できてしまうのだ。
たとえば信長の妹のお市の方は戦国一の美女として名高く、兄である信長は美形だったとされている。
また、信長は声がかん高かったという説がある。その勘気に触れると大変であり、部下はつねに戦々恐々としていたという。そして先にも書いたような当時の常識を超えた政策や行いの数々。
それらのどれもが、信長が女という解釈を可能にしている。

本稿ではこれから読まれる方の興を殺がないように、粗筋については書かない。

本書は、信長が女だったらという解釈だけで楽しめる。それはまさに独特であり、説得力もある。本当に織田信長は女性だったのではないか、と思いたくなってしまう。本書はおすすめだ。

‘2020/02/27-2020/02/29


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


島津は屈せず


本書を読んだときと本稿を書く今では、一年と二カ月の期間を挟んでいる。
その間に、私にとって島津氏に対する興味の度合いが大きく違った。
はじめに本書を読んだとき、私にとっての島津家とは、関ヶ原の戦いで見事な退却戦を遂行したことへの興味が多くを占めていた。
当ブログを始めた当初にもこの本のブログをアップしている。
それ以外には幕末の史跡を除くと、島津家の戦跡には行く機会がないままだった。

だが、それから一年以上の時をへて、私が島津家に興味を抱くきっかけが多々あった。九州に仕事で行く機会が二度あったからだ。
訪問したお客様が歴史がお好きで、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂のファンであり、歴史談義に興じる機会があった。
また、出張の合間に大分の島津軍と豊臣・大友軍が激闘を繰り広げた戸次河原の合戦場にも訪れることもできた。

本書は、その戸次河原合戦からさらに数年下った、島津軍が大友・豊臣軍に敗れた根城坂の合戦の後から始まる。

根城坂の敗戦は局地の敗戦に過ぎず、豊臣家に膝を屈することはない、と徹底抗戦をとなえる義珍あらため、義弘。その反対に、藩主の立場から他の家臣の意見を聞き、現実的な判断を下そうとする義久。
当時の島津家を率いる二人の武将の考えには、現実と理想に対する点で違いがある。

ただ義弘は、自らの考えを兄の地位を奪ってまで成し遂げようとはしない。あくまでも兄を立てる。そして、統治は兄に任せ、自らは武において与えられた役割を全うしようとする。
本書は、義久ではなく、義弘を主人公とし、安土桃山から江戸に至るまでの激動の時代を乗り切った島津家の物語である。

豊臣家の傘下に組み込まれ、太閤検地を乗り切った後は、朝鮮への出陣でが始まる。
秀吉の野望に付き合わされた島津家も半島へと渡り、そこで鬼石蔓子と敵兵から呼ばれるほどの戦闘力を発揮し、大戦果を上げる。
大義が見えない戦いであっても、一度膝を屈した主君の命とあらば抗えないのが戦国の世の習い。その辺りの葛藤を抱えながらも、武の本分を発揮する義弘。

日本に戻ってからも領内で内乱が起き、島津家になかなか落ち着きが見えない。
そうしているうちに、秀吉の死後の権力争いは、島津家に次の試練を与える。
日本が東軍と西軍に割れた関ヶ原の戦いだ。
各大名家がさまざまな思惑に沿って行動する中、遠方の島津家は行動する意味もなく、藩主の義久は静観の構えを崩さない。内乱で疲弊した領内をまとめることを優先し。
だが、義弘はわずかな手勢を連れて東上しし、東軍へ馳せ参じようとする。
ところが、時勢は島津家をさらに複雑な立場に追いやる。
東軍に参加しようと訪れた伏見城で、連絡の不行き届きと誤解から、東軍の鳥居本忠から追い出されてしまう。

それによって西軍へと旗色を変えた義弘主従。
ところが、西軍の軍勢は兵の数こそ多いが、その内情はまとまっているとは言いがたく、義弘も本戦では静観に徹する。

関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利であり、西軍が負ける事はあり得ないはずだった。
ところが、西軍の名だたる将のうち、実際に戦った隊はわずか。
島津軍もそう。

私も三回、関ヶ原の古戦場を巡った。そして、武将たちの遺風が残っているようなさまざまな陣を見て回った。
島津軍の陣地は、林の中に隠れたような場所だった。だが、激戦地からはそう離れていない場所であり、当日は騒がしかったことと思う。
そんな中、微妙な立場に置かれた義弘は何を感じていたのか。
島津家が一枚岩で五千の軍勢を引き連れていれば、島津家だけでも西軍を勝利に導けたものを。

本書では、義弘の心中や家臣たちの様子を描く。
夜襲を提案しても、戦に慣れていない大将の石田治部は体面を前に立てられはねつけられる始末。
義弘の心中は本書にも描かれている。

そして、小笠原秀秋の寝返りから一気に変わった戦局と、その中で刻々と変わるあたりの様子の中、徳川家に島津の武威を見せつけようとする。
そして、美濃から薩摩へと戦史に残る遠距離の退却戦に突入する。

義弘主従は、大阪で人質の太守の家族を救い、薩摩に帰り着くことに成功する。
しかも、強硬な意思を貫き、本領の安堵を勝ち取ることに成功する。

関ヶ原の戦いで西軍に与し、本領の安堵を勝ち取った大名は、全国を見渡してもほぼいない。ましてや、関ヶ原の本戦に西軍として参加した大名に限れば、島津氏が唯一と言っても良い。

本書では家康が悔いる様子が描かれる。毛利と島津をそのままにしておくことが将来の徳川家の災いになるのではないかと。

著者は、本書の姉妹編として「毛利は残った」と言う小説を出している。

毛利家と島津家。ともに、関ヶ原の合戦によって敗戦側となった。
そして関ヶ原の合戦から260年の後に、ついに政権から徳川家を追いやった時もこの二家が中心となった。

戦国の過酷な世を勝ち続け、徳川家にも勝てる自信を持ちながら、戦国の世の義理の中でと主家を立て通した義弘。

その無念は、島津家に安穏とは無縁の家風を養わせた。260年の間、平和に慣れて保身に汲々とするのではなく、国を富ませ、鍛錬を怠らない。
そのたゆまぬ努力がついに徳川家に一矢を報いさせた。

本書は、その原動力となった挫折と雌伏を描いている。
本書を読むと、人の人生など短く思える。
私は島津家の尚武の気風を学ぶためにも、また機会を見て薩摩軍の戦跡を訪れたいと思っている。今、九州にご縁ができ、私の中で島津家への興味が増した今だからこそ。

