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息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


11/22/63 下


ジェイクがダラスにいる理由、そして過去にやって来た理由。それは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによるジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を阻止することだ。通説ではケネディ大統領の暗殺犯はリー・ハーヴェイ・オズワルド一人とされている。公式な調査委員会であるウォーレン委員会による調査結果でも単独犯という結論だ。しかし一方で、われわれはジョン・F・ケネディ大統領暗殺を巡ってたくさんの説が流布していることも知っている。マフィアによる、キューバによる、ジョンソン副大統領による、フーバーFBI長官による、、、きりがない。

本書を通して著者が一貫して採っているのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行説。オズワルドが逮捕直後の移送中にジャック・ルビーによって暗殺されたことや、魔法の弾丸の存在など、ケネディ大統領暗殺に関する謎の数々は依然として闇の中だ。著者はそれら全ての陰謀説を脇に置き、オズワルド単独犯を前提として話を進める。その真偽や著者の判断の是非はともかく、本書の筋の進め方としてはそれでいいのかもしれない。ジェイクはひたすらリー・ハーヴェイ・オズワルドの身辺調査に時間を割く。暗殺決行の前年、ソ連から新妻を連れて戻ってきたオズワルドの動向を、さまざまな手段を使ってウォッチする。1962年の時点で可能な最先端の機器を揃え、盗聴器をオズワルドの家に設置する。それによってオズワルドの動向の大半が本書でさらけだされる。その粗暴な性格もあわせて。著者が描くオズワルドは、とてもリアルで巧みに描かれている。ケネディ暗殺という大それた所業に手を染めてもおかしくないと感じさせるだけの狂気と正気を備えた人物として。本書下巻では、事細かにオズワルドの動向が記されている。それは同時にオズワルドについて著者が調べ上げた努力の跡を示している。私もケネディ大統領暗殺に関する本は何冊か読んできたが、事件の数年前からのオズワルドの足跡がここまで調べ上げられているとは思わなかった。本書で描かれているオズワルドの足跡がほぼ事実に基づいた著者による創作でないことは間違いないだろう。

本書を読んでいると、オズワルドの下劣さが際立って強調されている。オズワルドが正真正銘の暗殺犯かどうかはともかく、本書を読むとオズワルドに対して偏見を持つようになるのは間違いない。そもそもアメリカにあってオズワルドがどういう位置づけの人物となっているのか、私はしらない。ただ、少なくとも分かることが一つある。それは、スティーブン・キングという現代アメリカでも最高の人士がオズワルドについてどういう感情を持っているか、ということだ。

上にも書いたとおり、オズワルド単独犯には少々無理があると思う。1978年になって下院暗殺調査委員会が出した結論は、オズワルドには少なくとも協力者が一人いたとされている。私は陰謀説をことさら強調するつもりはない。とはいえ、本書の採る単独犯説には賛成できない。だが、本書の記述を読んでいると、単独犯説に傾きそうになってしまう。著者が何らかの組織や利益を代弁して単独犯説を世に広めるために本書を書いた。そんな妄想めいた陰謀論はやめにしたいところだ。だが、本書の結論が、アメリカ国内の定説をどの程度反映しているのかは気になる。ま、私がそれを知ってもどうなるものではないのだが。

ジェイクが遂行しようとする任務に対し、過去は一層抵抗の色を強める。歴史を変えられることを拒む過去自身の力は、ますますジェイクの周りに影響を及ぼそうとする。まずはセイディー。かつての夫がやってきてセイディーの顔に取り返しのつかない傷を負わせる。それはセイディーを二度と人前に立ちたくないと拒ませるほどの傷だ。その事件によってセイディーは愛するジェイクの正体を疑うどころではなくなる。しかしジェイクは、セイディーの頬についた二度と治らぬ傷を治すため未来で治療することを提案し、自分が未来から来たことをセイディーに告白する。そして、ダラスでの高校教師だけではオズワルドの行動ウォッチの費用がまかなえなくなっている今、滞在費を稼ぐためボクシングのチャンピオン決定戦に賭けるという行動に出る。

著者が上巻から打ってきた布石はここでも聞いており、ジェイクの勝ちは剣呑な胴元に疑いを抱かせる。そしてジェイクは胴元によって半死半生の目に遭わされることになる。ジェイクが遭遇した災難は、自らを変えられたくない歴史がした全力で抵抗した結果であることは言うまでもない。それによってジェイクの記憶は喪われ、体すらまともに動かせない状態になる。

