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怒る富士 下


下巻では、富士の噴火によって人生を左右された人物のそれぞれの行動が描かれる。

上巻にも書いたように、膨大な富士からの噴出物は、駿東郡五十九カ村を亡所扱いにした。亡所とはその地域からの年貢が不可能となり、その地の農民には年貢の義務を課さない代わりに、庇護も与えない過酷な処置だ。
深刻な飢えの危機に直面した駿東郡五十九カ村の名主たちは、幕府への直訴に及ぶ。

そうした農民たちの思いに応えたのが、伊奈半左衛門忠順だ。間に立って名主たちの訴願を取り持つ。さらに、酒匂川の浚渫工事に農民たちを雇用し、生活が成り立つようにした。

だが、浚渫工事を江戸の組が請け負ったことで、浚渫工事は中途半端なものとなった。酒匂川の氾濫によって堤防が切れるたびに伊奈忠順は非難される。
駿東郡ではあちこちに伊奈忠順をたたえる伊奈神社が創建されているのに、足柄下郡あたりでは伊奈忠順の評判はあまりよろしくないらしい。

本書は、上下巻を通し、関東郡代である伊奈半左衛門忠順の生涯を軸に描いている。
だが、本書の構図を、硬直した幕府の官僚主義と伊奈忠順の対決の構図に限定すると物語が退屈になってしまう。
物語を広げるためには、実際に被害にあった農民たちの立場を描くことが欠かせない。彼らが富士の噴火によってどういう生涯を送ったかが重要になる。そこを描いておかないと物語が一面的になってしまうからだ。

本書には幕府の元で働く役人や奉行もたくさん登場する。が、農民たちも多く登場する。その一人はおことだ。

おことは、伊奈忠順とともに実直で有能な人物として描かれる。
伊奈忠順が民のために尽力したことの一つに、駿東郡五十九カ村の人々で希望する人々を駿河で働けるようにと紹介状を書いた。
その時、大勢の人を引率していったのがおこと。容姿に恵まれた上に、年上も含めた大勢を引率できるほどしっかりした女性だ。
おことは、噴火直後の混乱で引き離された佐太郎とつるのことも忘れずに気を配っている。
名主の跡取りであり、荒廃した土地を蘇らせようと奮闘する佐太郎。百姓の娘であるつる。二人は惹かれあっていたが、佐太郎の実家からは身分が違うとして避けられていた。

噴火の後、駿河に奉公に出たつるを追うように、皆を連れて駿河に落ち着いたおことは、その器量と能力を駿河町奉行の能勢権兵衛に見込まれる。

だが、おことの美貌は駿府代官に目をつけられる。駿府代官は、おことをわがものにしようと画策し、遊郭の女将も巻き込んで周到な罠をおことにかける。それを知らぬおことは、罠にはめられていってしまう。

伊奈忠順は、飢えて苦しむ駿東郡五十九カ村の民を救うため、駿河に蓄積されている備蓄米を放出させようと駿河町奉行の能勢権兵衛に依頼する。能勢権兵衛も心ある人物であり、放出にあたってのさまざまな手続きや職責を越えて伊奈忠順の依頼に応える。

おことの手引きによって、作太郎とつるは結ばれる。だが、おことは罠にかけられてしまう。近づいてきた恋人にそそのかされ、能勢権兵衛の元から持ち出した書類が世話になった人物を切腹に追い込んでしまう。自分のしたことが人々を裏切り、人の命を奪ったあげく、恋人にも良いように裏切られていたことを知ったおことは、遊郭に入れられて間も無く死を選ぶ。

「なにもかも、あの美しい顔をした、富士が仕組んだことなのだ。富士山の噴火さえなかったら、おそらく幸福な生涯を送ることができたのに。おことはその富士に手を合わせて別れを告げると、風月の物置きに入って首を吊った」(329ページ)

伊奈忠順も、さまざまな行いの詰め腹を取らされ、死を選ぶ。
後に残ったのは、民の事など顧みず、政略争いと面目を立てることに血道を上げる官僚たち。

「駿東郡五十九カ村はこの半左衛門一人が死んだことによって直ぐ救われるとは思われない。更に更に長い年月がかかるだろうが、決して、民、百姓を見棄ててはならぬ、また民、百姓から見棄てられてはならぬ」(318ページ)

これは、伊奈忠順が残した伝言の一つだ。
特に最後の民から見棄てられてはならぬ、という訓言が重要だ。

政治とは本来、富士山噴火のような未曽有の自然災害が発生した時にこそ、存在意義を発揮すべきだ。平時においては民間に任せておけば良い。
だが、民ではどうしようもないこのような自然災害の時にこそ、政治は真価が問われる。
ところが、本書に登場する幕閣の多くは、政治よりも勢力と派閥争いにうつつを抜かしてしまった。そればかりか、民のために奮闘しようとした心ある代官を陥れ、死に追いやった。

