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日本の思想


著者の高名は以前から認識していた。いずれは著作を読まねばとも思っていた。戦後知識人の巨星として。日本思想史の泰斗として。

だが、私はここで告白しておかねばならない。戦中に活躍した知識人にたいし、どこか軽んじる気持ちをもっていた事を。なぜかというと、当時の知識人たちが軍部の専横に対して無力であったからだ。もちろん、当時の世相にあって無力であったことを非難するのは、あまりに厳しい見方だというのはわかっている。多分、私自身もあの風潮の中では何も言えなかったはずだ。当時を批判できるのは当時を生きた人々だけ。私は常々そう思っている。だからあの時代に知識人であったことは、巡り合った時代が悪かっただけなのかもしれない。ただ、それは分かっていてもなお、戦中に無力であった人々が発言する論説に対し、素直にうなづけない気分がどうしても残る。

だが、そうも言っていられない。著者をはじめとした知識人が戦後の日本をどう導こうとしたのか。そして彼らの思想が廃虚の日本をどうやって先進国へと導いたのか。そして、その繁栄からの停滞の不安が国を覆う今、わが国はどう進むべきなのか。私はそれを本書で知りたかった。もちろんその理由は国を思う気持ちだけではない。私自身のこれから、弊社自身のこれからを占う参考になればという計算もある。

だが、本書は実に難解だった。特に出だしの「Ⅰ.日本の思想」を読み通すのにとても難儀した。本書を読んだ当時、とても仕事が忙しかったこともあったが、それを考慮してもなお、本書は私を難渋させた。結果、本章を含め、本書を読破するのに三週間近くかかってしまった。そのうち「Ⅰ.日本の思想」に費やしたのは二週間。仕事に気がとられ、本書の論旨を理解するだけの集中力が取れなかったことも事実。だが、著者の筆致にも理由がある。なにしろ一文ごとが長い。そして一文の中に複数の文が句読点でつながっている。また、~的といった抽象的な表現も頻出する。そのため、文章が表す主体や論旨がつかみにくい。要するにとても読みにくいのだ。段落ごとの論旨を理解するため、かなりの集中が求められた。

もう一つ、本章は注釈も挟まっている。それがまた長く難解だ。本文よりも注釈のほうが長いのではと思える箇所も数カ所見られる。注釈によって本文の理解が途切れ、そのことも私の読解の手を焼いた。

ただ、それにもかかわらず本書は名著としての評価を不動にしているようだ。「Ⅰ.日本の思想」は難解だが、勉強になる論考は多い。

神道が絶対的な神をもうけず、八百万の神を設定したこと。それによって日本に規範となる道が示されなかったこと。その結果、諸外国から流入する思想に無防備であったこと。その視点は多少は知っていたため、目新しさは感じない。だが、本章を何度も繰り返し読む中で、理解がより深まった。完全にはらに落ちたと思えるほどに。

また、わが国の国体を巡る一連の論考が試みられているのも興味深い。そもそも国体が意識されたのは、明治政府が大日本帝国憲法の制定に当たり、国とは何かを考えはじめてからのこと。大日本帝国憲法の制定に際しては伊藤博文の尽力が大きい。伊藤博文は、大日本帝国憲法の背骨をどこに求めるかを考える前に、まずわが国の機軸がどこにあるかを考えねばならなかった。いみじくも、伊藤博文が憲法制定の根本精神について披瀝した所信が残されている。それは本書にも抜粋(33p)されている。その中で伊藤博文は、仏教も神道も我が国の機軸にするには足りないと認めた上で「我国二在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」という。ところが、そこで定まった国体は明らかに防御の体質を持っていた。国体を侵そうとする対象には滅法強い。だが、国体を積極的に定義しようと試みても、茫洋として捉えられない。本書の中でも指摘されている通り、太平洋戦争も土壇場の御前会議の場においてさえ、国体が何を指すのかについて誰一人として明確に答えを出せない。その膠着状態を打破するため、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を仰ぐくだりは誰もが知っているとおりだ。

そして、著者の究明は日本が官僚化する原因にまで及ぶ。権力の所在は極めて明確に記された大日本帝国憲法。でありながら責任の所在が甚だ曖昧だったこと。大日本帝国憲法に内在したそのような性質は、一方で日本を官僚化に進めてゆき、他方ではイエ的な土着的価値観を温存させたと著者はいう。それによって日本の近代史は二極化に向かった。著者はその二極を相克することこそが近代日本文学のテーマだった事を喝破する。著者は59pの括弧書きで森鴎外はべつにして、と書いている。著者の指摘から、森鴎外の『舞姫』が西洋の考えを取り入れた画期的な作品だったことにあらためて気づかされる。