刻一刻とケネディのダラス遊説の日は近づく。果たしてジェイクはオズワルドの凶行を止められるのか。ラスト数日のジェットコースターのような話の進み様は、著者お手の物とはいえ、息を止める思いで読み進んだ。さすがというしかない。

さて、ここから先の粗筋については、何も書くまい。これを読んだ方に本書を読んで頂きたいから。ただ、一つだけ。上巻で著者は、二度にわたってジェイクを1958年に行かせた。それはタイムトラベルのルールを読者とジェイクに分かってもらうためだ。そのルールとはこうだ。1958年で行った行為は、2011年に戻った時点では有効。しかし再度1958年に行った時点で、前回1958年で行った影響は全てリセットされる。これが本書の結末にとても大きな影響を与える。

全ての布石と伏線がかっちりとはまる様を堪能してほしい。そして物語の面白さを心行くまで味わってほしい。そして、目前に与えられたあらゆる選択肢を慈しみながら、極上の物語を書き上げた著者の才能をうらやんで欲しい。物語作家としてのスティーブン・キングの世界にようこそ、だ。

最後に一つだけ。本書の主人公はケネディ大統領でもなければ、リー・ハーヴェイ・オズワルドでもない。それどころか、本書は歴史に題を採ったサスペンスですらない。本書は愛の物語だ。このような形で結末を迎える愛の物語など、私は読んだこともないし聞いたこともない。モダン・ホラーの帝王としての名声をほしいままにしているスティーブン・キングが、紛うことなき愛の物語を紡ぎあげたのが本書だ。著者のストーリーテラーとしての本分を堪能できたことは幸せとしかいいようがない。著者の文才と、その世界を損なうことなく私に届けてくれた訳者には感謝するしかない。

本書をもって、2015年は幕を閉じた。2015年の読書は、実はスティーブン・キングの「第四解剖室」から始まった。そして本書という至高の読書体験で2015年は幕を閉じた。素晴らしい94冊たちに感謝だ。

‘2015/12/29-2015/12/31


11/22/63 上


現役作家の中でも世界最高峰のストーリーテラー。著者のことをそう呼んでも言い過ぎではないだろう。大勢の登場人物を自在に操り、複雑な言動の糸を編み上げて一つのストーリーを練り上げる力量。下卑た言葉も残虐な描写も含め、著者の作品から放たれる迫力には毎度圧倒される。

そんな著者の作品を注意深く分解してみると、実は単純な構造になっていること多い。大枠をシンプルにし、そこに補強材をあれこれ張り巡らせる。著者は補強材の張りかたが実に巧みなのだ。しかも、補強材には著者一流の俗っぽいガジェットを練りこみ、ディテールを豊かに貼り付けて現実にありそうな世界観に仕立て上げる。その巧みさゆえ、著者の世界観は輝きを放ち、活き活きとした世界観に魅了された熱狂的な愛読者が今日も世界のどこかで産まれている。私も熱狂度では劣るかもしれないが愛読者の一人である。

最近の著者の長編は、補強材の組み合わせ方にさらに磨きが掛かっているように思える。そのレベルはもはや常人離れしているといってもよいほどだ。そればかりか本書では、大枠の構造からすでに隙のない緻密さと大胆さを備えている。

本書は早い話がタイムスリップものだ。しかし、著者は本書を書く上で絶妙な設定を仕掛けている。その設定が本書を複雑でしなやかな構成に組み上げている。

本書の題名は米国で一般的な日付書式である。これを日本風の日付に直すと1963年11月22日となる。この日、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。50年以上経った今も、アメリカの暗部を象徴した事件として人々の心に陰を落とし続けている。その陰の広大さは2001年3月11日の同時多発テロに勝るとも劣らない。

主人公ジェイクは、作家志望の高校教諭。ある日、行きつけのアルズ・ダイナーの店主アルに呼ばれる。前日に会ったばかりなのに、前日の姿とはかけ離れやつれ切った様子のアルは、ジェイクを店の裏の食糧庫へと誘う。そこは、1958年へと通ずる通路。つまりタイムトンネルになっている。

