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鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史


旅が好きな私。だが、鉄道で日本を網羅するまでには至っていない。日本全国に張り巡らされた鉄道のうち、私が乗ったのはせいぜい5分の1程度ではないだろうか。

今、鉄道が岐路に立っている。私が子供の頃、鉄道の網の目はさらに細かく張り巡らされていた。それが、日本国有鉄道(国鉄)の末期に多くの赤字路線が廃止されたことによって、今のような鉄道網に落ち着いてきたいきさつががある。

それほど細かく長大な路線網を日本国中に敷き詰めた原動力とは何だったのか。その理由を考えるとき、国の軍事上の要請があったことに思い至る。わが国は道路の整備に消極的だ。それは群雄割拠の時期が長かったことに遠因がある。だから明治維新後、道路よりも鉄道の整備が優先された。

鉄道に限らず、さまざまなインフラ整備の背後には、軍事の影がちらつく。鉄道の場合、軍の果たした役割はより明らかだ。軍部の要望によって優先的に日本国中に鉄道網が敷き詰められていったからだ。明治維新の後、急速に開国し、国力を充実させる必要に迫られた明治政府は、全国に鉄道を敷設することで軍事用の鉄道を急いで充実させた。本書にはそうしたいきさつが改軌(狭軌から広軌)の問題も含めて提示される。

当時、部隊を大量に戦地に送るには、船または鉄道に頼るほかなかった。その中でも、より早く迅速に輸送する手段として鉄道は欠かせない。日清・日露の戦いの中で日本中の兵隊が迅速かつ大量に広島や呉、下関から出征し、戦勝に寄与したことでもそれは明らかだ。

経済の要請よりも、政治が優先された時代。それは鉄道と国家を考える上で興味深い。だが、そうした国家の意志があったからこそ、鉄道は迅速に日本中に敷き詰められたのだろう。

そして、軍事的に重んじられなくなり、なおかつ日常の生活の移動にも鉄道が利用されなくなったことで、鉄道の廃止の流れが加速している。結局、住民の移動だけが目的であれば、車で事足りてしまう。鉄道は時代の流れに取り残されてしまったのだ。

鉄道とは国の要請や政策の変動に翻弄されてきた。それは新幹線計画ですら同じ。戦時中に弾丸列車として構想された新幹線は、戦後復興のシンボルとして、オリンピックと並び称される存在になった。そこには佐藤首相が鉄道院出身だったことも関係しているだろう。国によって復興のシンボルと祭り上げられる新幹線。ここでも鉄道は国に利用されている。

鉄道とは移動の道具。そして移動とは庶民にとって手の届かないぜいたくだった。明治維新より前、自由に移動ができたのは国民のうちでもわずか。いわば封建からの解放の象徴が移動だ。その手段が国によって整備されて、短期間で長距離の移動が可能になった事は、政府の威信を国民に示す絶好の機会となったはずだ。

また、それは政治家にとっても有効な武器となったに違いない。本書にも駅の誘致や停車駅の設置などの事例が登場する。例えば岐阜羽島駅、深谷駅などがそうだ。また、そもそも路線自体を政治の力で誘致する例もある。例を挙げれば岩手の大船渡線は奇妙に路線が迂回している。諏訪から松本までの路線が辰野廻りになっているのもそうだ。また、上越新幹線の開通に田中角栄の力が大きく発揮されたことは周知の事実。そうした「我田引鉄」の事例は、駅が街の発展の中心であった時代を如実に表している。

だが今や、駅周辺はシャッター通りと化している。車で行ける大きなショッピングモールが栄え、さらにショッピングモールすらネット社会の到来によって変化を余儀なくされている。本書には新幹線の南びわこ駅が知事の一存で中止にされた事例も登場しているが、それも鉄道の重要性が低下したことの一つの表れなのだろう。

