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神隠し


空港。私たち一般人が利用できる施設のうち、おそらくは最も高いセキュリティが敷かれている場所だろう。

それはハイジャックのリスクがあるからだ。
国際空港の場合は、出国と入国審査が必須なので、より高いセキュリティが求められる。怪しい人物を自由に出入国させないための措置だ。
それゆえ、一度出国審査を終えて空港内に入ると、その間の身分は不定となる。ひとたびゲートを過ぎてしまうと、その瞬間だけはどの国の人でもなくなってしまう。トム・ハンクス主演の『ターミナル』のような事態を思い起こさせる。
もちろん、そうした事態を防ぐために、空港のセキュリティや身分チェックは厳重になっている。

本書のタイトルである神隠しとは、まさにそのゲートで消えてしまった子供の状態のことだ。本書はある家族の前で行方が分からなくなった子供の行方を追うミステリだ。

本書の面白さの一因は、舞台がアメリカに設定されていることだ。上に書いた空港とはロサンゼルス国際空港である。
アメリカが舞台なので、本書の登場人物のほとんどはアメリカ人である。
日本人が書いた日本語の小説でありながら、アメリカ人の会話や行動の描写が大部分を占めている。
もちろん、登場人物の中には日本人もいる。だが、本書に登場する日本人はほんのわずかだ。主人公のグレッグの妻の郁恵と日本の寺の住職ぐらいだろうか。あとはほぼアメリカ人。

日本人がそのような小説を書くのは大変だろう。
だが、著者のプロフィールを読むとその心配は無用だ。著者はアメリカに渡米後、起業を果たし、今もアメリカに住んでいるそうだ。
つまり、アメリカの暮らしやビジネスや事物が具体的に描写できる。
特に、空港の人が行きかう様子の描写はテンポがよい。おそらく著者は普段から空港を利用し慣れているのだろう。そして、それを文章に落とし込むための観察術にも長けているのだろう。

ロサンゼルス国際空港とは、多様な人種が集う場所である。もちろん、日本人がいることに違和感は覚えない。また、そこで最も多くを占めるのがアメリカンなのはいうまでもない。他にもヨーロッパの各国やアフリカにルーツを持つ人々が混在している。

多くの人種がひしめくことで起こること。それは人種問題だ。むしろ、人種問題とは無縁ではいられない。
そして、アメリカは多民族国家だ。
特にアメリカの場合、ほんの数十年前まではアフリカン・アメリカンの人々への差別感情が色濃く残っていた。だからこそ、人種問題には敏感であるべきだ。
在米日本人も太平洋戦争中は収容所に入れられた苦難の歴史を持っている。

だからこそ、人種問題について社会的な仕組みも整っているだろうし、人々の間に人種間の軋轢に対処するための知恵が蓄積されている。
著者の問題意識は日常からそうした問題に常に向いていて、本書はまさにそうした問題意識から描かれたと言っても良いだろう。

本書のテーマは空港のセキュリティだけではない。グレッグが勤めるジャーナリズムの現場は、インターネットに押されて終焉を迎えつつある。さらには警察司法行政改革も取り上げられている。

しかし、それらのテーマを超えて、本書で最も強調されているのは親子の愛情や絆だ。それは人種や文化を超えて同じであり、尊い。
尊いだけではなく、人はそれを守るために思いもよらない力を発揮する。

アメリカでは銃撃事件が絶えない。生命の安全が常に脅かされている。その一方で、家族や肉親を守ろうとする人々の思いは強い。
言うまでもなく、その感情は同じ人間である以上は持っていて当たり前だ。日本人であろうとアメリカ人であろうと変わりないはず。
ただ、それは頭では理解していても、実感と心から理解しているかというとためらいがある。同じ人間であり、同じ感情を共有できるはずであることは分かっていても、アメリカに住んだことのない私のような読者にとっては、実際に感情で理解しているかどうかは心もとない。

そうした微妙な文化や感情の揺れを描いていることが本書の価値なのだと思う。それを描くのが日本人の感性を持ち、アメリカの生活事情に精通した著者であることも。

もちろん、アメリカにも優れた小説家は無数にいる。日本語に翻訳されたアメリカの小説はいくらでも読むことができる。
だが、翻訳されたアメリカの小説と日本人の小説家が書いたアメリカの暮らしは、何かが違う。

本書からは翻訳小説を読んでいるような印象は受けなかった。それはおそらく、本書に登場するアメリカ人の言動が日本人と同じとの印象をうけるからではないだろうか。
なぜだろう。
それは、日本人である著者が小説を書くにあたって無意識に脚色していることもあると思う。本書はアメリカで出版されるのではなく、日本人向けに描かれている。そのため、著者はアメリカが舞台である特色は活かしつつも、家族や肉親の絆をテーマとする際に日本人の感性でアメリカ人を描いたと思われる。
家族や肉親の絆をテーマとするため、日本人の読者に向けたアメリカ人になってしまったというべきだろうか。

ただ、この私の感想は、私がアメリカ人と親しくなったことがないための誤解かもしれない。
私が正しいかどうかはどうでもよい。むしろ本書は、私に自分の認識のあやふやさを教えてくれたことに意味があると思っている。
私もなるべく日本人の殻に閉じこもらないようにしようと考えている。ただ、私の日常で付き合いがあるのは公も私もほぼ日本人だけだ。
私の年齢が上がっていくにつれ、さらに海外の人との付き合いがうまくできなくなっていくことだろう。脳が柔軟性を失っていき、慣れ親しんだ日本人との日常に埋没してしまうだろう。

本書は、私に異文化に触れていない気づきを与えてくれた。

2020/12/11-2020/12/12


76回目の終戦記念日にあたって


今日は76回目の終戦記念日です。

おととしにこのような記事をアップしました。今年も思うところがあり、振り返ってみようと思います。
なぜそう思ったか。それは今日、昭和館を訪れ、靖国神社に参拝したからです。

今年は初めて終戦記念日に靖国神社に参拝しました。その前には近くにある昭和館を訪れました。こちらも初訪問です。
さらにここ最近に読んでいる本や、レビューに取り上げた書物から受けた感化もありました。そうした出来事が私を投稿へと駆り立てました。

つい先日、東京オリンピックが行われました。ですが、昨今の世相は新型コロナウィルスの地球規模の蔓延や地球温暖化がもたらした天災の頻発、さらなる天災の予感などではなはだ不透明になっています。本来、オリンピックは世界を一つにするはず。ですが排外主義の台頭なども含め、再び世界が分裂する兆しすら見えています。

なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか。私たちはその反省をどう生かしていけばいいのか。
戦争を再び繰り返してはならないのは当たり前。それを前提として、自分なりに考えてみました。

太平洋戦争を語る際に必ずついて回るのは、1929年のウォール街の株価大暴落に端を発する昭和恐慌であり、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から生まれたナチスの台頭です。

当時のわが国は恐慌からの打開を中国大陸に求めました。それが中国からの視点では、満州事変から始まる一連の侵略の始まりだったことは言うまでもありません。
しかも中国への侵略がアメリカの国益を損なうと判断され、ABCD包囲網からハル・ノートの内容へと追い込まれたことも。ハル・ノートが勧告した内容が満州事変の前に状況を戻すことであり、それを受け入れられなかった指導層が戦争を決断したことも知られたことです。
結局、どちらが悪いと言うよりも、恐慌に端を発した資源獲得競争の中で生じた国際関係の矛盾が、戦争につながった。それは確かです。真珠湾攻撃を事前にアメリカ側が知っていたことは確かでしょうし、在米領事館の失態で宣戦布告交付が遅れたとしても。
一年くらいなら暴れてみせると言った山本五十六司令長官の半ばバクチのような策が当たり、太平洋戦争の序盤の大戦果につながったことも周知の通りです。