タイトルが示す通り、本書はケネディ大統領暗殺事件がテーマだ。そしてそのテーマに読者とジェイクを導くため、著者は本書に時間移動の仕掛けをもちこんでいる。本書を面白く読み応えのある内容にしたのは、時間移動の設定の妙にある。2011年側と1958年側を行き来するには、メイン州リスボン・フォールズのみ。2011年側はアルズ・ダイナーの食糧庫だが、1958年側は紡績工場裏手の倉庫。そこはいつでも行き来可能。そして、1958年側でどれだけ過ごそうとも、2011年側に戻った時点では2分しか経過しない。ただ、1958年側で過ごした時間、ジェイク当人の生物学的時間、つまり老化は進む。1958年側で過ごした時間が長かったアルは、ジェイクから見ると一夜しか経っていないが、肺がんの病状を瀕死の状態まで悪化させるほどに命を削る。また、1958年で行った行為は未来へと影響を及ぼすが、その改変は、もう一度2011年から1958年に戻った時点でリセットされる。この設定が絶妙で、本書全体の骨組みに大きな影響を与えるファクターとなる。

では、アルは肺がんを押してまで何を1958年側でやろうとしていたのか。アルはジェイクに何を託そうとしたのか。著者は読者をグイグイと小説世界に引き摺り込む。アルが過去の世界でジェイクに成し遂げて欲しいと願うことはただ一つ。1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を阻み、未来を変革して欲しいこと。

過去を描く場合、普通は視覚的な情報の違いに頼ってしまいがちだ。例えば新聞の記事、変貌した景色、陳列された商品など。しかし著者は、2011年と1958年の違いを表現するにあたって聴覚と嗅覚も駆使する。著者はまず、1958年を描くにあたってジェイクの目に映る情報ではなく、耳と鼻に届く音と匂いを描く。目から映る過去の景色は、CGに慣れ過ぎた我々にはインパクトを与えない。CGが自在に過去の映像を再現しまうからだ。しかし耳と鼻が受け取る情報は別だ。今いたはずの場所から聞きなれない音が鼓膜を震わせ、鼻を衝く臭いが漂って来たら? アルズ・ダイナーの1958年は、紡績工場だった。蒸気が紡績機械を絶え間なく動かす轟音と紡績工場につきものの硫黄の匂い。これにより、ジェイクは単なるCGや仮想現実の世界ではない1958年に来たことを実感する。そしてそれは我々読者も同じだ。

以降、著者の手練れの筆は、あますところなく1958年の世界を描き出す。視覚・聴覚・嗅覚だけでは表現できない世界に。それは人々の話す言葉や辺りを取り巻く空気感でしか表現しようのない世界だ。いうなれば五感を統合する脳による感覚とでもいえようか。一言でいうとセンスと言い換えてもよい。1958年のエッセンスをジェイクと読者に届けるため、1947年生まれの著者は自らの幼少期の記憶を掘り起こし、持てる才能をフルに駆使する。

そのセンスは、ジェイクが最初に1958年に踏み出し訪れたケネベク・フルーツ商会での会話に凝縮されている。2011年にはもはや営業しているのかどうか定かではないほど老いぼれた店舗と店主。しかし、1958年のお店は繁盛し、商売も順調だ。著者の凄さは、ジェイクが店の中で交わす会話にも表れている。このシーンだけで、著者は1958年の時代のリズムやテンポまでも表現してしまう。著者の練達の文章を心行くまで味わえる名シーンといえよう。

では、1958年とは2011年からみて何がどう違うのか。これは案外難しい問いだ。洗練されてないデザインやITの手が入っていない日用品など、時代を感じさせる品物は多々あるだろう。それは、現代の日本人からみてもたやすく気づく違いだ。しかし、我々日本人が当時のアメリカにピンと来ないことが一つある。それは、1958年のアメリカとは人種差別が大手を振ってまかり通っていた時代ということだ。その描写は避けては通れない。そして本書はその点に抜かりなく触れ、有色人種専用トイレや専用エリアなどを登場させている。