本書のタイトル「怒る富士」とは、そのような為政者の怠慢への怒りではなかったか。
今の政治が、同じような体たらくだとは思わない。だが、民のために奉仕する姿勢を忘れた時、富士山は再び噴火するだろう。
首都圏直下型地震よりも東南海地震よりも、今の文明を台無しにしようとする勢いで。

著者がかつて本書で描いて警句とは、三百年以上の歳月をへてもなお、有効であり続ける。

2020/10/3-2020/10/5


怒る富士 上


わが国でも第一の霊峰富士。その姿はまさに日本のランドマークにふさわしい。
だが、富士は古くから常にあのような白く秀麗な姿であり続けたわけではない。
富士もまれに怒る。噴火という形で。

最後に噴火してから三百年、富士山は鳴りを潜めている。
前回の噴火は江戸時代。その時の噴火を指して宝永の大噴火と呼ぶ。

本書はその宝永の大噴火によって人生を左右された人々と、なんとかして復興しようと努力した伊奈忠順の努力を描いている。

富士山の噴火による直接の火砕流や噴石などの被害が集中したのは、富士山に近い地域だった。甚大な被害を受けたのは、今の御殿場市や裾野市や小山町、さらに山北町、松田町、開成町から小田原に至る酒匂川沿いの町々だ。

当時のわが国はまだ鎖国の最中であり、今のように情報機器など皆無だった。
そのため、江戸の市中に数センチの火山灰が積もった程度であり、都市機能に影響はなかった。ましてや徳川幕府の政事に深刻な影響が生じることもなかった。
そのため、当時の江戸で書かれた文章からは噴火による被害の深刻さは伺えない。噴火が本当に深刻だったのは上に挙げた地域だった。それなのに、その悲惨な実情は無味乾燥な記録にしか残されていない。その被害をきちんと描こうとしたことに本書の価値がある。

本書では火山弾が人を襲う様や、火山灰や噴石が人の生活を奪う様が描かれる。凄まじい量の富士からの噴出物は、田畑を埋め、人々の生活の基盤を覆い、前途を暗闇で塗りつぶした。
江戸時代の農民は、農地から生まれる作物がなくては生活が成り立たない。だが、膨大な噴火物は容易には取り除ける量ではない。田畑を覆った堆積物を取り除がなければ復興はない。土木機械のない当時、何十年もの間も田畑は噴火物に覆われていた。史実では同地域の収穫量がもとに戻るまでに九〇年ほどを要したという。

農地を捨て、別の職についた人。売られていく娘。職の種類が少なく、人々に選択肢がわずかしかなかった時代だ。そうした人々が噴火の悲劇に遭遇すればどうなるか。
著者は、そうした人々の悲しみを描く。
そして、悲嘆に暮れる農民を相手にひとごとのような態度で接する人。政争の道具に利用しようとする人。今も江戸時代も人の本質はそう変わらない。
当時の世を収めていたのは徳川幕府。だが、その内実は派閥の間で勢力争いに明け暮れ、出世を争うか事なかれ主義が横行していた。
戦国の世から早くも百年。天下泰平が続けば政治には官僚主義がはびこる。宝永の大噴火が起こったのは五代将軍綱吉の時代。言うまでもなく、生類憐れみの令で悪名高い将軍だ。戦国の余韻が残っていた頃に比べ、徳川幕府にも緩みが見られ始めた頃だ。本書が描いているのは政治の怠慢だ。

本来ならば、このような時のために政治は機能しなければならない。だが、責任のなすりつけあいに終始した幕府は庶民を全く見ない。地元の小田原藩ですら、復興を諦めて幕府に藩領を返上したぐらいだ。

そんな中、庶民のために立ち上がったのが関東郡代の伊奈忠順。
伊奈忠順は苦境に喘ぐ庶民を見過ごさず、元の暮らしに戻れるようにするため奮闘する。暮らし向きを上げるために奔走し、復興工事に向けて働きかける。その工事には田畑を失った人々を雇い入れる。可能な限り農民の側に立とうとした。

今の世の中は当時とは比べ物にならないぐらい進化を遂げた。進化の立役者となったのは情報機器だ。ただ、そうした情報機器は噴火に対してとても脆弱だ。情報機器に頼った便利さは、皮肉なことに、世の中を江戸時代よりも脆弱に変えてしまった。