明らかに鉄道が国家にとって重要でなくなりつつある。少なくとも、主要な都市間を輸送するのではない用途では。本書にはそうした地方自治体の長たちが廃止を回避しようと努力する姿も紹介する。北海道の美幸線に対する地元町長の涙ぐましい努力もむなしく廃止され、近年の災害で不通になった路線も次々と廃止されている。これもまた、時代の流れなのだろう。ただ、田中角栄が

旅が好きな私。だが、鉄道で日本を網羅するまでには至っていない。日本全国に張り巡らされた鉄道のうち、私が乗ったのはせいぜい5分の1程度ではないだろうか。

今、鉄道が岐路に立っている。私が子供の頃、鉄道の網の目はさらに細かく張り巡らされていた。それが、日本国有鉄道(国鉄)の末期に多くの赤字路線が廃止されたことによって、今のような鉄道網に落ち着いてきたいきさつががある。

それほど細かく長大な路線網を日本国中に敷き詰めた原動力とは何だったのか。その理由を考えるとき、国の軍事上の要請があったことに思い至る。わが国は道路の整備に消極的だ。それは群雄割拠の時期が長かったことに遠因がある。だから明治維新後、道路よりも鉄道の整備が優先された。

鉄道に限らず、さまざまなインフラ整備の背後には、軍事の影がちらつく。鉄道の場合、軍の果たした役割はより明らかだ。軍部の要望によって優先的に日本国中に鉄道網が敷き詰められていったからだ。明治維新の後、急速に開国し、国力を充実させる必要に迫られた明治政府は、全国に鉄道を敷設することで軍事用の鉄道を急いで充実させた。本書にはそうしたいきさつが改軌(狭軌から広軌)の問題も含めて提示される。

当時、部隊を大量に戦地に送るには、船または鉄道に頼るほかなかった。その中でも、より早く迅速に輸送する手段として鉄道は欠かせない。日清・日露の戦いの中で日本中の兵隊が迅速かつ大量に広島や呉、下関から出征し、戦勝に寄与したことでもそれは明らかだ。

経済の要請よりも、政治が優先された時代。それは鉄道と国家を考える上で興味深い。だが、そうした国家の意志があったからこそ、鉄道は迅速に日本中に敷き詰められたのだろう。

そして、軍事的に重んじられなくなり、なおかつ日常の生活の移動にも鉄道が利用されなくなったことで、鉄道の廃止の流れが加速している。結局、住民の移動だけが目的であれば、車で事足りてしまう。鉄道は時代の流れに取り残されてしまったのだ。

鉄道とは国の要請や政策の変動に翻弄されてきた。それは新幹線計画ですら同じ。戦時中に弾丸列車として構想された新幹線は、戦後復興のシンボルとして、オリンピックと並び称される存在になった。そこには佐藤首相が鉄道院出身だったことも関係しているだろう。国によって復興のシンボルと祭り上げられる新幹線。ここでも鉄道は国に利用されている。

鉄道とは移動の道具。そして移動とは庶民にとって手の届かないぜいたくだった。明治維新より前、自由に移動ができたのは国民のうちでもわずか。いわば封建からの解放の象徴が移動だ。その手段が国によって整備されて、短期間で長距離の移動が可能になった事は、政府の威信を国民に示す絶好の機会となったはずだ。

また、それは政治家にとっても有効な武器となったに違いない。本書にも駅の誘致や停車駅の設置などの事例が登場する。例えば岐阜羽島駅、深谷駅などがそうだ。また、そもそも路線自体を政治の力で誘致する例もある。例を挙げれば岩手の大船渡線は奇妙に路線が迂回している。諏訪から松本までの路線が辰野廻りになっているのもそうだ。また、上越新幹線の開通に田中角栄の力が大きく発揮されたことは周知の事実。そうした「我田引鉄」の事例は、駅が街の発展の中心であった時代を如実に表している。

だが今や、駅周辺はシャッター通りと化している。車で行ける大きなショッピングモールが栄え、さらにショッピングモールすらネット社会の到来によって変化を余儀なくされている。本書には新幹線の南びわこ駅が知事の一存で中止にされた事例も登場しているが、それも鉄道の重要性が低下したことの一つの表れなのだろう。