‘2019/7/26-2019/7/29


列島縦断 「幻の名城」を訪ねて


本書を読む二カ月前、家族で沖縄を旅した。その思い出は楽しさに満ちている。最終日に登城した勝連城跡もその一つ。勝連城跡の雄大な石垣と縄張り。そして変幻自在にくねっては一つの図形を形作る曲輪。勝連城跡は私に城巡りの楽しさを思い出させた。

それまで沖縄のグスクに対して私が持っていた印象とは、二十年前に訪れた首里城から受けたものだけだった。首里城は沖縄戦で破壊され、私が訪れる四年ほど前に復元されたばかり。そのまぶしいまでの朱色は、かえって私から城の印象を奪ってしまった。

今回の旅でも当初は首里城を訪れる予定だった。が、私自身、上に書いたような印象もあって首里城にはそれほど食指が動かなかった。そうしたところ、お会いした沖縄にお住いの方々から海中道路を勧められた。それで予定を変更し、首里城ではなく海中道路から平安座島と伊計島を訪れた。前の日には今帰仁城址を訪れる予定もあったが、美ら海水族館で多くの時間を時間を過ごしたのでパス。なので、本来ならば今回の沖縄旅行では、どのグスクにも寄らずじまいのはずだった。ところが、海中道路からの帰りに勝連城跡が近いことに気づき、急遽寄ることにした。正直、あまり期待していなかったが。

ところが勝連城は私の期待をはるかに上回っていた。ふもとから仰ぎ見る見事な威容。登り切った本丸跡から眺める海中道路の景色。何という素晴らしい城だろう。かつて阿麻和利が打ち立てた勢いのほとばしりを数百年のちの今も雄弁に語っている。阿麻和利は琉球史でも屈指の人物として知られる。南山、中山、北山の三山が割拠した琉球の歴史。その戦乱の息吹を知り、今に伝えるのが勝連城跡。城とは、歴史の生き証人なのだ。

お城とは歴史の爪痕。そして兵どもの戦いの場。確かに、イミテーション天守は戴けない。コンクリートで復元された天守も興を削ぐ。その感情がわき起こることは否めない。だが、例え天守がイミテーションや復元であっても、天守台や二の廓、三の廓に立ち、二の丸、三の丸の石垣を目にするだけでも城主の思いや戦国武士の生きざまは感じられるのではないか。私は勝連城を訪れ、あらためて城の石垣に魅了された。

ここ数年、山中に埋もれた山城の魅力に惹かれていた。だが、石垣で囲われた城にも魅力はある。そう思って本書を手に取った。

本書には有名な城もそうでない城も紹介されている。本書は全部で五十以上の条で成っており、それぞれの条で一つの城が取り上げられている。本書で取り上げられた城の多くに共通するのは、石垣の美しさを今に伝える城であること。著者は石垣マニアに違いあるまい。石垣へ魅せられる著者の温度が文章からおうおうにして漂っている。著者のその思いは、本書にも取り上げられている勝連城を登った私にはよく理解できる。

第一章は「これぞ幻の名城ー石垣と土塁が語る戦いと栄華の址」と題されている。ここで扱われている城の多くに天守は残されていない。西日本編として安土城、近江坂本城、小谷城、一乗谷館、信貴山城、大和郡山城、竹田城。東日本編として春日山城、躑躅ヶ崎館、新府城、興国寺城、石垣山城、小田原城、金山城、箕輪城、高遠城、九戸城が登場する。この中で私が訪れたことがあるのは、安土城、一乗谷館、大和郡山城、躑躅ヶ崎館、小田原城だけしかない。他はどれも行ったことがなく、旅情を誘う。各城を紹介する著者の筆致は簡潔で、歴史の中でその城が脚光を浴びたエピソードを描く程度。だが、訪問したいという思いに駆られる。ここに登場する城には土塁や石垣がはっきり残っているところが多い。その多くは戦いのための機能のみならず、統治用の縄張りも兼ねている。つまり軍略と統治の両面を考えられた城がこの章では取り上げられている。そうした観点で見る城もなかなかに魅了させてくれる。

第二章は「大東京で探す「幻の名城」」と題されている。江戸城、平塚(豊島城)、石神井城、練馬城、渋谷城と金王八幡宮、世田谷城と豪徳寺、奥沢城と九品仏浄真寺、深大寺城と深大寺、滝山城、八王子城だ。この中で全域をめぐったといえる城は滝山城だけ。世田谷城も江戸城も深大寺城も奥沢城も渋谷城も城域とされる地域は歩いたが、とてもすべてをめぐったとは言えない。そもそも遺構があまり残されていないのだから。だが、東京に暮らしているのなら、これらの城はまだめぐる価値があると著者はいう。本書を読んで数日後、皇居の東御苑に行く機会があったが、折あしく立ち入れなかったのは残念。また訪れてみたいと思っている。また、この章では最後には桜が美しい城址公園を紹介してくれている。弘前公園、松前公園、高遠城址公園、津山城鶴山公園、名護城址公園の五カ所だ。津山以外はどこも未訪で、津山に訪れたのは三十年以上前のことなのでほとんど覚えていない。ぜひ行きたい。

第三章は「櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ」と題されている。金沢城、上田城、福岡城、津和野城、女城主井伊直虎ゆかりの城、井伊谷城、松岡城が採り上げられている。金沢と福岡しか行ったことがないが、いずれも石垣が印象に残る城だと思う。直虎を取り上げているが、それは本書の出された時期に放映中の大河ドラマに便乗した編集者のごり押しだろう。だが、一度は訪れてみたいと思っている。ここの章に挿入されたコラムでは、荒城の月の舞台はどこかについて、五カ所の候補とされる城が紹介されている。仙台(青葉)城、九戸(福岡)城、会津若松(鶴ヶ城)城、岡城、富山城だ。九戸と岡はまだ行ったことがない。ぜひ訪れたい。

第四章は「再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ」と題されている。この章で採り上げられた城はどれも復興天守だ。五稜郭、会津若松城、松前城、伏見城、忍城。この中では松前城だけ行ったことがない。本章の最後にはなぜ復興天守は作られるのか、というコラムで著者の分析が収められている。著者が説くのは、観光資源としての城をどう考えるのかという視点だ。その視点から復興天守を考えた時、違う見え方が現れる。私は、復興天守だから一概に悪いとは思っていない。どの城も堀や縄張りは往時をよく残しており、天守だけが廃されている。だからこそ天守を復興させ、最後の点睛を戻したいという地元の人の気持ちもわかるのだ。なお、伏見城は歴史考証を無視したイミテーション天守だが、伏見の山腹に見える天守を見ると関西に帰省した私は心が安らぐのもまた事実。すべての復興天守を批難するのもどうかと思う。