情報業界にいる身として、私は富士山の噴火は東南海地震や首都圏直下型地震にもましてリスクだと感じている。それは、経営者になった今、なおさら強く感じる。
情報機器が火山灰で使えなくなった時、いかにすれば経営が持続できるのか。それは経営者が抱くべき危機感だ。

だが、それ以上に本書を読んで感じたのは、政治がどこまで私たちを守ってくれるのか、と言う切実な思いだ。
経営が成り立たなくなる自然災害の中、自分の身は自分で守らなければ。

私は本稿を書く一カ月半前に宇都宮一週間ほど滞在した。
その背景には、ワーケーションがしたいという私の希望もあった。が、一番の目的は、富士山噴火時に仕事が出来る場所を探すことだ。火山灰に襲われることが確実な多摩地区に仕事場を置くことのリスク。そのリスクがあったからこそ、私は富士山の噴火時にあまり影響がなさそうな宇都宮で仕事の拠点を移せないか試した。仕事をし、暮らせるかを含めて滞在を試してみた。

さすがに江戸時代と今では違う。東京にも直接の被害は及ぶだろう。都心でも情報機器は不具合を起こすに違いない。
情報が即座に拡散される今、本書に書かれるような批判を浴びるような政治は行われないだろう。政権の批判につながってしまう。

とはいえ、経営者としてできることはしておかないと。
伊奈忠順のような人が活躍してくれるかどうかは誰にもわからないのだから。

2020/10/3-2020/10/3


知の巨人 荻生徂徠伝


隔月で知り合いの税理士事務所からお便りのDMをいただいている。その表紙には毎回、代表の方があいさつを兼ねた文章を載せている。

ある号の表紙でとても印象に残ったことが載っており、弊社法人のFacebookアカウントで転載させていただいた。それがこちらだ。

一、人の長所を初めから知ろうとしてはいけない。人を用いて初めて長所が現れるものである。
二、人はその長所のみをとればよい。短所を知る必要はない。
三、自分の好みに合う者だけを用いるな。
四、小さい過ちをとがめる必要はない。ただ、仕事を大切にすればよい。
五、人を用いる上は、その仕事を十分に任せよ。
六、上にある者は、下の者と才智を争ってはいけない。
七、人材は心ず一癖あるものである。それは、その人が特徴のある器だからである。癖を捨ててはいけない。
八、以上に着眼して、良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものである。
九、小事を気にせず、流れる雲のごとし。

これは徂徠訓。ここでは九条までが載っている。が、一般には八条からなっているようだ。

原文はこうだ。

 一つ、 人の長所を、初めより知らんと求むべからず
     人を用いて 初めて、長所の現れるものなり
 二つ、 人は その長所のみを取らば、すなわち可なり
     短所を知るは要せず
 三つ、 おのれ が 好みに合う者のみを用うるなかれ
 四つ、 小過を、とがむるなかれ
     ただ事を 大切に なさばすなり
 五つ、 用うる上は 信頼し、十分にゆだねるべし
 六つ、 上にある者、下にある者と才知を争う事なかれ
 七つ、 人我は必ず 一癖あるものと知るべし
     但し、その癖は器材なるが、ゆえに 癖を捨てるべからず
 八つ、 かくして、上手に人を用うれば、事に適し
     時に応ずる人物、必ずこれにあり

これらは為政者向けの内容だ。組織の中で上に立つものの教えと言うべきか。私も年齢的にリーダーシップを発揮しなければならぬ年齢に差し掛かっている。ところが、人を教え導けるようになりたいと願ってはいるものの、なかなか思ったようにいかない。

そう悩んでいたところ、DMの表紙にあった徂徠訓の教えが私の心に刺さった。これを一つの原則として肝に銘じ、暗記できるぐらいになりたいと思った。そして、荻生徂徠という人物に興味を持つきっかけにもなった。

昨年と一昨年は上杉鷹山、細井平洲、徳川光圀、二宮尊徳といった江戸時代の高名な学者の遺跡や遺訓を集中的に学んだ。となれば、荻生徂徠も学ばねばなるまい。いや、むしろ遅すぎたくらいだ。

本書を読んで思ったのは、荻生徂徠の人間的な一面が描かれていることだ。人間臭さとでも言おうか。

私は聖人を簡単には信じない。自らの欲を滅し去り、品行方正で一生あり続ける。そんな人物が描かれていたとすればそれは絵空事。江戸時代の人物にしてもそう。学者として高名であることと、その人物が人間的に非の打ち所のない人物かどうかは別の話だ。本書で荻生徂徠が聖人ではなく人間的に描かれていたことは、私に本書への親しみを持たせた。