明らかに鉄道が国家にとって重要でなくなりつつある。少なくとも、主要な都市間を輸送するのではない用途では。本書にはそうした地方自治体の長たちが廃止を回避しようと努力する姿も紹介する。北海道の美幸線に対する地元町長の涙ぐましい努力もむなしく廃止され、近年の災害で不通になった路線も次々と廃止されている。これもまた、時代の流れなのだろう。ただ、田中角栄が『日本列島改造論』の中で赤字であっても地方ローカル線の存続を訴えていたことは本書で初めて知った。地方創生の流れが出てきている最近だからこそ、なおもう一度光が当たってもよいかもしれない、と思った。

だが、都市間輸送に限れば日本の路線が廃止されることは当分なさそうだ。それどころか海外に鉄道システムを輸出する動きも盛んだ。本書の終章ではそうした国を挙げての日本の鉄道システム輸出の取り組みが描かれている。今や日本の鉄道が時間に正確であることは世界でも知れ渡っているからだ。

鉄道によって発展してきたわが国は、自らが育てそして養われてきた鉄道システムを輸出するまでになった。ただ、その鉄道が結局は地域のインフラになりえなかったこともまた事実。その事に私は残念さを覚える。その一方で今、抜本的な鉄道システムの研究が進んでいると聞く。それは例えば、自動運転を含めて交通のあり方を概念から変えることだろう。

だからせめて、軌道だけは廃止せずに残しておいてもらえると、今後の鉄道網が復活する希望が持てるのだが。少なくとも私が乗りつぶしを達成するまででもよいから。

‘2018/10/30-2018/10/30


日本の思想


著者の高名は以前から認識していた。いずれは著作を読まねばとも思っていた。戦後知識人の巨星として。日本思想史の泰斗として。

だが、私はここで告白しておかねばならない。戦中に活躍した知識人にたいし、どこか軽んじる気持ちをもっていた事を。なぜかというと、当時の知識人たちが軍部の専横に対して無力であったからだ。もちろん、当時の世相にあって無力であったことを非難するのは、あまりに厳しい見方だというのはわかっている。多分、私自身もあの風潮の中では何も言えなかったはずだ。当時を批判できるのは当時を生きた人々だけ。私は常々そう思っている。だからあの時代に知識人であったことは、巡り合った時代が悪かっただけなのかもしれない。ただ、それは分かっていてもなお、戦中に無力であった人々が発言する論説に対し、素直にうなづけない気分がどうしても残る。

だが、そうも言っていられない。著者をはじめとした知識人が戦後の日本をどう導こうとしたのか。そして彼らの思想が廃虚の日本をどうやって先進国へと導いたのか。そして、その繁栄からの停滞の不安が国を覆う今、わが国はどう進むべきなのか。私はそれを本書で知りたかった。もちろんその理由は国を思う気持ちだけではない。私自身のこれから、弊社自身のこれからを占う参考になればという計算もある。

だが、本書は実に難解だった。特に出だしの「Ⅰ.日本の思想」を読み通すのにとても難儀した。本書を読んだ当時、とても仕事が忙しかったこともあったが、それを考慮してもなお、本書は私を難渋させた。結果、本章を含め、本書を読破するのに三週間近くかかってしまった。そのうち「Ⅰ.日本の思想」に費やしたのは二週間。仕事に気がとられ、本書の論旨を理解するだけの集中力が取れなかったことも事実。だが、著者の筆致にも理由がある。なにしろ一文ごとが長い。そして一文の中に複数の文が句読点でつながっている。また、~的といった抽象的な表現も頻出する。そのため、文章が表す主体や論旨がつかみにくい。要するにとても読みにくいのだ。段落ごとの論旨を理解するため、かなりの集中が求められた。

もう一つ、本章は注釈も挟まっている。それがまた長く難解だ。本文よりも注釈のほうが長いのではと思える箇所も数カ所見られる。注釈によって本文の理解が途切れ、そのことも私の読解の手を焼いた。

