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人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?


本書は新刊で購入した。タイトルに惹かれたためだ。

人工知能が人類にどのような影響を及ぼし、人類をどのように変えていくのか。それは私が興味を持つ数多くのテーマの一つだ。

1997年に当時のチェス世界チャンピオンをIBMのディープ・ブルーが破った快挙は、人工知能の歴史に新たな扉を開いた。もう一つ、人工知能の歴史における偉業として挙げられるのは、2011年にアメリカの有名なクイズ番組「ジェパディ!」でこれもIBMが作ったワトソンが人間のクイズ王を破ったことだ。

これらの出来事は人類の優位を揺るがした。それでもなお、チェスよりもはるかに複雑で指し手の可能性が膨大にある囲碁や将棋において、人間が人工知能に後れをとることは当分こないとの予想が大勢を占めていた。それは、ゲーム中に現れる局面の指し手の数を比較すれば分かる。チェスが10の120乗だとすれば、将棋は10の226乗。囲碁は10の360乗にもなるからだ。
だが、2015年にGoogleのAlphaGoが世界のトップ棋士を破ったことは人間の鼻をへし折った。2017年には棋界においても人工知能「ponanza」が、人類のトップクラスの棋士を一敗地に塗れさせた。

本書は人工知能「ponanza」の開発者が、その開発手法や機械学習について語った本だ。

そもそも、人工知能はどのように将棋の指し手を覚えるのだろう。そして開発者はどのように将棋を人工知能に教え込むのだろう。
本書は、私が人工知能や機械学習に対して持っていたいくつかの誤解を正してくれた。それと同時にAlphaGoと「ponanza」の手法の違いにも気づきを与えてくれる。

本書の第1章「将棋の機械学習━プログラマからの卒業」では、まずコンピューターの歴史や、機械学習についての試行錯誤が語られる。ここで重要なのは、人工知能が人間の思考を模倣することを諦めたということだ。人間の思考を諦めたとは、どういうことだろう。
人間の思考とは、自分の脳内の動きを思い返すに、何かを判断する際にそれを過去の事例と照らし合わせ、ふさわしいと判断された結果だ。
だが、その評価基準や過去の事例の探索は、プログラムで模倣することが難しい。私も、自分自身の心の動きをトレースするとそう思う。

まず、プログラムによる判断からの卒業。それが将棋の人工知能の発展におけるブレイクスルーとなった。これは他の機械学習の考えにも通ずるところだ。むしろ本質ともいえる。

「ponanza」のプログラムには過去の棋譜や局面の情報は一切含めておらず、将棋のルールや探索の方法だけが書かれているという。局面ごとの評価そのものについては全て「ponanza」に任せているそうだ。
この構成は機械学習に通じている方にとっては当たり前のことだろう。だが、プログラムで一切の評価を行わない原則は誤解しやすい部分なので、特に踏まえておかねばならない。

局面ごとにそれぞれの指し手について、勝率が高い方を内部で評価する。その判断基準となるデータは内部で膨大に学習し蓄積されている。
人間の判断でも同じことを行っているはずだが、数値に変換して高い方を採用することまでは行っていない。
つまり統計と確率だ。その手法を採用したことに対する感情や情緒は「ponanza」は考えない。あくまでも数値を重んじる。

ところが「ponanza」は当初、機械学習を使っていなかったという。代わりにロジスティック回帰の手法を採用していたようだ。
つまり統計から確率を演算して予想する手法だ。「ponanza」が機械学習を採用したのは、まさに本書の執筆中だったと言う。

第2章「黒魔術とディープラーニング━科学からの卒業」では、機械学習について書かれる。
機械学習にもいくつかの問題があるという。例えば、単純な丸暗記ではうまく知能が広がらず、判断も間違うのだとか。そこで、わざといくつかの探索を強制的にやめさせるという。このドロップアウトと呼ばれる手法によって人工知能に負荷を与えたことによって、かえって人工知能の学習は進んだという。
重要なのはこの時、なぜそのような効果が生まれるのか科学者でも把握できていないことだ。他にも、技術者がなぜそうなるのか分かっていない事象があるという。たとえば、機械学習において複数の層を学習させると、なぜそれがうまく学習されるのか。また、ある問題を解くにあたって、複数のCPUで計算させる場合でも闇雲にCPUを増やすだけでは正解率は上がらない理由も分かっていないそうだ。むしろ、一つの課題を複数のCPUで同時に解くように指示した方が早く正確な解を導き出せるそうだ。だが、その理由についてもまだ解明できていないと言う。
著者はそれを黒魔術と言う言葉で表している。