私は、そこまでのいきさつは、仕方がないと思っています。では、これからの私たちは敗戦の何を教訓にすれば良いのでしょうか。

私は三つを挙げられると思っています。
まず、一つ目は戦を始める前に、やめ時をきちんと決めておかなかったこと。
二つ目はトップがそれまでの出来事を覆す決断力を欠いていたこと。
さらに三つ目として、兵隊の統率の問題もあると考えています。

山本司令長官が、開戦前に一年と決めていたのなら何があろうと一年でやめるべきだったはずです。それをミッドウェイ海戦で敗戦した後もずるずると続けてしまったのが失敗でした。この時に軍部や新聞社の作る世論に惑わされず終戦の決断を速やかにしておけば。悔いが残ります。
また、日露戦争の際には国際法を遵守し、捕虜の扱いについても板東収容所のように模範となる姿勢をとれた日本軍が、日中戦争にあたっては軍紀が大きく崩れたことも悔やまれます。
経済の打開を求めて中国に進軍したのであれば、絶対に略奪行為に走ってはならばかったはず。侵略された側から三光作戦と呼ばれるきっかけを与えたら大義が崩れてしまいます。それも悔やんでも悔やみきれない失敗です。

そうした教訓をどう生かすか。
実は考えてみると、これらは今の私に完全に当てはまる教訓なのです。
経営者として広げた業務の撤退は考えているか。失敗が見えた時に色気を出さず決断ができるか。また、従業員に対してきちんと統制がとれているか。教育をきちんと行えているか。
私が仮に当時の指導者だったとして考えても同じです。戦の終わりを考えて始められただろうか。軍の圧力を押しのけて終わらせる決断ができただろうか。何百万にも上る軍の統率ができただろうか。私には全く自信がありません。
ただ、自分で作った会社は別です。自分で作って会社である以上、自らの目の届く範囲である今のうちにそれらができるように励まなければと思うのです。

ただ、その思索の過程で、わが国の未来をどうすべきかも少しだけ見えた気がしました。

まず前提として、わが国の地理の条件から考えても武力で大陸に攻め込んでも絶対に負けます。これは白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役や、今回の太平洋戦争の敗戦を見ても明らかです。

であれば、ウチに篭るか、ソトに武力以外の手段で打って出るかのどちらかです。
前者の場合、江戸時代のように自給自足の社会を築けば何とかなるのかもしれません。適正な人口を、しかもピラミッド形を保ったままであれば。多分、日本人が得意な組織の力も生かせます。
ただし、よほど頭脳を使わないと資源に乏しいわが国では頭打ちが予想されます。おそらく、群れ社会になってしまうことで、内向きの論理に支配され、イノベーションは起こせないでしょうね。世界に対して存在感を示せないでしょうし。

ソトに出る場合、日本人らしい勤勉さや頭脳を駆使して海外にノウハウを輸出できると思います。
日本語しか使えない私が言うのはふさわしくないでしょうけど、私はこちらが今後の進む道だと思っています。今までに日本人が培われてきた適応力はダテではないからです。あらゆる文明を受け入れ、それを自分のものにしてきたわが国。実はそれってすごいことだと思うのです。
日本人は、組織の軛を外れて個人で戦った時、実は能力を発揮できる。そう思いませんか。今回のオリンピックでも見られたように、スポーツ選手に現れています。
ただ、そのためには起業家マインドが必要になるでしょう。組織への忠誠を養うのではなく、自立心や自発の心を養いたいものです。ただし、日本人の今までの良さを保った上で。
固定観念に縛られるのは本来のわが国にとって得意なやり方でないとすら思えます。

私は、今後の日本の進む道は、武力や組織に頼らず個人の力で世に出るしかないと思います。言語の壁などITツールが補ってくれます。

昭和館で日本の復興の軌跡を見るにつけ、もう、この先に人口増と技術発展が重なるタイミングに恵まれることはないと思いました。
そのかわり、復興を成し遂げたことに日本人の個人の可能性を感じました。
それに向けて微力ながらできることがないかを試したい。そう思いました。

任重くして道遠きを念い
総力を将来の建設に傾け
道義を篤くし 志操を堅くし
誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし


奥のほそ道


本書は重厚かつ、読み応えのある一冊だ。
それと同時に、日本人が読むには痛く、そして苦味に満ちている。

人は他人にどこまでの苦難を与えうるのか。その苦難の極限に、人はどこまで耐えうるのか。そして、苦難を与える人間の心とは、どういう心性から育まれるものなのか。
本書が追求しているのはこのテーマだ。

本書に登場する加害者とは、第二次大戦中の日本軍。
被害者は日本軍の戦争捕虜として使役されるオーストラリア軍の軍人だ。

海外の映画にはありがちだが、日本を取り上げたものには、私たち日本人から見てありえない描写がされているものが多い。特に映画においては。

だが、本書はじっくりと時間をかけて日本を知り、日本を研究した上で書かれているように思えた。本書からは見当違いの日本が描かれていると感じなかったからだ。
本書は、日本人の描き方を含めても、読み応えのある本だと思う。

第二次大戦中、日本軍がやらかした失敗の数々はよく知られている。
軍部の偏狭さや夜郎自大がもたらした弊害は枚挙にいとまがない。それがわが国を壊滅へと追いやったことは誰もが知っている。
フィリピンのバターン死の更新やビルマの奥地の泰緬鉄道の建設など、国際法を無視し、捕虜の取り扱いに全く配慮を欠いた愚行の数々。
敗戦の事実も辛いが、私は当時の日本がこうした悪名を被ったことがつらい。軍の最大の失敗とは、敗戦そのものよりも、軍紀を粛正せず、末端の将校を野放しにしたことにあるとさえ思う。
日露戦争や第一次世界大戦では、日本の行き届いた捕虜への配慮が武士道の発露と世界から称賛を浴びただけになおさら残念だ。

残念ながら、右向きの人がどれだけ否定しようとも、日本軍がなした愚行を否定することはできまい。あったことよりもなかったことの証拠を見つける方が難しいからだ。量の多寡よりも、少しでも行われてしまったことがすでに問題だと思う。
実際に日本軍からの虐待を告発した方は、中国人、朝鮮人だけではない。他にも多くいる。本書のようにオーストラリア、オランダ、イギリスの軍人を中心に世界中に及ぶ。

著者の父は実際に泰緬鉄道の現場で過酷な捕虜の境遇を味わったという。著者はそれを十二年の年月を掛け、本書にまとめたという。
十二年の時間とは、おそらく著者が日本を学ぶために費やした時間だったはずだ。

日本軍が捕虜を扱う際、なぜ過酷な労働を強いたのか。それは、どのような文化、どのような心性のもとで生まれたのか。
世界から一目置かれる文化を擁するはずの日本人が、なぜあれほどの思慮を欠いた所業に手を染めたのか。著者はその探究に心を砕いたに違いない。

著者はその手がかりを俳句に求める。
自然を愛でる日本人の心性。それが簡潔な形で表現されるのが俳句だ。
私も旅先で駄句をひねることが多く、俳句には親しんでいるつもりだ。

「二人は、一茶の句の純朴な知恵、蕪村の偉大さ、芭蕉の見事な俳文『おくのほそ道』のすばらしさを語るうちに、感傷的になっていった。『おくのほそ道』は、日本人の精神の真髄を一冊の書物に集約している、とコウタ大佐が言った。」(131p)
「日本人の精神はいまそれ自体が鉄道であり、鉄道は日本人の精神であり、北の奥地へと続くわれらの細き道は、芭蕉の美と叡智をより広い世界へと届ける一助となるだろう。」(132p)