ただ、それにもかかわらず本書は名著としての評価を不動にしているようだ。「Ⅰ.日本の思想」は難解だが、勉強になる論考は多い。

神道が絶対的な神をもうけず、八百万の神を設定したこと。それによって日本に規範となる道が示されなかったこと。その結果、諸外国から流入する思想に無防備であったこと。その視点は多少は知っていたため、目新しさは感じない。だが、本章を何度も繰り返し読む中で、理解がより深まった。完全にはらに落ちたと思えるほどに。

また、わが国の国体を巡る一連の論考が試みられているのも興味深い。そもそも国体が意識されたのは、明治政府が大日本帝国憲法の制定に当たり、国とは何かを考えはじめてからのこと。大日本帝国憲法の制定に際しては伊藤博文の尽力が大きい。伊藤博文は、大日本帝国憲法の背骨をどこに求めるかを考える前に、まずわが国の機軸がどこにあるかを考えねばならなかった。いみじくも、伊藤博文が憲法制定の根本精神について披瀝した所信が残されている。それは本書にも抜粋(33p)されている。その中で伊藤博文は、仏教も神道も我が国の機軸にするには足りないと認めた上で「我国二在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」という。ところが、そこで定まった国体は明らかに防御の体質を持っていた。国体を侵そうとする対象には滅法強い。だが、国体を積極的に定義しようと試みても、茫洋として捉えられない。本書の中でも指摘されている通り、太平洋戦争も土壇場の御前会議の場においてさえ、国体が何を指すのかについて誰一人として明確に答えを出せない。その膠着状態を打破するため、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を仰ぐくだりは誰もが知っているとおりだ。

そして、著者の究明は日本が官僚化する原因にまで及ぶ。権力の所在は極めて明確に記された大日本帝国憲法。でありながら責任の所在が甚だ曖昧だったこと。大日本帝国憲法に内在したそのような性質は、一方で日本を官僚化に進めてゆき、他方ではイエ的な土着的価値観を温存させたと著者はいう。それによって日本の近代史は二極化に向かった。著者はその二極を相克することこそが近代日本文学のテーマだった事を喝破する。著者は59pの括弧書きで森鴎外はべつにして、と書いている。著者の指摘から、森鴎外の『舞姫』が西洋の考えを取り入れた画期的な作品だったことにあらためて気づかされる。

また、著者はマルクス主義が日本の思想史に与えた影響を重く見ている。マルクス主義によって初めて日本の思想史に理論や体系が生まれたこと。ところが、一部の人がマルクス主義を浅く理解したこと。そして理論と現実を安易に調和させようとしたこと。それらが左翼運動に関する諸事件となって表れたことを著者は指摘する。

結局のところ著者が言いたいのは、まだ真の意味で日本の思想は確立していないことに尽きると思う。そして、著者は本書の第三部で日本の思想がタコつぼ型になっており、真の意味でお互いが交流し合っていない事情を憂う。雑種型の思想でありながら、相互が真に交わっていない。そんなわが国の思想はこれからどうあるべきか。著者は日本の文学者にそのかじ取りを託しているかに読み取れる。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」で著者は、日本の思想が文学に与えた影響を論じている。上にも書いたが、著者にとって森鴎外とは評価に値する文学者のようだ。「むしろ天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は「特殊」な知識人のなかでも特殊であった」(80P)。ということは、著者にとって明治から大正にかけての文壇とは、自然主義や私小説のような、政治と乖離した独自の世界の話にすぎなかったということだろうか。

