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明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


帝国ホテルの不思議


2016年。帝国ホテルとのささやかな御縁があった一年だ。

それまで、私と帝国ホテルとの関わりは極めて薄かった。せいぜいが宝塚スターを出待ちする妻を待つ間、エントランスで寒気をよけさせてもらう程度。目の前はしょっちゅう通るが入る用事もきっかけもない。帝国ホテルとの距離は近くて遠いままだった。

ところが2016年は、年間を通して三回も利用させてもらった。

一回は妻とサクラカフェで食事をし、地下のショッピングモールを歩き回り、ゴディバでチョコを買い、その他地下に軒を連ねる店々をひやかした。あと二回は私個人がランデブー・ラウンジ・バーで商談に臨んだ時。

それは、背筋がピンと伸びる経験。何かしら、帝国ホテルの空間には人の襟を正させる雰囲気がある。それは、私のような不馴れな人間が心を緊張させて勝手にそう思うだけなのか、それとも帝国ホテルの内装や調度品が醸し出す存在感によるものなのか、またはホテルスタッフの立ち居振舞いが張りつめているからなのか。私にはわからなかった。

しかし、帝国ホテルのエントランスに人が多く集まっていることも事実。それは、帝国ホテルが人を引き付ける磁場を持っている証拠だろう。私が利用したように商談の場として活用する方も多いはずだ。今まで商談でホテルを利用することがあまりなかった私にとってみれば、ホテルを商談で利用すること自体が新たな発見だった。私は今まで、さまざまなホテルを訪れた経験がある。バックヤードも含めて。だが、その経験に照らしても、帝国ホテルの空間はどこか私をたじろがせる気圧をもっている。それが何から生じているのか、私は常々興味を持っていた。

先ほど、ホテルはバックヤードも含めて経験していると書いた。それは、かつての私が某ホテルの配膳人として働いていたことによる。今から20年ほど前の話だ。その時に担当していたのは宴会やレストランだった。表向きの優雅さとはうらはらに、準備が重なったり、午前と午後に同じ宴会場で別々の宴会があるときなど、怒鳴り声の飛び交う鉄火場に一変する。それが宴会場だ。

それは披露宴の参列者や宿泊客として訪れているだけでは決して目にすることのない光景だ。宴会中もそう。ホールスタッフは、表向きは優雅で緩やかなテンポで漂うようにお客様にサービスしつつ、バックルームでは一転、忙しないリズムでテキパキと動く。サービス中も優雅に振る舞いながら、脳内では16ビートのリズムを刻みつつ、次のタスクに備える。いうならば、両足でドライブ感にみちたリズムを繰り出しつつ、上半身ではバイオリンの弦をゆったり響かせる。ホテルマンにはそんな芸当が求められる。なお、私が配膳人としては落第だったことは自分でよくわかっている。そして、ホテルマンですらない。そもそも私が知るホテルの裏側とはしょせん宴会場やレストランぐらいに過ぎないのだから。私の知らないホテルの機能はまだまだ多い。宴会やレストランだけを指してホテルの仕事と呼べないのは当たり前だ。

本書では、あらゆる帝国ホテルの職が紹介される。宴会やレストラン以外に。それらの職すべてが協力して、帝国ホテルの日々の業務は動いていく。格式のある帝国ホテルが一般のホテルとどうちがうのか。その興味から本書を手に取った。

総支配人から、クローク、客室キーパー、応接、レストラン、宴会、バーテンダー、コールセンター、設備。著者はそれらの人々にインタビューし、仕事の動きを表と裏の両側について読者に紹介する。表側の作業はプロのホテルマンがお客様へのサービスで魅せるきらめく姿だ。プロとしての誇りと喜びの源にもなる。だが、普段はお客様に見せない、裏側の仕事の微妙な難しさも紹介しているのが本書の良い点だ。著者がインタビューしたどの方も、二つのテンポを脳内で折り合わせながら日々のホテル業務を務めている。そのことがよく理解できる。

私にとっては自分が経験した宴会マネジャーの方の話が最も実感できたし、理解もできた。けれども本書で紹介される他の仕事もとても興味深かった。自分が知らないホテルの仕事の奥深さ、そして帝国ホテルの凛とした雰囲気の秘密が少しわかったような気がした。ホテルとしての品格は、本書に登場するホテルマンたちの日々の努力が作り出しているのだ。その姿は人と関わる職業として必須のプロの意識の表れにほかならない。

上に書いたように、私にはホテルマンのような仕事は苦手のようだ。動的に、そして柔軟に機転を効かすような仕事が。私は自分の素質がホテルマンに向いていないことを、先にも書いた二年間の配膳人としての経験で学んだ。なので、本書に登場する人々の仕事ぶりを尊重もし尊敬もするが、バーテンダーの方を除いては、私はなりたいとは思わなかった。そもそも私には無理だから。

だが、本書に登場した人物の中でうらやましいと思い、成り代わりたいと思った人物がバーテンダーの方以外に一人いた。それは一番最後に登場する設備担当の役員である椎名氏だ。椎名氏はもともと天才肌のメカニック少年だったそうだが、ひょんなことで帝国ホテルに入社し、社内のあらゆる設備やシステムを構築する役目をもっぱらにしているという。その仕事は、趣味の延長のよう。趣味を仕事にできて幸せな好例にも思える。読んでいてとてもうらやましいと思った。組織を好まず一匹狼的なわたしだが、椎名氏のような仕事がやらせてもらえるなら、組織の下で仕事することも悪くない、と思った。もちろんそれは、能力があっての話だが。

、バーテンダーについては、本書を読んで5カ月ほど後、妻とオールド・インペリアルバーにデビューし、カウンターにこそ座れなかったが、訪れることができた。次回はカウンターでじっくりとその妙技を拝見したいと思う。

‘2016/11/25-2016/11/26