この二つの文章は、本書の登場人物でもひときわ印象に残る、日本軍のナカムラ少佐とコウタ大佐が会話する場面から引用した。

俳句とは、現実からは距離を置き、恬淡とした境地から自然を描写する芸術だ。
詠み人の立場や心境は反映されるが、そこで描写される人は、あくまでも風景の登場人物にすぎない。描写される人の立場や心境にはあまり踏み込まない。たとえその人が無作為に非情な運命にもてあそばれていたとしても。
日本の文化には相手への丁寧さがあると言われるが、それは言い方を変えれば他人行儀ということだ。表面はにこにこしているが、何を考えているか分からない日本人、というのもよく聞く日本評だ。
著者は俳句を研究した結果、日本人の心性を解く鍵を俳句に見いだしたのではないだろうか。
本書のとびらには一つの文句が書かれている。
「お母さん、彼らは詩を書くのです。
パウル・ツェラン」
この文句でいう詩とは俳句を指すのはもちろんだ。そして、彼らとはかくも残虐な所業をなした日本人を指しているはずだ。
この言葉には、その行動と詩の間にある落差への驚きがある。

不思議の国日本、と諸外国から言われるわが国の心性。
それは台風や噴火、地震や飢饉に苦しみ続けてきた日本人が培ってきた感性だ。

そうした非情な現実から距離を置くことが、日本人が過酷な自然から生き延びるために得た知恵。だとすれば、非情な現実とは、自らが捕虜に対する行いにも適用される。
一方で捕虜を過酷な状況の中で使役し、一方で恬淡とした自然の前にある自分を見つめられる心性。
ナカムラ少佐やコウタ少佐にとって、苦役に就く捕虜とは、目の前の光景でしかない。だから捕虜の待遇を良くしようとも思わない。

皮肉なことに、ビルマで本書の主人公であるドリゴを始めとした、オーストラリア軍の捕虜たちを酷使しつづけたナカムラ少佐やコウタ大佐は寿命を全うし、畳の上で死ぬ。
その運命の不条理さに読者は何とも言えない感覚を抱くはずだ。

もちろん不条理さを体現した登場人物はまだいる。
日本軍に属し、捕虜たちに虐待を与える側にたつ朝鮮人チェ・サンミン。
月あたり50円の給金を貰う以外、何の思想も考えも、そして何の誇りもなく任務に従っていた男。
彼はBC級戦犯の裁判の結果、処刑される。
その処刑の描写は、人間が持ちうる圧倒的な空虚さもあいまって読者に強い衝撃を与える。

他にも、本書には九大医学部で起こった捕虜生体解剖の助手をやっていたという人物や、731部隊の関係者も登場する。
いずれも戦後の世界を戸惑いながら生きる人物として描かれる。

本書の主人公ドリゴもまた、凄惨な捕虜の境遇を生き延び、戦後も長く生きる。
ドリゴが日本軍から受けた扱いは、腐った匂いや泥の感触を感じさせる細部までが過酷なものだった。その境遇から生き延び、戦後を生きたドリゴの生活には、どこかしら空虚な影がついて回る。

そしてドリゴは戦前と戦中と戦後をさまよいながら、生の意味を求める。

ドリゴが何気なく手に取った日本の俳人のエピソード。
「十八世紀の俳人之水は、死の床で辞世の句を詠んでほしいと乞われ、筆をつかみ、句を描いて死んでいった。之水が紙に円を一つ描いたのを見て、門弟たちは驚いた。
之水の句は、ドリゴ・エヴァンスの潜在意識を流れていった。包含された空白、果てしない謎、長さのない幅、巨大な車輪、永劫回帰。円――線と対象をなすもの。」(36ぺージ)

そして死に際してドリゴは之水の描いた円の意味を突如理解する。そして、このような言葉を残して絶命する。
「諸君、前進せよ。風車に突撃せよ。」(442ぺージ)
無鉄砲なドン・キホーテの突撃した風車とは、不条理の象徴である。

挿絵のない本書に二回も登場するのが、之水の描いた円の筆跡。
これこそが、すべてのものは回帰する、という俳句の心境であり、ドリゴが悟った生の意味なのだと思う。

人として外道の所業をなした日本軍。組織の中で戦争犯罪に手を染めた軍人たち。死と紙一重の体験を生き延びたドリゴ。ドリゴの被った悲劇に影響された周りの人々。
善も悪も全ては円の中で閉じ、永劫へと回帰してゆく。

本書は日本軍の犯した組織ぐるみの犯罪をモチーフにしているが、作中には日本人や日本文化を批難する言葉はほぼ登場しない。
それはもちろん、著者や著者の父による許しを意味してはいないはずだ。
著者は許すかわりに、日本軍の行いも人間が織りなす不条理の一つとして受け入れたのではないだろうか。
すべての国や時代を通じ、人の生のあり方とは円に回帰する。著者はその視点にたどり着いたように思う。

訳者によるあとがきによると、本書の最終稿を著者が出版社に送信したその日、著者は存命だった父に面会し、作品の完成を伝えた。そしてその晩、著者の父は98年の生涯を閉じたのだという。

そうした奇跡のようなエピソードさえも、本書が到達した深みを補強する。

本書は五部からなる。
それぞれの部の扉には句が載せられている。

一部
牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉

二部
女から先へかすむぞ汐干がた  一茶

三部
露の世の露の中にてけんくわ哉 一茶

四部
露の世は露の世ながらさりながら 一茶

五部
世の中は地獄の上の花見かな 一茶

私たちが日本人の在り方やあるべき姿に悩むとき、俳句の持つ意味を踏まえるとより理解が深められるのかもしれない。
外国人の著者から、そうしたことを教えてもらった気分だ。
本書からはとても得難く深い印象を受けた。

‘2019/5/22-2019/6/8


アマゾン入門


本書はAmazon.comについての本ではない。本書のテーマはアマゾン川とその流域の暮らしについて。世界最大の流域面積を持ち、流域には広大な熱帯樹林を擁し、肥沃で広大な場所の代名詞でもあるアマゾン。そこに移民として住み着き、苦労しながらも成果をあげ続けている日本人がテーマだ。

周知の通り、Amazon.comのサービス名の由来の一つにアマゾンがある。アマゾン流域の抱える膨大な広さと豊かな資源。それにあやかったのがAmazon.comだという。今のネット社会に生きる私たちはAmazon.comやAmazon.co.jpにはいろいろとお世話になっている。なっておきながら、その名の由来の一つであるアマゾン川やその流域のことをあまりにも知らない。せいぜいテレビのドキュメンタリー番組でアマゾンを覗き見るぐらい。

著者はそんなアマゾンに魅せられ、長年のあいだに何度も訪れているという。いわば日本のアマゾン第一人者だ。著者の名はジャーナリストとして、ノンフィクション作家としてある程度知られている。だが、そのイメージはアマゾンと対極にある。なぜなら著者が精力的に追っているのは技術だからだ。日本の技術の発展を追った連載や書籍によってその名を高めてきた。だから本書のタイトルからはどうしてもAmazon.comを連想してしまう。

しかし本書はAmazon.comとは無縁だ。それどころかあらゆる技術の類いにも縁がない。インターネットどころか、パソコンすらない時代と場所。なにしろ本書に描かれているエピソードには村にカラーテレビが入ったと喜ぶ人々の姿が登場するぐらいだから。本書が取材されたのは1979年。1979年といえば、日本では一般社会にもカラーテレビが当たり前になりつつある頃。ところが当時のアマゾンではそれすら物珍しいものだった。だから、本書にはAmazon.comどころか、それと対極のエピソードで占められている。

本書は著者にとって二度目のアマゾンの旅の様子を中心に描かれている。1979年の当時は、世界が情報技術に覆われる前の時代だ。世界がまだ広く遠かった頃。アマゾン流域ではさらにそこから何十年も遅れており、アマゾンは無限の広さを謳歌していた。日本人にとって規格外の広さを誇るアマゾン。本書でもそのことは随所で紹介される。例えば河口にある中洲とされるマラジョ島だけで九州やスイスの大きさに匹敵するという。河口だけで三百キロの幅があり、アマゾン流域には日本が16個ほどすっぽりはいること。何千キロも河口から遡っても水深がなお何十メートルもあること。大西洋の沖合160キロまでアマゾンから流れた水のおかげで淡水になっていること。本書の冒頭には、アマゾンの大きさを表す豆知識があれこれ披露される。そのどれもが地球の裏側の島国に住む私たちにとってリアルに感じられない。