著者は、マルクス主義が文壇にも嵐を巻き起こしたことも忘れずに書く。マルクス主義が日本の思想に理論と体系をもたらしたことで、文学も無縁ではいられなくなった。今までは文学と政治は別の世界の出来事として安んじていられた。ところがマルクス主義という体系が両者を包括してしまったため、文学者は意識を見直さざるをえなくなった。というのが私の解釈した著者の論だ。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」は解説によると昭和34年に発表されたらしい。つまりマルクス主義を吸収したプロレタリア文学が挫折や転向を余儀なくされ、さらに戦時体制に組み込まれる一連のいきさつを振り返るには十分な時間があった。著者はその悲劇においてプロレタリア文学が何を生み、何を目指そうとしたのかを克明に描こうと苦心する。著者はマルクス主義にはかなり同情的だ。だが、その思想をうまく御しきれなかった当時の文壇には厳しい。ただし、その中で小林秀雄氏に対してはある種畏敬の念がみられるのが面白い。

もう一つ言えば、本書はいわゆる”第三の新人”については全く触れられていない。それは気になる。昭和34年といえばまさに”第三の新人”たちが盛んに作品を発表していた時期のはず。文学に何ができるのかを読み解くのに、当時の潮流を読むのが一番ふさわしい。ところが本書には当時の文学の最新が登場しない。これは著者の関心の偏りなのか、それとも第三の新人とはいえ、しょせんは新人、深く顧みられなかったのだろうか。いま、平成から令和をまたごうとする私たちにとって、”第三の新人”の発表した作品群はすでに古典となりつつある。泉下の著者の目にその後の日本の文学はどう映っているのだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。

「Ⅲ.思想のあり方について」については、上にも軽く触れた。西洋の思想は一つの根っ子から分かれたササラ型なので、ある共通項がみられる。それに対し、日本の思想はタコつぼ型であり、相互に何の関連性もない、というのが著者の思想だ。

本章は講演を書き起こししており、前の二部に比べると格段に読みやすい。それもあってか、日本の思想には相互に共通の言語がなく、それぞれに独自の言語から獲得した思想の影響のもと、相互に閉じこもってしまっているという論旨がすんなりと理解できる。本章から学べる事は多い。例えば私にしてみれば、情報処理業界の用語を乱発してはいないか、という反省に生かせる。

業界ごとの共通言語のなさ。その罠から抜け出すのは容易ではない。私は30代になってから、寺社仏閣の中に日本を貫く共通言語を見つけ出そうとしている。が、なかなか難しい。特に情報処理の分野では、ロジックが幅を利かせる情報処理に共通言語が根付いていない。そんな貧弱な言語体系でお客様へ提案する場合、お客様のお作法に追随するしかない。ところが、その作業も往々にしてうまくいかない。このタコつぼの考え方を反面教師とし、システム導入のノウハウにいかせないものだろうか。

「Ⅳ.「である」ことと「する」こと」も講演の書き起こしだ。これは日本に見られる集団の形式の違いを論じている。「である」とはすでにその地位に安住するものだ。既得権益とでもいおうか。血脈や人種や身分に縛られた組織と本書でいっている。一方で「する」とはそういう先天的な属性よりも、人の役割に応じた組織をいう。つまり会社組織は「する」組織に近い。我が国の場合、「である」から「する」への組織が進んでいるようには見えるが、社会の考え方が「である」を引きずっているところに問題がある。それを著者は「「である」価値と「する」価値の倒錯」(198)と表現している。著者は第四部をこのような言葉で締めくくる。「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと」(198-199P)

著者はまえがきで日本には全ての分野をつないだ思想史がなく、本書がそれを担えれば、と願う。一方、あとがきでは本書の成立事情を釈明しながら、本書の視点の偏りを弁解する。私は不勉強なので、同様の書を知らない。今の日本をこうした視点で描いた本はあるのだろうか。おそらくはあるのだろう。そこから学ぶべき点は多いはずだ。そしてその元祖として本書はますます不朽の立場を保ち続けるに違いない。