細部の構造を理解すればそれが全体においても理解できる。つまり科学の還元主義だ。機械学習の個別の動きについては科学者でも理解できている。だが、全体ではなぜそのような結果が導かれるのかが理解できない。つまり、すでに人工知能は還元主義を超越してしまっている。

なぜ人工知能がシンギュラリティーに達すると、人の理解が及ばない知能を獲得してしまうのか。生みの親であるはずの技術者がなぜ人工知能を制御できないのか。黒魔術の例えは、誰もが抱くはずの根本の疑問を私たちにわかりやすく教えてくれる。
人工知能の脅威論も、技術者が理解できない技術が横行していることへの危機感から生まれているに違いない。

第3章「囲碁と強化学習━天才からの卒業」では、人類によって磨き上げられた知能が人工知能によってさらに強くなる正のフィードバックが紹介される。
囲碁の人工知能であるAlphaGoが驚異的な能力を獲得した裏には、画像のパターン認識があった。囲碁の局面ごとの画像を膨大に学習し、それぞれごとに勝率の良い方を判断する術。
画像認識の際に有用だったのがモンテカルロ法だ。これは、統計学の書物を読むとしばしばお目にかかる概念だ。たとえば円の面積を求めたい場合、いわゆる円周率πを使うのではなく、ランダムに打ち込んだ点が円の外にあるものと内にあるものを数える。するとその割合の数が増えれば、πに限りなく近くなる。

座標の位置によってその統計と確率を判断する。
それは囲碁のように白と黒の碁石が盤面で生き物のように変化するゲームを把握するときに有用だ。それぞれの点を座標として記憶し、その勝率を都度計算する。
AlphaGoはモンテカルロ法による勝率予想と機械学習の併用で作られている。画像処理の処理はまさに人工知能の得意分野だ。それによってAlphaGoの性能は飛躍的に上がった。

10の360乗と言う膨大な局面の最善手を人工知能が判断するのは困難とされていた。だが、AlphaGoはそれを成し遂げてしまった。
人間の知能を超越し、神として見なされるふさわしい圧倒的な知能。それは信仰の対象にすらなった。すでに人間の天才を超えてしまったのだ。

第4章「倫理観と人工知能━人間からの卒業」では、知能と知性について深い考察が繰り広げられる。

著者は、人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティは起こると考えている。シンギュラリティを語る際によく言われる懸念がある。それは、人工知能が人類によって制御が不能になった際、人工知能の内部の論理が人間に理解できないことだ。人間は人工知能の判断の根拠を理解できないまま、支配され、絶滅させられるのではないかという恐れ。

著者は、その懸念について楽観的に考えている。
その根拠は、人類が教え込み、人類の知恵をもとに学習した人工知能である以上、人類の良い面を引き継いでくれるはずという希望に基づいている。
つまり人間が良い種族であり、良い人であり続ければ、人工知能が私たちに危害を加えない保証になるのではないかということだ。人が親、人工知能が子供だとすれば、尊敬と愛情を感じる親に対して、子は敬意を持って処遇してくれるはず。その希望を著者は語っている。

巻末ではAlphaGoの偉業について語る著者と加藤氏、さらに囲碁棋士の大橋氏との3者対談が収められている。

対談の中では、AlphaGoと対戦したイ・セドル氏との対戦の棋譜が載せられている。複雑な局面の中でなぜAlphaGoがその手を選んだのか。その手は勝敗にどのような影響を与えたのか。
それが解説されている。

早い時では第七手でAlphaGoが打った一手が、ずいぶん後の局面に決定的な影響を与える。まさに人工知能の脅威と、人類が想像もつかない境地に達したことの表れでもある。
私はあまり囲碁が得意ではない。だが、人間が狭い視野で見られていない部分を人工知能がカバーするこの事象は、人工知能が私たちに与える影響を考える上で重要だと思った。
おそらく今後と、人工知能がなぜそのようなことをするのか私たちには理解できない事例が増えているはずだ。