アマゾンといえばピラニアが有名。だが、本書では人間を丸呑みする大ナマズが登場する。そのようなエピソードを語るのは本書にたくさん登場する日本人だ。ブラジルをはじめ、南米の各地には日本人の移民が大勢根を下ろしている。厳しい環境の中、成功を収めた日本人も数知れずいる。ジャポネス・ガランチードとは本書のまえがきに登場する言葉。その意味は「保証付きの日本人」だ。日本人の勤勉さと想像を絶する苦労の果てに授かった称号だろう。

厳しい環境に耐え抜きアマゾンに土着した日本人はたくましい。そこには言葉にできないほどの苦労があった。著者はそれらの苦労を紹介しつつ、アマゾンの現状とこれからを描いていく。その描写は収支から経済活動、日々の暮らしにまで及ぶ。彼らの暮らしが本当に地についている事を感じるのはこんなセリフにぶつかったときだ。「アマゾンは広い広いというけれど、日本より狭い」(105P)という言葉。とにかくまっ平なアマゾンに過ごしていると、その広さは全く実感として感じられないのだろう。日本にいる私が各種データやGoogle Earthでみるアマゾンはディスプレイに収まってしまうサイズだ。だが、それこそまさに机上の空論。現地で住まう人々の感覚の方が実感として正しいに決まっている。現地の人々が感じる狭さこそ、人間の五感で得られた実感であり、ディスプレイで知った狭さなどまやかしでしかない。

そんな入植者の勤勉さがアマゾンにはよく合ったのだろう。もちろん勤勉でない日本人もいたはずだが、そうした方は早々にアマゾンから淘汰される。残った勤勉な日本人が現地で成功を収める。なぜなら現地の人々より勤勉だったから。ゴム栽培、ジュート収穫の苦労。トランスアマゾニアンハイウェイの開発秘話。マラリアに悩まされ、原住民に襲われる日々。日本では味わえない苦労の数々。そうした人々の苦労話は、想像すらできない。だが、彼らが乗り越えて来たことだけはわかる。

著者もマナウスから百数十キロ離れた場所で野営をする。アマゾンを知るには最低限一晩の野営はしなければ、といわれ。一晩を静かな原始林で過ごした著者は重要な示唆を得る。
「原始林は、なんともの静かなことか。それに比べて文明地の苛立つ雑踏と、騒がしさ。原始林の”清潔”に対し、文明には”不潔”という言葉しか与えられない。」(197P)

全てが生と死に直結するアマゾン。一方でシステム制御され、効率化を追求したAmazon.com。その二つが同じ名前でつながっている事をAmazon.comの創業者ジェフ・ベゾスの発想だけで片付けてはならない。そこには大いなる啓示を読みとるべきではないか。

本書が描き出すアマゾンは、人間の力の卑小さを思わせる。自然を制御するには思い上がりもいいところと。確かに人間の経済活動は地球の環境を変えつつある。それは人間の制御の及ばぬ領域において。そして本書が取材され出版された当時に比べ、今の私たちの周りには自然よりもさらに統制の難しい存在が姿を現しつつある。人工知能だ。人工知能を推し進める旗頭の一つこそAmazon.comであるのは言うまでもない。そして、人工知能がシンギュラリティを実現したとき、人間はただ取り残される。その時人間は悟るだろう。結局、人間が主体となって神となって地球を操ることなどできはしないことに。かつては自然が、これからは人工知能が。

人間が生体の人間である限り、人間はいつまでも人間だ。そして、その営みこそは、人間が古来から未来まで変えようにも変えられない部分だと思う。本書に書かれているしんずいこそ、その営みに他ならない。本書に描かれた苦労する日本人。わずかながらでもアマゾンに足掛かりをつかみ、成功しつつある人々。彼らの努力こそは美徳であり、人工知能に対する人間の価値の勝利であるはずだ。

もし人間が人工知能の支配する世界で存在感を見いだすとすれば、本書に描かれた人々の姿は参考になるはず。よしんば人工知能が自立する未来が来なかったとしても、文明に飼いならされた人間がどこかで退化して行くことは避けられない。仮に日本人の美徳を勤勉さに求めるとすれば、仮に日本人の勤勉さが世界から称賛されるとすれば、本書に描かれた日本人とは、これからの人間のあり方を示唆しているような気がする。

「アマゾンは、将来世界の中心になるんじゃあるまいか。電力は水力発電で無尽蔵だし、世界の食糧庫になるかもしれませんよ」(96P)とのセリフが本文に登場する。私が想像するあり方とは違うが、アマゾンが地球と人間の今後の指標となることに違いはない。

果たして、自然を味方に付けたアマゾンの価値観が未来を制するのか。人工知能を走らせ統制に終始するAmazon.comの価値観が未来を席巻するのか。二つの相反する価値観がともにアマゾンを名乗っていること。そこに大いなる暗示を感じる。著者は40年も前に今の技術社会の限界とその突破口をアマゾンに嗅ぎとったのだろうか。だとすれば恐るべきはジャーナリストの本能だ。

本書はタイトルや内容に込められた意図を超えて、今の世にこそ読まれるべき一冊だと思う。

‘2017/08/16-2017/08/17


B29墜落―米兵を救った日本人


本書も前年秋に淡路島で訪れた学園祭のブックバザーで無料でいただいた一冊だ。

太平洋戦争も敗色が誰の目にも明らかになった昭和20年。多くの国民が「戦局必ずしも好転せず」を理解したのは、日夜を問わず日本各地に飛来したB29を見上げてからだろう。日輪の下を、夜の闇の中をゆうゆうと舞い、大量の焼夷弾をばらまいて行く機影。その圧倒的な機数と不気味な飛来音は、戦争の悲惨さを象徴していたのではないか。

防衛部隊も日本上空を覆い尽くすB29に手をこまねいていたわけではない。高射砲で応戦し、撃ち落そうと試みる。が、高射砲はB29のはるか下方で破裂し、B29に損害どころか脅威すら与えない。高射砲の射程距離よりも上空を飛ぶB29は、悠々と飛び去ってゆく。結果、ほとんどのB29が無傷だったと伝わっている。だが、全く撃ち落とせなかったわけではない。日本の各地で何百機(本書では485機。米側資料では327機)かは撃墜に成功したらしい。そのすべてが撃墜できたのではなく、その中には機体の整備不良その他の原因で墜ちた機もあったことだろう。

本書はそのうちの一機、今の茨城県守谷市とつくば市の間、旧板橋村に落ちたB29について書かれた本だ。著者は幼い頃、その様子を見聞きしたという。そして、長じてから幼き日に経験したこの事件に興味を持ち、その一部始終を調べた。その成果が本書だ。

本書は落ちた地に住んでいた著者を含めた住民からの視点で書かれている。ただ、墜落機の乗員のその後と、遺族の立場にも配慮していることが特記できる。両方の立場から墜落を描いていることは、特定のイデオロギーや史観に囚われない著者の良心として評価したい。

太平洋戦争時の日本について、評価は今もなお分かれている。鬼子日本の所業と今も非難し続ける国もある。南京大虐殺はなかったとし、東京裁判は連合国による一方的な見せしめ裁判とする立場もある。私ばどちらの立場にも与しない。前者は一部の日本人の行動を指して、日本のすべてを悪としているから。後者は一部の人の行動やその判決を日本人全体のことと受け止めているからだ。一部の行いを集団に広げて解釈せずにはすまない。それは極端な見方でしかない。その場所や立場によって流動的に立場も責任も変わっていくはず。だから、究極的にはその時代、その場にいた者にしか戦争犯罪は断罪はできないはず。そう思っている。日本の軍人にも立派な行いをしたと伝わる人は何人もいる。逆に中国や朝鮮半島に住んでいた民衆で卑劣な行いをした人もいたはず。