‘2018/06/03-2018/06/21


慈悲の名君 保科正之


上杉鷹山、細井平州、二宮尊徳、徳川光圀。

2016年の私が本を読み、レビューを書いてその事績に触れた人物だ。共通するのは皆、江戸時代に学問や藩経営で名を成した方だ。

だが、彼らよりさらにさかのぼる時代に彼らに劣らぬほどの実績をあげた人物がいる。その人物こそ保科正之だ。だが、保科正之の事績についてはあまり現代に伝わっていない。保科正之とはいったい何を成した人物なのだろうか。それを紹介するのが本書だ。本書によると、保科正之とは徳川幕府の草創期に事実上の副将軍として幕政を切り回した人物だ。そして会津藩の実質の藩祖として腕を振るった人物でもある。今の史家からは江戸初期を代表する名君としての評価が定まっている。

ではなぜ、それほどまでに優れた人物である保科正之の業績があまり知られていないのだろうか。

その原因は戊辰戦争にあると著者は説く。

2013年の大河ドラマ「八重の桜」は幕末の会津藩が舞台となった。幕末の会津藩といえば白虎隊の悲劇がよく知られている。なぜ会津藩はあれほど愚直なまでに幕府に殉じたのか。その疑問を解くには、保科正之が会津藩に遺した遺訓”会津家訓十五箇条”を理解することが欠かせない。”会津家訓十五箇条”の中で、主君に仕えた以上は決して裏切ることなかれという一文がある。その一文が幕末の会津藩の行動を縛ったといえる。以下にその一文を紹介する。
 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

明治新政府からすれば、最後まで抵抗した会津藩の背後に保科正之が遺した”会津家訓十五箇条”の影響を感じたのだろう。つまり、保科正之とは明治新政府にとって封建制の旧弊を象徴する人物なのだ。それは会津藩に煮え湯を飲まされた明治新政府の意向として定着し、新政府の顔色をうかがう御用学者によって業績が無視される原因となった。それが保科正之の業績が今に至るまで過小評価されている理由だと思われる。

2016年、本書を読む三カ月前に私は会津の近く、郡山を二度仕事で訪問した。そこで知ったのは、会津が情報技術で先駆的な研究を行っていることだ。私が知る会津藩とは、時代に逆らい忠義に殉じた藩である。そこには忠君の美学もあるが、時代の風向きを読まぬかたくなさも目につく。だが、情報産業で先端をゆく今の会津からは、むしろ時代に先んずる小気味良さすら感じる。今や会津とかたくなさを結びつける私の認識が古いのだ。

私がなぜ会津について相反するイメージを抱くのか。その理由も本書であきらかだ。会津藩の草創期を作ったのが保科正之。公の業績は、それだけにとどまらない。本書の記載によれば保科正之こそ江戸時代を戦国の武断気風から文治の時代へと導いた名君であることがわかる。つまり、保科正之とは徳川260年の世を大平に導いた人物。そして、時代の風を読むに長けた指導者としてとらえ直すべきなのだ。そんな保科正之が基礎を作った会津だからこそ、進取の風土に富む素地が培われているのだろう。

冒頭に挙げた上杉鷹山のように藩籍返上寸前の藩財政を持ち直させた実績。水戸光圀のように後の世の学問に役立つ書を編纂した業績。保科正之にはそういったわかりやすく人々の記録に刻まれる業績が乏しい。ただでさえ記憶に残りにくい保科正之は、明治政府から軽んじられたことで一層実績が見えにくくなった。そう著者は訴える。

さらに、保科正之は徳川四代将軍の補佐役として23年間江戸城に詰めきりだった。その一方で藩政にも江戸から指示を出しながら携わり続けた。幕政と藩政の両方で徳川幕府の確立に身骨を注いだ生涯。また、保科正之が将軍の補佐にあたった時期は、その前の知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の治世とその後の水戸黄門こと徳川光圀の治世に挟まれている。その間に活躍した保科正之の業績が過小評価されるのも無理もない。

それゆえに著者は保科正之の再評価が必要だと本書で訴える。そして本書で紹介される保科正之の業績を学べば学ぶほど、保科正之とは語り継がれるべき人物であったことが理解できる。冒頭に挙げた人々に負けぬほどに。

