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ジーヴズの事件簿 才知縦横の巻


本書は妻がはまっていた。面白そうなので私も貸してもらった。
実際、とても面白かった。

私は無知なことに、本書の主人公ジーヴズや著者の存在を知らなかった。かつてイギリスの推理小説はいろいろと読んだが、その時もジーヴズのことは知らずにいた。
私の知らない面白い本は無数に世の中にある、ということだろう。

本書は完全無欠の執事ジーヴズが、快刀乱麻を断つがごとく、さまざまな事件の謎を解いていくのがパターンだ。
軽快にしてスマート。すいすいと読めてしまう。
かつて、英語圏の諸国でジーヴズのシリーズは好評を博し、著者やジーヴズも良く知られていたという。
紳士淑女が就寝の前、読む友として最適だったのだろう。
ジーヴズのシリーズはわが国でも国書刊行会から出版されているし、本書のように改めて編まれて文庫に収められている。
一世紀近く前の外国のユーモア小説など、無数に出版物があふれる今、忘れられてもおかしくない。それなのに、本書は今もこうして手に取ることができる。
そうした人気のほども本書を読むとわかる。とにかくわかりやすく、面白く、後味も爽やかなのだ。

本書を読むと、妻が以前にはまっていた漫画『黒執事』を思い出す。とはいえ、『黒執事』と似ているのは執事が完璧ということだけ。
ジーヴズは『黒執事』に出てくるセバスチャンのように超常能力を持つ執事ではない。
ジーヴズはあくまでも普通の人間である。いたって慇懃で、そつなく物事を処理できる。頼りない主のウースター・バーティからの頼みもあっという間にこなしてしまう。
しかも、ただ従順というだけではない。
主のバーティの頼みをすげなく断ったり、無視したりもする。そうしたジーヴズの取った措置が回りまわってバーティにとって有利な結果となる。そんなジーヴズにほれ込んで、バーティはますます頼ってしまう。
そんな執事ジーヴズが、身の回りのあれこれの難事をスマートに処理する様子は読んでいて気持ちが良い。さらにバーティとジーヴズのやりとりもとても洗練されている。そうしたユーモア精神にあふれていることが本書の読みやすさの肝だろう。

また、本書にはむごい描写も残忍な心の持ち主も出てこない。
そのかわりにあふれているのはユーモアだ。本書の語り口やユーモアは本書の魅力として真っ先にあげられる。
著者はそもそもユーモア小説の大家として名高いというが、本書を読んでそれを納得した。

本書は20世紀初頭に出された多くのジーヴズの短編を選りすぐっているという。

時代が時代だけに、本書の舞台や登場する小道具も古めかしいはず。だが、本書からはあまりそうした古さを感じない。
この時代だから当然、現代で慣れ親しんだ事物は登場しない。旅をする際はせいぜい鉄道だ。ジェット機は登場しない。ましてや携帯もスマホも登場しない。
それなのに、本書から古さを感じない。それはなぜだろう。

まず一つは当時の最先端のファッションや道具を強調していないことが理由としてあげられる。当時の最先端は現代では骨董。
だから、当時の最先端の品々を登場させることはかえって後世では逆効果になる。それを著者や編者は承知しているのだろう。

もう一つは、本書がユーモア小説ということだ。つまり人間の弱さや滑稽さを描いている。
そうした人間の心は百年、二百年たとうが変わらない。
本書はそうした人間のユーモアを描いているから古びないのだと思う。

一方で、本書のバーティとジーヴズの関係のように、主と執事という関係自体がすでに時代遅れではないかという懸念もある。
だが、執事という職業になじみのないわが国でも執事のような職業はあまたの作品で見慣れている。
前述した『黒執事』もそうだ。また、第二次大戦前の華族や富豪を描いたわが国の作品にはかならず使用人が登場する。
今でこそ、使用人やお手伝いさんといった職業はあまり見かけない。とはいえ、秘書や運転手など、執事を思わせる職についている方は多い。
そうした職業が今でも健在である以上、本書のバーティとジーヴズの関係もあながち不自然には思えない。それが本書やジーヴズの一連のシリーズに古さが感じられない理由ではないかと思う。

また、バーティとジーヴズの関係も本書をユーモア小説と思わせる魅力を発している。
ジーヴズに家事や身の回りの世話を任せきりのバーティだが、居丈高にならず、ジーヴズへの讃嘆を惜しまない。まず、そのように描かれるバーティの性格に好感が持てる。主なのに威厳などどこかにうっちゃったバーティだからこそ、私たちも共感を覚えやすい。
そのバーティから頼りにされるジーヴズも、完璧な立ち居振る舞いをそつなくこなす。主のバーティにいうべきことはいうが、執事としての節度をわきまえ、慇懃に応対する。
その落差が本書のユーモアの源だろう。