第五章は「古城の風格をいまに伝える名城」として弘前城、丸岡城、備中松山城を取り上げている。丸岡城は母の実家のすぐ近くなので訪れたことがあるが、それもだいぶ前。もう一度訪れてみたいと思っている。ここで採り上げられたどの城も現存十二天守に含まれている。なお、本書のまえがきにも記されているが、現存十二天守とは江戸時代以前に築かれた天守で、今に残されている天守を指す。松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城が国宝。重要文化財は弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城だ。なぜか前書きからは松山城が抜けているが。私はこの中で弘前城、備中松山城、丸亀城、宇和島城だけ登っていないが、残りは全て天守を登っている。どの天守も登る度に感慨を豊かにしてくれる。

第六章は「北の砦チャシ、南の城グスクの歴史」だ。アイヌにとっての砦チャシ、シベチャリシャシ、ヲンネモトチャシ、首里城、今帰仁城、中城城、座喜味城、勝連城が取り上げられている。本章を読んで、私が北海道のチャシを訪れたことがない事に気付いた。三回も北海道を一周したにもかかわらずだ。いまだに五稜郭しか行ったことがない。これはいかんと思った。そして沖縄だ。まだ訪れていない今帰仁城や中城城、座喜味城にも勝連城を訪れた時のような感動が待っているに違いない。そしてこの章の最後に、石垣マニアの著者が力を入れて取り上げる、石垣が美しい城ベスト5が紹介されている。会津若松城(鶴ヶ城)、金沢城、伊賀上野城、丸亀城、熊本城だ。伊賀上野と金沢は訪れたものの、ずいぶんと前の話。しかも伊賀上野は十年近く前に訪れたが、忍者屋敷に娘たちが見とれていたのを親が見とれていたので、実質は見ていないのと同じだ。石垣だけでも見に行きたい。

最後に巻末資料として、日本の城とは何かという視点で、築城史が紹介されている。また城に関する用語集も載っている。特に虎口や馬出や堀、曲輪、縄張、天主や土塁、石垣などがイラスト付きで載っており、とても分かりやすい。私の生涯の目標として、日本の〇〇百選を制覇することがある。もちろん城もそれに含まれている。城については百名城だけでなく二百名城までは制覇したいと思う。本書を読んだことを機に、城探訪の旅も始めたいと思っている。

‘2018/05/03-2018/05/09


我、六道を懼れず―真田昌幸連戦記


2016年の大河ドラマは真田丸。私にとって20年ぶりに観た大河ドラマとなった。普段テレビを観ない私にしてはかなり頑張ったと思う。本書を読み始めたのは第4回「挑戦」を観た後。そして本稿は第8回「謀略」の放映翌朝に書きはじめた。

真田丸の主役は堺雅人さんが演ずる真田信繁(幸村)だ。これは間違いないだろう。ところが、本稿に手をつけた時点で私が印象を受けたのは草刈正雄さん演ずる真田昌幸だ。その存在感は真田丸の登場人物の中でも群を抜いている。あまりテレビを観ない私にとって、草刈正雄さんの演技を初めてまともに観たのが真田丸だ。その演技はもはや名演と呼べるのではないか。かの太閤秀吉に表裏比興の者と呼ばれ、家康を恐れさせた謀将昌幸。草薙さんは老獪な武将と語り継がれる昌幸を見事に演じている。

第4回と第8回は、両方とも謀略家昌幸の本領が前面に押し出された回だった。その時期、真田家は武田家滅亡後の空白を乗り切るため、あらゆる策を講じねばならなかった。弱小領主である真田家を守り抜くため、時には卑劣と言われようと、表裏の者と言われようと一族を守らんとしたのが、昌幸ではなかったか。昌幸が知恵を絞った甲斐あって真田家は戦国から幕末までお家を存続できた。泉下の昌幸にとって満足な結果だったのではないだろうか。

昌幸は謀略の分野で才能を発揮した。しかし、それと本人の人格とは別の話。後世から策士と評される昌幸とて、生まれながらの謀略家だった訳ではない。

本書には、謀略を知らぬ前の純粋で無垢な昌幸が息づいている。

本書は昌幸が源五郎という幼名で呼ばれていた7歳の頃から始まる。

7歳といえばまだ母の温もりが必要な時期。そんな時期に源五郎は父から武田晴信、すなわち後の信玄の小姓となることを命ぜられる。要は人質である。源五郎は到着して早々、新たな主君とのお目見えの場で近習に取り立てられる。7歳にしてそのような重荷を背負わされた源五郎も気の毒だが、7歳の童子に大成の器を見極めた晴信の人物眼もまた見事。

幼くして鍛錬の場に置かれた源五郎は、信玄の弟典厩信繁に目をかけられ成長を遂げていく。そして信玄の近習として側に仕えながら、薫陶を受けることになる。生活を共にし、戦略を練る姿に親しく接する。その経験は源五郎の素養を確かに育んで行く。そして将来の昌幸を間違いなく救うことになる。機転や頭脳の働かせ方、策の練り方活かし方。活きた見本が信玄だったことは昌幸にとっての僥倖だったに違いない。

元服し、源五郎から昌幸となってすぐ迎えたのが、かの川中島合戦。しかも初陣となったのは、本邦の合戦史でも五指に入るであろう第四次合戦だ。信玄と謙信の両雄一騎討ちがあったとされ、世に知られている。

著者には、第四次川中島合戦を描いた「天佑、我にあり」という作品がある。合戦に至るまでの息詰まる駆け引きから合戦シーンまで、傑作と呼ぶ以外ない一冊だ。「天佑、我にあり」は近くの山から合戦の一部始終を見届ける設定の天海僧正の視点で語られる。だが、本書で語られる第四次合戦は昌幸の視点によって語られる。同じ合戦を同じ著者が描いているのだが、視点を変えているため読んでいて既読感を感じなかった。著者の筆力が一際抜きんでいることの証拠だろう。

第四次合戦において有名な一騎打ちとは大将同士によるそれだ。だが、同じ合戦では武田典厩信繁と柿崎景家との一騎討ちも見逃せない。「天佑、我にあり」で詳細に語られるその一騎打ちの場面は、何度読み返しても魂が震える。本書は昌幸の視点で描かれているため、二人の一騎打ちは描かれない。だが、信繁に目を掛けられ、育てられた昌幸が信繁の亡骸に昌幸が取りすがって号泣する姿は、本書において白眉のシーンだといえる。