面白いことに、著者は対談の中でこのように語っている。
「コンピューターは、論理的に動くけれど、本当の意味での論理力は足りていないんです」(263ページ)。
つまり、人工知能とはあくまでも過去の確率から判断しているだけであって、もし人間が既存の棋譜や学習内容に含まれていない手を打ってきた時、人工知能はそれを論理的に捉えられず混乱するのだ。

もう一つ本書を読んで気づくのは、人類自身が囲碁や将棋の奥深さを人工知能に教えられることだ。人類が思いも寄らない可能性を人工知能によって教えられる。
それは、これからの人工知能と人間の共存にとって希望だと思う。人工知能から人間も学び、新たなヒントを得ていく。

これは著者のシンギュラリティへの態度と並んで楽観的な意見だと指摘されるはずだ。
だが、今さら人工知能をなかったことにはできない。私たちは何があろうとも人工知能と共存していかなければならないのだ。
本書は人工知能の本質を理解する上でとても優れた本だと思う。

‘2020/08/18-2020/08/18


盤上の夜


本書は、友人に貸してもらった一冊だ。
友人宅に遊びに行った際、本書をお勧めとして貸してくれた。
お勧めされただけあって、本書はとても素晴らしい内容だった。

本書が取り上げているのは、有名なボードゲームだ。将棋、囲碁、チェッカー、インドの古代将棋、マージャン。それぞれの短編の中で、対象となるボードゲームを題材に物語が編まれている。
ボードゲームは一見すると単純に思える。だが、奥は深い。盤上のルールだけで世界を構築することだってできる。
そのとっつきやすさと奥の深さが人々を長きにわたって魅了し続けているのだろう。

ところが今や、人工知能の進化は人間の囲碁チャンピオンを破るまでになった。
その事実から、すでにボードゲームには限界が生じているのではないかという嘆きすら聞こえてくる。

本書に収められた「人間の王」は、チェッカーが取り上げられている。
チェッカーはチェスよりも早く、人工知能の前に人間のチャンピオンが屈したゲームだ。
チャンピオンとはマリオン・ティンズリー。実在の人物であり、42年の間、チェッカーで無敗だった。
そして、チェッカーのコンピュータープログラム「チヌーク」こそ、初めて人間を破った存在だ。

ティンズリーは一体、何を思い何を考えながらチェッカーのプロでありつづけたのだろう。
そして、自らの生命を賭して、人間に相手がいない人工知能との対戦を望み、ほぼ互角の戦績を残す。
マリオン・ティンズリーは「チヌーク」と六戦連続で引き分け、そして最後は体調がすぐれずに途中で棄権した。敗れたことは事実だとしても、生身の肉体で負けた、というのがまさに肝だ。

語り手は、ティンズリーの戦いの軌跡をたどりながら、人間が人工知能に負けた理由を考察する。
そして語り手は「チヌーク」に問いを投げ、対話することで答えを導き出そうとする。
著者が「人間の王」の中で描いているのは、チェッカーというゲームが、人工知能と人間によって葬られる瞬間だ。

後年、「チヌーク」を開発したプログラマーであるシェーファーによって、お互いが最善手を指し続けると必ず引き分けに終わることが証明されたという。
ゲームを創り出した人間の手によって、すべての指し手が解明されてしまった初めてのボードゲームこそ、チェッカーなのだ。

囲碁や将棋も、人工知能が人間のチャンピオンを凌駕してしまったことでは同じだ。だが、それらのボードゲームでは全ての解がまだ明らかになっていない。
つまり、まだ囲碁や将棋にはひらめきや可能性が残されている。
一方、すべての解が人工知能によって導かれ、ゲームとしての限界も暴かれた。それがチェッカーの悲劇。
語り手は、その事実を基に、人と機械の決定的な違いを明らかにしようと試みる。「人間の王」というタイトルは、その違いの本質を鋭く突いている。

本書に収められた他の短編も、ボードゲームの世界を再構築しようと試みている。それが本書のタイトルにもなっている。
ボードゲームの世界には、人間の論理が入り込む余地がある。そして、人の感情と感覚を色濃く投影できる。
ボードゲームといえ、完全に論理の世界だけでは場の魅力は構築できない。そこに人間の感情や感覚が入り込むからこそ、それらの競技がゲームとして成り立ってきたのではないだろうか。

