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信虎


友人に誘われて観劇した本作。
正直に言うと武田信虎の生涯のどこを描くのか、上映が始まる前は全く見当が付かなかった。そのため、私の中で期待度は薄かった。
ところが本作はなかなか見どころがあり面白かった。

本作が描いた信虎の生涯。私はてっきり、嫡子の晴信(信玄)によって甲斐から追放される場面を中心に描くのかと思っていた。
ところが、本作の中に追放シーンは皆無。一切描かれないし、回想で取り上げられる機会すら数度しかない。

そもそも、本作の舞台となるのは1573年(元亀3年)から1574年(天正2年)の二年間を中心にしている。信虎がなくなったのは1574年(天正2年)。つまり、本書が主に描くのは信虎の晩年の二年間のみだ。信虎が甲斐を追放されてから約三十年後の話だ。
1573年といえば武田軍が三方ヶ原の戦いで徳川軍を蹴散らし年だ。その直後、武田軍は京への進軍を止め、甲斐に引き返す途中で信玄は死去した。
その時、足利十五代将軍の義昭の元にいた信虎。将軍家の権威を軽視する織田信長の専横に業を煮やした義昭の元で、信長包囲網の構築に動いていた。

武田軍が引き返した理由が信玄の危篤にあると知った信虎は、娘のお直を伴って甲斐に向かう。
信玄が兵を引いたことで信長包囲網の一角が破れるだけではなく、武田家の衰亡にも関わると案じた信虎。だが、信玄は死去し、その後の情勢は次々と武田家にとって不利になってゆく。
しかも、当主を継いだ勝頼は好戦的であり、信玄の遺言が忠実に守られている気配もない。
信虎の危機感は増す一方。30年以上も甲斐を離れていた信虎は、勝頼の周りを固める重臣たちの顔も知らず、進言が聞き入れられる余地はない。
失望のあまり、勝頼や重臣の前で自らが再び甲斐の当主になると宣言したものの、誰の賛成も得られない。
そこで信虎は次の手を打つ。

本作が面白いのは、信虎が武田家滅亡を念頭に置いて動いていることだ。
京や堺を抑えた信長の勢力はますます強大になり、武田家では防ぎきれない。血気にはやる勝頼とは違い、諸国をめぐり、経験を積んできた信虎には世の中の流れが見える。
武田家は遠からず織田や徳川に蹂躙されるだろう。ただ、武田家の名跡だけはなんとしても残さねば。その思いが信虎を動かす。

本作の後半は、武田家を存続させるための信虎の手管が描かれる。武田家が織田・徳川軍に負けた後、武田家を残すにはどうすればよいのか。

本作は時代考証も優れていたと思う。
本作において武田家考証を担当した平山優氏の著作は何冊か読んでいる。本作は、私があまり知らなかった信虎の人物や空白の年月を描きながら、平山氏の史観に沿っていた。そのため、みていて私は違和感を覚えなかった。
服装や道具なども、作り物であることを感じさせなかった。本物を使っている質感。それが本作にある種の品格をもたらしていたように思う。時代考証全体を担当した宮下玄覇氏と平山氏の力は大きいと思う。
本作は冒頭にもクレジットが表示される通り、「武田信玄公生誕500年記念映画」であり、信玄公ゆかりの地からさまざまな資料や道具が借りられたようだ。それもあって、本作の時代考証はなるべく事実に沿っていたようだ。

いくら時代考証がよくても、俳優たちの演技が時代を演じていなければ、作品にならない。本作は俳優陣の演技も素晴らしかった。
本作に登場する人物の数は多い。だが、たとえわずかな場面でしか登場しない端役であっても、俳優さんはその瞬間に存在感を発していた。
例えば武田信玄/武田信簾の二役をこなした永島敏行さん、織田信長役の渡辺裕之さん、上杉謙信にふんした榎木孝明さん。それぞれが主役を張れる俳優であり、わずかなシーンで存在感を出せるところはさすがだった。

また本作のテーマは、信虎の経験の深みと対比して武にはやる勝頼の若さを打ち出している。その勝頼を演じていたのが荒井敦史さん。初めてお見かけした俳優さんだが、私が抱いていた勝頼公のイメージに合っていたと思う。
その勝頼の側近であり、武田家滅亡の戦犯として悪評の高い二人、跡部勝資と長坂釣閑斎の描かれ方も絶妙だったと思う。安藤一夫さんと堀内正美さんの演技は、老獪で陰険な感じが真に迫っていた。

あと忘れてはならないのが、美濃の岩村城で信虎一行を逃すために一人で槍を受けて絶命した土屋伝助すなわち隆大介さんだ。見終わって知ったが本作が遺作だったそうだ。見事な死にざまだった。
また、本作は切腹の所作も見事だった。見事な殉死を見せてくれたのは清水式部丞役の伊藤洋三郎さん。
最後に、本作にコミカルな味を加えていた、愛猿の勿来も忘れてはならない。