また、「天佑、我にあり」では信玄と謙信の一騎打ちも読み応えのある場面だ。そして信玄近習である昌幸は、両雄の間を刹那飛び交った火花の目撃者でもある。昌幸が目撃した両雄の一騎打ちは、「天佑、我にあり」とは違った形で描かれており本書の山場の一つとなっている。

初陣にして己の価値を見出してくれた人物の死に直面した昌幸は、武将の成長をして大人となる。そして、信玄になくてはならぬ側近となってゆくのである。本書は戦国屈指の謀将真田昌幸の成長譚であり、ずっしりとした読み応えが読者に返ってくる。

川中島合戦が収束しても昌幸の身辺は慌ただしい。松という伴侶を得て身を固めたかと思えば、武田家中を襲う謀反劇の直中に巻き込まれる。

桶狭間で主が織田信長に討ち取られてから衰退著しい今川家。信玄嫡男の義信は、その今川義元の娘を正室に迎えている。そして信玄の冷徹な脳裏には今川家を見限り、その替わりに昇り調子の織田家との外交関係を結ぶ戦略が編まれていた。それに反発して実力行使で主君を諫めようとする義信一派。その中には昌幸が幼き頃から共に近習として武田家に仕えた仲間もいた。幼き日からともに学んだ仲間と刀を交える苦味。その中にあって信玄への忠義を揺るがせにしなかった昌幸は、ますます信玄の信頼を得ることとなる。無垢な昌幸は、仲間の死を通して戦国の世の習いを一つ身につける。

武田家に内紛の余韻漂う中、武田家は北条家と戦端を開く。北条家の本拠地小田原を攻め、帰路に三増峠で北条軍と戦う。ここで昌幸は、北条軍にあって武名を馳せる北条綱成と何合か打ち合わせる機会を持つ。本書には昌幸の武士の矜持を持った一面がきっちりと描かれている。謀略家のイメージばかりが取り沙汰される昌幸は歴とした武士だった。著者の視点はそのことにしっかり行き届いており好感が持てる。

関東遠征を経たことで昌幸への信玄からの信頼は一層篤くなる。そして昌幸は信玄の身辺を任されるようになる。寝室や厠近くに侍るようになった昌幸が目撃したのは、咳き込んだ信玄と口からの喀血。その病は後に天下獲り間近の信玄を道半ばで倒すことになる。己に残された時間がもはや少ない事を悟った信玄は、ついに上洛へと乗り出す。

敵の本拠地駿河に進軍してからも徳川軍をやすやすとひねる武田軍。家康にとって終生胆を冷やさせることになる三方ヶ原の敗戦も、信玄にとっては余技のごとく書かれている。事実、当時の戦国最強との呼び声高い武田軍にとっては徳川軍など鎧袖一触。敵役にもならなかったほど弱かったのだろう。しかし徳川家にも武辺者はいた。それは本多忠勝である。昌幸はこの戦場で本多忠勝と相まみえることになる。ここでも若き昌幸は謀将ではなくもののふの姿で描かれている。本書において、昌幸はまぎれもない武将である。それも戦国最強の武田軍の中にあって首尾一貫して。

しかし、武運は信玄に味方しなかった。朝倉軍が織田包囲網から離脱し、信玄の描いた戦略に綻びが生じる。それと時を同じくして信玄に巣食う病が重くなる。信玄は昌幸を含めたわずかな家臣を呼んで別れを告げ世を去る。

昌幸の元に遺されたのは碁盤と碁石のみ。病が急変する前、昌幸は信玄と一局打つ機会を得る。六連銭の形におかれた置石から始まった一局で、それまで一度も勝てなかったのに、持碁、つまり引き分けに持ち込む。その遺品は、図らずも己の軍略を伝えようとした信玄の意志そのもののよう。いうなれば、信玄流軍略の一番弟子の形見に碁盤を託された形となる。これまた、本書の中でも印象の深い場面である。

いよいよ本書は最終章にはいる。長篠の戦いである。昌幸には二人の兄がおり、ともに侍大将の立場で武田軍の重鎮となっていた。が、信長軍の鉄砲戦術に二人の兄を始め、主だった武将が餌食となり、戦場に命を散らす。

昌幸が眼にしたのは惨々たる戦場の様子。死体があたりを埋め、血の匂いが立ち込める。その景色は川中島の戦いのそれを思い起こさせる。信繁の死んだ川中島の戦場の様子が兄二人を亡くしたそれと重なり、昌幸の脳裏を憤怒で染める。無垢で純粋だった昌幸が絶望と悲憤の中で殻を脱ぎ捨てる瞬間である。

戦い済んで甲斐に帰った昌幸は、名乗っていた武藤の姓を返上する。そして真田昌幸を名乗る。父も兄たちも居なくなった今、真田家を継ぐのは昌幸しかいなくなったからだ。そして、昌幸の胸にはただ怒りだけが満ちている。それは、長篠の戦いを敗戦へと導いた者たちへの怒りだ。長坂、跡部といった武田家の重臣たち。彼らは武田家を長篠の戦いに導いた。そして自らは後衛に回って戦況をただ見ているだけだった。昌幸の怒りはそのような者を重用し続ける新たな主君勝頼にも向かう。武田家を見限り、真田家のことを考え始める内なる声が昌幸の中でこだまする。

昌幸の叫びは、もはや無垢な青年のそれではない。哀しみや世の無情、真田家を背負う重責を担った漢の叫びである。それが以下の本書を締める三つの文に集約されている。

人には大切なものを失わなければわからない本物の痛みというものがある。そして、失う痛みを乗り越えることでしか見えない地平というものがある。
それに気づいた時が、まさに、その人の立志の時だった。
痛恨の敗戦を経て、昌幸は真田の惣領を襲名する決意を固め、深まりゆく乱世に翻弄される己の運命と真正面から向き合おうとしていた。

(第一部完)

真田丸でみせる老獪な真田昌幸は、本書に続く第二部でこそ花開くのだろう。しかし、謀略を駆使する昌幸の背景には、本書で描かれたような信玄の薫陶や、度重なる戦いで身につけざるを得なかった憤怒があることを忘れてはならない。草刈正雄さんが本書を読んだかどうかは知らない。脚本を書いた三谷幸喜さんが本書を参考にしたかどうかも知らない。でも、視聴者は昌幸の過去に通り一遍でない人生の起伏があったことを知っておくべきだと思う。草刈昌幸を単に腹黒く人の食えぬ親父と見るだけでは彼の真の凄みは味わえない。そこには振幅の激しい人生に鍛えられた一人の男がいる。そう見直してみるとまた違う姿が見えてくるはずだ。真田丸を見ていると、息子信繁(幸村)の名が川中島で討ち死にした武田典厩信繁の名にあやかっていることや、本多忠勝の娘小松姫が長男信之の正室になるなど、若かりしころの昌幸の出会いが真田家のその後に重要な布石となっていることに気づく。