本書は七編の短編からなっている。
どの編も短い。その中でジーヴズとバーティのほほえましい主従関係が簡潔に描かれ、さらにその中では謎や事件が起こり、さらにそれがジーヴズの才知縦横の活躍によって軽やかに解決される。それらが気軽に読めるのは、本書の入門編としての良い点だろう。
編者もそれを狙って本書を編んだものと思われる。

本稿では各編について、あまり詳しいことは書かない。だが、引き続きこの二人の活躍する物語を読みたい、という気にさせられるのは間違いない。

著者の生み出したジーヴズものが英語圏でとても親しまれている様子は、本書の末尾に英国ウッドハウズ協会機関紙『ウースター・ソース』編集長の方が寄稿された内容からも明らかだ。
「ご同輩、あなたはついていらっしゃる」とはその冒頭に掲げられた文だが、ジーヴズの口調を借りたと思われるこの文章からは、著者の作品群にこれから初めて触れることのできる読者へのうらやましさすら感じられる。

ジーヴズものは長編も含めてまだまだあるらしい。私も機会があれば読んでいきたいと思う。

‘2019/12/1-2019/12/2


ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09


隻眼の少女


著者の本を読むのは随分久しぶりだ。かつて著者のデビュー作である「翼ある闇」を読んで衝撃を受けた。読んですぐ弟に凄いから読んでみ、と薦めたことを思い出す。それなのになぜかその後、著者の作品からは遠ざかってしまっていた。「翼ある闇」のあまりに衝撃的な展開に毒気を抜かれたのかもしれない。

多分、著者の作品を読むのはそれ以来だから20年振りだろうか。本書で著者は日本推理作家協会賞を授かっている。江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞の受賞作を欠かさず読むようにしている私にとっては本書を読むのが遅すぎた。というよりも著者の作品に戻ってくるのが遅すぎたといっても過言ではない。本書は20年前の衝撃を思い出させる内容だったから。

ノックスの探偵小説十戒は、ミステリー好きにとってお馴染みの格言だ。本書はその十戒に抵触しかねないぎりぎりの域を守りつつ、見事な大団円で小説世界を閉じている。横溝正史の作品のようなムラ社会の日本を思わせる世界観に沿いつつも、現代ミステリーとして成立させる技は並大抵のものではない。

もちろん、本書の構成を実現するにあたっては力業も使っている。つまりは牽強付会というか無理やりな設定だ。私もなんとなく違和感を覚えた。だがそれは、本書で著者が仕掛けた大きなミスディレクションによるためだ。たいていの読者はその点を気にせず読み進められる。そして読み進んでいき、著者が開陳する真相に驚愕するだろう。私自身、違和感は感じたとはいえ、まさかの真相にやられたっと思ったのだから。その驚きはまさに「翼ある闇」を読んだ時の体験そのもの。

さて、これ以上本書の真相を仄めかすようなことは書かないでおく。書くとすれば、本書で著者が作り上げる世界観についてだ。上に横溝正史的な世界観に沿いつつと書いた。本書で著者は横溝正史が傑作の数々の舞台とした世界観の再現に成功している。しかし一方で、そういった世界観が今の時流に逆らっていることを著者が自覚しているからこその描写も登場する。それは作中の展開上、仕方のないことだったとしても。今や建て売りの2×4や画一化された間取りのマンションに日本人は住む。そのような住まいはトリックの舞台として相応しくない。もう底が割れてしまっている。あまりにも機能的でむやみに開放的な今の住居の間取りは、我が国からお化けや幽霊、妖怪だけでなく、ミステリーの舞台をも奪い去った。

本書はあえてその課題に挑戦した一作だ。著者が挑んだその偉業には敬意を表したい。敬意を表するのだが、私の感想はもう一つ別にある。それは、本書以降、現代を舞台として横溝正史的な世界観のミステリーを書き上げることは無理ということだ。本書は、著者の力量があってこそ成り立った。そもそも他の作家であれば本書のような道具立ては採らないのではないだろうか。著者がいくら筆達者であっても、もはや読者の知識がついていけなくなっている。そう思う。鴨居や床の間、欄間や雨戸。それらを知る読者はこれからも減っていくに違いない。

そういった意味でも本書は、古い日本を世界観に採ったミステリーとしては最後の傑作ではないだろうか。

‘2016/05/04-2016/05/04