そのことが特に顕著に表れているのが、表題作である「盤上の夜」だ。
「盤上の夜」は、盤上の局面のすべてを感覚として体にとらえることのできる女性棋士の話だ。
その能力は、中国を旅した際に騙され、すべての四肢を奪われたことによって得られた。それもまた運命。
その境遇から脱出するため、その女性は囲碁のスキルを身につけた。そして、庇護者を見つけることにも成功した。
四肢が失われた替わりに感覚を身につける。その設定はあながち荒唐無稽ではない。幻肢痛という症状もあるぐらいだから。
局面ごとに盤上の全ての駒の可能性を皮ふで感じる。それこそ、棋士が没入する究極の到達地といえるだろう。そればかりは人工知能の論理だけではない、人としての生の感覚に違いない。

「千年の虚空」は将棋の話だ。
そこで著者は、奨学金が頼りの若手の棋士たちの生活を描きながら、将棋の何たるかを語っていく。
二人の兄弟、そして一人の女性。三人は幼いころから性に溺れ、自堕落な生活を続けていく。そんな暮らしは、将棋に救いを求めたことで終わりを迎える。
だが、三人の爛れた育ちは、長じてからも彼らの人生に陰を与える。
兄弟のうち、兄の一郎は政治家になり、弟の恭二は棋士の道を進む。綾はその二人を翻弄し、その揚げ句に自殺する。
綾の死をきっかけに精神病院に入った兄弟。彼らの人生は、綾に翻弄される。そして、ゲームを殺すためのゲームの駒として、将棋の世界をさながら現実の世界でも指しきるように生きてゆく。
ここには、将棋というゲームの持つ自由さに焦点が当てられている。まるで棋士が指す棋譜が駒の動きだけにあきたらず、人生のあらゆる可能性を表す年譜だというように。
そこに、将棋の奥深さを見いだすことは可能だ。そして、駒の動きを人生の可能性に投影できる想像力こそ、決して人工知能の棋士が演じきれない個性なのだろう。

「清められた卓」は麻雀を取り上げている。
麻雀は私も遊んだ経験がある。技量と運の両立が必要なゲームであり、奥深さでは囲碁や将棋に引けを取らないと思う。技量と運が絶妙に両立しており、それを卓を囲んだ空間で完璧に出し切ることが求められる。
手練れになると、それぞれの手牌だけで、ある程度の局面を読み切ることも可能だという。
もちろん、いかさまでもしない限り、一人が局面の全てを支配することなど、普通は無理だ。

ところが優澄は、神業のような確率で麻雀に勝つ。なぜか。
著者は運を味方につけることと技量のバランスがどこにあるのかを本編で表現しようとしている。
優澄が行き詰まる局面。その中で果たして優澄は神業をなし得るのか。
本編を読むと、ボードゲームの仲間として麻雀を含めていなかった自らの不明も気づかされる。
そして、しばらく遠ざかっていた麻雀がやりたくなった。実際にオンラインで麻雀に手を染めてしまったほどだ。

「象を飛ばした王子」は、将棋やチェスの源流となったとされるチャトランガを創始した人物が主人公だ。
その人物とは、かのブッダこと、釈迦の息子と言う設定だ。
父は、悟りを開いたまま、国の統治を放り出して修業と悟りの旅に去ってしまった。
残された王子は、国を統治しながら、自分の中に独自の想念を育てあげていく。
その想念とは、ゲームに政治家や王族を没頭させることによって、国同士の戦争をやめさせるというものだ。

そのような発想の下、ゲームを取り上げた小説を私は今まで読んだことがない。
そして、囲碁や将棋、チェスの源流がチャトランガであったことも、本編を読んで初めて知った。このような天才によってチャトランガは創始されたとしても驚かない。
まさに、クリエイターとはこういう人のことを指すのだろう。

最後の一編「原爆の局」は、盤上の夜の続編にあたる。
広島の原爆が投下された時、ちょうど囲碁の対局が行われていた事はよく知られている。
本編はこの局面を取り上げている。
原爆によって石がバラバラに飛び散り、会場が破壊されたあと、二人の棋士は石を元どおりに戻し、対局を続けたという。
棋士たちは何を思い、どのように囲碁に向き合っていたのか。
現実の凄惨な状況よりも囲碁の盤上こそが大切だった。それは職業の性や偏執といった言葉では片づけられない。
おそらく、二人の棋士には盤上に広がる可能性が見えていたのではないか。そこにこそ、人の生きる本質が広がっているとでもいうかのように。