と、こんな偉そうなことを書いている割に、私は結局真田丸を全て観ることは出来なかった。第16回「表裏」あたりまでは、車内で観たりオンデマンドで観たりと観るための努力を続けていたが、それ以降は仕事が忙しく断念した。無念だ。でも、本書の続編第二部は是非読みたいと思っている。そして真田丸全編も必ず観るつもりである。

‘2016/02/16-2016/02/18


翔る合戦屋


第一作の「哄う合戦屋」で鮮烈なデビューを果たした石堂一徹。巻末で、落ち延びる遠藤軍を追う仁科盛明の軍勢を山間の狭間で止めようとする一徹と六蔵。若菜の為なら命をも顧みない男気溢れる結末は、強烈な印象を残した。

第二作と第三作の「奔る合戦屋」上下巻では、時代を遡る。そこでは遠藤家に仕官する前の一徹が描かれる。村上義清の配下にあって、若き一徹は村上軍の中でも戦上手の伝説を作り上げていく。しかし、理に勝ち過ぎ周りが見え過ぎる一徹の戦略は、主村上義清の戦術を凌駕するに至り、主従間の溝は大きくなる一方。ついに、一徹の戦略を苦々しく思っていた村上義清は独断で武田軍に小競り合いを仕掛ける。そこには折悪しく一徹の愛する朝日と子供たちと一徹子飼いの郎党として手塩にかけて育て上げてきた三郎太がいた。

主村上義清の器を見限り、放浪した挙句、一徹が辿りついたのは遠藤家の領地。そこから、第一作の「哄う合戦屋」に繋がる。

そして、本書は第四作「翔る合戦屋」である。第一作の終わりで一徹と六蔵は仁科勢を食い止めようと死地に身を投げる。しかし仁科盛明は遠藤家を追ったのではなかった。それよりも、遠藤家の武名を一手に負っていた一徹を武田家に招きたいという。しかし、一徹は「故あって武田家に帰参することはできない」と云う。著者が第一作「哄う合戦屋」の後に第二作、第三作で一徹の過去を語った理由はここにある。妻子を武田家配下の者どもに殺された一徹が武田家の旗下に参ずることはありえない。そのことは「奔る合戦屋」上下巻の読者にはたやすくわかることだ。つまり第一作の後に一徹の過去を語った後でなければ、続きは書いてはならないとしたのだろう。なお、本書では他にも「奔る合戦屋」上下巻を踏まえた記述が出てくる。なので、本シリーズは書かれた時代順ではなく、刊行順に読むのが正しい。

第一作では、遠藤家の主君吉弘は戦で一徹と張り合おうとする。挙句、豪族連合軍があっけなく仁科軍の裏切りにあって瓦解すると、己の愚を悟る。そして一徹に許しを請うとともに、若菜を一徹にやると云い捨てて逃げ去る。

晴れて夫婦となることを許された一徹と若菜は、仮祝言を挙げて閨を共にする。若菜は朝日がかつてそうだったように、一徹の賢夫人として輝きを増す。一徹が調略で得た仁科盛明の家族の懐にも入り込み、そのカリスマ的な魅力の本領を発揮する。一方、中信濃(安曇郡全域と筑摩郡北部)に領地を得た遠藤家は、来たる武田家の侵入に備えて領地経営に精を出す。一徹もまた、門田治三郎に銘じて攻城車を作らせるなど、戦の準備に余念がない。

内政と軍事の準備を進める中、一徹は外交にも気を配る。そして、かつての主君村上義清の許へ向かう。武田軍との戦いに備え、遠藤家と同盟するよう意を尽くして語る為だ。9年ぶりに訪れた石堂村、父や兄との邂逅の様子などが描かれる。このシーンもまた「奔る合戦屋」上下巻を読んでいないと分かりにくい。

物語はやがて風雲慌ただしくなる。武田家の侵攻が迫るのだ。そこでは一徹の戦略が功を奏し、武田晴信は砥石城攻略に拘った挙句に、多大な時間と将兵を喪うことになる。世に言う「砥石崩れ」である。しかし、その機に乗じて村上義清は晴信本人の首を獲ることに失敗し、晴信は何とか本拠に逃げ帰る。

晴信が叩かれたその隙に深志城を奪取することを画策する一徹。深志城とは今の松本城のこと。大きな濠が特徴的な名城である。おそらくは当時も濠があったのあろう。その濠を攻略するための攻城車が図に当たる。武田軍の拠点としての深志城をあと一歩のところまで追いつめる遠藤軍。しかし、晴信が放った苦し紛れの流言策があたり、晴信が攻めてくるとの恐怖心に慄いた村上義清の離陣によって、深志城奪取はならなかった。

それによって、信濃制覇目前にして大魚を逃した一徹は、深く自信を喪失する。そして煩悶し、己の生き方について深く考える。

一徹が至った結論は、軍師廃業である。では何を生業とするのか。それが、第一作から一徹の特技として再三出てきた木彫の技である。おそらく著者は第一作で一徹を登場させた時から、この結末を見据えて書き継いできたのではなかろうか。

一徹は己の後半生を軍師ではなく木彫師として生きようと決意する。その落ち着き先は越後。この当時の越後と云えば上杉謙信がすぐに想い出される。この時はまだ長尾景虎と名乗っており、越後国内の統一もままならない状態。だが、一徹は景虎の中に己に似た軍才を見出し、景虎もまた一徹を伽衆として己の領内に取り込もうとする。なお、本書の舞台は天文十九年。天文十九年は川中島の第一次合戦が戦われる3年前である。つまり本シリーズは川中島合戦のプロローグでもあるのだ。本書を読んだ方には、川中島合戦で軍神と呼ばれた上杉謙信の背後に一徹の影を見るはずだ。

以降、一徹は己の果たしえなかった夢を越後の虎に託し、若菜と共に物語から去る。そして遠藤家の面々や仁科家にもきちんと落とし前をつけて本シリーズの幕を引く。実にあざやかとしか言いようがない。かつて一徹は朝日や若葉、桔梗丸や三郎太を亡くした。同じ轍を踏まない結末は、なるべく簡潔に戦を収める一徹の面目躍如と云えよう。