当時の我が国もそう。標語である鬼畜米英の言葉が街中に流布していた。ましてやB29といえば国土や親族を焼き払ってゆく憎んでも憎みきれない悪魔の兵器。不時着した米兵は本来ならば人道的に捕虜として取り扱われるべき。だが、米軍捕虜を虐待した事例があったことは、遠藤周作氏の『海と毒薬』でも知られているとおり。当時の日本人の一部が非難されるべき行いをしたことは公平に認めねばなるまい。

それを前提としてもなお、一部の日本人の行いをもって全ての日本人を断罪するのはおかしい。善か悪か。全ての日本人をどちらかに寄せようとするからおかしくなるのだ。著者は、旧板橋村に墜ちたB29の事例を通じて、その極端な評価に一石を投じたかったのだと思う。当時のすべての日本人が米兵を憎んでいたのではない。墜落し、傷ついた米兵に対し、敵味方を超えて接した村民がいたのだ。その事実を著者は丹念に追ってゆく。旧板橋村に墜ちたB29からは、3人の米兵が生存者として救出された。だれが救出したのか。もちろん旧板橋村の住民たちだ。住民たちは米兵を放置せず、虐待もせず、そして介抱した。介抱した上でしかるべき部署に引き渡した。八人はやけどがひどく、墜ちた時点ですでに死んでいたという。が、住民たちはそれらの敵兵をきちんと菰に包んで埋葬したという。

住民たちが救出した3人は、本書によると土浦憲兵隊に渡されたという。そしてそのうち一人は戦犯として死刑にされ、残り二人は麹町の捕虜収容所で米軍の空襲に遭い、命を落としたとか。

彼ら自身の命が失われたことは残念だ。だが、彼らは言ってみれば戦死だ。しかも敵国の領土で死んだ。それは、あえていえば仕方ないことだ。彼らは、敵国の領土を侵犯し、大勢の人々を殺しあえる、そして死んだ。ただ、彼らの死が残念だと思うのは、もし彼らが戦後も生き、旧板橋村の住民の救助を覚えていてくれたら、ということだ。そうすれば当時の日本にも、捕虜をきちんと扱う住民がいたことがもっと知られていたのに。

著者は彼らの戦死の背後に、日本人による救助活動があったことを記し、後世に残してくれている。

先に、著者の視点を評してバランスとれている、と書いた。それは、亡くなった十一人の米兵の遺族にも連絡を取り、きちんとフォローしていることだ。米兵にだって遺族はいる。B29から大量の焼夷弾を落とし、多数の日本人を殺した。そんな米兵とはいえ、愛する家族がいたこともまた事実。家庭ではよき父、良き夫、良き息子であったかもしれない。それなのに、戦争では敵国に赴き、多くの家族を殺戮せねばならない。それこそが戦争の許しがたい点なのだ。著者はそういった配慮も怠らずに米兵たちのその後を書く。

マクロな視点から見れば、戦争とは国際関係の一つの様態に過ぎない。そこでは死は一つの数字に記号化される。だが、ミクロの単位では死とは間違いなく悲劇となる。 そして、悲劇であるが故に憎しみの応酬が生まれる。その応酬は無益としかいいようのないものだ。著者の調査は、無益な憎しみを浄化するためにも価値のあるものだ。

本書にあと少し工夫が欲しいな、と思ったことがある。それは本書の構成だ。少し前段が冗長のように思う。本書は前書きで旧板橋村へのB29の墜落、村人による救出活動を描く。そのあと、著者はアメリカでの対日国民感情の悪化、戦局の推移、空襲の発案といった空襲の背景に筆を費やす。それから、日本国内を襲ったり焼夷弾爆撃の実態を描く。本格的に主題となるB29の墜落と米兵の救出の一部始終が採り上げられるのは、本書も半ばを過ぎた頃だ。これはバランスとして偏っているように思った。

著者の執筆姿勢が一人一人の米兵の生い立ちや遺族とのやりとりにまで及んでいて、丁寧な作りであるだけに惜しい。年代順に並べる意図はわかるが、前書きと最初の章で墜落自体を書いた後で、じっくりと背景を描いても良かったのではないだろうか。

だが、それらは、著者の苦労を無にするものではない。日米の不幸な歴史を一機のB29の運命を素材に描いた本書は、素晴らしい仕事だと思う。

‘2017/01/23-2017/01/24


日本辺境論


日本を論じるのがもっとも好きな民族は日本人。良く聞くフレーズだ。本書にも似た文が引用されている。

はじめに、で著者は潔く宣言する。本書もまた、巷にあふれる日本論の一つに過ぎないことを。そして、本書の論考の多くは梅棹忠雄氏や養老孟司氏ら先人の成果に負っていることを。著者の姿勢は率直だ。本書を先賢によって書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなもの、とすらいうのだから。(P23)

だからといって、本書を先人たちの成果の絞りかすと軽んじるのは愚かなこと。絞りかすどころか、含蓄に富んでいる。もし本書が絞りかすだとすれば、誰が本書を出版するものか。著者一流の謙遜だと思う。その証拠に著者は先ほどの宣言に続けてこう書いている。本書の「唯一の創見は、それら先人の貴重な知見をアーカイブに保管し、繰り返し言及し、確認するという努力を私たち日本人が集団的に怠ってきているという事実に注目している点です」と(P23)。

著者の謙遜にもかかわらず、本書の内容は新鮮だ。確かに結論こそ先賢の業績に沿ったものかもしれない。しかし、著者が論拠とするエピソードは現代の風俗を含んでいる。つまり本書は、現代の視点で見直した日本論なのだ。もっとも今風とはいえ、著者が本書で展開する論考にはインターネットからの視点が抜けているのは事実だ。しかし、本書での著者の結論から逆をたどれば、ネット社会が盛んな今もなお辺境にある日本という見方もできるのだ。

日本のどこが辺境なのか。「I 日本人は辺境人である」で著者は検証を試みる。日本の辺境性を明らかにするため、著者が取り上げた例は多岐に渡る。余りにも範囲が広すぎるため、ここで一々挙げることすらためらわせるくらいに。ほんの一例を紹介してみる。オバマ大統領の就任演説。太平洋戦争における海軍将校や大臣達の言葉。ヒトラーの戦争観。中華思想と小野妹子の親書。征韓論と日清日露戦争時の日本外交。

そこから導き出す著者の論点を要約すると、日本人のメンタリティは、他国との比較によって築き上げられてきたとの結論に落ち着く。「はじめに」で著者が告白したとおり、他国との比較という先人が出した日本への論考は枚挙に暇がない。丸山眞男、川島武宜、梅棹忠雄といった碩学諸氏。これら諸氏が主張したことは、今まで日本人が世界の主人公として主体的に振る舞ってきたことは一度もないということ。日本が主体となるのではなく、他国との比較において日本の在り方を突き詰めたところに、日本人の心性や文化はあるということ。それは良いことでも悪いことでもない。それが日本なのだ、という現状認識がある。それが著者の出した結論であり、よって立つ視座である。以下に本書の中でそのことが端的に述べられている箇所を抜き出してみる。

私たちの国は理念に基づいて作られたものではない。(P32)

私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語る(P34)。

國體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している(54P)。

特に最後の引用が含まれる52ページから56ページの部分は、太平洋戦争の総括がなぜ今も出来ないか、との問いへの回答になっている。東京裁判において、戦争の共同謀義の罪状にあたる証拠が見つけられず、その罪状で求刑出来なかったことはよく知られている。そこから、昭和初期の日本が國體や戦争の行く末を考えずに戦争に突き進んでいった理由について、本書の論考はヒントになるだろう。