はじめての原爆実験が行われたアラモゴード砂漠。この砂漠の爆心地に碁盤を置き、ちょうど原爆が落ちたときの棋譜を並べ、時空を超えた再現を試みる。実に面白い。
確かに、知能で比べると人間は人工知能にかなわない。だが、この時の棋譜は今に記憶されている。それは、人間による思考の跡だ。
棋士が頭脳を絞り、しのぎを削った証。それが棋譜となり、当時の人間の活動となって残る。
ところが人工知能にとって、過去の棋譜とは判断の基盤となるデータに過ぎない。
その違いこそが、人工知能と生の人間の違いを示しているようで面白い。

‘2019/4/1-2019/4/5


囲碁の源流を訪ねて


2016年前半を彩るニュースの一つに、コンピューターが現役囲碁チャンピオンを破る出来事があった。人工知能が到達した一つの節目として後世に伝えられるに違いない。

そんなニュースもあり、私も教養の一つとして囲碁の歴史を学んで見ようと志したのが本書を手に取った理由だ。

もともと父方の祖父が趣味で囲碁を打っていた。祖父の家を訪問する度に独り碁を打つ姿が今も思い浮かぶ。私も数年前、囲碁を通じて娘たちとのコミュニケーションを図ろうとしたことがある。簡易碁盤を買ってきて娘たちと興じたのも良い思い出だ。私も娘たちも共に初心者だったが、娘に見事に負けたのも懐かしい。

ここ最近は娘たちと囲碁を打つこともなくなってしまった。だが本書をきっかけとして、また囲碁を学んでみたいと思う。本書は、合計三期にわたって文壇本因坊の座にあった著者が囲碁の源流を探求した一冊だ。

本書からは、著者の囲碁に賭ける想いが伝わってくる。著者は本書の中で師匠から伝授された言葉を紹介する。その言葉は「碁では何が一番大事かと問われたら、即座に『アツく打つことである』と答えましょう」。なお、著者の師匠とは細川千仭九段で、棋界では著名な棋士だそうだ。著者はその言葉を実践するかのように、中国や日本の棋士から指導碁を相手してもらう。また、棋士から囲碁の歴史を指南してもらう場面が本書にはあるが、著者の胸がときめく様子が伝わってくる。

囲碁に関しては娘に負けるほどド素人の私。本書のレビューを書くには力不足だ。実際、本書を読んでいても意味のわからない言葉に混乱した。その度に、自分の知識不足を痛感した。本書はもう少しやさしい囲碁の入門書を読んでから挑むべきだったと後悔もした。

でも、私が本書から学べたことは多い。それは大きく四つ挙げられる。一つ目は、日本の碁が中国の碁をベースに進化した、という前提が間違っている可能性があること。二つ目は、日本の碁は囲った地の広さを競うが、中国の囲碁は活きた石の数を数える、という違い。最初の二つは、囲碁というゲームの本質には影響しない。だが、囲碁から見る中国と日本の文化差異を考える上ではとても重要なことだと思う。

三つ目は、三國志と囲碁の関係の深さだ。関羽が自らの傷を手術してもらう間、碁を打って気を紛らわせたというエピソードは何となく覚えていた。でも、今に残っている世界最古の棋譜が孫策と呂範の二人による事は知らなかった。二人は共に呉の著名な武将であり文官として知られている。三国志の世界では有名人だ。また、魏の曹操が碁の達人であった事実も本書を読むまですっかり忘れていた。

四つ目は、囲碁が暦や占いと密接に関係があるということだ。二十四節季というものがある。はたまた八卦というものがある。これらは中国由来の暦や占いを理解する上で欠かせない。これらの成立と囲碁の成立には関係がある。そのことも本書からの学びだ。