後書きで著者自身が明かしているが、史実に残る武田晴信、村上吉清、仁科盛明の動きと、本書で書かれた彼らの動きには些かの矛盾もないという。史実を歪めず、その上で史実の間隙を縫うかのようにして、一徹や遠藤吉弘、若菜といった架空の人物を自在に動かす。このことがどれほど賛嘆されるべき仕事かは、一言で語りつくせない。とにかく賞賛の念しか浮かばない。実に素晴らしい。

また、第三作「奔る合戦屋」下巻のレビューで、本シリーズの魅力について書いた。それは、組織の中で才を持ち、かつ、上を持ち上げる生き方のできない男の悩みを掘り下げていることだ。つまり、組織でうまく立ち回ってゆけない男の不器用さへの共感が本シリーズには満ちているのである。その男とはもちろん一徹を置いて他にない。

本書の結末の一徹の軍師引退、木彫師としての転身からは、脱サラという言葉が連想される。組織を抜けて自分の得意な仕事をして生きていくことは、サラリーマン諸氏にとって憧れだろう。脱サラを単なる現状からの逃避として考えるのであれば、決して良い結果は産まない。しかし、一徹のように真摯に悩み、その結果自らを縛り付けていた価値観の殻を破った結果であれば、きっと成功するはずだ。深志城攻略に失敗した後の一徹は、まさに軍師という固定観念の殻を破り、木彫師という立場へと翔けようとする。まさに翔る合戦屋である。

精々が出家といった選択肢しか持たなかった当時の戦国武将の転身として、本書で書かれた結末は或いは突飛なものかもしれない。しかし、そのような余生を選ぶ主人公が描けたのは、最初から一徹を創造した著者に与えられた特権ではないだろうか。ただし、その特権を活かして続編といったことは控えて頂きたいものだ。本書のラストは物語の続きを仄めかしているが、素直に戦塵から身を洗い、木彫師として一徹に生きて欲しい。私はそう思う。

‘2015/01/25-2015/01/28


奔る合戦屋 下


幸せに満ちた上巻から、波乱と悲劇の下巻へ。武田家が佐久郡を窺う中、一徹は村上義清に呼び出される。そこで一徹は義清に次ぐ戦の副将に任じられようとする。一徹の危惧はあたり、義清のその案は他の譜代家臣から猛反発を受け、一徹は石堂家、そして自らがまだ村上家中にあって不動の地位を築いていないことを改めて認識する。

それを機に、石堂家は軍制を整える。郎党のうち、成長著しい三郎太を馬乗りに昇格させる。三郎太も機は熟したと見て、花に夫婦になってほしいと頼み込む。花の負担を軽くするために、一徹と朝日の養女になってはどうかと提案する朝日。

足元が固まったところで、いよいよ武田家の侵攻が迫る。村上義清に信濃統一への筋道を語る一徹。自らの理想を張良、諸葛孔明であるとする一徹の、武よりも智を迸らせたいという思いが表に出てくる。

歴史に「もし」は禁物。しかも一徹は架空の人物。それを差し置いても、ここで一徹が語った内容が実現していたら、川中島の戦いはあるいは起こらなかったかもしれない。そういう空想が読者にも許されてもよい場面である。

しかし、村上義清はここにきて限界を露呈する。そして、村上義清と一徹の主従関係にも暗雲が垂れ込める。戦の場で戦術を駆使するだけでよしとする村上義清と、さらにその上をゆく戦略を語る一徹の器の差。そして一徹には老獪さがなく、うまく義清を己が思うままに操る術を知らない。ここを著者は下巻の転換点とする。

続く章で、一徹から相談を受けた龍紀は独りごつ。「家臣の才能が主君のそれと比べて釣り合いを逸すると、互いに不幸になるのではないか」。龍紀の予感はあたり、下巻は以降、一徹にとって心地よい世界ではなくなってゆく。

武田家が佐久郡に軍を進める中、一徹の策が当たり、武田信虎を大井城に閉じ込めることに成功する。そこで敵軍の若き将、武田晴信の判断に将来の好敵手の予感を抱く一徹。さらに、なぜ村上領で武田家に通ずる者が後を絶たぬか。これを武田晴信の深謀遠慮であると指摘する一徹と、それを苦々しく聞く村上義清。もはや両者の溝は埋めようがなく深い。

我々読者は、主従二人の心が開いていく様に気をもみ、一徹の憂いを我が事のように抱くことになる。読者にとっても、一徹の悩みは心当る節があるかもしれない。なまじ知恵が回ると、組織のトップ判断や改善点が目につく。自らの信ずる道を進みたいが、組織内の力学はそれを許さず、結果、組織内での出世に破れていく。そのような人は少なくないだろう。そして、一徹もまた苦悩する。凡庸な上司ならまだよい。しかし、村上義清は戦場においては天賦の才を持っている。そのことが一徹をなお苦しめる。両雄並び立たず。あるいはポストに空きがない、とも言おうか。

よく、時代小説が支持される理由として、組織にあって活躍する登場人物に自らを重ね合わせることが言われる。であれば、一徹の苦悩は、読者に共感を呼びおこすことだろう。本シリーズが読者に支持される理由もここにあるのではないか。

本書はやがて、東信濃に位置する海野氏が越後の上杉氏と結んだ事に端を発する、海野平の戦いにいたる。仇敵であるはずの武田家と連携した村上家は、一徹の活躍もあって、海野氏を追い落とす。そして、戦後の武田家、村上家、諏訪家の協議により、武田家の軍勢は撤収することが決まる。

最終章、朝日の父が余命幾ばくもないことがわかり、三郎太などの郎党の護衛とともに、身重の朝日と若葉は帰省する。しかし、そこには撤兵したはずの武田軍の残党がおり、焼き働きとして近隣を略奪・放火していた。なぜ、撤兵したはずの武田軍がいたのか。そこには、一徹に黙って、武田軍への小競り合いを指示した村上義清の独断があった。先の海野平の戦いで武田信虎にいいように戦後の領土を画された村上義清の恨み。その器の小ささがこのような武田軍の跳梁の引き金となった。

何が起こったかはここでは書かない。結果、一徹は己を活かしきれなかった村上義清を見限る。そして村上家から暇をもらい、流離いの日々に出る。

放浪し始めた一徹は、風の噂で武田信虎が子の晴信によって駿河に追放されたことを知る。父が子の器量を恐れるあまりに子を疎んじ、その結果自らの首を絞める。立場を領主と部下に置き換えると、このことは村上義清と一徹の関係にも当てはまる。さらにいうと、このことはまた、世の経営者諸氏に向けた警句ともとれる。無論、私にもとっても。