最近はとくに、日本と他国を比べ優劣を語る議論がまた勢力を盛り返している。ネット論壇ではとくに。しかし、そのような比較論は、すでに先人達が散々論じ尽くしている。もはやそれを超える画期的な視点の日本論は出てきそうにない。著者もそれは先刻承知しているのだろう。だからこそ本書は先賢らが提示した論をなぞるだけ、と「はじめに」で述べているのだ。その前提として著者が「I 日本人は辺境人である」で主張するのは、こうなったらとことん「辺境」を極めようではないか、ということである。ここまで「辺境」を保ちつつ国を続かせてきた国は他にない。我が国が普通の国でないのなら、その立場を貫こうではないか、というわけだ。それが本書の、そして著者のスタンスである。

続く「II 辺境人の「学び」は効率がいい」で著者は辺境人として生きる利点を語る。そもそも日本には起源から今にいたる自国の思想の経歴が語れない、という特徴がある。自らの思想の成り立ちが語れないということは、論考に幅や余裕がなくなること。それは、自説について断定的な姿勢をとることであり、譲るゆとりを忘れることでもある。そういった病理を炙り出すため、本書で著者が取り上げたのは国歌国旗にまつわるナショナリズムだ。戦後の日本を縛り付けてきた左右両翼の争い。その論争の行く末は、いまだに見えない。それもここで挙げた論理を当てはめることで理由がつきそうだ。左右の思想ともに自らの思想が経てきた歴史や深みを語れない。それは借り物の思想だから、というのが著者の意見だ。

ここで私が思ったのは、左右の論争に決着がつけられないのは、自らの経緯が語れないということよりも、絶対的な宗教、決定的な思想が日本にないことが理由では、と思った。それは、目新しい考えでもなんでもない。ごく自然に出てきた私の疑問だ。

著者は、左右の思想になぜ論争の終わりが来ないのかについての理由を解き明かしにかかる。それは私の思ったことにも関係する。師弟という関係の本質。日本では芸事を極めることを「道」に例える。武道、茶道、書道など。道とは続くもので、終わりのないものの象徴だ。

著者はここで師弟関係の意味を極言する。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であったとする。でもその人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する(149P)。と。

著者がここで落語のこんにゃく問答を例に出すのは秀逸だと思う。しかし、著者がいうのは曖昧で形のない形而上の対象ではないだろうか。それらについては当てはまるかもしれないが、具体的な対象については「道」や「師弟関係」とは少し違うのではないか。目の前に見える近視眼的な対象に対する日本人の集中力は秀でている。それに異論のある方は少ないはずだ。著者にいわせれば、目の前に見えている対象は、学びの対象になりえないのだろうか。ここが少し疑問として残った。

そういった私の疑問に対し、著者は続く「III 「機」の思想」で”機”の概念を持ち出す。”機”とはなにか。それを説明するために著者は親鸞を担ぎ出す。親鸞もまた、道の終着点を見出すことの無意味さを知り、道という概念とは求め続けることに意味あり、ということを知る人ではなかったか。親鸞の有名な”悪人正機説”。この中には”機”の字が含まれている。

著者は親鸞を辺境固有の仮説を検証しようとした宗教家ととらえているようだ。「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」(166P)、という文にもそれが見られる。

修行の目的地という概念を否定した親鸞。それは、辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない(169P)、と著者は受け取る。

著者はここで”機”を説明するため、柳生宗矩を評するため沢庵和尚が使った「石火之機」という言葉を持ち込む。意思に基づいた動作ではなく、瞬間の動作。主体の意思さえない、本能の動作。反応以前の反応。それが「石火之機」だ。主体なく生きることは、すなわち辺境に生きることに等しい。そう著者は言いたいのだろう。ところがここまで書いておきながら、「悪人正機」の中の”機”について著者は特に触れないのだ。ここまで論を進めたのだから、あとは分かるでしょ?ということなのだろうか。であれば、あとはこちらで結論を導くしかない。それはつまり、存在論的に悪人であらねばならない我々が正しい”機”に導かれるには主体を捨てねばならない。”機”とはそういう”機”ではないか。

左右両翼の論争がなぜいつまでも終わらないのか、との著者の意見を噛み砕いているとここまで来てしまった。ここで改めて著者の言いたいことを私なりに解釈してみたいと思う。

主体がなく反応以前に反応する”機”。それは外来の事物について反応する前に有用性を見極め受け入れることである。日本人が辺境人としてあり続けたのは、”機”に導かれ道をしるため、主体を捨てて無私の境地で無条件に外来からの理論を信じてきたから。無条件に無私の境地の中で、その思想の由来や経緯を意識することなく外来思想を取り入れ続けてきたから。

多分、著者の結論を正しいとすれば、日本で思想の争いに決着を求めるのは無理だ。そして日本の思想に論理的整合性を求めるのは無駄なことだ。そこには私が考えたような絶対的思想の不在だけでない、別の理由がある。だが、それを承知で、著者は辺境人として生きてみようと呼びかけるのだ。その曖昧さをも受け入れた上で。

「IV 辺境人は日本語と共に」で著者は日本語を爼上にあげる。日本語は、表意文字と表音文字が混在しているのが特徴だ。そこには、仮名に対する真名という対比の関係がある。話し言葉を仮の名と呼び、外来の文字を真の名と呼ぶ。この心性がすでに辺境的なのだと著者はいう。外来の言葉を真の名と尊び、土着の言葉を借りの名という。つまり外来を重んじ、土着を軽んじる。この着眼点は凄いと思った。そしてそのことが日本を発展に導き、我々の文化に世界史上でも有数の重みを与えた。我々はそのことを素直に受け入れ、喜んでもいいのではないか。

年明け早々にヒントに富んだ書を読め、満足だ。

‘2015/01/15-2015/01/19


人はなぜ宗教を必要とするのか


特定の組織に属することを好まぬ私。そんな私にとって、宗教団体への入信は、今のところ人生の選択肢には入っていない。

とはいえ、私は神社仏閣に詣でることはむしろ好きな方である。各地の名刹古刹や神社には旅行の際によく訪れている。そのくせ、結婚式はキリスト教会で挙げている(しかも日本とハワイの二か所で)。私の宗教に対する無節操さは、日本人の典型ともいえる無宗教者そのものの在り方に違いない。

本書は、私のような迷える無宗教者に対して宗教の意味を説く。宗教は決して避けるべきものではなく、付き合い方によって人生を豊かにすることを紹介するのが本書の主旨といえる。

ここでわたしにとっての宗教の意味を再度確認してみる。私にとって宗教とは、現世をいかに生きるかの道標の一つ。これに尽きる。宗教に来世の救いも期待しないし、現世の利益も望まない。その替わり、現世を生きるための深い知恵と思索の蓄積を求める。なぜ生かされているのか、何故人は罪深いのか。人として正しい生き方は果たしてあり得るのか。利己と利他の境目とは何か。所詮は人も生物の一つ、社会に流され、本能の赴くままに生きるしかないのか。

なかでも、物心ついてから持ち続けている疑問については、是非とも知りたい。それは、自分が死ねば世界は続いてゆくのか、というものだ。

全ての人間に自我や意志が備わっている。それは頭では分かっているつもりだ。しかし、頭では分かっていても、他人の思考を読み取ることはできない。そして、自我という縛りは頑なで、自我の外に出ることは不可能である。そのような事実を前にすると、他の人と共通の認識に基づいているはずの現実は、私が死ねば誰が認識するのかという疑問に通じる。私の思念が他の生物、例えばおけらやもぐらやアメンボに転生したあと、引き続き現実を認識させてもらえるのかも分からない。それとも、自我が消えれば未来永劫の無があるだけなのか。その恐れは止むことがない。