もちろん、本書で書かれた荻生徂徠がそのままの人物であるはずがない。著者の解釈や脚色が大いに混じっていることだろう。だが、それをおいても本書で描かれた荻生徂徠からは人間の生身の姿が漂ってくる。

荻生徂徠の教えの神髄は私にはまだつかめていない。が、荻生徂徠が学問を修めてきた道は理解できたように思う。それを要約すると徹底した原典への参照だ。原典を読み込むあまり、漢文を書き下し文に頼らず読めるようになった徂徠。私たちも中・高の古典の授業で漢文には触れた。その時、私たちは書き下し文を使って読むことを教えられた。書き下し文とは、レ点や一、二点が漢字の横につくあれだ。本書によると、書き下し文を使って漢文を読むことは江戸時代でも当たり前だったようだ。当時の人々もそうやって漢文を学び、読み解いていったのだという。しかし、荻生徂徠は書き下し文に頼ることを拒んだ。漢字そのもので読み下してこそ原典の精神に触れられる。それが荻生徂徠の掴み取った信念だったのだろう。

漢文へのこだわりは、荻生徂徠を唐音の習得へと向かわせる。そして仲間内で勉強会を開いてはひたすら学問に打ち込む日々が続く。

そんな荻生徂徠の生計は何で成り立っていたか。それは柳沢家の江戸藩邸の住み込みの学者として。自ら学ぶうちに柳沢家に取り立てられ、そこで長らく養われた身。それが荻生徂徠の生き方だった。その暮らしは確かに荻生徂徠の衣食住を保証した。しかし、一方で荻生徂徠を世に出る機会を妨げ続けた。

柳沢家といえば柳沢吉保公が有名だ。徳川綱吉の側用人として知られている。私はよく山梨に行く。恵林寺にも。恵林寺には柳沢吉保公の像が安置されている。もともと武田家の家臣だった柳沢家だが、吉保公が将軍綱吉のお気に入りとなり、出世を果たした。荻生徂徠も主家の隆盛に従い、藩邸でお抱えの学者として生活できたわけだ。

だが、綱吉が亡くなり、家宣に将軍が変わった。柳沢家も吉保公から次の代に変わった。すると荻生徂徠のような学者をいつまでも養っておけない。つまり、荻生徂徠も世に出て糧を得なければならない。そのような境遇の変化があって初めて腰を上げるあたり、野心が少ないとみるのか、要領がよくないとみるのか。それは私にはわからない。ただ、本書で描かれる荻生徂徠は、自らの名声が世に伝わらないことを気に病む人物として描かれる。新井白石や室鳩室、伊藤仁斎といった荻生徂徠の学問を軽視する人々をけなし、誰かに自らの学問が認められたといっては喜ぶ。そんな人間的な荻生徂徠がたくさん描かれている。それが本書の特徴だ。

とはいえ、本書は軽いだけの本ではない。それどころか、至るところに漢文の読み下し文や古文訳が引用される。それらの部分を読み進めるのは、正直、古文に慣れていないとしんどい。私も苦しかった。

しかし、その部分を突破しないと、朱子学を凌駕した荻生徂徠の業績は見えてこない。晩年の荻生徂徠は将軍吉宗のブレーンとして政治の要諦を教える役目を担った。つまり、為政者が持つべき視点こそが、荻生徂徠の学問の要諦なのだろう。

本書の270Pにはこう書かれている。
「むろん儒学は老荘の学(道教)や仏学と違って政治を重視するが、宗儒や江戸期のこの時代までの儒者は道徳とか仁義とかを政治に優先させた。身を律することに重きをおいた。徂徠はそれを引っ繰り返し、政治を道徳や仁義から切り離した。儒学の世界を根底から覆した」
私はこの文にこそ荻生徂徠の業績の要点が込められていると思う。著者が言いたかったことも。

つまり徂徠は、来るべき科学万能時代を先取った人物。道徳や仁義ではなく、より科学的な営みとして政治をとらえた先進性こそ畏敬すべきなのだ。もちろん、その良し悪しや評価基準は時代によって変わる。だが、その思想を封建時代に打ち立てたことは評価されるべきだ。徳川吉宗の行った政治が享保の改革として今に伝えられているのも、徂徠の薫陶が少なからず影響を与えているに違いない。

今の私は荻生徂徠のすごさを上に書いたような内容でしか理解できていない。そして、冒頭に掲げた徂徠訓ですらまだ理解の途中だ。経営者としてはまだまだ荻生徂徠から学ぶべき事は多い。人間味を備えた経営を行うための教訓として。

‘2018/04/22-2018/04/26