保科正之が幕政に携わったのは、島原の乱が終わってからのことだ。秀忠、家光両将軍による諸家への改易の嵐も一段落した頃だ。戦国時代の武断政治の名残を引きずっていた徳川幕府が文治政治へと方針を変える時期。改易が生んだ大量の浪人は、文治に移りゆく世の中で武士階級が不要になった象徴だ。それは武士階級の不満を集め、由井正雪による慶安事件を産み出す原因となった。そんな社会が変動する時代にあって三代家光は世を去る。そして後を継ぐ家綱はまだ十一歳。補佐役が何よりも求められていた時だ。保科正之の政策に誤りがあれば、江戸幕府は転覆の憂き目を見ていたこともありうる。

また、正之の治世下には明暦の大火が江戸を燃やし尽くした。その際にも、保科正之が示した手腕は目覚ましいものがあったようだ。特に、燃え落ちた江戸城天守閣の処遇について正之が果たした役割は大きい。なぜならば正之の意見が通り、天主はとうとう復元されなかったからだ。今も皇居に残る天守台の遺構。それは、武断政治から文治政治への切り替えを主導した正之の政策の象徴ともいえる。また、玉川上水も正之の治世中に完成している。本書を読んで2か月後、私は羽村からの20キロ弱を玉川上水に沿って歩いた。そのことで、私にとって保科正之はより近い人物となった。

では、幕政に比べて藩政はどうだろう。本書で紹介される藩政をみると、23年も江戸に詰めていたにしては善政を敷いた名君といえるのではないだろうか。高齢者への生涯年金にあたる制度など、時代に先んじた視点を備えていたことに驚く。おそらく正之が副将軍ではなく、上杉鷹山のように窮乏藩を預かっていたとしてもそれなりの名を残したに違いない。

結局、保科正之の偉大さとはなんだろうか。確かに若い将軍を助け、徳川幕府を戦国から次の時代につなげたことは評価できる事績だ。だが、それよりも偉大だったのは時代の潮目を見抜く大局的な視点で政治にあたったことではないか。

本書は、保科正之の生い立ちから書き起こすことで、その大局的な視点がいつ養われたのかについても触れている。保科正之は秀忠が大奥の側室に手をつけ産まれた。そのため秀忠の正室である於江与の方をはばかり、私的には認知、公的には非認知、という複雑な幼年期を過ごす。そして於江与の方から隠されるように武田信玄の娘見性院に養育され、一度は甲斐武田家の再興を託される立場となる。その結果、保科正之は武田家の有力家臣だった保科家を継いだ。正之に思慮深さと洞察力を与えたのも、このような複雑で幼い頃の経験があったからだろう。また、武田家が長篠の戦で新戦術である鉄砲に負け没落したこと。それも大局的な目を養うべきとの保科家の教訓として正之にこんこんと説かれたのだと思う。

それゆえに、正之にしてみれば自分の遺した”会津家訓十五箇条”が子孫から大局的な視点を奪ったことは不本意だったと思う。正之が”会津家訓十五箇条”を残した時期は、まだ戦国時代の残り香が世に漂っており、徳川体制を盤石とすることが優先された。そのため、公の残した”会津家訓十五箇条”は200年後の時代にはそぐわないはずだ。だが、それは遺訓の話。保科正之その人は時代の変化に対応できる人物だったのではないか。だから今、会津が情報化の波に乗っていることを泉下で知り、喜んでいることと願いたい。

保科正之の生涯から私たちが学べること。それは大局的な視点を持つことだ。そして彼の残した遺訓からの教訓とは、文章を残すのなら、時代をこえて普遍的な内容であらねばならないことだ。それは、私も肝に銘じなければならない。あまた書き散らす膨大なツイートやブログやウォールの文章。これらを書くにあたり、今の時代を大局的に眺める努力はしているだろうか。また、書き残した内容が先の時代でも通じるか自信を持っているか。それはとても困難なことだ。だが、保科正之の業績が優れていたのに、会津藩が幕末に苦労したこと。その矛盾は、私に努力の必要を思い知らせる。努力せねば。

‘2017/01/15-2017/01/15