この疑問は私が小学校低学年の頃から抱きはじめたのだが、おそらく解決できぬまま死ぬまで持ち続けるに違いない。社会人、つまり大人が世に出てから仕事や子育てに奔走させられる仕組みとは、この疑問を抱かせぬための、人類が築き上げた知恵ではないか、とまで思う。

物心ついてからのこの疑問について、私が今まで読んだ中で一番解答に迫ろうとする意思を感じたのが、哲学者の永井均氏の著作「〈子ども〉のための哲学」である。永井氏も私と同様の疑問を抱き、その命題に沿って思索を重ねられている。それにも関わらず、かなりの精緻な思索の結果を読んでも尚、私の根本的な疑問は解消されないままだった。

永井氏の著書を例にあげたが、自我の問題は宗教よりもむしろ哲学でよく取り上げられている。つまり、私の求める、生きることへの根本的な設問は、宗教よりも哲学の範疇らしい。つまり、私が宗教に求めるものがあるとすれば、その答えは哲学の思索の中に潜んでいるのかもしれない。こう考えると、私が宗教への入信に興味が持てないのも理解できる。

絶対的な帰依や奇跡に対する盲目的な確信といった信心では、私の求める人生への答えが得られない。宗教よりも哲学へ。20歳前半で人生の壁にぶつかり、哲学書を読み始めた私が得た当座の答えは、宗教から我が身を遠ざけることだった。ましてや宗教団体という組織に身を置くことは論外。今から考えると、私がそう考えた理由が、宗教団体という特定の組織の傘下に入ることで自分流の生活が脅かされることを恐れたことにあったことも理解できる。所詮は利己的な動機でしかなかった。

前置きが長くなったが、私は自分を「なんとなくの無信心者」から一線を画して位置づけている。それは上記のような葛藤を経た後の自覚だ。それなりの宗教的な意識を抱きながらも、あえて無信心者としての人生を歩んでいるのが自分であると規定している。なぜこのようなことを書くかというと、本書が想定する読者は、「なんとなくの無信心者」を対象としていないと思うからである。そうでなはなく、理由あっての無信心者を対象としているように思える。つまり、私のような理屈っぽい無信心者にとってこそ、本書の内容は活かされる。そう思い、真摯に読ませて頂いた。

本書は以下の章立てで構成されている。
はじめに
第1章 死ねば「無」になる
第2章 「無宗教」を支える心
第3章 「無宗教」者の宗教批判
第4章 宗教への踏切板
第5章 「凡夫」という人間観
第6章 兼好法師からのメッセージ
おわりに

はじめに、で著者は宗教を大まかに創唱宗教と自然宗教にわける。創唱宗教は教祖がいて、その教えを示す聖典の類があり、その教えを信じる信者団体が存在する宗教。自然宗教は「自然発生的」な宗教と定義する。その上で我が国の場合、無宗教とは創唱宗教に対して距離を置くことではないか、と指摘する。日本人の多くが墓地に対する宗派は問わない、という文句に惹かれることから、日本人の宗教心は創唱宗教にはなくても自然宗教に対しては今なお生き続けているのではないかと著者はいう。

私自身は、八百万の神、または、森羅万象全てに神が宿ると考えている。それが私の宗教に対する折り合いの付け方である。今の人類の叡知では及びもつかない無限から微小までのあらゆる仕組み。これらをグランドデザインした知性がいたとすれば、それは神だろうし、いなかったとしてもこれほどの仕組みがただ存在すること自体が神の御業といえる。私に信心があるとすれば、それは仕組みについての畏敬である。これらは30歳前後の頃に私の中で自然発生的に芽生えた考えであり、すなわち自然宗教だと思っている。

科学万能の世になりつつある今、自然宗教が衰退するのも必然なのかもしれない。宗教などに頼らなくても、心を満たしてくれるアイテムはそこらに溢れている。それは仕事だったりスマホだったりゲームだったりSNSだったり飲む打つ買うだったりする。先祖の概念ももはや不要だ。墓はどんどんコンパクトになり、様々な年中行事も形骸化している。あえて宗教に頼らずとも、人生の不安や虚しさを埋める事物に事欠かないのが現代社会であり、人の心の拠り所も宗教から離れる一方といえる。

衰えた自然宗教の代替として、著者はいくつかの道を挙げる。
① 創唱宗教への入信
② 自覚的な無神論者になる
③ 創唱宗教には関心を持ちつつ教団から距離を置く
④ 俳句短歌茶道華道といった道を究める
著者が挙げた道以外には、先に挙げた仕事~飲む打つ買うの類いもあるだろう。

「はじめに」で取り上げられた内容は、著者の前書「日本人はなぜ無宗教なのか」で追求した内容を追っている内容だそうだ。私も2009年の5月に読んでいる本である。当時は本を読んでも読みっ放しであり、本ブログのようにあとから自分なりにレビューという形で振り返っていなかった。なので、内容も忘れてしまっている。改めて読んでみようと思う。

第1章は、北杜夫の死生観や夏目漱石の臨死体験を例に挙げる。死ねば無となる、その「無」の根拠が否定や肯定に基づくものであれ、科学的に証明できないことを述べる。科学的な常識とやらに毒された現代の認識に対して一石を投じる内容となっている。まずは科学万能の頭を論破しておかねば、宗教心の生じる余地がないのはもちろんだ。

第2章では、前章で素材に上げられた「無」について詳しく分け入って行く。「無」とは、人間のはかなさであり、無常の感覚。時間的な永遠の尺度でも、宇宙の宏大な中でも、一人一人の人間の小ささについて、考えればはかないとの結論に行きつくのは分かる。著者は、このはかなさを単に人生を乗りきるための方便でなく、もう一段階上に展開することで救済に至れるのではないかと説く。そして、志賀直哉の暗夜行路の主人公、時任謙作の経験を引用する。また、夏目漱石の大病経験も引用する。謙作も漱石も、自己と自然との一体感によって救われたことが文章に残っている。本章は、それらの記述を引用し、論拠としている。また、佐藤春夫の風流論からは、自然に対抗する努力を放棄するという文章を引用し、自然の流れに委ねることが、日本人の宗教的営みであることを述べる。そして短歌や俳句も含めたそれらの営みが、日本人の無宗教の源流であると指摘する。

第3章では、第2章の結果を受けて、なぜ日本人が創唱宗教に否定的かという設問について筆を進める。著者はその問いに二つの理由を提示する。一に非科学的で時代遅れであること。二に人生の問題は人間の智恵によって解決できること。その二つが正しいと思い込まれているため、日本人は創唱宗教に否定的だと著者は主張する。

さらなる理由として、既存宗教への信頼が喪われたことは忘れずに指摘しなければならない。私腹を肥やし、俗に堕ちた聖職者たちの例。彼らが創唱宗教への信頼に傷をつけたことは否めない。識見を蓄え、苦行を乗り越えた存在、つまりは凡人とは及びもつかぬ霊力の持ち主。このような聖職者に出会うことが稀になったことを著者は大いに批判する。中江兆民の病床に押しかけ、帰依を迫ったという雲照律師のエピソードを紹介し、葬式仏教と堕した既存仏教への失望感をあげる。

本書は題名からすると宗教への入信を進める類の本と思われがちだが、実は違う。本書は、既存の宗教への思い切った糾弾と問題提起が含まれている、本章ではその点が顕著に出ている。その筆先は古くからの4大宗教だけでなく、この100年ほどで発生した新興宗教にも及んでいる。本章ではインチキ宗教かどうかを見分ける方法として一つの手立てが紹介されている。「その宗教に近づいてみて精神が明るくなれば真正の宗教であり、逆に精神が暗くなれば、それはまちがいなく「インチキ」宗教だ」と84頁で言い切っている。さらに呪術と宗教の違いも漏れなく指摘している。それによると呪術の因果は人を説得しきれないのだという。それは逆にいうと、人を惑わすのではなく説得できるだけの強さを持った宗教こそが、人の宗教心を受け止められることを意味している。ここで俎上に上げられるのは、法然や親鸞が基礎を作った浄土真宗だ。聖職者が全て清廉たるべきという法然の教えを例に挙げながらも、俗な考え方を抱いた仏教、中でも現代の浄土真宗の在り方には憤りを覚えるとまで著者は云う。そこには説得できるだけの強さもない、と著者は云いたいのであろう。