もっとも忘れてはならないのは、やはり主役を張った寺田農さんの熱演だ。熱演だが暑苦しくはなかった。むしろ老境にはいった信虎の経験や円熟を醸しだしながらも、甲斐の国主として君臨したかつてのすごみを発していた。さすがだ。
俳優の皆さんはとても素晴らしかったが、本作は寺田農さんの信虎が中心にあっての作品だ。見事というほかはない。

本作は、私個人にとっても目ヂカラの効用を思い出させてくれた。武田家を後世に残そうとする信虎は、信仰している妙見菩薩の真言を唱えながら、自分の術を掛けたい相手の顔をじっと見る。
その設定は、本作に伝奇的な色合いを混じらせてしまったかもしれない。だが、相手の目を見つめることは、何かを頼む際に効果を発揮する。相手の目を見ることは当然のことだが、その際に目に力を籠める。すると不思議なことに相手に思いが伝わる。
私は、経営者としてその効用を行使することを怠っていたように思う。これは早速実践したいと思った。

‘2021/11/23 TOHOシネマズ日本橋


闇の傀儡師 下


下巻は、津留を救い出すため、源次郎が敵の拠点を探リ当てる場面から始まる。都留の居場所に当りを付けた後、実家を訪ねる。武士を捨てて筆耕稼業をはじめる前、廃嫡を望んで縁を切ったはずの実家。そこを訪ねた源次郎は、津留を救い出すために後顧の憂いを振り払う。そしていよいよ自分が八嶽党との雌雄を決する戦いに巻き込まれたことを自覚する。

敵の首領格である八木典膳との果たし合いに入った源次郎は、八木典膳に謀られ、座敷牢に捕らわれる。そこには津留がいた。しかし、源次郎と都留は、何者かに助けられる。その何者かは敵の一味に遭って源次郎に仄かな行為を寄せるお芳。しかし、源次郎が捕らわれている間に世子家基は暗殺されてしまう。

これも八嶽党の魔手によるものか。しかし事態は源次郎が想像する以上にややこしい。八木典膳、伊能甚内、赤石老人と奈美、白井半兵衛、放蕩叔父由之助、そして津留。そこに田沼意次と松平武元の幕政の主導権を握る争いが加わる。

果たして源次郎にとって誰が見方で誰が敵か。源次郎をめぐる人々の思惑や感情が渦巻く。渦巻いた物語の続きに急かされるように、読者のページをめくる手は止まらなくなる。

源次郎の師匠興津新五左衛門は、赤石老人と立ち合い、そこで八嶽党の秘密の一端が明かされる。そして源次郎は、全てに決着をつけるため、甲州へと向かう。

全てが終わった後、全てを手配した黒幕は明示されぬまま、物語は奇怪な後味を残して幕を閉じる。そもそも上巻の始まりからして、謎の黒幕が誰かと密会している場面から始まるのだが、結局黒幕の正体は具体的な名前として名指しされずじまい。当時の権力模様を知悉していない我々にはその当たりがわからない。実は本書を詳しく読み込めば分かるのだが、曖昧にしたままの黒幕像が物語になんともいえぬ余韻を残すことになる。

巻末には著者自身による後書きが付されている。そこには本書の興を削ぐような記載はなく、替わりに著者の読書遍歴が書かれている。そして活劇モノに胸躍らせた読書経験こそが、本書に活かされていることを著者は語る。

さらに著者自身によるあとがきに続き、文芸評論家の清原康正氏による解説も付されている。私が書いた上下巻のレビューよりも内容の筋が詳しく書かれている。私はレビューを書くに当たっては、なるべく筋やタネを明かさないように配慮しているつもりだ。しかし、清原氏の解説は筋の内容にかなり踏み込んでいる。興覚めとはならない範囲だが、筋は事前に分かってしまう。もし清原氏の解説を読まれるのなら、本編を読み終えた後の方がよいとお薦めする。

とはいえあとがきや解説が本書そのものではない。本筋こそが本書の心臓である。本書は時代を超え、今の我々にも一気に読ませる内容となっている。その充実ぶりは、私をして今まで著者の作品を読まずにいた不覚を思わせるに充分だった。

本書は、時代背景こそ、江戸を借りている。しかし、その内容は我々にとって馴染みやすく読みやすい。本書は時代小説でありながら、実は舞台を現代に変えても全く違和感なくスパイ小説として通用する。源次郎をジェームズ・ボンドと読み替えて007の最新作としても或いは通ずるのではないか。それは、著者の筆遣いやテンポのスピードが現代人の思考の流れに合っているからだと思える。そしてそれこそが著者が時代小説の巨匠として名を残した理由だと思える。

私は今まで戦国時代を描いた時代小説は多数読んできた。しかし、江戸時代を描いた小説については徹底的に避けてきていた。その理由はいわゆる暴れん坊将軍や鬼平犯科帳、遠山の金さんに代表される、テレビ時代劇的な世界観に対する偏見であったと思う。テレビではCMやクレジットが入り、一週間経たないと次の話が観られない。そのテンポ感に馴染めなかったのかもしれない。本書を一気に読み終えた私が感じたのは、テンポの問題である。本書のテンポは私にあっていた。しかし、テレビのそれには馴染めなかった。そういう理由で今まで江戸を描いた小説を避けていたのだと理解した。本書は、通俗時代劇を下に見ていた私の不見識を改める契機となった一冊となった。友人に感謝である。