‘2015/1/24-2015/1/24


奔る合戦屋 上


哄う合戦屋で、鮮烈にデビューを果たした著者と主人公の石堂一徹。中信濃の豪族遠藤家に召し抱えられるや知略と武勇を発揮し、わずか三千八百石の遠藤家の当主吉弘をして、国持ち大名の夢を見させ得るまでにした漢。そのストイックで筋の通った欲のない様は、新たな戦国武将像を我々に提示した。

哄う合戦屋では遠藤吉弘の娘若菜と、相愛の仲となる。が、作中では度々、一徹が心を閉ざす原因になった出来事が仄めかされる。果たして一徹に何が起こったのか。何が一徹の心を閉ざしたのか。本書は石堂一徹が遠藤家に召し抱えられるまでの歩みを描いている。

時は天文二年(1533年)、信濃の北半分を手中に納める村上義清の陣。村上義清は、後年、川中島の戦いでも活躍した史実上の人物。その陣中に、19才の一徹はいた。序章の有坂城の城攻めで存在感を出す一徹。のっけから、前作の余韻にひたる一徹ファンの心を掴む出だしだ。

その功もあって、主君の村上義清からは、一徹を石堂の当主に、という命が下る。石堂家は、代々村上家にあって次席家老として勘定奉行を努めている。長男輝久はその任に耐得る実直な性格なのに、一徹を当主にという下知に戸惑う当主龍紀と息子兄弟。一徹の案を元に、本家は一徹が継ぎ、輝久は分家を起こし当主となり、本家と分家は同じ知行とすることで決着を見る。最初に武辺と計略の才を見せておき、返す刀で欲の無さや知略を見せるあたりは、実に鮮やか。ここでもまた、読者は一徹に魅了される。

ここで、一徹に嫁取りの話が持ち込まれる。朝日である。武士の娘で大柄、かつ、明るく素直な朝日は、一徹と仲睦まじい夫婦となる。それからは、朝日が石堂家の嫁として、一目置かれるまでが描かれる。と同時に、我々読者は石堂家の家風、一徹の心根の優しさ、一徹配下の郎党達の異能を知ることとなる。ここらの著者の筆運びは、実に滑らか。突飛な挿話を交えることなく読者に物語の背景を覚えさせる手腕は実に見事。

石堂家の風習を語る中では、郎党達と女中達の夜這いの風習と、共同体の慣習をもさらりと創造してみせる。村上家の中で譜代ではない石堂家が村上家でいかに重用されるようになったか。石堂家の財源が豊かな理由としての石堂膏という膏薬をも創造する。著者の想像力はとにかく冴えている。その一方で、一徹は朝日に中国の古典を紐解く。その中で、張良と諸葛孔明を一徹が自分に通ずる人物として挙げる。

続いて郎党である。一徹配下の郎党達の異能を引き立てる場として、著者は戦を用意する。郎党の活躍あって、城は落ちる。その中で、一徹の語るいくさ観は、本シリーズの全てに通ずる魅力でもある。

また、郎党達のそれぞれの個性を描き分け、一徹の単なる駒としてではなく、血を通わせた人物に彫りあげる著者の語りの巧みさも見逃せない。

最終章で、朝日が懐妊するとともに、花が石堂家の一員として加わる。花は貧しい農家の娘として女衒に売られ、そこから逃げるところを一徹一行に助けられた少女。着の身着のままで、飢えが当たり前だった花を相応しく躾ける下りは、朝日の持つ徳が存分に描かれる場面である。

全てが満たされ、一片の曇りもない上巻。これら全てが下巻への伏線となる。一徹を放浪に到らせた悲劇は、悲劇を知らぬ日々が幸せに満ちているほど、一層悲劇となる。

上巻の締めは、一徹の才能の一つである彫り物。産まれたばかりの青葉の玩具用にと作った蛙に朝日が吹き出す一文で終わる。

‘2015/01/22-2015/01/24


華、散りゆけど 真田幸村 連戦記


来年のNHK大河ドラマは、真田幸村公を主人公とした真田丸なのだとか。大河ドラマをほとんど見ず、そもそもテレビをはじめ、マスメディアに触れることが少ない私。それでもやはり、真田日本一の兵が大河ドラマの題材になれば気になる。そんなところに、妻がしなの鉄道の「ろくもん」乗車を申込み、家族四人で贅沢な旅を楽しむ機会を与えられれば猶更である。本書を読んだのはまさにろくもん乗車の直前であり、読後の余韻も新しい間に「ろくもん」に乗車した。そのことで、本書の読後感が一層鮮やかとなった。

外装に真田の赤備えのえんじ色をまとい、真田家の家紋である真田六文銭を随所に配した「ろくもん」の車両は真田の格調を意識させるに充分。「ろくもん」に乗って長野から軽井沢へと遊んだ旅は、否応なしに私を真田家の駆けた戦国時代へと誘い込んだ。

本書の装丁は、えんじ色に六文銭を大きくあしらった「ろくもん」と同じ意匠である。いや、画一的な臙脂色に塗られた車両に比べ、本書の装丁の方が複雑な地模様が描かれている分、趣があると言える。

趣があるのは、装丁だけではない。その中身もまた、重厚で荒々しく、真田日本一の兵と称えられた公の生きざまがよく描かれていたといえよう。

本書は、真田幸村公が父昌幸公と共に蟄居させられていた高野山を出奔してから、大阪夏の陣で自刃するまでに焦点を当てている。本書で書かれているのは、云うならば公の生涯でもっとも輝いていた時期に等しい。内容もさぞや爽快な戦国活劇ものであるかのように思われる。しかしそうとばかりは云えない。無論、本書では真田丸での謀略や敵本陣への突撃をはじめ、血が滾るような痛快な戦闘シーンが豊富に活き活きと描かれている。しかし、陽の当たるシーンのみを描くだけでは、物語に陰影はだせない。それだと単なる戦国アクション巨編と堕してしまい、却って幸村公の魅力もぼやけてしまう。