第4章はそれでもなお、宗教に救いを求める人のこころについて考察を深め、入信に対して踏み出すための切っ掛けをつくる章になっている。ここで著者は井上靖著「化石」を例に挙げる。経済の世界で成功を収めてきた主人公が、がんに犯された自分の死期を前に、本当の生き方を模索する話だ。また、この章では作家の丹羽文雄の生き方を例に挙げ、さらに葉っぱのフレディまでも俎上に上げ、命の消えゆく自覚を前にして、本当の生き方を見つけ出そうとする人々や自然の営みが紹介されている。ただし、本章では本当の生き方を見つける努力が直ちに宗教への道に通じている訳ではないことに言及している。そのことには注意が必要だ。124頁から125頁にかけて、詳しく説明されている。例えば「我が死を一つの現象、変化として客観視する態度からは、宗教への道はひらかれない」や「長年、死や人生の問題を突き詰めて考えることもなく人生を過ごしてきた人が、ついに自己の死に直面せざるをえなくなったからといって、その人が突如宗教的人間になるということは、むつかしいことなのです。自己の有限性に苦しみ、悲しむ心が堆積していてはじめて、目前に迫る氏が宗教への踏切板になるのです」という文は、常日頃の心の置き方を考える上で肝に銘じておかねばならないと思う。

第5章は凡夫についての考察に視点を移す。浄土真宗の法然や親鸞が突き詰めて考えた結果が、ただひたすらに念仏を唱えることで成仏できるという他力本願の考えであることはよく知られている。つまりは修行によって、悟りを啓き、仏になるとの考えとは真反対の立場であり、もともと努力したところで人は凡夫にすぎないという考え方を推し進めたのが浄土真宗の凄味と解釈している。本章でもその解釈に依って、個人を個人主義の枠の中に押し込めるのではなく、集団や社会の業縁に縛られた存在として見直し、その社会倫理の中でとらえ直すことを提唱している。それは冒頭に私が書いた宗教団体といった組織へ入ることにつながるはずであるが、本章ではそこには触れていない。しかし私を含めた宗教から距離を置く人々の多くが、宗教組織への参加忌避であることを考えるとすると、この点は宗教への道を考える上で避けられない問題と著者は考えたのではないだろうか。ただ、私は著者の提唱にも関わらず、なおも個人で個人の内面の宗教的意思を純化できないものだろうかと考えるのだが。

また、法然や親鸞の考えを現代に薦めるには、第3章で糾弾された浄土真宗の宗教としての強さが問われることはいうまでもない。個人の努力ではなく社会倫理に身を委ねることを推し進めるのであれば、社会倫理の規範の在り方が問われるのは当然である。浄土真宗がそのような強さを取り戻し得るのか否か。あえてその点は本章では触れられていない。が、著者の厳しい視線が注がれていることは、浄土真宗や日本の仏教界の方々は忘れてはならないだろう。今のままでは著者の求める宗教への道の受け皿として、日本の仏教、特に浄土真宗は取り除かれてしまうからだ。

第六章は、兼好法師からのメッセージということで、徒然草の中にある法然仏教への共感を紹介する。上にも書いたが、著者は創唱時の浄土真宗の考え方に強く共感し、そこに宗教的な道を拓くことが出来ないか、ということを考えている。189頁にはそれを論ずるための二つの文章がある。二つの文章を一言で云うと「信心が神仏の存在を決定する」または「宗教は主観的事実だ」に集約されている。全ては読者の心次第だ、というわけである。結論としては読者の信心に委ねたわけである。本書が入信を薦めることを主題としていない以上、このような結論を肩透かしと批判することは相応しくない。

本書を通じ、私自身の宗教心の由来や求めるところが少しは整理できたように思う。そして本書を読んで、私の中で法然や親鸞の教えについての関心が高まったのも収穫といえる。この後、親鸞に挑戦してみるのだが、それはまた後日のレビューにて紹介したいと思う。

‘2014/12/12-2014/12/19


ベイマックス


原作は日本人6人が主人公という設定の「ビッグ・ヒーロー・シックス」。本作はヒーローを5人とし、主人公のヒロ・ハマダ以外は各国人という設定にリメイクしたものである。

5人のヒーローものといえば、40~50代の日本人にとってはお馴染みである。それはガッチャマンであり、ゴレンジャーであり、デンジマンとして記憶に沁みついている。本作はその路線を踏襲し、近未来の世界に舞台を移している。近未来といっても荒唐無稽なものではなく、現代の技術を拡張させた世界観に沿っている。

ストーリー自体はそれほど凝った設定ではない。兄の死というトラウマを抱えた主人公が、ロボットと仲間の助けを借りて、兄を死に至らしめた陰謀へと立ち向かっていく筋である。昔の戦隊モノでは、のっけから当たり前のように悪役が存在していた。ギャラクターしかり、黒十字軍しかり、ベーダー一族しかり。しかし本作ではきちんと悪役が存在するための理由づけがされている。昨今の複雑な背景設定に慣れている観客を意識した改変といってよいだろう。

ある程度背景設定されているとはいえ、単純に快活に楽しめるのが、本作である。本来ならば余計なことは考えず、ただ楽しむのが本作のもっとも幸せな鑑賞方法だろう。現に中2の娘も、今までに見たディズニーの作品で一番面白く、感動したといっていた。だが、それだけだと私も本作を見た記憶を忘れてしまうので、もう少し穿ってみるとする。

本作の主人公ヒロ・ハマダは日本人で13歳にして大学を飛び級入学できるだけの頭脳の持ち主。従来のヒーローは自らをバージョンアップさせない。大抵は007ことジェームズ・ボンド・シリーズにおけるQのような他人の助けを借り、衣装やメカや武器の開発は他人任せ。が、本作の主人公ヒロは、その頭脳でもって自らをチューンナップさせ、バージョンアップさせることができる。本作の主要製作陣の中には日本人はいないようだが、家電・電子分野で落ち目と言われて久しい日本人の過去のイメージが、本作でのヒロのように保たれているのは嬉しい限りである。3Dプリンターの進化系と思しき装置を13歳の少年が自在に操作する姿に、日本人として面映ゆく思ったのは私だけだろうか。海外から持たれている頭脳・技術立国としての我が国のイメージ。それを将来の日本が守り続けて欲しいと思うばかりである。

ただ、サンフランソウキョウという、サンフランシスコの日本人街をベースとした都市のイメージには違和感が残った。日本を舞台にしなかっただけまだましなのだが、近未来のイメージとはいえ、欧米の日本を舞台にした作品によくある勘違い日本観でなければよいのだが。五重塔や日本語の看板が林立するサンフランシスコのイメージがどうにもしっくりこない。仮に近未来のサンフランシスコをそういう設定にしたとすれば、そこまで日本文化を受け入れてもらってよいのか、逆にこそばゆく感じる。まあ、そこは素直に日本の技術とアニメ文化にオマージュを捧げた作品として、本作を楽しんでも良いのではないかと思う。エンドロールにはAIのStoriesも採用されているし。

原作をまだ読んでみたことがないのだが、一度どのようなものか、読んでみたいと思った。なんでもアイヌ民族出身者もいるとか。ケイシチョーという名字の登場人物もいるとか。興味が増す一方である。

’15/2/8 イオンシネマ新百合ヶ丘