1958年の時代感覚を表現するため、著者は徹底的に細かい描写を重ねて行く。ページを進めるごとに、読者とジェイクは徐々に1958年の世界観に慣れてゆく。その中で私はほんの少し違和感を感じた。違和感とは、普段の著者の作風と本書が違うことだ。たとえば、本書では著者が得意とする下卑た表現が控えられている。それは1958年という時代の保守的な空気を再現するためなのだろうか。それだけではない気がする。また、著者の作品ではおなじみのじわじわと読者の恐怖心をあおるような描写も鳴りを潜めている。さらに本書を読んでいて感じたのは、ジョン・アーヴィングの作品との共通点だ。あくまで私見であるが、本書で著者はジョン・アーヴィングの作風を参考にしたような気がする。本書からはジョン・アーヴィングの著作と同じ筋の組み立て方が感じられる。ジョン・アーヴィングの物語を読んでいると、過去と現在が頻繁に入れ替わる。トリッキーな飛び方ではないにせよ、登場人物の追憶の形で物語の時制は次々と切り替わる。その構成のテクニックや語り口を、著者は本書で参考としたのではないだろうか。本書上巻の14Pにはジョン・アーヴィングの名前が登場する。それは著者がひそかにジョン・アーヴィングへ向けた謝辞だったのではないだろうか。

ジェイクが受け持つ年配の生徒で、脳や足に障害を持っている校務員のハリー・ダニングがいる。ひょんなことからジェイクはハリーが幼少期、実父に殺されかけたことを知り衝撃を受ける。ジェイクにとって最初の過去行きは、こわごわとケネベク・フルーツ商会にいって自らがまぎれもない1958年にいることを確かめるだけだった。様子見もかねての。二度目の過去行きは、ハリーとハリーの家族を実父から救い出すための旅となる。

ジェイクの二度目の過去行は、メイン州デリーが主な舞台となる。デリーといえば、著者の幾多の作品で舞台となった架空の街として有名だ。そのうち、1958年のデリーが舞台となる作品がある。それは、著者の作品中でも傑作として多くの人が挙げるであろう『IT』。『IT』の作中で少年たちが不気味なピエロに襲われるのがちょうどこの頃なのだ。本書のこの部分では、その少年たちのことが噂として度々出てくる。おそらくは著者から愛読者へのファンサービスの一つだろう。

メイン州デリーでの下りは、種明かしすると本書そのものには大きく影響を与える部分ではない。だが、この二度の過去行きは、ジェイクにも読者にも必要な旅だったのだ。1958年の空気感と、本書そのものの構造を読者に知らせるための。その結果、ジェイクと読者は本書の時間旅行のルールを学ぶことになる。一度過去を変えると2011年に戻った時点では過去は改変されたまま。だが再び1958年に戻ることで、前回1958年で行った行為はなかったことになるルールを。著者はそのルールを読者に徹底させるため、二度に渡ってジェイクを1958年から2011年に帰らせたのだ。

ところが2011年。戻ってきたジェイクに後を託し、アルは帰らぬ人となってしまう。1958年への移動手段を知る人物はもはやいない。ジェイクに助言を行う人物も、過去を変えたことで恩恵を受ける人物も。二度の1958年への旅を通じ、あちらでの生活方法は大分呑みこめた。過去を変えることが未来をどう変えるかについても学習した。そしてもう一つ学んだこと。それは、過去は過去を変えられることを嫌がり、あらゆる方法で過去を変えようとする圧力に対し、抵抗するということ。それはアルが幾度も体験したことであり、ジェイクも二度目の1958年への旅で過去からの抵抗に妨害されて身につまされたことでもある。

次の過去行きは、ケネディ大統領暗殺を食い止めるための長い旅になる。そう覚悟したジェイクは三度目の旅に出る。1958年に踏み入れたジェイクはハリーや他の2011年で困ったことになっている人物の過去を変化させる。さらに、東海岸経由でダラスへと向かう。ここでも下巻に向けた伏線がいっぱい張られるので注意して読むと良いだろう。

ダラスでは身分を隠して教師の職に就くジェイク。2011年のジェイクは教師をしているから生活の糧には困らない。教職はお手の物というわけだ。1958年のジェイクは高校教師として2011年よりも成功を収める。未来を知っているから当然のことだろう。ジェイクは学校に取ってなくてはならない人物となり、同じ教師であるセイディーと恋仲となる。

順風満帆なダラスでの生活は、ジェイクをして2011年への郷愁を薄れさせるものだ。しかし、注意深く振る舞っていたはずのジェイクも、間違えてローリングストーンズの未発表曲を口ずさんでしまうという失敗を犯し、セイディーに拒絶されてしまう。果たしてジェイクは過去での生活を営みながら、ケネディ大統領を救えるのか。上巻だけでも充分な読み応えだが、本題はこれからなのだ。

‘2015/12/21-2015/12/29