また、著者はマルクス主義が日本の思想史に与えた影響を重く見ている。マルクス主義によって初めて日本の思想史に理論や体系が生まれたこと。ところが、一部の人がマルクス主義を浅く理解したこと。そして理論と現実を安易に調和させようとしたこと。それらが左翼運動に関する諸事件となって表れたことを著者は指摘する。

結局のところ著者が言いたいのは、まだ真の意味で日本の思想は確立していないことに尽きると思う。そして、著者は本書の第三部で日本の思想がタコつぼ型になっており、真の意味でお互いが交流し合っていない事情を憂う。雑種型の思想でありながら、相互が真に交わっていない。そんなわが国の思想はこれからどうあるべきか。著者は日本の文学者にそのかじ取りを託しているかに読み取れる。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」で著者は、日本の思想が文学に与えた影響を論じている。上にも書いたが、著者にとって森鴎外とは評価に値する文学者のようだ。「むしろ天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は「特殊」な知識人のなかでも特殊であった」(80P)。ということは、著者にとって明治から大正にかけての文壇とは、自然主義や私小説のような、政治と乖離した独自の世界の話にすぎなかったということだろうか。

著者は、マルクス主義が文壇にも嵐を巻き起こしたことも忘れずに書く。マルクス主義が日本の思想に理論と体系をもたらしたことで、文学も無縁ではいられなくなった。今までは文学と政治は別の世界の出来事として安んじていられた。ところがマルクス主義という体系が両者を包括してしまったため、文学者は意識を見直さざるをえなくなった。というのが私の解釈した著者の論だ。

「Ⅱ.近代文学の思想と文学」は解説によると昭和34年に発表されたらしい。つまりマルクス主義を吸収したプロレタリア文学が挫折や転向を余儀なくされ、さらに戦時体制に組み込まれる一連のいきさつを振り返るには十分な時間があった。著者はその悲劇においてプロレタリア文学が何を生み、何を目指そうとしたのかを克明に描こうと苦心する。著者はマルクス主義にはかなり同情的だ。だが、その思想をうまく御しきれなかった当時の文壇には厳しい。ただし、その中で小林秀雄氏に対してはある種畏敬の念がみられるのが面白い。

もう一つ言えば、本書はいわゆる”第三の新人”については全く触れられていない。それは気になる。昭和34年といえばまさに”第三の新人”たちが盛んに作品を発表していた時期のはず。文学に何ができるのかを読み解くのに、当時の潮流を読むのが一番ふさわしい。ところが本書には当時の文学の最新が登場しない。これは著者の関心の偏りなのか、それとも第三の新人とはいえ、しょせんは新人、深く顧みられなかったのだろうか。いま、平成から令和をまたごうとする私たちにとって、”第三の新人”の発表した作品群はすでに古典となりつつある。泉下の著者の目にその後の日本の文学はどう映っているのだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。

「Ⅲ.思想のあり方について」については、上にも軽く触れた。西洋の思想は一つの根っ子から分かれたササラ型なので、ある共通項がみられる。それに対し、日本の思想はタコつぼ型であり、相互に何の関連性もない、というのが著者の思想だ。

本章は講演を書き起こししており、前の二部に比べると格段に読みやすい。それもあってか、日本の思想には相互に共通の言語がなく、それぞれに独自の言語から獲得した思想の影響のもと、相互に閉じこもってしまっているという論旨がすんなりと理解できる。本章から学べる事は多い。例えば私にしてみれば、情報処理業界の用語を乱発してはいないか、という反省に生かせる。

業界ごとの共通言語のなさ。その罠から抜け出すのは容易ではない。私は30代になってから、寺社仏閣の中に日本を貫く共通言語を見つけ出そうとしている。が、なかなか難しい。特に情報処理の分野では、ロジックが幅を利かせる情報処理に共通言語が根付いていない。そんな貧弱な言語体系でお客様へ提案する場合、お客様のお作法に追随するしかない。ところが、その作業も往々にしてうまくいかない。このタコつぼの考え方を反面教師とし、システム導入のノウハウにいかせないものだろうか。