つまり囲碁は、私の想像以上に中国文化を象っているということだ。この事実は、中国文化に強い影響を受けたわが国の源流を探る上でも無視できない。つまり、わが国の文化を理解する上でも、囲碁の知識はあるに越したことがないのだ。それは、人工知能のAlphaGoがプロ棋士に勝とうが負けようが関係のない話だ。やはり、囲碁は最低限打てるようになっておきたい。私の祖父が老後の時間を囲碁で埋めていたように、私が老後、動けなくなった時、碁石からなる宇宙に慰めを求められればと思う。

2016/04/02-2016/04/06


ダークゾーン


著者の大分前の作品にクリムゾンの迷宮という作品がある。いきなりどこへと知れぬ場所へ連れ去られた男女達が、命をかけた生き残りゲームを強いられる話だ。私が読んだのは記録によると2001年。14年前だ。本書を読み終えて思い出したのはクリムゾンの迷宮。作風が実に良く似かよっている。

違うのは、登場人物達が自らの戦う場所を認識していること。本書の舞台は長崎にある端島(軍艦島)だ。さらにもう一つ違うのは、登場人物達の姿形が人ならぬものに化けること。化けただけではなく、化けた姿の属性に応じた能力が付与されていることだ。

異形の姿に成り果てた男女は、赤と青の二勢力に分けられる。そしてその異形の能力を操り、敵を殺す。殺された敵は敵方の勢力として命を吹き込まれ、大将によって任意の場所に打ち込まれる。それはまるで将棋でいう持ち駒のようだ。そう、このゲームはまるで将棋。そうはいっても異形の者達の動きはチェスや将棋のような単純な動きではない。しかし一定のルールに従っている。

本書は青の大将(キング)である塚田の視点で進む。塚田は将棋差しが腕を磨きプロを目指す奨励会に所属していることになっている。青の駒は姿形こそ異形になっているが、人間だった時の記憶を持っている。そしてそれらは皆、塚田が人間だった頃の知己という設定になっている。

なので、塚田が人間だった時にその駒とどういう関係だったか。それが各駒への指示や勝負の行方にも影響を与える。とくに塚田の恋人理沙や大学での恩師は塚田にとって近しい関係だったため、塚田の判断や戦略に大きく影響を与える。

また、千里眼のように周囲の状況を把握できる一つ眼の赤ん坊の外見を持つ存在もいる。今はいつで、なぜここにいるのか、この勝負の胴元はだれか、負ければどうなるか、などの情報。それは話が進むにつれ、一つ眼が小出しに開示する。

対する赤の軍勢の正体も徐々に明らかにされてゆく。赤の大将は塚田の親友であり、奨励会で互いに切磋琢磨する奥本。実力も伯仲した二人が赤と青に分かれ、死の七番勝負を戦うことを余儀なくされる。一度負けたら持ち駒や配置はすべてリセット。前試合の殺された痛みや戦跡の記憶を保持したまま、先にどちらかが4勝するまで勝負は続く。

冒頭にも書いたように、本書は明らかにクリムゾンの迷宮を下敷きとし、それを発展させたものだ。そこにはここ十数年のオンラインゲームの発展も取り込まれている。偶然にも本書を読む少し前に、ターン制を廃した画期的なチェスが発表されたばかり。

本書はそのような新たなゲーム世界の創造を意図して書かれたと思われる。その意図は著者の意図であるが、読者はそれとは別にこの異形のゲームの創造者は誰かという著者から提示された作中の謎も忘れてはならない。各章の合間には断章が挿入される。そこでは人間の塚田の日々が描かれる。奨励会での日々や大学での日々。本書の種明かしとなるのでこれ以上は述べないが、これらの断章がやがて本編の異形のゲーム世界の生成の謎へとつながる。

我々も遠からず本書で描かれたような異形のゲーム世界に迷い込むのかもしれない。あまり歓迎したくない本書のようなゲーム世界の実在。それを現実のものとして考えざるをえないような、そんな未来が遠からず待っているように思えなくもない。Virtual Realityが当たり前のようになり、ゲームにも取り入れられつつある今の延長の近未来では、人はどのようにしてゲーム世界と現実世界を区別していくのだろうか。ゲームの世界から現実の世界に戻ったときの感覚が、本書の結末で書かれたようなものでない誰が言えるだろう。本書は著者なりのゲーム論、仮想現実論として捉えることも出来るかもしれない。

その意味で、本書はクリムゾンの迷宮で提示した世界観をはるかに凌駕したといえる。

‘2015/9/29-2015/10/2