敵陣深く攻めこみ、あわや徳川三百年の歴史をIFの世界に押し込めかねないところまで追い詰めたその武勇。真田丸を築き、夏の陣で徳川方を大いに撹乱した知略。幸村公がなぜ大阪冬夏の陣で真田日本一の兵(つわもの)と呼ばれたかは、蟄居中に父の昌幸公から学んだ教えを抜きに語れない。何のために兵法を学ぶのか、という虚しさの中、折れそうになる心でひたすら昌幸公から兵法の教えを聴く日々。本書はその辺りの描写をないがしろにせず、むしろじっくりと語る。雌伏の時の描写が深ければ深いほど、大阪方の誘いに迷う幸村公の苦悩に真実味が出る。誘いを受け入れ、あばら家に埋もれ掛けていた己を奮い立たせ、戦国男児の気概を滾らせる場面は、本書のクライマックスとも言える。腐らずに切磋琢磨を怠らぬ者に、天はかならず働き場所を用意する。その様な感動が読者の胸に流れ込む名場面である。

そのような雌伏の時を描くにあたり、真田六連銭(六文銭)の由来や、武田家にあって赤備えを許された真田家の誇りもきっちりと説明される。本書の中では昌幸公から幸村公へ説明する由来は、同時に読者の心にもしっかりと届く仕掛けとなっている。

さて、高野山を出てから大阪入城を果たす一行。幸村公の視点から物語は進むため、他の浪人衆、特に大野治房公の描写に偏りを持たせている。治房公は、本書では大阪にあって優柔不断な将として書かれている。真田丸の築城を願い出る幸村公と、それを拒もうとする治房公の攻防が描かれ、ますます愚将としての治房公が印象付けられていく。一方では後藤基次、毛利勝永、明石全登、木村重成、長宗我部盛親といった武で鳴らした諸侯との心の繋がりも書かれている。

そして冬の陣勃発である。真田丸に陣取って神出鬼没な活躍で徳川方を悩ませる幸村公。父から蟄居中に教わった知略を駆使するシーンは本書でも一番の盛り上がりを見せる。実は、本書においては夏の陣で徳川方に突撃して家康公に肉薄するシーンよりも、真田丸での活躍のシーンのほうが印象に残る。来年の大河ドラマ真田丸ではどのような演出を採るのであろうか。気になるところである。

そして大阪城を攻めあぐねた家康により、大砲で天守を狙うという策が当たり、戦に恐れをなした淀殿の鶴の一声で一時休戦となる。このあたり、幸村公の独白が様々に描かれるが、己の知略を乗り越えて大砲で戦を終わらせた家康公の知略に歯噛みする様子。ここらの悔しがり方が少々淡泊に描かれているのが気になった。真田丸に手ごたえを感じていただけに、逆に幸村公の失望をよく表す演出なのかもしれない。しかも、講和条件として外堀のみの埋め立てのはずが、内堀まで一気に埋め立てられる。この謀略の主は、本多正純公。家康公の懐刀として父に続いて取り立てられたこの男は、本書内では陰険な官僚としての書かれ方をしている。そして交渉の最中に幸村公にこっぴどくやり込められる役割を演じている。実際にそのような史実があったかどうかは分からないが、その書かれ方からして、本書内の一番の悪役は、大野治房公ではなく本多正純公といえよう。しかし正純はそれにめげず、とうとう内堀埋め立てを成し遂げてしまう。これが、大坂方の致命傷となる。続く夏の陣では防戦一方となった大阪方。真田丸も講和で破却された幸村公は、乾坤一擲の策として家康公の陣へと突撃する。真田日本一の兵(つわもの)と後世に語り継がれるこの時の武勇だが、もはや本書前半に描かれた高揚感はどこへやら。滅びゆく者の最期の輝きが絶妙に描写されており、読者には哀しみしか感じさせない。

講和から夏の陣に至るまで、本書の流れは実に速い。それは、前半部の蟄居を描写するにじっくりと語っていたのとは明らかに違う流れである。明らかに戦になってからの本書は、怒涛のように筋書きにそって進み過ぎたきらいがある。せめて冬の陣から夏の陣の間、もう少し知略で活動する幸村公の姿を見たかった。しかし、それも詮方ないのかもしれない。関ヶ原の戦いと同じころ戦われた上田城の戦いでは、父昌幸公の指揮下にあるだけであり、実際の本格的な指揮初陣といえば、大坂冬の陣が初めてだったのだから。

そう読むと、一気に家康の術中に嵌った大阪の冬から夏にかけて、戦術では局所で勝利しても、戦略で負けてしまった幸村公の、十分に活躍できなかった生涯の無念が本書の構成から却ってにじみ出ているようにも思える。しかし、幸村公は夏の陣での突撃によって、真田日本一の兵(つわもの)として武名を永らく残すことができた。まさに「華、散りゆけど」である。

侘び寂びの蟄居から状態から華々しい戦場へ、最後には諦念の域に達する公の後半生を描いた著者の意図がそこにあったとしたら、まさに的を射た内容になっていると思われる。大河ドラマの開始前に一読をお勧めしたい。

2014/11/5-2014/11/7


孤闘―立花宗茂


柳川のお堀めぐりを堪能したのは、今から17年前。大学の面々数人で廻った柳川の街並みは今も覚えており、再訪したい場所の一つ。

のんびりとした舟旅の中、行く先々の景色も良かったが、お堀めぐりの終盤に現れる、御花の広大な様子も印象深いものがある。ところが同行者に歴史好きが揃っていて、私自身もそうだったにも関わらず、時間の都合もあって御花には立ち入らずじまいだった。

立花家で最も著名な宗茂公の事は当時から知っていたものの、私がその後で訪れた各地の史跡には宗茂公に関するものがなく、宗茂公が関ヶ原合戦の本戦に参戦しなかったこともあり、事績や故事、さらには書物にも触れぬまま、御花に感銘を受けてから永い年月が過ぎてしまっている。

ところがその名は忘れるどころか、ゲーム内での勇猛さ、関ヶ原後の改易にも関わらず復活を遂げた大名として、私の中でより深く知りたい人物の一人としてますます存在は大きくなるばかり。

そんなところに本書を手に取る機会があり、面白く読ませてもらった。高橋家から立花家へ養子に行ってからの苦労に話の重点が置かれており、有名なイガのとげを踏み抜いた際のエピソードなど、入門書としては最適ではないかと思う。養子ゆえの正室との確執や改易後の仲直りなど、誾千代との感情の行き違いの歴史も一つの主要テーマになっているため、単なる武勇伝の要約に堕していないところも評価できる。

ただ、難点としては、話がするすると進み過ぎるように思う。タメの部分が少なく、一気に読めてしまうことと、浪人時の苦難の生活にも宗茂公の人物史の豊かさが含まれているように思えるので、この部分をもう少し読みたかったように感じた。

’12/1/24-’12/1/25