「Ⅳ.「である」ことと「する」こと」も講演の書き起こしだ。これは日本に見られる集団の形式の違いを論じている。「である」とはすでにその地位に安住するものだ。既得権益とでもいおうか。血脈や人種や身分に縛られた組織と本書でいっている。一方で「する」とはそういう先天的な属性よりも、人の役割に応じた組織をいう。つまり会社組織は「する」組織に近い。我が国の場合、「である」から「する」への組織が進んでいるようには見えるが、社会の考え方が「である」を引きずっているところに問題がある。それを著者は「「である」価値と「する」価値の倒錯」(198)と表現している。著者は第四部をこのような言葉で締めくくる。「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと」(198-199P)

著者はまえがきで日本には全ての分野をつないだ思想史がなく、本書がそれを担えれば、と願う。一方、あとがきでは本書の成立事情を釈明しながら、本書の視点の偏りを弁解する。私は不勉強なので、同様の書を知らない。今の日本をこうした視点で描いた本はあるのだろうか。おそらくはあるのだろう。そこから学ぶべき点は多いはずだ。そしてその元祖として本書はますます不朽の立場を保ち続けるに違いない。

‘2018/06/03-2018/06/21


屍者の帝国


本書は読書人の間で話題になっていた。

屍者が動く世界。
主役はホームズの相手役であるワトソン。
途中で著者の伊藤計劃氏が死去され、途中から盟友の円城塔氏が後を引き継ぎ完成。

本書のこの様な特徴は、話題に持ってこいだ。私も本書の評判は聞いていて一度読みたいと思っていた。

そもそも、伊藤計劃氏の著書はまだ読んだ事がなく本書が初めて。ただ、未読ではあったものの、伊藤計劃氏の作品が取り上げられた書評は目にしていた。それを読んで伊藤氏のことをSF作家と認識していた。実際、本書を読んでみて印象に残ったのもSFを思わせるような世界観だ。だが、本書の著者は上に書いたとおり途中で交替している。どこまでが伊藤氏の筆によって書かれ、どこからが円城氏の執筆部分なのか。私は本書を読みながらその事がずっと気になっていた。その答えは末尾のあとがきに書かれていた。それによると伊藤氏が担当したのはプロローグだけらしい。つまり、伊藤氏はプロローグによる世界観を構築したのみ。内容のほとんどは円城氏によって書かれたということだ。円城氏の作風も文学の極北を目指すような実験性に溢れているが、SF的なところも多分にある。だから円城氏も書き継げたのだろう。だが、それによって伊藤氏が本書に与えた貢献が薄れることはない。本書の特色は伊藤氏が作りあげた世界観にあるのだから。

なにしろ、死者が動く世界だ。しかもゾンビやグールのようなファンタジー世界の住人ではなく、科学技術にのっとって死者を動かすという設定が奇抜だ。そして時代設定を近未来でなく過去としているのもよい。

なぜかというと、今の私たちは死者を動かす技術を持っていないからだ。私たちを支配する倫理観は、死者を動かす行いを無意識に拒むように仕向けている。死者自体を忌避するような検閲が働いてしまうのだ。なので、本書の舞台を近未来に設定することは難しい。なぜなら、今の倫理観の延長上に死者を動かす技術を成立させることになるからだ。それは読者にとって抵抗を感じることだ。それを回避するため、伊藤氏は時代を過去に設定したのではないか。それによって、本書の世界観は私たちにとってなじみ深くなるが、実際は別の世界の物語として構成されるのだ。

読者は本書の物語が別世界に展開する物語と了解しつつ本書の世界観を受け入れる。倫理観の抵抗に遭うことなく。屍者を蘇らせ、心を持たないロボットの様に自在に使役する。読者はそんな世界観に馴染みつつ、倫理観の抵抗を感じることもない。伊藤氏が作りあげたのは、そのような世界観だ。

屍者が違和感なく街中を歩き、軍隊にあっては忠実な兵士として命を顧みず突っ込んでいく。ワトソン氏が住むのはそのような世界だ。ワトソン氏はその優秀さゆえ、ある機関に雇われることになる。ある機関は、医者の免許をワトソン氏のために用立て、世界各国へと任務で赴かせる。その任務とは、屍者を多数配下におき、自在に使役する謎の組織の調査。

ネクロウェアと呼ばれる屍者の操縦技術。本書の19世紀末では、この様な技術が発明されおおっぴらに使用されている。ネクロウェアがあっての屍者文化だ。だが、ネクロウェアは万人に広く公開されている技術ではない。しかし、実際に大量に屍者を扱っている組織がいる。そればかりかその組織は屍者に新たな能力を吹き込む技術を開発し、それで死者をより複雑に操っているふしがある。