‘2015/02/07-2015/02/08


闇の傀儡師 上


本書は、友人に貸してもらった一冊である。貸してくれた友人によれば、本書は、伝奇小説の性格が強いのだという。

著者は時代小説の分野における巨匠として知られている。しかし実は私、著者の作品をほとんど読んだことがない。ひょっとしたら本書が初めてかもしれない。なので、著者がどういった作風を持っているのかも知らない。つまり、著者の作品群の中で本書がどのような位置付けなのか、うまく語ることができない。

そういった事前知識の中で臨んだ読後感。なるほど、本書が伝奇小説と云われるのも分かる気がした。しかしその一方で荒唐無稽な内容とは思えず、本書が正当な時代小説の衣鉢を継いでいる事を感じた。一見、太平に見える江戸。その裏側で繰り広げられる暗闘を活き活きと描いたすこぶる上質のエンターテイメントといえる。

本書では、幕府御家人の身を捨て筆耕稼業に己の本分を賭けた鶴見源次郎を主人公としている。対するは、太平の江戸に暗躍する八嶽党と、その背後にちらつく田沼意次の影。源次郎の背後は八嶽党の増長を望まない松平武元や松平定信の意を受けた隠密が支える。時代は田沼意次が権勢を誇った田沼時代から松平定信の寛政の改革へ移ろうとする頃。江戸幕府も吉宗による享保の改革を経て、いよいよ治世に伸び悩みがちらつき始める時期である。本書がそのような時代を背景としていることは、暗躍する八嶽党の存在にある種の現実性を与えている。

八嶽党は徳川忠長の遺恨を継ぐ形で、徳川家に対して策謀を仕掛けている徒党という設定である。徳川忠長は、二代将軍秀忠の子である。三代将軍家光による体制確立の過程で、戦国期に外様として徳川家としのぎを削った諸大名が続々とお家取り潰しにあったことは良く知られている。忠長はその渦中にあって島原の乱よりも前に改易され自刃の憂き目にあったとされている。その忠長の遺恨を八嶽党は受け継ぎ、以来、140年近くに亘って将軍継嗣の際に策謀を巡らしながら命脈を保ってきたという。この設定は決して荒唐無稽なものではなく、あり得なくもない設定として今の我々には素直に受け入れられる。

また、主人公の源次郎は、武士や忍びといった武闘派ではない。元は無眼流の免許皆伝を持ち、剣の道を極めんとした武士であるが、今は筆耕、つまりは文字の清書屋である。筆耕屋が悪の組織と闘う、という設定はなかなか悪くない。また、本書では源次郎の友人にも工夫を持たせている。友人の旗本細田民乃丞が玄人並の技術で女の裸婦画を描くという設定は、殺伐となりがちな物語にゆとりを持たせている。

その源次郎が筆耕仕事を斡旋してくれる版元に行った帰り、斬り合いを目撃する。そして切られた男は源次郎にある物を託し、事切れる。ある物とは、八嶽党がまた動き出したことを伝える文書。男は時の老中松平武元にその文書を言づけるように伝えて息を引き取った。武元のところに赴いた源次郎は、江戸の背後に蠢く八嶽党を知り、武元の許にいた白井半兵衛とともにその暗闘に巻き込まれていくことになる。

源次郎が御家人を辞め、筆耕仕事に入るにあたっては、訳があった。それは妻織江の離別である。織江が別の男に組み敷かれた姿を源次郎が目撃したことが離別へと繋がった。そして組み敷いた男は源次郎の叔父由之助であった。離別してしばらくし、八嶽党との暗闘に巻き込まれてすぐ、織江は自裁の最期を遂げた。そのことを告げに来たのは織江の妹津留。以来、津留はなにかれと源次郎の世話を焼きに来る。そのことを疎ましく思いつつも断れないでいる源次郎。男女の機微についても著者は細やかに筆を尽くす。

そして源次郎に松平武元宛の文書を託した男を倒した刺客の構は柳生流のそれであった。なぜここに柳生流が。源次郎は武芸を究める修行の中で知り合った記憶を頼りに隠田村(今の原宿)の老剣客の許を尋ねる。そこでは老剣客赤石とその孫娘奈美がつつましく暮らしていた。そこで刺客の素性が判明する。その刺客こそは、老剣客赤石の愛弟子であった伊能甚内。

甚内という新たな好敵手が登場し、八嶽党の闇討ちとそれを防ぐ松平一派の闘いは静かに、そして激しく続く。源次郎の仲間達は立て続けに凶刃に斃れてゆく。そのさなか、津留が何者かに拐かされる。いよいよ源次郎は、織江を死なせたこと、津留とのこと、そして甚内や八嶽党との決着を付けねばならぬ、と決意して上巻は幕を閉じる。

‘2015/02/05-2015/02/07