SFの世界でよく知られているのは、アイザック・アシモフによるロボット三原則だ。本書にはその三原則に似た別の三原則が登場する。名づけてフランケンシュタイン三原則。提唱者はフローレンス・ナイチンゲール。
一、生者と区別のつかない屍者の製造はこれを禁じる。
二、生者の能力を超えた屍者の製造はこれを禁じる。
三、生者への霊素の書き込みはこれを禁じる。

そのような原則を踏まえてワトソン氏がまず訪れたのはボンベイ。大英帝国の植民地インドにあって有数の都会。ここでバーナビーという武闘派パートナーとタッグを組むことになる。

基礎調査を終えた二人が向かったのは中央アジア。今でいうアフガニスタンにあたる。ここで二人に相対するのは、アレクセイ・カラマーゾフ。いうまでもなく『カラマーゾフの兄弟』の三男である。学究肌の控えめな人物アリョーシャとして世界文学史上でも著名なキャラクターだが、本書においては「ザ・ワン」の遺志を継ぎ、屍者の秘密を探る人物として登場する。

「ザ・ワン」とは、屍者を操作する技術を発見した人物である。というよりも屍者を創り上げる技術を発見した人物といえば分かりやすい。「ザ・ワン」が創造した屍者こそ、あのフランケンシュタインなのだから。上に挙げた三原則でも名前が登場するフランケンシュタインだ。

本書は虚構の世界が舞台である。著者はそれを最大限に利用し、虚構の世界の他の住人たちを自在に登場させ、本書の世界を華やかな物にしている。後の世の私たちのよく知る人物が数多く登場するのも本書の面白さといえる。

本書はワトソン氏をさらに異境へといざなう。それは日本。文明開化真っ只中の、いまだに西洋人を指して異人やメリケンさんと呼ぶ時代の日本である。そこにさらに屍者まで乱入させてしまうのだから、著者もまったくいい度胸をしている。幕末ならいざ知らず、和洋がぎこちない形で混じわっていた明治初期は、小説でもあまり読んだことがない。だが、著者は本書は外遊中に日本を訪れていたグラント米国元大統領と明治天皇の会見の場を、あろうことか屍者からなる軍勢に襲わせている。ワトソン氏の波乱万丈な旅行もそうだが、著者のプロットも相当冒険だ。ただでさえ描くのが難しい時代と場所なのに米国元大統領と天皇の会見の場を屍者に蹂躙させるのだから。でもここまでぶっ飛んだ設定だとかえってすがすがしく思えてしまう。

円城氏の著作を読むのはは「これはペンです」に続いて久々だが、どちらかといえば理論に裏打ちされた冷徹な文体が記憶に残っている。本書で目立つのは断定調の「〜る」を多く用いた文体だ。その筆致は、屍者という冷えたクリーチャーが登場する本書にあって疾走感を与える効果を発揮している。そもそも本書の文体は冷徹を通り越し、全体が冷えている。それは、冷えた死者が動き回る本書の世界観にふさわしい。冒険小説を思わせる波乱万丈な筋書きで血沸き肉踊る戦闘シーンもふんだんに用意されているのに、これほどまでに熱量が感じられない小説はなかなかない。それは読む人にとっては違和感を感じるかもしれない。だが、それが逆に本書に印象的な読後感を与えている。むしろ、死者がうごめく本書にあって、冷えていないほうがおかしいと思えるほどに。

だが熱量の点を抜きにしても、本書は生と死の境目がどこか、という深遠なテーマを追求しておりとても興味深い。意思を持たず操られていればそれは屍者なのか。果たして意思とはどこにあるのか。どこまでが自由意志なのか。自由意志があったとしてそれをどこまで発揮できているのか。

フランケンシュタイン三原則にある、生者への霊素の書き込み。これこそは、ネクロウェアを使って生者を屍者として扱う技術。ある組織とワトソン氏が追い求める本書の核心でもある。ここに至り、生者と屍者の区別は融けて無くなる。

生と死を区別する無意識の判断。著者はこの点を執拗に揺さぶる。読者は本書を読み進めるうちに、自らの価値観が揺さぶられることに気づくはずだ。果たして自分たちが生きていると断言できる根拠はどこにあるのか、と。

SFというジャンルが近未来の世界を借りて、人間の常識や概念を揺さぶることにあるとすれば、本書は過去の時間軸を借りて哲学的なまでに死生の境目を追い求めた作品といえる。円城氏恐るべしである。そして、この世界観を構想した伊藤氏もまた同じ。夭折が惜しまれる。私も伊藤氏の作品を読んでみなくては。そう思った。

‘2016/01/31-2016/02/10